| 449―126 | 戦後在日の帰国運動 |

| 1959.12.14日に始まった「在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業」には多くの疑惑があるように思われる。通常「裏切られた史観」で論ぜられているが、れんだいこは少し違うのではないかと見る。これは、日本政府当局者の「在日朝鮮人の所払い」政策と北朝鮮の「労働力確保」政策がジョイントして進められたものであり、ここに何らかの暗黙の協定があった可能性がある。かくて、「在日朝鮮人の北朝鮮帰国者」は、関東軍のシベリア抑留同様にこの「歴史の非情さ」に翻弄されたのでは無かろうか。ということは、今日の我々が為さねば為らぬこととして、これを強く推し進めた主体の善意に関わらずその裏にあったものを炙り出さねばならないのではなかろうか。 れんだいこ史観から見えてくることは、ここでも宮顕が暗躍していると思えることである。丁度この時期、それまでの徳球時代が維持していた日朝共産党員の共闘関係が切断され、朝鮮人党員が党籍剥奪措置されている。それは日本当局者の意思であった筈であり、帰国事業の促進もかねてよりの狙いであった。その両方を裏から画策していた様子が見えて来る。 こういう観点から以下考察することにする。主なる資料として「梁山泊掲示板管理人・金国雄氏の考察」その他を参照させてもらった。 |
| 【帰国事業推進の政治的流れ】 |
| 1958(昭和33).9.8日、金日成は、北朝鮮創建10周年記念慶祝大会で、在日朝鮮人の帰国を求め次のように声明した。「無権利と民族的差別と生活難にあえぐ在日同胞は、最近朝鮮民主主義人民共和国に帰国する希望を表明してきました。朝鮮人民は、日本で生きる道を失い、祖国のふところに帰ろうとするかれらの念願を熱烈に歓迎します。共和国政府は、在日同胞が祖国に帰り、新しい生活をいとなめるようすべての条件を保障するでありましょう。われわれはこれを民族的義務と考えています」。この演説が在日朝鮮人の帰国運動を強力に展開する決定的な契機となった。 北朝鮮政府は1958.9.16日付、南日外務相声明で、帰国者をいつでも受入れ帰国後の生活をすべて責任をもって保障するという立場を再び表明し、10月16日には、帰国に要する旅費と船舶を祖国がすべて負担し、輸送の準備と帰国者の安定した生活と職業を保障すると表明するなど、帰国実現のための措置を次々にとった。 1958(昭和33)年の日朝協会第4回大会で、「北朝鮮共和国を積極的に支持し、このため日韓会談に反対し、在日朝鮮人集団帰国を強力に推進し、岸内閣の朝鮮政策を改めさせ、李承晩と対決する方向に運動を指向する」という北朝鮮一辺倒の政策を打出して、北朝鮮政府の意向に沿った政治色を強めている。この時、在日朝鮮人の集団北朝鮮帰国方針を強力に打出し、その実現成功の功が認められ畑中理事長は、同年7月北朝鮮最高人民会議幹部会から第二級国旗勲章を授けられている。 つまり、1958(昭和33)年頃から、在日朝鮮人の間に共和国への帰国運動が台頭し、さらに日本の民間人の間にもこれを積極的に推進する「在日朝鮮人帰還協力会」が結成された。 11月17日 在日朝鮮人帰国協力会、日本自由民主党衆議院議員岩本信行らを中心に結成される。 12月25日 朝鮮金剛協同貿易商社、日本貿易3団体に対して、直接貿易の取引提案を打電。 1959.2.3日 共和国朝鮮国際貿易促進委員会、日朝貿易会等3団体に対し、朝鮮金剛協同貿易商社の提案は、両国民間人の合意による貿易として支持する旨の打電。 このような動きを受けて1959(昭和34).2.13日、日本政府はこの日の閣議決定で「在日朝鮮人中北朝鮮帰還希望者の取扱いに関する閣議了解」を為し、在日朝鮮人の北朝鮮帰国を認め、日本赤十字社が赤十字国際委員会の協力を得て行なうこととした。「基本的人権に基づく居住地選択の自由という国際通念に基づいて処理する」こととし、「帰還希望者の意思確認と帰還意思が真意であると認められた者の帰還の実現に必要な仲介とを、赤十字国際委員会に依頼する」とした。赤十字社の協定によったのは、日朝間に国交がなかったためである。 3月3日 新潟県帰国協力会が結成さる。 