| 【巻第八(神皇本紀)】 |
応神天皇
諱は誉田皇太子尊(ほむたのひつぎのみこのみこと)と云う。足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと、仲哀天皇)の第四皇子である。母は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、すなわち開化天皇の五世孫である。天皇は、母である皇后が新羅を討たれた年、庚辰年の冬十二月に、筑紫の蚊田でお生まれになった。幼くして聡明で、思索する事は深遠で有った。立居振る舞いに聖帝のきざしがあった。皇太后の摂政三年に、立って皇太子となられた。ときに年三歳。天皇が皇太后の胎中におられるとき、天神地祇は三韓を授けられた。お生まれになったとき、腕に上に盛り上がった肉があった。その形がちょうど鞆(ほむた)のようであった。これは、皇太后が男装して、鞆をつけられたのに似られた。そのため名を称えて誉田尊と申しあげる。
摂政六十九年夏四月、皇太后が亡くなられた。治世元年一月一日、皇太子は天皇に即位された。軽嶋の地に都を造り、豊明宮(とよあかりのみや)といった。二年春三月三日に、仲姫命(なかつひめのみこと)を立てて皇后とされた。皇后は三児をお生みになった。荒田皇子(あらたのみこ)、次に大鷦鷯尊(おおさざきのみこ、後の仁徳天皇)、次に根鳥皇子(ねとりのみこ)である。これより先に天皇は、皇后の姉の高城入姫(たかきのいりひめ)を妃として、四児をお生みになった。額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)、次に大山守皇子(おおやまもりのみこ)、次に去来真稚皇子(いざのまわかのみこ)、次に大原皇子(おおはらのみこ)である。またの妃、皇后の妹の弟姫(おとひめ)は、三児を生んだ。阿倍皇女(あべのひめみこ)、次に淡路三原皇女(あわじのみはらのひめみこ)、次に菟野皇女(うののひめみこ)。次の妃、物部多遅麻大連(もののべのたじまのおおむらじ)の娘・香室媛(かむろひめ)は三人の御子を生んだ。菟道稚郎子皇子尊(うじのわきいらつこのみこのみこと)、次に矢田皇女(やたのひめみこ)、次に雌鳥皇女(めとりのひめみこ)。次の妃、香室媛の妹・小甂媛(おなべひめ)は、菟道稚郎姫皇女(うじのわきいらつひめのひめみこ)を生んだ。次の妃、河派仲彦(かわまたのなかつひこ)の娘・弟媛は稚野毛二派皇子(わかのけふたまたのみこ)を生んだ。次の妃、桜井田部連男鉏(さくらいたべのむらじおさい)の妹・糸媛(いとひめ)は、隼別皇子(はやぶさわけのみこ)を生んだ。次の妃、日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)は、大葉枝皇子(おおはえのみこ)、次に小葉枝皇子(おはえのみこ)を生んだ。すべて天皇の皇子女は、合わせて二十人おいでになる(男女合わせて二十五王生まれたともある)。
四十年の春一月八日に、天皇は大山守命と大鷦鷯尊を呼んでお尋ねになられた。「お前たちは、自分の子が可愛いか」。二人の皇子は答えて申しあげられた。「とても可愛いです」。天皇はまた尋ねて仰せられた。「大きくなった子と、小さい子では、どちらが可愛いか」。大山守命が答えて仰せられた。「大きい子の方が良いです」。それを聞いた天皇は喜ばれない様子であった。大鷦鷯尊は天皇の心を察して申しあげられた。「大きくなった方は、年を重ねて一人前になっているので、もう不安はありません。年若い方はそれが一人前になれるか、なれないかも分からないので、若い方は可愛そうです」。天皇はとても喜んで仰せになった。「お前の言葉は、まことに我が心にかなっている」。このとき天皇は、常に菟道稚郎子を立てて、皇太子にしたいと思われる心があった。そこで二人の皇子の心を知りたいと思われていた。そのためにこの問いをされたのであった。このため大山守命の答えを喜ばれなかった。そうして、菟道稚郎子を立てて日嗣(ひつぎ)とされた。大山守命を山川林野を掌る役目とされ、大鷦鷯尊をもって、太子の補佐として国事を見させた。物部の印葉連公(もののべのいにはのむらじのきみ)を大臣とした。
四十一年春二月十五日、天皇は豊明宮で崩御された。年百十歳で有った。天皇の生まれた子供は十七児で男十二王、女五王である。荒田皇子(あらたのみこ)。次に大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)。次に根鳥皇子(ねとりのみこ)。大田君(おおたのきみ)等の先祖。次に額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)。次に大山守皇子(おおやまもりのみこ)。土方君(ひじかたのきみ)、榛原君(はりはらのきみ)等の先祖。次に去来眞稚皇子(いざのまわかのみこ)。深河別(ふかがわわけ)等の先祖。次に大原皇子(おおはらのみこ)。次に菟道稚郎皇子尊(うじのわかいらつこのみこのみこと)。次に稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)。三国君(みくにのきみ)等の先祖。次に隼總別皇子(はやぶさわけのみこ)。次に大葉枝皇子(おおはえのみこ)。次に小葉枝皇子(おはえのみこ)。次に矢田皇女(やたのひめみこ)。仁徳天皇の妃。次に阿倍皇女(あべのひめみこ)。次に淡路三原皇女(あわじのみはらのひめみこ)。次に菟野皇女(うののひめみこ)。次に雌鳥皇女(めとりのひめみこ)。
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仁徳天皇
