蘇我氏考



 (最新見直し2008.8.24日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 日本古代史上には数々の未解明問題がある。その代表的双璧なものは「邪馬台国論争、所在地論争」、「出雲王朝論争」であろうが、ここで考察する蘇我氏の出自問題も然りである。れんだいこの見立てるところ、「邪馬台国論争、所在地論争」に象徴的なように、結局のところどこも何も解決していない。論者が百家争鳴的に自説を開陳し合うだけの学問に成り下がっている。別智を以ってすればそれで良いのかもしれない、困る事かも知れない、それさえ分からない。

 いずれにせよ、れんだいこは、この間手掛けてきた通説批判と同様の臭いを嗅ぎ取る。ならば挑まねばなるまい。れんだいこの労作はほぼどれも皆無視され続けているが、無視される期間が長ければ長いだけ、れんだいこの突出振りが後付けされるだけのことであり、いずれ誰かが追考証し、かの時点でかくも鮮やかに指摘していたれんだいこ観点の正しさを確認し称賛することになるだろう。宮顕論然り、角栄論然り、中山みき論然り、学生運動論然り、その他諸々。財宝の山が山積みされている。

 もとへ。蘇我氏は、いゆわる神話時代を終えた頃より歴史に登場し、仏教受容を廻って物部氏と対立し排斥した後、「大化の改新」と云われる政変で蘇我馬子が宮中謀殺されるまでの間、蘇我稲目-蘇我馬子-蘇我蝦夷-蘇我入鹿に亙る約50年間の執政時代を迎え、歴史の舞台から消える。

 この蘇我氏が、高天原王朝系の豪族か出雲王朝系の豪族か新たに韓半島から渡来人なのか、それも百済系なのか新羅系譜の者なのかが分からない。その蘇我氏と天皇家が外戚関係に入ることができた事情も不明のままである。れんだいこは、このように設定するが、この設定の仕方そのものさえ獲得できていないように思われる。

 れんだいこはこれまで、「記紀史観的大化の改新論」に何の違和感も覚えず過ごしてきた。それにより、「悪役蘇我氏論」的位置づけをしてきていた。しかし次第に、「記紀史観的蘇我氏論」に疑問を抱くようになった。聖徳太子との蜜月関係、天皇家との姻戚関係、聖徳太子晩年に於ける対立、没後の聖徳太子派への弾圧、大化の改新、天智王朝、壬申の乱、天武王朝、ポスト天武王朝への経緯を踏まえると、そこから見えて来るのはむしろ古代史に占める蘇我氏の原動力性であり、歴史の波に翻弄された姿である。

 そういう折、関裕二氏の「蘇我氏の正体-日本書紀が隠そうとした真実」を手にした。一読後、れんだいこなりの蘇我氏考を立ち上げようと思った。既に関・氏が、「蘇我氏の出自は隠滅されている」、「蘇我氏は案外と出雲王朝系の系譜の正統嫡出子系譜の豪族なのではなかろうか」と立論している。れんだいこは、さもありなんと思う。但し、その先、れんだいこは、出雲王朝史を仮に元出雲、原出雲、スサノウ出雲、大国主出雲と区分しているが、関・氏はそのように立論していないので、蘇我氏が出雲王朝史のどの系譜に連ねようとしているのかまでは分からない。れんだいこは、これに挑戦して見ようと思う。

 いずれにせよ、蘇我氏と物部氏の対立を、仏教受容を廻る確執とばかり捉えていては真相が見えてこない気がする。史実は、蘇我氏と物部氏も「大和王朝内非主流の出雲王朝系」であり、いわば同じ立場の二大豪族内の革新派と守旧派の対立、当時の大和王朝がそれほど出雲王朝化しつつあった史実内のできごと、として捉えるべきなのではなかろうか、と思い始めている。

 それにしても、蘇我氏が新興勢力として台頭してきた背景事情が気になる。それがなぜ隠されているのかも気になる。そして、物部氏が葬られ、やがて蘇我氏も葬られるに至った背景が気になる。この辺り、史学界は解明し得ているのだろうか。こういう問題意識も無い為に、そのスタートラインにも至っていないのではなかろうかと云う気がする。