5月9日 共和国と直接貿易実現の為、日本貿易3団体関係者ら全国大会を東京で開く 6月13日 日朝協会全国理事会、在日朝鮮公民の帰国希望者に帰国の実現支持を決議する 6月24日 総聯、日朝協会、帰国協力会等3団体で、帰国業務連絡会議を結成する 閣議決定を受け同年4月から日本赤十字社がジュネーブで北朝鮮赤十字と交渉を行い、その結果、8月13日にカルカッタで両赤十字社の間に「在日朝鮮人の北朝鮮帰還に関する協定」(以下、「カルカッタ協定」と記す)が署名された。乗船までの費用を日本政府が負担し、帰国船の配船と帰国後の生活を北朝鮮政府が保障すると取り決められた。これを受けて日本赤十字社は、昭和34年9月11日、我が国政府に対し帰還業務実施について、正式に業務委託の通知を行うよう要精し、政府は同月29日付で日本赤十字社宛「在日朝鮮人帰還業務実施について」(厚生省発援第75号)と題する文書をもって、帰還業務実施を同社に委託する旨通知した。 以上の経過を経て、同年12.14日以降、在日朝鮮人で北朝鮮へ帰国することを希望する第一次帰還者の北朝鮮帰国が実施され、新潟港から帰国専用船で北朝鮮へ向かった。以降も同様に順次帰還して行った。 日本人側で帰国事業に積極的に協力したのは在日朝鮮人帰国協力会(会長=鳩山一郎、幹事長=帆足計、幹事=政党・労組代表・文化人ら17名、各県に支部)であり、自民党も社会党も共産党も、要するにあらゆる政党がこれを支持し、推進する立場にたった。窓口になったのは日本赤十字社であり、すべては「人道上の問題」として推進されていくことになった。 |
| 【帰国事業始まる、その時の宣伝】 |
| 北朝鮮への帰国は、日赤の帰国事業団の仕事として1959(昭和34)年より1971(昭和46)年まで161回、1981年まで187回、約9万3340人(日本人妻6800人を含む)、四半世紀続いた「帰国事業」となった。現在も年一回であるが少数の帰国があると言う。帰国者は、新潟の収容所(昔の陸軍新潟連隊の兵舎)(日本赤十字新潟センター)へ集められ、1週間近い収容所生活を経て新潟港より北朝鮮の清津(チョンジン)へ出港していった。 9万人余りの在日朝鮮人が、日本から朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)へ渡った。 1960(昭和35)年、朝鮮総連(議長・韓徳銖)が全国の津々浦々で帰国協力運動を巻き起こす。この年は歴史的な安保闘争が闘い抜かれ、韓国においても李承晩政権が打倒されるなど激動の年でもあった。 朝鮮総連は、北朝鮮が今いかに大躍進を遂げ発展し続けているかを語り、千里馬(チョンリマ・一日に千里を駆け抜ける駿)の如きスピードで躍進する祖国の発展ぶりを伝えつづけた。北朝鮮を「躍進を続ける祖国」、「教育も医療も無料の社会主義祖国」、「地上の楽園」、「衣食住に何の不自由もない」、「祖国には失業者がいない」、「祖国には貧富の差がない」、「祖国の学校、教育制度、国家制度は、国民一人一人のため最大の配慮を目的としており、全ての点で何の心配もない地上の楽園である」、「金日成大学にもモスクワ大学にも留学できる」、と宣伝し、マスコミに対しても「帰国者の自由往来の実現と、北朝鮮に対するマスコミの公正で人権意識に基づく報道を求め」、各マスコミ、政治家、文化人の多くがこれを受けて、「人道問題」という美名のもとこの運動を支持していった。しかし、その先には「凍土の収容所共和国」が待ち受けていたことまでは知らされていない。 今日、「そこは地獄であった。劣悪な食事と住居、過酷な労働現場、青少年たちの勉学の夢を絶つなど悲惨な現実が待っていた。『約束が違う』、『だまされた』、『日本に帰してくれ』などと訴えた帰国者には韓国のスパイ、日本公安の手先の汚名が着せられ、強制収容所送りや見せしめの銃殺などきびしい制裁が加えられた」(「2001.6.4日付け北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会声明」)ことが命がけで生還した帰国者の口から明らかにされている。 |
| 【日本人妻問題】 |