諱は大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)。誉田天皇(ほむたのすめらみこと、応神天皇)の第四皇子である。母を皇后・仲媛命(なかつひめのみこと)と申しあげる。五百城入彦皇子命(いほきいりひこのみこと)の孫である。天皇は幼いときから聡明で、英知であられた。容貌が美しく、壮年に至ると心広くめぐみ深くいらっしゃった。先の天皇の治世四十一年春二月、応神天皇は崩御された。皇太子の菟道稚郎子皇子(うじのわかいらつこのみこ)は、位を大鷦鷯尊に譲ろうとされて、まだ即位されなかった。そうして大鷦鷯尊に仰られた。「天下に君として万民を治める者は、民を覆うこと天のごとく、受け入れることは地のごとくでなければなりません。上に民を喜ぶ心があって人民を使えば、人民は欣然として天下は安らかです。私は弟です。またそうした過去の記録も見られず、どうして兄を越えて位を継ぎ、天業を統べることができましょうか。大王は立派なご容姿です。仁孝の徳もあり、年も上です。天下の君となるのに十分です。先帝が私を太子とされたのは、特に才能があるからというわけではなく、ただ愛されたからです。宗廟社稷に仕えることは、重大なことです。私は不肖でとても及びません。兄は上に弟は下に、聖者が君となり、愚者が臣下となるのは、古今の定めです。どうか王はこれを疑わず、帝位に即いてください。私は臣下となってお助けするばかりです」。大鷦鷯尊は答えて仰せられた。「先帝も”皇位は一日たりとも空しくしてはならない”とおっしゃった。それで前もって明徳の人をえらび、王を皇太子として立てられました。天皇の嗣にさいわいあらしめ、万民をこれに授けられました。寵愛のしるしと尊んで、国中にそれが聞こえるようにされました。私は不肖で、どうして先帝の命に背いて、たやすく弟王の願いに従うことができましょうか」。固く辞退して受けられず、お互いに譲り合われた。
この時、額田大中彦皇子(くかたのおおなかつひこのみこ)が、倭の屯田と屯倉を支配しようとして、屯田司(みたのつかさ)の出雲臣(いずものおみ)の祖・淤宇宿祢(おうのすくね)に語っていった。「この屯田はもとから山守の地だ。だから自分が治めるから、汝は掌るな」。淤宇宿祢は太子にこのことを申しあげた。皇太子は仰られた。「汝は大鷦鷯尊に申せ」。そこで、淤宇宿祢は大鷦鷯尊に申しあげた。「私がお預かりしている田は、大中彦皇子が妨げられて治められません」。大鷦鷯尊は、倭直(やまとのあたい)の祖・麻呂にお尋ねになった。「倭の屯田は、もとから山守の地というが、これはどういう意味か」。麻呂が答えて申しあげた。「私には分かりませんが、弟の吾子籠(あごこ)が知っていると思われます」。この時、吾子籠は韓国に遣わされて、いまだ還っていなかった。大鷦鷯尊は淤宇宿祢に仰せられた。「お前はみずから韓国に行って、吾子籠をつれて来なさい。昼夜を問わず急いで行け」。そして淡路の海人八十人を差し向けて水手とされた。淤宇は韓国に行って、吾子籠をつれて帰った。倭の屯田のことを尋ねられると、答えて申しあげた。「伝え聞くところでは、纏向珠城宮(まきむくのたまきにみや)で治められた垂仁天皇の御世に、太子の大足彦尊(おおたらしひこのみこと)に仰せられて、倭の屯田が定められたといいます。このときの勅旨は”凡そ倭の屯田は、時の天皇のものである。帝の御子といえども、天皇の位になければ掌ることはできない”と云われました。これを山守の地というのは、間違いです」。大鷦鷯尊は、吾子籠を額田大中彦皇子のもとに遣わして、このことを知らされた。大中彦皇子は、この上いうべき言葉がなかった。その良くないことをお知りになったが、許して罰せられなかった。
その後、大山守皇子は、事有る毎に先帝が太子にしてくださらなかったことを恨み、重ねてこの屯田のことで恨みを持った。陰謀を企てて仰せられた。「太子を殺して帝位を取ろう」。大鷦鷯尊はその陰謀をお知りになり、ひそかに太子に知らせ、兵を備えて守らせられた。太子は兵を備えて待ち構えた。大山守皇子は、その備えのあることを知らず、数百の兵を率いて夜中に出発した。明け方に菟道(宇治)について河を渡ろうとしました。その時、太子は粗末な麻の服をつけられて、舵をとって、ひそかに渡し守にまじられ、大山守皇子を船にのせてこぎ出された。河の中ほどに至って、渡し守に船を転覆させられた。大山守皇子は河に落ちてしまった。浮いて流されたが、伏兵が多くいて、岸につくことができなかった。そのため、ついに沈んで亡くなった。屍を探すと、哮羅済(かわらのわたり)に浮かんでいた。太子は屍をご覧になり、歌にしていわれた。云々。別に和歌の書がある。
太子は宮を菟道にたててお住まいになったが、位を大鷦鷯尊に譲っておられるので久しく皇位が定まらな無かった。皇位は空いたままで三年が過ぎた。ある海人の漁師がいて、鮮魚の献上品を菟道宮に献じた。太子は漁師に仰せられた。「自分は天皇ではない」。そうして、返して難波に奉らさせられた。大鷦鷯尊は、また返して菟道に奉らさせられた。漁師の献上品は両方を往復している間に、古くなって腐ってしまった。それでまた、あらためて鮮魚を奉ったが、譲り合われることは前と同様であった。鮮魚はまた腐ってしまった。漁師は途方にくれて鮮魚を捨てて泣いた。ことわざに、「海人でもないのに、自分の物から泣く」というのは、これが由来である。
太子は、「私は兄王の心を変えられないことを知った。長く生きて天下を煩わせたくない」と仰せられて、ついに自殺された。大鷦鷯尊は太子が亡くなられたことを聞いて、驚いて難波の宮から急遽、菟道宮に来られた。太子の死後三日を経ていた。大鷦鷯尊は胸を打ち泣き叫んで、なすすべを知らなかった。髪を解き死体にまたがって、「我が弟の皇子よ」と三度お呼びになった。するとにわかに生き返られた。大鷦鷯尊は太子へ仰せになった。「悲しいことよ。悔しいことよ。どうして自殺などなさいますか。もし死なれたと知れたら、先帝は私を何と思われますか」。すると、太子は大鷦鷯尊に申しあげられた。「天命です。誰もとめることはできません。もし先帝のみもとに参ることがありましたら、詳しく兄王が聖で、度々辞退されたを申しあげましょう。あなたは私の死を聞いて、遠路駆けつけてくださった。お礼を申しあげねばなりません」。そうして、同母妹の矢田皇女を奉って仰せられた。「お引きとりいただくのも迷惑でしょうが、なにとぞ後宮の数に入れていただけますように」。そしてまた、棺に伏せって亡くなられた。大鷦鷯尊は麻の服を着て、悲しみ慟哭されること甚だしかった。遺体は菟道の山の上に葬った。
