れんだいこの日本神話考

 (最新見直し2006.12.15日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 いわゆる神話と呼ばれているものは、正しくは「祖国形成神話史」とでも命名されるべきであろう。遥か昔のその国の成り立ちと歩みを神話形式で伝えているものであるが、これが有ると無いとでは民族共同体意識のアイデンティティーの濃さが違う。その点で、我々日本人は、ギリシャ神話やユダヤ神話に何らの遜色ない日本神話を持ち、語り伝えられてきたことを僥倖とすべきだろう。

 その日本神話の特質を求めるならば、これをユダヤ神話と比べた時特に明らかに認められるものが有る。それは、ユダヤ神話の一神教に比べて八百万の多神教であるということである。なお且つ八百万の神々が天地の森羅万象の生命霊に名を付したものであり、自ずとアニミズム的天然自然崇拝を醸し、それは結果的に自然と人間との共生へと導くものである。この点で、ユダヤ神話のエホバ神が、人類の祖アダムとイブに「天地自然を支配せよ」と命じているのと対照的である。

 元々のその辺りの違いからであろうか、ユダヤ神話の国盗り譚は、我々の想像を超えた「殺るか殺られるか」式の薙ぎ倒しを特徴としており、それに権謀術数が加わり凄惨無比なものとなっている。これに対し、日本神話の国盗り譚は、武闘と和議を織り交ぜたものとなっており、血を血で洗うようなものではない。高天原王朝と出雲王朝の国譲り譚はその典型であろう。実に、日本政治史は、国譲り譚的武闘と和議の両面で織り成す歴史の積み重ねである。はるけき今日までそのDNAが連綿と続いている事を窺うべきだろう。

 今この日本史を学ぶことは格別の意義がある。なんとならば、現代日本は、去る日の黒船来航以降次第にネオ・シオニズムに侵食されつつあり、今日では上層部の殆どが連中の息のかかった者達で占められており、このまま行くと国と民族が乗っ取られる運命に有る。この流れが不可逆的に進行中である。これと対決する為には、我々は、精神と政治能力の両面で対峙せねばなるまい。そういう訳で、ネオ・シオニズムの精神を構築しているユダヤ神話との精神界での抗争にも向わねばならない。我々は我々のアイデンティティーを担保しつつ政治能力に於いて丁々発止で伍さねばなるまい。

 そう思えば、戦後教育がつまり戦後日本政治が、日本神話を封殺してきたのは由々しき間違いだったと云うべきだろう。戦前の皇国史観的イデオロギーからの脱却、それからの精神解放という意味がもたらされていたのであるが、本来は、日本神話の偏狭な読み取りで成り立っている皇国史観からの精神解放に向うべきだったのであり、そうなるとむしろ日本神話に精通し出藍することの方が望まれていたと反省すべきだろう。

 戦後左派運動は、この点で、実に矮小な皇国史観排撃運動に堕してしまった。それは日本神話を封殺する運動となった。戦後60数余年、今や殆どの日本人が日本神話を知らない。戦前の者も皇国史観型日本神話しか知らない。こうした無知の利益に預かる者は、ネオ・シオニストではなかったか。彼らは、表から政財官学報の五者機関を牛耳り、裏から左派運動を操り、無知蒙昧を利用して彼らの目指すユダヤ教式祭政一致の統一王朝創出へ首尾よく舵をとってきたのではないのか。彼らが何ゆえにユダヤ教式祭政一致の統一王朝創出へ向おうとするのか。それは、その方向に向うことが、絶えず血生臭さを求めて止まない彼らの経済的利益になる道だからである。

 れんだいこは、以上のような見通しを立て、日本神話の研究に着手した。本サイトでアップした以上の知識は持ちあわさない。本来なら、古事記、日本書紀、風土記、その他古史古伝の原文に目を通し、れんだいこ責による現代文翻訳に向うのが筋であるが、その能力も時間も無い。既成の労作をれんだいこ的に読み取ることで取り敢えずの満足とした。御意の士は、れんだいこの日本神話考を読み素養とせよ。れんだいこはこれにてひとまず筆をおく。

 2006.12.15日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評240 れんだいこ 2006/12/09
 【れんだいこの日本神話考】 

 日本古代史を知るには、日本古代の歴史書である旧事記、古事記、日本書紀、各地の風土記、古語拾遺、古史古伝等々を読まねばならない。但し、それらは時の権力に都合よく改竄されているからして、書かれたものの中から極力真実を見出さねばならない。日本神話考にはそういう困難が伴う。

