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 (最新見直し2008.8.8日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「ウィキペディア聖徳太子」その他を参照する。
  
 2006.12.20日 れんだいこ拝


【総評】
 飛鳥時代の皇族とされる人物で、日本古代史上重要な役割を果たしている。仏教受容を廻る政争で、受容派の蘇我氏側に与し、神道派の物部氏と対立する。蘇我氏が勝利し、推古天皇の御世、摂政として活躍する。冠位十二階制の制定、17条憲法の制定、仏教導入政策、遣隋使の派遣、国史編纂等で知られる。晩年は蘇我氏と対立し一族が滅ぼされる。

【出生及び出自】
 574.2.7日(敏達天皇3.1.1日)-622.4.8日(推古天皇30.2.7日) 。

 574(敏達天皇3)年、父を、橘豊日皇子(後の用明天皇)、母を欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)として生まれた。用明天皇の第二皇子とされる。

 橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛(きたしひめ)を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘小姉君(おあねのきみ)であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。

 本名は「厩戸(うまやど)皇子」であり、厩戸の前で出生したことによるとの伝説がある。ただし、生誕地の近辺に厩戸(うまやと)という地名があり、そこから名付けられたという説が有力である。別名、「豊聡耳」(とよとみみ、とよさとみみ)、「上宮王」(かみつみやおう)とも呼ばれた。古事記では「上宮之厩戸豊聡耳命」、日本書紀では「厩戸皇子」、「豊耳聡聖徳」、「豊聡耳法大王」、「法主王」と色々に表記されている。他にも、上宮聖徳法王帝説での「厩戸豊聰耳聖徳法王」、「上宮聖徳法王」、万葉集巻三の「上宮聖徳皇子」など、様々な名前で呼ばれる。

【聖徳太子の名前考】
 聖徳太子という名は生前に用いられた名称ではなく平安時代から広く用いられ一般的な呼称となった後世につけられた尊称(追号)である。「死後に贈られた諡号(しごう)である」との記述もあるが、「諡号」と云うのかどうか疑問が有る。、没後100年以上を経て成立した尊称であり、平安時代に成立した史書である日本三代実録大鏡、東大寺要録、水鏡等にはいずれも「聖徳太子」と記載され、「厩戸」、「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期にはすでに「聖徳太子」の名が広く用いられていたことが伺える。

【生育期】
 幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。その中でも注目すべきは、戸皇子は用明天皇に愛され、、少年期から青年期にかけて天皇の宮(池辺宮:いけのべのみや)の南にあった上宮(かみつみや、奈良県桜井市上之宮)で過ごしていることであろう。

【蘇我氏と物部氏の政争に於ける蘇我氏側で台頭する】
 585(用明天皇元)年、敏達天皇崩御を受け、厩戸皇子の父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。蘇我氏は渡来人の東漢氏(やまとのあやうじ)や西文氏(かわちのふみうじ)と繫がり、仏教受容派に位置した。石上神宮を氏神とする物部氏は中臣氏や忌部氏とともに排仏を主張した。紀氏、巨勢氏、膳部氏、葛城氏、大伴氏、安倍氏、平群氏などの有力豪族は蘇我氏に与した。こうして蘇我派と物部派の対立が激しくなって行った。

 587年、戸皇子14歳の時、用明天皇は病気回復を願って仏教に帰依しようと群臣に相談した。蘇我馬子は賛成したが物部守屋や中臣勝海らは大反対した。この対立がやがて武力対立へと発展する。

 587(用明天皇2)年、用明天皇は即位2年足らずで崩御した。後継争いが始まり、蘇我馬子は、敏達天皇の皇后・豊御食炊屋姫の詔を得て、物部守屋が推す穴穂部皇子(あなほべのみこ)を誅殺する。続いて、蘇我馬子は額田部皇女(後の推古天皇)を後継とし、穴穂部皇子や皇子とつながっていた宅部皇子(やかべみこ)を殺害した。

 こうして物部氏と蘇我氏の対立が激化する。7月、蘇我馬子は、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めた。が、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城(いなぎ)を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを「丁未の変」(ていびのへん)と云う。

