出雲王朝神話考

 (最新見直し2006.12.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで出雲王朝史を確認しておく。天孫族による大和王朝の創始以前、更に言えば、高天原派による出雲来襲前までの日本上古代には、「葦原の中つ国」又は「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂国」と云われていた原日本があり、国内の概ねを出雲の神様が統べていた。これを仮に出雲王朝と云う。つまり、出雲王朝が実存していた。これに同盟する豪族を国津族と云う。それとは別に、アマテラス大御神(天照大御神)が統べる高天原王朝が存在していたことになる。これに従う者を高天原族と云う。天孫降臨後は天孫族と記す。いずれも、八百万の神々達の住む世界であり、これが日本神話の特質を為している。

 日本古代史は、出雲王朝系の国津族と高天原神系の天孫族の抗争と和同史であり、この事情を背景にして古代神道が二系列から形成されていることが注目される。恐らく史実であり、国津族を代表する出雲王朝が高天原王朝に対し、祭祀権だけを残して政治支配権を譲るという形で両者和合する経緯を見せる。これを「国譲り」という。日本史上最大の政変と云うべきだろう。勝利した高天原王朝が天孫降臨し、神武天皇東征譚へと続く。こう看做さないと、日本政治史の流れが見えてこない。

 明治維新以降に吹聴され始めた近代天皇制皇国史観は、神武天皇東征従来の大和王朝創始の正義と権威を説き過ぎたため、意図的に出雲王朝を封印し過ぎてきたように思われる。しかしそれは史実の歪曲でしかない。出雲王朝史は相当紙数を割いて古事記、日本書紀それぞれにしっかりと記されていることである。大和王朝建国譚に於いても、如何に旧出雲王朝勢力に悩まされたか縷縷記述しているところである。ここを見て取らないと、日本神話研究の重要なファクターを欠落させたものになってしまう。そういうものを喧伝したのが戦前の皇国史観であり、皇国史観はそういう意味で批判されるべきものである。「大国主命、出雲大社」その他を参照する。

 この出雲王朝の存在に就いては、古田武彦氏が、1975年「盗まれた神話」という著書の中で、「大和朝廷」・「九州王朝」に先行する縄文の出雲王朝』の存在を国譲り神話から提起し、国生み神話とその後の黒曜石の分布などの考古史料から証明を行った。そのほかには鉄剣銘文の「臣」、部民性の史料批判等の論証を通じて出雲王朝の存在について、確固たるものにしたとのことである。(「出雲王朝と出雲銅鐸」)

 2006.12.7日 れんだいこ拝


【出雲の国引き神話譚】

 原出雲から出雲へと発展していったプロセスにヤツカミズオミヅの命が活躍する出雲の国引き神話譚がある。ヤツカミズオミヅの命は、「出雲の国を縫い合わせて大きくしよう」として「八雲立つ出雲」と宣言し、大縄で対岸の岬を引き寄せる「国引き」をして元出雲の国を造った。出雲風土記が次のように記している。

 「『出雲の国は、サフの稚国(わかくに)なるかも。 初国(はつくに)小さく作らせり。 故(かれ)、作り縫(ぬ)はな』と詔(の)りたまひて、『たく衾(ぶすま)、しらぎの三崎を、国の余りあり』と詔りたまひて、童女の胸すき取らして、大魚(おふ)のきだ衝き別けて、はたすすき穂振(ほふ)り別けて、三身(みつみ)の網うち掛けて、霜黒葛(しもつづら)くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来々々(くにこくにこ)と引き来て縫える国は、コヅの折り絶えより、やほにきづきの御埼なり。 かくて、堅め立てしかしは、石見の国と出雲の国との堺なる、名はさ姫山、これなり。 亦、持ち引ける綱は、薗(その)の長浜、是なり。 亦、『北門のサキの国を、国の余りありやと見れば、国の余りあり』と詔りたまひて、童女の胸すき取らして、大魚(おふ)をのまだ衝き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身の網うち掛けて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来国来と引き来て縫へる国は、多久の折絶より、サタの国、是なり。 亦、『北門の良波の国を、国の余りありやと見れば、国の余りあり』と詔りたまひて、童女の胸すき取らして、大魚のまだ衝き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身の網うち掛けて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来々々と引き来て縫へる国は、宇波の折絶より、間見みの国、是なり。 亦、『高志の都都(つつ)の三埼を、国の余りあり』と詔りたまひて、童女の胸すき取らして、大魚のまだ衝き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身の網うち掛けて、霜黒葛くるやくるや…」。
 サフ=狭布。コヅ=去豆。サキ=佐伎。サタ=狭田。ヤツカミズオミヅの命=八束水臣津野命。しらぎ=志羅紀。やほにきづき=八穂爾支豆支。さ姫山=佐比売山。

