|
2)物部氏人物列伝 2−1)饒速日命(神話)
@父;天之忍穂耳命 母;満幡豊秋津師比売命
A天孫族(天照大神一族) 妻;御炊屋姫(長髓彦の妹)、天道日女
正式名;天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(別名;贍杵磯丹杵穂命)略称;ニギハヤヒ
B子供;宇麻志摩治命、天香語山命(別名;高倉下命)(尾張氏祖)兄である。
兄弟;弟 禰禰芸命(神武天皇曾祖父)
C物部氏の遠祖とされている。伝説、神話上の人物。実態不明。「日本書紀」に記載あり。
色々な氏族の始祖伝説を習合した創造上の人物?「書紀」では物部氏の祖であることを
ボカシながら認めている。(古事記には記事なし)旧事本紀(物部氏の系譜8−9世紀 に出来た?)には、詳しく出ている。
D大和国三輪山にある「大神神社」の主神は、大物主命=事代主命=ニギハヤヒであると の説もある。ここから「出雲」との関係があるとされる。
E九州遠賀川流域より東遷したとの説。
F神武天皇東征(大和政権樹立)以前に河内国河上哮峰に「天磐船」で天降ったという話。G大和在地豪族長髓彦を従え、その妹「御炊屋姫」を妻とした話し。
H神武東征時、息子「ウマシマジ」が外祖父長髓彦を殺して、神武を迎え入れた話し。
Iニギハヤヒは、「出雲系」であるとの話し。
J物部氏が実権を握った26継体、ー29欽明朝あたりで祖先が神武東征時に活躍したよ うにこの部分を創作導入したのでは? との説。
K天下った所が、「日下」という地名でそこから、後年「日本」という名前が発生したの だという説。
など諸説あるが、立証すること困難。謎謎謎ーーーー
2−2)宇麻志摩治命(神話)
@父;ニギハヤヒ 母;御炊屋姫
A兄弟;兄 天香語山命(母:天道日女命)(尾張氏祖)妃;活目邑五十呉桃娘「師長姫」
子供;彦湯支命
B神武東征を助け、以後大王家を助けた。物部氏の元祖。
2−3)彦湯支命(?−?) 注)3)−4)の間に「大禰命」が入る系譜あり。
@父;ウマシマジ 母;師長姫?
A「ヒコユキのみこと」
兄弟;味饒田命(ウマシニギタ) (神日子命ー麻佐良命ー久尼牟古命ー大由支命ー小阿斗足尼命ーー
ーー熊野国造、阿刀連祖と続く)
2−4)出石心大臣命(?−?)
@父;彦湯支命 母;不明
A「イヅシゴコロのみこと」
妃;新河小楯姫 兄弟;出雲醜大臣命(イヅモのシコ)
2−5)大矢口(知?)宿禰命(?−?)
@父;出石心大臣命 母;新河小楯姫?
A妃;坂戸田良都姫 子供;欝色雄命、 欝色謎命(8孝元后、9開化、大彦命の母)
大綜杵命など
2−6)大綜杵命(?−?)
@父;大矢口宿禰命 母;坂戸田良都姫?
A「オホヘソキのみこと」
妃;高屋阿波良姫 子供;伊香色雄命、 伊香色謎命*(8孝元妃、9開化后、10崇神母)
*−1
伊香色謎命(?−?)
・伊香色雄命の姉
・物部氏の強大な勢力は、彼女によって築かれたと言われている。
・伯母「欝色謎命」と共に8孝元天皇の妃となり、孝元亡き後9開化天皇の妃となり
10崇神天皇を産む。物部氏の繁栄はここに始まる。
・北河内茨田郡で産まれた。その名は伊加賀村(現枚方市伊加賀)の名を負うものである。
イカとは、「後ろに山を負う山麓の土地」という。背後に香里丘陵の突端である万年寺 山の上、現在の意賀美神社境内にあった「万年寺山古墳」は、4世紀中頃の前期古墳
である。彼女又は伊香色雄命の墓と推定されている。
・初期物部氏の根拠地は、交野郡、茨田郡ではないかとも言われている。
2−7)伊香色雄命(?−?)
