大和王朝建国神話考

 (最新見直し2006.12.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 古事記は中巻(なかつまき)で、1代・神武天皇76年、2・綏靖天皇、3・安寧天皇、4・懿徳天皇、5・孝昭天皇、6・孝安天皇102年、7・孝霊天皇、8・孝元天皇、9・開化天皇、10・代崇神天皇68年、11・垂仁天皇69年、12・景行天皇60年倭建命、13・成務天皇60年、14仲哀天皇神功皇后、15・応神天皇41年。下巻(しもつまき)で、16・仁徳天皇87年、17・履中天皇、18・反正天皇、19・允恭天皇、20・安康天皇、21・雄略天皇、22・清寧天皇、23・顕宗天皇、24・仁賢天皇、25・武烈天皇、26・継体天皇、27・安閑天皇、28・宣化天皇、29・欽明天皇、30・敏達天皇、31・用明天皇、32・崇峻天皇、33・推古天皇までが記されている。仮に建国神話として、15代までの逸話撰をここに記す。

 全体のモチーフは、大和王朝の政権足固め、全国平定の様を記述することで貫かれている。但し、戦前の皇国史観が避けているところであるが、国譲り以来政治から手を引いた旧出雲王朝勢力との暗闘が裏面史となっている。ここを見て取らないと味気ない大和王朝建国神話譚になってしまおう。実際は味気なく語られている。それをもって日本神話とするには片手落ちと云うべきだろう。

 2006.12.14日 れんだいこ拝


【神武天皇崩御、綏靖天皇が後継譚】
 神武天皇崩御後内紛が起こり、イスケヨリ姫から生まれた三人の息子の末弟のカムヌナカハミミの命が後継した事を伝えている。
 神武天皇が崩御した。神武天皇には、日向にいたときの妻アヒラヒメの子タギシミミの命と、カシハラノ宮で即位した際に皇后にしたイスケヨリ姫から生まれた三人の息子がいた。家督騒動が起こった。長兄タギシミミが家督権を主張し、后として先の皇后イスケヨリ姫にすると宣言した。タギシミミは、イスケヨリ姫の三人の息子たちを殺そうとした。

 スケヨリ姫が秘密の手紙を届けてきた。歌が2首入っていた。
 「狭井河よ 雲立ちわたり 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かんとす」。
 「畝火山 昼は雲とゐ 夕されば 風吹かむとそ 木の葉さやげる」。

 息子たちはタギシミミの悪巧みを知り、逆に兵を集め、義理の兄タギシミミを殺しに向かった。いざとなると兄は手足が震え、カムヌナカハミミの命がタギシミミを殺した。「弟よ、私は敵を殺すことができなかった。しかし、お前はそれができた。私は兄であるが上に立つべきではない。お前が天皇になって天下を治めなさい。私はあなたを助けて、祭事をつかさどる者となってお仕えいたします」。

 こうして、カムヌナカハミミが第2代綏靖天皇になった。綏靖天皇は、葛城の高丘宮に遷都した。
 タギシミミノミコト=当芸志美美。カムヌナカハミミノミコト=神沼河耳命。
(私論.私見)

 「神武天皇崩御、綏靖天皇が後継譚」は、天孫族と出雲王朝系の血筋を分け持つ綏靖天皇が後継したことを伝えている。

【崇神天皇の御世の二神対立譚】

 開化天皇の第二子であり、母を物部氏に持つミマキイリ彦(後の崇神天皇)が第10代天皇として即位した。率川宮から「磯城(しき)の瑞かき宮」に遷都した。崇神天皇は、大殿にアマテラスと倭国大国魂の二神を並べて祀った。ところが、二神の仲が険悪になり、「しこうして、その神の勢いを畏りて、共に住みたもうにやすからず」ということになった。二神の対立に当惑した崇神天皇は、アマテラスにトヨスキイリ姫を付けて「倭の笠縫村」に移して祀った。倭国大国魂はそのまま皇居に残り、皇女ヌキナノイリ姫が斎宮となって奉仕した。ところが、ヌキナノイリ姫の髪の毛が抜け落ち、全身が衰弱して奉仕するどころではなくなった。

 その頃、疫病が発生した。八十万神に集まって貰い占ったところ、倭国大国魂がヤマトトトビモモソ姫に神がかりした。ヤマトトトビモモソ姫は、「聡明叡智、よく未然を識り給えり」の姫で、「天皇よ、国が治まらないのを憂うに及ばない。我を正しく祀れば必ずや平安になるであろう」とご託宣があった。「我とはどちらの神様で有りますか」と問うと、「倭国の内を治める神、名は大物主神なり」とご託宣があった。こうして、大物主神を祀ることになった。
 トヨスキイリ姫=姫木豊鋤入姫。ヤマトトトビモモソ姫=。
(私論.私見)

 「崇神天皇の御世の二神対立譚」は、崇神天皇が如何に天つ神と国つ神の対立に悩ませられていたかを物語っている。

【三輪山の大物主神祀り譚】
 崇神天皇の御世、三輪山に大物主神を祀ったことが次のように記されている。

 崇神天皇はこうして大物主神を祀ったものの霊験がなかった。更に神意を請うたところ、或る夜の夢枕に大物主神が立ち、「この疫病の流行は私の意志による。この疫病を鎮めるには、オホタタネ子という人物を探し出し、三輪山の大神神社の初代神主とし、イチシノナガオチに大国主を祭神とする倭の大国魂神を祀る神主と為せば、天下泰平になるだろう」とお告げした。

