「邪馬台国=四国説(阿波説、伊予説、土佐説、山上説)考」



 (最新見直し2011.8.12日) (目下、全く不十分です。引用、転載元は改めて確認する予定です)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 大杉博・氏の「邪馬台国四国山上説」は面白い。れんだいこは、盲目の詩人宮崎康平氏の「まぼろしの邪馬台国」以来の傑作ではないかと思っている。「邪馬台国四国山上説」そのものよりも、九州説、機内説を批判する論拠が参考になる。今暫くこの「邪馬台国四国山上説」を検証してみたいと思う。

 徳島について、古くから地元の神山研究会などにより、卑弥呼や神話の神々が徳島にいて、神武東征後に栄える畿内の倭を築くまでは徳島に朝廷があったとする説が唱え続けられている。大杉博・氏の邪馬台国四国山上説や、ユダヤの研究者として著明な宇野正美氏の古代ユダヤが剣山にモーゼ契約の箱を隠匿したという説まで種々ある。地図を見ると、神山町神領など神々しい地名があったりして、楽しめる。

 2003.9.12日、2007.1.10日再編集 れんだいこ拝


【邪馬台国=四国山上説の根拠考】
 「四国山上説」は次のような事由から根拠付けられている。「日本史のブラックホール・四国」、「足摺岬縄文灯台騒動・最後のまとめ」、「古代史ファンクラブ通信◎邪馬台国四国説」等を参照する。
「邪馬台国」の語源  魏志倭人伝で邪馬台国といったのは、「海から見て、馬の背に見えるような国」の意であり、四国はその姿があまりにも相応しく、大きさも倭人伝の記述に合う。
「吉野川」の相似性  四国の地名が原名となって各地に広がっている可能性がある。吉野川と言えば、四国を代表する川だが、紀伊水道を挟み奈良(大和)の紀ノ川(吉野川)と相似性を見せているのもその一例である。四国にも秦性やハタの地名が数多くあるのもその一例である。和歌山にある那賀が徳島にもあり、香川県との境の大坂峠や奈良街道、小松島湾の香具山など、紀伊水道を挟んで同地名が数多くあることに驚かされる
「剣山」の存在  四国の文化的伝統が元となって各地に広がっている可能性がある。四国の人にとって剣山(鶴亀山ツルキ山)は一番高い山(実は二番目に高い山なのですが)で修験道の霊山となっている。7月17日は御輿を山頂まで担ぎ上げる祭りがある。7月17日は旧約聖書によると、ノアの箱船がアララテ(アララト山)に漂着した日とされている。この日は、京都の八坂神社では、山鉾巡行がある。
歴代天皇家との繋がり  四国と皇室の間には妙な繋がりがある。木屋平村三ツ木(貢)の三木家は今上天皇はもちろん歴代天皇の大嘗祭の時に献上する神具あらたえ(麻の織物)を作り続けている。一宇村の天岩屋戸、卑弥呼・天照大神の五角形の塚があり三角縁神獣境も発見されている国府矢野神山の天石門別八倉比売神社、卑弥呼の都であった神山神領の悲願寺、友内山山頂の高千穂神社、蓬莱山(高越山)など盛りだくさんの神話の里がある。
天孫降臨の地の符号  「魏志倭人伝」、「古事記」、「日本書紀」にある邪馬台国の特徴とぴったり符号する。穴吹町「中野宮」が葦原中国を治めるためにニニギノミコト(天照大神の孫)が天降って都をつくった場所(天孫降臨の地)だといわれている。現在「中野宮」には穴吹町 商工会青年部により「文曲星宮殿」が建設されている。

【記紀、万葉集を四国の地名から読む考】
 記紀、万葉集を四国の地名から読むと正確に符合するとの指摘が為されている。その一端を確認しておく。「難波宮は難波になかった」を参照する。

