ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)40

 (最新見直し2009.3.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ホツマツタエは、古代大和ことばのホツマ文字といわれる図象文字で綴られた全文で40アヤ(章)、五七調で一万余行に及ぶ叙事詩で、大和王朝前の御代の神々の歴史、文化、精神を詠っている。作者は、前半の天の巻、地の巻の1章~28章を櫛甕玉命(クシミカタマの命、鴨彦、神武時代の右大臣)、後半の人の巻29章~40章を三輪の臣である大直根子命(オオタタネコ、三輪秀聡、景行天皇時代)が編纂、筆録したと記されている。古事記、日本書紀と原文で詳細に比較するとホツマツタエを原本としている事が判明しており、いわば記紀原書の地位にある。

 2009.3.19日 れんだいこ拝


【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)40、アツタ神世を辞む文】
 ヤマトタケ 白鳥の挽歌




あつたかみいなむあや      アツタ神 世を辞む文
まきむきの ひしろこよみ     纏向の 日代の暦
よそひはる やまとたけきみ     四十一年春 ヤマトタケ
きそより いたるおはりの     木曽方より 至る尾張
たけとめか まこむらしの     タケトメが 孫のの (乎止与)
いゑいる つまみやすひめ     家に入る 妻 ミヤズ姫 (宮簀媛)
みやこより おくりちちか     都より 送りて父が
ゐゑまつ いまきみここに     家に待つ 今 君 ここに
つきこす きみのたまはく    月を越す 君 宣給わく
さかおりの みやむかしの     サカオリの 宮は昔の
はらのみや なおなからえ     ハラの宮 なお永らえり
わかねかひ うつしひめと     我が願ひ 写して姫と
たのしまん むらしもうさく     楽しまん」 連申さく
とみゆきて ゑかきうつさん     「臣行きて 絵描き写さん」
きみゑゑす むらしくたりて     君 愛笑す 連下りて
さかおりの みやおくわしく     サカオリの 宮を詳しく
にうつし かゑことすれは    
絵に写し 返言すれば
やまとたけ あらふるかみの     ヤマトタケ 荒ぶる神の (イフキ神)
あるきき つるきときおき     現るを聞き 剣解き置き (ムラクモ)
かろんして いたるかみちに     軽んじて 至る神方に (伊吹山)
にきてなく ゆきすくみちに    
和幣 無く      行き過ぐ道に
いふきかみ をおろちなして     イフキ神      大オロチ 成して
よこたわる かみとはしら     横たわる      神とは知らず
やまとたけ おろちいわく     ヤマトタケ     オロチに曰く
これなんち あれかたかみの     「これ 汝      あれかた神の
つかひなり あにもとむるに     仕ひなり      あに求むるに
たらんやと ふみこえゆけは    足らんや」と    踏み越え 行けば
いふきかみ つららふらて     イフキ神      ツララ 降らして
うはふ しいしのきて     明を奪ふ      強いて凌ぎて
おしあゆみ わつかいてゆく     押し歩み      僅か出で行く
こころゑひ もゆることくに     心 酔ひ       燃ゆる如くに
あつけれは いつみさます     熱ければ      泉に冷ます
さめかゐや みあしいたむお     冷が井や      御足 傷むを
ややさとり おはりかえり     やや悟り      尾張に帰り
みやつめの ゐゑいらて     ミヤツ姫の     家に入らずて
いせのみち おつひとまつ     伊勢の道      尾津の一松
これむかし ほつまくたりの     これ 昔       ホツマ下りの
みあえとき ときおくつるき     御饗時       解き置く剣
まつに おきわすれか     松の根に      置き忘れしが
なからえ かれあけうた     永らえり      故に上げ歌 (捧歌・讃歌)
おわすれと たたむかえる    『置忘れど      直に迎える  (そのままに)
ひとまつ あはれひとまつ     一つ松       あはれ ヒトマツ
ひとは きぬきせましお     人にせば      衣 着せましを      
たちはけましお          
太刀 佩けましを』
いささかに なくさみゆけと     甚さか(伊坂)に      慰み行けど
あしいたみ みゑまかれは     足 傷み       弥に曲がれば
みゑむらそ つゑつきさかも     弥村ぞ       費え尽き坂も   (三重村)  (杖衝坂)
ややこえて のほのいたみ     やや越えて     能褒野に傷み
おもけれは とりこたりお     重ければ      虜 五人を (津軽・陸奥の国造5人)
うちやり かしまみことの     宇治に遣り     カシマ尊の    (伊勢)       (オオカシマ)
そえひとそ きひたけひこは     添人ぞ       キビタケヒコ
みやこえ のほせもふさく     都方へ       上せ 申さく
そのふみに はなひこもふす               その文に 『ハナヒコ 申す
とみむかし みことうけて     臣 昔        御言を受けて
ほつまうち あめめくみと     ホツマ 討ち     の恵みと
いつより あらふるかみも     稜威により     粗ぶる神も
まつろえは ふつくをさめて     服えば       悉く治めて
いまここに かえれいのち     今 ここに      帰れば 命
ゆふつく こひねかわくは     夕付く日      乞ひ願わくは
いつか みことかえさん     何時の日か     御言 返さん
ふして たれかたらん     野に臥して     誰と語らん
おしむらく まみゑことよ     惜しむらく     見えぬことよ
あめののりかな           天地の法かな』
ふみとめて きみいわくわれ     文 留めて      君 曰く「我
きつむけ ことなれお     東西を平け     事 成れば 身を
ほろほせる かれやすま     滅ぼせる      僕等 休ます
なきと なつかはきて     日も無き」と    ナツカハギして