| 「祖国帰国事業」の帰国者中、日本人妻が1831人いました。1997年8月の日朝交渉予備会談で、『故郷訪問』が合意されました。しかし、1997年、98年、2000年の3回で、合計43人が『訪問』できただけで、北朝鮮は、その後、合意事項を履行していません(『小辞典』No.0979)。残り1788人÷1831人×100=約98%は、帰国ピークの1960・61年以後、40年間にわたって、日本訪問を事実上“禁止=出国不可能”状態に置かれています。 北朝鮮へ帰国した日本人妻の問題で早くから活動してきた団体は、よく知られているように「日本人妻自由往来実現運動本部」(のちの「〜実現運動の会」)である。池田文子(本名=江利川安栄)を代表とするこの団体は1974年4月に結成され、日本人妻からの手紙を機関誌『望郷』のほか、『鳥でないのが残念です』(1974年)や『日本人妻を返して!』(1979年)として出版し、また映画『鳥よ翼をかして』(1985年)を製作するなど、この問題に対する世論形成に大きく関わってきた。帰国事業が始まった1959年当時、日本人妻の問題はどのように認識されていたのであろうか。 ましてや日本人妻(ないし夫)の場合、配偶者が選んだ国に一緒についていくといっても、自分にはまったくの未知の国であり、言葉や風俗習慣や生活レベルの問題など、愛情だけでは解決できない数多くの不安を抱えながらの出発であった。 その夫婦間の葛藤は、帰国事業を扱った当時の映画にも如実に描かれている。私たちの会で一昨年10月に上映した『キューポラのある街』(1962年)では、菅井きん演じる日本人の妻は同行を望まず、結局父親と子供たちだけが帰国するという展開になっている。 このように、日本人妻の問題は、決して最近起きたものでも、帰国事業から15年を経て初めて発生したものでもなく、帰国事業の開始当初から存在した問題であった。 在日朝鮮人帰国者の場合と同様、こうした日本社会の朝鮮人差別の問題と、北朝鮮という国家の人権問題の2つの側面から、日本人妻(ないし夫・子供)の問題を考えていきたいと思っている。 三年後には里帰りできるという約束を信じた日本人妻は、ほんの一握りの宣伝用の里帰り以外はただの一人も日本の土を踏めないまま年老いていき、多くの人がすでに亡くなっている。 |
| 【帰国事業がどのように推進されたのか】 |
| 在日本朝鮮人総聯合会(以下「朝鮮総聨」と略す)が「(朝鮮民主主義人民共和国は)教育も医療も無料の社会主義祖国」「地上の楽園」という猛烈なキャンペ−ンを繰り広げ、在日朝鮮人を「帰国」へと組織した。 「祖国を知る集い」が組織され、集団帰国決議へと発展し、「その決意を込めた金日成に宛てた手紙」が書かれ、帰国運動を盛り上げていった。 帰還協定は、何度も継続され、67年までの間に約89,000人が帰国した(その内約6,600人の日本国籍者が含まれる。その多くは日朝二重国籍者であるが、日本単独国籍の日本妻が約1,600人余がいた)。「祖国への帰国」とは言うものの、実質は、社会主義国・新天地への「移住」であった。 この集団帰国の背景には、50年代の貧困と差別、偏見にあえぐ在日朝鮮人社会の閉塞状況があり、北朝鮮政府の労働力補充政策が作用した。帰国者には、日本での絶対的困窮と侮辱的な民族差別から脱出したいという消極的な選択とともに、民族的愛国心から北朝鮮の国家建設に参加したいという積極的な意志もあった。そのうえ、社会主義への幻想に惑い、被告による「地上の楽園」宣伝に踊らされて、最初の2年間に約75,000人が殺到するというブ−ムが起きた。 |
| 【マスコミの報道はどのように為されたのか】 |