 天平6年(734)3月、聖武天皇の難波宮行幸にお供した舟王(ふねのおおきみ、第47代 淳仁(じゅんにん)天皇の兄)が詠んだ「幸于難波宮之時歌六首」歌、「如眉 雲居尓所見 阿波乃山 懸而榜舟 泊不知毛」(眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 懸けて漕ぐ舟 泊り知らずも)(万葉集 巻6−998)。これは「眉のように雲間に見える阿波の山 その山々をめざし漕いでいく船は、どこに泊まるのだろうか」と解釈され、難波宮(大阪市中央区法円坂)から大阪湾の沖の船とその向こうの風景を見て詠んだものと解釈されている。

 これに対し、岩利大閑氏は、この歌を「武庫浦を出港し、四国の難波宮へ向かう船上で詠んだ歌」であると解釈する。他の五首のうち二首に地名がでてくる。「住吉乃 粉濱之四時美 開藻不見 隠耳哉 戀度南」(すみのえの こはまのしじみ あけもみず こもりてのみや こひわたりなむ)、「馬之歩 押止駐余 住吉之 岸乃黄土 尓保比而将去」(うまのあゆみ おさへとどめよ すみのえの きしのはにふに にほひてゆかむ)。ともに住吉(すみのえ)が出てくるが、万葉集に出てくるこの住吉(すみのえ)は場所が不明で、現在の地名とは関係がないとする。その理由として、「墨吉乃 得名津尓立而 見渡者 六兒乃泊従 出流船人」(すみのえの えなつにたちて みわたせば むこのとまりゆ いづるふなびと)(巻3−283)の歌があり、「住吉の得名津に立って見渡すと、武庫の港から舟人たちが漕ぎ出してゆくのが見える」と解する。この歌で「武庫の港」と「住吉」が隣接していたことが分かる。つまり、上の舟王の歌が船上で詠まれたものならば、岩利氏の言うように「武庫浦」の港を出港した可能性が高い。この「武庫浦の港」の場所も特定されていないが現在の神戸市灘区の付近と考えられている。難波宮が讃岐にあり、この歌が四国へ向かう船上で詠まれたものだとすれば、何の矛盾もなく歌の通りに解釈できる云々。

 この確認は追々充実させることにする。

【木村鷹太郎が「人種学上宇和島の提供する無類の材料」】
 古くは愛媛県宇和島出身の明治の哲学者、木村鷹太郎が「人種学上宇和島の提供する無類の材料」(『世界的研究に基づける日本太古史・上』、一九一一年、所収)を現し、その方言、祭祀、民謡、伝説などから「宇和島人はアリアン人たり、ヤペテ人たり、キンメリ人たり、希臘、ホエニシア、埃及人たり、神話時代の神裔人種たるを証明」したが、むろん学界の容れるところとはならなかった。

【郡昇・氏の「邪馬台国阿波説」の登場】郷土史家・郡昇の『阿波高天原考』
 最初に世に問うたのは、1975年、郷土史家の郡昇・氏が自費出版した「阿波高天原考」(自費出版)である。

【古代阿波研究会の「邪馬台国=阿波説」】
 翌1976年、古代阿波研究会が「邪馬壱国は阿波だった−魏志倭人伝と古事記との一致−」(新人物往来社)を世に問い、全国に知らしめられることになった。同書の奥付によると、古代阿波研究会の当時の事務局長は堀川豊平氏とあり、編集委員として多田至、板東一男、椎野英二、上田順啓、岩利大閑、磯野正識各氏の名が記されている。

 「邪馬壱国は阿波だった」はまず、古事記が阿波国の別名としてオオゲツヒメと記していることに注目する。オオゲツヒメは農作物を産んだ女神の名でもある。そこからその昔の阿波国が穀霊の国であったということから論を進めていく。阿波国こそ記紀神話の高天原に他ならないと云う。更に、三国志の現存刊本にある「邪馬壹国」は「邪馬臺国」の誤写ではないという立場をとって邪馬壱国とする。