 崇神天皇はすぐに四方八方に急使を遣わしてオホタタネ子という人物を探させ招いた。オホタタネ子の出自譚が次のように記されている。

 概要「河内の陶津耳(すえつみみ)の命の女の活玉依(いくたまより)姫の元に夜毎に男が通い、妊娠した。男の正体を見極める為に、麻糸を通した針を男の衣にさし、翌朝糸を辿って行くと、三輪山の神の社に留まった。この子が神の子オホタタネ子である」。

 オホタタネ子がチヌの県(あがた)の陶村(すえむら)に居る事が分かり、呼び寄せられた。
崇神天皇  「そなたは誰の子ですか?」
オホタタネ彦  「私は大物主とイクタマヨリ姫のひ孫、オホタタネ子と申します」。
崇神天皇  「あなたを祀る。これで天下は靖まるでしょう」。

 こうしてオホタネネ子を神主にし、三輪山に和魂(にぎたま)を鎮め、大物主を祀った。イチシノナガオチを倭の大国魂神の神主とした。同時に神々の社を定め祀った。宇陀の墨坂神には赤色の楯と矛を奉り、大阪神には黒色の楯と矛を奉り、また、坂の上の神や河の瀬の神に至るまで、もれ残すことなく幣帛(みてぐら)を献上し祀ったところ、疫病がすっかり鎮まり五穀豊穣し百姓賑わった。

 オホタタネネ子=意富多々泥古、太田田根子。イチシノナガオチ=。イクタマヨリ姫=。
(私論.私見)

 「三輪山の大物主神祀り譚」は、崇神天皇の御世に、河内ー出雲王朝系の大物主と大国主を復権させ、大物主を三輪山に、大国主を倭の大国魂神宮に祀ったことを伝えている。出雲王朝の隠然とした影響力を暗喩していると悟らせていただく。

【崇神天皇の御世、出雲大神の神宝事件譚】
 崇神天皇の御世、いわゆる四道将軍が派遣され、大和王朝の支配権が広がった。次のように記されている。(「四道将軍遠征神話考」に詳しく記す)
 崇神天皇は、アマノヒナ鳥の命が高天原より持ち来った神宝を、出雲大神の宮に蔵さんとして、ニギハヤヒの命の末裔のタケモロズミを遣わして献上させようとした。これに対し、出雲大神の神宝を司っていた出雲臣の遠祖の出雲フルネは、筑紫の国に出向いて会わなかった。その弟のヒリイイネが、皇命を承りて奉ろうとした。これを知った出雲フルネは、弟を殺した。これを知った崇神天皇は、吉備津彦とアケヌナカハワケを遣わして、出雲フルネを誅殺し出雲大神の神宝を取り上げた。これにより、出雲臣等は暫くの間、出雲大神を祀ることができなくなった。ところが、丹波の氷上のヒカトベの子に神懸かりありて、出雲大神を祀らぬ様をなじった。これが出雲大神祟り事件へと繋がる。

【崇神天皇の御世、全国征伐譚】
 

 崇神天皇の御世、大和朝廷の全国征伐は続いた。オホビコの命が高志道(コシノミチ)を平定した。その子のタケヌナカハワケの命が東の方十二道を平定した。ヒコイマスノミコが丹波の国のクガミミノミカサを退治した。或る時、山城国にいる異母兄のタケハニヤスノミコが謀反の野心があることを嗅ぎつけた。オオビコがヒコクニブクの命をつれて山城の和珂羅河(わからがわ)に向かい征伐した。こうして、崇神天皇の御世、天下は太平になり、国民は富み栄えた。

 崇神天皇は168歳まで生き、崩御後、山辺の道の勾(まがり)の岡のほとりに御稜を建てた。その治世をたたえて、「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」と諡名(おくりな)された
別名をミマキイリ彦天皇と云う。

 オホビコの命=大昆古命。高志道=北陸道と比定されている。タケヌナカハワケの命=建沼河別命。ヒコイマスノミコ=日子坐王。丹波の国=京都と比定されている。クガミミノミカサ=玖賀耳之御笠。山城国=京都南部と比定されている。タケハニヤスノミコ=建波邇安王。オオビコ=。ヒコクニブクの命=日子国夫玖命。ミナキイリ彦=御真木入彦、美万貴入彦、御間城入彦天皇。
(私論.私見)

 「崇神天皇の御世譚」は、崇神天皇が、旧出雲王朝勢力を抱き込み、全国平定に乗り出し成功した事を伝えている。諡名(おくりな)の「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」は神武天皇のそれと同じであり意味が詮索されている。

 崇神天皇は名前を「ミマキイリヒコ」と云う。ミマとは朝鮮半島の南部、弁韓を指し、キは城のことを云う。故に、朝鮮の王族がイリ(日本に入ってきた)したと云う説が為されている。イリとは入り婿のことだと云う人もいる。この辺りは今後確かめたい。