はなふりお みなわけたまひ     ハナフリを     皆 分け 賜ひ
うたよめは あつたかみと     「歌 詠めば     アツタの神
はやなると あみかえ     早なる」と     湯 浴み 衣を替え
むかひ ひとみいなむの     南に向ひ      人身 辞むの
うたこれそと あつたのり          歌はこれぞと 【熱治宣】 
いなむとき きつしかちと    『辞む時       東西の使人と
たらちねに つかえみてと     父母に       仕え満てねど
さこくしろ かみより     サコクシロ     神の八手より
みちうけて うまれたのしむ     道 受けて      生れ 楽しむ
かえさにも いさなひちとる     還さにも      誘ひ ちどる
かけはしお のほりかすみの     懸梯を       登り 霞の
たのしみお くもゐまつと     楽しみを      雲居に待つと
ひとこたえん           人に答えん』
ももうたひ なからとち    百 歌ひ       ながら眼を閉ぢ
かみなる なすことなくて    神となる      為すこと無くて
いとなみ うたおはりえ    営みす       歌は尾張へ
きひのほり ふみささくれは    キビ 上り      文 捧ぐれば
すへらきは やすから    皇は        気も安からず
あちあらす ひめもすなけき    味 あらず      終日 嘆き
のたまわく むかしくまそか    宣給わく      「昔 クマソ
そむきも またあけまきに    背きしも      まだ揚巻に
むけたり まてはへりて    平け得たり     左右に侍りて
たすけに ほつまうた    助けしに      ホツマを討たす
ひとなきお しのひあたに    人 無きを      忍びて仇に
いらしめは あけくれかえる    入らしめば     明け暮れ 帰る
まつに そもなんの    日を待つに     此はそも何の
わさはひそ ゆくりなくて    禍ぞ        縁も無くて
からめす たれみわさお    天から召す     誰と御業を
をさめんや もろのりて    治めんや」     諸に宣して
かみおくり            神送り
ときおもむろ              時に骸
なるいとり いつれはもろと    なる 斎鳥      出づれば 諸と
みささきの みひつみれは    御陵の       御棺を見れば
かんむりと さくみはもと    冠と        笏と御衣裳と
ととまりて むなしきからの    留まりて      空しき殻の
しらいとり おひたつぬれは    白斎鳥       追ひ尋ぬれば
やまとくに ことひきはらに    大和国       琴弾原
おはえた おきかわちの    尾羽 四枝      置きて 河内
ふるいちに またおつる    古市に       また四羽 落つる
そこここに なすみささきの    其所此所に     成す御陵の
しらとりも つひくもゐに    白鳥も       終に雲居に
とひあかる おははあたかも    飛び上る      尾羽は恰も
かみのよの よはきしこれ    上の世の      世掃しぞ これ
きつみな たせまかれる    東西も皆      治せば 罷れる
あめのりそ            陽陰法
このきみひしろ              この君 日代
すへらきの みこははは    皇の        二の御子 母は
いなひひめ しはすもちに    イナヒ姫      十二月の十五日
もちつきて もちはななして    餅 搗きて      餅花 成して
ふたこうむ をうすもちひと    双子 生む      ヲウス モチヒト
こうす はなひここれ    弟はコウス     ハナヒコもこれ
あめのなそ ひとなるのちに    斎の名ぞ      成る後に
くまそまた そむけはこうす    クマソまた     背けば コウス
とりゆき おとめすかたと    一人 行き      乙女姿と
なりいりて はたつるきて    成り入りて     肌の剣で
むねさす たけるしはしと    胸を刺す      タケル「しばし」と
ととめいふ なんちたれそ    止め言ふ      「汝は誰ぞ」
われこれ いさすへらきの    「我はこれ     いざ 皇の
こうす たけるかいわく    子のコウス」    タケルが曰く
やまとには われたけは    「ヤマトには    我に長けたは
みこはかり かれみなつけん    御子ばかり     故 御名 付けん
ききますや ゆるせささく    聞きますや」    許せば捧ぐ
やまとたけ みこかえて    "ヤマトタケ"    御子 名を代えて
うちをさむ あめほまれや    討ち治む      の誉れや
やまとたけ いますまこの    ヤマトタケ     イマスの孫の
たんや ふたちいりひめ    タンヤが女     フタヂイリ姫
うむみこは いなよりわけの    生む御子は     イナヨリワケ
たけひこと たりなかひこの    タケヒコと     タリナカヒコ
かしきねと ぬのおりひめと    カシキネと     ヌノオリ姫と
わかたけそ きひたけひこか    ワカタケぞ     キビタケヒコ
あなとたけ うちつまうむ    アナトタケ     内妻に生む
たけみこと ときわけとなり    タケミコと     トキワケとなり
おしやまか おとたちはなお    オシヤマが     オトタチバナ
すけつまに わかたけひこと    スケ妻に      ワカタケヒコ
いなりわけ あしかみかまみ    イナリワケ     アシカミカマミ
たけこかひ いきなかたわけ    タケコカヒ     イキナカタワケ
ゐそめひこ いかひこうむ    ヰソメヒコ     イカヒコ等 生む
おはり みやつひめまた    尾張が女      ミヤツ姫 また
のちつま たけたさえき    後の妻       タケダサエキ
たりうむ そよあり    二人 生む      十四男一女 あり
さきのつま みなかれいまは    先の妻       皆 枯れ 今は
みやつひめ ひとりあわんと    ミヤツ姫      一人 会わんと
はらみより こころほそくも    ハラミより     心細くも
かけはしお しのきのほれは    懸梯を       凌ぎ上れば