 
要するに、出雲国を作り上げるのに、神様が、「国こ、国こ」の掛け声と共に国引きをするのに次の四カ所から国を引っ張ってきたという。
志羅紀の三埼  新羅・慶州近辺。 朝鮮半島東岸部・南半と比定されている。この国引きの為に用いた杭は、石見と出雲の堺のサ姫山(三瓶山さんべさん)であり、綱は薗(その)の長浜であった。
北門の佐伎の国  出雲大社の真北、日本海岸鷺(さぎ)浦、又は島前と島後の二つに分かれる隠岐島と比定されている。北朝鮮のムスタン岬との説もある。
北門の良波の国  松江の真北、日本海岸の野波や隠岐島のうちの一つに比定されている。ロシアのウラジオストックとの説もある。
高志の都々の三埼  越前・越中・越後の越(こし)。 能登半島あたりと比定されている。この為に用いた綱は、ヨミの島。杭は、火神岳(大山だいせん)であった。

 つまり、サ姫山(三瓶山さんべさん)と火神岳(大山だいせん)を杭とし、薗の長浜と夜見ケ浜を引き綱として、これに掛けて生みの彼方から国を引いてきて縫い合わせたという。
(私論.私見)

 「出雲の国引き神話譚」は、古代出雲の国土国家形を語っている。スサノウ渡来前の原出雲史として踏まえておく必要があると思われる。

【スサノウ渡来以前の縄文出雲、以降の出雲の弥生化】
 国引きにより合衆国化した出雲は、スサノウ渡来以前と以降により大きく変質する。スサノウ渡来以降の変化はこれから見ていくので、以前の出雲の様子を確認しておく。その経済は、狩猟ー採集中心の縄文文化であった。神話上、この時代の出雲が「根の堅国」、「母の国」等々と表現されているように思われる。

 起源1世紀半ば頃の原出雲は、各地の首長がそれぞれの神々を祀っていたように推定される。この時代を仮に「原々出雲」と命名する。「原々出雲」の時代の出雲は、熊野大神、佐太大神、野城大神と云われる三柱の大神を核としてそれぞれ独立的に統治されていたようである。それぞれが、日本古来の信仰の原点である1・精霊信仰、2・祖霊信仰、3・首長霊信仰に基づく祭政一致政治を執り行っていたと推定される。

 その後、国引き神話譚に登場するヤツカミズオミヅの命が登場し、原出雲を創始し大国化させている。特徴的なことは、この時点でも首長連合国家であったことにある。出雲風土記は、ヤツカミズオミヅの命が、島根と名称したと記している。その原出雲にスサノウが渡来しスサノウ王権を創り上げ、大国主の命がそれを後継し、出雲王朝を創出する。そして国譲りへと至るように思われる。

【ヤマタノオロチ譚】
 スサノウは、出雲渡来前に大ゲツ姫神譚で示唆されたように蚕(かいこ)と稲、粟、小豆、麦、大豆の五穀の種を手に入れている。ということは、高天原を追われたスサノウは、蚕(かいこ)と五穀の種を持って出雲に渡来したことになる。ここから弥生出雲とプレ出雲王朝史が始まる。
 大ゲツ姫神を殺害した後、異聞として子のイタケルの神と共に新羅に降りている。ソシモリに暫くいたが、「この地には住みたくない」と発して土の舟をつくり出雲に向った、と云う。

 スサノオは、出雲の国(島根県)の肥の川(斐伊川)上流の鳥髪の船通山にやってきた。この時、川上より箸が流れてきた。スサノオは、誰か住んでいることを知り訪ねると、オオヤマツミの神の子のアシナヅチ、その妻テナヅチの神が娘のクシナダ姫を抱いて泣いていた。スサノオが訳を尋ねると、私たちには元々8人の娘が居りましたが、山奥にいるヤマタノオロチという大蛇が一年に一度出てきて娘を食べ、今ではクシナダ姫一人になっており、この娘もまもなく食べられてしまうとの話を聞かされた。