【垂仁天皇譚】

 崇神天皇が、配下の武将オオ彦の娘を娶ってもうけた子の一人がイクメイリビコイサチであり、第11代垂仁天皇である。垂仁天皇がサホ姫を妃としていた頃、サホ姫の兄サホ彦、妹に「私とお前で天下を取ろう」と相談を持ちかけた。サホ彦は、サホ姫に小刀を渡して、天皇が寝ている時に刺せと命じた。或る日、垂仁天皇はサホ姫の膝を枕に眠っていた。サホ姫は小刀を振り上げ振り上げしたが、刺すことができなかった。涙が天皇の顔に落ちた。天皇が目を開け、「おかしな夢を見た。にわか雨が降ってきて、私の顔を濡らした。気がつくと、まだら模様のヘビが首に巻き付いている。これはどういう意味だろう」と問いかけた。妃は隠しきれないと覚って一切を告白した。

 垂仁天皇は、直ちに軍を派遣してサホ彦の館を襲った。サホ姫は密かにサホ彦の館に入った。この時、サホ姫は身ごもっており、攻めあぐねているうちに出産した。垂仁天皇は、サホ姫と御子の奪還計画を立て、突撃隊を突入させた。御子を連れ出すことは出来たが、サホ姫の奪還は果たせなかった。む御子の名前は、ホムラワケと付けられ乳母がつけられた。サホ姫亡き後、垂仁天皇は、丹波のヒコタタスミチウシの4人の娘を呼び寄せ世話をさせた。

【ホムチワケノミコ譚】
 
 垂仁天皇の皇子でサホ姫から生まれたホムチワケノミコは、ヒゲが胸元に届くような年齢になっても言葉を話さなかった。或る日、御子は白鳥の声を聞き、「あぎ」と片言の言葉を発した。白鳥を見たら御子はもっとしゃべるかもしれないと思い、その白鳥を捕らえることにした。天皇の命を受けたヤマノベノオホタカはその白鳥を追いかけ、紀の国、播磨の国、因幡の国、丹波の国、但馬の国、近江の国、美濃の国、尾張の国、信濃の国と国々をわたり、ついに越の国でわなをしかけ、白鳥を捕らえた。白鳥が献上されたが、御子はしゃべらなかった。

 心を痛めた天皇は、寝ていたときに、夢でお告げをうけた。「私の神殿を、天皇の宮殿のように立派に造ったならば、御子は必ず言葉をしゃべるだろう」。天皇は、このお告げを伝えた神が誰なのか、フトマニ(太占)で占った。「その神は、出雲の大神でございます」。「それでは、さっそく御子を出雲大社に向かわせよう。ところで、誰を御子に従わせて遣わしたらよいのであろう。占ってくれぬか」。占った結果、アケタツノミコが当たった。そこで、アケタツノミコに誓約(うけい)をさせた。「この大神を拝むことで、本当にしるしがあるならば、鷺巣池の木に住む鷺よ、この誓約によって落ちよ!」。バサッ。すると、誓約をうけたその鷺は池に落ちて死んでしまった。「誓約によって生きよ!」。バササッ。すると再び鷺は生き返った。今度は甘橿丘(あまかしのおか)の崎に生えている葉の広い樫の木を、誓約によって枯らし、また生き返らせた。

 こうして、アケタツノミコが、弟のウナカミノミコとともに、御子を伴い出雲に向かった。どのルートを通って出雲の国に行く方がよいか話し合った。奈良山越えの道、大阪越えの道、紀伊越えの道のうち、紀伊の道から出雲の国を目指した。出雲に着いて、大神の参拝を終えたホムチワケノミコを出迎えようと、キヒサツミは、青葉の茂った山のような飾り物の山を作ってその川下に立て、食事を奉ろうとした。この時、ホムチワケノミコが、「この川下に青葉の山のように見えるのは、山のように見えて山ではない。もしかしたら、出雲のアシハラシコヲノ大神を敬い祭っている神主の祭場ではないか?」としゃべった。御子が言葉を話したことに喜んだ王たちは、すぐに早馬の急使を出し、天皇に伝えた。

 その後、御子は、ヒナガ姫と契りを結ばれた。寝床でふと、姫を覗き見ると、その少女の正体はへびだった。恐れをなした御子はすぐに逃げ出した。「お待ちください!」。正体を見られたヒナガ姫は、海上を照らして船で追いかけてくる。御子はさらに必死に逃げ、なんとか大和の国に逃げ帰ることができた。

 一緒に逃げ帰ったアケタツノミコは天皇に復命した。「出雲の大神を参拝されたので、御子はしゃべれるようになりました。そこで、我々も帰ってきました」。喜んだ天皇は、すぐにウナカミノミコを出雲に戻して、神殿を造らせた。天皇は、この御子にちなんで、鳥取部(ととりべ)、鳥甘部(とりかいべ)、品遅部(ほむじべ)、大湯坐(おおゆえ)、若湯坐(わかゆえ)を定めた。

 サホ姫=。ホムチワケノミコ=本牟智和気王、誉津別王。ヤマノベノオホタカ=山辺之大鷹。アケタツノミコ=曙立王。ウナカミノミコ=。キヒサツミ=岐比佐都美。ヒナガ姫=肥長比賣。
(私論.私見)

 「ホムチワケノミコ譚」は、大和王朝の皇室が引き続き旧出雲王朝の怨霊に悩まされている事を明らかにしている。

【ヤマトタケル譚その1、熊襲征伐】

 或る時、景行天皇は、御子のオホウスの命に、美濃の国に居ると聞く評判の美女姉妹であるエヒ女、オトヒ女を連れてくるようにと頼んだ。美濃の国に赴いたオホウスの命は、二人の乙女に出会った瞬間に一目ぼれしてしまった。父に渡さず我が妻にしようとして別の娘をい連れて帰り献上した。景行天皇は、期待していたほどの美女ではなかったので失望した。告げ口により真相を知らされた景行天皇は物思いにふせ、それから結婚することもなく悩み続けた。

