| 【敏達天皇即位】 |
| 572(敏達天皇元)年、敏達天皇が即位。物部尾輿を父、弓削氏の女阿佐姫を母とする物部守屋(もののべのもりや、?-
587)は、 大連に任じられた。蘇我馬子は敏達天皇のとき大臣に就任。馬子はこうして大臣兼外戚として権力をふるった。 |
| 【隋が中国を統一】 |
| 581年、隋(ずい)が建国され、中国の新王朝となる。後漢代の有名な官僚・楊震の裔と称する楊堅(諡「文帝」)が魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。文帝の治績の最大のものとして称えられるのが、科挙(正式には貢挙)の実行である。南北朝時代では九品官人法により、官吏の任命権が貴族勢力の手に握られていた。科挙は地方豪族の世襲的任官でなく実力試験の結果によって官吏の任用を決定するという極めて開明的な手段であり、これをもって官吏任命権を皇帝の元へ取り返すことを狙った。文帝の治世をその元号を取って開皇の治と呼ぶ。文帝によって整備された諸制度はほとんどが後に唐に受け継がれ、唐274年の礎となった。都は大興城(長安、現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。 |
| 【仏教導入を廻って続く蘇我と物部の抗争】 |
584(敏達天皇13)年、百済から来た鹿深臣が石像一体、佐伯連が仏像一体を持っていた。それを馬子が請うてもらい受け、司馬達等と池邊氷田を派遣して修行者を探させたところ、播磨国で高句麗人の恵便という還俗者を見つけ出した。馬子はこれを師として、司馬達等の娘の嶋を得度させて尼とし善信尼となし、更に善信尼を導師として禅蔵尼、恵善尼を得度させた。馬子は仏法に帰依し、三人の尼を敬い、石川宅に仏殿を造って仏法を広めた。
585(敏達天皇14).2月、大臣・蘇我馬子は病になり、卜者に占わせたところ父の稲目のときに仏像が破棄された祟りであると言う。馬子は敏達天皇に奏上して仏法を祀る許可を得た。天皇はこれを許可したが、この頃から疫病が流行しだし多くの死者を出した。
3月、排仏派の物部守屋と中臣勝海(中臣氏は神祇を祭る氏族)が「蕃神を信奉したために疫病が起きた」と奏上し、敏達天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は寺に赴き、仏殿を破壊し、仏像を海に投げ込ませた。守屋は馬子ら仏法信者を面罵して、三人の尼を差し出すよう命じた。馬子が尼を差し出したところ、守屋は尼の衣をはぎとって縛り上げ尻を鞭打った。しかし、疫病は治まらず敏達天皇も守屋も病に伏した。人々は仏像を焼いた罪であると言い合った。
同年6月、馬子も病が癒えず奏上して仏法を祀る許可を求めた。敏達天皇は馬子ひとりのみこれを許し三尼を返した。馬子は三尼を拝し、新たに寺を造り、仏像を迎えて供養した。 |
| 【用明天皇即位】 |
同年8月、敏達天皇が崩御した。葬儀を行う殯宮で馬子と守屋は互いを罵倒しあった。馬子は佩刀して誄言(しのびごと)を奉った。守屋は「猟箭がつきたった雀鳥のようだ」と笑った。守屋が身を震わせて誄言を奉ると、馬子は「鈴をつければよく鳴るであろう」と笑った。
敏達天皇の次には馬子の推す橘豊日皇子(欽明天皇の皇子、母は馬子の姉の堅塩媛。聖徳太子の父)が即位した(用明天皇)。用明天皇は、「神道を尊び、仏法を信ず」(日本書紀)とあり、仏法を積極的に導入した。
586(用明天皇元)年、守屋は敏達天皇の異母弟・穴穂部皇子と結んだ。 穴穂部皇子は炊屋姫(敏達天皇の后)を犯そうと欲して殯宮に押し入ろうとしたが、三輪逆に阻まれた。怨んだ穴穂部皇子は守屋に命じて三輪逆を殺させた。馬子は「天下の乱は遠からず来るであろう」と嘆いた。守屋は「汝のような小臣の知る事にあらず」と答えた。
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| 【蘇我馬子と物部守屋の公然抗争始まる】 |
| 蘇我氏は以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年に渡り権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築くことになる。用明天皇の異母弟の穴穂部皇子は皇位を欲しており、大いに不満であった。穴穂部皇子は守屋と結び、先帝の寵臣の三輪逆を殺させた。 |
| 【聖徳太子の登場】 |
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蘇我稲目の娘堅塩媛を母とする橘豊日皇子(後の用明天皇)を父とし、欽明天皇を父とし蘇我稲目の娘小姉君を母とする穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を母とする蘇我氏と強い血縁関係の「厩戸王」(574.2.7ー622.4.8)又は豊聡耳(とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)、後の聖徳太子が政局に登場してきた。古事記では上宮之厩戸豊聡耳命と表記される。日本書紀では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と表記されている。聖徳太子は後世につけられた尊称である。子には山背大兄王らがいる。 |