みやつひめ ねまきままに    ミヤツ姫      寝巻のままに
いてむかふ ひめもすそに    出で迎ふ      姫の裳裾
つきをけの しみたるて    月穢の       染みたるを見て
やまとたけ みしかうたて    ヤマトタケ     短歌して
ひさかたの あまのかくやま   『久方の       天の橘山
とかもより さわたりくる    遠離方より     岨 渡り来る日
ほそたはや かひなまかん    細嫋        腕を巻かん
とはすれと さねんとあれは    とはすれど     添ねんと吾は
おもえとも きけるの    思えども      汝が着ける襲の
つきたちにけり          月 立ちにけり』
ヒメカエシウタ        ひめかえしうた          姫 返し歌
たかひかる あまのひみこ   『高光る       天の日の御子
やすみせし わかおほきみの    安みせし      我が親君の
あらたまの としきふれは    新玉の       年が来ふれば
うへなうへなきみまちかたに    宜な宜な      君 待ち難に
きける おすひすそに    我が着ける     襲の裾に
つきたたなんよ          月 立たなんよ』
やまとたけ おはよりたまふ    ヤマトタケ     叔母より賜ふ
むらくもお ひめおき    ムラクモを     姫が家に置き
いふきやま            伊吹山
かえさいせち              帰さの伊勢道
いたはれは みやこおもひて    労われば      都 思ひて
かえりいせちに              帰り 伊勢道に
いたむとき やかたうたひ    傷むとき      館を歌ひ
はしきやし わきへかた   『愛しきやし    我家の方ゆ 
くもいたちくも          雲 出立ち来』      
のこしうた みこうからに    遺し歌       御子や親族に
おりあいの つすやかたて    居り合いの     十九は 館で
いてたつは たひやあえる    出で立つは     旅屋に会える
まろひとと まよひのこさ    客人と       迷ひ残さぬ
さとしうた ふかきこころの    諭し歌       深き心の
みちひきこれ          導きぞ これ
のほのにて かみなるときに    能褒野にて     神 なる時に
のこしうた みやつひめえと    遺し歌       ミヤズ姫へと
あいちたの おとめとこに   『アイチタの     乙女が床に
おき いせのつるきの    我が置きし     妹背の連きの
たちわかるやわ          断ち別るやわ
このわかは いもせのみちは    このワカは     妹背の道
つらなりて たちわかるれと    連なりて      断ち別るれど
つりは きれそと    連りの緒は     切れはせぬぞと
みちひきお たつるあめのり    導きを       立つる陽陰法
みやすひめ もたえたえいり    ミヤズ姫      悶え絶え入り
ややいけ ちちはらみの    やや生けり     父はハラミ
うつし みやこのほり    絵を写し      都に上り
わかみやの ねかひままお    若宮の       願ひのままを
もうしあけ あいちたたつ    申し上げ      アイチタに建つ
みやなりて わたましこえは     成りて      渡座し 請えば
みことのり たたねこいはふ    御言宣       「タタネコ 斎ふ
さをしかと むらしかふとの    直御使人      連 神殿
みこたちお みゆきそなえ    御子達を      神行の供え」
おこそかに ことひきはらの    厳かに       琴弾原
みささきに おちおはよつ    御陵に       落ちし尾羽 四つ
ふるいちの おはよつともに    古市の       尾羽 四つ 共に
もちきたり のほのかふり    持ち来たり     能褒野の冠
さくみはも みたまけいれ    笏 御衣裳      御霊笥に入れ
しらみこし ひしろよそよ    白神輿       日代 四十四年
やよひそひ たそかれよりそ    三月十一日     黄昏よりぞ
みこしゆき のほのおひかし    神輿 行き      能褒野を東
もろつかさ かたむたひまつ    諸司        掲む 灯燃
さきかりは さかきふそ    先駆は       に二十人
そえかふと さるたひこかみ    副神人       サルタヒコ神
みかほあて かふとたりは    御顔当       神人 八人は
やもとはた おおかふとのは    八元幡       大神殿
かむりみは みはしらもちて    冠 御衣       御柱 持ちて
とみたり おしやますくね    臣 八人       オシヤマ宿禰
かふりみは よはきしもちて    冠 御衣       世掃し 持ちて
とみたり きひたけひこも    臣 六人       キビタケヒコ
おなしまえ おおたんやわけ    同じ前       オオタンヤワケ
かふりみは つるきささけて    冠 御衣       剣 捧げて
とみたり みこしあおほひ    臣 十人       神輿・天覆ひ
をさのとみ いえはとみそ    長の臣       家侍人 三十人
みをすえは きぬふたなかれ    神緒末は      絹 二流れ
よたけやた みこみをすえに    四丈八尺      御子 神緒末に
すかりゆく あまてるかみの    縋り行く      アマテル神
のこるのり いわひさをしか    遺る法       斎直御使
とみそふ つきみゆきもり    臣 十二人      付き 神行守
もろつかひ みなおくりゆく    諸 継がひ      皆 送り行く
よなかまて かくいたり    夜中まで      かく六夜 至り
はらみやの おほまとのに    ハラ宮の      オホマの殿
みこします            神輿 坐す
ますことく              世に在す如く
みやすひめ きりひかゐお    ミヤズ姫      鑽り火の粥を
もるひらへ いたたきさきに    盛る平瓮      頂き 先に
いりまちて みまえそなえ    入り待ちて     神前に供え
もうさくは このみけむかし    申さくは      「この御食 昔