治世元年の春一月三日、大鷦鷯尊は即位された。先の皇后を尊んで皇太后と申しあげた。都を難波に遷し、高津宮(たかつのみや)といった。この天皇がお生まれになった日に、木菟(つく、みみずく)が産殿に飛び込んできた。翌朝、父の応神天皇が大臣の武内宿祢を呼んで仰せられた。「これは何のしるしだろうか」。宿祢は答えて申しあげた。「吉祥です。昨日、私の妻が出産するとき、鷦鷯(さぎ、さざき、みそさざい)が産屋に飛び込んできました。これもまた不思議なことです」。そこで、天皇は仰せられた。「我が子と宿祢の子は、同じ日に産まれた。そして両方ともしるしがあったが、これは天のお示しである。その鳥の名をとって、お互いに交換し子供に名づけ、後代へのしるしとしよう」。それで鷦鷯の名を取って太子につけ、大鷦鷯皇子といわれた。木菟の名を取って大臣の子につけ、木兎宿祢といった。これが平群臣(へぐりのおみ)の祖である。
二年春三月八日、磐媛命(いわひめのみこと)を立てて皇后とされた。皇后は四児をお生みになった。大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと、後の履中天皇)、次に住吉皇子(すみのえのみこ)、次に瑞歯別尊(みずはわけのみこと、後の反正天皇)、次に雄朝津間稚子宿祢尊(おあさづまわくごのすくねのみこと、後の允恭天皇)。妃の日向の髪長媛は大草香皇子(おおくさかのみこ)、次に幡梭皇女(はたひのひめみこ)を生んだ。
二十二年春正月 天皇は皇后に語って「矢田皇女を入れて妃としたい」と仰せになった。皇后は了承されなかった。三十一年春正月十五日、去来穂別尊を立てて皇太子とした。三十五年夏六月 皇后の磐姫命が筒城宮(つつきのみや)で薨去された。三十七年冬十一月十二日、皇后を那楽山(ならやま)に葬る。三十八年春正月六日、矢田皇女を立てて皇后とした。八十二年の春二月乙巳朔の日に、侍臣の物部大別連公(もののべのおおわけのむらじのきみ)に詔して仰せられた。「皇后には、長い間経ても皇子が生まれなかった。お前を子代と定めよう」。皇后の名を氏として、氏造に改め、矢田部連公(やたべのむらじのきみ)の姓を賜った。八十三年丁卯の八月十五日に、天皇は崩御された。冬十月七日に、百舌鳥野陵に葬った。
天皇が生まれた皇子は五男一女で有る。大兄去来狭穂別尊(おおえいざほわけのみこと)。次に住吉仲皇子(すみのえなかつのみこ)。次に瑞歯別尊(みずはわけのみこと)。次に雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)。次に大草香皇子(おおくさかのみこ)。次に幡梭皇女(はたひのひめみこ)。
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履中天皇
諱は去来穂別尊(いざほわけのみこと)。大鷦鷯天皇(おおささぎのすめらみこと、仁徳天皇)の第一皇子である。母を皇后の磐之媛(いわのひめのみこと)と申しあげる。葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)の娘である。先の天皇の治世三十一年春一月、皇太子となられた。ときに年は十五歳。八十七年春一月、大鷦鷯天皇(仁徳天皇)が崩御された。治世元年春二月一日、皇太子は即位された。先の皇后を尊んで皇太后と申しあげ、皇太后に尊んで大皇太后と追号された。磐余に都を造り、これを稚桜宮(わかさくらのみや)といった。物部伊莒弗連(もののべのいこふつのむらじ)を大連とした。秋七月四日、葦田宿祢の娘の黒媛を皇妃とした。妃は二男一女をお生みになった。磐坂市辺押羽皇子(いわさかのいちのべのおしはのみこ)、御馬皇子(みまのみこ)、青海皇女(あおみのひめみこ)である。次の妃、幡梭皇女(はたびのひめみこ)は、中磯皇女(なかしのひめみこ)をお生みになった。二年春一月四日、瑞歯別皇子(みずはわけのみこ)を立てて皇太子とした。五年の秋九月十八日に、皇妃の黒媛は亡くなった。六年春一月六日、草香幡梭皇女(くさかのはたひのひめみこ)を立てて皇后とされた。三月十五日、天皇は病になられ、体の不調から臭みが増してきた。稚桜宮で崩御された。ときに年は七十歳。また、壬申年の一月三日に亡くなられたともいう。冬十月四日に、百舌鳥耳原陵(もずのみみはらのみささぎ)に葬った。
天皇のお生みになった御子は二男二女。兄に磐坂市辺押羽皇子尊(いわさかのいちべのおしはのみこ)、次に御馬皇子(みまのみこ)、次に青海皇女尊(あおうみのひめみこ)、次に中磯皇女(なかしのひめみこ)。
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反正天皇
諱は瑞歯別尊(みずはわけのみこと)。去来狭穂別天皇(いざほわけのすめらみこと、履中天皇)の同母弟である。先の天皇の治世二年に、立って皇太子となった。ときに年は五十一歳。天皇は淡路宮(あわじのみや)でお生まれになった。生まれながらに歯が一つの骨のようで、うるわしい容姿であった。瑞井(みずい)という井戸があって、その水を汲んで太子を洗われた。そのとき多遅(たじ)の花が井戸の中に落ちた。よって太子の名とした。多遅の花とは今の虎杖(いたどり)の花のことである。それでたたえて多遅比(たじひ)と申し上げたのである。
先の天皇の治世六年春三月、履中天皇が崩御された。治世元年の夏四月二日に、皇太子は即位された。秋八月六日に、大宅臣(おおやけのおみ)の祖の木事(こごと)の娘・津野媛(つのひめ)を立てて皇夫人(おおとじ)とした。香火姫皇女(かひひめのひめみこ)、次に円皇女(つぶらのひめみこ)を生んだ。また、夫人の妹の弟媛(おとひめ)を入れて、財皇女(たからのひめみこ)、次に高部皇子(たかべのひめみこ)を生んだ。冬十月、河内の丹比(たじひ)に都を造った。これを柴垣宮(しばがきのみや)という。五年の春一月二十三日に、天皇は崩御された。年は六十歳。毛須野陵(けずののみささぎ)に葬った。
天皇がお生みになった御子は二男二女。兄に高部皇子(たかべのみこ)、次に円皇女(つぶらのひめみこ)、次に財皇女(たからのひめみこ)、次に香火姫皇女(かひひめのひめみこ)。
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允恭天皇
