出雲の遺跡考(神庭荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡の衝撃考)



 (最新見直し2008.4.6日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、出雲王朝期の遺跡、文化を確認する。

 2008.4.11日 れんだいこ拝


【1970年代までの細々とした青銅器の空白地帯としての出雲】
 1972(昭和47)年、島根県大原郡加茂町の斐伊川に注ぐ赤川という支流のそばに位置する神原神社古墳から、「景初三年」の銘のある三角縁神獣鏡が発見される。「景初三年」は、卑弥呼が魏に使いを送った年であり注目される。

 「出雲の神奈備山(かんなびやま)」は、朝日山(松江市と鹿島町の境に位置する)、仏経山(出雲群斐川町)、大船山(平田市)、茶臼山(松江市)の4山有る。この「神奈備山」周辺から銅剣、銅鐸が出現することになった。

 1973(昭和48)年、出雲神奈備山の一つ朝日山の山麓にある八束郡鹿島町の志谷奥遺跡で、農作業中に偶然、銅鐸2個と銅剣6本が一緒に出土する。これにより、古代出雲の神奈備山調査が行われることになった。

【荒神谷遺跡の衝撃】
 1983(昭和58).7月、島根県と斐川町の教育委員会が、古代出雲の神奈備山の一つである仏経山の北側の低丘陵地の大字神庭字西谷の農道建設予定地の遺跡分布調査を行った。出雲国風土記は、加茂岩倉遺跡や神原神社古墳のある大原郡加茂町のあたりを「神原(かむはら)の郷(さと)」と呼んでいる。大原郡の郷の段に「天の下造らしし大神の御財を積み置き給いし処なり」と記している。斐川町の谷の最奥部の小谷で須恵器の破片が採集された。遺跡の西側に三宝荒神が祀られているので「荒神谷遺跡」(島根県簸川郡斐川町神庭西谷)と名付け、再調査することになった。 

 1984(昭和59).7.11日、荒神谷遺跡の再調査を開始した。水田部から須恵器が掘り出された。7.12日、谷間の南向き斜面から重なり合った状態で銅剣が5本発見された。大騒ぎとなり本格的な発掘をすることになった。遂に全国でそれまで出土していた銅剣の数を上回る大量の358本の銅剣が発見された。中細型銅剣と呼ばれる比較的古い型のもので、作成年代は2世紀半ばと推定されている。

 358本の銅剣は、テラス状の加工段の下に穴が掘られたところで四列の箱に納められていた。発掘担当者は4列をA、B、C、Dに分け解析した。A列は34本で、剣先を東と西に向けたものを交互に置いていた。B列は111本で、4本だけが剣先を西に向け、それ以外は剣先を東と西に向けたものを交互に置いていた。C列は120本で剣先は全て東に向けられていた。D列は93本で、剣先は全て東に向けられていた。何らかの意味が込められていることが間違いない。

 この発見まで、出雲は青銅器文化の未開地とされていた。その出雲から史上空前の銅剣総数300本余りが一箇所の遺跡から出土した。一箇所からの出土では日本最多となる。それまで発見されていた日本中の銅剣数は約300本で、荒神谷遺跡1ケ所でそれを上回った。

 翌1985(昭和60)年、第2回目の荒神谷遺跡調査を開始した。8.16日、銅矛が出土した。8.21日、銅剣の埋納された場所の東方斜面から銅鐸6個と銅矛16本が出土した。銅鐸は銅剣と共に出土する例はあったが、銅矛との組み合わせは初めてであった。荒神谷遺跡以前に日本で出土した銅矛は約160本であるが、一度に16本もの銅矛が発見された例はない。ここに、「古事記」、「日本書紀」が言及していた出雲史が裏付けられたことになった。さらに、これまでの学説では異なる文化圏として区別されていた「銅矛文化圏」と「銅鐸文化圏」の、まさしくその円陣が重なる部分として、ここ出雲から銅矛と中型銅鐸が6個並んで出土した。

