| 出雲の遺跡考(神庭荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡の衝撃考) |

| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、出雲王朝期の遺跡、文化を確認する。 2008.4.11日 れんだいこ拝 |
| 【1970年代までの細々とした青銅器の空白地帯としての出雲】 |
| 1972(昭和47)年、島根県大原郡加茂町の斐伊川に注ぐ赤川という支流のそばに位置する神原神社古墳から、「景初三年」の銘のある三角縁神獣鏡が発見される。「景初三年」は、卑弥呼が魏に使いを送った年であり注目される。 「出雲の神奈備山(かんなびやま)」は、朝日山(松江市と鹿島町の境に位置する)、仏経山(出雲群斐川町)、大船山(平田市)、茶臼山(松江市)の4山有る。この「神奈備山」周辺から銅剣、銅鐸が出現することになった。 1973(昭和48)年、出雲神奈備山の一つ朝日山の山麓にある八束郡鹿島町の志谷奥遺跡で、農作業中に偶然、銅鐸2個と銅剣6本が一緒に出土する。これにより、古代出雲の神奈備山調査が行われることになった。 |
| 【荒神谷遺跡の衝撃】 |
| 1983(昭和58).7月、島根県と斐川町の教育委員会が、古代出雲の神奈備山の一つである仏経山の北側の低丘陵地の大字神庭字西谷の農道建設予定地の遺跡分布調査を行った。出雲国風土記は、加茂岩倉遺跡や神原神社古墳のある大原郡加茂町のあたりを「神原(かむはら)の郷(さと)」と呼んでいる。大原郡の郷の段に「天の下造らしし大神の御財を積み置き給いし処なり」と記している。斐川町の谷の最奥部の小谷で須恵器の破片が採集された。遺跡の西側に三宝荒神が祀られているので「荒神谷遺跡」(島根県簸川郡斐川町神庭西谷)と名付け、再調査することになった。 1984(昭和59).7.11日、荒神谷遺跡の再調査を開始した。水田部から須恵器が掘り出された。7.12日、谷間の南向き斜面から重なり合った状態で銅剣が5本発見された。大騒ぎとなり本格的な発掘をすることになった。遂に全国でそれまで出土していた銅剣の数を上回る大量の358本の銅剣が発見された。中細型銅剣と呼ばれる比較的古い型のもので、作成年代は2世紀半ばと推定されている。 358本の銅剣は、テラス状の加工段の下に穴が掘られたところで四列の箱に納められていた。発掘担当者は4列をA、B、C、Dに分け解析した。A列は34本で、剣先を東と西に向けたものを交互に置いていた。B列は111本で、4本だけが剣先を西に向け、それ以外は剣先を東と西に向けたものを交互に置いていた。C列は120本で剣先は全て東に向けられていた。D列は93本で、剣先は全て東に向けられていた。何らかの意味が込められていることが間違いない。 この発見まで、出雲は青銅器文化の未開地とされていた。その出雲から史上空前の銅剣総数300本余りが一箇所の遺跡から出土した。一箇所からの出土では日本最多となる。それまで発見されていた日本中の銅剣数は約300本で、荒神谷遺跡1ケ所でそれを上回った。 翌1985(昭和60)年、第2回目の荒神谷遺跡調査を開始した。8.16日、銅矛が出土した。8.21日、銅剣の埋納された場所の東方斜面から銅鐸6個と銅矛16本が出土した。銅鐸は銅剣と共に出土する例はあったが、銅矛との組み合わせは初めてであった。荒神谷遺跡以前に日本で出土した銅矛は約160本であるが、一度に16本もの銅矛が発見された例はない。ここに、「古事記」、「日本書紀」が言及していた出雲史が裏付けられたことになった。さらに、これまでの学説では異なる文化圏として区別されていた「銅矛文化圏」と「銅鐸文化圏」の、まさしくその円陣が重なる部分として、ここ出雲から銅矛と中型銅鐸が6個並んで出土した。 |
| 【加茂岩倉遺跡の衝撃】 |