諱は雄朝嬬稚子宿祢尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)。瑞歯別天皇(みずはわけのすめらみこと、反正天皇)の同母弟である。天皇は幼いころから、成長された後も、恵み深くへりくだっておられた。壮年になって重い病をされ、動作もはきはきとすることができなかった。先の天皇の治世五年春一月、反正天皇が崩御された。時に、群卿たちが相談して云った。「今、大鷦鷯天皇(おおささぎのすめらみこと、仁徳天皇)の御子は、雄朝嬬稚子宿祢皇子と大草香皇子(おおくさかのみこ)がいらっしゃるが、雄朝嬬稚子宿祢皇子は年上で情け深い心でいらっしゃる」。そこで吉日を選んで、ひざまずいて天皇の御璽(しるし)を奉った。雄朝嬬稚子宿祢皇子は仰せられた。「私の不幸は、長い間重い病にかかって、よく歩くこともできないことだ。また私は病を除こうとして、奏し申しあげることなくひそかに荒療治もしてみたが、なお少しもよくならない。それで先帝も私を責めて、“お前は病気なのに、勝手に体をいためるようなことをした。親に従わぬ不幸はこれ以上はなはだしいことはない。もし長生きしたとしても、天つ日嗣をしらすことはできないだろう”とおっしゃった。また私の兄の二人の天皇も、私を愚かであると軽んじられた。群卿も知っていることである。天下というものは大器であり、帝位は大業である。また、人民の父母となるのは、賢聖の人の職である。どうして愚かな者に堪えられようか。もっと賢い王を選んで立てるべきである。自分は適当ではない」。群臣は再拝して申しあげた。「帝位は長く空しくしてあってはなりません。天命はこばむことはできません。大王が時にさからい、位につくことをされなければ、臣らは人民の望みが絶えることを恐れます。願わくはたとえいとわしいと思し召すとも、帝位におつきください」。雄朝嬬稚子宿祢皇子は、「宗廟社稷を奉るのは重き事である(国家を任されるのは重大なことである)。自分は重い病で、とても耐えることはできない」と承知されなかった。そこで群臣は固くお願いして申しあげた。「私たちが伏して考えますのに、大王が皇祖の宗廟を奉じられることが、最も適当です。天下の万民も、皆そのように思っています。どうかお聞きとどけください」。
治世元年壬子の冬十二月、妃の忍坂大中姫命が、群臣の憂いなげくのをいたまれて、みずから洗手水をとり捧げて、皇子の前にお進みになった。そして申しあげて仰せられた。
「大王は辞退なさって即位をされません。空位のままで年月を経ています。群臣百寮は憂えて、なすべきを知りません。願わくば、人々の願いに従って、強いて帝位におつきくださいませ」
しかし、皇子は聞き入れられず、背を向けて物もいわれなかった。
大中姫命は畏まり、退こうとされないでお侍りになること四、五刻以上を経た。時は師走のころで、風も烈しく寒いころであった。大中姫の捧げた鋺の水が、溢れて腕に凍るほどで、寒さに耐えられずほとんど死なんばかりであった。
皇子は驚き顧みられて、これを助け起こし仰せになった。
「日嗣の位は重いことである。たやすく就くことはできないので、今まで同意しなかった。しかし、いま群臣たちの請うこともあきらかな道理である。どこまでも断りつづけることはできない」
大中姫命は仰ぎ喜び、群卿たちに告げて仰せられた。
「皇子は、群臣の請いをお聞き入れくださることになりました。いますぐ天皇の御璽を奉りましょう」
ここに及んで皇子は仰せになった。
「群臣は、天下のために自分を請うてくれた。自分もどこまでも辞退してばかりいられない」
そうして、ついに帝位におつきになった。
二年春二月十四日、忍坂大中姫を立てて皇后とされた。皇后は、木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)、名形大娘皇女(ながたのおおいらつめのひめみこ)、境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)、穴穂天皇(あなほのすめらみこと:安康天皇)、軽大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)、八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)、大泊瀬幼武天皇(おおはつせのわかたけのすめらみこと:雄略天皇)、但馬橘大姫皇女(たじまのたちばなのおおいらつめのひめみこ)、酒見皇女(さかみのひめみこ)をお生みになった。
五年冬十一月十一日、反正天皇を耳原陵に葬った。
二十三年春三月七日、木梨軽皇子を立てて太子とされた。物部麦入宿祢(もののべのむぎりのすくね)と物部大前宿祢(もののべのおおまえのすくね)を、ともに大連とした。
四十二年春一月十四日、天皇は崩御された。年は七十八歳。
冬十月十日、天皇を河内の長野原陵に葬った。
天皇のお生みになった御子は、五男四女。
木梨軽太子尊、次に名形大娘皇女、次に境黒彦皇子、次に穴穂皇子尊、次に軽大娘皇女、次に八釣白彦皇子、次に大泊瀬稚武皇子尊、次に但馬橘大娘皇女、次に酒見皇女。
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元年冬十二月 妃の忍坂大中姫命(おしさかおおなかつひめのみこと)は、群臣の憂う声に苦しみ自ら手を洗う水をつかさどり、皇子の前に進んで恭しく「大王は固辞して位に登られません。位はむなしく年月を経ています。群臣・百寮これを憂い、如何して良いのか判りません。願わくば、大王、群の望みに従い、強いて帝位に就いてください」と言った。しかし皇子は承諾されなかった。背を向け者も言わなかった。ここにおいて、大中姫命はかしこんで下がろうとしなかった。そこに四・五刻じっとしていた。時に師走の風は激しく寒かった。大中姫命が捧げる鏡水が溢れて腕を凍らせた。寒さに耐えられず死ぬかも知れない状況であった。皇子は振り返って驚き助け起こして「日嗣の位は重き事である。容易く耐えられるものではない。その為、今まで受けなかった。しかし、いまは群臣の請う事は道理で有る。なぜ断る必要があろうか」と言った。大中姫命は仰ぎ喜び群卿に「皇子は群臣の要請を聞き賜れた。今、天皇の璽を奉りましょう」と言った。ここにおいて、群臣は大いに喜び、その日の中に天皇の璽を奉り、再び拝んだ。皇子は「群卿共に天下のために私に請うた。私はどうして断れようか」と言われ、帝位に登られた。 |
安康天皇
諱は穴穂皇子尊(あなほのみこのみこと)と云う。雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさつまわかこすくねのすめらみこと)(允恭天皇)の第二子である。母は皇后である忍坂大中姫命(おしさかおおなかつひめのみこと)と云い、稚渟毛二岐皇子命(わかぬけふたまたのみこのみこと)の娘である。
