725(神亀2).閏1.17日、聖武天皇、災異を除かんがために僧600名を請して宮中にて大般若経を読誦させる。9.23日、聖武天皇、天変地異の責を感じ、3000名を出家せしめ、17日(7日間)の転経により災異を除かんとする。
726(神亀3)年.7月、聖武天皇、元正太上天皇の快癒を祈り興福寺内に東金堂を建立。
727(神亀4)11.2日、聖武天皇は、安宿媛との間に皇子(基王)が誕生し、同年皇太子とする。
728(神亀5).9.23日、皇太子薨る。那富山に葬られた。その1週間後、夜空に流星群が出現し、断散して宮中に落ちたとの記述がある記事が見える。
同10.20日、僧正義淵卒す。(法相宗の僧。元興寺の智鳳に師事し、吉野に竜門寺を開いて法相宗を弘めた。また岡寺を開き、聖武天皇から岡連(おかのむらじ)の姓を授けられた。門下に行基・玄ム・良弁)
729(神亀6).1月、京職大夫の藤原麻呂が「天王貴平知百年」の瑞字ある亀を献上し、この祥瑞に因み「天平」と改元する。
| 【「長屋王の変」】 |
聖武天皇の治世の初期は皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子の立后を願っていた。しかしながら、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后に反対していた。
729(神亀6年、天平元年).2.10日、漆部(ぬりべの)造君足等、左大臣長屋王の謀反を密告した。「続日本紀」には密告の内容を、 「左大臣正二位長屋王私(ひそか)に左道を学び国家を傾けんと欲す」と続日本紀に記している。これにより、三関を固守させ六衛府の兵に長屋王の宅を囲ませる。2.12日、長屋王自尽。その室、吉備内親王も自殺した。これを「長屋王の変」と云う。
後に、これは讒言であった事が発覚する。長屋王の変は長屋王を取り除き光明子を皇后にするために不比等の息子で光明子の兄弟である房前ら藤原四兄弟が仕組んだものといわれている。変後、不比等の長子武智麻呂を大納言に任命する。 |
| 【光明子は非皇族として初めて立后される】 |
| 反対勢力がなくなったため光明子は非皇族として初めて立后された。
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同8.5日、聖武天皇、亀瑞により神亀6年を改め天平元年とする。
同8.10日、聖武天皇、勅して藤原夫人を皇后とする。初めての、皇族でない臣下からの立后。
730(天平2)年.4.17日、皇后宮職に施薬院を置く。
731(天平3)年.8.7日、聖武天皇、行基に従う優婆塞・優婆夷(男性・女性の在俗信者)にして老年男女の入道を許す。
732(天平4).8.17日、第9次遣唐使任命。
733(天平5)年、大伴古麻呂が入唐。
734(天平6).1.17日、武智麻呂を右大臣に任命。3.10日、難波行幸。同年9.13日、難波京の宅地を班給。この頃までに難波宮が完成か。
| 【一切経を書寫】 |
734(天平6)年、この年、聖武天皇、一切経を書寫させる。詔(東大寺要録)は次のように記している。
| 「朕、万機の暇を以って典籍を披覧するに、身を全うし、命を延べ、民を安んじ、業を存するは、経史の中、釋教最上なり。是に由りて仰いで三宝に憑(よ)り、一乗に帰依し、敬て一切経を写し、巻軸已に訖んぬ。是を読むものは至誠の心を以って、上は国家の為に、下は生類に及ぶまで、百年を乞索(もと)め、万福を祈祷し、是を聞くものは無量刧の間、悪趣に堕ちず、遠く此網を離れ、倶(とも)に彼岸に登らん」。天皇の仏教への思いがうかがわれる。
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733(天平5).4.3日、遣唐使多治比真人広成、難波津を進発。興福寺榮叡・大安寺普照、戒師を求めて遣唐使に同行。