@父;大綜杵命 母;高屋阿波良姫?
A「イカガシコオのみこと」
子供;物部大新河命、物部十市根命
大水口宿禰(子供;建忍山宿禰)
Bこの頃「欠史8代」ではあるが物部氏系の皇后、妃が多数出て、天皇の外戚関係が出来ていたらしい。(この時期のみである)
2−8)物部十市根命(?−?)
@父;伊香色雄命 母;不明
A「トヲチネのみこと」妃;物部武諸隅(大新河の子)娘「時姫」
別名;十千根命。
B11垂仁の時物部連姓を賜る。(先代旧事本紀)
C垂仁26年出雲の神宝の献上を督促。
垂仁88年但馬、出石の「清彦」から「天日槍」が将来した八種の神宝を取り上げた。
・物部武諸隅(???−???)
@父;大新河命 母;紀伊荒川戸俾娘中日女?
A「タケモロズミ」妻;贍咋娘清姫 子供;多遅麻?(兄弟との系譜もある)
B崇神60年出雲国に赴いた。「武日照命」が将来した出雲の神宝を検校し、出雲「飯入根」から献上させた。
2−9)贍咋宿禰(?−?)
@父;十市根命 母;時姫
A「イグイ」
子供;五十琴姫(12景行妃)、五十琴宿禰
B神功皇后東征時に「大夫」であった(書紀)
・物部夏花(???−???)
記事;景行12年熊曽を討つ。
2−10)五十琴宿禰(?−?)
@父;贍咋 母;不明
A「イゴト」妃;多遅麻(武諸隅の子?)娘「香見媛」
子供;伊筥弗、麦入(子供;大前、小前)、石持(子供;菟代)
2−11)伊筥?弗(?−?)
@父;五十琴 母;香見媛
A「イコフツ」
妃;岡随媛、倭国造比香賀君娘「玉彦媛」子供;布都久留(麁鹿火大連の曾祖父)
兄弟:麦入宿禰、石持
B17履中時「大連」となりこれ以降物部氏は、守屋まで政権の中心に出る。
参考)18反正時;伊筥弗。19允恭時;麦入。20安康時;大前。
21雄略時;布都久留 22清寧時;目。23顕宗時;小前。
24仁賢時;木蓮子 が「大連」となった。(旧事本紀)
・物部大前(???−???)
@父;麦入 母;不明
A兄弟;小前宿禰、御辞、石持
B20安康天皇時の「大連」
C17履中天皇の即位前に「住吉仲皇子の反乱」を未然に察知して、皇太子を避難させた。「木梨軽皇子」の助命嘆願をした。(日本書紀)
2−12)目(?−?)
@父;伊筥?弗 母;玉彦媛?岡随媛?
A兄弟:真椋、布都久留、鍛冶師、竺志、雄略天皇朝の「大連」である。
B雄略18年物部菟代、大斧手らと一緒に伊勢「朝日郎」を討つ(紀)
2−13)荒山(?−?)
@父;目 母;不明
A兄弟:麻作
B宣化天皇朝の大連(旧事紀)
2−14)尾興(?−?)