 ならば、れんだいこが挑む。解明できるものでもあるまいが、ここにサイトを開設しておくことにする。追々深めて行きたいと思う。

 2008.8.24日 れんだいこ拝


【蘇我氏の出自考その1、竹内宿禰末裔説】
 古事記は、第8代孝元天皇の条で、建内宿禰(日本書紀では「竹内宿禰」、たけのうちすくね)につき記述している。建内宿禰は、孝元天皇と内色許男(うつしこお)の娘の伊か賀色許売命(いかがしこめのみこと)の間に生まれた比古布都押之信命(ひこふつおしのみこと)を父とし、木国造(きのくにのみやっこ)の祖・宇豆比古の妹の山下影日売(やましたかげひめ)を母とすると記述している。建内宿禰には9人の子(男7、女2)あり、蘇我氏がその末裔であるとしている。但し、日本書紀は、竹内宿禰は、孝元天皇と賀色許売命の皇子・彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)を祖父とすると記述している。但し、蘇我氏との繫がりについては全く記述していない。

 その竹内宿禰は、古事記では成務、仲哀、応神、仁徳の4朝、神功皇后も入れれば五朝、日本書紀は、成務朝の前に景行朝も入れており、凡そ三百年の長期に亙って政務を執ったとしている。

【蘇我氏の出自考その2、渡来人説】
 蘇我氏が大和王権の表舞台に登場してくるのは6世紀の初めで,それまで無名の人物であった。

 5世紀前半の履中天皇2年冬10月の条、蘇我満智宿禰(そがのまちすくね)が国政に参加したとの記述がある。門脇禎二氏は、蘇我満智宿禰を応神天皇の御代に百済から渡来した高官の木満致(もくまんち)に比定し「蘇我氏渡来人説」を展開している。稲目の祖父は韓子(からこ)、父は高麗(こま)であることもそれを証しているとする。

 「蘇我氏渡来人説」は他にも「新羅王子・天日ホコの末裔説」がある。そして、「天日ホコ=カヤ王子ツヌガアラシト説」もある。

 これに対し、関裕二氏は、著書「蘇我氏の正体」の中で、1・入鹿神社の祭神が蘇我入鹿と出雲系のスサノウとしていること、2・スサノウを祀る社「素が社」と関係しているように思われること、3・蘇我も出雲も鬼伝説と繋がることに注目し、「蘇我氏出雲王朝の末裔説」を展開している。更に、建内宿禰を事代主神=言代主神とも比定している。

 れんだいこは、蘇我氏は出雲王朝系の出自にして、或る時に渡来人系との婚姻により混淆したと考えている。

【蘇我氏の出自考その3、出身地】
 蘇我氏の出身地は、畝傍山の北、現在の奈良県橿原市曽我町あたりとされている。他に,大阪府の石川とする説もある。宗我坐宗我都比古神社(そがにいますそがつひこ、橿原市曽我町)や入鹿神社(橿原市今川町)等、曽我川など蘇我氏に関係ありそうな名が今に残っている。

 蘇我氏が次に構えた居宅は、飛鳥の明日香村(奈良県高市郡明日香村)の嶋庄とされている。飛鳥地方には朝鮮半島,特に東漢氏(やまとのあやし)という百済からの渡来人たちが多く住み着いていた土地で、彼らと深くつながった形跡が認められる。

【蘇我氏の台頭】
 蘇我氏の台頭は、大和王朝創出期の豪族であった葛城氏や平群氏の没落と裏合わせであった形跡が認められる。生き残ったのは大伴氏、物部氏、蘇我氏であり三大勢力となった。やがて、大伴金村が失脚すると、大連の物部尾輿と大臣の蘇我(稲目)の二大勢力となる。

 蘇我稲目は、天皇との縁戚政策を押し進める。これにより、天皇家の外戚となっていく。蘇我氏が天皇家と姻戚関係に入ることができた事情は、かなり重要な事であろうが解明されていない。れんだいこは、蘇我氏が出雲王朝の皇統譜に連なる出自故に可能となったのではないかと観る。

 曽我氏と天皇家との婚姻政策を確認しておく。1・稲目の娘の堅塩媛(きたしひめ)、小姉君(おあねのきが欽明天皇に嫁ぐ。2・堅塩媛の子の額田部(ぬかたべ)皇女が敏達天皇の后となる。額田部皇女は後の推古天皇。堅塩媛の子の大兄(おおえ)皇子が用明天皇。3・用明天皇は小姉君の子の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女を后とする。4・その子が厩戸皇子(聖徳太子)。用明天皇は稲目の子の石寸名(いしきな)を夫人とする。5・小姉君の子の泊瀬部(はつせべ)皇子は崇峻天皇で馬子の娘の河上娘を妃とする。6・聖徳太子は馬子の娘の刀自古郎女(とじこのいらつめ)を夫人とする。7・舒明天皇は馬子の娘の法提郎媛(ほほてのいらつめ)を夫人とする。まず蘇我氏は、自家の女人を天皇に嫁がせることで、蘇我氏の息のかかった皇族、いわゆる蘇我系皇族を大量に生み出していきました。実際稲目は、2人の娘を天皇に嫁がせることで、18人の蘇我系皇族を生み出し(そのうちの11人は皇子)、なんとその中から3人の天皇を即位させることに成功しているのです。これによって蘇我氏はその発言力を、一気に高めていきました。