 倭の女王・卑弥呼は記紀神話の天照大神と同一人物であり、その宮の跡は名西郡神山町神領の高根城址、御陵は名方郡国府町矢野の矢野神山山頂、天石門別八倉比売神社の奥の院にある五角形の石壇だと云う。また、記紀神話の出雲とは、阿波国南部の勝浦川・那珂川方面であり、三国志倭人伝の狗奴国にあたるという。この卑弥呼=天照大神の宮都・陵墓と、出雲=狗奴国の所在に関する比定は、山中、岩利、大杉各氏に引き継がれることになる。

 「邪馬壱国は阿波だった」のユニークなところは、邪馬壱国の統治システムとして次のように述べている。
 「卑弥呼が、瀬戸内海一帯にはりめぐらした山上の物見や通信台からの情報で、明日の天気を予見を予見すると、それは太陽光の銅鏡反射を利用し、ピカピカピカッという信号で中継通信基地、焼山寺山がうけ、それを四方に信号でおくるという一種の光通信が行われていたという主張がある(焼山寺山は標高九三〇メートル、阿波の他の山々からの見晴らしがよい地点にある)。魏からもたらされた銅鏡百枚はこの反射信号に使われただけでなく、舟と陸上との連絡、舟と舟との連絡にも用いられた実用品だった。また、銅鏡ばかりでなく、自然の鏡石を利用した古代の灯台もあった」。

 それが単なる空想でない証拠として、同書は阿波の中津峰山麓の古老の「むかしは、中津峰山で火がピカピカピカッと出たら、あくる日は雨になるといいますわ。そういや、このごろはでまへんな。昔は出よったといいますわ」という言葉を挙げ、「太古のことを、ついこの間のように語り伝えてきたものなのでしょう。(中略)古代をついこの間のように語りつたえる古老たち。その陰にどのような邪馬壱国の非運があったのでしょうか。抹殺と無視にたえて約二〇回の百年の節をこえてきた庶民の豊かな表情とゆとりに、いったい何があるのでしょか」と感極まった口調で説明している。

 「邪馬壱国は阿波だった」では、阿波が高天原だったことがなぜ忘れられたのか、その理由を明記していない。ただ、明治の漢学者・岡本監輔が阿波麻植郡舞中島出身であるにも関わらず、「千葉県平民」を称していたことに「歴史のゆがみを思わざるをえない」と暗示するにとどめている。

【俳優・フランキー堺の注目】
 俳優の故フランキー堺はこの「邪馬壱国は阿波だった」を読んで驚き、日本テレビのプロデューサー・山中康男氏との共同で、「いま解きあかす古代史の謎!ついに発見!!幻の国・皇祖の地高天原」(出演・フランキー堺)を製作した。山中氏は、1977年、その時の取材調査成果を「高天原は阿波だった」(講談社)という書籍にまとめた。

【岩利大閑氏の「道は阿波より始まる」】
 「道は阿波より始まる」が、「その1」、「その2」、「その3」の三部作で、それぞれ1985年、86年、89年に出された。同書は岩利大閑氏が自ら主催する阿波国史研究会の成果として発表していた自家版を、(財)京屋社会福祉事業団が、“好きとくしま大好き”運動の一貫として増補・再販したものである。岩利氏は「邪馬壱国は阿波だった」奥付に古代阿波研究会の編集委員として名を連ね、また山中氏の番組制作に際しては、その取材現場を案内した人物である。
 岩利氏の主張のユニークなところは、高天原だけではなく、記紀にいう「大倭」とは阿波国のことであるとし、大和朝廷は天武もしくは持統の時代にようやく畿内に入ったとするところである。

 岩利氏は語る。

 「『日本書紀』の記事の中に“阿波国”の国名が一切でてきません。『古事記』神代の物語りから“伊予”“阿波”の二国のみが記され、そのうえ衣類、食料までが原産地阿波国と明記されているにもかかわらず、『記紀』何れの文中にも“阿波国” 云々がでてこないのは誰が考えても不思議と思いわれませんか?」(「その三」)。

