| 第6部 | 三角縁神獣鏡考 |

| 青銅鏡は、東アジアの古代文化を研究するうえで重要な鍵を握る考古資料である。青銅鏡は中国古代を中心に多数製作され、とくに漢時代に大流行し、弥生時代から古墳時代にかけて日本に数多く輸入された。同時に、それを模倣した鏡が大量に製作され、政治支配の道具として利用された形跡が認められる。そういう意味で、この時期の文化を考える上で重要な考古資料となっている。 中国では戦国時代から唐時代に主に製作された。形態は円形が多く(まれに方鏡もある)、直径は数十cm程度である。磨かれた鏡面の裏側には中心に鈕(つまみ)があり、その周囲にさまざまな画像や文様が鋳出されている。 古代中国製の銅鏡には、神像と動物文を鋳出した神獣鏡が多く、その他、背面の文様によって「方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)」「海獣葡萄鏡」「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」などさまざまな形式に分類されている。用途としては、現在使われている鏡のように単純に物の姿を映し出す道具としてではなく、祭祀・呪術用の道具として用いられたと考えられている。 以下、「銅鏡の歴史と変遷(古代編)」を参照する。 中国の殷周(BC1600〜BC770)の時代、「葉脈文鏡」が製作されている。この時代の銅鏡は、現在でも21面しか発見されていない。河南省の殷墟で出土した銅鏡は、直径12.5cm、厚さ0.4cm、鏡面はわずかに反り凸面をなしている。銅鏡史的には極めて簡素で幾何学的文様あるいは文様のない銅鏡がほとんどである。 春秋戦国(BC770〜BC221)時代、「素面鏡」、「蟠龍菱文鏡」が製作されている。春秋戦国時代の銅鏡の多くは平面で薄くて軽い。しかし、文様は時代を経るに従って複雑怪異な文様が主流となってくる。特徴として、1・鏡の中央に位置する「鈕」に筋が入っている。2・主文(メインとなる文様)は「蟠龍文」と呼ばれ、とぐろをまく龍や蛇の図案を指す。これは戦国時代の青銅器全般によく見られる文様である。3・地紋がある。主文とは別に地紋、つまり背景となる文様がある。 前漢前期(BC219〜BC111)時代、「蟠龍菱文鏡」、「四葉文鏡」、「規矩鏡」、「連弧文鏡」等の様々な銅鏡が現れる。前漢中期(BC110〜BC7)時代、「星雲鏡」、「日光鏡」が現れる。特徴として、1・4個の小乳で主題文様を4つの単位に区分する「四分法」が現れる。2・主題文様が強調され、前漢前期までに見られた「地紋」が次第に消失する。3・主題文様はシンプルで、比較的単純な意匠である。4・銘文が文様の一部となっている。 「 星雲鏡」は、この時期特有の銅鏡で、前漢中期の武・昭・宣帝の時代に主に盛行する。鈕座の周りに内向きの16弧の連弧文を、その外側には星雲文帯をめぐらせている。座を持つ「四乳」を四方に配し、乳の間には小乳を並べ、それらを曲線でつなげている。その形状が星座に似ていることから星雲の名がある。星雲は前期の蟠龍文から変化してつくり出されたものである。「日光鏡」は半球式の鈕と、円形の鈕座、そして鈕座の周りを内向きの連弧文が一周する。縁の部分は幅広く無紋である。この種の鏡はやや小型で、直径が6〜8センチのものがほとんどである。外区は銘文が入っているが、篆書でも隷書でもなく、考古学的には、意味不明の記号がある。 前漢晩期、後期(BC7〜AD25)時代、特に王莽(新)代になると、銅鏡に再びおおきな変化が生じる。前代にひきつづき日光鏡や昭明鏡が盛行するが、新たに四乳鏡、規矩文鏡などが登場する。特徴として、1・文様の題材の変化。四神を中心とした様々な禽獣、瑞獣が主題文様となる。以後、この文様は銅鏡の主要な文様となる。2・図案化が進む。主題文様が昇華され、デフォルメされていく。3・銘文の種類が多くなる。また、銘文を主文にした銅鏡が現れる。4・縁部の文様にも重きを置くようになる。以前は無文で幅広の縁部が多かったのに対して、流雲文、三角鋸歯文などが、主題文様と結びつくようになる。 四乳鏡は、正確には四乳四ち鏡、「ち」とは「みずち」すなわち蛇のことである。