 そうではあるが、思案するに我々のアイデンティティの確立が今ほど大事な時代は無い。そこで、れんだいこなりの日本神話考に向うことにする。もう一つ意味がある。あのユダヤ神話創世記と比較して思案してみたい。まことに日本神話のおおらかさこそ宝ではなかろうか。逆に言えば、ダヤ神話創世記ほどくだらない殺生なものはない。知ってか知らずか、そのユダヤ神話創世記世界観に身も心も捧げる近時の政財官学報人の底浅さを文明的に卑下させよ。本稿にはそういう狙いがある。

 もう一つ有る。れんだいこは、日本神話をそれなりに読んで見て、戦前の皇国史観は日本神話のご都合主義的読み取りでしかないと思う。日本神話はいびつかされているけれども、それでもなお豊穣である。その豊穣さを見て取らぬままに皇国史観を批判しても内在的な批判にはなり得まい。そういうへなちょこ批判で批判したつもりになっていたのが日本左派運動ではなかろうか。そういう姿勢は万事に繋がっている。そういう姿勢は今日在る如くにしかならないのも道理だ。そういうことも言ってみたかった。

 神話は、歴史上最も遠い時代の逸話ではあるが、妙に生新しい気がするのは、れんだいこだけであろうか。聖武天皇の御世の逸話はこうだ。

 或る時、仁徳天皇は高山に登り、四方の国土を見ていた。食事を用意する炊煙が全く見えなかった。これを悲しみ、今より三年間、国民の税と夫役を免除するようにと言い渡した。こうして、三年の間、民の夫役や税を免除した結果、宮殿は破損し、ことごとく雨漏りするようになった。しかし、天皇は一切修理をせず、器で雨漏りを受け、あるいは雨漏りのしない場所に移るなどしてしのいだ。三年立ったある日、国内を見渡すと、いたるところに炊煙が立っていた。「もう税と夫役を課してもよかろう」。こうして、民は豊かになり、賦役を苦しむことはなかった。その御世は、聖(ひじり)の帝(みかど)の御世と称えられた。

 2006.12.9日 れんだいこ拝


Re:れんだいこのカンテラ時評239 れんだいこ 2006/12/05
 【小泉ー安倍の売国傀儡政権を打倒せよその2】 

 今時、日本神話を再考するのにどのような意味があるのだろうか。れんだいこは廻り回ってここへ辿り着いた。知れば案外と面白い。もっとも、へそ曲がりの癖があるれんだいこは、神話作者の意図のようには読まない。むしろ、作者が隠蔽した、作り変えた、裏の意味を好んで求めたがる。

 戦前の皇国史観ではっきりしていることは、大和王朝の正義を打ち出し、国譲りされた側の出雲王朝はたまたその他まつろわぬ部族を悪し様に書き過ぎていることである。これを正そうと思う。しかしながら何分浅学非才である。史実をそれなりに知るのにれんだいこの寿命がどこまで追いつくのか心もとない。それでも良い、知らぬよりは。

 目下、政府与党は、教育基本法改正に乗り出そうとしている。いよいよ戦後憲法秩序が最終的に瓦解される局面に達したということであろう。それにしても、政府与党は民主党も含め、どういう愛国心、愛民族心を涵養させようとしているのだろう。やっていることは、売国シオニスタン政治一直線である。その連中が何の顔(かんばせ)有りて愛国心、愛民族心を説いているのだろうか。れんだいこには解せない。

 どうせマジメに説いている訳ではなかろう。なぜなら、愛国心、愛民族心の涵養は、互いの国のそれらをも認めることでなければならないところを、政府与党政治は、現代世界を牛耳る米英ユ同盟の尻馬に乗って「金出す、兵隊出す」でしかない。一体、9.11テロからアフガン戦争、イラク戦争にどれだけ莫大な「金出す、兵隊出す」をしてきたことか。「かかって来い」とジェスチャーして始めたブッシュ戦争が今、風向きが変り貧相顔になっている。小泉ー安倍政権はそれでも何ら政策を変えようとしない。最後までお供しますという政治を続けている。

 こったら政府の下で教育基本法改正してどうなるというのだ。この問いかけこそが闘う姿勢となるべきではなかろうか。お前たちの手では何の改正も、改正ではなく改悪しかできないだろうが、やらせない。れんだいこはそう憤怒している。