735(天平7)年.4.26日、下道(しもつみちの)朝臣真備(後の吉備真備)、僧玄ム、唐より帰朝。
736(天平8).7.23日、この頃、インドの僧菩提僊那(婆羅門僧正)・林邑(ベトナム)僧仏哲・唐僧道■(どうせん)ら来朝。
| 【藤原不比等四兄弟相次いで没す】 |
| 737(天平9).4.17日、諸国で疫瘡に倒れる者が多く、参議藤原朝臣房前(ふささき、藤原不比等次男)薨る。7.13日、参議藤原朝臣麻呂(藤原不比等四男)薨る。7.25日、左大臣藤原朝臣武智麻呂(藤原不比等長男)薨る。8.5日、参議藤原朝臣宇合(うまかい、藤原不比等三男)薨る。藤原不比等の子の房前ら4兄弟が相次ぐ死。急遽長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整える。 |
皇后の異父兄・橘諸兄を大納言に任じ、唐から帰国した玄ム(げんぼう)・下道真備らを重用。
同12.27日、聖武天皇、大倭国を大養徳国と改める。
翌年、阿倍内親王を皇太子に就け、諸兄を右大臣に登用する。
| 【光明皇后が、法華寺を建立】 |
聖武天皇皇后光明子は立て続けに兄たちを亡くした為、法華寺を建立して兄たちの菩提を弔った。法華寺は天平時代、光明皇后の勧めにより日本総国分尼寺として創建されたが、正式な寺号は「法華滅罪寺」である。光明皇后の生家、藤原不比等の邸が寄進されて寺となった。皇太子を満一歳前に亡くし、また天然痘で兄弟の藤原四卿を失った皇后の悲しみが、「滅罪寺」という名前を付けさせたのかもしれない。
皇后官職に施薬院を置き、天平9年大流行した疫病(天然痘)の難病者たちを自ら法華寺の風呂に入れ介護したと伝えられる。 |
738(天平10).1.13日、光明皇后が、阿倍内親王を皇太子とする(後の孝謙天皇)。橘諸兄(母は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)で光明皇后とは異父兄の関係になる。はじめ葛城王(かずらぎおう)と称したが、後、母の姓を賜って橘諸兄となる)を右大臣とする。
| 【聖武天皇の行幸彷徨】 |
| 聖武天皇は、738(天平10)年あたりから頻繁に行幸を繰り返し、都も「平城京」を出て、「恭仁京」「難波宮」「紫香楽宮」と遷都を繰り返した。しかし人臣にはすこぶる不評で、「紫香楽宮」などは奈良へ帰りたい臣下達が放火を繰り返したとされている。会議を開いて臣下に「都は何処がよいか」などと聞いたことが文献に見え、聖武天皇の優柔不断、或いは情緒不安定とも評される。 |
| 【藤原広嗣の乱】 |
740(天平12).8.29日、藤原広嗣(参議藤原朝臣宇合(藤原不比等三男)の子)、表を上って僧正玄ム、下道朝臣真備を除こうとする。
同9.2日、藤原広嗣が兵を起こして反す(藤原広嗣の乱)。10.29日、聖武天皇、伊勢国へ行幸。11.5日、大野東人等、1日に肥前国松浦郡において藤原広嗣を斬りし事を報ず。 |
| 【諸国に国分・国分尼寺を建立】 |
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741(天平13).2.24日、聖武天皇は、「国分寺・国分尼寺建立の詔」を発令し、国家の隆昌・安寧を祈らんが為として、諸国に国分・国分尼寺を建立せんとする。(「続日本紀」天平19年11/7に載せる詔に国分寺建立の願を発した日を「天平13年2月24日」とする) 光明皇后が創建したこの法華寺も総国分尼寺となる。
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10.16日、山城国賀世山の東河の架橋成る。よって従事せし諸国の優婆塞等に得度を許す。