いふきより かえさささく    伊吹より      帰さに捧ぐ
ひるめしお みつからかしき    昼飯を       自ら炊ぎ
まちおれと よらゆきます    待ち居れど     寄らで行きます
ちちくやみ いままたます    千々悔み      今 また来ます
きみかみ むへうけたまえ    君の神       むべ受け給え
ありつよの あひちたまつ    現つ世の      アヒチタに待つ
きみかひるめし          君が昼飯」
たひのり いさよふつきの    三度 宣り      十六夜月
ほからに しらいとりて    朗ら光に      白斎鳥 来て
これはみ なるしらくもに    これを食み     現る白雲に
かみこえ こたふつつうた    神の声       応ふ十九歌
ありつよの はらみつほし   『現つ世の      腹 満つ 欲しき
ちりひるめし          塵を放る飯』  
くしひるお まことおそれ    奇日霊を      真に畏れ
おかみさる おほまとのより    拝み 去る      オホマ殿より
みやうつし さをしかにきて    宮遷し       直御使 和幣
みことあけ このときをしか    御言 上げ      この時 御使
たたねこと おはりむらしと    タタネコと     尾張連
にいはらの おほまかみと    新ハラの      オホマの神
なつくなり かみおくるとき    名付くなり     神 送る時
いなむ ちりひるめしと    世を辞む      塵放る飯
のこるなり            遺るなり
いせそえいる              伊勢に添え入る
ゑそたり いやまいあら    ヱゾ 五人 (津軽・陸奥の国造5人)     敬いあらず
やまとひめ とかめみかとえ    ヤマト姫      咎め 御門へ
すすめやる みもろおけは    進め遣る      御諸(大神神社)に置けば
ほとなく きりたみお    程も無く      木を伐り民を
さまたける きみのたまわく 妨げる       君 宣給わく
ゑみしは ひとこころなく    「ヱミシ等は    人心 無く
おきかたし ままわけおく    置き難し      ままに分け置く」
はりまあき あはいよさぬき    播磨安芸      阿波・伊予・讃岐
さえきへそ            佐伯部
ヨソムホノハル        よそむはる              四十六年の春 (天鈴833年)
ななくさの みあえうたの    七種の       御饗に歌の  
ひかすへる わかたりひこと    日数 経る      ワカタリヒコ
たけうちと うちまいら    タケウチと     に参らず
かれめして とえもふさく    故 召して      問えば申さく
えらくは あそひたわむれ    「愉らく日は    遊び戯れ
ことわする くるえとあらは    異 忘る       狂え人あらば
うかかはん かれみかきお    窺はん       故に御垣を
まもりおる きみきこしめし    守り居る」     君 聞こし召し
いやちこと あつくめくみて    「いやちこ」と   篤く恵みて
はつき わかたりひこお    八月四日      ワカタリヒコを
よつきみこ たけうちすくね    世嗣御子      タケウチ 宿禰
むねのとみ みことたけうち    棟の臣       御子とタケウチ
おなひとし            同ひ年
ゐそふさつき              五十二年五月
すえに きさきいらつめ    二十八日に     后 イラツ姫
かみなる みおくりのりは    神となる      神送り法は
あつたのり おほたんやわけ    アツタ法      オホタンヤワケ
みけかしき ちりひるめしと    御食 炊ぎ      塵放る飯
もるひらて ぬのおしひめに    盛る平皿      ヌノオシ姫
いたたか そふたんやわけ    頂かせ       添ふ タンヤワケ
さきかりに つきひめみこ    先駆に       次は姫御子
 すけうちめ おしもあおめ    スケ 内侍      乙侍 青侍
 みそそふ つきもともとの    三十人 添ふ     次 元々
やいろはた かみのとよそや    八色幡       神祝詞 四十八
わけそめて きひいゑとみ    分け染めて(分担して書留める)     吉備の家臣
もちならふ たてものくもに    持ち並ぶ      奉物 雲に
かけはしと かすみちとり    懸梯と       霞に千鳥
 きひはりま ゑとたけひこ    吉備・播磨      兄弟のタケヒコ
よはきしお まてならひて    世掃しを      左右に並びて
みはしらは うちみやとみ    御柱は       内宮の臣
みこしまえ みこみをすえ    神輿前(神輿の直前に持つ)       御子は神緒末
をしかとは うつしひおみ    御使人は      写し日の臣
こしのる もろおくりけり    輿に乗る      諸 送りけり
あふみ やさかいりひめ    七月七日      ヤサカイリ姫
うちつみや            内つ宮
ゐそみほつみ              五十三年八月
みことのり かえりおもえは    御言宣       「返り思えば
やむなし こうすむけ    止む日 無し     コウスが平けし
くにめくり なさんといせに    国巡り       なさん」と 伊勢に
みゆきなり おはりつしまに    御幸なり      尾張ツシマ
いたるとき むらしむかえは    至る時       連(尾張連) 迎えば
ことく ともおほまの    子の如く      共にオホマの
みやいり みつからつくる    に入り      自ら作る
にきてたて いわくをやこの    和幣 奉て      曰く「親子の
ゆくりなふ わかれあわは    縁 無ふ (交わり無く)      別れ 会わねば
わすら みつからきたり    忘られず      自ら来たり
にきてと ややひさしくそ    和幣す」と     やや久しくぞ
いたましむ そのゆめに    悼ましむ      その夜の夢に
つしまもり しらいとりなる    ツシマ杜      白斎鳥 現る
やまとたけ いわくををかみ    ヤマトタケ     曰く「大神
そさのをに いわくいかんそ    ソサノヲに     曰く『如何んぞ