| 1959.2.13日、日本政府が送還を決めると、韓国は、帰還は主権侵害と反発し、帰還船の安全を保証せず、李承晩ライン強化を示唆した。新聞は14日付け社説で一斉に政府決定を支持し、韓国の態度を批判した。毎日新聞は、「人道的見地から、居住地の自由選択という国際的原則に則ったもので、韓国が妨害の挙に出れば、正統政府の威信をさらに傷つける」とし、朝日新聞は、「懸案を解決するための当然の措置といってよいが、韓国の強硬な反対は、人道問題として遺憾とせざるを得ない」と論じた。読売新聞は、「在日朝鮮人の3分の2が韓国籍を取得しようとしない。帰還させたとしても韓国の面目が傷つけられる訳ではない」、産経新聞も「人道と正義の要請する責任の立場から送還に至ったことは誠に止むを得ない。(韓国の姿勢は)許すべからざる暴挙」と論じた。 第一陣の帰還時の報道は、「埠頭は興奮と感激のルツボだった。祖国への新しい希望に胸ふくらませて、一路清津港へと向かった」(毎日新聞夕刊)、「『夢のような正月』という見出しで、ごちそうは食べ放題、飲み放題で、賑やかな歓声がホテルにあふれていた」(読売新聞翌日の報)と書き付けている。 |
| 【帰国者がそこに見たものは】 |
| 帰国者を待ち受けていたのは「楽園」ではなく、「牢獄」にも似た現実であった。実際は衣食住全てに貧しく、著しく不足していた。労働者や農民は長時間の重労働を強いられ、病人であろうと高齢者であろうと労働のない者に食糧支給はなく、人々はただ命をつなぐわずかな食糧を得るためだけに働く囚人ないし奴隷生活の実態を知った。 精神論だけが生産の要素であり一般労働者に勤労意欲は全くなく、逮捕や収容所送りあるいは処刑を怖れて保身と密告に怯える生活であること、 帰国者の多くは、思想、言動、生活すべてが統制される北朝鮮の独裁体制社会に適応することが難しく、共和国社会の生活水準の低さに幻滅した。さらに、日本からの帰国者は資本主義社会の自由思想に染まっており、日本や韓国と人脈がつながっている潜在的スパイ分子とみなされ、体制的不純者として要監視対象とされた。 帰国者は更に厳しい監視・統制・分断下におかれ言動も統制された。党及び隣人や職場の仲間による厳しい監視の下、生涯を党の命令通りに休みもなく労働するだけの奴隷生活を強制されることになった。恋愛や結婚にまで党の管理が及んだ。 北朝鮮政府は、帰国者を「人質」「金づる」として利用し、日本にいる親族に対し、金銭や物資の献納を強いている。また、北朝鮮当局は、帰国者の日本への自由往来を認めていないので、新たな離散家族状況が生まれた。被告は北朝鮮政府が帰国者約9万人を人質に取ることを容認・加担し、北朝鮮政府のいいなりになったものである。 北朝鮮の人民大衆の生活実態は次のようなものであった。@・糧票による食糧配給制度。一般労働者は、自分と家族の一日分の食糧配給券(糧票)は出勤と引き替えであった。欠勤すれば一日家族が餓え、勝手な職場離脱は餓死を意味する。北朝鮮は労働可能な最低ラインの食糧(主食)を配給することで、労働者を職場に縛り付け、食べるためだけに働かせ、労働者の一切の余分な欲求を抑えることができた。北朝鮮では一家の主たる労働者で一日700グラム(子供は400グラム、扶養家族の老人が300グラム等)とその量が決められており、これを超える食糧は得られない。また、主食は雑穀(主にトウモロコシ)が9、米が1の割合で混ざったものであった。 幹部は「共和国では毎年人口の3倍の人が食べられる食糧を生産していて、今ではアルジェリアの人民にまで食糧を援助している」「資本主義国である日本では、資本家の搾取によって労働者は一日一食の飯も当たり前に食べられない」と宣伝していたが、実態は日本では家畜の餌であるトウモロコシが主食である上、これすら満足に食べられない食糧事情であった。 帰国者の売り食い(日用品を売って食糧に変える)の実態は、農村に限った物ではなく、原告を含め一般労働者も全く同じである。売り食いのできない北朝鮮国民の貧困たるや、想像を絶するものがあり、物品を持たない帰国者も同じだった。帰国者の物品に対する北朝鮮国民の羨望と妬みは、物品補給が途絶えた後の帰国者に対する差別と抑圧の元ともなった。 A・労働党員(帰国者らは党員を「アパッチ」と蔑称をつけた)による監視。労働党員はいつ、いかなる場所でも非労働党員を検問できる権利を持つ。61〜2年当時は、未だ帰国船による帰国者への物資の補給が多く、党員はこれによる恩恵を受けていたため、帰国者の動向に対する監視は強かったが、帰国者にはある程度の旅行の自由があるなどの特権もあり、帰国者に対する制裁にもいくらかの目こぼしがあった。しかし、「出身成分」で「動揺分子」に分類されている帰国者に対する党員の監視は一時も止まず、労働党員が統制する秩序に少しでも乱れを生じさせると判断されれば、直ちに内務署への連行あるいは署員へ密告され、収容所送りが待っていた。