 岩利氏によると、聖徳太子(厩戸皇子)は引田町の厩戸川の川口で生まれた生粋の阿波っ子であり(その一)、一般には滋賀県にあったとされる天智天皇の大津京も伊太乃郡山下郷の大津に置かれていたということになる(その二)。

 面白いのは、宋書倭国伝に記された倭の武王の上奏文の解読である。その中には、「東征毛人、五十五国、西服衆夷、六十六国、渡平海北、九十五国」とあるが、岩利氏は武王こと雄略天皇の都も阿波国にあったとする立場から、毛人の国々を近畿地方、衆夷の国々を九州地方、北の国々を中国地方に求める。「渡平海北」は一般に「海北に渡りて平らげる」と読まれ、朝鮮半島への進出を示す記述と解されているが、岩利氏はこれを「北に平海を渡り」と読み、単に瀬戸内海を渡ったところにある国々の描写にすぎないというわけである(その一、その二)。

 なお、“和製インディ・ジョーンズ”の異名を持つ鈴木旭氏はこの「道は阿波より始まる」三部作を読んで以来、邪馬台国阿波説に立つことにしたと表明しておられる(鈴木「もしもの日本史」、日本文芸社)。

 また、聖徳太子が四国にいたという論考としては岩利氏の著書の他に西野八平氏の「法興天皇記」(講談社出版サービスセンター製作、1987年)がある。西野氏は聖徳太子は大王に即位し、蘇我馬子と共に愛媛県松山市の来住廃寺遺跡の地で日本を統治していたとする。推古朝遺文に現れる年号「法興」は聖徳太子の年号だという。また松山氏の天山神社は天から下りた山が二つに分かれ、その一つが天山となったという縁起を有するが、それは聖徳太子と蘇我馬子の二人が共に大王であったことの暗喩だという。

 また、西野氏は祐徳稲荷(佐賀県)、伊予稲荷(愛媛県)、伏見稲荷(京都府)、豊川稲荷(愛知県)、笠間稲荷(茨城県)、最上稲荷(山形県)という日本六稲荷の順番は邪馬台国の勢力が広がる過程を示すもので、伊予稲荷近くの谷上山宝珠山(聖徳太子創建)に「愛比売」が降臨したとの伝承は卑弥呼の宗女・壱与(伊予)の地を引く娘に関するものであろうともしている(察するに西野氏は邪馬台国については九州説をとっておられるらしい)。

【やまし氏の「邪馬台国=東四国説」】
 2007年度現在、ハンドルネーム「やまし」氏が、「邪馬台国=東四国説」を主張している。同氏は、「邪馬台国東四国説」で、「記紀の神代の舞台は鳴門市大麻山周辺」、「卑弥呼の墓は、徳島県鳴門市大麻比古神社の丸山」り」としている。

【浜田秀雄氏の「邪馬台国=四国北岸説」】
 浜田秀雄氏は、古代阿波研究会の活動に触発されて「邪馬台国=四国北岸説」を唱えた。同氏は、著書「契丹秘史と瀬戸内の邪馬台国」(新国民社、1977年)において、邪馬台国を四国北岸、卑弥呼の居城を、松山市大峰台西南の台地斉院に求めた。

 浜田氏は同書で、「四国説は四国の郷土氏家グループが主張していますが、学界では無視されています」と状況を述べ、契丹秘史、上記、宮下文書などのいわゆる古史古伝を用いて持説を裏付けている。同書カバーに出版社がつけたコピーは次のように述べている。
 「山東省のラマ寺から発見された謎の契丹秘史三千字(中略)著者は二十年の研究によって遂に解読し、日本民族のルーツと邪馬台国のルーツについて重要な手がかりを得、倭人の実体を解明するとともに邪馬台国は四国松山に比定できるという驚くべき結論に到達した。更に魏志倭人伝と古事記と、上記・宮下・竹内など従来統一できなかった各史書の綜合的な解明に成功し、これらの史書がすべて同一結論即ち邪馬台国松山説を示すことを考証し日本古代史のミッシングリングを埋めた」。

