大祓詞(おおはらいのりと)考



 (最新見直し2010.06.08日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、祝詞を解説する。その重要性が軽んぜられていると思うからである。「ウィキペディア大祓詞」その他を参照する。れんだいこに云わせれば、神道の大祓詞(おおはらいのりと)は仏教の般若心経に相当する。どちらも日本原思想として受肉化されており有益な思想であるからして復唱誦読すべきであろう。般若心経については、「仏教」の項目に記している。

 2009.3.4日 れんだいこ拝


【祝詞の言葉の意味考】
 「ウィキペディア祝詞」は、次のように記している。

 祝詞(のりと)とは、神道において神徳を称え、崇敬の意を表する内容を神に奏上しもって加護や利益を得んとする文章をいう。通常は神職によって独自の節まわしによる朗誦が行われ、文体・措辞・書式などに固有の特徴を持つ。現在、最も標準的とされる朗読調は、昭和天皇の玉音放送と酷似している。 

 祝詞(のりと)の語源は、「のりとごと」(宣之言・宣処言・宣呪言)であるとする説が従来もっとも一般的であったといえる。神職などの奉仕者が祭神に祭祀の意義や目的を奏上する言葉(人間が神に対してみずからの祈願するところや、神を称えるこころを表現するために記した文章)を意味するものであるが(奏上体)、古くは祭祀の場に参集した人々に宣り下される言葉でもあった(宣命体)。「のりと」の「のり」には「宣り聞かせる」という意味が考えられることから、宣命体の祝詞が本義を伝えるものであると考えることもできる。

 折口信夫は古代祝詞の用例から「~と宣る(宣ふ)」と結ぶノリト型と「~と申す」と結ぶヨゴト型の別のあることを探りだし、高位にあるものが下位にあるものへ祝福を授けるための言葉がノリトすなわち「宣り言」であり、その礼として下位にあるものが高位にあるものを称え服従を誓う言葉がヨゴト(寿詞)であると解した。

 すなわち現今云うところの祝詞は、折口のいわゆるヨゴト(寿詞)の系譜に属する祈願の言葉がたまたま「祝詞」の名をとったものであるということもできる。祝詞の語源・本義に関する右の両説は現在でも容易に決着がつけがたい。

 以上を一般的知識として、更に考究すると、定式化されている「祓詞(はらへの言葉)」、「大祓詞(おおはらへの言葉)」は正しくは「天津系の」と理解されるべきではなかろうか。しかも、原文が別に存在し、現行文は原文の生々しい表記を改竄していると認めるべきではなかろうか。その根拠として、「別文六月晦大祓祝詞(みなづきつごもりのおおはらえののりと」(出典:延喜式卷八「祝詞」)があり、内容を読むに、こちらの方が原文に近いと思われるからである。

 その違いは、天津神の罪、国津神の罪を列挙している下りが顕著で、通説「天津系大祓詞(おおはらへの言葉)」では削除されている。れんだいこは、徒に原文改訂は良くないと考え復活させることにした。両者の罪の違いが却って興味深い。更に、後半の下りでも記述が違う。れんだいこは、別文の方を採った。別文では末尾に「四国(よくに)の卜部」が登場している。これをどう読み解くべきか。何か重要なヒントが隠されているように思われる。

 そういう訳で、「れんだいこ文・天津系祓詞(はらへの言葉)」として定式化させる。天津系としたのは、出雲系の天津系祓詞(はらへの言葉)が別に存在すると考えるからである。但し、こちらは秘されていると思われその限りで不明である。出雲国造奏上文があるが、それは出雲系の天津系祓詞(はらへの言葉)とは又別文であろう。

【祝詞の内容考】
 大祓詞(おおはらえのことば)は、神道の祭祀に用いられる祝詞の一つである。「中臣祓詞」(なかとみのはらえことば)、略して「中臣祓」、「中臣祭文」(なかとみさいもん)とも云う。内容から大きく前段と中段と後段の三つに分けられる。前段は、大祓に参集した皇族・百官に対して「祝詞をよく聞け」という内容の文言が記されている。これは当初の大祓詞が参集者に対して宣り聞かせるものであったことの名残であり、今日の神社本庁の大祓詞ではこの部分が省略されている。