監視は党員のみならず、非党員によっても行われ、労働者同士の密告も多々あった。 B・結婚制限。結婚は党の会議にかけられ、工場での勤務評定や政治学習の成績が考慮される。結婚の条件が出され、つまり結婚にまで党が介入し労働の手段に利用する。 C。教育制度。北朝鮮では、子供が生まれたらすぐ託児所(子供40人に保母2人程度)に入れて組織的生活を始める。これは育児時間より労働時間重視の政策による。幼稚園では、自分を育ててくれたのは父母ではなく首領である金日成であると教え、人民学校(小学校)と中学校では少年団の組織に入り団体生活と組織生活の教育訓練を本格的に実施し、技術学校又は高等学校進学後は民主青年同盟に加盟して政治的実戦訓練を行う。エリートコースを勝ち抜いた者は大学進学が許され、社会教育と組織生活の成績で、北朝鮮での最高の勲章であり栄誉である労働党員として世間に出られるか否かが決まる。 託児所は、59年から一週間託児制度(月曜の朝に子供を預け日曜に連れて帰る)を採用する工場が増えていた。北朝鮮では共働きを奨励するが、夫の収入だけでは生活(「食べる」だけの最低の生活)できず、妻も働かざるを得ないのが実態である。又は、妻が党員といういわば特権階級でも、夜昼なく党の命によって働くことになるので、子供は1週間預けっ放しが便利なのである。子供は党によって育てられたと教えられるため、親子の情愛より党への忠誠が優先し、親子間でも密告は絶えない。 D・医療制度。北朝鮮では医療費は原則無料であり、被告幹部はさかんにこれを宣伝していたが、無料で受ける医療措置はお粗末極まるものであった。国立病院と言っても5名程度の入院設備があるだけのしろものでしかなかった。 61年当時は診断書が出れば仕事を休んでいる間給料の70%が支給され、食糧の配給もあったため(診断書のない病欠は食糧配給がない)、病院にはいつも長い行列ができて診断書を何とか入手し一日でも仕事を休みたいという栄養失調の労働者で一杯であった。しかし、70年以降には酒や煙草、漢方薬と引き替えでなければ診療を受けられず、貧乏人に医療は無きに等しい。 E・一般労働者と労働党員の差。最低限度の食糧であるため、一般人民の貧困さは深刻であり、副食費で月給の3分の2を費消する生活苦であった。(なお、65年以降は経済情勢の悪化等により、左記生活レベルすら望めず、餓死と隣り合わせの生活となっていった。)これに対し工場の支配人、技師長(いずれも労働党員)などは一般労働者の3倍の給料を得、かつ様々な生活品を配給される。これを中央供給対象者と言い、1級から4級までの等級がある。中央供給対象者は労働党員であり、帰国者は党員になれない。これらの中央供給対象者のことを原告ら帰国者は「共産主義貴族」と呼んだ。(但し80年代に入り、北朝鮮の政治経済情勢の極端な悪化と身を守る事だけに腐心し労働意欲をなくした人民の閉塞状況を打開する目的で、北朝鮮は87年に「門戸開放」政策を打ち出し、強制追放者である政治的不純分子の中で核心的な位置にある者を入党させる措置をとった。これにより、帰国者も党員になれ代議員になった者もいたが、捜査機関による監視の目は党員になっても全く変わらず、近隣の家々によって常時監視されていた。また、代議員になっても手当はない。)。 F・労働者の職能別階級(給料体系)は3級から8級であり、新入工員は3級から始まる。帰国者は特別な優遇処置として4級から始まったが、一時的な見せかけであり、素行や業績が悪ければ即降格(減給)された。降格処分を受けることもある。 62年7月から8月15日までの45日間は「朝鮮民族解放記念戦闘」という千里馬運動、9月1日から37日間は第3期「最高人民会議代議員選挙記念増産期間」として、毎日12時間労働を休憩、休日なしで強制された。このような休日なしの延長労働は、あらゆる口実の下で全国的に設定され強制された。 G・北朝鮮の祝祭日は、元日と金日成の誕生日と8月15日の解放記念日の3日だけである。また、千里馬運動中は日曜もなく、通常の日曜も月に3回は労力動員と称する労働に回され、原告も山で防空壕を掘らされた。