| サンカとは |

| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、サンカについて確認しておく。日本史の裏の流れを知る為に必要と気がついたからである。「ウィキペディア・サンカ (民俗学)」、「サンカ(山窩)とは」、「51.戸籍を持たない「日本国民」~日本のジプシー「サンカ」 (1999.4.7)」、「家康サンカ説・八切史学概説・信長考・真書太閤記考、その他」、「サンカ(山窩)を考える」、「サンカについて語ろう」等を参照しつつ、れんだいこ史観で纏める。今後、更に書き込みして行くことにする。 2011.01.30日 れんだいこ拝 |
| 【サンカ族の定義】 | ||||
| サンカのルーツを廻って1・古代難民説、2・中世難民説、3・近世難民説諸説がある。 れんだいこ史観によれば、1・古代難民説が良い見当ではないかと思う。即ち、サンカとは、古代史上の最大政変即ち出雲-三輪王朝から大和王朝への国譲り政変の過程で地下に潜った出雲-三輪王朝派の一派で、大和王朝以降の時の権力の支配にまつろわぬ特殊な系統ではないかと考えられる。サンカ伝承で出雲の国津神を祖としているとあるのが、これを裏付ける。と云うことは各地の鬼伝説、天狗伝説と重なることになるのではなかろうか。 「農耕せず、定住せず、政治権力に服従しない民」と評されているが、この経緯に淵源があるのではなかろうか。いわば原日本人(あるいは縄文人)出雲-三輪王朝系譜の流民と云うことになる。この流民は国譲り政変以来、人里離れた山間地に住み、独自の生活圏をつくって居たのではなかろうか。その生態は、江戸時代の身分制に於けるエタ(特殊部落民)、非人とも似て非なる系統で、そもそも身分制に出てこない「無籍型隠れ民」であるところに特徴が認められる。 サンカの生息域は広く北は青森の下北半島から、南は鹿児島の大隅半島に至る日本列島の脊梁山脈や高地をテリトリーとする主として「山の民」と考えられる。古代史上の国譲り政変から考えると、明治維新後の解体までの期間の1500年余を生き延びてきたことになる。サンカは徹底的に公民化を拒否し、表に出ない形でネットワークを形成していた。常に体制(国家)に所属せず、人別帳や戸籍に登録されない、届け出しないいわゆる不祥の民と云うことになる。いわば、国家の中にあって国家権力の枠の外にある自立した漂白共同自活集団とでもいうべき存在であり、「日本人でありながら戸籍を持たない日本人」、「日本の漂泊ジプシー」と云われるアウトローの存在であった。 サンカが謎であるのは、サンカ自身が自らの存在を公にせず隠然と世を忍んできたことによる。一般の家系図や由来書にあたるものを持たなかった。仮にあったとしても門外不出であり、あるいは口伝によったものと思われる。これによりサンカ研究が意図的故意に為されにくい状況が生み出された。これが第一の理由と考えられる。 「皇統と鵺の影人検索キーワードダイジェスト集」の「山窩(サンカ・サンガ)」は次のように記している。
「サンカ(山窩)を考える」の「サンカの源流と起源」は次のように述べている。
「サンカ(山窩)を考える」の「南朝とサンカの追記」は次のように述べている。
喜田貞吉氏の「サンカ者名義考」は次のように記している。
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| 【サンカ族の生業】 |
| サンカの民の生業としてよく挙げられるのは川漁漁、箕(み。ざるのような形をしていて穀物を脱穀し、可食部分と殻を分ける道具)、蓑(みの、雨合羽)、笊(ザル)、竹細工、竿、笛、手袋、ささら、茶筅(ちゃせん)づくり等々である。