| 【蘇我馬子派が物部守屋派を滅ぼす】 |
587(用明天皇2).4月、用明天皇は病になり、三宝(仏法)に帰依することを欲し群臣に諮った。仏教の受容を巡って排仏派の物部守屋、中臣勝海と崇仏派の蘇我馬子とが激しく対立した。守屋と中臣勝海は、「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」と反対した。馬子は詔を奉ずべきとして、穴穂部皇子に豊国法師をつれて来させた。守屋は大いに怒ったが、群臣の多くが馬子の味方であることを知り、河内国へ退いた。
俳仏派の中臣勝海は彦人皇子と竹田皇子(馬子派の皇子)の像を作り呪詛した。しかし、やがて彦人皇子の邸へ行き帰服を誓った(自派に形勢不利と考えたとも、彦人皇子と馬子の関係が上手くいっておらず彦人皇子を擁した自派政権の確立を策したとも言われている)が、その帰路、舍人迹見赤檮に襲われた。守屋は物部八坂、大市造小坂、漆部造兄を馬子のもとへ遣わし、「群臣が我を殺そうと謀っているので、阿都へ退いた」と伝えた。
同年4.9日、用明天皇が崩御した。馬子は、敏達天皇の皇后であったトヨミケカシキヤ姫(豊御食炊屋姫、後の推古天皇)を、守屋は穴穂部皇子を推挙し両者譲らなかった為、次期天皇の擁立をめぐって戦闘状態に入った。6.7日、馬子は、トヨミケカシキヤ姫の詔を得て、用明天皇の皇子である聖徳太子を味方に付け、優位に立った。
同年6月、馬子が先手を打ち、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺した。翌日、宅部皇子を誅した。7月、馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決め、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。
これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。馬子の軍は奮い立って攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された。更に守屋の子らも殺され、守屋軍勢は敗退した。これにより、大豪族であった物部氏は没落し、蘇我氏一族が進捗した。守屋の一族は葦原(物部氏の領地)に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなった。後に守屋の弟が召しだされて石上氏を名乗ることになる。 |
| 【崇峻天皇即位】 |
| 同年8月、馬子は、泊瀬部皇子を皇位につけ(崇峻天皇)、娘の炊屋姫は皇太后となった。聖徳太子にも妃を送り込み、皇室との絆を更に強いものとした。曽我氏の専横政治が始まった。 |
588(崇峻天皇元)年、馬子は善信尼らを学問をさせるため百済へ派遣した。
591(崇峻天皇4)年、崇峻天皇は馬子と諮り、任那回復のため2万の軍を筑紫へ派遣し、使者を新羅へ使わせた。
| 【崇峻天皇暗殺される】 |
592(崇峻天皇5).10月、天皇へ猪が献上された。崇峻天皇は猪を指して「何時か猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたいものだ」と言った。政治の実権が馬子にあることに対して漏らした崇峻天皇の不満の言葉であった。馬子は崇峻天皇の言葉を知るや、天皇を謀殺することを決意する。
同年11月、馬子は東国から調があると偽って、東漢駒に崇峻天皇を弑させた。東漢駒は馬子の娘の河上娘を奪って妻とした。怒った馬子は東漢駒を殺させた。
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| 【推古天皇即位】 |
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593年、馬子は皇太后であった豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。史上初の女帝である。厩戸皇子(聖徳太子)は皇太子となった。
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| 【廐戸皇子が摂政となり、仏教奨励政策を推進する】 |
593(推古天皇元).4.10日、厩戸皇子(聖徳太子)は摂政となり、馬子は聖徳太子と合議して政務を執り始めた。以降、仏教を奨励し、冠位十二階や十七条憲法を定めて中央集権化を推し進め、遣隋使を派遣して隋の優れた制度、学問を輸入していくことになる。
同年、太子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波(現在の大阪府大阪市天王寺区)に四天王寺を建立した。物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は馬子のものになった。馬子の妻が守屋の妹であるので物部氏の相続権があると主張したためである。半分は四天王寺へ寄進された。
