| 出雲王朝神話考 |

(最新見直し2006.12.7日)
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで出雲王朝史を確認しておく。天孫族による大和王朝の創始以前、更に言えば、高天原派による出雲来襲前までの日本上古代には、「葦原の中つ国」又は「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂国」と云われていた原日本があり、国内の概ねを出雲の神様が統べていた。これを仮に出雲王朝と云う。つまり、出雲王朝が実存していた。これに同盟する豪族を国津族と云う。それとは別に、アマテラス大御神(天照大御神)が統べる高天原王朝が存在していたことになる。これに従う者を高天原族と云う。天孫降臨後は天孫族と記す。いずれも、八百万の神々達の住む世界であり、これが日本神話の特質を為している。 日本古代史は、出雲王朝系の国津族と高天原神系の天孫族の抗争と和同史であり、この事情を背景にして古代神道が二系列から形成されていることが注目される。恐らく史実であり、国津族を代表する出雲王朝が高天原王朝に対し、祭祀権だけを残して政治支配権を譲るという形で両者和合する経緯を見せる。これを「国譲り」という。日本史上最大の政変と云うべきだろう。勝利した高天原王朝が天孫降臨し、神武天皇東征譚へと続く。こう看做さないと、日本政治史の流れが見えてこない。 明治維新以降に吹聴され始めた近代天皇制皇国史観は、神武天皇東征従来の大和王朝創始の正義と権威を説き過ぎたため、意図的に出雲王朝を封印し過ぎてきたように思われる。しかしそれは史実の歪曲でしかない。出雲王朝史は相当紙数を割いて古事記、日本書紀それぞれにしっかりと記されていることである。大和王朝建国譚に於いても、如何に旧出雲王朝勢力に悩まされたか縷縷記述しているところである。ここを見て取らないと、日本神話研究の重要なファクターを欠落させたものになってしまう。そういうものを喧伝したのが戦前の皇国史観であり、皇国史観はそういう意味で批判されるべきものである。「大国主命、出雲大社」その他を参照する。 この出雲王朝の存在に就いては、古田武彦氏が、1975年「盗まれた神話」という著書の中で、「大和朝廷」・「九州王朝」に先行する縄文の出雲王朝』の存在を国譲り神話から提起し、国生み神話とその後の黒曜石の分布などの考古史料から証明を行った。そのほかには鉄剣銘文の「臣」、部民性の史料批判等の論証を通じて出雲王朝の存在について、確固たるものにしたとのことである。(「出雲王朝と出雲銅鐸」) 2006.12.7日 れんだいこ拝 |
| 【出雲の国引き神話譚】 | ||||||||||||||
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原出雲から出雲へと発展していったプロセスにヤツカミズオミヅの命が活躍する出雲の国引き神話譚がある。ヤツカミズオミヅの命は、「出雲の国を縫い合わせて大きくしよう」として「八雲立つ出雲」と宣言し、大縄で対岸の岬を引き寄せる「国引き」をして元出雲の国を造った。出雲風土記が次のように記している。
要するに、出雲国を作り上げるのに、神様が、「国こ、国こ」の掛け声と共に国引きをするのに次の四カ所から国を引っ張ってきたという。
つまり、サ姫山(三瓶山さんべさん)と火神岳(大山だいせん)を杭とし、薗の長浜と夜見ケ浜を引き綱として、これに掛けて生みの彼方から国を引いてきて縫い合わせたという。 |
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「出雲の国引き神話譚」は、古代出雲の国土国家形を語っている。スサノウ渡来前の原出雲史として踏まえておく必要があると思われる。 |
| 【スサノウ渡来以前の縄文出雲、以降の出雲の弥生化】 |
| 国引きにより合衆国化した出雲は、スサノウ渡来以前と以降により大きく変質する。スサノウ渡来以降の変化はこれから見ていくので、以前の出雲の様子を確認しておく。その経済は、狩猟ー採集中心の縄文文化であった。神話上、この時代の出雲が「根の堅国」、「母の国」等々と表現されているように思われる。 起源1世紀半ば頃の原出雲は、各地の首長がそれぞれの神々を祀っていたように推定される。この時代を仮に「原々出雲」と命名する。「原々出雲」の時代の出雲は、熊野大神、佐太大神、野城大神と云われる三柱の大神を核としてそれぞれ独立的に統治されていたようである。それぞれが、日本古来の信仰の原点である1・精霊信仰、2・祖霊信仰、3・首長霊信仰に基づく祭政一致政治を執り行っていたと推定される。 その後、国引き神話譚に登場するヤツカミズオミヅの命が登場し、原出雲を創始し大国化させている。特徴的なことは、この時点でも首長連合国家であったことにある。出雲風土記は、ヤツカミズオミヅの命が、島根と名称したと記している。その原出雲にスサノウが渡来しスサノウ王権を創り上げ、大国主の命がそれを後継し、出雲王朝を創出する。そして国譲りへと至るように思われる。 |