複数の素材で造られた高度な知識と技術を要求された製品であるところに特徴がある。他にも木地師(きぢし、ロクロ師)と云われる木工製造、蹈鞴師(タタラ)と云われる鍛冶屋、狩人(マタギ)、樵(キコリ、木挽き)、漆屋、炭焼き、鋳掛屋(ふいご)、研屋(けんど)、山守(やもり)、田畑守(のもり)、川守(かもり)、獅子、たまい、猿舞い、猿女などの遊芸者、呪術的宗教者、巫女、渡り商人等々多岐にわたる。明治新政府の刑事政策では「川魚漁をし、竹細工もする、漂泊民」と規定されている。 要するに、農耕社会の裏側で補足潤滑する職業で生計を立てていたと推定される。注目すべきは山と里との互いの「テリトリー」(生活圏と職業)を侵すことなく平和的に共存してきたことである。ここに、まことに日本的な和合ぶりが見て取れる。 |
| 【サンカ族の衣食住】 |
| 食は米を主食とせず、古来からの食事法である山野海の産物を組み合わせ、蕎麦やうどんを主食とするとともに川魚、小鳥、山菜とくに自然薯(じねんじょ)などを食べた。独特の優れた調理炊事法による食生活を確立していた。例えば「焼石料理」がその例で歴然としたサンカ料理である。 住居は「せぶり」と呼ばれる移動式天幕(テント)を山裾や河原などの水の便のよい所に南向きに張り、テントの中央には炉を切り、テンジン(天人) とよぶ自在鉤を下げ、テンジンとウメガイとよぶ短刀の使用はサンカの証とされた。テント住まいのほか洞穴を利用したり簡単な小屋掛けをするものもあった。地面を掘った穴の中に天幕を敷き、そこにためた水の中に焼けた石を投げ込んで湯をつくり入浴する方法や、地面を焼いてその余熱で暖をとるなどの古い習俗も伝えている。 |
| 【サンカ族の家族紐帯、婚姻制度】 | |
| 出産前後の儀礼がほとんどなく血忌みに対する観念の希薄さも特色といえる。家族6~7人、5家族くらいの単位で講をつくっていた。 「サンカ(山窩)を考える」の「サンカの掟(ハタムラ)」は次のように述べている。
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| 【サンカ族の語源、各種呼称、漢字表記】 |
| サンカの語源はいろいろあるが、サンケチ(三つの職掌区分)からきたとする説もある。様々な呼び名で云い表わされている。漢字では「山窩」、「山家」、「三家」、「散家」などと表記される。現存する古文書によれば、最初に「サンカ」と表記したのは、広島藩の郡役所。安芸国山県郡の安政2(1855)年の庄屋文書に「サンカ」という文言が出ている。維新後の 邏卒文書に「山窩」と表記されるようになった。和語では、ポン、カメツリ、ミナオシ、ミツクリ、テンバ(転場)、ホイト、カンジンなど地方によってさまざまに呼ばれている。その言葉が指し示す範囲は、時代や使用者によって大きく変わり語義を明確にすることは難しい。「サンカ」という言葉は、江戸時代末期(幕末)の広島を中心とした中国地方の文書にあらわれるのが最初である(ただし、それよりもさかのぼるとする意見もある)。幕末期の時代においては、サンカの呼称は西日本に限られたとされている。 |
| 【サンカ族の言語】 |
サンカは独特の隠語を喋り、いわゆる神代文字であるサンカ文字を使用する。サンカ文字の一例が次のように図示されている。![]() この「サンカ文字」は、「古史古伝」の竹内文書に登場する象形文字や、上記(ウエツフミ)に登場する「豊国(トヨクニ)文字」と酷似しており、同起源・同系統の文字であることが判明する。(上記は豊後(ぶんご)国守・大友能直(よしなお)がサンカから入手した文書を元に編纂したと云われている)。これによれば、記紀(日本書紀と古事記)に代表される「官製史書」とは異なる歴史観を記した竹内文書、上記などの「古史古伝」を伝承し続けていることになる。 但し、日常的には土地ところの村里の言語を使っていたと考えられる。必要に応じて仲間内だけで通用する「隠語」を持ち、全国に独自のネットワーク(情報伝達網)を構築し緊密なコミュニケーションを図っていたと思われる。 |
| 【サンカ文字と古史古伝の関係】 | |
三角寛(本名三浦守、1903~71)が59歳の時、博士号取得のために東洋大学に提出した学位論文「サンカ社会の研究」に対して、田中勝也氏が「サンカ研究」(新泉社刊)で、上記と三角寛の関係について次のように言及している。ここに「サンカ文字と古史古伝の関係」が出てくる。