くにのそむ あめのりなせは    地 望む       陽陰法 成せば
くにのかみ をしえうたに    地の守』      教えの歌に
あめかした やわしめくる   『天が下       和して恵る
ひつきこそ はれあかるき    日月こそ      晴れて明るき
たみたらちね          民の父母』
これとけ つみおつるお    これ 解けず     罪に落つるを
いふきかみ ひきかみ    イフキ神      率きて守とす
ににきねは このこころもて    ニニキネは     この心 以て
ほつまて あまきみなる    ほつま 得て     天君となる
うらやみて かりをやこそ    羨みて       仮の親子ぞ
 みことうけ きつむけかえる    御言 受け      東西 平け 還る(天に還る今、こうして)
かみしつか まみえほそち    神・賤が (上と下)        見えて 臍ち (紛れて)
あつさたす たらちめくみ    熱さ 治す      父母の恵み
うまさるや おりかそえうた    倦まざるや」    折り数え歌
わかひかる はらみつにしき   『我が光る      晴みつ錦
あつたかみ もとつしまはに    アツタ神      元つ粗衣に
おれるかひかわ          復れるか ヒカワ
たひのへ しつすかたに    三度 宣べ      賎の姿に
くもかくれ きみさめいわく    雲隠れ       君 覚め曰く
かみつけ われいやしき    「神の告げ     『我は賎しき
ひかわかみ もとかえると    ヒカワ神      元に返る』と
めくみこる まよひさとす    恵み凝る(恵みの凝集した)      迷いを諭す
しめしなり むかしいわくは    示しなり      昔 曰くは
ひとかみ かみはひとなり    人は神       神は人なり
ほまれ みちたつのりの    名も褒まれ(その名を尊ばれ)        満ち逹つ典の (成長発展の目標・模範である)
かみはひと ひとすなほにて    神は人       人 素直にて
ほつまゆく まことかみなり    ほつま 行く     真 神なり」
つけより あつたかみ    告げにより     名もアツタ神
みやすひめ いつきくらへ    ミヤズ姫    <伊勢宮の>  斎に比べ
かんぬしも みやつかさなみ    神主も       宮司 並み
あつまえ ゆけさかむに    東方へ       行けば相模
 みあえなす ましてしおかみ    御饗なす      マシテシ 拝み
なきいわく ひめほろほして    泣き曰く      「姫 滅ぼして
まみえ きみなんたに    見みえ得ず」    君も涙に
とらかしは さかきみすかた    トラガシハ     如かき御姿
たてまつる きみたまえは    奉る         君 見給えば
やまとたけ いけるすかたに    ヤマトタケ     生ける姿に
あふことく ひとたひあいて    会ふ如く      「一度 会いて
よくたる かれはめくろと    良く似たる」    故 "ハメクロ"と
そのさとお なつけたまわる    その里を      名付け賜わる
かみすかた おほやまみねに    神姿        大山峰
やしろなす            社 成す
みふねかつさえ              御船 上総
あほのはま みさこゑはむお    アホの浜       餌食むを
たみとふ あれうむきと    民に問ふ      「あれは海蛤
しつはむ なますよしと    '賎' が食む     も好し」と
むつかりか かまたすきて    ムツカリ (六雁)が     蒲襷して
とるうむき なますになして    獲る海蛤      膾になして
すすむれは かしはともへと    進むれば      膳伴部
たまふ おほひこまこ    名を賜ふ      オホヒコの孫
いわかなり            イワカなり
かしまかくらの              鹿島神楽
ししまひお とえときひこ    獣舞を       問えば トキヒコ
これむかし いよにわたりて    「これ 昔      妙に渡りて
ししはむお つちきみとりて    騒しばむを     辻君 統りて
たてまつる きみたのしみの    奉る」       君 楽しみの
かくらしし やよろかしまに    神楽獣       弥万 鹿島に
あるかたち さわりなかれと    ある形       「障り 無かれ」と
もてあそふ さるたかみの    玩ぶ        猿治の神
しあふ            名にし負ふ
しはすのほり              十二月に上り
いせくに いろとみやに    伊勢の国      愛妹の宮に
おわします ゐそよなつき    御座します     五十四年九月
みそには ひしろのみやに    三十日には     日代の宮
かえりますかな          帰りますかな
このときに みわたたねこ    この時に      ミワタタネコ
みよふみ あみかみよの    御代の文      編みて上代の
ほつまちと よそあやなして    ほつま道と     四十文 成して
くになつに しめせたかひ    クニナツに     示せば 互ひ
みかさふみ みはえしめして    ミカサ文      見映え 示して
あいかたり あらたそめて    合い語り      新たに染めて
ふたより あけたてまつる    二家より      上げ奉る
このふみは むかしものぬし    この文は      昔 モノヌシ
みことのり うけつくりて    御言宣       承けて作りて
あわみやに いれおくのちの    阿波宮(琴平宮)に      入れ置く 後の
よよふみ まちまちなれは    代々の文      まちまちなれば
ひとも あらかしめにて    見ん人も      予めにて
そしり ももちこころみ    な謗りそ      百千 試み
はるかなる おくかみちえ    遥かなる      奥の神道へ
まさいるへし          まさに入るべし
ときあすす やもよそみの    時 天鈴       八百四十三年の
あきあめ これたてまつる    秋天日       これ 奉る
みわとみ すゑとしおそれ    ミワの臣      スヱトシ 畏れ
つつしみそむ          謹みて染む