【加茂岩倉遺跡の衝撃】
 1996(平成8年).10.14日、荒神谷遺跡の東南3キロ、神原神社の1〜2キロ上流の大原郡加茂町(島根県雲南市加茂町岩倉)の農道整備工事中、銅鐸が発見された。これを加茂岩倉遺跡と名付け本格的調査に乗り出したところ、実に39個(約45センチのものが20個、約30センチのものが19個)の銅鐸が一挙に出土した。一箇所からの出土では、日本最多となる。これも驚異的な数字で、それまでは滋賀県大岩山の24個、兵庫県桜ヶ丘の14個が大量出土例の最高であった。銅鐸文化圏の中心である奈良県でさえ出土した銅鐸総数は20個でしかない。荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸には共に「×」印の刻印がみつかっている。

 奇妙な事に、大きな銅鐸の中に小さな銅鐸を入れてセットする「入れ子」式埋納になっており、初めて確認された。トンボ、シカ、海亀などの絵画に加え出雲独特の文様も持ったこれらの銅鐸は、人が殆ど通らないような谷間の斜面に意図的に埋められていた。同年、正蓮寺周辺の遺跡から、直径が800mにも及ぶ環濠跡も発見されている。
(私論.私見)
 358本の銅剣や銅矛の出土した神庭荒神谷遺跡にしても、39個の銅鐸の出土した加茂岩倉遺跡にしても、出雲の国の西がわの地で、大国主の命が活動したと伝えられる場所と、ほぼ一致している。これは出雲神話の伝える「出雲の国譲り」と関係しており、その結果、うずめられたものではないのかと云う推理が成り立つ。こう読み解く研究者はまだ少ない。

 2011.8.7日 れんだいこ拝

青谷上寺地遺跡の衝撃】
 1988(昭和63)年、日本海側の青谷上寺地遺跡(あおやかみじち、鳥取県青谷町青谷)で、大量の傷ついた遺骸人骨が出土した。2000(平成12)年、殺害されたと見られる三体の遺骸(男性2、女性1)が弥生時代後期後半(2世紀ごろ)の溝から見つかり、粘土質の湿地という条件が幸いして酸素が遮断され、奇跡的に当時の弥生人の脳みそが腐らずに保存されていた。戦闘による殺傷痕がある骨が89点見つかった。このような発見は国内初の快挙となった。中国史書の「後漢書東夷伝」の二世紀後半の「倭国大乱」の記述との関連の可能性があるとされている。更に、同遺跡から木製品9000点、骨角製品1400点、人骨5500点、獣骨2万7000点、鉄製品270点という、とてつもない遺物が出現した。これにより「弥生博物館」、「弥生の宝箱」と呼ばれている。
 
 県埋蔵文化財センターによると、「魏志倭人伝などで『倭国大乱』(2世紀後半)とされた時期と重なる時代の殺傷痕人骨の出土は国内初」とのこと。邪馬台国の卑弥呼が2世紀末に倭国の女王となる直前に激しい戦闘があったことを直接的に示す画期的な資料として注目されそうだ。
 ( http://news.yahoo.co.jp/headlines/mai/000712/dom/21450000_maidomm109.html

【妻木晩田遺跡の衝撃】
 1992(平成4)年から1998年(平成10)年にかけて発掘調査された鳥取県の「妻木晩田(むきばんだ)遺跡」(米子市西伯郡淀江町大山町)は、その周辺遺跡の調査発掘の結果とともに、従来の日本海沿岸地方に対する考古学的所見をことごとく塗り替えた。作業が進むに従い、弥生時代後期後半の遺跡で、佐賀県の弥生時代の環濠集落・吉野ケ里遺跡の1.3倍、約152ヘクタールという日本最大級の弥生集落であることが判明した。神殿と見られる建物の基礎は直径約90cmの柱穴が9個田型に配置されている。柱の直径は40〜50cmではないかというが、これは小さいとはいえ出雲大社の本殿と共通な配置である。これ以外に発見されたものは例えば、竪穴式住居跡など建物跡7百カ所以上、環濠のある防衛施設、首長の墓を含む墓地群などである。首長の墓である大規模の四隅突出型墳丘墓から日本でも最多の鉄器が発見されている。これは首長の権力の強大さを示している.なお四隅突出型墳丘墓墓というのは当時の山陰地方に特有な形式である.