「みずち」を図案化し、4個の乳間に配している。この時代によく見られる四乳鏡の典型である。方格規矩四神鏡は、王莽代(紀元前後)のものである。この時期に現れた、規矩文鏡は、別名TLV文鏡と呼ばれる。鈕座の周囲に方格を配し、さらに方格の四角とV字が向かい合う。つまり、規矩文によって内区は8区画に分けられる。宇宙の秩序を維持し司る四神として青龍(東の守護神)、白虎(西)、朱雀(南)、玄武(北)がそれぞれ一区画を占め、その間には鳥、獣などが配される。外区には銘帯がめぐり、縁部の文様は流雲文である。 後漢前期(25〜84)の銅鏡の特徴として、この時期の多くの墳墓、遺跡から、「規矩文鏡」が出土している。一方、前漢中・晩期に見られた日光鏡・昭明鏡・四乳鏡はほとんど見られなくなる。方格規矩鏡のTLV字は、天文学的な意味を持つとされ、日時計を根拠に、「LV」は時間を示し、「L」は夏至、秋分、冬至、春分を表し、「V」は四季の始めを表し、「T」は空間の意味を持っているとされる。 後漢晩期(85〜220)の銅鏡の特徴として、「盤龍鏡」、「神仙画像鏡」が現れる。特徴として、1・文様の題材が複雑多岐にわたり、構成が複雑になる。2・浮彫り技法が開発される。それまでの銅鏡の文様は、いずれも単線で輪郭を描く手法「線条式」がとられていたが、この時代は「浮彫技法」の確立により、主題文様は盛り上がって起伏を持つようになる。 「盤龍鏡」は、「浮彫り技法」によって作られた鏡である。この鏡はいわゆる龍虎鏡の一種で、大きな鈕を取り囲むようにして、身をよじらせて口を開いている龍の姿が立体的に描かれている。「神仙画像鏡」は、重列式神獣鏡とも呼ばれ、従来の鈕を囲むような主題の描き方ではなく、鏡の上下を明確に定め、主題文様を上から下に配列させている。 後漢ののち、三国鼎立(220年)から三国時代、晋、南北朝時代にわたり中国は動乱の時代を迎える。この時期、中国鏡は停滞する。再び、高度な発展を遂げるには隋の統一(581年)を待たなければならない。 |
| 【三角縁神獣鏡について】 |
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| 魏志倭人伝によると、卑弥呼は、239(景初3)年、難升米(なしめ)らを魏の都洛陽に遣わした。この時、卑弥呼は魏帝から倭王に任じられ、金印「親魏倭王」を授かるとともに、「銅鏡百枚」を賜った。難升米らも銀印を与られた。歴史ミステリーはここから始まる。この時の「銅鏡百枚」が発見されれば、難問の邪馬台国に辿り着くことができよう。しかしながら「銅鏡百枚」は姿を現さない。加えて、その製作地についても確実な証拠を得ることができず、古代史上の大きな謎のひとつとなっている。 古鏡の本格的研究は、明治〜大正時代に京都大学教授の富岡謙蔵氏に始まる。その後、梅原末治、小林行雄、樋口隆康、岡村秀典など主に京都大学系の学者が、卑弥呼の鏡と云われる「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」の発掘に傾注してきた。三角縁神獣鏡とは、縁部の断面形状が三角形状となった大型神獣銅鏡を意味する。なぜ三角縁とするかの理由については、ほとんどが凸面鏡であり、三角縁にすると構造上作りやすいから、あるいは、神聖な場所を囲む瑞垣をまねた等の説がある。中国では2−3世紀の時代に紹興近辺でしか出土しない。日本では相当数出土するが、製作したとされる側の中国での出土がない。 三角縁神獣鏡があらわれる前の3世紀前葉には、「神獣鏡」類の画文帯神獣鏡と呼ばれる中国鏡が、約60面出土している。その分布の中心は北部九州ではなく畿内地域である。なお、三角縁神獣鏡の画像は、画文帯神獣鏡の画像を巧妙に変更して創り上げている。 近年の研究で、鏡の断面が時代とともに変化していることがわかってきた。古い鏡は、外区が厚く、それに対して内区が薄いが、時代の経過とともに外区が薄くなり、内区との差がなくなり、終いには内区と外区の厚さが同じになってしまっている。これらの変化と文様やその配置などを勘案した5段階の型式編年ができあがっている。