 稲目は欽明天皇とほぼ同時期に没し、二大勢力の構図は次代の蘇我馬子まで引き継がれる。538(552年説もある)年、仏教が伝来する。受容を廻って、受容派の蘇我氏と守旧派の物部氏が対立する。570年、稲目が死去する。584年、仏教受容を廻って蘇我氏対物部氏の対立が再燃する。587年、蘇我氏と守旧派の物部氏が戦闘状態に入る。用明天皇没後、後継者をめぐる争いがあり、蘇我氏は、小姉君の子ながらも物部氏に擁立されていた穴穂部皇子を暗殺し、戦いで物部守屋を討ち滅ぼすと、その後は大連に任じられる者も出ず、政権は蘇我氏の一極体制となる。この戦いには蘇我氏の血をひく14歳の廐戸皇子(うまやどのおうじ、後の聖徳太子)も蘇我氏側について戦っている。

 日本最初の仏教寺院馬子は先進文化の仏教を基盤として廐戸皇子(うまやどのおうじ=聖徳太子)とともに国造りを行っていく。588年、馬子は「仏教」を広めるため、約20年を要して飛鳥寺を建てた。

 592年、蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺させ、蘇我稲目の孫にあたり,敏達(びだつ)天皇の妃であった炊屋姫(かしきやひめ)を推古天皇とした。推古天皇の宮は最初、豊浦宮(とゆらのみや)、後に小墾田宮(おはりだのみや)に移る。推古天皇の甥(おい)の聖徳太子が摂政となり、政治を行った。ここに、推古天皇-聖徳太子-蘇我馬子という蘇我氏の血族による権力集中の政治体制が確立した。以降、権力を欲しいがままにした、とされている。推古天皇への葛城県の割譲の要求、蝦夷(えみし)による天皇をないがしろにするふるまいが伝えられている。

 609年、仏師の鞍作止利(くらつくりのとり)が飛鳥大仏を造営する。

 皇極天皇の時代、蘇我蝦夷(えみし),蘇我入鹿(いるか)父子が朝廷での実権を握った。蝦夷は遣唐使を何度も派遣し,海外の文化を積極的に導入しようとした。
 大陸から遣唐使として唐で学び帰国した者たちの中には私塾を開く者もいて,そこに豪族たちの子弟が通って大陸の文化や知識を学んだ。入鹿はそこで学ぶ1人で,同塾生として中臣鎌足がいた。

 642(皇極天皇元年)年、大臣・蘇我蝦夷の晩年、皇極天皇の即位に伴い、父に代わって国政を掌理する。翌643(皇極天皇2).10.6日、父から独断で大臣を譲られる。

 643年、入鹿は「大臣(おおおみ)-紫の最高位」となり,外交・財政を一手に担うことになる。東アジアの情勢を知った入鹿は,これまでの日本と百済との関係を見直し,新羅や高句麗とも同じように国交を結ぶ政策(等距離外交)へと転換する。

 643.11月上旬、入鹿は、この政策に反対した聖徳太子の子で次期天皇候補の上宮王家の山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)を襲撃し殺した。これにより,聖徳太子一族が滅び、蘇我氏の権力はさらに強大なものとなった。境部摩理勢の失脚。 

 644(皇極天皇3).11月、蘇我蝦夷・入鹿は甘橿(あまかし)丘にそれぞれ居を構えた。蝦夷の邸宅は「上の宮門(みかど)」,入鹿の邸宅は「谷(はざま)の宮門」とよんだ。甘橿丘からは都を見下ろすようになり,天皇の住居も眼下に位置する。さらに自分の子女達を皇子と呼ばせた。また、さらに畝傍山に要塞を築いた。家の周りには柵がめぐらされ,火災に備えて水槽も置かれていた。門には武器庫があり,常時護衛が警護していた。まるで要塞のような邸宅だった。

【蘇我氏宗本家の滅亡】
 645年、入鹿は、古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承のライバルだった中大兄皇子、中臣鎌足らのクーデター(乙巳の変)によって、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で暗殺された。従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げていた際、肩を震わせていた事に不審がっていた所を中大兄皇子と佐伯子麻呂に斬り付けられ、天皇に無罪を訴えるも、あえなく止めを刺され、雨が降る外に遺体を打ち捨てられたという。