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| 【サンカ族の宗教と処世観】 | |||
| サンカは出雲-三輪王朝の謂わば縄文系の民である為、その時代に確立していた思想、宗教を継承していると考えられる。このことが、同じく出雲-三輪王朝系譜である山伏修験道信仰と繫がることになる。いわゆる古神道を保持していると思われる。これによれば、1・地球環境、自然との共生、2・共生的住み分け社会、3・質素で簡素、素朴な生活、4・本当の豊かさを知り、自由で誇り高く、弱者に対して慈しみの精神を持った生き方を目指すことになる。 「サンカ(山窩)を考える」の「ある山林労務者の手記より」は次のように述べている。
「サンカ(山窩)を考える」の「サンカと縄文スピリット」は次のように述べている。
「サンカ(山窩)を考える」の「野史呼び名辞典」は次のように述べている。
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| 【サンカ族の秘密組織性】 | |
| サンカは徹底的な秘密集団組織として生きてきた。外部の者にはけっして自分たちのことを話さず、特殊な隠語を用いて話し、他の仲間への連絡には特別の符合で書かれたアブリ出しを地面に埋めるなどして行う。その結束は固く、独自の行政・裁判法をもち、一般の倭人とは異なる習慣、信仰、伝承を維持し、しっかりとした相互扶助システムをもって全体の生活を安定させている。緩やかながら強固な組織連帯性を保持していた。全国のサンカを支配する組織の存在も伝えられていて、最高権力者であるアヤタチを頂点としてミスカシ、ツキサキ(シ)などの中央支配者がおり、各地域にはクズシリ、クズコなどの支配者が置かれ、そのもとに各地域セブリをムレコが統率したという。彼らは仲間相互の信義と義理とを道徳の第一とするとともに、外部に対しては厳しい秘密主義をとっていた。日本的な秘密結社の原型とも云える。座右の銘は、「統治されずせず。赤心同胞に捧ぐ」。 「サンカ(山窩)を考える」の「サンカの組織性」は次のように述べている。
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| 【明治新政府の取り締まり】 |
| 明治新政府の御代になって、国勢調査により戸籍が作られることになった。壬申戸籍(じんしんこせき)以来急速に整備され、これに合わせてサンカが犯罪者予備軍として位置づけられ、監視および指導の対象となり徹底的に取り締まられることになった。その理由として、「徴税や徴兵などのため、国家の近代化に伴う戸籍整備の必然性があった」と解説されているが怪しい。実際は、山伏修験道の取り締まりと軌を一にしており、国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの日本政治容喙と共に隠然とした勢力を持つ純日本的秘密組織性を帯びていたサンカが取り締まられることになったと解すべきだろう。 明治新政府の住民戸籍化政策によって、サンカは徐々に元の生活圏に近い集落や都市部などに吸収されたと考えられている。サンカは、徴兵、納税、義務教育の三大義務を拒否し、「まつろわぬ民」、「化外(けがい)の民」として生き延びていたが戸籍が整備され、全国民が登録される体制が整ったため、江戸時代に人別から洩れた層も明治以降の戸籍には編入されるようになったと考えるられる。これによりサンカが一般市民と混在することになった。これは同時に表向きのサンカの消滅をも意味する。 サンカは明治期に全国で約20万人いたと云われている。昭和の戦後直後で約1万人ほど居たと推定されている。戦後は住民登録をも拒否していたが、次第に「溶け込み」化されて行き1950年代末に消えた。 |
| 【サンカの延命と消滅(溶け込み)】 |