【三島明・氏の「邪馬台国=北四国説」】
 愛媛県伊予松山市在住の三島明氏は自費出版で、「新説古代史・神話と宇摩(天・邪馬台・日)」(1992年)、「謎の女性像は卑弥呼!?−宇摩の不思議と古代史の解明−」(1993)、「邪馬台国は北四国,伊勢神宮となった」(1994年)を著し、愛媛県宇摩郡を中心とする北四国に邪馬台国=高天原を求めている。

 三島氏によると「古代史の混迷は、九州や近畿との思い込み、また、統一の時期の思い込みなど、多くの思い込みに阻まれて、史実の扉が残されているのに、気付かないところから始まっている」という。

 三島氏は、西暦紀元前後の日本にはすでに伊予王朝による統一国家が存在し、記紀が伝える初期の大和朝廷の天皇は伊都国王と同様に邪馬台国の下位にあったとする(「邪馬台国は北四国,伊勢神宮となった」)。三島氏の伊予王朝説はまだまだ発展途上にあり、今後の展開に期待したい。

【土佐文雄氏の「邪馬台国=土佐説」】
 土佐文雄氏は、著書「古神・巨石群の謎」(リヨン社、1983年)の中で、概要「『邪馬壱国は阿波だった』を意外にしっかりしたきまじめな研究書」として好意的に紹介し、「邪馬台国土佐説」を採り、卑弥呼の居城を高知県香美郡土佐山田町の古神にある巨石群に求めた。ただし、同書は土佐氏のオリジナルな説を記したものではなく、地元の郷土史家、北山南・樫谷義広両氏の研究に基づいて制作されたテレビ番組「古神・巨石群の謎」(NHK高知放送局)の取材過程を記したノンフィクションである。土佐氏はその番組でリポーター役を務めた。 

 邪馬台国四国説では三国志倭人伝の方位で「南」とある箇所を「東」の誤りとするのが通例である。倭人伝に北部九州から先の行路に「南、邪馬台国に至る。女王の都する所、水行十日、陸行一月」と明記されている以上、方位の訂正なしで、九州の東にある四国に邪馬台国を持っていくことはできないからなのだが、土佐説だけは例外的に「南」のままで正しいとする。つまり、北部九州から九州東岸をそのまま南下して土佐を目指すことになる。

 なお、NHKの取材が契機となり、今や古神巨石群は、「甦った・なる邪馬壹」、「平和日本お誕生ご所」、「倭華宮」、「日本のルーツ・ヤマトの国センター」、「とさ若宮日本蓬莱山邪馬台国センター」としてテーマパーク化されているという。もっとも、それを守っているのは樫谷義広ただ一人だそうだ(根本敬「イジメもやまる日本発祥の地」別冊宝島「全国お宝スポット魔境めぐり」、1998.4月所収)。

【大杉博氏の「邪馬台国=四国山上説」の登場】
 1977年、倭国研究会を主催し、邪馬台国四国説の論客でもっとも精力的に活動している大杉博・氏が、「日本の歴史は阿波より初まる−天孫降臨の地を発見す−」を自費出版した。1979年、「ついに解けた古代史の謎」で「大和朝廷の秘密政策説」を発表。その後も自費出版で自説の発表を続け、1992年、「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」(たま出版)を発表して、その成果を世に問うた。