第1段階は景初3(239)年・正始元(240)年前後と推定できるから、一つの段階を約10年あまりと考えて、第2段階は250年前後、第3段階は260年前後、あとの段階も同様に考える。 この型式編年を利用して、出現期古墳はどの段階の鏡を持つかで古墳が年代的に古いかどうかが判断できるようになった。ただ、鏡の生産地については難しい議論が進行中である。 近年、大阪大学の福永伸哉の研究により、三角縁神獣鏡350面を含む千数百面の鏡の鈕孔(ひも通し孔)の観察から、三角縁神獣鏡の鈕孔の形が長方形で、他の鏡の鈕孔の円形や半円形と異なっていることが分かった。さらに、鏡の鈕孔を長方形に作る癖を持つ、ある中国工人群が三角縁神獣鏡を製作しており、その手法が魏の官営工房に繋がる可能性が強いという。つまり魏の王朝が卑弥呼や壱与に下賜するために特別に鋳造したのが三角縁神獣鏡であるという新説が提出されている。 |
| 【三角縁神獣鏡の製作人について】 |
| 一方で、三角縁神獣鏡と同じようなものは中国では出土しておらず、中国で既に改元された年号や実在しない年号の銘が入ったものもあることから、日本製、あるいは中国から渡来した工人の製であるとする説。また、中国製で船で日本に運ばれた舶載鏡とする説、日本で中国の鏡を真似てつくった倣製鏡説などがある。改元されて実在しない中国の年号の銘が入った鏡がある、卑弥呼に下賜された銅鏡は100枚だが、それをはるかに超える数の三角縁神獣鏡が出土している。これをどう理解すべきか。輸入鏡のみならず国産鏡を想定せざるを得ない。
三角縁神獣鏡が畿内を中心に出土することから、卑弥呼の鏡説をとるのは邪馬台国=畿内説をとる研究者に多く、日本製説をとるのは邪馬台国=九州説をとる者に多い。ただし、日本製説をとる研究者の中にも邪馬台国=畿内説を主張する者がいる。彼らの中には、三角縁神獣鏡を、卑弥呼の遣使を記念して呉の工人などに日本で作らせたものだと主張する者もいる。一方邪馬台国=九州説を主張する研究者は、三角縁神獣鏡全体が(魏の年号が刻まれてはいるが)後世の偽作物であると見なしている。 魏の鏡であるか、それとも日本製なのかについては、どちらの説にも決定的な証拠はないが、近年定説化しつつある年代観からすれば景初三年銘、正始元年銘の三角縁神獣鏡自体は紀年にあるとおり3世紀の鏡として理解できるため、邪馬台国大和説の有力な根拠のひとつとなっている。鏡を作った者が、何らかの理由で魏の年号を使いたかったことにはほぼ間違いがない。 |
| 【三角縁神獣鏡出土について】 |
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1953(昭和28年)、京都府山城町(現・木津川市)の椿井大塚山古墳から神獣鏡が出土した。小林行雄は、同型の鏡が日本各地の古墳から出土している事実に着目し、邪馬台国が大和に所在し、のちのヤマト王権が卑弥呼に下賜された神獣鏡を各地の豪族に与えたとする古代政権成立過程を提唱した。 1998(平成10).1月、200m超の大王陵や大和古墳群の一つである黒恁テ墳(天理市柳本町にある前方後円墳)から大量33面の三角縁神獣鏡が見つかった。三角縁神獣鏡は棺の外に置かれており、棺の中にあったのは、1枚の画文帯神獣鏡だった。これこそ「卑弥呼の鏡」として色めきたった。文様が中国風で、中国の神仙思想を取り入れた神仙と竜虎などの霊獣の文様が描かれていた。仮にこれを魏鏡説とする。これについては、小林行雄教授の「伝世鏡理論」がある。三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏王朝より下賜された「銅鏡百枚」ではなく、後世の日本製と考える説もある。 33面の三角縁神獣鏡の中に、特に研究者の注目を集めた鏡がいくつかある。3号鏡と7号鏡と名付けられた鏡である。3号鏡には「銅出徐州、師出洛陽(徐州の銅を使って洛陽出身の工人がつくった)」の銘文があり、7号鏡の文様帯はラクダや象の絵で構成されている。このため、これらの鏡の出土は邪馬台国論争を再燃させることとなった。樋口隆康・奈良県立橿原考古学研究所長は、はやばやと「中国製であることを裏付ける資料」であるとのコメントを発表された。