 次に、中段に入る。天孫族系の高天原王朝が国津族系の葦原中国平定を目指して天孫降臨し、天孫族が日本を治めることになるまでの日本神話の内容が語られている。この過程で双方が犯した罪の内容を「天つ罪・国つ罪」として列挙している。罪の内容については、今日の「罪」の観念にあわないものが多く、差別的ととられかねないものもあることから、神社本庁の大祓詞では罪名の列挙を省略して単に「天津罪・国津罪」とだけ言い換えられている。

 2009.3.5日、2010.1.13日再編集 れんだいこ拝

【祝詞の史書としての登場考】
 祝詞と名づけられた文章のもっとも古い例は、『延喜式』巻八に収録する29篇と藤原頼長『台記』別記所収「中臣寿詞」の計30篇である。以上はすくなくとも奈良時代以前にまで遡りうる貴重な文献であり、古代の祝詞の姿を現在に伝える重要な資料である。延喜式所収の29篇の祝詞は以下のものである。
  1. 祈年祭
  2. 春日祭
  3. 廣瀬大忌祭
  4. 龍田風神祭
  5. 平野祭
  6. 久度古關(祭)
  7. 六月月次(祭)
  8. 大殿祭
  9. 御門祭
  10. 六月晦大祓
  11. 東文忌寸部献横刀時ノ呪
  12. 鎮火祭
  13. 道饗祭
  14. 大嘗祭
  15. 鎮御魂齋戸祭
  16. 伊勢大神宮
    1. 二月祈年(祭)
    2. 六月十二月月次祭
    3. 豊受宮
    4. 四月ノ神衣祭
    5. 六月ノ月次祭
    6. 九月ノ神嘗祭
    7. 豊受宮同祭
    8. 神嘗祭
    9. 斎内親王奉入時
    10. 遷奉大神宮祝詞
  17. 遷却祟神祭
  18. 遣唐使時奉幣
  19. 出雲国造神賀詞
  20. 中臣寿詞


 このうち1~7は各神社の祭礼ごとの祝詞、8~15は宮中祭祀にかかわる祝詞、16は伊勢神宮にかかわる祝詞、17~20は補遺である。以上のうちに特徴的なのは「~と申す(白す)」と結ぶ奏上体が大半を占めるのに対して祈年祭、六月月次祭(大祓)、大嘗祭・神嘗祭においては「~と宣る(宣ふ)」とする宣命体がとられていることでこれらの祭儀が発生や形式においてそのほかの祭儀と性格を別にしていたことを思わせるものである。

 その目的によって様々な種類があり、現在でも大和言葉が用いられている。基本的に祝詞は祭儀の度に作文するが、決まった祭儀(初宮詣、結婚式など)では同じ祝詞を用いることが多い。また、祭儀の前に行う修祓での「祓詞」(はらえことば)や大祓での「大祓詞」(おおはらえことば)も言葉が決まっている。

【大祓詞(おおはらえのことば)の成立時期考】
 大祓詞(おおはらえのことば)は、元々は毎年6月と12月の末日に行われる大祓で、大和王朝創建時の国是を確認し、その時に定式化された罪・穢れを祓うための儀式に添えられる祝詞であったと思われる。中臣氏が京の朱雀門で奏上していたことから中臣祓の称がある。

 元々は、6月と12月では異なる文言であったが、6月の方だけが残った。「延喜式」巻八「祝詞」には「六月晦大祓」として記載されており、「十二月も此に准へ」と注記がある。今日使用されている大祓詞は「六月晦大祓」の祝詞を元にしたものである。

 その成立時期について、賀茂真淵は天智・天武朝説を唱え、本居宣長は文武天皇朝説を唱えている。が、いずれの説もその原典になる文章がそれ以前の時代には存在したとしている。

 大祓詞(おおはらえのことば)は現在でも唱えられている。神社本庁のほか各種の教派神道、神道系新宗教の一部でも使われている。が、延喜式記載のものから内容に改変が加えられており、教団によっても多少の差異がある。

【「大祓詞(おおはらへの言葉)」れんだいこ解析】
 「大祓詞(おおはらへの言葉)」を、れんだいこ風に解析すれば次のような文意になる。
 六月晦(みなづきのつごもりの)大祓(おほはらひ)〔十二月も此に准へ〕

 天皇(すめら)が、朝廷(みかど)に仕(つか)へ奉(たてまつ)る親王(みこたち)、諸王(おほきみたち)、諸臣(まえつきみたち)、百官(もものつかさ)の人等(ひとたち)諸(もろもろ)に呼令して、これに従い参詣した者たちにかく宣べた。