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| 【廐戸皇子が、仏教興隆の詔「三宝興隆の詔」を発す】 |
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594(推古天皇2)年、21歳の聖徳太子が、仏教興隆の詔「三宝興隆の詔」を発し、日本各地に寺を建立した。595(推古天皇3)年、高句麗の僧彗慈が渡来し、太子の師となり、隋が官制が整った強大な国で仏法を篤く保護していることを教えられた。596(推古天皇4)年、馬子は蘇我氏の氏寺である飛鳥寺を建立した。
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| 【遣隋使を派遣する】 |
| 600(推古天皇8)年、初めて遣隋使を派遣した。同年、新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる。
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| 【斑鳩宮造営開始】 |
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601(推古天皇9).2月、聖徳太子は、現在の奈良県北西部に斑鳩宮(いかるがのみや)の造営を開始する。
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| 【新羅征討軍が派兵され失敗する】 |
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602(推古天皇10)年、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟の来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟の当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。
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| 【聖徳太子が「冠位十二階」を制定する】 |
603(推古天皇11).12.5日、いわゆる「冠位十二階」を定めた。 氏姓制によらず才能によって人材を登用し、官位の任命を天皇が行うことにより天皇中央集権を強める目的であったとされる。冠位十二階制は、日本で初めてつくられた冠位制であり、この後の諸冠位制を経て、様々な紆余曲折を経て律令位階制へ移行していった。
12階とは、「1・大徳 (だいとく、紫)、2・小徳 (しょうとく、紫)、3・大仁 (だいにん、青)、4・小仁 (しょうにん、青)、5・大礼 (だいらい、赤)、6・小礼 (しょうらい、赤)、7・大信 (だいしん、黄)、8・小信 (しょうしん、黄)、9・大義 (だいぎ、白)、10・小義 (しょうぎ、白)、11・大智 (だいち、黒)、12・小智 (しょうち、黒)。 |
| 【聖徳太子が「十七条憲法」を制定する】 |
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604(推古天皇12).4.3日、聖徳太子がいわゆる「十七条憲法」(「聖徳太子の憲法17条の研究」)を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している。(津田左右吉などはこれを後世の偽作であるとしている)
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| 【隋の文帝が死去し、楊広(測位後煬帝)が後継する】 |
604年、文帝は死去し、楊広が後を継ぐ(以後煬帝)。第2代煬帝時代、煬帝は質素を好んだ文帝とは対照的に派手好みで、父がやりかけていた大土木事業を大々的に推し進め、完成へと至らせた。主なものが首都・大興城の建設と大運河を大幅に延長して河北から江南へと繋がるものとした。
この時代に隋高戦争がぼっ発する。隋の大陸統一により、百済と新羅は冊封を受け髄秩序に恭順の意を表したが、脅威を感じた高句麗は隋の敵突厥と結んで隋に対抗しようとする様子を見せた。このため、隋は100万に及ぶ大軍を起こしこれを三度目にわたって攻撃したが失敗し、隋滅亡の最大原因となった。第二次高句麗遠征からの撤兵の途中に起きた楊玄感の反乱を期に、全国的に反乱が起きるようになる。煬帝自身は行幸の途中で、江都に留まり、反乱鎮圧の指揮を執ったが、もはや手の付けようのない状態に陥いる。 |
605(推古天皇13)年、完成した斑鳩宮へ移り住んだ。
| 【遣隋使が再度派遣され、小野妹子が奏上する】 |
607(推古天皇15)年、小野妹子、鞍作福利を遣隋使として隋に送った。国書には次のように記していた。(「隋書」卷81
列傳第46東夷*?國」)