@父;荒山 母;不明
A「オコシ」妻;阿佐姫(物部倭古連女)加波流姫(倭古連女)
子供;守屋、布都姫(32崇峻后)石上贄古、大市御狩ら
兄弟:奈洗
B29欽明朝「大連」となる。(旧事紀では、安閑、宣化朝でも大連)蘇我稲目が大臣となり上位者であった。
C540年(欽明元)に天皇が、難波祝津宮に行幸し、新羅征伐について下問したところ 「大連」の尾興らは、512年(継体6)に大伴大連金村が、「任那国の四県」の百済 への割譲を認めたことを持ち出し、その責任を追求した。 このため大伴金村は、失脚した。とある。(日本書紀)これは本当は、台頭してきた蘇我稲目が、それまでの朝廷を握っていた金村(大伴氏)を追い出したもの(金村は、27安閑、28宣化を支援、稲目が、29欽明を支援してきた関係)。尾興も欽明派だった模様。
D538年(又は552年)欽明朝の時百済の「聖明王」が、我が国に仏教を伝えた。
朝廷内で論争が起こった。天皇は、群臣にその受容の可否を問うた。
蘇我稲目は「朝鮮諸国は、こぞって礼拝しております。倭国だけが拒絶する訳にはいきません」崇仏派。
物部尾興と中臣鎌子(鎌足とは別人)は、「我が国の王が、蕃神(外国の神)を礼拝されれば、きっと国神(我が国古来の神)の怒りを受けるでありましょう」といって反対した。排仏派。
29欽明は、受け入れを熱望していた稲目にのみ個人的に仏教を信仰することを許した。 E569年疫病が流行し、多数の死者がでた。尾興らは、国神の怒りとみなし、天皇の許しを得て、仏像を難波の堀江に投棄し、伽藍に火を放った。この時稲目は、既に死んでいた。ーーー第1次「破仏」
F尾興は、物具生産に携わる「鍛冶王」であった。
G弓削連の祖で、石上坐布留御魂神社の本来の奉仕者であった倭古連の娘「阿佐姫」、剣の神春神に仕える巫女「加波流姫」を妻とした。ここに物部諸族が、石上神宮の祭祀権を入手し、九州の物部の支持を得て、新たな物部氏の統率者となった。
H娘「布都姫」(石上夫人)は、32崇峻の后となった。 彼女は、次に義兄の贄古と結婚しその間に鎌姫大刀自を産み、蘇我蝦夷に嫁がせ入鹿を産んだとされる。(これは、記紀に記事なし。旧事本紀にある。)
ーーー尾興から物部氏の記事がハッキリする。ーーー
(参考)物部麁鹿火(?−?)
@父;物部麻佐良 母;須羽娘妹古?
A「アラカヒ」兄弟:押甲、老古
武烈朝、継体朝、安閑、宣化朝での大連。(記紀、旧事紀)
506年子供のいない25武烈天皇が亡くなり王位に就ける人物がいなくなった。
大伴大連金村は、翌年物部大連麁鹿火らと計って応神天皇の五世孫の男大迹王を「越」 の三国から迎えた。これが26継体天皇である。
B527年九州の地方豪族であった「筑紫君磐井」が反乱を起こした。「磐井の乱」
528年麁鹿火が、大将軍として派遣され、(巨勢男人も参画?)筑紫の御井郡(久留 米市付近)で磐井と戦いこれを鎮圧した。
Cこの時物部氏は、自らの発祥の地である九州の統治権を手に入れた。本貫地が、遠賀川 流域か、筑後川流域かを分かり難くしているのは、この為である。(この両方に多くの物部関連の神社が残されている。)
D信濃諏訪氏の女を母とする伝え(旧事本紀?)がある。
E男大迹王の軍事的中核の東国となった物部兵団の将帥である。外物部の中央復帰であった。
F子供;影媛、*−2)毛等若子、石弓若子 この流れから後の「石上氏」が出たとの説もある。
ーーーー尾興より早く歴史に登場実在が確認される物部氏第1号である
*−2
影媛;平群真鳥(24仁賢の大臣)の子「鮪(しび)」の恋人又は妻であった。横恋慕した25武烈によって、「鮪」は殺された。という話が残されている。
・物部莫奇武(???−???)