 オロチの姿形は、体が八つの谷、八つの丘にまたがっており、頭がハつ尻尾が八本あって体にはコケ(苔)が一杯で、その上に桧や杉が生い茂っており、目はほうずきの実のように赤く恐ろしい姿をしているということであった。スサノオは、自分がアマテラスの弟で高天原から降りて来たばかりであることを告げ、退治することを約束した。見事オロチを退治した暁には、この娘を妻にくれないかと願うと、そういう立派な方ならよろこんで差し上げませうと頷いた。

 スサノオは一計を案じ、クシナダ姫を櫛に変え髪に刺し、家の周りに垣根をつくり、その入り口を8箇所とし、強い酒桶を置くことにした。アシナヅチとテナヅチは指示された通りにして、待ち受けた。いよいよオロチがやってきた。8つの頭の目は真っ赤でギラギラしていた。オロチは酒桶を見るや勢いよく飲みだした。酒をすっかり飲みほしたオロチは酔ってしまい眠り込んだ。

 スサノオは、ここぞとばかり十拳剣(とつかのつるぎ)を振り下ろし襲い掛かった。オロチは酔いながら反撃したが、スサノオは次々と首を刎ねていった。肥の川はオロチの血で紅く染まった。尻尾を切った時、硬いものに当り刃こぼれした。見ると立派な剣が出てきた。これを天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と云う。この剣はその後アマテラスに献上された。後にヤマトタケルが使うことになり、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と云われ、三種の神器の一つとなる。
 出雲の国=現在の島根県に比定されている。肥の川=現在の斐伊川に比定されている。オオヤマツミの神=大山津見神。アシナヅチ=足名椎。テナヅチ=手名椎。クシナダ姫=櫛名田比売、櫛稲田姫。ヤマタノオロチ=八俣の大蛇。クサナギの剣=草薙剣。
(私論.私見)

 「ヤマタノオロチ譚」は、スサノウが渡来してきた事を明らかにしている。且つ、奇しくもクサナギの剣の由来を伝えている。出雲の国(島根県)の肥の川(斐伊川)上流の鳥髪の船通山とは、いわゆる奥出雲のことであり、砂鉄の産地であった。恐らく、オロチ退治はスサノオが同所の製鉄技能を掌握した事を暗喩している。このことは、スサノウが鉄剣その他鉄器の産地を手に入れた事を意味する。スサノウは、先に大ゲツ姫神から生まれた蚕(かいこ)と稲、粟、小豆、麦、大豆の五穀の種を手に入れており、ここに加えて新たに鉄を手に入れたことになる。

【スサノオ王権譚】

 スサノオは、ヤマタノオロチを退治した後クシナダ姫と結ばれ、出雲で生活することになった。やがて須賀の地に御殿を建て暮らし始めた。宮殿を造っているときに、雲が立ち上がったのを見て、スサノオは次のように歌を詠んだ。
 「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣作る その八重垣を」。

 スサノオとクシナダ姫は、古代出雲の地にスサノオ王権を確立していった。スサノオは、クシナダ姫以外にも豪族の娘との間に次々に子供を生み血縁一族を増やしていった。その者達が後の出雲王朝の礎(いしずえ)を創っていった。特に、稲作農耕と鉄器の導入と「八十木種」(やそこだね)を播いて国中に植林し、国土経略事業を押し進めた。やがて、正妻クシナダ姫との息女須世理姫が大国主の命となるオオナムヂと結婚することになる。
(私論.私見)

 スサノウは、「蚕、五穀、鉄」の支配を活用し原出雲に影響力を広げ、スサノウ王権を創始していったものと思われる。

【いなばの白兎譚】
 スサノオ時代に続く神話として「いなばの白兎譚」がある。オオナムヂが初登場する逸話である。
 出雲には八十神(やそがみ)と云われる在来の族長がいた。或る時、その族長達が絶世の美女と名高いイナバの国のヤガミ姫を嫁に貰い受ける旅に出た。後に大国主となるオオナムヂは、荷物係りとして伴をすることになった。オオナムヂは大きな袋を背負わされた為、随分後からついていくことになった。イナバの国の気多岬に着いた時、海岸で毛をむしられ赤裸になって泣いている兎に出くわした。兄弟達は、海水を浴びて風辺りの良い丘で寝ればよいと教え、兎は云われるままにしたところ、傷口がヒリヒリと痛み出し悶絶する破目になった。