【青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡の衝撃】
 200年、青谷町青谷にある青谷上寺地遺跡の、

【出雲王朝墳墓の特質譚】
 出雲では弥生時代中期末から後期にかけて、四辺形の墳丘墓と四方に設けられた参道から成る四隅突出型の独自の方形墳丘墓が築営されている。この出雲系方墳と天孫系円墳が結合されて我が国独特の前方後円墳となる。

 「古代文明の世界へようこそ」の「出雲とは何か 列島に広がる古代出雲文化圏」を転載する。
 弥生の青銅器地図が変わる

  日本の古代史は出雲のことがわからなければ解けない、といわれてきました。神話にしても、神社にしても、古代の日本には出雲の影響のようなものが強く感じられるのに、古代出雲の実態がよくわからないからです。そもそも、出雲から得られる考古学の情報は、これまであまり多くありませんでした。

 1972年、島根県加茂町の神原神社古墳から卑弥呼が魏に使いを送った年、景初3年の年号が入った三角縁神獣鏡が発見されました。でも、それ以外には、出雲からの出土品が注目されることはあまりありませんでした。弥生時代を特徴づける銅剣や銅鐸などの青銅器の出土もわずかで、出雲はむしろ青銅器の少ない地方というのが、一般的な見方でした。ところが、1984年夏、島根県斐川町の神庭荒神谷(かんばこうじんだに)遺跡で、358本の銅剣が出土、これまで全国で出土した銅剣の総数300本あまりを一気に上回る大発見となりました。翌年には、銅剣が出土した地点から7メートル離れた場所で、今度は銅鐸6個、銅矛16本が発見されました。考古学上の大事件ですが、なぜ出雲から?と多くの研究者を不思議がらせたのも事実です。大発見のたびにマスコミをにぎわす研究者も、このときばかりは寂として声がなかったといわれています。しかし、出雲からの発見はそれだけに留まらなかったのです。

 大量の銅剣発掘から12年後の1996年秋、今度は、神庭荒神谷遺跡から3キロほど離れた加茂町の加茂岩倉遺跡で銅鐸が39個も出土しました。銅鐸はそれまで全国で470個ほどが見つかっていますが、同じ穴から一括して出土した例は、滋賀県大岩山、兵庫県桜ヶ丘の14個が最高でした。ところが、加茂岩倉遺跡の場合、一挙にその3倍近い数が出土したわけです。このときも、研究者は出雲からの大発見に驚き、戸惑いの色を隠せなかったといわれています。神庭荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡のふたつの発見だけで、弥生時代の青銅器地図は完全に塗り変わってしまい、これまで青銅器が少ないといわれていた出雲が、なんと一躍、青銅器の出土品で全国一位の地位にのしあがったのです。

 銅鐸は近畿から、銅矛は九州から

 ふたつの遺跡から出土した銅剣や銅鐸は、いずれも古い形式のものでした。まず、最初の発見となった神庭荒神谷遺跡の出土品では、6個の銅鐸のうち1個は弥生時代前期にさかのぼる最古の形式のものでした。他の銅鐸も中期前半の古い形式で、紀元前3〜2世紀に製作されたようです。これらの銅鐸はおもに近畿から持ち込まれたと考えられています。16本の銅矛については、弥生中期中頃から後半に製作されたものらしく、紀元前2〜1世紀というところ。こちらは北部九州から持ち込まれたとされています。大発見となった358本の銅剣については、やはり紀元前2〜1世紀に製作されたもので、その大半が中国の華北の鉛を含んでいるとのことです。ほとんどの銅剣には「×印」がつけられており、加茂岩倉遺跡出土の銅鐸にも「×印」をつけたものがあることから、銅剣は地元出雲で同一の集団が製作したのではないか、とも考えられています。この大量の銅剣は出雲型銅剣という名で新たに分類され、中国地方や瀬戸内に分布することがわかってきました。

 一方、加茂岩倉遺跡出土の39個の銅鐸は、やはり古い形式のものでした。弥生中期後半(紀元前2〜1世紀頃)に製作されたものとされています。一部は近畿の銅鐸と同じ鋳型から造られた「兄弟銅鐸」とみられており、大和や河内など近畿から持ち込まれたようです。しかし、独自の特徴をもつものや、「×印」をつけたものなどが十数個あり、これらは出雲で造られた可能性も考えられています。

