| 玉、勾玉、翡翠考 |

| (れんだいこのショートメッセージ) |
| 古代遺跡から時に玉壁が出土する。玉壁は、中国歴代王朝の権威を象徴する威信財である。玉は、岩石の中でもとりわけ艶やかで清純な軟玉(ネフライト)を素材にしている。硬度は6から6..5で、鋼鉄のナイフでも歯が立たない。 中国で玉器(きょっき)が出現したのは紀元前6000年頃。祭礼儀礼に用いられていた。金より上位に位置づけられていた。中国大陸外では、漢代に設置された楽浪郡出土があるぐらいで、朝鮮半島南部では出土が確認されていない。 1818(文政元)年、宮崎県の県南の西都原遺跡群の部串間市の遺跡の石棺から鉄製品や玉類と共に出土した。直径33.3p、軟玉でできた薄い円盤で、中央部に丸く穴が開けられており、周囲には獣紋、渦巻き紋、獣紋の三重の文様帯を刻んでいる。紀元前2世紀頃の作品であると推定されている。朝鮮で出土しない玉壁が、なぜ南九州の宮崎から出土したのか解明されていない。 |
| 翡翠の勾玉が、新羅、百済、高句麗が並び立った三国時代(4〜7世紀)、朝鮮半島で大量に出土している。合計で数百点をくだらない。中でも、新羅の首都が置かれた慶州の古墳から数多く見つかっている。特定の大型古墳から出土した国王級の人物の副葬品と推定される金製の冠には、数多くの翡翠勾玉がつけられていた。皇南大塚北墳出土の冠には77点もの勾玉がついていた。勾玉の多くは翡翠製であるが、韓国では翡翠の産地はみつかっていない。なぜ、翡翠の勾玉が朝鮮半島で出土したのか解明されていない。 ところが、日本では5世紀半ばから6世紀の初め頃、出雲地方を例外として翡翠の製作が見られなくなる。奈良時代に入ると、翡翠文化の影だけを残して翡翠が姿を消す。なぜ翡翠が生産されなくなったのか解明されていない。この頃、大和王朝の祭祀権を廻る政権交代があり、これに関係していると思われる。 |