雄基では全市民を動員して山という山に防空壕を掘っていた。無論土曜の半日休みなどあるはずもなく、時間外労働手当も代休も一切ない。 H・軍事訓練。労働の外に、毎月2、3回夜7時から2時間、夕食を食べずに軍事訓練(ソ連製短機関銃と北朝鮮製の歩兵銃で武装、足りなければ竹槍を持つ)があった。これが労農赤衛隊の訓練である。 I・各種会議。出勤は朝7時で、すぐに工場の党委員長による1日の生産計画と責任量の超過達成の訓辞が1時間(これを会議と言う)、昼食時には政治読報会という会議、作業後午後6時から8時までは職場の会議があった。土曜日には1週間の総括があり、成績が悪ければ夜11時までも居残り仕事をさせられる。週毎に職場別事業総括の会、月末と分期末に総括会議、その他不定期に開催される民主選挙宣伝、70日間戦闘の政治的意義についての講習会等のほか、各団体別(労働党や民主青年同盟、職業同盟や女性同盟、労農赤衛隊な)の会議があり、これらの会議に加えて帰国者には週1回の帰国者特別講習会と朝鮮語学習会への参加が強制された。労働と会議によって、睡眠時間以外の全てが束縛されるとっても過言ではない生活であった。 |
| 【金日成体制とは】 |
| 北朝鮮では、国民(公民)を解放直後ころから出身階級・階層で「出身成分」に分類、(一)金日成政権に忠実な核心階層、(二)監視対象=動揺分子、(三)特別監視対象=敵対分子に分け、それを更に51に分類し(一)の核心階層は13に、(二)監視対象は27に、(三)特別監視階層は11に細分化し、1980年には更に(二)と(三)に13分類を追加し、成分分類は64となっている。動揺分子以下に分類された人々は徹底的に差別され抑圧される独特の恐怖システムを作り上げている。父の出身成分は子や孫にも受け継がれる。戦慄すべきこの出身成分分類こそ、兵営国家、監獄国家と云われる恐怖統治を端的に示している。 「帰還事業帰国者」は、(二)監視対象=動揺分子に分類されており、常に監視の対象、密告の対象とされた。監視対象27種類の中には、党の除名者(任務遂行中過ちを犯し、党員資格を失ったもの)や、党の免職者、逮捕・投獄者家族や経済事犯などの犯罪者レベル、及び知識人(八・一五以後外国に留学した者またはそれ以前に高等教育を受けた者)や労働者(今は労働者であるが八・一五前に中小企業者、商工業者、知識人であった者)などが含まれている。 こういう低い位置付けがなされた理由として、自由主義社会の空気を十分に吸った者、異質思想の持ち主、思想的動揺者、不平不満分子、あげくのはては日本や韓国から送り込まれたスパイとみなされていたからであった。在日化したことに当人の罪を問うことはナンセンスであるにも拘らず、この差別と監視は一生ついてまわり、密告や当局の判断で、いとも簡単に強制収容所に送られることになった。北朝鮮には12の強制収容所があって、推定15万人以上が収容され、日本からの帰国者も多数含まれており、人間の生活とは言えない状況に置かれていることが、この間、北朝鮮から逃れてきた者の証言などを通じて明らかになってきている。 党委員長の権力は絶対であり、職場長、支配人から3級工に至るまで、その任免権は党委員長にある。党委員長は日に5〜6回工場内を巡視し、党委員長に命ぜられた私服の安全員は抜き打ちで工場内を視察し、労働者の怠業を監視した。その他労働党員は全て非党員の監視者であり、原告は一日12時間の労働時間中7回便所に行ったことが怠業として朝の会議で糾弾されたこともあった。 また、北朝鮮では職場でも人民学校でも自己批判会という同志裁判が行われ、素行の悪い者、責任量を達成できない者などが全員の前で壇上に挙げられ、群衆裁判が為される。集団リンチのような様相であり、原告も党員たちから反動分子であると糾弾され、自己批判を要求された。自己批判会では、党委員長が判決を下す。 |
| 【北朝鮮の選挙制度】 |