記事;554年欽明朝に新羅の函山城を攻めた。
2−15)守屋(???−587)
@父;尾興 母;物部倭古女阿佐姫
A子供;雄君、那加世。 別名;弓削大連守屋
B物部ー蘇我戦争の中心人物
C585年(敏達14)物部大連守屋、大三輪逆、中臣磐余の3人が、寺塔を焼き仏像を捨てようとして馬子と争った。 馬子は、その頃堂塔を各地に建て大々的な法要を行い本格的に仏教を広めようとしていた。 しかし、馬子が病気となり占うと、仏の祟りとでた。
この時国中に疫病がはやって、多くの人々が死んだ。 守屋と中臣勝海は、疫病の流行は 馬子が仏教を信仰しているせいだと30敏達天皇に訴えた。 天皇もこれに同意して、仏教の禁止を命じた。 守屋自ら寺に行き塔を切り倒し、仏像、仏殿を焼かせ仏像を難波の堀江に捨ててしまう。 僧尼にも弾圧を加えた。敏達天皇は、蘇我氏の血を引いてない大王であった。ーーーこれが第2回目の「破仏」である。ーーー
D585年30敏達死亡。馬子ー守屋の対立激化。
後継天皇として、稲目の娘「堅塩媛」の子大兄皇子(31用明天皇)が馬子の後ろ盾で即位した。 守屋は、危機意識を深め「小姉君」の三男「穴穂部皇子」の擁立を画策した。 E587年31用明天皇は、病気となり仏教帰依を表明した。 その可否を重臣に協議させた。天皇自らの崇仏の意志表示は、これが初めてであった。 この会議で崇仏派と、排仏派の対立再燃。 守屋は、身の危険を知らされ、会議の最中に、阿都(八尾市跡部)のヤケに引き上げ手勢を集めた。
F31用明天皇死亡。馬子は、穴穂部皇子を殺害。守屋討滅を決意。
32崇峻天皇、竹田皇子ら諸皇子と紀男麻呂、巨勢比良夫を引いて兵を挙げる。
厩戸皇子(聖徳太子)も参画したとあるが当時14才なので疑問視されている。
この時蘇我軍は、紀、巨勢、葛城、大伴、阿倍、平群、春日の諸豪族。
物部軍は、中臣、大三輪ぐらいしかいなかった。 しかし、物部軍は、強大で一時は、断然優勢であり、その威力を見せつけたが、守屋が討たれ滅んだ。
G守屋一族の財産は、四天王寺の建立に使われた。(寺内に守屋祠がある)
守屋の妹が蘇我馬古に嫁ぎ、蝦夷を産み、さらに別の妹布都媛の子供「鎌媛」が、蝦夷に嫁いでいるが(旧事紀)、この媛が物部守屋の財産の一部を相続し、これが子供の入鹿の権勢の基礎になったとの説あり。
Hこれにより、物部本宗家が滅ぼされたとされているが、守屋が本宗家にはなってない(旧事本紀)。との説もある(関祐二氏ら)。これから後、形を変えて物部氏が活躍する。
2−16)物部雄君(???−676)
@父;守屋 母;不明 異説:物部尾興の子麻伊古の子真古の子供である。との説
A妻;物部目娘(大市御狩の孫)「豊媛」 子供;金弓、忍勝 朴井連となる。又以後榎井氏を名のる。
B「壬申の乱」の時大海人皇子舎人として、吉野で決起。舎人筆頭として活躍。
C大紫位氏上を賜った。
ーーーーこの流れはここまでしか歴史上出てこない。ーーー
別流れ(石上氏系)
・大市御狩(???−???)
@父;物部尾興 母;倭古女如波流姫
A妻;石上贄古女「宮古郎女」
B敏達朝の大連(旧事紀)
・物部目(???−???)
@父;大市御狩 母;宮古郎女
A子供;馬古(宇麻子)、豊媛(物部雄君室)
B欽明朝の大連(旧事紀)
・物部宇麻子(???−???)
@父;目 母;不明
A別名;馬古、宇麻乃?