 そこに、重い荷物を持ったオオナムヂが通りかかった。訳を尋ねると、兎は次のように語った。私は、向こうのおきの島にに住んでいたが、いつもこちら側に来てみたいと思っていた。ところが海は広過ぎて渡ることが出来ない。一計を案じて、海に住むワニに声をかけ、兎の仲間とワニの仲間の数比べしよう、ついては気多岬まで一列並ぶようにと提案した。騙されたと知らないワニが並び、兎がその上を飛び始めた。あと少しで陸に上がれるとした時に、ついうれしくなって「うまいこと騙されたな」と漏らした。これを聞きつけた一番最後に居たワニが兎を捕まえ、すっかり皮を剥いでしまった。

 陸へ上がって泣いているところを先ほど通られた神様の言いつけ通りにしたところ痛みが余計にひどくなって困っておりますと訴えた。オオナムヂは、それは余計に痛くなる。すぐに真水で体を洗い、ガマの花を摘んで、その上に寝転ぶが良いと教え、手伝った。兎は痛みが取れ、毛が生えてきた。すっかり元通りになった白兎は、「あなたは心が一番やさしい。ヤガミ姫はあなた様を慕うことになるでせう。オオナムヂ様が必ず立派な神様になるでせう」と予言した。

 白兎の予言通り、ヤガミ姫は、「私は、あなた方の求愛の言葉はお受けできません。オオナムヂ様に嫁ぎたいと思います」と述べた。こうして、オオナムヂがヤガミ姫を射止め結婚することになった。オオナムヂは、イナバの白兎を助け、ヤガミ姫と結婚したことで名声を高めた。
 オオナムヂ=大穴持命。イナバ=因幡、稲羽。ヤガミ姫=八上比売。ホウキ=伯耆国(現在の島根県と比定されている)。キサ貝姫=。うむ貝姫=。
(私論.私見)

 「いなばの白兎譚」は、後に出雲王朝を支配することになるオオナムヂの人品骨柄の物語譚であろう。もう一つ、オオナムヂの医師的能力が語られている。同時に、オオナムヂが、おきの島、因幡の国、伯耆の国の支配権を得たという裏意味があると思われる。オオナムヂはスサノオの6世の代の孫とされているが、後のスサノウ王権継承譚を読み取れば子孫と看做すよりは、オオナムヂは在地の神々の子孫のように思われる。

【兄弟達のオオナムヂ迫害譚】

 兄弟たちは嫉妬し、オオナムヂを迫害しイジメた。或る時、ホウキの国の手間の山のふもとで、いつも通りオオナムに命令した。「私たちが山から紅い猪を追い落とす。お前は下で待ちうけ、捕まえなさい」。ところが、実際に落とされたのは、大きな石を火の中で真っ赤に焼いた焼け石だった。これを手を広げて待ち受けたオオナムヂは岩に押し潰され、大火傷をして気を失った。オオナムヂの母サシクニワカ姫がカミムスヒの神に願ったところ、キサ貝姫とウム貝姫が駆けつけてきた。赤貝の化身であるキサ貝姫は、貝殻を削って粉にした。ハマグリの化身であるウム貝姫は、ハマグリを絞った汁で粉に混ぜ合わせ、母乳のようになるまで練り上げた。それを何度も塗ってオオナムヂは奇跡的に回復した。

 その後も意地悪が続いた。或る時、大木を切り裂き、割れ目を楔で留めていた中にオオナムヂが誘い込まれた。入った途端に楔が抜かれ、挟まれたオオナムヂは気を失った。この時も、オオナムヂの母が救い出した。このままでは命が危ないと、大じじに当る縁戚の木の国のオオヤ彦神のところへ避難した。ところが、兄弟の迫害とイジメが更に続き、木の国まで追いかけ引き渡せと脅した。ここも安全でないと悟ったオオヤ彦神は、スサノウのいる根の堅州(かたす)国へ行くよう申し渡した。
 サシクニワカ姫=刺国若比売。キサ貝姫=*貝比売。うむ貝姫=蛤貝比売。木の国=紀の国(現在の和歌山県に比定されている)。オオヤ彦神=大屋昆古神。
(私論.私見)

 「兄弟達のオオナムヂ迫害譚」は、その後の後に出雲王朝を支配することになるオオナムヂの頭角出世が並大抵でなかったことを伝えている。オオナムヂ治療の下りは、原出雲の医療先進国ぶりをも伝えている。