| 【ヤマタノオロチ譚】 | |
スサノウは、出雲渡来前に大ゲツ姫神譚で示唆されたように蚕(かいこ)と稲、粟、小豆、麦、大豆の五穀の種を手に入れている。ということは、高天原を追われたスサノウは、蚕(かいこ)と五穀の種を持って出雲に渡来したことになる。ここから弥生出雲とプレ出雲王朝史が始まる。
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| 出雲の国=現在の島根県に比定されている。肥の川=現在の斐伊川に比定されている。オオヤマツミの神=大山津見神。アシナヅチ=足名椎。テナヅチ=手名椎。クシナダ姫=櫛名田比売、櫛稲田姫。ヤマタノオロチ=八俣の大蛇。クサナギの剣=草薙剣。 | |
「ヤマタノオロチ譚」は、スサノウが渡来してきた事を明らかにしている。且つ、奇しくもクサナギの剣の由来を伝えている。出雲の国(島根県)の肥の川(斐伊川)上流の鳥髪の船通山とは、いわゆる奥出雲のことであり、砂鉄の産地であった。恐らく、オロチ退治はスサノオが同所の製鉄技能を掌握した事を暗喩している。このことは、スサノウが鉄剣その他鉄器の産地を手に入れた事を意味する。スサノウは、先に大ゲツ姫神から生まれた蚕(かいこ)と稲、粟、小豆、麦、大豆の五穀の種を手に入れており、ここに加えて新たに鉄を手に入れたことになる。 |
| 【スサノオ王権譚】 | ||
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スサノウは、「蚕、五穀、鉄」の支配を活用し原出雲に影響力を広げ、スサノウ王権を創始していったものと思われる。 |
| 【いなばの白兎譚】 | |
スサノオ時代に続く神話として「いなばの白兎譚」がある。オオナムヂが初登場する逸話である。
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| オオナムヂ=大穴持命。イナバ=因幡、稲羽。ヤガミ姫=八上比売。ホウキ=伯耆国(現在の島根県と比定されている)。キサ貝姫=。うむ貝姫=。 | |
「いなばの白兎譚」は、後に出雲王朝を支配することになるオオナムヂの人品骨柄の物語譚であろう。もう一つ、オオナムヂの医師的能力が語られている。同時に、オオナムヂが、おきの島、因幡の国、伯耆の国の支配権を得たという裏意味があると思われる。オオナムヂはスサノオの6世の代の孫とされているが、後のスサノウ王権継承譚を読み取れば子孫と看做すよりは、オオナムヂは在地の神々の子孫のように思われる。 |
| 【兄弟達のオオナムヂ迫害譚】 | |
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| サシクニワカ姫=刺国若比売。キサ貝姫=*貝比売。うむ貝姫=蛤貝比売。木の国=紀の国(現在の和歌山県に比定されている)。オオヤ彦神=大屋昆古神。 | |
「兄弟達のオオナムヂ迫害譚」は、その後の後に出雲王朝を支配することになるオオナムヂの頭角出世が並大抵でなかったことを伝えている。オオナムヂ治療の下りは、原出雲の医療先進国ぶりをも伝えている。 |
| 【オオナムヂのスサノオ王権継承譚】 | |
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| スセリ姫=須勢理昆賣。葦原シコ男=葦原色許男。 | |
「オオナムヂのスサノオ王権継承譚」は、オオナムヂがスサノオの繰り出す数々の試練を乗り越え、愛娘スセリ姫と王権神器を手に入れたことを物語っている。こうしてオオナムヂがスサノオ王権を継承し、出雲王朝を創始していくことになったことを伝えている。 |
| 【オオナムヂの出雲王朝創始譚】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| キノマタの神=木俣神。ミヰの神=御井神。カンムスビ神=神産巣日神。スクナヒコナの神=少名毘古那神、小名彦神。大トシの神=。アメノヒヤリ=天之日槍。越の国=現在の北陸地方に比定されている。信濃=現在の長野に比定されている。葦原シコヲ神=葦原色許男神。ウツクシ国玉神=。タキリ姫=。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「オオナムヂの出雲王朝創始譚」は、出雲王朝の創始過程を説き聞かせている。これより以降、オオナムヂを大国主と記すことにする。 |
| 【オオナムヂの艶福家ぶり、政略結婚ぶり譚】 | ||||