 景行帝四十一年、春。ヤマトタケの君は険しい木曽路をやっと抜け出て、妻ミヤズ姫の待つオワリムラジの館にたどり着きました。今、君はこの家でようやくくつろぎの時を過ごし、すでに一ヵ月を超して滞在しました。妻のミヤズ姫は『都から帰って実家で待つように』と、君から事前に連絡を受けてお待ちしていました。姫にとっては、君のご到着が遅れているため、今か今かと気をもむ毎日でした。君がお着きになった丁度その日は、姫にとってはつらい生理日にあたってしまい、知らせを聞いてうれしさのあまり飛び出してのお出迎えも、寝巻き姿のままでした。ふと君は姫の着物の裾に月経の染みを見て即座に短歌を作って知らせました。

 久方の 天(あま)の香具山 遠鴨(トガモ)より さ渡り来る日 細手弱(ホソタワヤ) 腕(かいな)を巻(ま)かん とはすれど さ寝んとあれば 思えども 汝(な)が着(き)ける裾(そ)の 月経(つきた)ちにけり

 姫はすぐに返歌をされました。

 高(たか)光る 天(あま)の日の皇子(みこ) 休めせし 我が大君の 新玉(あらたま)の 年が来経(きふ)れば 宣(う)えな宣えな 君待ち難(がた)に 我が着ける 襲(おすい)の裾に 月経(つきた)たなんよ

 ご滞在中の事です。君がおっしゃるには、「今、オオトモノタケヒの治めるサカオリ宮(酒折宮)は、天孫ニニギ時代のハラノ宮(蓬莱宮)で、未だに荘厳なあのたたずまいは立派なものだ。我が願い、あのままの宮を移して姫と一緒にこの地で楽しみたいものだ」。ムラジはその願いを聞くとただちに、「臣(トミ)が現地に行って、取り敢えず写生をしてまいります」と答えると、君は大喜びされました。ムラジは早速富士山の麓のサカオリ宮に出向いて、宮の絵を精密に書き写して帰りご報告しました。

 ヤマトタケはイブキ山に荒神(あらふるかみ)がいるとの知らせを聞くと、居ても立っても居られず情熱の赴くまま一人退治に向いましたが、うかつにも姫の部屋に剣を解き置いたまま忘れて出かけました。この剣こそは、先祖神のソサノオノ命(素戔鳴命)が八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から取り出したアメノムラクモノ剣(天叢雲剣)で、ヤマトタケを蝦夷(えみし)が放った野火から守り、クサナギノツルギ(草薙剣)と名を変えた守護の剣でした。

 今度はイブキ山の神を軽んじて和弊(にぎて)も用意せず神路(かみじ)に入りました。ヤマトタケは通りすがりの山路で、イブキ神がオロチ(大蛇)に化けて横たわっているのもつゆ知らず、「これ汝、おまえはどうせ神の召使いだろう。取るに足らんやつだ」と踏み越えて行き過ぎたところ、イブキ神は氷柱(つらら)を行手に降らして阻み、光を奪って闇で被いました。これに負けじと強行してやっとの思いでこの難局を脱出したと思う間もなく、今度は目眩(めまい)がしだして燃えるような高熱に犯され苦しめられました。この近くの泉で熱を醒ました処をサメガイ(醒井泉)と言います。

 この頃から足が痛むのに気がつき、まずオワリ(尾張)のミヤズ姫の所へ向いますが、痛みで足は鉛のように重く、一歩一歩が命を削られる苦しみとなり、やっとの思いでミヤズ姫の待つ家の近くまでたどり着きながら、立ち寄る気力も失せてイセ路へと道を変えて進みました。ここオズ(尾津)の一松(ひとまつ)は、昔しヤマトタケが東国(あづま)へ遠征の途次、この松の下で食事した時に剣を解いて根元に置き忘れたまま旅立って、今こうして剣に再会すると昔のままに一途に持ち主の帰りを待っていてくれたんだなあ、忠義な松よ。君は松に誉(あ)げ歌を送り謡いました。

 置忘(おわす)れど 実直(ただ)に迎える 一つ松 あわれ人待つ 
 人にせば 衣着(きぬ)きせましを 太刀佩(は)けまじお

 この様に慰みを作っては、なんとか進みましたが、足には激痛が襲い二重(ふたえ)の足も三重に曲がる苦痛に耐えて歩いたので、この地を三重村といい、杖をついて進んだツエツキ(杖衛坂)坂も過ぎ、やっとノボノ(野褒野)までたどり着いた時は、自力で歩行するのも限界に近づき、君はここで我が身が重病であることを悟りました。

 この時君は蝦夷(えみし)の捕虜五人を解放してウジ(伊勢)に送り、伊勢神宮の神臣(かんおみ)のオオカシマ(大鹿島命)の添人(そえびと)にしました。キビタケヒコはヤマトタケから父帝(みかど)に託された緊急の手紙を携えて急ぎ都に参上して、手渡しました。その手紙には、「今、貴方の息子のハナキネが父帝(ちちみかど)に心から申し上げます。臣(トミ)の私は君の詔を受けて、東夷征討(アズマウチ)に遠征して、天の恵みと君の偉大なご加護を受けて無事東夷を服従させてまいりました。今は反逆者もなく皆天朝に従い東国に平和が戻りました。私は今こうして君の坐す都への路を引き返してまいりましたが、私の命は夕暮れの落日同様、余命いくばくもございません。乞い願わくはいつの日か又、自ら父上にお目にかかり復命したいと念じております。明け暮れ、戦場の岩根子に伏せて短い生涯を過ごし、心から語り合える人もないままに死んでいくのが無念でございます。次にもしお会いできる日があったなら、一人苦しみ平和を願い続けた私の思いの丈を聞いていただきたく存じます。一度でいい、一目お会いしたかった。ああ天命かな」。