 大杉氏は邪馬台国を阿波国内にとどまらず、四国の中央山地全体に広がる国だったとする。ただし卑弥呼の都城や陵墓、出雲国(狗奴国)などの位置については、古代阿波研究会の結論と共通しており、その意味では阿波説の一変種とみることができる。
 大杉氏は自説の証明として「写真の公理法」を提起している。「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」(たま出版)の中で次のように述べている。
 「富士山は写真などでもよく見る山である。そして、写真を見たときに、“富士山だ!” とすぐ分かる山である。この富士山をカメラで写した場合、できあがった写真は富士山を写した写真に間違いなく、一方、富士山もその写真に写っている山(実体)に間違いないと言うことができ、双方がそれぞれ間違いのない本物であるということができるのである。これが“写真の公理”である。(中略)では今度は、どこかの路上で一枚の紙を拾ったとする。その紙には、“その山は日本一高く、広い裾野には湖が五つあって、湖面に美しい山の姿を映している”と書いてあったとする。その場合、日本人なら誰でも“ああ、これは富士山のことだ”と認めるだろう。その場合、何時、誰がその紙に書いたのかということには関係なく、“富士山のことを書いている”と認めるのである。また、富士山は、その紙に書いてある山に間違いないと認められ、その比定に異議を唱える者はいないのである。すなわち、その紙に書いてある記事の信憑性が有ることと、“富士山”とする比定が正しいこととが、双方同時に認められたことになるのである」。

 大杉氏はこの方法で阿波の風土・産物と記紀神話の舞台を比較したところ、百項目以上の共通点をみつけたという。これだけの共通点がある以上、阿波は高天原で邪馬台国に間違いない、他の説をとなえる論者は自分を論破できない限り、すべて邪馬台国から手をひかなければならないと主張している。

 大杉氏は、四国山上邪馬台国が史実から消された理由について、大和朝廷の大秘密政策の存在を主張する。それは、白村江の敗戦と壬申の乱の後、大和朝廷が一時、信望を失い「大君の先祖は、南海の小さな島の上で、山猿のような暮らしをしていたのだそうな」という噂が流れたため、天皇家の本当の出自を隠すための政策が行われたというのである。その政策は平安時代まで続き、空海が四国八十八箇所を定めたのも、四国の霊地を訪ねる巡礼を本当の聖域に近づけないための方策であったという。大杉氏は、この大秘密政策によって「四国は死国にされてしまった」と主張する。

 「邪馬台国」の漢字の象形を解析し、「おかしな馬を台にしたような国」という意味で字が当てられているとする。これは、当時の中国人が倭国(女王国)を見てイメージしたもので、四国の山上は山焼きの風習によって山上に樹木がなく、高地性集落を結ぶ幹線道路が山並みの頂上を縦走するように付けられていた。その道路を歩くと、変な馬の背中を歩いているような感じになり、「邪馬台国」という文字に符合すると述べている。

 「魏志倭人伝」には「此れ女王の境界の尽きた所なり」とあり、「広輿図」には「皆、倭国の境に附いている」とある。この21の国々の場所を比定すると次のようになるが、こうした場所が比定できるのは四国だけであり、九州説、大和説ではこれができていないとして次のように比定している。斯馬国(淡路島)、己百支国(香川県大川町あたり)、伊邪国(香川県三木町あたり)、都支国(香川県飯山町あたり)、弥奴国(香川県高瀬町あたり)、好古都国(香川県山本町あたり)、不呼国(愛媛県川之江市あたり)、姐奴国(愛媛県新居浜市あたり)、対蘇国(愛媛県西条市あたり)、蘇奴国(愛媛県東予市あたり)、呼邑国(愛媛県今治市あたり)、華奴蘇奴国(愛媛県北条市あたり)、鬼国(愛媛県松山市あたり)、為吾国(愛媛県伊予市あたり)、鬼奴国(愛媛県大洲市あたり)、邪馬国(愛媛県三間町あたり)、躬臣国(高知県窪川町あたり)、巴利国(高知県須崎市あたり)、支惟国(高知県越知町あたり)、烏奴国(高知県伊野町あたり)、奴国(高知県南国市あたり)。