3号鏡は銅の産出地や鏡職人の出身地がいずれも中国であることを示し、7号鏡は当時、日本に存在しなかった動物を描いている点から「中国鏡としか言いようがない」とされている。(「 ところが、以降、近畿地方を中心に全国から三角縁神獣鏡が出土することになった。京都府の椿井大塚山古墳から38面ほど出土する等日本国内で既に600枚以上も出土した。こうなると卑弥呼が魏王朝よりもらった銅鏡100枚とは数が全く合わなくなる。島根県加茂町で景初三年ものが1枚、群馬県高崎市、兵庫県豊岡市、山口県新南陽市で、正始元年ものが都合3枚発掘された。 三角縁神獣鏡には「銅出徐州、師出洛陽」の銘を持つのが約10枚ある。富岡謙蔵氏はこの銘文を中国製の根拠とした。が、これは一種の吉祥文字で、これをもって中国製と即断するのは危険である。中国でこの銘を持つ鏡は、遼寧省の魏晋墓から出土した方格規矩鏡ただ1枚で、銘は単に「銅出徐州」となっている。しかし、三国時代の魏晋朝領域の徐州では銅は産出していない。徐州が銅の産出地として知られていたのは前漢・新・後漢時代のことである。漢時代の徐州の地域は三国時代よりも広く、 銅の産出地は三国時代では呉王朝の領域で首都・建業(南京)付近の「丹陽」、「江都」、「儀徴」である。後の東晋時代(318年〜)になると、銅の産出地の「江都」、「儀徴」は再び徐州に組み入れられた。従って、三国時代の魏晋朝の領域の徐州からは銅は産出せず、東晋時代の徐州からは銅が産出したので、三角縁神獣鏡の「銅出徐州、師出洛陽」は辻褄が合わなくなる。推理として、東晋時代に日本に渡来した呉の鏡職人の作品ということが考えられる。 三角縁神獣鏡の銘文中に紀年が記された四面の鏡がある。島根県雲南市加茂町大字神原・神原神社古墳出土の「景初三年」鏡、群馬県高崎市柴崎町蟹沢・蟹沢古墳、兵庫県豊岡市森尾字市尾・森尾古墳、山口県周南市(旧新南陽市)竹島御家老屋敷古墳の三古墳から出土した同型の「正始元年」鏡三面である。これらの鏡四面は、すべて文様の神像と獣形像が同じ方向に並ぶ同向式である。また、昭和26年に大阪府和泉黄金塚古墳から「景初三年」銘の平縁神獣鏡(半三角縁神獣鏡・斜縁神獣鏡)、更に、昭和47年には島根県神原町の神原神社古墳から「景初三年」銘の三角縁神獣鏡が出土している。 京都府福知山市の広峯15号墳出土鏡で、中国には実在しない景初4年の年号が入った鏡も見つかっている。景初四年(正始元年、西暦240年)は、難升米等が下賜品を持ち帰る年であり、崇神天皇三年に当っていて九月には新都磯城瑞籬宮(奈良県桜井市金屋付近)への遷都があった。兵庫県の辰馬考古資料館所蔵鏡(同形鏡)の盤龍鏡2面も出土した。 三角縁神獣鏡は、魏帝恩賜の「(狭義の)卑弥呼の鏡」ではなく、卑弥呼が遣魏使の出発と帰国を記念して、呉渡りの鋳物師に作らせた国産鏡たる「(広義の)卑弥呼の鏡」の二種に識別できるする見方がある(中国考古研究所・王仲殊、滋賀県立大学・菅谷文則ほか)。中国の考古学者・王仲殊氏は、「三角縁神獣鏡は、日本に渡った呉の鏡職人が日本で製作したもの」としている。逆に、三角縁神獣鏡が4世紀の国産鏡で、いっさい「卑弥呼の鏡」や邪馬台国と無関係とし、三角縁神獣鏡の分布は、初期大和政権の勢力圏と技術・文化水準のみを示すとする説もある。 呉が280年に滅亡したことにより、呉の鏡職人の一部は日本(倭)へ移住したものと思われる。290年頃から4世紀前半に渡来した呉の鏡職人は、初期大和政権の指示により大量の三角縁神獣鏡を製作し、着々と勢力を拡大した大和政権により全国に分与されたと推定される。 三角縁神獣鏡の分布は次の通りである。
三角縁神獣鏡の出土を府県別にみると京都府が50枚以上、次いで奈良県の44枚が群を抜いており、福岡県、大阪府が30枚台である。このことから、奈良を中心とする近畿地方(奈良・大阪・京都)に三角縁神獣鏡の出土が多いことがわかる。さらに、近畿地方での出土数は170枚を超え、全体の二分の一以上を占めている。 |
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