| 1996(平成8年).10.14日、荒神谷遺跡の東南3キロ、神原神社の1〜2キロ上流の大原郡加茂町(島根県雲南市加茂町岩倉)の農道整備工事中、銅鐸が発見された。これを加茂岩倉遺跡と名付け本格的調査に乗り出したところ、実に39個(約45センチのものが20個、約30センチのものが19個)の銅鐸が一挙に出土した。一箇所からの出土では、日本最多となる。これも驚異的な数字で、それまでは滋賀県大岩山の24個、兵庫県桜ヶ丘の14個が大量出土例の最高であった。銅鐸文化圏の中心である奈良県でさえ出土した銅鐸総数は20個でしかない。荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸には共に「×」印の刻印がみつかっている。 奇妙な事に、大きな銅鐸の中に小さな銅鐸を入れてセットする「入れ子」式埋納になっており、初めて確認された。トンボ、シカ、海亀などの絵画に加え出雲独特の文様も持ったこれらの銅鐸は、人が殆ど通らないような谷間の斜面に意図的に埋められていた。同年、正蓮寺周辺の遺跡から、直径が800mにも及ぶ環濠跡も発見されている。 |
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| 358本の銅剣や銅矛の出土した神庭荒神谷遺跡にしても、39個の銅鐸の出土した加茂岩倉遺跡にしても、出雲の国の西がわの地で、大国主の命が活動したと伝えられる場所と、ほぼ一致している。これは出雲神話の伝える「出雲の国譲り」と関係しており、その結果、うずめられたものではないのかと云う推理が成り立つ。こう読み解く研究者はまだ少ない。 2011.8.7日 れんだいこ拝 |
| 【青谷上寺地遺跡の衝撃】 |
| 1988(昭和63)年、日本海側の青谷上寺地遺跡(あおやかみじち、鳥取県青谷町青谷)で、大量の傷ついた遺骸人骨が出土した。2000(平成12)年、殺害されたと見られる三体の遺骸(男性2、女性1)が弥生時代後期後半(2世紀ごろ)の溝から見つかり、粘土質の湿地という条件が幸いして酸素が遮断され、奇跡的に当時の弥生人の脳みそが腐らずに保存されていた。戦闘による殺傷痕がある骨が89点見つかった。このような発見は国内初の快挙となった。中国史書の「後漢書東夷伝」の二世紀後半の「倭国大乱」の記述との関連の可能性があるとされている。更に、同遺跡から木製品9000点、骨角製品1400点、人骨5500点、獣骨2万7000点、鉄製品270点という、とてつもない遺物が出現した。これにより「弥生博物館」、「弥生の宝箱」と呼ばれている。 県埋蔵文化財センターによると、「魏志倭人伝などで『倭国大乱』(2世紀後半)とされた時期と重なる時代の殺傷痕人骨の出土は国内初」とのこと。邪馬台国の卑弥呼が2世紀末に倭国の女王となる直前に激しい戦闘があったことを直接的に示す画期的な資料として注目されそうだ。 ( http://news.yahoo.co.jp/headlines/mai/000712/dom/21450000_maidomm109.html) |
| 【妻木晩田遺跡の衝撃】 |
| 1992(平成4)年から1998年(平成10)年にかけて発掘調査された鳥取県の「妻木晩田(むきばんだ)遺跡」(米子市西伯郡淀江町大山町)は、その周辺遺跡の調査発掘の結果とともに、従来の日本海沿岸地方に対する考古学的所見をことごとく塗り替えた。作業が進むに従い、弥生時代後期後半の遺跡で、佐賀県の弥生時代の環濠集落・吉野ケ里遺跡の1.3倍、約152ヘクタールという日本最大級の弥生集落であることが判明した。神殿と見られる建物の基礎は直径約90cmの柱穴が9個田型に配置されている。柱の直径は40〜50cmではないかというが、これは小さいとはいえ出雲大社の本殿と共通な配置である。これ以外に発見されたものは例えば、竪穴式住居跡など建物跡7百カ所以上、環濠のある防衛施設、首長の墓を含む墓地群などである。首長の墓である大規模の四隅突出型墳丘墓から日本でも最多の鉄器が発見されている。これは首長の権力の強大さを示している.なお四隅突出型墳丘墓墓というのは当時の山陰地方に特有な形式である. |
| 【青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡の衝撃】 |
| 200年、青谷町青谷にある青谷上寺地遺跡の、 |
| 【出雲王朝墳墓の特質譚】 |
| 出雲では弥生時代中期末から後期にかけて、四辺形の墳丘墓と四方に設けられた参道から成る四隅突出型の独自の方形墳丘墓が築営されている。この出雲系方墳と天孫系円墳が結合されて我が国独特の前方後円墳となる。 |
「古代文明の世界へようこそ」の「出雲とは何か 列島に広がる古代出雲文化圏」を転載する。
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