 それからしばらくたったある日、ヲウスの命に、朝夕の食膳に出てこない兄を出仕させるよう命じた。しかし、それから5日たってもオホウスの命は姿を現さなかった。天皇は訝り、ヲウスの命に確認したところ、「夜明けに兄が厠(かわや)に入ったとき、私は待ち受けて兄を捕まえ、その手足をもぎ取り、薦(こも)に包んで投げ捨てました」と答えた。

 景行天皇は、ヲウスの命の猛々しい性格を恐れ、そばにおいておくのは危険だと思い、朝廷に服従しないままでいる西のクマソタケル兄弟の討伐を命じた。ヲウスの命は父の命に従い、熊曾征伐で出かけた。その前に叔母であるヤマト姫命の元を訪ねた。この時、「何かの役に立つかもしれませんから、この衣装を渡しておきます」と、衣装を授かった。

 ヲウスの命が熊曾建の家の前までやってきたところ警護が厳しく、兵で三重も囲んであり、容易に近づけそうもなかった。しかし、どうやら新居を祝うための宴の準備をしている様子であった。このことを察知したヲウスの命は、叔母様の衣装を着て、髪も女性のように結いなおし女装して忍び込んだ。やがて熊曾建兄弟のそばにはべることになり、宴もたけなわになったときに懐の剣を取り出し、熊曾の衣の衿をつかみ、胸を剣で突き通した。それを見た熊曾の弟は逃げ出した。それを追っていき、熊曾弟の尻に剣を突き刺した。

 「お前は何者か」。「私は大八島国を治めている景行天皇の御子ヤマトヲグナノミコである。お前たち兄弟が朝廷に従わないので、征伐に派遣された」。「我は、国中の強力者なり。当時の誰が来ても、我が力に勝つ者はいなかった。武運では負けなかったが、こたびはしてやられてしまいました。今後はあなたに従い、ヤマトタケルの御子と称えます」。ヲウスの命は、「確かにそなたからの名は受け取った」と述べた後、よく熟した瓜を裂くように尻に刺した剣を抜き、クマソタケルを切り裂いて殺した。それから、大和に戻る際に、山の神、河の神、海峡の神をみな服従させた。

 オホウスの命=大碓命。エヒ女=兄比売。オトヒメ=弟比売。ヲウスの命=小碓命。クマソタケル=熊曾建。ヤマト姫命。ヤマトヲグナノミコ=倭男具那王。ヤマトタケルの御子=倭建御子、日本武尊、倭武天皇。

【ヤマトタケル譚その2、出雲征伐】

 ヲウスの命(以降、ヤマトタケルと記す)は、都に戻る際に出雲の国を通った。イズモの首長、イズモタケルを殺していこうとした。まず、イズモタケルと親しくなった。肥の川に沐浴に誘い、ヤマトタケルとイズモタケルは連れ立った。先に川から上がったヤマトタケルは、太刀を変えることを提案し、それから太刀合わせを提案した。ところが、ヤマトタケル太刀は抜けないように細工していた。こうして、ヤマトタケルは太刀を抜くことができなかったイズモタケルを打ち殺した。
 「やつめさす 出雲建が はける刀(たち) 黒葛(つづら)さは巻き さ身無しにあはれ」
 (イズモタケルが持たされた太刀は、さやにつづらが巻きつけられ、刀身が抜けず殺されてしまった。可哀そう)。

 こうして、イズモタケルを殺した後、周辺を平定し、都に上り、復命した。
 イズモタケル=。

【ヤマトタケル譚その3、東国征伐】

 ヤマトタケルが熊曾と出雲の征伐を復命したところ、新たに東方12カ国の平定を命ぜられた。ひひらぎの八尋矛を授けられた。ミスキトモミミタケ日子を共に従えることになった。東国に向かう前に伊勢神宮に行き、斎宮にして叔母のヤマト姫に会った。この時、ヤマトタケルの目から涙が零れ落ちた。

ヤマト姫  「どうしたのです、ヤマトタケル」。
ヤマトタケル  「父上は、私が死ねばいいと思っているのでしょうか」。
ヤマト姫  「そんなことはありません。どうしてそう思うのですか?」。
ヤマトタケル  「西の熊曾を討ちに遣わし、都に戻ってまだ間もないというのに、すぐに今度は東国の十二カ国を平定して来いだなんてひどすぎませんか。しかも、兵士もくださらずに。父上は私なんか死んでしまえときっと思っているのです」。

 それを聞いたヤマト姫は、スサノオがヤマタノオロチを退治したときに手に入れた神宝の草薙の剣を授けた。それと火急の際にはこの袋の口をお開けなさいと御袋を貰った。

 伊勢を出発したヤマトタケルは、尾張、焼津、浦賀水道、相模、箱根、甲州、信州を廻り尾張へ戻る長征に出向くことになった。(日本書紀は、伊勢、駿河、焼津、相模、上総、陸奥、常陸、甲斐、武蔵、上野、信濃、美濃、尾張と記している)

 ヤマトタケルは尾張の国に立ち寄った際に、ミヤズ姫の家に泊まった。一目ぼれしたヤマトタケルは、ミヤズ姫と結婚をしようと思ったが、今回の東国征討が終わって帰ってきてから結婚することにし、結婚の約束だけを交わした。


