元伊勢(もといせ)神社



 (最新見直し2010.03.30日)

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2006.12.3日 れんだいこ拝



【古伊勢譚】
 アマテラスが伊勢神宮を構える前時代の伊勢を仮に「古伊勢」と命名する。「古伊勢」は、志摩の磯部と云われ、伊雑宮が建てられていた。つまり、「伊雑宮が本家」と云う事になる。新撰姓氏録によれば、「石辺(磯辺)公は大物主の命の子・久斯比賀多(くしひがた)の命の後(すえ)なり」とあり、出雲系としている。「伊雑宮旧記」によると、伊雑宮は竜宮で、この地方の海人族の護宮で伊雑トミの命が治めていた。この伊雑宮は出雲神道と深く関係していた。

【伊勢内宮創設譚】
 垂仁天皇の御世、天照大神が皇女倭姫(やまとひめ)に信託を下して、五十鈴川のほとり山田原に鎮まった。これが内宮となった。天照大神が、元々出雲系の「古伊勢」があったところに鎮まるまでには紆余曲折があった。各地に「元伊勢伝説」があり、天照皇大神が諸国を移動し、最後にたどり着いたのが現在の「二見ケ浦」のある伊勢の地であったというものである。しかし、外宮も移動しており「元伊勢伝説」を持つ。為に、両者がこんがらがって伝えられており詳細が分からない。

 天照大神は元々、第十代崇神天皇陵の北に位置し、天理から桜井に向かう途中にある三輪山の山麓にある「檜原神社」に鎮座していたと思われる。これが「元伊勢」のルーツと推定されている。その後、天照大神は大和の笠縫邑を発し丹後に仮鎮座した。その後全国20数カ所 を転々として伊勢に落ち着いたとされている。

 「元伊勢伝説」に従えば、内宮移動は「元伊勢=元伊勢神社説」で理解すれば分かり易い。これによれば、伊勢神宮が元伊勢から古伊勢へ遷座するいきさつが次のように伝えられている。
 10代崇神天皇の即位6年(紀元前59年)、倭国笠縫邑(現奈良県桜井市)に遷座し、皇女・豊鋤入姫命が初代斎主として祭事を掌っていた。この地に33年間鎮座した。
 10代崇神天皇の即位39年、「別に大宮地を求め鎮め奉れ」という天照大神の御神勅があり、それまで奉斎されていた倭の笠縫邑を出御して但波へ遷幸した。天照大神を祀る神社を創建した。此の時同時に豊受大神を合わせ祀られた。
 現在の大江町の元伊勢神社が「元伊勢内宮」ではないかと推定されている。元伊勢神社は、但波国のほぼ中央を南北に貫いて日本海へ由良川が流れ込んでおり、その上流から支流に2km程さかのぼった山間(現・京都府福知山市大江町)にある。 この地一帯は神代の昔から聖地とされており、岩戸山(亦名・城山、日室ヶ嶽)と云われる神奈備の神体山が有り(日本一美しいピラミッド?と云われている)、川守郷の中でも特に神戸郷(かんべのさと)と呼ばれていた。大本教の開祖・出口ナオと大本聖師・出口王仁三郎が皇大神社を真の元伊勢と崇敬し、天岩戸神社の清水で禊ぎを行ったことでも知られている。

 元伊勢神社は、内宮皇大神社、外宮豊受大神社、天岩戸神社と呼ばれる3神社から成り立っている。この元伊勢の内宮と外宮が古伊勢に移り現在の伊勢神宮になったと云われている。元伊勢町内には内宮、外宮の地名のほか、五十鈴川、宮川、真名井ノ池、宇治橋、猿田彦神社など伊勢神宮にまつわる名称が数多く存在しており原形をとどめている。
 4年後、突然、皇大神は更に大宮地を求めて倭(やまと)へ帰った。豊鋤入姫命は各地に大宮地を求めて御遷幸中既に老齢に向かわれたので、途中第11代垂仁天皇の皇女倭姫命が御引き継ぐ。
 垂仁天皇25年、神を祭る地を求め、伊勢の五十鈴川上の聖地(いまの伊勢の神宮)を大宮地と定め鎮座した。天照大神は「ここに鎮まりたい」と告げたのでこの地に「伊勢神宮」が出来た云々。皇女・倭姫(やまとひめ)の命が二代目斎主となった。
 7世紀後半、天武天皇の皇女・大来皇女(おおしひめみこ)が斎主となり、制度的に完成する。

 天武天皇の御世、伊勢神宮は20年周期の式年遷宮制を採り入れた。第1回の遷宮は、持統天皇の4(690)年であり、最近では平成5(2003)年に第62回目の式年遷宮している。

【伊勢外宮創設譚】
 伊勢神宮外宮は、現在の伊勢神宮の地である古伊勢に鎮座する前に、丹波国比治の真名井原(まないはら)の籠(この)神社に鎮座していたと伝えられている。丹後(京都府宮津市)の宮津湾に日本三景の一つして知られる天の橋立の北側に籠(この)神社が鎮座している。これを仮に「元伊勢=籠神社説」と命名する。籠神社には、宮司である「海部氏」の系図が残されている。