B645年大化の改新で蘇我氏本家没落したとき、衛部という宮廷警護の責任者となった。
という記事あり。
・石上麻呂(639−717)
@父;物部馬古 母;不明
A子供;乙麻呂、東人 注)物部麻呂とは異なる人物との記事もあるが、ここでは、同一人物として記す。
B初め物部連、天武13年八色の姓の制定により物部朝臣となりのち「石上」に改姓した。
C「壬申の乱」では最後まで近江方につき、大友皇子の首を吉野方に引き渡した。
天武朝でも重用され、676年遣新羅大使、690年持統天皇即位の際、大楯を立てる大役を果たした。(ここまで物部麻呂)
D701年藤原不比等、紀麻呂とともに大納言となる。
E703年42文武朝で刑部親王が最初の「知太政官事」に任じられた。この時右大臣;阿倍御主人(69才) 大納言;石上麻呂(64才)藤原不比等(46才)紀麻呂(45才)となり、石上氏浮上。
F704年右大臣になる。708年正二位 左大臣 710年平城京遷都の際、藤原京留守役となる。
G715年43元正天皇朝 左大臣;石上麻呂(76才) 右大臣;不比等(57才)中納言;粟田真人(55才) 阿倍宿奈麻呂(50才)巨勢麻呂(50才)
H天武天皇崩御の際誄をした。(大役である)
・石上乙麻呂(???−750)
@父;麻呂 母;不明
A子供;宅嗣、息継(この流れは、石上神宮宮司となる)
B732年従五位上 丹波守 738年従四位下 左大弁
C739年藤原宇合の室で「百川」の母であった「久米若売」と左大弁石上乙麻呂とが、通じたという事件発覚。 乙麻呂;土佐へ流罪 久米;下総へ流罪。
D744年西海道巡察使に任じられた。
E746年遣唐使派遣計画があり、大使に任じられたが、この計画は見送られた。常陸守
F748年従三位、多治比広足、石川年足、藤原八束らと参議となる。
G749年聖武朝、中務卿乙麻呂に、陸奥国で金が発見されたことを国民に知らす様指示 あり。
同年孝謙天皇即位。藤原仲麻呂が、大納言となった。参議、石上乙麻呂、
紀麻路、多治比広足、らは中納言になった。
左大臣;橘諸兄(命運は落ちていた)
H750年中納言従三位中務卿として没した。
・石上宅嗣(729−781)
@父;乙麻呂 母;不明
A息子;継足
B763年恵美押勝の専制に反発する勢力は、暗殺計画を企てた。 藤原宿奈麻呂(良継) 石上宅嗣、佐伯今毛人など。 密告により未然に防がれた。宅嗣は、大宰府に左遷された。 C766年称徳朝大納言藤原永手が右大臣に、中納言白壁王、藤原真楯が大納言に参議吉備真備が、中納言に、新たに石上宅嗣が、参議になった。太政大臣禅師;「道鏡」
D770年称徳天皇が崩御(53才)その時の議政官組織
左大臣;永手 右大臣;真備 大納言;白壁王 参議;宿奈麻呂、藤原縄麻呂、宅嗣
近衛大将;藤原蔵下麻呂らであった。道鏡の失脚を謀り、白壁王の立太子を推進擁立に尽力した。
後継天皇の人選で吉備真備は、文室浄三(智努王78才)文室大市(大市王67才)を推した。藤原永手らは百川の策により白壁王を推して勝つ。
この後真備は、引退する。白壁王は、直ちに立太子、49光仁天皇として即位。
771年の光仁天皇大嘗祭に神楯鉾を立て、物部氏の面目を果たした。
775年物部朝臣となる。
E779年天皇が唐の使者に対面する儀に関し宅嗣大納言は、「天皇の降座やむなし」の記録あり。使者を迎えるにあたり天皇が、玉座を降りるということ。物議をかもしたことらしい。
779年石上大朝臣を下賜され以後ふたたび石上氏となる。
F文化人でもあったらしい。「経国集」。 781年正三位大納言石上宅嗣死去。
G最古の図書館「芸亭」(うんてい)を阿しゅく寺に作った。
ーーーーこれで物部系の人物が歴史上消える。ーーーー
・物部息嗣(???−???)
@父;乙麻呂 母;不明
A子供;振麻呂、 兄弟;宅嗣
B物部朝臣姓となり、石上神宮の祭主となり、以後この流れが、石上神宮を嗣ぐことになった。
・物部麻伊古(???−???)
@父:尾興 母:物部倭古女如波流姫
A兄弟:守屋、大市御狩、今木金弓若子、布都姫、石上贄古、多和髪ら
・恵佐古(???−???)
@父:麻伊古 母:不明
A兄弟
B推古朝、舒明朝、皇極朝の大連(旧事紀)
・多津彦(???−???)
@父:恵佐古 母:不明
A兄弟:荒猪、弓梓、加佐夫
B天智朝大連(旧事紀)
3)物部氏系図 (諸説あるが筆者創作系図である)
|