 蝦夷が自殺するとその勢力は大幅にそがれた。これによって、蘇我稲目-馬子-蝦夷-入鹿の4代に亘って権力を掌握し続けた蘇我氏宗本家が滅亡した。 

 「上宮聖徳法王帝説」と呼ばれる史書の中の一文で、大化改新の記事について次のように記している。

 □□天皇御世乙巳年六月十一日、近江天皇(中大兄皇子、後の天智天皇の事)、林太郎□□を殺し、明日を以て其の父豊浦大臣(とゆらのおとど 蘇我蝦夷の事)子孫等皆之を滅ぼす

 これによれば、「□□天皇」と伏字にされているところが妙な事になる。皇極天皇とせずに「□□天皇」とされているのは、蘇我蝦夷叉は馬子が天皇の地位についていたことを消す為の伏字とも考えられる。

【蘇我氏分家のその後】
 蘇我氏宗本家は滅亡したが、蝦夷の弟・蘇我倉麻呂家が傍流として生き残っていく。倉麻呂の子・蘇我倉山田石川麻呂は、「乙巳の変」の際に中大兄皇子の協力者として関わっており、石川麻呂はその後右大臣に任じられ娘の遠智娘と姪娘を中大兄皇子の后にしている。

 ところが、649年、石川麻呂は、弟の蘇我日向の讒言により自害した。蘇我日向は大宰府に左遷されたと云う。他の弟の蘇我赤兄と蘇我連子は 天智天皇の時代に大臣(赤兄は左大臣。連子ははっきりは分からないが、右大臣と推定されている。こうして、蘇我氏の血脈は辛うじて保たれていくことになる。。

 しかし、彼らの栄光も長続きはせず、連子は天智天皇の正式な即位を見ないまま死去、赤兄ともう一人の弟・蘇我果安は壬申の乱で大友皇子につき、敗れてそれぞれ流罪・自害となった。その甥で、連子の子である蘇我安麻呂は、天武天皇の信任が厚かったために蘇我氏の後を継ぎ、石川朝臣の姓氏を賜った。このように、乙巳の変後も倉麻呂の息子達が政治の中心的立場になおとどまったが、相次ぐ政争で失脚しつつ連子の系統のみがしばらく続く事になる。

【蘇我氏分家の衰退その1】
 天武天皇没後、石川氏は次第に衰退していく。持統天皇、元明天皇は、それぞれ石川麻呂の娘、遠智娘と姪娘を母としていたが、蘇我赤兄の外孫である山辺皇女が持統天皇に排除された夫の大津皇子に殉死したり、文武天皇の妻の一人で、血縁者と言われている石川刀子娘が天皇崩御後、某男との関係を持った事からその身分を剥奪され、子の広成皇子・広世皇子も連座して皇族の身分を剥奪されると云う事件に巻き込まれている。刀子娘の事件は、異母兄弟の首皇子の競争相手を排除する目的があった藤原不比等・橘三千代夫婦の陰謀説がある。

 赤兄の外孫である穂積皇子も万葉集によれば、但馬皇女との密通がばれて左遷されていたという。穂積は持統崩御後、知太政官事に出世したが、母大蕤娘に先立って亡くなった。

【蘇我氏分家の衰退その2】
 蘇我氏は、この頃台頭してきた藤原氏に地位を奪われていく事になる。とはいえ、藤原不比等の正妻は安麻呂の娘である蘇我娼子(藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合の母)であるからして血統的命脈は保たれていく。

 弟である石川石足とその子の石川年足は、当時嫡流とされた武智麻呂を祖とする藤原南家と結びつく。特に年足は武智麻呂の次男で大いに権勢を振るった藤原仲麻呂が設立した紫微中台の大弼としてその補佐に当たっている。が、概ね大体中納言・参議クラスまで低下しつつ中流貴族として命脈を保つていくことになる。

 「藤原・石川両氏の暗闘」が認められる。刀子娘の事件の他にも、元明天皇から孫の首皇子へスムーズに皇位継承されなかった事、そしてその元明天皇の娘で石川麻呂の曾孫にあたる吉備内親王が長屋王の変で夫や自ら生んだ子と共に自害を余儀なくされた事などの一連の政争はが背景にあったのではなかったかと指摘する意見もある。

【蘇我氏分家の衰退その3】
 蘇我氏の最後の生命線となっていた藤原南家が藤原仲麻呂の乱で衰退したことにより、石川氏も再び振るわなくなる。正四位上・参議の石川真守(年足の孫、馬子の7代孫)を最後に公卿は出なくなり、歴史から姿を消す事になる。












(私論.私見)