| 【盧舎那大仏像の造顕を発願】 |
743(天平15).10.15日、聖武天皇、三宝の威霊に頼り、乾坤相泰かならん事を欲し、盧舎那大仏像の造顕を発願(盧舎那仏造顕の詔)。10.19日、聖武天皇、信楽(紫香楽)宮にて、盧舎那の仏像を造り奉らんが為に始めて寺地を開く。行基、弟子を率いて勧進をはじめる。
東大寺大仏の造営のきっかけは天平7年の疫病の大流行であった。さらに飢饉が襲い、宮廷内の政局も不安定であった。聖武天皇はこうした災いを神仏に祈祷することでくい止め、人臣の不安を和らげようと考えた。その方策として僧・玄肪の意見をいれ考えられたのが毘廬舎那大仏の金銅仏の造営だった。大仏造営は資金難によりいったんは中断するが、行基の勧進などにより再開された。帝は、この仏をみなが一丸となって造営する事で団結し、同様に利益を分かち合おうとする主旨の誓願を立て、天皇も自ら土を運んだので、皇后以下、臣下の者もこれに従った。天平15年(743)の着手から、大仏開眼まで10年の年月を費やし、動員された人員は延べ200数十万人、資材は銅、錫、金、水銀など合わせて15万貫にものぼったと言われる。 |
744(天平16)閏1.13日(744年3月7日)、安積親王が脚気のため急死した。これは藤原仲麻呂による毒殺だという説がある。
744(天平16).2.26日、 聖武天皇、難波宮を皇都と定める。
745(天平17).1.1日、信楽(紫香楽)宮に遷都、しかし信楽(紫香楽)宮未だ成らず。「続日本紀」は「新京に遷る」と表現するも、「遷都」の宣言はない。
1.21日、行基を大僧正に補す。
5.5日、聖武天皇、信楽(紫香楽)宮より恭仁宮に還り給う。民衆歓呼してこれを迎う。
746(天平18).6.18日、僧正玄ム、筑紫の観世音寺にて率す。
747(天平19).3.16日、聖武天皇、大養徳国を旧に復して大倭国と改称。
3月、光明皇后、天皇不豫により新薬師寺を建立。
748(天平20).4.21日、元正太上天皇崩御。28日に佐保山陵に火葬。
749(天平21、天平感宝元年・天平勝宝元)年.1.14日、聖武天皇、光明皇后ら、中島宮にて大僧正行基を戒師として菩薩戒を受け出家すという。聖武天皇は法名「勝満」、光明皇后は「万福」。「扶桑略記」には、「即日大僧正を改め名づけて大菩薩という」とある。
天平21年、東大寺に行幸した天皇は「三宝の奴」と称して「天平感宝元年」と改元し、同年皇太子・阿部内親王(孝謙天皇)に譲位して再び天平勝宝元年(749)と改元した。
この年、大僧正行基、平城右京・菅原寺にて没する(82歳)。
2.2日、大僧正行基、平城右京・菅原寺にて遷化。年82歳。
2.22日、陸奥国より始めて黄金を貢(たてまつ)る。
4.1日、聖武天皇、東大寺に行幸し左大臣橘諸兄をして陸奥国の産金を盧舎那大仏に告げ、「三宝(みほとけ)乃(の)奴(やっこ)と仕え奉る天皇」と仰せられ、瑞祥を喜ぶ。また、年号を感宝と改める。
翌年2月、陸奥国で始めて国産の黄金が取れ、これを天皇に貢(たてまつ)るという記事が見える。産金の経緯については「扶桑略記」に、「大仏に使用する黄金を得るために始め遣唐使を派遣して購入しようとしたが、宇佐神宮(宇佐八幡宮)の託宣があって我が国で産金するという。そこで天皇は金峰山に使いを遣わして黄金を産してほしいと祈ったところ、「我が山の金は慈尊出世時、即ち弥勒菩薩がこの世に出現された時に使うべきものである。しかし近江国志賀郡瀬田江付近に一人の老人が座っている石があるから、其の上に観音様をまつって祈れば黄金は自ずと手に入る」、とのお告げがあった。そこで其の場所を訪ねて(今の石山寺という)如意輪観音を安置し、沙門良弁法師が祈りを捧げたところ、間もなく陸奥の国より黄金が献上された。そこでこの黄金の中から先ず120両を分かって宇佐神宮(宇佐八幡宮)に奉納した」とある。