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| マタマツクタマノムラ姫の命=。ヤヌノワカ姫の命=。アヂシキタカヒコネ=阿遅志貴高日子根の命。カムヤタテ姫=神屋楯姫。タケミナカタ=多建御名方。 | ||||
神話に於ける結婚とは、豪族間の同盟を物語っているものと思われる。 |
| 【出雲王朝の政体の特質譚】 | |
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「出雲王朝の政体の特質譚」は、出雲王朝が、葦原の中つ国の国津神の同盟の芯の位置に居た事を物語っている。 |
| 【出雲王朝墳墓の特質譚】 |
| 出雲では弥生時代中期末から後期にかけて、四辺形の墳丘墓と四方に設けられた参道から成る四隅突出型の独自の方形墳丘墓が築営されている。この出雲系方墳と天孫系円墳が結合されて我が国独特の前方後円墳となる。 |
| 【小泉八雲の出雲観】 | |
| 世界の文豪にして日本古代史に魅せられたラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio
Hearn、1850.6.27ー1904.9.26)の履歴は次の通り。英国人を父、ギリシャ人を母とし、ギリシャで生まれた。1890(明治)年、来日し、島根県松江尋常中学校と松江師範学校の英語教師に命じられ、8.30日に松江到着。同年9.14日、出雲大社に参拝。1891年、松江藩の士族小泉湊の娘・小泉節子と結婚する。1896年、東京帝国大学文科の英文学講師に就任。帰化し、スサノウの命の詠んだ「八雲立つ出雲八重垣」にちなんで「小泉八雲」と名乗る。1903年、東京帝国大学退職(後任は夏目漱石)。1904.3月、早稲田大学の講師を勤め、9.26日に狭心症により東京の自宅で亡くなった(享年54歳)。 その小泉八雲は、出雲王朝に対して次のように述べている。
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| 【荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡、妻木晩田遺跡の衝撃】 |
| 「出雲の神奈備山(かんなびやま)」は、朝日山(松江市と鹿島町の境に位置する)、仏経山(出雲群斐川町)、大船山(平田市)、茶臼山(松江市)の4山有る。この「神奈備山」周辺から銅剣、銅鐸が出現することになった。 1973(昭和48)年、出雲神奈備山の一つ朝日山の山麓で、農作業中に偶然、銅鐸2個と銅剣6本が出土した。これにより、古代出雲の神奈備山調査が行われることになった。 1983(昭和58)年、島根県と斐川町の教育委員会が、古代出雲の神奈備山の一つである仏経山のそばの農道建設予定地の遺跡分布調査を行った。斐川町の谷の最奥部の小谷で須恵器の破片が採集された。これを「荒神谷遺跡」(島根県簸川郡斐川町神庭)と名付け、再調査することになった。 1984(昭和59).7.11日、荒神谷遺跡を再調査したところ、7.12日、重なり合った状態で銅剣が5本発見された。その後、日増しに増え、遂に全国でそれまで出土していた銅剣の数を上回る大量の358本の銅剣が発見された。中細型銅剣と呼ばれる比較的古い型のもので、作成年代は2世紀半ばと推定されている。 358本の銅剣は、四列の箱に納められていた。発掘担当者は4列をA、B、C、Dに分け解析した。A列は34本で、剣先を東と西に向けたものを交互に置いていた。B列は111本で、4本だけが剣先を西に向け、それ以外は剣先を東と西に向けたものを交互に置いていた。C列は120本で剣先は全て東に向けられていた。D列は93本で、剣先は全て東に向けられていた。何らかの意味が込められていることが間違いない。 翌1985(昭和60)年、第2回目の荒神谷遺跡調査で、銅鐸6個と銅矛16本が出土した。ここに、「古事記」、「日本書紀」が言及していた出雲史が裏付けられたことになった。さらに、これまでの学説では異なる文化圏として区別されていた「銅矛文化圏」と「銅鐸文化圏」の、まさしくその円陣が重なる部分として、ここ出雲から銅矛と中型銅鐸が6個並んで出土した。 1996(平成8年)、加茂岩倉遺跡から実に39個の銅鐸が一挙に出土した。トンボ、シカなどの絵画に加え出雲独特の文様も持ったこれらの銅鐸は、人が殆ど通らないような谷間の斜面に意図的に埋められていた。同年、正蓮寺周辺の遺跡から、直径が800mにも及ぶ環濠跡も発見されている。 1992(平成4)年から1998年(平成10)年にかけて発掘調査された鳥取県の「妻木晩田遺跡」は、その周 辺遺跡の調査発掘の結果とともに、従来の日本海沿岸地方に対する考古学的所見をことごとく塗り替えた。 |
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(私論.私見)