 この時、厩戸皇子は、泊瀬部皇子(はつせべのみこ。後の崇峻天皇)、竹田皇子らの蘇我氏の血を引く皇族と共に蘇我馬子の軍に加わった。白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓った。

 討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮(とみのいちい)に射殺された。秦河勝(はたのかわかつ)が守屋の首を切り落とし、本陣に持ち帰った。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。異説として、破れた物部守屋は東浅井郡浅井町まで漆部小阪を伴って領地の田根之荘に逃げ、池奥の山中にある洞穴に隠れ住んだとも云う。ここが「本宮の岩屋」と呼ばれるようになり、村人が食事の世話をした。守屋はここで萩生翁と自称して暮らし、神社に祀られたと語り継がれている。

【法興寺(飛鳥寺)の建立】
 588(崇峻2)年、戦勝の誓いに従い、蘇我氏は法興寺(飛鳥寺)の建設を始めた。

 589年、隋が中国全土を統一した。都を西安(長安)とした。初代皇帝は文帝。

【崇峻天皇擁立、暗殺】
 戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。

 592(崇峻天皇5).11月、馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)に命じて崇峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立し、12月、推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)で即位した。天皇家史上初の女帝である。甥(おい)の厩戸皇子が皇太子となった。

【聖徳太子が摂政となる】
 593(推古天皇元).4.10日、20歳の時、摂政となり、馬子と共に天皇を補佐した。聖徳太子は大王(天皇)中心の政治をめざし、以降目覚しい国政改革に着手していく事になる。

【聖徳太子が四天王寺他の寺院建立】
 同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立した。聖徳太子によって建立された日本最初の官寺。中門,五重塔,金堂,講堂が一直線に並べ回廊が囲む四天王寺式の伽藍配置が特徴。

 蘇我氏と物部氏の戦いにおいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、寺院を建てると四天王に誓願を立てた。見事勝利したので、摂津国難波に日本最古の官寺として四天王寺(大阪市天王寺区)を建てた。

 594(推古天皇2).2月、21歳の時、仏教興隆の詔を発した。寺院建立にふさわしい地を求めて近江(滋賀県)に立ち寄った。

 595(推古天皇3).5月、22歳の時、高句麗の僧・彗慈(えじ)が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。

 596(推古4).11月、23歳の時、法興寺(飛鳥寺)が完成する。

【聖徳太子の対外政策】
 600(推古天皇8)年、27歳の時、新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる。

 この頃、隋との外交を結ぶため初めて遣隋使を派遣した(第1回遣隋使は隋書に記載されている)。但し、相手にされなかった。

【斑鳩宮を造営】
 601(推古天皇9).2月、28歳の時、斑鳩宮を造営した。  

【新羅征討未遂事件】
 602(推古天皇10).6月、29歳の時、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。

 603(推古11)年、30歳の時、小墾田宮に遷都する。
【冠位十二階制を定める】
 603(推古天皇11).12.5日、いわゆる冠位十二階を定めた。氏姓制によらず才能によって人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。12階とは、大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、大信、小信、大義、小義、大智、小智。

【17条憲法制定】
 604(推古天皇12).4.3、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)いわゆる十七条憲法を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している(津田左右吉などはこれを「後世における偽作である」としている)。

【引き続く仏教導入政策】
 605(推古天皇13)、32歳の時、斑鳩宮へ移り住んだ。天皇が飛鳥大仏を作らせる。 

【斑鳩寺建立】
 606(推古14)年、33歳の時、聖徳太子が飛鳥の豊浦宮(とようらのみや、現在の橘寺)において、推古天皇に勝鬘経(しょうまんぎょう)を講義する。天皇は大いに喜ばれて聖徳太子に播磨国揖保(いぼ)郡の水田、百町を寄進(きしん)した。聖徳太子はその地を「斑鳩荘」と名付け、伽藍を建てた。これが斑鳩寺の始まりとなる。「斑鳩荘」は後に法隆寺が創建されたことにより寄付され、以後法隆寺の荘園として千年近くにわたり栄えることになった。