4.23日、陸奥守(みちのくのかみ)百済王(くだらのこにきし)敬福(きょうふく)黄金(くがね)九百両を貢る。
閏5.20日、勅して、諸大寺に■・綿・布・稻・墾田等を施入、「依って御願を発して曰く、花厳経(華厳経)を以って本とし(「続日本紀」)」、諸経を転読し、天下太平を祈る。(この勅願文に「太上天皇沙弥勝満」とあり。)
閏5.23日、聖武天皇、薬師寺宮に遷御、御在所とする。
天平勝宝元年.7.2日(749年8月19日)、娘の阿倍内親王に譲位、孝謙天皇即位。(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて退位の手続を取ったともいわれる)。初の男性の太上天皇となる。この日、天平勝宝元年と改む。藤原仲麻呂、大納言。
11.1日、八幡大神(やはたのおおかみ)の禰宜(ねぎ)等に大神(おおみわの)朝臣の姓を賜う。
11.19日、八幡大神、託宣して京へ向う。よって24日、迎神使と兵士一百人以上を差し向け前後を護衛させるとともに、行路にあたる国々での殺生を禁ず。
12.27日、八幡大神(禰宜尼大神朝臣杜女(もりめ))、「紫色」の輿に乗り東大寺を拝す。孝謙天皇・聖武太上天皇等東大寺行幸。この時左大臣橘諸兄に読み上げさせた言葉(「続日本紀」記載)の中に、「去(いに)し辰の年、河内国大県郡(かわちのくにおおがたのこおり)の智識寺に坐(ま)す盧舎那仏(るさなほとけ)を礼(おろが)み奉りて、則わち朕(聖武天皇)も造り奉らんと思えども(・・・出来ないでいた時に八幡大神に其の事を申し上げると・・・)」とあり、天平12年、河内国大県郡の智識寺に到り盧舎那仏を拝したのが盧舎那仏造顕発願への動機となったことが知られる。またこれに続いて、八幡大神の託宣を引用して「神我(八幡大神のこと)、天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)を率い、・・・必ず(盧舎那仏造顕を)成し奉らん。・・・銅(あかがね)の湯を水と成し、我が身を草木土(くさきつち)に交えて、障(さわ)る事無くなさん(無事成し遂げよう)(・・・とおっしゃるのでうれしく尊く思い、恐れながら位を奉る・・・)」と記す。
750(天平勝宝2).2.22日、孝謙天皇・聖武太上天皇・光明皇太后、東大寺行幸。
3.28日、御願八十華厳経の書寫を始める。
751(天平勝宝3).10.23日、聖武太上天皇不豫により、詔して、新薬師寺に於て続命の法を修せしむ。
この歳 大仏殿造営される。、東大寺大仏の開眼供養が行われたのは天平勝宝4年(751年)で、光明皇后は52才であった。
752(天平勝宝4)年、4.9日(5.30日)、盧舎那大仏像成り、孝謙天皇・聖武太上天皇・光明皇太后、東大寺へ行幸、開眼供養を行う。
この年、大伴古麻呂が遣唐副使として再度入唐する。長安に着いた翌年の元日、玄宗皇帝の含元殿(がんげんでん)で開かれた諸蕃朝賀(外国使節の新年あいさつ)の席で、日本、新羅、吐蕃(チベット)、大食(サラセン)の4カ国の席次を廻り、大伴古麻呂が流暢な中国語を操り、新羅と日本の席次を入れ替えている。唐僧鑑真の来日を企図する。
753(天平勝宝5).12.26日、唐僧鑑真、大宰府に至る。754(天平勝宝6).2.4日、鑑真平城京に入る。
4.5日、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇、東大寺に行幸し、鑑真を戒師として菩薩戒を受く。
7.19日、聖武太上天皇御生母、太皇太后宮子、崩御。
755(天平勝宝7).10.21日、重態。同年11月、左大臣橘諸兄が上皇を誹謗し謀反を口走った旨密告を受けるが、これを不問に付す。