 ヤマトタケルは相模の国にやってきた。国造(くにのみやっこ)が、「実は、この野の中に大きな沼がございます。そして、この沼に住んでいる神が非常に凶暴な神で困っています」と訴えた。ヤマトタケルは、国造の頼みを聞き、妻のオトタチバナ姫と共に沼に住む神を見るために野に入った。そこには恐ろしいわなが待ち受けていた。タケルが野に入ったことを確認した国造は、火をつけて焼殺を謀った。背後からすごい勢いで火が迫った。妻のオトタチバナ姫の安否を尋ねたところ、無事だった。辺り一面火の海に囲まれたヤマトタケルは、咄嗟に叔母様から貰った袋を取り出して見ると、火打石が入っていた。草薙の剣で辺りの草をなぎ払い、火打石で火をつけると向かい火となり、迫り来る火を打ち消した。こうして、無事出ることができた。騙された事に怒ったヤマトタケルは、相模の国造どもをみな斬り殺した。この地はそれ以後、焼津と呼ばれるようになった。

 或る日、ヤマトタケルの一行が走水海を渡ろうとしたとき、海峡の神が荒波をたて、船は前に進むことができなかった。「このままでは船が沈没してしまう。何とかせねば…」。海の中で己の無力を嘆くヤマトタケルに対して、オトタチバナ姫が「私が皇子の身代わりとなって海に身を沈めましょう」。「あなたは東征の任務を成し遂げて天皇にご報告してください」。オトタチバナ姫は海に身を沈める前に歌を歌った。

 「さしさね 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問いし君はも」
 (相模の野原に燃え立つ火の、その炎の中に立って、私の安否を尋ねてくださったわが君よ、あなたの気持ちが忘れられません)

 オトタチバナ姫は、菅畳を八重、皮畳を八重、絹畳を八重、波の上に敷いて、船からその上に下りて海に沈んだ。すると、荒波は自然におだやかになり、船は前に進むことができるようになった。それから7日後、海岸に流れ着いた今は亡きオトタチバナ姫の櫛を手にした。涙を流すヤマトタケル。その櫛を取って、丁重に葬った。

 ヤマトタケルは、そこからさらに奥へ進み、ことごとく荒ぶる蝦夷(えみし)どもを平定し、また、山や川の荒れすさぶ神々を平定し、都に戻ろうとした。その途中に、足柄山の坂の下にたどり着き、乾飯(かれいい)を食べていたヤマトタケルの前に白い鹿が目の前に現れた。足柄山の神が白い鹿の姿で現れたことを知ったヤマトタケルが、食べ残した蒜(ひる)の片端を鹿に投げつけると、その目に当たって、鹿は撃ち殺された。そして、ヤマトタケルは、その坂の上に登って三度、嘆息した。「あぁ、わが妻よ…あぁ、我が妻よ…あぁ、我が妻よ…」。そこで、その国を名づけて吾妻(あづま)というようになった。

 それから、その国を越えて、甲斐の国に出て、酒折宮(さかおりみや)についたとき、歌を詠んだ。「新治(にひばり) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」(常陸の新治や筑波の地を過ぎてから、幾夜旅寝をしたことだろうか)。すると、夜警の火をたいていた老人が、この歌に続けて、「日日(かが)並べて 夜には九夜 日には十日を」(日数を重ねて、夜は九夜、日では十日になります)と歌った。見事な受け答えをした老人に、東国造(あずまのくにのみやっこ)の称号を授けた。

 ミスキトモミミタケ日子=御?友耳建日子。ヤマトヒメ=。ミヤズヒメ=美夜受比売。オトタチバナ姫=弟橘比売。


【ヤマトタケル譚その4、三重山中で死す譚】

 その後、信濃の国の坂の神を退治したヤマトタケルは、尾張の国に向かい、先に結婚の約束をしていたミヤズ姫のもとを訪れた。この時、ミヤズ姫は月の障りの最中で、うちかけの裾に血が滲んでいた。二人の問答歌が次のように記されている。

 「ひさかたの 天の香山 利鎌に さ渡るくび 弱細 手弱腕を 枕かむとは 吾はすれど さ寝むとは 吾は思へど 汝が著せる むすびの裾に 月立ちにけり」。

 返歌は、

 「高光る 日の御子 やすみしし 吾が大君 あら玉の 年が来経れば あら玉の 月は来経往く うべなうべな 君待ちがたに 君が著せる むすびの裾に 月立たなむよ」。

 伊吹山神退治に向かったが、山の神を素手で退治するつもりだからと述べて草薙の剣を姫に預けた。こうして素手で伊吹山に向かった。山に登ってすぐ白いイノシシに出会った。「この白いイノシシの姿をしているのは、山の神の使者だろう。今殺さずとも、山の神を殺してからでも遅くはあるまい」。こういってさらに山を登った。この時、雹がすごい勢いで降ってきた。命からがら山から下りてきたヤマトタケルは、清水を見つけ一息つき、正気を取り戻すことができた。

 ヤマトタケルはタギノ(当芸野)のあたりにたどり着いた。「私の心は、いつも空を駆け登るような気持ちだった。しかし、今、私の足は歩くことができず、道がはかどらなくなってしまった」。こう弱音を吐いたヤマトタケルは、さらにほんの少しばかり歩いた。しかし、ひどく疲れてしまい、杖をついてそろそろ歩いた。さらに進むと、尾津崎の一本松のもとにたどりつき、食事をしていたときに、そこに忘れてきた大太刀がなくならないでそのまま残っていた。