| 昭和3年、東京のクズシリ(頭)隅田川一を長として東京一円を中心にシノガラ(忍びのヤカラ)と名付けられるサンカ秘密結社が結成されたという。シノガラは外面的には社会での職業生活を送りながらも、サンカ一族の堅固な結束を維持する重要な役割を負って生み出されたものであった。 昭和24年、このシノガラが中心となり、表の顔として財団法人全国蓑製作者組合が組織された。サンカ一族が出しあってつくられたアングラ・マネーとしての相互扶助のための基金の一部が組合基金として浮上することになった。この共同基金の金額は、昭和36年の時点で実に2億49万1011円となっている(当時の大学初任給は2万円)。実際の額の10分の1という見方もある。この基金はシノガラの手によって年1割2分の利回りで運用されているという。現在では基金の年々の増加と運用上の増加を考えれば、莫大な金額になっていることが予想される。また昭和57年の時点で各自が最低1000円以上を収入に応じてシノガラに収めており、総額は5兆円を越すものとされている。サンカ一族はこの資金をフルに活用し、シノガラが日本の根幹として根を張りめぐらし日本の中枢を握ることを目的としている。 昭和36年の時点でシノガラ会員の3分の1は官公史、次いで学会人、財界人であった。優秀な頭脳が見て取れる。 |
| 【サンカと部落民の協調と確執】 |
| 「サンカ(山窩)を考える」の「サンカの被差別性」は次のように述べている。 |
| 【サンカと共産主義者との協調と確執】 |
| 的ヶ浜事件 http://www.geocities.jp/furusatohp/panerurten/photo/matogahama1.jpg 1922年3月25日、大分県速見郡別府町の的ヶ浜海岸の貧民窟を警察が 焼却処分した。 当時、皇族の閑院宮別府訪問を控え、公安による同地に共産主義セクトが集 結し武器の集積や在郷軍人やセクトによる謀議が行われているとの内定によ り、警備・風紀上問題のあるサンカ小屋を取り払うという名目で地元警察隊 により実施されたが、大きな抵抗と暴動を惹起し、帝国議会にまで影響を与 えた。 議会で問題とされたのはこの貧民窟にハンセン病患者がいたという事を共産主義者により喧伝され人道問題に摺り返られたのであった為であり、それこそが共産主義セクトの作戦であったものであるといわれている。 |
| 【柳田国男のサンカ論】 |
| 柳田国男は、人類学雑誌に「イタカ及びサンカ」と題した文章を明治44年から45年にかけて寄稿している(定本柳田全集四巻に収録)。柳田はサンカ問題に果敢に挑戦し、弟子の折口信夫は「日本の全人口の3割はサンカだ」と発表した。これが当局の逆鱗に触れ、柳田と折口の男色関係を特高に脅され民俗学へ転向を余儀なくされた云々とある。 1997年1月10日付けの北海道新聞に東大のY教授が「世界の歴史刊行」に寄せての一文が載っていた。文中柳田の民俗学に触れて次のように書いてある。「柳田の民俗学で使われる”常民”という言葉は、市民でもなければ平民でもない存在を指す。それはやはり”常民”としか呼びようのない文化の基底を担う人々なのだ。彼らに対する無私の愛、その存在への想像力こそ、柳田学から現代史学が受けた貴重な刺激ということになろう」。次のように評されている。「この先生、国際関係史とイスラム史が専門らしいが、柳田が何故民俗学へ転向しなければならなかったかの、経緯も判らず、常民もサンカの意味もまるで判っていない。また、後段で秀吉とフエリッペ二世のライバル関係から云々と的外れな考察もしている。私は以前少し触れたが五木寛之の「風の王国」では、居付きサンカとトケコミサンカを一緒にして常民の側に置いて書かれていて惜しいが、この方が東大の先生の考察より数段ましである」。 |
| 【三角寛のサンカ論】 | ||