 4月-鞍作止利,丈六の金銅仏を法興寺(飛鳥寺)に安置する。 

法隆寺建立
 607(推古15)年、34歳の時、仏法興隆を願って法隆寺(斑鳩寺)が建立される。当時は斑鳩寺(いかるがでら)と呼ばれていた。現存する世界最古の木造建築物となっている。建築材は桧(ひのき)で樹齢1000年以上の桧が使われた。礎石の上に柱が建てられている。五重塔の高さは31.8m。 世界最古の木造建築用明天皇が病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願され、その遺志を継いで推古天皇と聖徳太子が607年に造られた。

【2回目の遣隋使派遣】
 607(推古天皇15)年、第2回遣隋使として小野妹子鞍作福利を使者とし随の皇帝煬帝(ようだい)に国書を送った。「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す 恙無云云(つつがなきや)」(「隋書倭国伝」(隋書卷81 列傳第46東夷、俀國)による)とあり、煬帝を怒らした。 

 608(推古16).4月 35歳の時、小野妹子が隋からの使者・裴世清(はいせいせい)とともに帰国する。日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)とある。倭国を国家として認めていることになる。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す)とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」としている。小野妹子が再び隋へ遣わされる。

【仏教経義書著す】
 611(推古19)年、38歳の時、「勝鬘経義疏」を著す。菟田野(奈良県宇陀郡)へ薬猟(くすりかり)に出かける。

 612(推古20)年、39歳の時、日本書紀に百済から帰化した味摩之(みまし)という人物についての記述がある。この人は,伎楽を伝えた人で,現在の桜井市に住んでいた。味摩之は「呉で学んで伎楽の舞を習得した。」と聖徳太子に申し上げたので,太子は桜井で少年を集めてこの伎楽の舞を習わせた。真野首弟子(まののおびとでし)や新漢済文(いまきのあやひとさいもん)の二人が習って,舞を伝えたと書かれている。伎楽はチベットやインド発祥の仮面劇で,中国に伝わったものである。桜井市にある土舞台と呼ばれる場所が我が国初の国立演劇研究所と国立の劇場が置かれた所。「芸能発祥の地」となっている。

 613(推古21)年 40歳の時、「維摩経義疏(ゆいまぎょうぎしょ)」を著す。


 同12月 太子が片岡(片岡山)に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。姓名を問われても答えない。太子はこれを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり、「安らかに寝ていなさい。」と語りかけた。太子は次の歌を詠んだ。

「しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て  臥(こ)やせる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ」


 翌日、太子が使者にその人を見に行かせたところ、使者は戻って来て、「すでに死んでいました」と告げた。太子は大いに悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を固く封じた。数日後、太子は近習の者を召して、「あの人は普通の者ではない。真人にちがいない」と語り、使者に見に行かせた。使者が戻って来て、「墓に行って見ましたが、動かした様子はありませんでした。しかし、棺を開いてみると屍も骨もありませんでした。ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた。太子は再び使者を行かせて、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。人々は大変不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます太子を畏敬した。

 615(推古23)年、42歳の時、厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、三経義疏を著した。

【隋が滅び唐が興る】
 618(推古26)年、隋滅び、唐興る。

 聖徳太子の親隋路線は根拠を失い、蘇我馬子の親新羅路線が取られるようになった。これは外交政策の大転換であった。れまでの皇族中心の政権は任那を日本領として復活しようとうする政策であった。しかし馬子はあっさり任那を新羅の属国であることを受け入れる。聖徳太子とその周囲の政権は任那を復興する夢を捨て切れない。馬子は、新羅をバックにつけ、新羅が正式に任那を属国化することを認める。

【国史書作成】
 620(推古天皇28)年、47歳の時、厩戸皇子は馬子と議して国記(くにつふみ)、天皇記(すめらみことのふみ)、臣連伴造国造等本記(おみむらじくにのみやっこしょうのほんき)などを編纂した。