 それから三重村にたどりついた。「私の足は三重のまがり餅のようになって、ひどく疲れてしまった」。そこからさらに歩き続けた。能煩野(のぼの)に着いた際に、故郷の大和国をしのんで歌を歌った。

 「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」
 (大和の国は国々の中心の故郷である。青い垣根が重なり合うようにして山を覆っている。大和の国は何と美しい国なのだろう)
 「命の 全けむ人は たたみこむ 平群(へぐり)の山の くまかしが葉を うずに挿せ その子」
 (生命力の旺盛な人は、重なるように連なる平群の山のくま樫の葉を髪にさして、生命を謳歌するがいい、みなの者よ)
 「愛(は)しけやし 我家の方よ 雲居立ち来も」
 (あぁ、なつかしいわが家の方から、雲がわき起こってくることよ)

 この歌を歌った後、ヤマトタケルの病気は急に悪化した。そのときに歌った歌は、

 「嬢子(をとめ)の 床の辺に 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」
 (ミヤズ姫と過ごした寝床のそばに私が置いて来たあの草薙の剣をもう手にすることは出来ないのだろうか)

 こう歌い終わってすぐにヤマトタケルは死んでしまった。早馬の急使が朝廷にヤマトタケルの死を告げに行った。


【ヤマトタケルの白鳥伝説譚】

 ヤマトタケルが亡くなったという知らせを聞いた妻と子は、大和からヤマトタケルの死んだ場所に向かい、御陵を作った。そして、その周りの田を這い回り、泣き悲しんだ。
 「なづきの田の 稲幹(いながら)に 稲幹に 匍(ほ)ひ廻(もとほ)ろふ 野老蔓(ところづら)」
 (お陵(はか)の近くの田に生えている稲の茎に、その稲の茎に這いまつわっている野老(ところ)の蔓のような私たちよ)

 この時、見ると、御陵から大きな白い千鳥が空に飛び立ち、海に向かって飛び去った。白鳥が海に向かって悠然と飛び去っていくのを見た妻や子は、あたりに生えている竹の切り株で足を傷つけられても、その痛さを忘れ、泣きながら追っていき、歌った。
 「浅小竹原(あさしのはら) 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな」
 (低い小竹(しの)の原を行こうとすれば、腰に小竹がまとわりついて歩きづらい。鳥のように空を飛ぶこともできず、足で歩いて行くもどかしさよ)。

 浜の海水に入って、難儀しながらも追っていったときに歌った歌は、

 「海が行けば 腰なづむ 大河原の 植ゑ草 海がはいさよふ」
 (海を行こうとすれば、腰が水にはばまれて歩きづらい。大河の水中に生えた水草が揺れるように、海は水にはばまれて進むことができない)

 さらに、白千鳥が飛び立って、海岸の磯にとまっているとき歌った歌は、

 「浜つ千鳥 浜よは行かず 磯伝ふ」
 (浜の千鳥は、歩きやすい浜伝いには飛ばないで、岩の多い磯伝いに飛んでいった)

 この4首はみなヤマトタケルの葬儀の際に歌った。

 さて、白鳥は伊勢国(三重県)から飛んでいって、河内国(大阪府)の志磯にとどまった。そこで、その地にも御陵をつくり、ヤマトタケルの魂を鎮座させた。そして、その御陵を名づけて白鳥御陵といった。しかし、白鳥はそこからさらに空高く天翔けて飛び去って行った。こうして、ヤマトタケルの冒険は終わった。

(私論.私見)

【仲哀天皇譚】

 ヤマトタケルの御子にして第14代の仲哀天皇は、筑紫(北九州)の香椎宮(かしいのみや)で熊襲征伐を前に、神おろしの儀式をするために琴を弾いていた。建内宿禰(たけうちのすくね)は神がおりてくる神聖な場所で控え、神託がくだるのを待っていた。見ると、仲哀天皇の后、オキナガタラシ姫に神がかり、神託を告げた。「西の方に国がある。その国には金銀をはじめ、目もくらむような珍しい宝が多くある。私はその国を帰服させ、あなたに差し上げようと思う」。

 しかし、仲哀天皇は、この神託を信じなかった。「高いところに登って西の方を見ても国は見えない。ただ、海が見えるだけだ。そのような国があるはずがない。あなたは偽りをいう神だ」。そういうと、天皇は琴を押し退けて弾くのをやめてしまった。怒った神は、およそこのあめのした(天下)はお前が統治すべき国ではないとして、天皇に死(黄泉の国行き)を宣告した。天皇は進言を聞き入れて、そろそろと琴を引き寄せ、しぶしぶ弾きはじめたところが、まもなく琴の音が聞こえなくなった。不安になったタケウチノスクネがすぐに火をともすと、天皇はすでに事切れていた。
 香椎宮=。オキナガタラシ姫=息長帯日売。

【神攻皇后譚】

 タケウチノスクネは、仲哀天皇の遺体を殯宮(あらきのみや)に移し、国中から大祓(おおはらい)のための幣帛(みてぐら)を集めて、国家的な大祓の儀式を行い、再び神おろしの神託を行った。後継は、オキナガタラシ姫のお腹にいる御子と決まり、「これは天照大神の心だ。また、底筒神、中筒神、上筒神の三柱の大神だ。今、本当に西の国を求めようと思うならば、天つ神、国つ神、山の神、川の神、海の神をはじめ諸々の神々にことごとく幣帛を奉れ」とのご託宣が下された。