| 「日出處天子致書日沒處天子」 |
| 「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」。 |
この国書は、太子が大国隋と対等の外交を目指していたことを窺わせるが、隋の皇帝煬帝をして、「無礼である、二度と取り次がせるな」と大いに不快にさせた。当時、隋は高句麗との戦争を準備しており、背後の倭国と結ぶ必要があり、翌年、隋は返礼の使者である裴世清を倭国へ送った。
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612(推古天皇20)年
、堅塩媛を欽明天皇陵に合葬する儀式を盛大にとり行った。堅塩媛は皇太夫人と尊称され、諸皇子、群臣が誅した。蘇我氏の絶大な権勢を示した。
| 【聖徳太子が「三経義疏」を制定する】 |
| 615(推古天皇23)年、太子は仏教を厚く信仰し、この年までに三経義疏を著した。 |
| 【隋滅亡】 |
| 618年、煬帝は近衛軍団により殺害される。これにより隋が滅亡する。その後は唐が中国を支配するようになる。朝鮮3国はこぞって冊封を受けた。 |
推古の子の竹田王子は病弱で若死すると、推古は間人王女の子(聖徳)を天皇にはしなかった。間人王女は推古の母の堅塩姫のライバルだった小姉君の子だったので敵対心があったのだろう。蘇我とは無関係の田村王子を推す。蘇我氏に否定的な日本書紀などの記述によれば、聖徳太子は、皇室の周辺に国政を天皇中心に改革せんとし、次第に蘇我氏と対立し始めた。
| 【聖徳太子逝去】 |
622(推古天皇30)年、斑鳩宮で倒れていた太子の回復を祈りながら太子の妻、膳大郎女が2.21日に没し、その後を追うようにして翌日太子は亡くなった(享年49歳)
太子は当時最大の豪族である蘇我馬子と協調して政治を行い、隋、高句麗、百済の進んだ官司制をとりいれて天皇の中央集権を強化し、新羅遠征計画を通じて天皇の軍事力を強化し、遣隋使を派遣して外交を推し進めて隋の進んだ文化、制度を輸入した。仏教の興隆につとめ、冠位12階、17条憲法。『国記』、『天皇記』の編纂を通して天皇の地位を高めるなど大きな功績をあげた。 晩年策定せしめた歴史書は「先代旧事本紀」(せんだいくじほんき)として伝えられている。それによると、ニギハヤヒの命の系統が正統であり、現在の天皇家が傍流であるかまの如くの記述となっている。
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623(推古天皇31)年、新羅の調を催促するため馬子は
境部雄摩侶を大将軍とする数万の軍を派遣した。新羅は戦わずに朝貢してきた。
| 【蘇我馬子と推古天皇の確執、馬子逝去、蝦夷が後継する】 |
624(推古天皇32)年、馬子は元は蘇我氏の本居で天皇家の領地となっていた葛城県の割譲を推古天皇に要求した。推古天皇は「自分は蘇我氏の出で、大臣は伯父だから大臣の求めはなんでも聞き入れてきたが、これだけは聞き入れられない」と拒否された。
626年、馬子は死去した。馬子の葬られた桃原墓は、奈良県明日香村島之庄の石舞台古墳のことだとする説が有力である。
また、同古墳の西数百mの位置にある島庄遺跡についても邸宅の一角だったとする説がある。馬子の後をその子の蘇我蝦夷が継ぐ。入鹿(そがのいるか、645.7.10 )は、父の大臣・蘇我蝦夷の晩年、父に代わって国政を掌理する。 |
| 【舒明天皇即位】 |
推古天皇は、死の寸前に、二人の皇子を別々に病床に呼んだ。二人とは、聖徳太子の息子の山背大兄王と敏達天皇の孫の田村皇子であった。蘇我蝦夷は次の天皇に田村皇子を推し、境部摩理勢(馬子の弟)が山背大兄王を推し対立する。境部は蝦夷によって倒され、蝦夷は田村皇子(古人大兄皇子)を即位させることに成功する。しかし、これが山背大兄王との対立を決定的なものに発展する。
629年、馬子の子・蝦夷(えみし)と孫の入鹿が、田村皇子(古人大兄皇子)を第34代天皇として即位させる(舒明天皇、在位629ー641)。入鹿は、蝦夷の屋敷を上の宮門、自分の屋敷を谷の宮門と称した。自分の子供たちを王子と呼ばせ始めた。 |
| 【皇極天皇即位】 |
641(舒明天皇13).10.9日、舒明天皇が死去した。
642(皇極天皇元年).1.15日、舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、敏達天皇の子・押坂彦人大兄皇子の子・茅渟王(ちぬのおおきみ)の第一皇女、母は吉備姫王(きびひめのおおきみ)の寶女王が第35代天皇として皇極天皇が即位した。推古天皇から一代おいて即位した女帝で、諱は寶女王(たからのひめみこ、たからのおおきみ)。和風諡号は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。
皇極天皇は、はじめ高向王と結婚して、漢皇子を産んだ。 後に舒明天皇の皇后として、中大兄皇子(のちの天智天皇)、間人皇女、大海人皇子(のちの天武天皇)を産んだ。
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