【オオナムヂのスサノオ王権継承譚】

 オオナムヂは、オオヤ彦神の教えに従い、時に木の根を潜り、時に木々の間を走り抜けて、兄弟の監視網から逃れ、ようやくスサノウの居る根の国に辿り着いた。門を叩いた時迎えに出てきたスサノオの娘スセリ姫と目を交わした瞬間恋に落ちた。スセリ姫がスサノオの前に連れて行くと、オオナムヂをじろりと見て葦原シコ男だと評した。その意味するところ、好色男という意味と思われる。スサノオはオオナムヂの器量を見定めようとして次から次へと試練を与えていった。

 その日、スサノオが泊められた部屋にはヘビが一杯いた。オオナムヂは、部屋一杯にうごめくヘビの群れに驚きおののいたが、部屋には外からカギをかけられていた。そこへ、スセリ姫が現れ、窓から霊布を投げ込んだ。その布を拾って、迫りくるヘビ達に布をかざし三回ふると、ヘビがピタリと止まり襲い掛からなくなった。その晩はぐっすり眠った。

 ヘビに噛まれて死んだと思っていたオオナムヂが生きていることに驚いたスサノオは、今度はムカデとハチがいる部屋に連れて行った。スサノオが立ち去った後に、今度もスセリビメがやってきて霊布を渡してくれた。今度も無事朝を迎えることが出来た。またしても元気な姿を見せるオオナムヂに対して、部屋に閉じ込めるのでは殺害できないと思ったスサノオは、今度は外に連れ出した。「今からワシが撃つナリカブラ(鳴鏑)を拾って来い!」と命じられたオオナムヂがナリカブラを探している間に、スサノオが平野一面に火をはなった。オオナムヂが気づいた時には辺り一面火の海になっていた。その時、ネズミがやってきて、「内はホラホラ、外はスブスブ」と告げて居なくなった。オオナムヂがネズミの逃げた方を追いかけると穴に落ちた。オオナムヂが穴の中に入った瞬間に頭上に火が襲いかかった。草原の火が過ぎ去ったのを見て地上に上がろうとした時、ネズミがスサノオの放ったナリカブラを持ってきた。今度こそオオナムヂが死んでしまったと思ったスセリビナは、葬式の道具を持って平野で泣いていた。そこへ、オオナムヂがナリカブラを持ってやってきた。

 スサノオは今度は広くて大きな部屋に連れて行き、わしの頭のシラミを取れと命じた。スサノオの頭には髪の毛に多くのムカデが絡み付いていた。困惑するオオナムヂに、スセリビナがムクの木の実とハニ(赤土)を手渡し、ムクの実を噛み砕いて、ハニを口に含んで吐き出してくださいと伝えた。オオナムヂが言われた通りにすると、頭にいるムカデを噛み砕いて吐き出していると勘違いしたスサノオは得心してそのまま眠ってしまった。

 オオナムヂは、眠ったスサノオの髪の毛をとって、その部屋の垂木に結びつけた。部屋の戸口を大岩で塞いだ後、スセリ姫に一緒に逃げようと誘った。二人は、スサノオの宝物である生太刀(いくたち)、生弓矢(いくゆみや)、天の詔琴(あまののりごと)の宝物を持って、オオナムヂがスセリ姫を背負って逃げた。その時、天の詔琴が木に触れて音を鳴らし、大地を揺るがす大音響にはっと目を覚ましたスサノオが気づいて追った。スサノオがヨモツヒラサカ(黄泉比良坂)にたどり着いたときには、オオナムヂは既にはるかかなたに逃げおおせていた。

 追いつけないと悟ったスサノオは、オオナムヂに大声で伝えた。「お前が持っていった生太刀、生弓矢でお前の腹違いの兄弟を坂のすそに追い伏せ、また川の瀬に追い払え! そして、お前が大国主の神(大国主神)となって、わしの娘のスセリビメを正妻として、宇迦(うか)の山のふもとに社を建て、千木の屋根を天まで届かせろ」。それは、スサノウがオオナムヂを認めたことを意味していた。

 スセリ姫=須勢理昆賣。葦原シコ男=葦原色許男。
(私論.私見)

 「オオナムヂのスサノオ王権継承譚」は、オオナムヂがスサノオの繰り出す数々の試練を乗り越え、愛娘スセリ姫と王権神器を手に入れたことを物語っている。こうしてオオナムヂがスサノオ王権を継承し、出雲王朝を創始していくことになったことを伝えている。