| 昭和初期から戦前にかけて、三角寛が、実録小説の形を採ったスキャンダラスな山窩文学で一世を風靡した。1962年、論文「山窩族の社会の研究」で東洋大学からに文学博士の学位を取得している。この三角氏のサンカとの出会いを確認する。(「知られざる日本人(第2回)三角寛(みすみ・かん)「サンカ小説家」と国家権力の影」その他を参照する) 1903(明治36)年、三角寛こと本名・三浦守が大分の山村で農家の末子として生まれた。1915(大正4)年、近所の最乗寺(浄土真宗)に預けられた。 ここでお経を覚えて漢文に親しむ一方、家事一切や寺に伝わる民間薬の知識を吸収した。1920(大正9)年、寺を脱走。 その後数年間、消息不明となる。赤穂(兵庫県)で私塾の書生のようなことをやっていたことが判明している。その後、有為転変を経て朝日新聞の取材記者になる。板橋警察署の官舎に住んでいた。 三角は、警察ネタでスクープを連発する。 そのひとつが、昭和初期の「説教強盗事件」だった。この事件は、強盗に入った賊が、戸締りの不備だの無用心だのを朝まで被害者に説教するというもの。犯人はなかなか逮捕されなかった。 三角寛は取材中、ある刑事から「これは山窩の仕業かもしれない」と聞かされ、初めて「サンカ」に興味を持ったとされている。以降、サンカに遭うため頻繁に出掛け、精力的な取材を行った。結果として“サンカ”に関する貴重な資料が豊富に残された。「売れるから書く」と、三角は娘に豪語していた(『~サンカ小説家の素顔~父・三角寛』三浦寛子・著、現代書館)。 1929(昭和4)年、初の山窩小説「岩ノ坂のもらい子殺し」を世に出し、流行作家となる。 1932(昭和7)年、三角寛が、1913(大正2)年に警視庁の石島丑松刑事がサンカから入手した炙り出しを写真保存したものを石島氏から三角が入手し、サンカ文字との出会う。 この頃、三角氏がひとのみち教団と関係していたことが判明している。礫川(こいしかわ)全次氏の「サンカと三角寛」によると、ジャーナリスト・大宅惣一氏の「ひとのみちとジャーナリズム」が次のように記している。
太平洋戦争がはじまると、三角は山窩小説の筆を絶つ。開戦後は夕張炭鉱の経営で失敗したのち、皇国(みくに)薬草研究所を開き、痔と霜焼に効くという民間薬の浴用剤を開発。軍に売り、大儲けする。 1948(昭和23)年、池袋に映画館「人K(世)坐」を開館(43年閉館)。1956(昭和31)年、同じ池袋に別の映画館「文芸坐」を開く。その後、三角は宗教法人を設立し、僧侶の分際で法人名義の不動産を買い漁るかたわら、出版活動も続行。 1962(昭和37)年、博士号取得。学位申請書には農学博士、社会学博士などを「各方面から取るようにいわれていた」、「もっともすすめられたのが、サンカ社会研究の論文執筆(略)。 サンカに関する限り、三角寛がこのまま死亡すれば(略)学問上の真相文献はのこらない」と記している。ペンネームの三角寛で論文を提出している。 1957(昭和32).6.24日、三角氏は、随筆家福田蘭童氏の作品を著作権侵害だとして著作権協議会に提訴している。6.25日付けの朝日新聞記事「『山窩言葉の盗用』と福田蘭童氏を訴う 著作権侵害で作家の三角寛氏」によると、7.15日号新潮社発行「別冊小説新潮」に福田氏が発表した異色実話「ダイナマイトを喰う山窩」に対し 三角氏は、「自分が想像した山カ〔窩〕言葉を盗用した」として提訴している。三角氏の申立ての要旨は、一、いわゆる山カ言葉は私(三角氏)が、既に死んだ言葉を復元したり、くずれた言葉を直したりしたもので、中には新しく作った言葉が山カナ釜に逆輸入されている場合もある。 いわば独創的な創作言葉で、それを福田氏は無断で五十ヵ所にわたり、三十語盗用しているのは著作権侵害である。 二、福田氏の作品には関東の山カがバクチ、牛泥棒、農家の娘のゆうかいなどをやったという事実無根の話があり、山カの人権を侵害するものだ、としている。 福田氏は三角氏の抗議に対し、19日に三角氏と会い「宇都宮の博徒から取材した語を山カ物語に作り変えた。 山カ言葉を無断で使ったのは申訳ない」と謝意を表しているという。また、関東著作者大会から新庁舎に宛てて同作品の全面取消し要求が出されている。