 籠神社は、真名井神社を奥宮としており、古称を与謝宮(よさのみや)、別称を豊受大神宮としている。この地が丹波国比治の真名井原だとする説があり、古伊勢と区分する意味で元伊勢とも云われている。

 丹後という名前は、もともとは丹波国(現在の京都府中部と兵庫県中部)であったが、都(京都)から見て丹波の後ろにあるという事で「丹後」と呼ばれるようになったと云う。古くは但波(たにわ)と呼ばれ、日本海側において一つの文化圏を 確立し倭政権とも対等に交流をもった国であったとも考えられる。  

 豊受大神(とようけのおおみかみ、止由気大神)は、籠神社に鎮座以来移動がなく、真名井ヶ原に鎮まり給いて万民を恵み守護していたところ、伊勢神宮内宮創建から5百年後、皇祖天照大御神の御神勅「吾れ既に五十鈴川上に鎮まり居ると雖も一人にては楽しからず神饌をも安く聞食すこと能わずと宣して丹波の比沼の真名井に坐豊受大神を吾がもとに呼び寄せよ」が天皇にあり、同様の御告が皇大神宮々司大佐々命にもあり、天皇に奏上されたところ非常に驚き恐れ、天照大神の御饌(食事係)として「豊受大御神(とようけのおおみかみ)」を丹後国から迎え入れ、現在の地である伊勢国度会の山田ヶ原に外宮を建立し、大佐々命をして豊受大神を御遷座した。これを祀って外宮とした(天皇陵巡り:伊勢神宮の項参照)。直ちに豊受大神の御神徳を仰ぎ慕う遠近の信者は引き継ぎ大神の御分霊を奉斎して元伊勢豊受大神宮と尊称し、現在に及んでいる。

 これにより、伊勢神宮は、奥の内宮と手前の外宮(豊受大神宮)の両宮で代表されることになった。(「元伊勢神社内宮 」、「皇大神社」、「元伊勢外宮豊受大神社」参照)

 外宮の境内社の豊川茜稲荷神社は次のように由来を伝えている。
 「当神社の創祀は、九百余年前の古い由緒深い神社です。特に豊川茜神社の御祭神・宇か之御魂神は天照大神の御弟、スサノウの命の御子にして、御母は神大市姫の命にまします。叉の名を豊受姫の命などと申し上げ伊勢神宮の大神と御同体にて、五穀を始め総ての食物及び産業を守り幸へ給い云々」。

【現在の伊勢神宮考】
 伊勢神宮は仮称であって公式名称ではない。正式には、単に神宮と云う。神宮は、日本の総氏神の地位にある天照大御神を祀る皇大神宮(これを内宮と云う)と衣食住や産業の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮(これを外宮と云う)の二両宮を正宮(しょうぐう)と呼び、それぞれが別宮、摂社、末社、所管社を持つ。その数125社に及ぶ。内宮、外宮、別宮の宮と社(やしろ)を総称して神宮と云う。内宮の神域は98ヘクタール。五十鈴川にかかる宇治橋が内宮の入り口となる。外宮の神域89ヘクタール。神宮の祭祀は、「外宮先祭の原則」が立てられている。神宮の主な建物は20年に一度、「式年遷宮」により建て替えられる。持統天皇の御代に始まり、1300年以上続いている。2010年現在、次の式年遷宮は2013年になる。「唯一神明造」という建築様式を今に伝え、五重の垣根に囲まれている。

 鎌倉時代に、内宮と外宮間に、何れが尊きか、どちらが正統で傍系かを廻る正閏(せいじゅん)論争が生まれ、兵火に訴えた歴史を持つと云う。

 「古代日本ユダヤ人渡来説」(坂東誠著、PHP出版)は次のように記している。
 「イセ」とは「神の救い」? p100

 大変興味深いのは、伊勢という地名だ。ユダヤ人の研究家であるヨセフ.アイデルバーグ氏によると、この「イセ」という言葉は、「神の救い」を表す「イェシュ」もしくは「イェシュア」から派生したヘブライ語だ、というのだ。イエス・キリスドのイエスももともとはヘブライ語の「イェシュ」から派生した一言葉である。つまりイエスにも「神の救い」という意味がある。現在、イエスという名は世界各地で「イセ」や「イサ」というふうに呼ばれている。つまり伊勢神宮の「イセ」という言葉は「神の救い」というヘブライ語の可能性もあるのだ。そう言えば・伊勢神宮の神域を流れる川を「五十鈴川」というが、古来の呼び方は「イスズ川レでなく「イスス川」と呼んだそうだ。この「イスス」という名前も「イエス」を連想させる響きがある。イスス川では千年にもわたつて禊が行なわれている。
(私論.私見)
 いわゆる「日ユ同祖論」の立場から上述のように説いている。れんだいこは、伊勢のイセがヘブライ語を語源とする云々に耳を傾けても良いが、イエスとの関連を持ち出すのはナンセンスと思う。イエス教とキリスト教とユダや教の混同は何の意味もなかろう。ユダヤ史及びユダヤ教で説明するなら徹するが良かろうと思う。

 2010.3.30日 れんだいこ拝












(私論.私見)