【オオナムヂの出雲王朝創始譚】

 スサノオの課した試練を次々に克服して、スサノオの娘のスセリ姫と結ばれたオオナムヂがスサノオ王権を継承し、スサノオの指示通りにスサノオの太刀と弓矢で兄弟神を坂のすそに追い伏せ、川の瀬に追い払い、兄弟神を平伏させた。兄弟神は家来となり、ここに出雲王朝が創始された。オオナムヂはスセリ姫を出雲の国に連れてきた。先妻のヤガミ姫はスセリ姫を恐れて、生まれて間もない子供を木の股に差し挟んで因幡に帰ってしまった。この子の名をキノマタの神と呼び、またの名をミヰの神ともいう。

 オオナムヂは色々な名前を持った。次の通りである。それらは、オオナムヂのそれぞれの面を語っている。
オオナムヂ 大己貴神、大穴牟遅神  大国主神の若い頃の名前。言い替えれば本名。
葦原シコヲ神 葦原醜男、葦原色許男神  スサノウが命名した名前。シコヲは、醜男とも色男とも強い男とも解される。
八千矛神 八千矛神  武神としての性格を持つ名前。
ウツクシ国玉神 宇都志国玉神、顕国玉神  国を作った神としての尊称。
大国玉神 大国玉神
オオクニ主の命 大国主神  国を作った神としての尊称。
大物主神 大物主神

 カンムスビ神の御子スクナヒコナの神が、波の上を蔓芋のさやを割って船にして蛾(みそさざい)の皮を剥いで着物にして御大(みほ)の御埼に現れた。クエ彦に確かめさせたところ、「カンムスビ神の子で、カンムスビ神の手の股からこぼれ落ちた子供である」と素性を証し、「葦原色許男の命と兄弟となってこの国を作り堅めなさいと仰せられやって来た」と伝えた。以来、オオナムヂは、カンムスビ神の御子スクナヒコナの神と共に国造りに励み、内治を良くした。スクナヒコナの神は医薬・禁厭などの法を創めたと云われている。

 オオナムヂは、武威をもちらつかせて全国平定に繰り出した。手始めに伯耆・因幡の国を征服して古代出雲を足固めし、続いて但馬、丹波、更に兵を進め播磨で韓の王子アメノヒヤリと戦って勝ち、若狭、能登、越中、越前、越後の越の国、信濃、大和、紀伊まで勢力下に収めた。各地の豪族を平定し、まさに「天の下造(つく)らしし大神」と崇め奉られる大国の主となり、大国主と称されることになった。これを仮に出雲王朝と云う。

 或る時、オオナムヂはスクナヒコナの神と次のような遣り取りをしている。
オオナムヂ  「われわれが造れる国は理想通りに完成しているだろうか」。
スクナヒコナの神  「美事に完成したところもあるが、またそうでないところもある」

 或る日、スクナヒコナの神は、淡路島でアワの茎に乗って遊んでいたところ、茎のしなりにはじかれ常世国に飛んでいってしまった。スクナヒコナの神が居なくなると、大トシの神(大物主の神)が現われ、これを祀り国を広げていった。オオナムヂは、出雲思想の伝統的御魂の理に従い祭祀を司った。「出雲の御魂の理」とは次のようなものである。
和魂  にぎたま、にきみたま  柔和・情熱などの徳を備えた神霊または霊魂。恵み、神の加護。
幸魂  さきたま、さきみたま  人に幸を与える神の霊魂。運による幸。収穫をもたらす。豊と表す。 
奇魂  くしみたま  不思議な力を持つ神霊。奇跡による幸。櫛と表す。
荒魂  あらたま、あらみたま)    荒く猛き神霊。神の祟。

 出雲王朝は、「鉄と稲」による農耕革命を推進し国土改造計画に着手していった。これにより、縄文時代的採集経済から弥生式農耕経済へと転換し、葦原の中つ国を豊葦原の瑞穂国へと発展させていった。
 キノマタの神=木俣神。ミヰの神=御井神。カンムスビ神=神産巣日神。スクナヒコナの神=少名毘古那神、小名彦神。大トシの神=。アメノヒヤリ=天之日槍。越の国=現在の北陸地方に比定されている。信濃=現在の長野に比定されている。葦原シコヲ神=葦原色許男神。ウツクシ国玉神=。タキリ姫=。
(私論.私見)