 これまで銅剣と銅矛は九州に分布の中心があり、銅鐸は近畿や東海が中心といわれていました。それぞれ銅剣・銅矛文化圏、銅鐸文化圏と呼ばれていたものです。弥生時代後期(紀元後1〜2世紀)には、そういうはっきりした区分けがあるのですが、それ以前となると、必ずしも厳密なものではなく、両方が複雑に入り組んだ感じになります。出雲では、銅鐸と銅矛が同じ場所から発見されるという非常に珍しいケースとなりました。近畿からも九州からも来ているわけです。これは両地方から影響を受けていたとも考えられるし、あるいは、両地方に隠然とした影響力を持っていた、つまり、各地から奉納された、というように考えることもできます。

  なぜ、人里離れた山中から

 ふたつの遺跡はどちらも人里離れた相当辺鄙なところにあります。現場に立ってみると、よくこんなところから発見されたものだ、とつくづく思えてくるほどです。遺跡が見つかったこと自体が奇跡だ、と思えたほどでした。神庭荒神谷遺跡の場合は、上を通る道路からバイパスを通すために予備調査したところ、偶然見つかったものです。銅剣などは明るい感じの小さな谷の急な斜面に埋められていました。遺跡に近づくためには、細いあぜ道のようなところを登っていきます。 一方、加茂岩倉遺跡の場合は、農道工事の途中で見つかったものです。山あいの狭い農道を数百メートル入ったかなり奥まった谷です。銅鐸は谷を見下ろす丘陵突端の斜面に埋められていました。下の細い農道から見上げると高さは20メートルほどあります。相当急な斜面です。こんな山の斜面で重機を使った農道工事が行われていたのが、やはり不思議になるほどです。

 古代の人々はなぜ、このような山中に大量の銅剣や銅鐸を隠すように埋めたのでしょうか。ふたつの遺跡は両方、銅剣や銅鐸を一時的に土中に保管したというよりは、明らかに隠したように見えます。何のためにそうする必要があったのか、そもそもなぜ出雲地方に大量に集められ、最後には埋められたのか? 出雲をめぐる新たな謎です。

  地元の地図を開いてみると、このふたつの遺跡は、大黒山という小さな山を挟むような位置関係にあります。大黒山は小さいけれども、頂上が鋭く尖っています。この山の西側に神庭荒神谷遺跡が、南東側に加茂岩倉遺跡があります。銅剣は九州方向を、銅鐸は近畿方向を意識しているようにも見えます。加茂岩倉遺跡から1〜2キロ降りていくと、斐伊川に注ぐ赤川という支流のそばに神原神社があります。神社境内の古墳から、卑弥呼が魏に使いを送った景初3年の三角縁神獣鏡が出たところです。神原神社の「神原(かんばら」、神庭荒神谷の「神庭(かんば)」、加茂岩倉の「岩倉」(これは「磐座」に通じる)、このような名前は何かを語っているようでもあります。また、大黒山の「大黒」は「大国」につながり、出雲の主神「大国主命」との関連も考えられます。近くには仏経山という周囲を見下ろす高い山もあります。不思議な地域です。なんでもない谷の斜面から、あれだけの銅剣や銅鐸が出たのなら、このあたりの山野のどこから何が出てきてもおかしくない。そんな気がするほどです。

 神の宝を置いた場所

 『出雲国風土記』によると、加茂岩倉遺跡や神原神社古墳のある大原郡加茂町のあたりを「神原(かむはら)の郷(さと)」と呼んでいます。しかし、古くは別の呼び方をされていたと伝えています。「古老が伝えるところによると、天下造大神(あめのしたつくらししおおかみ)の御財(みたから)を積み置いた処である。従って、本来は神財(かむたから)の郷というべきところを、今の人は誤って神原の郷といっている」。 何かを暗示するような、象徴的なことが述べられているわけです。これとおそらく何か関係があるのではないかと思える事件が、記紀にも述べられています。