允恭天皇四十二年春正月、天皇崩御。冬十月、葬祭が終わる時期に太子の暴虐を行う。婦女に対して淫らで有った。国人は之を誹り、群臣は従わなかった。穴穂皇子に悉く従った。ここに、太子は穴穂皇子を襲おうとした。そして、密かに兵を準備した。穴穂皇子もまた、兵を興して戦おうとした。穴穂の矢とか軽の矢とかの括りは、この時始めて起こった。時に太子は百姓がそむき、群臣が従わないことを知り、物部大前宿禰(もののべのおおまえのすくね)の家に隠れた。穴穂皇子は之を聞いてすぐに取り囲んだ。物部大前宿禰は門を出て穴穂皇子を出迎えた。歌って言うには云々、別に在り。皇子に申して言うには「太子を害さないで欲しい。臣に任せて欲しい」と。これにより、太子は大前宿禰の家で自殺した。一書に言うには、伊予国に流されたと。
元年十二月十四日、穴穂皇子は天皇に即位した。皇后を尊んで皇太后と呼んだ。皇太后に太皇太后を贈る。物部木蓮子連公(もののべのきたひのむらじのきみ)を大連とした。都を石上に移し、穴穂宮(あなほのみや)と言った。二年正月十七日、中帯姫命(なかしひめのみこと)を立てて皇后とする。大変寵愛された。初め、中帯姫命は大草香皇子(おおくさかのみこ)との間に眉輪王(まよわのおおきみ)を産む。母のお陰で罪を免れる事が出来、常に宮中に居る事が出来た。つぶさに、別の記録も見た。三年秋八月九日、天皇は眉輪王によって殺された。天皇五十六歳、眉輪王七歳であった。三年の後に、菅原伏見陵に葬る。天皇の世継ぎは無し。 二年春二月十四日 忍坂大中姫を立てて皇后とした。皇后は、木梨軽皇子(きなしかるのみこ)、名形大郎皇女(なかたのおおいらつめのひめみこ)、境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)、穴穂天皇(あなほのすめらみこと)、軽大郎皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)、八釣白彦皇子(やつりのしらひこのみこ)、大泊瀬稚武天皇(おおはつせわかたけるのすめらみこと)、但馬橘大郎皇女(たじまのたちばなのおおいらつめひめみこ)、酒見皇女(さかみのひめみこ)を生んだ。
五年冬十一月十一日 瑞歯別天皇を耳原陵(みみはらのみささぎ)に葬る。二十三年春三月七日 木梨軽皇子を立てて皇太子とした。物部麦入宿禰(もののべのむぎいりのすくね)・物部大前宿禰(もののべのおおまえのすくね)の両名を大連とした。四十二年春正月十四日 天皇は崩御された。年七十八歳。冬十月十日 天皇を河内の長野原陵(ながのはらのみささぎ)に葬る。
天皇が生まれた皇子は五男四女で有る。木梨軽太子尊(きなしかるのひつぎのみこのみこと)。次に名形大郎皇女(なかたのおおいらつめのひめみこ)。次に境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)。次に穴穂皇子尊(あなほのみこのみこと)。次に軽大郎皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)。次に八釣白彦皇子(やつりのしらひこのみこ)。次に大泊瀬稚武皇子尊(おおはつせわかたけるのみこのみこと)
次に但馬橘大郎皇女(たじまのたちばなのおおいらつめのひめみこ)。次に酒見皇女(さかみのひめみこ)。 |
雄略天皇
諱は大泊瀬稚武尊(おおはつせわかたけるのみこと)と云う。雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)の第五男である。天皇がお生まれになったとき、不思議な光で殿が満たされた。成長して、逞しい事は人より抜きん出ていた。
安康天皇三年八月、安康天皇は沐浴されようとして、山の宮に御幸し、高殿に登ってお遊びになった。よって、酒を命じて宴を行った。気持ちが解れて、しばしの間言談した。そして、皇后に言った「私の妻である貴方とは仲むつまじいが、眉輪を私は恐れる」と。眉輪王は幼年で在ったので、高殿の下で遊んでいた。そして、この話を聞いた。安康天皇が皇后の膝を枕に酔って寝ているところへ、眉輪王が熟睡している事を伺って刺殺した。
この日、大舎人が騒いで天皇に言うには「穴穂天皇は眉輪王に殺された。」と。天皇は大いに驚き、兄弟たちを疑い、甲を付け刀を佩き、兵を率い自ら八釣白彦皇子(やつりのしらひこのみこ)を問い詰めた。皇子は害そうとするところを知り、物も言えずにただ座っていた。天皇は刀を抜いて切られた。さらに、坂合黒彦皇子(さかせのくろひこのみこ)を問い詰めた。皇子も害そうとするところを知り、物も言えずにただ座っていた。天皇は怒り猛り、眉輪王を殺そうと思い理由を問われた。眉輪王が言うには「臣は天皇位が欲しいわけでは無い。父の敵を報いただけだ」と。坂合黒彦皇子は疑われることを深く恐れて、眉輪王に窮して語らい、遂に逃げ出す事が出来、円大臣(つぶらのおおおみ)宅に逃げ込む。天皇は使いを遣わして引き渡す様に言う。大臣が答えて言うには「われ、王室に臣下が事有り逃げいる事を聞く。臣の家に君王が隠れ給うことを見た事が無い。ただ今、坂合黒彦皇子と眉輪王とは臣の心を頼みとして臣の家におこしになった。いかに忍んで送ろうや。」と。是により、天皇は再び兵を興して大臣宅を囲んだ。大臣立ちて庭に出て脚帯をまく。時に大臣の妻、脚帯を持ち着たりて悲しみ傷みて歌いて言うには云々(別に在り)大臣装いおえ、軍門に進ん出、膝ま付き拝みて言うには「臣は罪を被り殺されようと雖も、あえて命令を聴こうと思わない。古の人が言った事がある『卑しき人の志を奪うことは難しい。』まさに臣の事を言っています。伏して願わくば、葛城の家の七箇所と臣の娘を大王に奉り、罪を購おうと請い願います。」と。天皇は許さなかった。火を放って家を焼いた。ここに、大臣と眉輪王と黒彦皇子を共に焼き殺す。時に坂合部連贄宿禰(さかいべのむらじにえのすくね)は皇子の亡骸を抱いて焼き殺された。その舎人、焼かれたところを収めたが、骨を選ぶのも難しかった。そのため、一つの棺に納めて、新漢槻本南丘(いまきのあやのつきもとのおかのみなみ)に合葬する。 |