 オキナガタラシ姫が神攻皇后となり、海を渡り西の国へ攻め入った。新羅(しらぎ)国の王がやって来て、 「東に神国あり、日本と云う、聖王います、天皇と云うと聞いております。その神威に対して兵力で防ぐことは出来ません。今後は天皇のご命令通りに従い、貢物を奉りお仕えしたいと思います」と帰順した。皇后は、持っていた杖を新羅の国王の家の前に突きたて、「これも全て住吉三神のお陰です。すぐに荒御魂を、国をお守りになる守護神としてお祭りするように」と言い渡した。海を渡って日本へ帰ろうとした折、皇后は産気づいた。日本で御子を産む意志を持つ皇后は、産気づいたお腹を鎮めようと、石を取って着物の腰につけ、出産を抑えた。こうして、筑紫国に帰り、御子は生まれた。その地を宇美と名付けた。 

 後継騒動が起った。仲哀天皇の息子のカゴサカノミコとオシクマノミコが皇位を狙った。御子は邪魔な存在でしかなかった。そこで、誓約狩(うけひがり)をすることになった。狩りの最中、怒り狂った大きなイノシシが突如現れ、カゴサカノミコの登っているクヌギを掘り倒した為、逃げ遅れたカゴサカノミコはイノシシに食い殺されてしまった。皇后は喪船で帰朝し始めた。オシクマノミコは単独で軍勢を集め皇后を待ちうけた。皇后軍とオシクマノミコ軍が戦い、皇后方が優勢になり、オシクマノミコ軍は山城まで撤退した。ここで体勢を立て直し、激しく反攻してきた。

 タケフルクマの命が一計を案じた。神功皇后の使者となり、御子が亡くなったことを伝え、降伏することを申し出た。使者の指差す方を見ると、皇后方の兵は手に持っていた弓のつるを切ってまさに降伏しようとしていた。オシクマノミコは騙され、弓のつるを取り外し無防備になった。その一瞬の油断を見逃さず、タケフルクマの命が命令を下した。その掛け声とともに、皇后軍が攻めてきた。降伏したとばかり思っていた皇后軍が突然弓を放ってきたことを驚いたオシクマノミコは、逢坂(おうさか)まで逃げ延びたが多くの兵が討ち取られてしまった。かろうじて船に飛び乗ったオシクマノミコであったが、ついに追い詰められてしまった。

 いざ吾君(あぎ) 振熊が 痛手負はずは ニホドリの 淡海(あふみ)の海に 潜(かづ)きせなわ

 (さぁ、君よ。フルクマのために痛手を負うよりは、淡海の海に潜って死んでしまおう)

 と歌い、湖に身を投げて死んでしまった。

 タケウチノスクネは、御子をつれて禊(みそぎ)を近江(滋賀)および若狭国(福井)を巡歴した後、越前国(福井)の敦賀に仮宮を造ってそこに住まわせた。そのときに、御子は夢を見た。夢の中で一人の神が現れた。「私はイザワケの大神である。私の名前と御子の御名を変えたいと思うがどうか?」。「今後はイザワケの大神をミケツオオカミ(御食つ大神)とお呼びしよう」。この神が今の気比大神である。また、傷ついたイルカの鼻の血が臭かったので、その浦を血浦と名づけたが、今は角鹿(つぬが)と呼んでいる。

 カゴサカノミコ=香坂王。オシクマノミコ=忍熊王。タケフルクマの命=建振熊命。イザワケの大神=伊奢沙和気大神。ミケツ大神=御食つ大神)

【応神天皇譚】

 応神天皇には三人の息子がいた。上からオホヤマモリの命、オホサザキの命、ウヂノワキイツラコである。或る時、応神天皇は、オホヤマモリとオホサザキに、「お前たちは年上の子と年下の子ではどちらがかわいいと思う?」と尋ねた。長兄のオホヤマモリは、「年上の子がかわいいと思います」と答えた。オホヤマモリが答える姿を見たオホサザキは、父上はウヂノワキイツラコを後継者にしたいのではないか?と推量し、天皇の意向に逆らわないように「年上の子はすでに大人になっているのでそれほど気がかりもありません。しかし、年下の子はまだ大人になっていないので、こちらのほうがかわいいと思います」と答えた。応神天皇は、「オホサザキよ。そなたが行ったことはわしの思っている通りだ」と褒めた。この発言を踏まえて三人の子の任務を与えた。「オホヤマモリよ、そなたは山と海の部を管理しなさい。オホサザキは私の統治する国の政治を執行して報告しなさい。ウヂノワキイツラコは皇位を継承するように」。こうして、次男オホサザキは応神天皇の意に背くことはなかった。

 或る時、応神天皇は日向の国のモロガタの君の娘、カミナガ姫の容貌がみめ麗しいと聞き、側に仕えさせようと呼び寄せようとした。オホサザキは少女を乗せた船が難波津に着いたと聞いて見に行った。少女のあまりの美しさに感動したオホサザキは結婚したくなり、タケウチノスクネのところに相談に行った。タケウチノスクネはオホサザキの願いを聞き入れ、天皇にその旨伝えた。まだ、姫を見ていない天皇は皇子の願いを快く認めた。新嘗祭の当日、天皇はヒメにお酒を受ける柏を持たせ、皇太子にお与えになった。そのとき天皇は歌を歌った。