三角氏は次のように応答している。「これまでもたびたび同じケースがあったが、私的に話合いをつけてきた。しかし、山カ言葉を濫用され、山カの人権を侵害する作品がたび重なるので、公的に決着をつけるため提訴した云々」。 これによると、山窩言葉は三角寛による「独創的な創作言葉」であるから、それを使用するのは、「著作権侵害」にあたると主張していることになる。奇妙なことに、当の三角氏自身が、サンカなる表現も含めサンカ物語を創作としていることになる。福田氏を著作権侵害で訴えた5年後、「サンカ社会の研究」を著わしていることになる。次のように評されている。
1971(昭和46).11.8日、三角寛は世を去った(享年68歳)。 |
| 【戦後のサンカ論】 | ||
| 戦後には、三角の協力を仰いだ映画『瀬降り物語』(中島貞夫監督)や、五木寛之の小説「風の王国」、さらに現代書館から刊行された『三角寛サンカ選集』全7巻によって、ふたたび一般に認知されるようになった。
五木寛之 『風の王国』新潮社(1985/01) 新潮文庫版の裏表紙の要約文は次のように記している。
この小説の最終部分は、初代講主・葛城遍浪の言葉として次のように記している。
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| 【国際金融資本帝国主義派のサンカ研究】 | |
「サンカ(山窩)を考える」の「古史古伝」は次のように述べている。
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| 【「義経サンカ説」考】 | |
「サンカ(山窩)を考える」の「義経サンカ説」は次のように述べている。
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| 【サンカと朝鮮系ペクチョンとの相関考】 | |
「サンカ(山窩)を考える」の「サンカと楊水尺・白丁」は次のように述べている。
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| 【参考文献】 |
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●インターネット・"サンカ" 案内 ◎ホームページに見るサンカ論 礫川全次 より 礫川全次さんが、「歴史民俗学20号 サンカの最新学」の最後に、インターネット上に飛び交うサンカに関したホームページを解説と共に紹介してくれています。 【活気あるれる熊野ライフ】 数あるサンカ関係のホームページの中で、現在最も活気に満ちていると紹介して下さっ ています。 【伝統の閼伽出甕】 かなり早くからサンカについての論文を載せていた閼伽出甕(アカデミカ)サンカの論文があるのは【閼伽出甕別館】 【在野精神を誇る野史研究会】 サンカについて言及しているホームページの内、代表的なものを三つあげよと言われれば、熊野ライフ、閼伽出甕のほかに、もうひとつ「野史研究会」をあげなくてはなるまい。これは松山大学の立田浩之先生が主宰するホームページである。 【野史呼び名辞典】 【目森一喜氏のサンカ論】 雑誌「GON !」 に載った目森一喜氏の論考「サンカ 幻の日本漂泊民を追え!」 【毎日新聞「記者の目」 に見る「最後のサンカ」】 2001年6月22日の毎日新聞(東京朝刊)に載った「サンカ」に関する記事 【説教強盗異聞】 サンカに関わるか否かはわからないが、サンカのホームページを開いているうちに説教強盗についても新しい情報を入手できたページ。ついでにもうひとつ 【「荒川の人・16 内海桂子―漫才師」】 礫川全次氏には「サンカと説教強盗」という著作があります。 【「日月昭々」の「サンカ文字」】 【「仲間の会」の「サンカ文字」】 【「大阪・東住吉区/長居公園・仲間の会HP」】 【「山窩の女」】 【杉浦清石の「最後の山窩」】 【山田風太郎の「山窩まだら雲」】 |