 魏志倭人伝には邪馬台国の生活の様子が実に生き生きと描写されているが、それらを四国山上に当てはめるとまことに符合するとして逐一検証している。「こんなに一致する場所は他にはない」として四国山上説を解いている。特に「山に丹有り」の記述が徳島県阿南市の若杉山遺跡のみに見られるものであること、「禾稲(かとう)をうえる」というのは「粟(あわ)・稗(ひえ)・稲などを植える」という意味であり、四国が粟と稗の産地であることと符合する。「棺有るも槨無く」は阿波に多く出土する箱式石棺を指すこと、「真珠を出す」は徳島の海で真珠が採れていたのを指すとして、邪馬台国四国山上説を裏付ける重要な記述であるとしている。

 古事記の伊邪那岐命(イザナギのみこと)と伊邪那美命(イザナミのみこと)による島産みの記述に注目して、淡路島→四国→隠岐島→九州→壱岐島→対馬→佐渡島→本州という順に日本の島が誕生したとある理由を問うている。一番が淡路島、二番が四国と最初に登場するのは、四国がよほど重要な地位を占めていたと窺うよりほかはないとしている。

 「かく言ひ竟りて御合して、生みし子は、淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)。次に、伊予之二名島(いよのふたなのしま)を生みき。この島は、身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。故、伊予国は愛比売と謂ひ、讃岐国は飯依比古と謂ひ、粟国は大宜都比売と謂ひ、土左国は建依別と謂ふ。次に、隠伎之三子島(おきのみつごのしま)を生みき。亦の名は天之忍許呂別。次に、筑紫島(つくしのしま)を生みき。この島もまた、身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。故、筑紫国は白日別と謂ひ、豊国は豊日別と謂ひ、肥国は建日向日豊久士比泥別と謂ひ、熊曾国は建日別と謂ふ。次に、伊伎島(いきのしま)を生みき。亦の名は天比登都柱と謂ふ。次に、津島(つしま)を生みき。亦の名は天之狭手依比売と謂ふ。次に、佐度島(さどのしま)を生みき。次に、大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま)を生みき。亦の名は天御虚空豊秋津根別と謂ふ。故、この八つの島を先づ生めるによりて、大八島国(おおやしまくに)と謂ふ」。

【大杉博氏の「邪馬台国論争」】
 大杉氏は、1980年から榎一雄・安本美典・奥野正男・古田武彦らの邪馬台国研究で高名な研究者たちに対して私信による論争を挑んだ。相手は61名の研究者と3団体に及び、その経過は「邪馬台国の結論は四国山上説だ−ドキュメント・邪馬台国論争」(たま出版、1993年)という本で公開されている。「たちまち沈黙してしまわれる」とある。

 著書「天皇家の大秘密政策」(徳間書店、1995年)の序には次のように書かれている。
 概要「私は、発見した事実の正しさを確認するために、多くの研究者に手紙による論争を申し込んだ。論争の結果は、まことに不毛なものに終わった。私が論争に敗れたというのなら、それはそれで実りある論争だったはずだ。ところが私は、決して敗れはしなかったし、勝ちもしなかった。勝ちもしなかったというのは、相手が負けを認めてくれなかった、ということだ。明らかに詰んだ将棋でも、投了さえしなければ負けないということを、私は初めて知らされた」。

 これに対して、論争を挑まれた側の安本美典氏は、「虚妄の九州王朝」(梓書院、1995年)で、その際の気持ちを次のように慨嘆している。
 「『季刊邪馬台国』の編集を通じて知ったことは、世の中には、ほとんどまったく誤りだと思える自説を強く信じて、他説を論難攻撃してやまないタイプの人が相当数存在しているということである。その説は、どのような説得によっても、訂正されることがない。(中略)自説は“仮説”ではなく、いかなる方法をもっても死守すべき“絶対の真実”なのである。そして、ひとたび自説の立場に立てば、自説にとって、いかに不自然な事実も、眼にはいらなくなる。みずからが、ゆがみ、さか立ちしている可能性もあるのであるが、みずからは、絶対にゆがんだりさか立ちしていないと、頭からきめてかかるのであるから、他の説はみなゆがみ、さかだちしていることになる」。

