| 大和王朝建国神話考 |

(最新見直し2006.12.14日)
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| 古事記は中巻(なかつまき)で、1代・神武天皇76年、2・綏靖天皇、3・安寧天皇、4・懿徳天皇、5・孝昭天皇、6・孝安天皇102年、7・孝霊天皇、8・孝元天皇、9・開化天皇、10・代崇神天皇68年、11・垂仁天皇69年、12・景行天皇60年、倭建命、13・成務天皇60年、14仲哀天皇、神功皇后、15・応神天皇41年。下巻(しもつまき)で、16・仁徳天皇87年、17・履中天皇、18・反正天皇、19・允恭天皇、20・安康天皇、21・雄略天皇、22・清寧天皇、23・顕宗天皇、24・仁賢天皇、25・武烈天皇、26・継体天皇、27・安閑天皇、28・宣化天皇、29・欽明天皇、30・敏達天皇、31・用明天皇、32・崇峻天皇、33・推古天皇までが記されている。仮に建国神話として、15代までの逸話撰をここに記す。 全体のモチーフは、大和王朝の政権足固め、全国平定の様を記述することで貫かれている。但し、戦前の皇国史観が避けているところであるが、国譲り以来政治から手を引いた旧出雲王朝勢力との暗闘が裏面史となっている。ここを見て取らないと味気ない大和王朝建国神話譚になってしまおう。実際は味気なく語られている。それをもって日本神話とするには片手落ちと云うべきだろう。 2006.12.14日 れんだいこ拝 |
| 【神武天皇崩御、綏靖天皇が後継譚】 | |||
神武天皇崩御後内紛が起こり、イスケヨリ姫から生まれた三人の息子の末弟のカムヌナカハミミの命が後継した事を伝えている。
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| タギシミミノミコト=当芸志美美。カムヌナカハミミノミコト=神沼河耳命。 | |||
「神武天皇崩御、綏靖天皇が後継譚」は、天孫族と出雲王朝系の血筋を分け持つ綏靖天皇が後継したことを伝えている。 |
| 【崇神天皇の御世の二神対立譚】 | |
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| トヨスキイリ姫=姫木豊鋤入姫。ヤマトトトビモモソ姫=。 | |
「崇神天皇の御世の二神対立譚」は、崇神天皇が如何に天つ神と国つ神の対立に悩ませられていたかを物語っている。 |
| 【三輪山の大物主神祀り譚】 | ||||||||||
崇神天皇の御世、三輪山に大物主神を祀ったことが次のように記されている。
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| 【崇神天皇の御世、出雲大神の神宝事件譚】 | |
崇神天皇の御世、いわゆる四道将軍が派遣され、大和王朝の支配権が広がった。次のように記されている。(「四道将軍遠征神話考」に詳しく記す)
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| 【崇神天皇の御世、全国征伐譚】 | |
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| オホビコの命=大昆古命。高志道=北陸道と比定されている。タケヌナカハワケの命=建沼河別命。ヒコイマスノミコ=日子坐王。丹波の国=京都と比定されている。クガミミノミカサ=玖賀耳之御笠。山城国=京都南部と比定されている。タケハニヤスノミコ=建波邇安王。オオビコ=。ヒコクニブクの命=日子国夫玖命。ミナキイリ彦=御真木入彦、美万貴入彦、御間城入彦天皇。 | |
「崇神天皇の御世譚」は、崇神天皇が、旧出雲王朝勢力を抱き込み、全国平定に乗り出し成功した事を伝えている。諡名(おくりな)の「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」は神武天皇のそれと同じであり意味が詮索されている。 崇神天皇は名前を「ミマキイリヒコ」と云う。ミマとは朝鮮半島の南部、弁韓を指し、キは城のことを云う。故に、朝鮮の王族がイリ(日本に入ってきた)したと云う説が為されている。イリとは入り婿のことだと云う人もいる。この辺りは今後確かめたい。 |
| 【垂仁天皇譚】 | |
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| 【ホムチワケノミコ譚】 | |
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| サホ姫=。ホムチワケノミコ=本牟智和気王、誉津別王。ヤマノベノオホタカ=山辺之大鷹。アケタツノミコ=曙立王。ウナカミノミコ=。キヒサツミ=岐比佐都美。ヒナガ姫=肥長比賣。 | |
「ホムチワケノミコ譚」は、大和王朝の皇室が引き続き旧出雲王朝の怨霊に悩まされている事を明らかにしている。 |
| 【ヤマトタケル譚その1、熊襲征伐】 | |
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| オホウスの命=大碓命。エヒ女=兄比売。オトヒメ=弟比売。ヲウスの命=小碓命。クマソタケル=熊曾建。ヤマト姫命。ヤマトヲグナノミコ=倭男具那王。ヤマトタケルの御子=倭建御子、日本武尊、倭武天皇。 |
| 【ヤマトタケル譚その2、出雲征伐】 | |||
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| イズモタケル=。 |
| 【ヤマトタケル譚その3、東国征伐】 | |||||||||||
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ミスキトモミミタケ日子=御?友耳建日子。ヤマトヒメ=。ミヤズヒメ=美夜受比売。オトタチバナ姫=弟橘比売。 |
| 【ヤマトタケル譚その4、三重山中で死す譚】 | |||||||||||
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| 【ヤマトタケルの白鳥伝説譚】 | |||||||||
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| 【仲哀天皇譚】 | |
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| 香椎宮=。オキナガタラシ姫=息長帯日売。 |
| 【神攻皇后譚】 | |||
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| カゴサカノミコ=香坂王。オシクマノミコ=忍熊王。タケフルクマの命=建振熊命。イザワケの大神=伊奢沙和気大神。ミケツ大神=御食つ大神) |
| 【応神天皇譚】 | |||||||||||
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オホヤマモリの命=大山守命、オホサザキの命=大雀命。ウヂノワキイツラコ=宇遅能和紀郎子。カミナガ姫=髪長比売。 |
| 【倭の五王】 | |
| 421年、南宋初代の武帝が、「倭の讃は万里を朝賀した」と詔した。 425年、三代文帝の時、讃は、司馬曹達を遣使した。讃が死に、弟の珍が即位し、遣使して、「使持節郡督倭、百済、新羅、任那、秦韓、募韓六国軍事、安東大将軍、倭国王」の自称を正式に除すよう求めた。 442年、倭国王済が、使者を送って朝賀した。又、「安東将軍・倭国王」とした。 451年、「使持節郡督倭、百済、新羅、任那、秦韓、募韓六国軍事、安東将軍」に除した。済が死に、世子の興が遣使し朝賀した。 462年、四代孝武帝の時、「倭王の世子興は、代々忠で、外海に藩屏をなし、(中国の徳)化を受けて、辺境を安寧にし、新しく辺業を嗣(受継)いだ」と詔し、「安東将軍・倭国王」に除した。興が死んで、弟の武が即位し、「使持節郡督倭、百済、新羅、任那、秦韓、募韓六国軍事、安東大将軍、倭国王」と自称した。 478年、八代順帝の時、倭王の武が宋の順帝に対して次のように上奏している。
詔して、武を、「使持節郡督倭、百済、新羅、任那、秦韓、募韓六国軍事、安東将軍」に除した。(宋書倭国伝) |
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(私論.私見)