 いざ子ども 野蒜(ひる)摘みに 蒜摘みに わが行く道の 香ぐはし 花橘は 上枝(はつえ)は 鳥居枯らし 下枝(しづえ)は 人取り枯らし
 三つ栗は 中つ枝の ほつもり 赤ら嬢子(をとめ)を いざさらば 宜らしな
  
 (さぁ、皆の者よ、野蒜を摘みに行こう。野蒜を摘みに行く道の、香りのよい花橘は、上の枝は鳥が止まって枯らし、下の枝は人が折り取って
  枯らし、中ほどの枝に蕾(つぼみ)のまま残っているその蕾のような、赤くつややかな少女を、さぁ、お前の妻にしたらよかろう)

 その後に、天皇はもう一首歌を歌った。

 水溜る 依網(よさみの)池の 堰(ゐ)くい打ちが さしける知らに ぬなはくり 延(は)へけく知らに 我が心しぞ いや愚(をこ)にして 今ぞ悔しき
 (依網(よさみ)の池の堰(い)の杭を打つ人が、杭を打っていたのも知らないで、じゅんさいを取る人が手を伸ばしているのも知らないで、私の心はなんと愚かであったことか、今になってみると悔しいことだ)

 こう歌ってカミナガヒメをお与えになった。その少女を賜った皇太子はこう歌った。
 道の後(しり) 古波陀(こはだ)嬢子(をとめ)を 雷(かみ)のごと 聞こえしかども 相枕まく

 (遠い国の古波陀の少女よ、雷のようにやかましく噂されていたが、今では手枕をして一緒に寝ていることよ)

 道の後 古波陀嬢子は 争はず 寝しくをしぞも うるはしみ思ふ
 (遠い国の古波陀の少女は、拒むことなく素直に私と寝てくれたことをすばらしいと思う)

 と歌った。

 
応神天皇が崩御した。父の命で山と海を管理していたオホヤマモリは、末弟のウヂノワキイツラコが皇位を継承するのに内心不満であった。オホヤマモリはひそかに兵を集め、弟を殺害しようと考えた。以前より兄の不満に気付いていた次兄オホサザキは、兄の謀反をいち早く察知した。オホサザキ様の使者から知らされたウヂノワキイツラコは、身代わりを立て備えた。自身は、賤しい身分の姿に変装し、舵をとって船の上に立っていた。そこへ、オホヤマモリがにたどり着き、船に乗ろうとした。ウヂノワキイツラツコは山の上にいるものと思い込んだオホヤマモリは、目の前の船頭がイツラツコだと全く気付かず、話しかけてきた。四方山話しているうちに宇治川の中ほどまで渡ってきた。細工されていた船が一気に傾き、オホヤマモリはあっという間に河に投げ出された。水面に浮かび上がったときに歌った歌は、

 ちはやぶる 宇治の渡に 棹執りに 速けむ人し わがもこに来む

 (宇治川の渡し場に、棹を操るのに敏捷な人よ、私の味方に来ておくれ)

 オホヤマモリが死んだ後、オホサザキとワキイラツコは皇位を譲り合った。ところが、ウヂノワキイラツコが早く世を去ったので、オホサザキが第16代の仁徳天皇となって天下を治めることになった。

 オホヤマモリの命=大山守命、オホサザキの命=大雀命。ウヂノワキイツラコ=宇遅能和紀郎子。カミナガ姫=髪長比売。


【倭の五王】
 421年、南宋初代の武帝が、「倭の讃は万里を朝賀した」と詔した。
 425年、三代文帝の時、讃は、司馬曹達を遣使した。讃が死に、弟の珍が即位し、遣使して、「使持節郡督倭、百済、新羅、任那、秦韓、募韓六国軍事、安東大将軍、倭国王」の自称を正式に除すよう求めた。
 442年、倭国王済が、使者を送って朝賀した。又、「安東将軍・倭国王」とした。

 451年、「使持節郡督倭、百済、新羅、任那、秦韓、募韓六国軍事、安東将軍」に除した。済が死に、世子の興が遣使し朝賀した。
 462年、四代孝武帝の時、「倭王の世子興は、代々忠で、外海に藩屏をなし、(中国の徳)化を受けて、辺境を安寧にし、新しく辺業を嗣(受継)いだ」と詔し、「安東将軍・倭国王」に除した。興が死んで、弟の武が即位し、「使持節郡督倭、百済、新羅、任那、秦韓、募韓六国軍事、安東大将軍、倭国王」と自称した。

 478年、八代順帝の時、倭王の武が宋の順帝に対して次のように上奏している。
 概要「封国(わがくに)は遠く偏(かた)より、藩屏を外海に為している。昔から父祖自ら身に甲冑を纏いて山川を踏渉し、一処(ひとところ)に安んじる暇もなかった。東は毛人の55カ国を征し、西は衆夷の66カ国を服し、渡りて海北の99カ国を平らげて、土を拡め畿(くに)を遥かにした。臣(武)は、中国の天子に帰崇して、百済道を望んで、船を整えた。しかるに高句麗は無道で、侵略しようと計って、国境の隷民を略奪し、殺害してやまない」。

 詔して、武を、「使持節郡督倭、百済、新羅、任那、秦韓、募韓六国軍事、安東将軍」に除した。(宋書倭国伝)




(私論.私見)