| 北朝鮮が世界に誇るという選挙は次のようなものであった。1962年10月8日に朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議第三期代議員選挙の様子が報告されているがそれによると、全国383の選挙区で383名が立候補し、その全員が名誉の当選をし、投票率100%、信任投票100%であった。鉛筆も置かず、党が決めた立候補者1名を信任することしかできない仕組みであり、選挙とは名ばかりの党の一方的命令であった。 北朝鮮の独裁体制下にある一般人民には基本的な人権さえ存在せず、「共産主義貴族」だけが肥え太り、一般人民には明るい未来を希望することさえできない社会であることに絶望した。 |
| 【帰国者からの悲痛な手紙】 |
| 帰国者から悲鳴にも似た、助けを求める手紙が、日本にいる家族・肉親に送られてくるようになった。表沙汰にすると帰国者に累が及ぶので、日本に住む家族・肉親は秘密裏に懸命に対応した。まったく連絡が途絶えて行方不明になった帰国者を求めて必死に探しまわった挙句、その帰国者が処刑されていたことを知ったという痛ましいケ−スもある。また、最近9年間だけでも、日本の家族の住所を尋ねる約7,600通の手紙が日本赤十字社に届いている。 先に帰国した者は、日本に残る親戚に対し、売り食いのための日用品を帰国船で送ってくれるよう手紙で訴え続け、帰国船が往来している間は北朝鮮政府も日本の物資を得るために、帰国者の言動に対しある程度の目こぼしを許していたが、65年以降は極端なテロルと経済の破綻の進行により、片っ端から捕らえる「粛清」が支配し、帰国者の地位は重大な監視対象として極端に悪化し迫害が加えられ、飢餓も加わりその生活は凄惨を極めるものとなった。 |
| 【帰国事業のその後】 |
| 1959年12月から始まった帰国事業により60年末までに約52,000人の在日朝鮮人が北朝鮮へ帰国した。この成果は予想以上のものであった。しかし、61年以降帰国希望者の減少傾向は顕著となり、被告は被告及び北朝鮮の威信のために帰国者を募ることが至上命令となった。北朝鮮側は日本のインフルエンザの流行を口実に帰国船の配船を一時停止して時間を稼ぎ、その間に被告の韓徳銖(ハン・ドクス)議長が61年早々から西日本一帯を遊説し、北朝鮮のバラ色の生活を宣伝し、帰国を拒む同胞には恫喝まがいの演説で帰国へと駆り立てた。 朝鮮総連中央本部でも「60万同胞たちよ!統一の日が近づいている。共和国に帰国し、7カ年経済建設計画に私も貴方も参加して祖国統一を早めよう!」を中心スローガンに、各階層の在日朝鮮人に帰国を訴える20数項目のスローガンを作った。そして川崎市での神奈川朝鮮人大会でスローガンの解説を行い、被告の全勢力をあげての帰国者集めを展開し、年齢別、職業別、地域別の帰国推進集団が無数に組織された。 青年・学生の中でも帰国推進集団が組織され、「金銀よりも貴い子女を持つ同胞よ!幼稚園から大学まで無料教育させてくれる共和国に帰国し、心ゆくまで勉強させ宝のような働き手にしよう!祖国統一を早めよう!」、「愛する青年たちよ!希望のない地で無駄に日々を送るのもそこまでにして、共和国に帰国して青春の情熱全てを捧げ、学び、働き、国の柱になろう」といったスローガンが青年層に向けて発せられ、被告の組織内部では帰国しない者は逆賊のような雰囲気が生まれ、活動家は家族を先に帰国させることで組織に忠誠を示さねばならない事態にまでなっていたのである。 |
| 【帰国事業の再開】 |
| 3年間の中断の後、71年から84年まで帰国事業は再開されたが、その後の帰国者は、共和国政府からの要求にもとづく、被告幹部・有力商工人の子弟、技術者集団、学生青年グル−プの強制的な送り込みや、政治的処分としての召喚といったもので、現在は帰国事業の形式だけは残っているものの帰国者はほとんどいない。かわりに、家庭訪問のための短期訪問集団事業や、祖国研修事業が活発に行なわれてきた。 |
| 【闘う者達の主張】 |
