れんだいこの古史古伝考



 (最新見直し2010.12.31日) 

 (れんだいこのショートメッセージ)
 いわゆる「古史古伝」をどう読むか。現代史学の通説は、古代史上、神武天皇でさえその実在性を認めない立場から、ましてやそれ以前の神代をやとしている。他方、記紀、先代旧事本紀、古史古伝のメッセージ性に注目し、古代史上の何らかの暗示として積極的に受け止めようとする立場もある。

 れんだいこは後者派であり、記紀神話に明らかにされている天地創造譚、皇統譜の究明は無論のこととして、更にそれらとは別系の歴史記述を知ることにより思案を深めたいと思っている。この観で見れば、宮下文書、竹内文書、秀真伝等々の「古史古伝」はなかなか味わい深く、記紀的日本神話の奥に潜む謎を解き明かすキーワードに触れる事も少なくない。

 もう一つ、思想的に見て古神道的世界を伝授しており、この面からも学ぶに値しよう。「自然との共存」を可能にし、他の宗教、人種、民族とも共存出来る「和」の思想がある、と云われている。竹内家は、「天神地祗八百万神」を祭神とする「古神道本庁」を設立しているほどである。「古神道本庁の神道ルネッサンス運動により、民族宗教神道は、世界宗教の根源たる古神道に甦る」と述べられている。

 但し、「古史古伝」には共通して、原書の記述部分と後世の転写過程での補充部分があると見られる。これを選り分け、時代迎合的な補充部分を却下せねばならないと考える。原書の記述に於いてなるほどと思われる「民族伝承」部分を抽出して日本神話考の中に取り入れればならないと考えている。そうすることにより記紀神話が一層正確に理解しえると思えるからである。

 従って、全文を讃美的に秘史扱いするのも徒な偽書扱いするのも間違いであると考える。この作法は「シオンの議定書論」、「ナチスのホロコースト論」にも共通する。つまり古くて新しい命題であると考える。以下、これを検証する。

 2008.4.13日 れんだいこ拝


【古史古伝の名称の由来と検証の意義考】
 1970年代、古代史研究家の吾郷清彦氏が、「日本超古代秘史研究原典」その他で、神代を記述する古文書を分類し、神代文字に関する伝承を部分的に含むものを「古史」、全文が神代文字で書かれたものを「古伝」と呼称した。この名称が妥当かどうか、逆に全文神代文字古文書を「古史」、部分神代文字古文書を「古伝」と命名する方が相応しいのではなかろうかと疑問する余地も残るが、神代記述古文書をかく位置づけた功績は大きい。後に、古代史研究家の佐治芳彦氏が、吾郷氏の分類法を継承しつつ、「古史」や「古伝」を一括して「古史古伝」の総称で括り、記紀前の歴史文書とする観点を打ち出した。その後、偽書論争が喧騒し、「古史古伝」の意義が薄められて今日に至っている。

 れんだいこは、「古史古伝」を再検証する必要を感じている。なぜなら、記紀の神代史記述が大和王朝を正統づける狙いで編纂されており、記紀神話だけでは、幾ら精緻に研究しようとも必ずしも神代史が解明されないと心得るからである。記紀神話に代わる「古史古伝神話」をも比較対照することによってこそ神代史の実相が見えてくると確信するからである。もとより「古史古伝」の正確さには疑いがあるところである。後世の創作の余地もあるし、転写過程での誤写、改竄も考えられよう。しかしながら、そのことをもって「古史古伝」の記述全体を偽作視するのも早計ではなかろうか。望まれている学的態度は、「古史古伝」を記紀との比較対照を通じて、神代史に光を当てることではなかろうか。

 そういう意味で、単なる偽書論争は却って有害でしかないと思う。問題は、排斥すべき記述と耳を傾けるべき記述をふるいにかけ、記紀の不足を補い、或いは記紀の政治主義的記述を訂正することではなかろうか。即ち、「古史古伝」を排斥するのではなく、「古史古伝」に分け入るべきではなかろうか。偽書論争でもって排斥するのは学的態度ではなかろう。この平凡なことが理解されないのはアサマシイ話である。

 れんだいこの仕分けによると、「古史古伝」は、記紀と独立して記述されている別書と、記紀を補足して記述されている補書と、記紀に対抗して記述されている抗書の三書に分類できるように思われる。別書、補書、抗書の三書のうち特に意義深いのが抗書であるように思われる。これは、記紀神話に記述されている国譲りを廻って、記紀神話が国譲りさせた側の正統史となっており、抗書が国譲りさせられた側の鬱憤史となっていることで際立つ差異となっている。もとより、抗書も一様ではなく、書かれた立場の違いにより様々な記述になっている。何度も書き直されており、その過程で改竄されている恐れもあり、どこまでが原書であるのかの吟味が為し難い。それでも分け入るに価値ある古文書ではなかろうかと思っている。

 それを思えば、偽書論争で鬼の首を取ったかのように勝ち誇り、「古史古伝」を単に排斥して事足れりとする陣営には与し難い。「古史古伝」研究は緒についたばかりであり、大いに分け入り、日本神代史、古代史の扉を開けるべきである。これを、れんだいこの「古史古伝」論とする。

 2010.12.31日 れんだいこ拝













(私論.私見)