 621(推古天皇29)年、48歳の時、新羅朝貢。


【蘇我馬子との対立】
 厩戸皇子は当時最大の豪族である蘇我馬子と協調して政治を行ない、仏教の導入、興隆につとめると共に天皇中央集権を強化し、新羅遠征計画を通じて天皇の軍事力を強化し、遣隋使を派遣して外交を推し進めて隋の進んだ文化、制度を輸入した。

 ところが、「国記、天皇記などを編纂」の頃から厩戸皇子と馬子の関係が対立含みになる。丁度この頃、対外情勢が急激に変わり、外交路線をめぐっての対立が発生したとも考えられるが、れんだいこは、国史編纂を主因としたい。これについては更に検証して行く事とする。

 2008.8.10日 れんだいこ拝

【晩年】
 622(推古天皇30)年、49歳の時、厩戸皇子は、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈っていた妃・膳大郎女が2.21日に没した直後、翌22非、その後を追うようにして亡くなった。

 623年、新羅の使者が任那の使者をつれて朝貢。日本に新羅は任那を属国化したことを見せつけた。

【子孫】
 聖徳太子の正室は、推古の子の菟道貝蛸王女(うじのかいたこのひめみこ)である。してみれば、聖徳太子は、推古の甥でかつ娘婿ということになる。この二人の間には子がなかった。上宮聖徳法王帝説などでは厩戸豊聰耳聖徳法王の子に山代大兄(山背大兄王)らがいるという。次の通り。

 刀自古郎女(山背大兄王、財王、日置王、片岡女王)、橘大郎女(白髪部王、手島女王)、膳大郎女(長谷王、三枝王、伊止志古王、麻呂古王、春米女王、久波太女王、波止利女王、馬屋古女王)。

 死後、子孫は、入鹿の手により謀反の罪を着せられ全滅させられる。これにより厩戸皇子の子孫は全くいなくなってしまった。

【墓所】
 叡福寺 聖徳太子墓


 墓所は大阪府南河内郡太子町の叡福寺にある「叡福寺北古墳」が宮内庁により比定されている(聖徳太子御廟・磯長陵 しながりょう)。しかし、実際は後世になって太子信仰が盛んになった時に定められたものと考えられ、信憑性は定かではない。

【逸話】
 平安時代に著された聖徳太子の伝記「聖徳太子伝暦」は、聖徳太子伝説の集大成として多数の伝説を伝えている。

 ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず理解し、的確な答えを返したという。この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも呼ばれるようになった。しかし実際には、10人が太子に順番に相談し、そして10人全ての話を聞いた後それぞれに的確な助言を残した、つまり記憶力が優れていた、という説が有力である。

 『上宮聖徳法王帝説』、『聖徳太子伝暦』では8人であり、それゆえ厩戸豊聰八耳皇子と呼ばれるとしている。 『日本書紀』と『日本現報善悪霊異記』では10人である。 また『聖徳太子伝暦』には11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取れたと記されている。

 一方「豊かな耳を持つ」=「人の話を聞き分けて理解することに優れている」=「頭がよい」という意味で豊聡耳という名が付けられてから上記の逸話が後付けされたとする説もある。一説に、豊臣秀吉の本姓である「豊臣」(とよとみ)はこの「豊聡耳」から付けられたと言われる。

【和歌】
 日本書紀によると次のようなものである。万葉集には上宮聖德皇子作として次の歌がある。

 「家にあらば 妹(いも)が手纒(ま)かむ 草枕客(たび)に臥やせる この旅人あはれ」(『万葉集』巻三415)

 また、拾遺和歌集には聖徳太子作として次の歌がある。
 「しなてるや片岡山に飯に飢ゑて臥せる旅人あはれ親なし」(拾遺和歌集巻20哀傷1350 返し歌は「いかるがや富緒河の(とみの小川の)絶えばこそ我が大君の御名をわすれめ」)

 後世、この飢人は達磨大師であるとする信仰が生まれた。飢人の墓の地とされた北葛城郡王寺町に達磨寺が建立されている。

【聖徳太子虚構説】
 聖徳太子が実在したこと自体を否定する説がある。













(私論.私見)