 朝廷に仕官する官官(つかさづかさ)よ。この国の建国過程で、天津の者も国津の者もが、これまでに過(あやまち)犯した種々(くさぐさ)の罪を、今年の六月(みなづき)の晦(つごもり)の大祓(おおはらへ)に祓(はら)ひ給ひ清め給うことで、今後は無益な争いを止め、これから宣べるが如く今後はかく聞き分けし従うよう宣べる。
 (伏せられた前段事情 その昔、原日本には八百万(やおよろず)の国津神の住む豊葦原の瑞穂の中国が在った。高天原王朝は、豊葦原の瑞穂の国を治める出雲王朝に国譲りを仕掛けた。度々の使者を送りらちが開かず、遂に軍事戦と談判により投降させることに成功した。その国譲り戦で勝利したフツヌシとタケミカヅチが高天原に凱旋してきた)

 高天原を治めるカムロ「ギ」の命(みこと)とカムロ「ミ」の命の発令により、高天原系の八百万の神々が天の安の河原に集まった。出雲王朝の支配者であり、豊葦原の瑞穂の国の盟主である大国主命の国譲りの件が報告され、議論に議論を重ねた結果、いよいよ豊葦原の瑞穂の国の平定に乗り出すことに評定が決着した。

 アマテラスは、オシホミミの命に、葦原中国を統治するよう命じた。オシホミミの命は、タカミムスヒの娘のヨロヅハタトヨアキツシ姫の命との間に生まれ成人していた子の天津彦火のニニギの命に役目を譲った。アマテラスは、オシホミミの命の進言を受け入れ、「ニニギの命よ、そなたが葦原中国を支配することを委任いたします。さっそく天降るように」と命じた。こうして、アマテラスの命で、ニニギの命が天降ることになった。

 アマテラスは、出発に当り、ヤタの鏡と草薙の剣と八坂の勾玉(まがたま)を授け、これをお守りとして祀るよう言い渡した。これを三種の神器と云う。最後に稲穂を渡し、高天原の稲を豊葦原の瑞穂の中国の食物とせよと命じた。オモヒカネには祭事と政事を執るよう言い渡した。他にアメノコヤネ(中臣氏の祖神)、フトダマ(忌部氏の祖神)、アメノウズメ(猿女氏の祖神)、イシコリドメ(鏡作の祖神)、タマノオヤ(玉作の祖神)が従った。他にアメノオシヒ(大伴氏の祖神)、ヒコホノ二ニギ、アメノイワトワケ、タジカラヲ、アメツクメの各命が随伴した。これを仮に天孫族叉は高天原軍と命名する。

 ニニギの命は、国津神の神々に使者を送り、大国主命の国譲りの件を伝え、豊葦原の瑞穂の中国の統治権を渡すよう迫った。国津神系は大混乱に陥り騒々しくなったが、拒否して一致共同して抗戦する旨伝えてきた。抗戦派の荒ぶる神々は大倭日高見の国を盟主として抵抗の構えを見せた。

 高天原軍は遂に討伐に向かうことになった。ニニギの命一行は、「東に美(う)まし國ありと聞く。我いざこれを討たん」と宣べ、幾重にも折り重なった分厚い雲を掻き分けに掻き分けて、日向の高千穂の峰に天降った。この地に堅い基礎に太い宮柱を建て、屋根は千木に高く聳え立つ豪勢な宮殿を建て、国津神を威圧した。稲作を進め、国津神の蒙を開き、高天原の征服事業は着々と進展した。

 しかし、高天原軍は完全制圧できず、国津神軍との抗争が続いた。高天原は業を煮やして、徹底した軍事行動による殲滅を宣言した。それでも国津神は降伏せず、地の利を生かして各地の高い山低い山に立て篭もって抵抗し始めた。高天原は手を焼いた。

 遂に、軍事による徹底殲滅方針をあきらめ、武装解除し恭順するならば反逆した過去の罪を問わず制裁処罰しないこと、過去を祓い給い清め給いきれいさっぱり清算して公平な人材登用を進め、共に和して新日本を創建することを明らかにし、反逆徒が立て篭もるアジトまで出向いて告げた。

 これにより、或る神達は豊葦原の瑞穂の中国から立ち去り大航海に出向いた。或る神達は投降し始めた。豊葦原の瑞穂の国は溶解状態に陥り、投降相次ぐ事態となった。豊葦原の瑞穂の国の皇統を為す根の国、底の国の代表が高天原軍と最後の協議を行い、制裁処罰されず公平な人材登用を行うなことを条件に帰服した。これが、高天原と豊葦原の瑞穂の国の合意となって、その後の日本が開かれた。