 崇神天皇の治世60年、出雲には天からもたらされた神宝が大神宮にあったといいます。崇神天皇はそれを見たいと望み、出雲に使者を派遣したところ、神宝を管理している出雲の振根(ふるね)という人物は筑紫に出向いており、弟の飯入根(いいいりね)が勝手に朝廷に神宝を差し出してしまいます。筑紫から帰ってきた兄は、「何を恐れてたやすく神宝を渡したのか」と怒り、弟を殺してしまう。すると、天皇は将軍を派遣し、振根を滅ぼしてしまいました。出雲の人々は、天皇を恐れ、しばらく出雲の大神を祭ることを中止したということです。同様の事件が、垂仁天皇の26年にもあります。垂仁天皇は、いくら調査してもわからなかった出雲の神宝をもう一度調べるために、物部十千根(とうちね)を派遣します。十千根は出雲の神宝をよく調べ、はっきりと報告したので、神宝をつかさどる役に任ぜられたといいます。

 出雲の神宝を取りあげる話は、大和朝廷が出雲の勢力にたびたび干渉と圧迫を繰り返したことを物語っています。出雲には神宝といわれるほどのものがあった。出雲は神宝が置かれるか、集まってくるような場所だったわけです。朝廷はしきりにそれを調査したり、手に入れようとしている。大和朝廷は、それだけ出雲のことを気にしています。四道将軍を派遣して征圧した邪馬台国時代の旧勢力の地域とはまた別に、出雲には特別の神経を使って支配しようとしているように見えます。大和朝廷がそこまでしなければならない何かが、出雲にはあったわけです。

 出雲はどれくらい古いのか

 神庭荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡から出土した銅剣や銅鐸は、ほぼ紀元前2〜1世紀を中心とした時期に製作されたものと見てよさそうです。たぶん紀元前2〜1世紀ごろに作られ、あまり時間を置かずに出雲にもち込まれ、その後、紀元後1世紀の前半ごろに埋められたと考えられています。紀元前2〜1世紀ごろというのは、日本の古代史ではかなり古い時代です。大和朝廷(三輪王朝)の成立を西暦300年ごろとすると、それよりも400年以上前の時代です。その頃、出雲は近畿や九州から銅鐸や銅矛が集まってくる立場にあったことになります。銅剣や銅矛、銅鐸はいずれも弥生時代には貴重な祭りの道具です。これらが大量に集められるということは、それだけ出雲が重要な地位にあったことを意味しています。ここに早い時代の出雲勢力のひとつの基盤をみることができます。しかし、当時の出雲がどれほど重要な地域であったのか、今のところそれを知る材料はほとんどありません。古代出雲の厄介なところが、ここです。突然、大量の銅剣や銅鐸が出土したけれども、当時のことを知る考古学資料があまりない。

 数年前、島根県松江市では田和山遺跡という少し変わった環濠集落が発見されました。弥生時代中期を中心とする遺跡ですが、小さな岡を囲むように三重の濠がある砦のような集落でした。しかし、何か特別な、これというほどの出土品は報告されていません。島根県の他の遺跡なども、弥生時代の範囲を超えない常識的なもののようです。出雲神話を思わせるような何か独特のものは、まだ出ていません。古代の出雲はやはり謎です。なぜ出雲神話があり、古い時代の銅剣や銅鐸が大量に出土したのか。

 研究家のなかには、古代の出雲には列島を支配する王国のようなものがあった、と考える人もいます。しかし、考古学の発掘からはそれを裏づけるものは出ていません。政治的な意味での王国があったかどうか、疑問です。ちょうど紀元前1世紀ごろの倭国のことを書いた『漢書地理志』によると、当時の日本は「分かれて百余国となる」とあります。百ほどの国に分かれ、まだ全土を支配する王のようなものはいなかったようです。まだ日本には、統一王朝のようなものはなかったようです。むしろ、古代出雲について、どうしても気になるのは、邪馬台国の存在です。あらゆる状況証拠から考えて、現在では、邪馬台国は畿内大和の纏向遺跡周辺にあったと考えるのが最も有力です。しかも、第1部の「邪馬台国は出雲系か」のところで見たように、邪馬台国はどうやら、出雲系の神を奉じる王国であったようです。仮に、古代出雲王国と呼べるものがあったとしたら、それは邪馬台国と同じではないか、と考えられます。古代の日本では、出雲の神々への信仰が、列島のかなり広い範囲に及んでいたのではないか、と私は思います。いわば、古代出雲文化圏のようなものがすでに存在していた。邪馬台国はそのような基盤の上に成立し、出雲文化圏の上に乗っている。そのあたりを、次章でもう少し詳しく見てみます。(2005年6月)














(私論.私見)