 「オオナムヂの出雲王朝創始譚」は、出雲王朝の創始過程を説き聞かせている。これより以降、オオナムヂを大国主と記すことにする。

【オオナムヂの艶福家ぶり、政略結婚ぶり譚】

 大国主はその後艶福家ぶりを発揮する。出雲の郡宇賀の郷でアヤト姫に求婚し、神門の郡の朝山の郷でマタマツクタマノムラ姫の命の元に朝ごとに通ったといい、八野(やの)の郷ではヤヌノワカ姫の命を娶えんがために屋を建てている。タキリ姫を娶り、アヂシキタカヒコネの命と下照姫の二人の子を授かった。カムヤタテ姫を娶り、事代主の命を授かった。こうして、オオナムヂは次々と政略結婚し、子供を生んでいった。

 旧事本紀は次のように記している(「大国主の命」)。
 先娶 坐宗像奥都嶋神田心姫命、生一男一女
 兒味鋤高彦根神 坐倭国葛上郡高鴨社 云捨篠社
 妹下照姫命 坐倭国葛上郡雲櫛社

 次娶 坐邊都宮高降姫神、生一男一女
 兒都味齒八重事代主神 坐倭国高市郡高市社 亦云甘奈備飛鳥社
 妹高照姫大神 坐倭国葛上郡御歳神社

 次娶 坐稲羽八上姫 生一兒
 兒御井神 亦云木俣神

 次娶 高志沼河姫 生一男
 兒建御名方神 坐信濃国諏方郡諏方神社

 大国主と高志(越)の国のヌナカワ姫との交情風景は麗しい。或る時、オオナムヂは越の国に行き、ヌナカワ姫に屋外から次のように求愛する。「太刀の紐も付けたまま、被衣も付けたまま、乙女の眠る寝室の前で、私は板戸を押し、引き揺すって立っている。そのうち緑濃い山では鵺(ぬえ)が鳴いてしまった。雉も鳴きさわぎ、鶏も夜明けを告げて鳴いている。あぁいまいましいことよ」と歌った。ヌナカワ姫は、戸を開けず、中から歌って聞かせた。「私など、なよなよした草のような弱い女。浜辺の千鳥のようなもので、今は我がまま鳥でいるものの、やがてあなたに抱かれる鳥になるのですから、お焦りなされるな」。続けて、「青山に日が隠れ、暗闇になったらおいでください。朝日のような笑顔で、真っ白に輝く腕で、雪のようなこの白い胸をじかに抱きしめ、なでさすり、抱き交わし、私の玉のような手を枕に差し、足を並べて尽きぬ共寝を致しませう。だから、余り恋焦がれなさりませぬよう」。こうしてヌナガワ姫を娶してミホススミの命を生み、ミホススミの命は美保の郷に住むことになった。タケミナカタもこの姫から生まれた。 

 大国主が、大和の国に向うべく旅支度していた時、本妻スセリ姫は次のように詠っている。
 「汝こそは男に坐(いま)せば、打ち廻る島の崎々、かき廻る磯の埼落ちず、若草の妻持たらせらめ、吾はもよ、女にしあれば、汝を除て男は無し、汝を除て夫(つま)は無し」。
 (あなたは男なので、お廻りになられる島の崎々、磯の崎々で若い妻を娶るのでせうが、私は女ですから、あなたの他に愛する者は居りません。)
 マタマツクタマノムラ姫の命=。ヤヌノワカ姫の命=。アヂシキタカヒコネ=阿遅志貴高日子根の命。カムヤタテ姫=神屋楯姫。タケミナカタ=多建御名方。
(私論.私見)

 神話に於ける結婚とは、豪族間の同盟を物語っているものと思われる。

【出雲王朝の政体の特質譚】

 「毎年十月には、全国の八百万(やおよろず)の神が出雲に集まり、その間各地の神は不在となる。他国の神無月、出雲のは神在月と云う。出雲は、全国の神が出雲に集まり神謀(はか)る地」と言い伝えられているほどに、出雲は日本古代史の母なる原郷となった。恐らく、高天原王朝の支配被支配の統一国家と違い、それぞれの部族の祭政一致政治を踏まえた緩やかな自由連合国家として、寄り合い評定式の合議制による集団指導体制を敷いていたものと推測される。

 その出雲王朝は、高天原王朝の如くな支配権力を振るうよりは、徳政的な政治を特質とする共同文化圏的な盟主的地位を保持していたものと思われる。古事記、日本書紀では「根の国」とも記すが、謂れを知るべきだろう。出雲王朝政治は祭政一致であり、今日に於いては古神道と云われるものである。これについては、「日本神道の発生史及び教理について」、「日本神道の歴史について」で考察する。
(私論.私見)