 祝詞(のりと)は、この経緯を確認するために遺す奏上文である。この国の成り立ちに於ける「抵抗の罪を問わず、過去を洗い流し、祓い給い、清め給い、天津神と国津神の八百万の神々が相和して新日本を創ることを申し合わせて、国が開かれた」と云う史実の重みを子々孫々に伝える為のものである。

 これが、新生日本の始まり史である。しかと承り肝に命ずるよう申し渡しておく。

 以上、「大祓詞(おおはらへの言葉)」をれんだいこ式に解析した。下手にして拙い解読よりよほど値打ちがあるだろう。れんだいこが、「大祓詞(おおはらへの言葉)」に注目するのは、そこに大和王朝創建時の歩みと確認事項、国づくりの理念及び精神が格調高く濃密に詠われていることを認めるからである。事実、「大祓詞(おおはらへの言葉)」は、永らく日本政治の原理として踏襲伝統とされてきた。

 後段で、天孫族が、国津族の抵抗に手を焼き、共倒れになることを憂いて殲滅戦争から転換し、和平を求めたことが記されている。国津族の本体が最終的に受け入れ、両者の和同によって新日本創建が始まったことが記されている。それまでのわだかまりを祓い給え清め給え祓の儀式により罪・穢れを消滅させることが大祓詞の言霊の意味として語られている、と解する。

 してみれば、「祓詞(はらへの言葉)」、「大祓詞(おおはらへの言葉)」は、日本古代史上の最大政変と、その政変の和睦的終結の経緯を正確に且つ概略的に素描した歴史物語的要素が強いと云うことになる。かく認識することにより、「祓詞(はらへの言葉)」、「大祓詞(おおはらへの言葉)」の重要性が知られることになる。れんだいこはかく了解し読誦を心がけんと思う。

 「大祓詞(おおはらへの言葉)」は、当時における政治マニュフェストであり、仏説的には真言マントラであり、日本政治的には明治維新期の五箇条の御誓文に先行する古代維新期の御誓文である。その意味で日本の無形文化財足り得ている。今、この価値が忘れられようとしている。

 他方で思うのは、パレスチナに於けるイスラエルの飽くことなき徹底殲滅思想である。これを思えば、「大祓詞(おおはらへの言葉)」の価値が際立つ。そういうメンタリティーから、急きょ、「大祓詞(おおはらへの言葉)」を解読することになった。現代は、イスラエル軍の徹底殲滅思想とハーモニーするような政治、経済、文化、学問が幅を利かせている。が、れんだいこは、これらを推進する国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの頭脳は案外賢くないのではなかろうかと思っている。もっと云えば、中身が空疎な狂人思想ではなかろうかかと思っている。

 我らが学ぶに値せずである。そうとならば、我々の政治、経済、文化、学問システムを我らなりに再度創出せねばならないのではなかろうか。既成のインテリはここが分かっておらず、今もひたすらネオ・シオニズムイデオロギーの捕囚に甘んじ、これを良しとしている。ウヨサヨはとてつもない腐敗した知性の汚濁のなかに在る。共に著作権狂いしているが、定向進化の法理によりもっと狂って盛んに小難しい社会へと誘い、終いには自分で自分の首を絞めて恍惚するところまで向かうであろう。

 そんなこんなを確認するための「大祓いの祝詞考」となった。

 2009.3.4日 2010.01.16日再編集 れんだいこ拝

 「大祓詞(中臣祓詞)」その他を参照する。  

 古来、大祓は通常六、十二月晦に執行されていた。而し伊勢神宮の古傳には、古い穢れを祓い、新しい気持ちになるために二、五、六、十、十一、十二月に行われていたとの記載がある。延喜式の神祇の規程を見ると、大きな祭りは六月及び十二月に集中している。その昔は朱雀門前に於いて、六月と十二月の晦に中臣氏が大祓の詞を読み、忌部氏がお祓いをしていた。その頃は大祓を「中臣祭文」と称していた。大祓が皆に申し上げる形態になっているのに比して、「中臣祭文」は神に対して申し上げる形式を採っている。このような年に二回の大祓の執行を現在のように神拝の都度唱えられるように変遷して来たのは平安末期だと云われてる。中臣祭文は時期等の記載がなくなり、何時でも誰でも唱えてもいいと云う形に改められることになった。













(私論.私見)