冬十月、天皇は穴穂天皇が以前に市辺押磐皇子(いちへのおしいわのみこ)に後事を託し国を伝えようとされた事を恨み、市辺押磐皇子に人を使わして、偽って郊外の野で狩をしようと誘っで言うには「近江の狭狭城山君韓袋(ささきのやまきみからぶくろ)が『今、近江の来田綿蚊屋野(くたわたのかやの)に猪鹿(しし)が多くいる。そのささげた角は枯れ木の様で、そのそろえた脚の様子は潅木の様で、はく息は朝霧の様である。』と言っている。皇子よ共に猛冬作陰之月(かみなづきややすぎしとき)、寒風が弱い時に郊外の野で狩をして遊ぼう。」と。市辺押磐皇子はその薦めにより馳せ参じた。ここにおいて、大泊瀬天皇は弓を引き馬を馳せ「猪がいる」と偽りを言い、市辺押磐皇子を射殺した。皇子の伴である佐伯部売輪(さえきべのうるわ)は皇子の遺骸を抱き驚きあわて、なすすべを知らず、頭と脚の間を叫びながら行き交うだけだった。天皇はこれも誅された。
十一月十三日、天皇は司に令して、壇を泊瀬朝倉に設けて天皇に即位した。この宮を朝倉宮と言う。元年春三月三日、草香幡梭姫皇女(くさかのはたひのひめみこ)を立て皇后とした。妃は葛城円大臣(かつらぎのつぶらのおおおみ)の娘で韓媛と言い、稚足姫皇女(わかたらしひめのひめみこ)と白髪武広国押稚日本根子皇子(白方家ひろくにおしわかやまとねこのみこ)とを産む。妃は吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)の娘で稚姫と言い、二男を産む。兄を磐城皇子(いわきのみこ)と言い、弟を星川稚宮皇子(ほしわかのわかみやのみこ)と言う。 妃は春日和珥臣深目(かすがのわにのおみふかめ)の娘で童女君(おみなぎみ)と言い、春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのみこ)を産む。平群真鳥臣(へぐりのまとりのおみ)を大臣とし、大伴連守屋(おおとものむらじもりや)と物部連目(もののべのむらじめ)を大連とした。二十二年正月、白髪皇子を立てて皇太子とした。物部布都久留連公(もののべのふつくるのむらじのきみ)を大連とした。二十三年八月七日、天皇の病気が大変重くなった。百官と決別され、手を取り嘆きながら大殿で崩御された。年、百二十四歳で有った。御陵は河内之多治比高鷲(かわちのたじひのたかわし)に在る。
天皇の皇子達は、白髪武広国押稚日本皇子尊(しらかたけひろくにおしわかやまとねこのみこのみこと)。次に稚足姫皇女(わかたらしひめのひめみこ)。次に磐城皇子(いわきのみこ)。次に星川皇子(ほしかわのみこ)。次に春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのみこ)。 |
清寧天皇
諱は白髪武広国押稚日本皇子尊(しらかたけひろくにおしわかやまとねこのみこのみこと)で有る。大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)の第三皇子である。母は葛城韓媛(かつらぎのからひめ)といい、葛城圓大臣(かつらぎのつぶらのおおおみ)の娘で有る。天皇は生まれながら白髪で有った。成長して民を愛された。大泊瀬天皇は諸々のこの中で、特に霊異を感ぜられた。雄略天皇二十二年に白髪武広国押稚日本皇子尊を立てて皇太子とされた。
雄略天皇二十三年八月 大泊瀬天皇は崩御された。妃の吉備稚媛は密かに自分の子の星川皇子に語り「天皇の位に登ろうと思うなら、先ず大蔵の官(つかさ)を取りなさい」と言った。長子の磐城皇子は母が自分の子に教えるのを聞いて、「皇太子は我が弟と言えど、簡単に欺けましょうか。してはなりません」と言った。星川見子は聞かなかった。敢えて母の意のままに遂に大蔵の官を取り、外門を閉鎖し難に注意して備えた。権勢を欲しいままにし、宮の物を消費した。ここにおいて大伴室屋大連は東漢掬直(やまとのあやのつつかのあたい)に「大泊瀬天皇の遺詔が今至ろうとしている。遺詔に従って皇太子に従うのが良い」と言って、兵を発し大蔵を固め外より封鎖して、火を放って焼き殺した。この時、吉備稚媛と磐城皇子の異父兄の兄君(えきみ)と城丘前来目(きのおかさきのくめ)も星川皇子に従って焼き殺された。
この月 吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)等は朝廷に乱が起こったのを聞いて、その媛と子の星川皇子を助けようとして、軍船四十隻を率いて海に来たが、既に焼き殺されたと聞いて引き上げた。天皇は使いを遣わして、上道臣等を責められ、その賜った山部を奪われた。
冬十月四日 大伴室屋大連は臣連を率いて璽を皇太子に奉った。元年春正月十五日 各官僚に命じて壇を磐余の甕栗(みかぐり)に設けて、天皇位に登られた。宮を定められた。甕栗宮(みかぐりのみや)と言う。葛城韓媛を尊んで皇太夫人と呼んだ。葛城圓大臣の娘である。大伴室屋大連・平群眞鳥大連は元のままとした。臣・連・伴造等も各職位に付かせた。冬十月九日 大泊瀬天皇を丹比(たじひ)の高鷲原陵(たかわしはらのみささぎ)に葬った。
二年冬十一月 大嘗に備える供物を得る為に播磨の国に遣わせる使いの山部連の先祖の伊與来目部小楯(いよのくるめべのこたて)が赤石郡(あかしのこおり)の縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)である忍海部造(おしうみべのみやつこ)の細目新室(ほそめのにいむろ)が市邊押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)の子の億計(おけ)・雄計(おけ)を見つけ、君として崇めて奉り養い甚だ謹んだ。そして、自分の使用人を使って柴宮(シバノミヤ)を建て、仮に住んでいただき、早馬に乗り都に知らせた。天皇は大いに驚かれ、暫くの間悼まれ、「たいそう良い事であり、喜ばしい事で有る。天が博愛を両皇子に垂れられた」と言われた。語りは雄計天皇紀にある。
三年春正月 小楯は億計・雄計を尊んで奉り摂津の国に到着した。臣連を使わして節をもち王の青蓋車(みくるま)で宮中に迎え入れられた。夏四月七日 億計王を皇太子とし、雄計王を皇子とされた。秋七月 飯豊皇女(いいとよのひめみこ)と角刺宮(つのさしのみや)で初めて交接された。人に「一度で女の道を知った。また、何処が違うのだろうと思った。もう男と交わりたいと思わない」と言われた。五年正月十六日 天皇は宮で崩御された。冬十月九日 河内の坂門原陵(さかとのはらのみささぎ)に葬る