| 朝鮮総連の本来の役割は、在日同胞の民族問題、生活と権利についての協助組織、あるいは外向けには差別撤廃のための運動体としての役割を有しており、「八大綱領」に従っている。その三条は、「われわれは、在日朝鮮同胞の居住、職業、財産および言論、出版、集会、結社、信仰などすべての民主的民族権益と自由を擁護する」と規定している。この規定は、構成員の「自由」を侵害する勢力が日本政府であれ、日本の社会勢力であれ、北朝鮮政府であれ何であれ、これらの抑圧と闘う責務を負っているというべきである。 「民主的自由」と謳っているのであるから、右「自由」には人間存在の根源である帰国者たる構成員又はその家族の「生命・身体の自由」を初めとして全ゆる基本的人権を享受する自由が当然のことながら含まれる。具体的には帰国者たる構成員又はその家族に対し、生命・身体の安全確保の責務・抑圧と隷属から人権を擁護すべき責務を負うというべきであった。 朝鮮総連は、帰国事業を推進するに当たり、未知なる国である北朝鮮の社会主義国家の実態を正確に紹介すべきであった。帰国希望者は単身、あるいは家族とともに日本における生活の全てを捨てて移住するものであるから、帰国勧誘にあたっては社会主義国家である北朝鮮の政治体制、社会体制、経済体制、教育体制等生活に直接関わりのある全ての事案に対し、正確かつ最新の情報を提供しなければならない義務があった。その意味で、帰国事業発案者であり促進者であった朝鮮総連の責任は重い。 朝鮮総連は、北朝鮮の正確な情報及び帰国者の実状を調査することなく、むしろ故意に秘匿した経過を持つ。更に、帰国者が北朝鮮においては監視対象=動揺分子として密告の対象とされていること、少しでも体制に不満をもったり日本での生活を口にしたと密告されれば、突然内務署員に拉致され消息を絶たれ、強制収容所における監禁、拷問果ては処刑されてしまうような厳しい監視と迫害の下におかれるという重大な事実を、帰国希望者に対し一切告知していない。 北朝鮮には出身成分で人間を区分する制度が厳然として存在している事実、北朝鮮において唯一人間らしい生活を営むことのできる特権階級たる労働党員に帰国者はなれない事実(但し、87年以降の門戸開放政策により、党が認めた帰国者にのみ党員への道が開かれた。しかし、監視対象であることに変わりはない)、帰国者が監視対象として位置づけられ、それが何を意味し、どのようなものであるかを知らせることは、帰国者が北朝鮮で生存していくための最も重要な点であり、まさに生死の問題であるが、被告は一切これを告知していない。被告は在日朝鮮人をして北朝鮮の奴隷的労働力とするため、あるいは人質として日本に残る在日朝鮮人から情報と資産を搾取するための帰国事業でありながらこれを隠して帰国希望者を募った。重大な重要事項の不告知である。 また、北朝鮮へ帰国した帰国者の基本的人権の侵害、果ては生存権の侵害に至るあらゆる権利侵害に対し、被告は被告綱領3項による帰国者の権利を擁護する義務があり、これを行使する力量を備えているにもかかわらず被告はこれを怠り、帰国者を恐怖と危険にさらし続けたものであり、被告には帰国者に対する重大な保護義務違反がある。 北朝鮮では人民の基本的人権はもとよりあらゆる権利・自由が侵害されている。思想、表現、学問の自由、居住、移転、職業選択の自由、更に外国移住・国籍離脱の自由などは全くない。それどころか、婚姻や国内移動の自由も著しく制限され、労働者はひたすら命令された職場で働きその日の食糧を得る(その日を生きる)ことにのみ全精力を注がねばならない生活である。「地上の楽園」は「生き地獄」であり、囚人や奴隷と何ら変わりない生活状況である。帰国者はこの地獄から抜ける術はなく、原告のように奇跡的に脱出できた者は9万人を超える帰国者の中でわずか一握り程度である。そして、この僅かな人々による証言で北朝鮮における帰国者及び一般人民の実態がようやく明らかとなっているのであるが、被告は当然に北朝鮮国内における実態及び状況を即時に把握でき、北朝鮮における帰国者の悲惨な迫害生活を熟知していたものであるが、これを黙殺し、帰国者らの権利を擁護する義務を怠ったものである。 |
| 【<資 料>「031回-衆-外務委員会-04号 1959/02/06」(抜粋)】031回-衆-外務委員会-04号 1959/02/06昭和三十四年二月六日(金曜日)午前十時三十一分開議 |
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○帆足委員 |
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(私論.私見)