 ヤマトタケは父への手紙を染めている時、ここで一旦手紙を書くのを止めていわく、「東西の征伐に成功して喜んだのもつかの間、我が身を亡ぼしてしまった。思い返せば彼ら従者達を一日も休ます事もなかった」と言いつつ、ナナツカハギに命じて、軍資金の花降(はなふり砂金)を全部皆に分け与えた後に歌を詠みました。「熱田の神と早やなると」。のたまうと、斎浴(ゆあみ)を済ませ衣を新しく替えて南を向いて正座していわく、「人間死に臨んでの辞世の歌はこれなり」。

 熱田宣(あつたの)り
 辞(いな)む時 東西(キツ)の鹿路(しかじ)と 父母(たらちね)に 仕え満(みて)ねど サゴクシロ 神の八相(ヤテ)より 道受けて 生まれ楽しく 昇天(カエサ)にも 誘(いざな)い千鳥足(チドル) 掛橋(かけはし)を 登り霞の 楽しみを 雲居に待つと 人に答えん

 (辞む時を迎えて、東西の勅使(サオシカ)の役割も父母への孝も満足ではなかったが、天上のサゴクシロ(精奇城)の八神から八相の道を受けて、人生も楽しく送りました。天国に召される時にも、神の誘いのままに心地良く千鳥足で掛橋(かけはし)を登り、霞の彼方に楽しみを求めて、雲居に待つと人に答えます)

 ヤマトタケはこの熱田宣り(あつたのり)を何度も繰り返して歌いつつ、最期には突然目を閉じて神上がりました。側近の者達はなす術(コト)も無くて、葬送の営をしました。この歌はオワリのミヤズ姫の元へと、又帝(みかど)へはキビタケヒコが上京して遺文(ノコシフミ)を奉げたところ、天皇(スベラギ)は政務も落ち着いてできない程の悲しみ様で、何を食べても味もなく、終日(ひねもす)嘆いて宣うには、「昔、クマソ(熊襲)が背(そむ)いた時は、まだ少年らしい総角(あげまき)姿のハナヒコだったのに、みごと仇を征伐することができた。本来なら左右の臣として私の近くに置いて補佐させたかったのに、東夷(ホズマ)を討たす人材がないばっかりに、私は辛い決断をしてコウスを仇の地に遠征させてしまった。明けても暮れても無事帰る日を待ち続けていたというのに、これはいったい何たる禍(わざわい)ぞ。親子の縁(ゆかり)を温める間もなく突然天国にお召しになるとは。今後いったい誰に私の政務を嗣がせれば良いというのだ」。

 君は諸臣、民(もろとみ、たみ)に詔りして神酎浴かみおくり)を荘厳の内にもしめやかに取り行うことにしました。その葬儀の時の事です。ヤマトタケの遺骸(オモムロ)が白い鳳凰(イトリ)に化けて空高く舞い上がったのを見た人々は不思議に思って陵(みささぎ)の御棺(ミヒツ)を調べたところ、君の冠(かんむり)と笏(サク)と御衣裳(みは)だけが残っていて、死体はすでに消えて白凰(シライトリ)となって、飛び去った後でした。皆で追いかけ尋ねて行った所、ヤマト国(大和国)のコトヒキ原(琴弾原)に尾羽(オハ)が四支(ヨエダ)置き残されていました。次にカワチ(河内)のフルイチ(古市)に又、四羽(ヨハ)落ちてきたので二箇所に陵(みささぎ)を築いて祭ったところ、白鳥は(しらとり)はついに天高く舞い昇り雲の中に隠れてしまいました。白凰(シライトリ)の尾羽(オバ)は、あたかも神の世のヨハキシ(世箒花)の様に散り広がり、正に世の乱れを掃き清める垂(しで)の様でもありました。

 崇高に国の東西の乱れを治めて後に、美しく死んでいったのも実は何かの天命かもしれません。ヤマトタケが伯母より賜わったクサナギ(草薙)の剣を、ミヤズ姫の家に置いたままイブキ山に登り足を痛めてイセ路に向かった時、自分の家族を心配して、都に思いを馳せて歌った十九歌(ツヅうた)は、

 愛(は)しきやし 我家辺(わきべ)の方ゆ 雲居(くもい)立ち雲

 この遺歌(のこしうた)は、自分の皇子(みこ)達や親族(うから)に折り合いの十九(ツヅ)は館(やかた)で、出で立つは旅館(たびや)に会える客人(マロビト)と思いなさいと、迷いを残さぬように諭しの歌で、深き君の御心の導きです。

 ノボノでいよいよ神上がられる時に、ヤマトタケはミヤズ姫に歌を遺(のこ)しました。アイチダ(愛知田)の

 乙女(おとめ)が床に 我が置きし イセの剣の 立ち別るやわ

 この歌は妹背(イモセ)の道は連綿と続いて、たとえ一度は我が剣の様に別れたとしても、吊(つり)の緒は決して切れはしないで連なっているのだといゆう神の教示です。この歌を押し戴いて詠んだミヤズ姫は、突然のヤマトタケの死を信じられず、悲しみのあまりに息も絶え絶えに悶え泣き、生きているのがやっとというご様子でした。