天皇に子供は無し。 |
顕宗天皇
諱は雄計皇子尊(おけのみこのみこと)で有る。大兄去来穂別天皇(おおえいざほわけのすめらみこと)の孫で有る市邊押磐皇子(いちのべのおしいわのみこ)の子で有る。亦の名は来目稚子(くめのわくご)と云う。雄計王の母は、●(はえ)媛と言い、蟻臣(ありのおみ)の娘である。その蟻臣は葦田宿禰(あしだのすくね)の子で有る。譜第(かばねのついでのふみ)に市邊押磐皇子は●(はえ)媛を娶り三男二女を生む。一人目が居夏媛王(おなつひめのおおきみ)と云う。二人目が億計王(おけのおおきみ)と云う。亦の名は島稚子(しまのわくご)と云う。亦の名は大石尊(おおいしのみこと)と云う。三人目が雄計王と云う。亦の名は来目稚子と云う。四人目が飯豊女王(いいどよのひめみこ)と云う。亦の名は忍海郎女王(おしうみのいらつめのひめみこ)一に云う、億計王の姉と。五人目が橘王(たちばなのおおきみ)と云う。天皇は久しく辺境の地に居られたので百姓の憂える苦しみを知られていた。恒に虐げ苦しめられるのを見て、体を溝に入れられる様に思われ、徳をしき恵みを施して政治を行われた。貧しいものに恵み、寡婦を養いわれたので天下は親しみ従った。
穴穂天皇三年十月 天皇の父の市邊押磐皇子と舎人の佐伯部仲子(さかきべのなかこ)は蚊屋野で大泊瀬天皇(おおはつせのすめらみこと)に殺されて、同じ穴に埋められた。天皇は億計王と父が射られたのを聞いて、恐れて逃亡し自ら隠れた。舎人の日下部連使主(くさかべのむらじおみ)とその子の吾田彦(あたひこ)は密かに天皇と億計王に奉り難を丹波の国の与謝郡(よさのこおり)に避けて、使主は名を変え田狭来(たさく)と言った。なお、誅される事を恐れ播磨の縮見山(しじみのやま)の石室(いへや)に隠れ入った。そうして自ら首を括って死んだ。天皇はなお、使主が死んだ事を知られず兄億計王を即して播磨の国の赤石郡(あかいしのこおり)に向かわれた。共に名を変えて丹波の童と言った。そして、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に仕えた。吾田彦はここに到着するまだ離れず固く仕えた。
白髪天皇二年冬十一月 播磨の国の司(みこともち)の山部連(やまのべのむらじ)の先祖の伊與来目部小盾(いよのくめべのおたて)は赤石郡で自ら新嘗の供え物を供えた。時に縮見屯倉首が新築祝いで夜宴に会した。ここで天皇が兄の億計王に「乱を避けて、年が経ってしまった。名を顕して尊い事を表すのは今夜がちょうど良い」と言った。億計王は嘆息して「自ら道を開いて殺されるか、それとも身を全うして死を免れる事が出来るか」と言った。天皇は「私は去来穂別天皇の孫である。そうであるのに、人に身分を隠して遣え、馬や牛を飼う。それなら、名を顕して殺される方が良い」と言った。億計王と抱き合い泣いて自分を抑える事が出来なかった。億計王は「弟以外に誰が良く計画を表せるだろうか」と言った。天皇は固辞して「私は不才、如何して徳業を顕せるでしょうか」と言った。億計王は「弟は英才で才徳がある。これ以上の人物はいない」と言った。この様に譲り合われル事、再三であった。遂に、天皇は自ら許されて、共に室外にでて、下座に座った。屯倉首は竈の傍らの左右へ座らせ、火をともすよう命じた。時、夜深く酒宴はたけなわとなり、次々に舞を踊った。屯倉首は小盾に「私がこの火を燈している者を見ると、他人を尊んで己を卑しくし、他人を先にして己を後にする。つつしみ、敬い程を図って退いて譲り明かりを燈している。君子と云うべきで無いだろうか」と言った。小盾は琴を弾かせ明かりを持っている者に「立って舞え」と言った。兄弟は相譲る事久しく、なかなか舞わなかった。小盾はこの状態をせめて「何をしている。遅い。早く立って舞え」と言った。億計王は立って舞った。天皇は次に立って衣帯を自ら整え家を誉めて歌われた。「築き立った稚室葛根(わかむろつなね)は築き立った柱。この家の長の御心を鎮める。採って置いた蘆つりはこの家の長の御心を平らぐ。採り結ぶ綱葛はこの家の御寿の堅め。採り葺いた萱はこの家の御富の余り。出雲は新墾、新墾の十握の稲の穂。浅甕に醸す酒。美飲喫するかや。我が子等が脚日木のこの片山に牡鹿の角を捧げて、私が舞えばうまい酒を飼香市に値を出して買わぬ。手掌」。家誉めの歌が終わって、琴の音に合せて歌われ、云々。別に有り。 |
小盾は是に「面白い。もう一度聞かせて欲しい」と言った。天皇は遂に殊舞(たつつまい)をされて、声を上げて「倭は彼彼茅原(そそちはら)、浅茅原(あさちはら)、弟日僕是(おとひやっこらは)」と言った。小盾は是により深く怪しんで更に歌を求めた。天皇は声を上げて「石上振之神榲(いそのかみのふるのかみすぎ)本切り末推し、市邊宮に天下を治めたまい。天萬国萬押磐尊(あめよろずくによろずおしいわのみこと)の御裔僕是(みあなすえやっこらは)」といった。小盾は大いに驚いて、席を離れ謹んで再拝した。そして、一族を率いてお仕えし、郡の民を集めて宮を造り、仮に住んでいただいた。都に赴き二王の迎えを願い出た。白髪天皇はこれを聞いて喜び「朕には子供が居ない。日嗣とするべきで有る」と言って、大臣・大連と策を禁中で定め、播磨の国の司の伊與来目部小盾を使わし、節を持って左右の舎人を率いて赤石に到着し迎え奉った。