 2006.12.5日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評243 れんだいこ 2006/12/16
 【愛国心と大本営景気の相関考】

 日本神話をれんだいこなりに一応渉猟して見て、字面だけをどんなに丹念に追うても真相には近づけないことを知った。むしろ、記録者がどんな裏意味をもたせているのか、隠語でどう語っているのかを詮索しないと解けない。しかし、そうなると、千差万別の日本神話観が生まれそうである。それで良いとも思う。一旦はそうやって精通すべきだろう。その中から、こう理解した方がより適切かという筋道が生まれ、それを何度も練り直して、そこから以前とは違う日本神話観が生まれるのだと思う。それを更に何度も繰り返せばよいのだと思う。俗にこれを弁証法と云う。

 時は今、戦後の教育基本法が初改定され、愛国心を強調される時代に入った。ならばはっきりさせねばなるまい。どういう国造りに向うのか、日本のどのような伝統を尊び継承しようとさせるのかを。それは案外と為政者の手足を縛るものになるだろう。れんだいこは、日本神話考で、戦前の皇国史観が隠蔽した出雲王朝史の重みを指摘した。古代政治史上最大の政変で、今日まではるけき影響を与えていると思われる国譲りの遣り取りの重みを衝いた。この辺りに言及なき天皇制的愛国心の強調は今後は許されない。平成天皇もお望みでは無かろう。信じられない向きの方は、れんだいこの日本神話研究を一旦は学べば良かろう。

 今日本は、安倍首相の采配の下で、中曽根から小泉政権以来の「日本のユダヤ属州化の悲願」へ向けて急ピッチに国づくりが行われようとしている。この流れと新教育基本法的愛国心がどう絡むのか、考えよう見ようによっては興味深いものがある。端的に言える事は、日本は国譲り以前も以来も「談じ合い、練り合い」を重視してきた国柄である。政敵の止めを刺さず、和を以て尊しとしてきた国柄である。小泉式の「イエスかノーか」。従わなければ刺客を送り込み、止めを刺す。よしんば復権させても、耐え難い踏み絵を強要するなどという手法は、歴史的ユダヤ聖書式のそれではあっても、日本式のものではない。日本神話を学べば、そういうことも見えてくるだろう。

 それとも何だろうか。今この国を支配するシオニスタンどもは、日本のそういう国柄をも変えようと使命しているのだろうか。そういえば、富める者を更に富まし、貧する者を更に貧させる格差社会へと強引に向かわせているが、これも意図的政策なのだろうか。いざなぎ景気を凌ぐ大本営景気が云われ続けているが、このままで行くとヘトヘトになるまで云われ続けることになろうが、これも意図的政策なのだろうか。その辺りを考えながら、師走の景気を確かめにうがいでもしに行こう。

 2006.12.16日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評245 れんだいこ 2006/12/23
 【日本神話に於ける二つの国譲り考】

 ここまで日本神話をれんだいこなりに辿って見て、一つの成果を得たと思うのでこれを世間に問うておくことにする。日本神話の最大の特徴は、他の諸民族のそれと比して何ら遜色の無い、否更に優れて精緻な否難解多重とも云える伝説群を記録していることに有る。これを今更知ってどうなるというものでもないが、民族的財産と分別し、知らぬより知っておくべきであろう。あるいは知らなくとも感得しておくべきであろう。そういう気がする。

 寂蓮法師は、出雲大社を次のように詠じている。「やわらぐる光や、空に満ちぬらん。雲に分け入る、ちぎのかたそぎ」。西行法師は、伊勢神宮を次のように詠じている。「何事のおわしますを知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」。吉川英治は次のように詠んでいる。「ここは心のふるさとか。そぞろ参れば旅ごころ。うたた童にかえるかな」。

 さて、ここで発表するのは、日本古代史上最大の政変である「国譲り」に関してのれんだいこ見解である。れんだいこは、恐らく史実と思っており、それは二度行われている。一つは、高天原王朝と出雲王朝長との間で行われた「いわゆる大国主の命の国譲り」で、これにより大国主の命は、政治の表舞台から身を引き精神的な宗教界のみに影響力を残すことになった。

 この時の譲りの言葉は、「我々は賢明懸命に国造りを行ってきた。この国の統治権を譲れと云うのなら、どうか良い政治を行っていただきたい。それが条件である」というものであった。高天原王朝は、その申し出を承った。この「言伝(ことづて)引継ぎ」の中に日本政治の質が刻印されていると窺うのがれんだいこ史観である。