 この経緯について、原田実氏の「日本史のブラックホール・四国」は次のように述べている。
 「しかし、相手が負けを認めなければ勝てない、というのは、大杉氏が一方的に論争を挑んだ相手の方からしても同様だろう。第一、一方が自らの「正しさを確認するため」の論争などは、始める前から不毛なのである。議論においては、仮説の反証可能性が問題とされる。すなわち、ある仮説について、どのような反証が現れればそれが成り立たなくなるか、仮説の提唱者と論争相手の間に共通の認識があって、初めて学問的な論争が成立する。しかし、大杉氏は自らの正しさを自明の前提としており、その仮説である四国山上説について、何ら反証可能性を示そうとはしなかった。このような態度が学界で相手にされないのはむしろ当然なのである」。
 大杉氏の「写真の公理法」に対して、結果としてもっとも辛辣な批判となっているのは前田豊氏の「倭国の真相」(彩流社、1997年)であろう。前田氏はその前著「古代神都東三河」(彩流社、1996年)で、高天原=邪馬台国が東三河にあると主張したが、「倭国の真相」ではその説の傍証として二箇所、大杉博氏の著書からの引用をしている。大杉博著「天皇家の大秘密政策」で、万葉集の柿本人麻呂の歌に基づき、古代の大和国には海があったはずだと論じている箇所を引いて、「大杉氏は四国に “倭の国”を想定されているのであるが、この状況はまさに、東三河やまと説について当てはまるのである」とする。

 また、同書の別のところでは「邪馬台国は間違いなく四国にあった」から、釈日本紀に、畿内を北倭、女王国を南倭とするくだりがあるという記述を引用し、「四国邪馬台国説の大杉氏には悪いが、その文献はまさに東三河のことを表している(中略)。南倭は古代中国の地理観では、東に相当するから、東倭でもある。まさに日本の東海に地方にある倭、東三河の大和であったのだ」と述べている(ちなみに、釈日本紀の「北倭」「南倭」の説はもともと山海経の誤った訓読から生じたものである)。

 原田実氏の「日本史のブラックホール・四国」は次のように述べている。
 「大杉氏には『写真の公理法』で四国のことを指しているとしか思えなかった記事が、前田氏の目には東三河を指しているものと写っていることになる。主唱者の信念の強さでいえば、前田氏の東三河説は、大杉氏の四国山上説に決してひけをとらない。そして、信念の強さを競うのは、真実の探究とは何ら関係のない不毛な行為なのである」。

 なお、古代阿波研究会が卑弥呼の陵墓とみなし、大杉氏もそれに従っている矢野神山の石壇について、原田大六氏は「卑弥呼の墓」(六興出版、1977年)の中で次のように批判している。
 「日本全国の考古学者で、これを三世紀の卑弥呼の古墳と考える人は、誰一人なかろう」。
 「星形祭壇は、弥生時代にも古墳時代にもなく、それは“矢野神山の奥の院”の後世のちゃちな石壇にすぎない」。
 「石棺を崩して、棺材を石壇とし、その上に小祠を立てて祭ったというのが実情と考えられる。見取図では特別の石を敷いているように見えるが、掲載の写真を見ると石棺材に間違いなかろう。大墳丘を持たぬ粗製の組合せ式石棺は古代庶民の墓である。それを江戸中期になって盗掘したもので、卑弥呼の墓とは全く言えぬ代物であった」。

倭国(いのくに)研究会
 「四国山上には莫大な邪馬台国の遺跡群とともに、驚くべき秘密の歴史が隠されていた。完全なる証明により既存の説を粉砕。所在地論争に終結を告げ、千数百年間の謎に包まれた日本古代史の全貌を解き明かす。大和朝廷の大秘密政策、空海の封印、失われたアークの在る場所とは? (大杉元信さん)」

 『邪馬台国はまちがいなく四国にあった』『邪馬台国の結論は四国山上説だ』などを出版された、阿波池田在住の郷土史家、大杉博さん主催の研究会です。「超常現象研究とは趣が異なりますが、参考になれば幸いです」とのことです。













(私論.私見)