 「出雲王朝の政体の特質譚」は、出雲王朝が、葦原の中つ国の国津神の同盟の芯の位置に居た事を物語っている。

【出雲王朝墳墓の特質譚】
 出雲では弥生時代中期末から後期にかけて、四辺形の墳丘墓と四方に設けられた参道から成る四隅突出型の独自の方形墳丘墓が築営されている。この出雲系方墳と天孫系円墳が結合されて我が国独特の前方後円墳となる。

【小泉八雲の出雲観】
 世界の文豪にして日本古代史に魅せられたラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn、1850.6.27ー1904.9.26)の履歴は次の通り。英国人を父、ギリシャ人を母とし、ギリシャで生まれた。1890(明治)年、来日し、島根県松江尋常中学校と松江師範学校の英語教師に命じられ、8.30日に松江到着。同年9.14日、出雲大社に参拝。1891年、松江藩の士族小泉湊の娘・小泉節子と結婚する。1896年、東京帝国大学文科の英文学講師に就任。帰化し、スサノウの命の詠んだ「八雲立つ出雲八重垣」にちなんで「小泉八雲」と名乗る。1903年、東京帝国大学退職(後任は夏目漱石)。1904.3月、早稲田大学の講師を勤め、9.26日に狭心症により東京の自宅で亡くなった(享年54歳)。

 その小泉八雲は、出雲王朝に対して次のように述べている。
 概要「神国と云うのは日本の尊称である。出雲はわけても最も神聖な神々の故郷の国であり、民族の揺りかごの地である」。

【荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡、妻木晩田遺跡の衝撃】
 「出雲の神奈備山(かんなびやま)」は、朝日山(松江市と鹿島町の境に位置する)、仏経山(出雲群斐川町)、大船山(平田市)、茶臼山(松江市)の4山有る。この「神奈備山」周辺から銅剣、銅鐸が出現することになった。

 1973(昭和48)年、出雲神奈備山の一つ朝日山の山麓で、農作業中に偶然、銅鐸2個と銅剣6本が出土した。これにより、古代出雲の神奈備山調査が行われることになった。


 1983(昭和58)年、島根県と斐川町の教育委員会が、古代出雲の神奈備山の一つである仏経山のそばの農道建設予定地の遺跡分布調査を行った。斐川町の谷の最奥部の小谷で須恵器の破片が採集された。これを「荒神谷遺跡」(島根県簸川郡斐川町神庭)と名付け、再調査することになった。

 1984(昭和59).7.11日、荒神谷遺跡を再調査したところ、7.12日、重なり合った状態で銅剣が5本発見された。その後、日増しに増え、遂に全国でそれまで出土していた銅剣の数を上回る大量の358本の銅剣が発見された。中細型銅剣と呼ばれる比較的古い型のもので、作成年代は2世紀半ばと推定されている。

 358本の銅剣は、四列の箱に納められていた。発掘担当者は4列をA、B、C、Dに分け解析した。A列は34本で、剣先を東と西に向けたものを交互に置いていた。B列は111本で、4本だけが剣先を西に向け、それ以外は剣先を東と西に向けたものを交互に置いていた。C列は120本で剣先は全て東に向けられていた。D列は93本で、剣先は全て東に向けられていた。何らかの意味が込められていることが間違いない。

 翌1985(昭和60)年、第2回目の荒神谷遺跡調査で、銅鐸6個と銅矛16本が出土した。ここに、「古事記」、「日本書紀」が言及していた出雲史が裏付けられたことになった。さらに、これまでの学説では異なる文化圏として区別されていた「銅矛文化圏」と「銅鐸文化圏」の、まさしくその円陣が重なる部分として、ここ出雲から銅矛と中型銅鐸が6個並んで出土した。

 1996(平成8年)、加茂岩倉遺跡から実に39個の銅鐸が一挙に出土した。トンボ、シカなどの絵画に加え出雲独特の文様も持ったこれらの銅鐸は、人が殆ど通らないような谷間の斜面に意図的に埋められていた。同年、正蓮寺周辺の遺跡から、直径が800mにも及ぶ環濠跡も発見されている。

 1992(平成4)年から1998年(平成10)年にかけて発掘調査された鳥取県の「妻木晩田遺跡」は、その周 辺遺跡の調査発掘の結果とともに、従来の日本海沿岸地方に対する考古学的所見をことごとく塗り替えた。




(私論.私見)