 れんだいこの観るところ、もう一つの国譲りが有るように思われる。それは、神武天皇東征譚に発するが、天孫族が瀬戸内航路を通って河内へ攻め上り、待ち受ける出雲王朝系ニギハヤヒーナガスネ彦連合と戦い、手痛い敗北を帰し、紀州熊野へ廻り、ここから権謀術数と武運を尽してヤマトへ辿り着く。

 両者は、最後の一大決戦を前にして決戦の道を選ばず大和議により手打ちした。天孫族の神武天皇が即位し、ヤマト王朝を創始したが、ヤマトは大和と漢字訳されるほどに、大きく和して成した王朝であることを表象していた。このことは、ニギハヤヒーナガスネ彦連合下の諸豪族が新王朝下で重用されたことを意味している。この「大和議による手打ち」の中に日本政治の質が刻印されていると窺うのがれんだいこ史観である。

 この二回にわたる国譲りに於ける和議こそ日本政治の真骨頂であり、国譲りをそのようにせしめた旧勢力の政治的経済的文化的精神的能力の高さこそ認められるべきであろう。この後の日本史は、天つ神族、和議派国つ神族、反体制派国つ神族の三つ巴の協調と暗闘と武闘により推移していくことになる。以降、王朝政治、貴族政治、武家政治、官僚政治と続き今日の日本へと辿り着いているが、政治的経済的文化的精神的分野に於ける「天つ神族、和議派国つ神族、反体制派国つ神族の三つ巴の協調と暗闘と武闘」こそが演ぜられつつ歴史を創ってきているのではなかろうか。

 問題は、日本史のこの特質の中に、黒船来航以降、もう一つのファクターが入り込んだことである。れんだいこは、それをネオ・シオニズムと命名している。ネオ・シオニズムは正体を隠すことを特徴としており、表向きはキリスト教的に振舞うが、その内実は「シオンの議定書」を総路線とするユダヤ教原理派のネオ・シオニストの教義である。

 この連中こそ、近代史に踊り出てきて、彼らの云う新世界であらん限りの略奪と収奪を恣にして原住民の文明と原住民そのものを抹殺してきた極悪非道の者達である。植民地政策は専らこの連中が敷いた政策であり、それを云うなら資本主義なるものも、この連中が押し付けている主義的体制であろう。近時の著作権云々による知識の利権化も、この連中が押し付けようとしている愚民化政策の一環のものであろう。

 留意すべきは次のことである。日本政治史上のそれまでの天つ神族と国つ神族の抗争は和議と武闘のいずれをも選択し得る余地の有るものであることを特質とするが、ネオ・シオニストの政治学は「殺るか殺られるか、原住民を屈服せしめられるかできないか」の二者択一のもので、共存的な観点は微塵も無い。あるとすれば、「殺るか殺られるか、原住民を屈服せしめられるかできないか」の戦略上の過程的なものでしかない。

 日本民族は今、史上初めてそのような相手と交わらねばならない局面に立ち至っている。このことを客観的に了解するのが現代政治学の眼目とならねばならない。その為にも日本史を精通し世界史をも精通しておかねばならない。知識を持たないと、何と戦うのかどう戦うのかの座標軸が定まらない。これを養うのが学問であろうが、現代政治学は何と、こう問わないよう、こう問う方向に向わないよう躾しようとしており、その様は嬌態と云うべきか滑稽である。

 思えば、れんだいこが習ったマルクス主義は、この観点を得るには少しも役立たない。それの役立つ点もあろうから今や大改造し、ネオ・シオニズムの来襲内襲と闘い、自前の民族のより良き国家造りへ向うものにせねば何の訳にも立つまい。旧社共的、現社共的サヨ運動は、人民大衆の不満のガス抜き的運動に終始することで体制に奉仕しており、このままで有り続けるとなるとむしろ有害でしかなかろう。

 新左翼運動の系譜から唯一、旧社共的、現社共的サヨ運動と全く違う人民大衆の抵抗権、革命権を打ち出しつつ、「日本民族存亡の百年の計」を以って現実的政策と運動で共感を獲得していく道を選ぶなら、その能力を証するならここに初めて日本左派運動の再生を生み出すだろう。この道こそが諸民族との共和を生み出し、ひいては国益に叶うだろう。我々の潜在能力にはこれをやり抜く力が有るのではなかろうか。以上提言しておく。

 2006.12.23日 れんだいこ拝




(私論.私見)