756(天平勝宝8).2.24日、難波行幸。3.1日、堀江行幸。4.14日、重態。4.17日、平城宮還御。5.2日、平城宮寝殿にて崩御(56歳)。佐保山陵に葬られる。古代律令制の成熟期に君臨した天皇として絶大な権威を有し、死後も偉大な聖王として官人・僧侶・民衆の崇敬を永く集めた。歌人としても優れ、万葉集に11首(04/0530・0624、06/0973・0974・1009・1030、08/1539・1540・1615・1638、19/4269)、新古今集以下の勅撰集にも御製が載る。
(注)『愚管抄』は聖武に6人の子があったと伝え、井上・阿倍・基・安積・不破以外にもう一人子があったか。772(宝亀3)年10.5菅生王と姦通し除名された小家(おやけ)内親王(『斎宮記』には「孝謙皇女、在任七年、天平勝宝二年」とあるが、「孝謙皇女」は明らかに誤記)、夫人を廃されたことが疑われる海上女王(04/0530・0531で聖武と相聞を贈答。父は志貴皇子)の子尾張女王(光仁天皇の妃で{稗}田親王の母。『皇胤紹運録』によれば父は湯原親王)、などが考えられる。{稗}は正しくは草冠あり。
遺詔により、新田部親王の子道祖王が皇太子に立てられる。
756(天平勝宝8)年、孝謙天皇・聖武太上天皇・光明皇太后、難波に行幸し、智識寺等に詣で28日難波宮新宮に入る。
4.23日、聖武太上天皇の延命を祈らんが為に、伊勢大神宮に幣を奉る。
5.2日、聖武太上天皇崩御。56歳。遺詔して、道祖王を皇太子とす。
5.19日、聖武太上天皇を佐保山陵に葬る。出家帰仏の故に諡を奉らず。
6.21日、聖武太上天皇の七七日にあたり、光明皇太后、遺品を東大寺に施入し、また種々の薬を盧舎那仏に奉る。
757(天平宝字元).3.29日、皇太子道祖王を廃す。4.4日、大炊王を皇太子となす。
758(天平宝字2).8.9日、勅して、「勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんしんしょうむこうてい)」と追尊し、「天璽国押開豊桜彦尊(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのみこと)」と諡す。「続日本紀」に載せるこの勅の中で、「先帝(聖武天皇)、敬って洪誓を發すらく、盧舎那金銅の大像を造り奉る。若し朕が時に造り了るを得ざる有らば、願わくは来世に於て身を改めて猶作らんと・・・」述べられており、盧舎那仏造顕に対する聖武天皇の決意の程がうかがえる。
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760(天平宝字4).6.7日、光明皇太后崩御(60歳、又は56歳)。「天平応真仁正(にんしょう)皇太后」。「続日本紀」皇后崩御の條には「東大寺、及び天下国分寺を創建する者は、本太后の勧むる所なり」とあり、光明皇后が聖武天皇に、東大寺及び国分寺の建立を勧められた可能性のあることを窺わせる。ちなみに法華寺の十一面観音像のモデルは皇后の光明子とも言われる。
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天平年間は、災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、743年には、東大寺大仏の建立の詔を出している。また、度々遷都を行って災いから脱却しようとしたものの官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した。また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后とは異父兄弟にあたる)が取り仕切っていた。(743年)には、耕されない荒れ地が多いため新たに墾田永年私財法を制定した。これにより、律令制の根幹の一部が崩れた