白髪天皇三年春正月 天皇は億計王と共に摂津の国に到着された。臣連は節をもって王の青蓋車(みくるま)で宮中に迎え入れられた。夏四月 億計王を立てて皇太子とし、天皇を皇子とした。白髪天皇五年正月 白髪天皇は崩御された。この時、皇太子億計王と天皇は位を譲り合われた為、久しく空位であった。天皇の姉の飯豊青皇女が忍海角刺宮(おしうみのつのさしのみや)で臨時に政治を行われた。忍海飯豊青尊(おしうみのいいとよのあおのみこと)と自ら名乗られた。冬十一月 飯豊青尊は崩御された。葛城の埴口丘陵(はにくちのおかのみささぎ)に葬られた。十二月 百官が集まり、皇太子億計は天子の璽を天子の座に置いて再拝し諸臣の位に付いて「この天子の位は功績の有る人が座るべきで有る。貴きを表し迎えられたのは弟の功績で有る」と言って、天下を天皇に譲られた。天皇は再び譲られ、弟で有るのから敢えて天皇位に付かれなかった。白髪天皇は先ず兄に位を伝えたいと思われたと言う事を皇太子に言われた。前後固く拒んで「日と月が出て、灯火を付けていると、悩ましく思うでしょう。雨が降ってなお水を注ぐと悪戯に疲れることになるでしょう。所謂、人の弟は兄に仕えます。難を逃れる為に謀り、徳を照らし紛争を解き、自分が表に出ないことが貴いのです。もし、表に出ると弟が敬う事になりません。雄計は表に出る事を望みません。兄が弟を愛し、弟が兄を敬うのは不易の法則と古老から聞いています。どうして自ら独り軽く出来ましょうか」と言った。皇太子億計は「白髪天皇は私が兄で有るから天下の事を先ず私に授けられた。私は、その事をかたじけなく思う。思えば大王は巧みに逃げる道を建てられた。その事を聞くものは皆嘆息した。帝の孫で有る事を表したときは見る者は恐れて涙した。心配していた者たちは天を共に抱く喜びを得た。悲しんで居た人民は地を踏む恵みに逢える事を喜んだ。これによって四方を固め永く万葉に栄えさせるだろう。また、その功績は万物を造り栄えさせることです。清い謀は世を照らしている。その偉大さは名だたる物が無い。兄だからと言って先に登る事が出来ようか。功績が無いのに位に付くと咎や悔いが必ず有るだろう。天皇の位は久しく空位ではいけない。天命は譲ったり逆らったり出来ない。大王は社稷を経営し、百姓を心として下さい」と言った。言葉を述べるうちに激しく涙を流した。天皇は天皇位に就かない事は兄の心に逆らうことだと知った。遂に聞き届けられたが、御坐には登られなかった。世の人は良く真をもって譲られた事を嘉して「良い事だ。兄弟むつまじく、天下が徳に帰し、親族が篤く、民が仁を起こすだろう」と言い合った。
元年春正月 大臣・大連等は奏して「皇太子億計王は聖の徳が盛んで、天下を譲られ陛下が正しく継がれました。天業を受け天下の主となり祖の無窮の勢いを受け継ぎ、上は天の心に従い下は民の願いを満足させ敢えて践祚されませんでした。金銀を産する隣の国の群僚も遠きも近きも望みを失わず、天命は皇太子に付かれ、推し譲られる聖の徳を盛んにされ幸いは明らかです。推さないときから恭順で愛しみ従われてきました。兄の命令を奉り大業を受け継いでください」と言った。天皇は「許す」と言われた。即ち公卿・百寮を近飛鳥八釣宮(ちかきあすかやつりのみや)に召して、天皇位に登られた。百官みな喜んだ。甕栗宮(みかぐりのみや)に都す。皇后に難波小野王(なんばのおののおおきみ)を立ててた。雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさつまわくごのすくねのすめらみこと)の曾孫の磐城王(いわきのおおきみ)の孫の丘稚子王(おかのわくごのおおきみ)の娘である。物部小前宿禰(もののべのおまえのすくね)を大連とした。三年四月二十四日 天皇は八釣宮で崩御された。天皇に子は無かった。 |
仁賢天皇
億計天皇(おけのすめらみこと)。諱は大脚(おおあし)。亦の名は大爲(おおす)。字は島郎(しまのいらつこ)。雄計天皇(おけのすめらみこと)の同母兄で有る。天皇は推さないときから聡く才が有り博識であった。壮年になって恵みぶかく、穏やかでへりくだられていた。穴穂天皇(あなほのすめらみこと)の崩御された事により難を丹波の国の余社郡(よさのこおり)に避けた。
白髪天皇二年冬十一月 播磨の国の司の伊與来目部小盾が都に詣で迎えを求めた。白髪天皇は小楯を遣わして節を持ち左右の舎人を従えて赤石に到着し迎え奉った。
白髪天皇三年四月 億計天皇を皇太子に立てた。詳しい事は雄計天皇の紀に有る。
白髪天皇五年 白髪天皇は崩御された。天下を雄計天皇に譲られ皇太子となった。このことも雄計天皇の紀にある。
雄計天皇三年夏四月 雄計天皇は崩御された。
元年正月五日 皇太子尊は天皇位に登られた。石上広高宮(いそかみひろたかのみや)に都す。
二月二日 前の妃の春日大郎女皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)を立てて皇后とされた。大泊瀬天皇が和珥臣深目(わにのおみのふかめ)の娘の童女君を娶って生まれた子で有る。皇后が生まれた子は一男六女で一人目が高橋大娘皇女(たかはしのおおいらつめのひめみこ)と言う。二人目が朝嬬皇女(あさつまのひめみこ)と言う。三人目が手白香皇女(たしらかのひめみこ)と言う。継体天皇の皇后で有る。四人目が奇日皇女(くしひのひめみこ)と言う。五人目が橘皇女(たちばなのひめみこ)と言う。六人目が小泊瀬若鷦鷯尊(おはつせわかささぎのみこと)と言う。天下を治められるに及んで泊瀬の列城(なみき)に都を造った。七人目は眞稚皇女(まわかのひめみこ)と言う。
和珥臣爪(わにのおみつめ)の娘の糠君娘(ぬかきみのいらつめ)は春日山田皇女(かすがやまだのひめみこ)を生んだ。
冬十月三日 雄計天皇を傍丘磐杯丘陵(かたおかのいわさかじきのみささぎ)に葬る。
七年正月三日 小泊瀬若鷦鷯尊を立てて皇太子とする。
十一年秋八月八日 天皇は正寝で崩御された。
冬十月五日 埴口(はにぐち)の坂本陵(さかもとのみささぎ)に葬る。
天皇は一男七女を生まれた。皇子は小泊瀬若鷦鷯尊。
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武烈天皇
諱は小泊瀬若鷦鷯尊(おはつせわかささぎのみこと)で有る。億計天皇(おけのすめらみこと)の太子である。母は春日大郎(かすがのおおいらつめ)という。
億計天皇七年 皇太子となる。天皇は成長して刑理を好まれた。法令にも詳しかった。日が暮れるまで政務をされた。隠されている事を必ず明らかにされ、訴えを処理することが六位であった。また、諸々の悪事を行われ、一つの良い事も修められなかった。およそさまざまな酷刑を親しく見ないことは無かった。国内の人々は恐れ震えた。
億計天皇十一年八月 億計天皇は崩御された。
冬十一月十一日 皇太子尊は諸々の司に命じて壇を泊瀬の列城宮(なみきのみや)に設けて天皇位に登られた。定めて都とした。烈城宮と言う。
元年三月二日 春日郎女を立てて皇后とした。物部麻佐良連公(もののべのまさらのむらじのきみ)を大連とした。
八年冬十二月八日 天皇は烈城宮で崩御された。天皇に子は無かった。 |
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