 父のムラジは、ハラ宮(蓬莱宮)を写した絵を持ち登って、帝(みかど)に若宮(ヤマトタケ)の希望をありのままを申し上げて許可を得て、アイチダ(愛知県・あいちあがた)にハラ宮と同じ様に美しい宮殿を造営し竣工させました。

 完成を祝って帝は詔をされました。「タタネコ(大直根子)は斎主(いわいぬし)として勅使人(おしかど)を務めよ。ムラジ(尾張連)は神主(かんどの)、皇子全員は神幸(みゆき)の備(そなえ)に当たれよ」。ヤマトタケの神渡御(かんとぎょ)は厳かに進められて、コトヒキハラの陵(みささぎ)に落ちた白鳥の尾羽(オハ)四枚と、フルイチの陵の尾羽四つも共に持ち来たり、ノボノの君の冠(カフリ)、笏(サク)、御衣(ミハ)の三点も御霊笥(みたまげ)に入れて一緒に白神輿(しらみこし)に納めました。

 ヒシロの御世四十四年三月十一日(ヤヨイソヒ)
 いよいよヤマトタケの神幸祭が初まり、黄昏時から神輿がノボノを発って東のアイチダの宮へと進みました。大勢の司(つかさ)達は松明(ダビマツ)を赤々と揚げて長い道程(みちのり)を悲しみにゆらめきながらどこまでも続き、六日目の夜中に新装なったハラ宮のオオマノ殿(蓬莱新宮大真殿)に神輿が正座に安置されました。

 この日のミヤズ姫は生前君にお仕えしたと同じ様に宮仕えして、自ら切り火をおこして神饌用のご飯を炊いて平瓮(ひらべ)に盛って戴(いただ)き持ち、先導して大真殿に入って皆が揃うのを待って、神前にお供えして申し上げました。「この御食(みけ)は昔、君がイブキ山からのお帰りを待って捧げるつもりの昼飯でした。あの日に自ら食事を炊(かし)いでお待ち申し上げたのに、どうして私の元にお立ち寄りくださらず、遠くへ行ってしまわれたのでしょう。私も君の後を追って行くべきだったと今は千々(ちぢ)に悔やまれてなりません。今宵には又、君は私の元に神の君となってお帰り下さるのですね。さあ私が作った食事をどうぞごゆっくりお召し上がりください。君が現世に在られるままの、アイチダに待ち続けた私の『君が日霊飯(ヒルメシ)』でございます」。姫は三度に及び宣(のり)して、涙を落としました。

 夜空は十六夜月(イザヨウツキ)が明るく照らし透きとおり、どこからともなく白凰(シライトリ)が飛(ま)い来りて御食(みけ)を食み、再び飛(ま)い上がって白雲の彼方に消え失せた時、神の声が十九歌(ツヅウタ)で答えられました。

 在りつ世の 腹満(はらみつ)つ欲しき 霊在(チリ)を昼飯(日霊飯)

 五十三年八月(イソミホホズミ)、君の詔がありました。「顧(かえ)り思えば悲しみが一日と止むことはなかった。そうだ、コウスが平定(むけ)た国々を巡って旅をし、御霊(みたま)を鎮めようと思う」。巡幸は先ず伊勢に詣でてからオワリのツシマ(尾張津島)に至った時の事です。ムラジが出迎えに伺うと、君は我が子に再会できたようにお喜びになり、一緒にアイチダのオオマの宮(現・熱田神宮)に入り御手ずから製った和弊(ニギテ)を御前に立てていわく、「親子でゆっくりと過ごす縁にもめぐまれないまま、先立ってしまったお前をどうしても忘られず、今こうして自ら会いに来ました。こうして和弊を捧げましょう」と、長い時間神の前に留まり、悲嘆に暮れる様子は痛ましいお姿でした。君はその夜ツシマモリ(津島杜)にご滞在になりましたが、その夜の夢の中に、ヤマトタケが再び白凰(シライトリ)となって現われていわく、

 「天照神(オオンカミ)がソサノオに対して『如何(いかん)ぞ、国望む』と言いつつ、天の宣(あめののり)をして国神ソサノオをお教え諭しました。
天(アメ)が下(シタ) 和(やわ)して巡(めぐ)る 日月(ひつき)こそ 晴れて明るき民の父母(たら)なり

 (この天宣(アメノリ)は、国の指導者たる者、天下あまねく平等に巡る太陽や月の様に晴れて明るき民の父母(タラチネ)と慕われるようでなければならない。との諭しです)

 しかしスサノオは、この教えが解らず、ついに宮中を追放されて下民(シタタミ)に落ちてしまいました。八年間の放浪の末にイブキ神に拾われ、共にヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治した功績によりヒカワ神(氷川神)の称号をもらって、再び宮中に復帰してやっと八重垣(ヤエガキ)の臣(トミ)に帰り咲くことができました。

 しかし天孫ニニキネは、アマテル神の精神を持って国を開拓し民を豊かに国を平和に導いたので、ホツマ国を与えられて天君(アマキミ)となられました。 ソサノオは、天君(アマキミ)となったニニキネの英知が羨ましくて、己も英知と勇気で国を開き君に貢献したいと願い、仮の親子として父(景行帝)の子(ヤマトタケ)となりこの世に帰ってまいりました。

 東西の蝦夷(エミシ)と熊襲(クマソ)を平定して、父のお側に帰った今、神の心は安らぎ静かでございます。ここツシマモリの社で君に目見(まみ)えることができ、共にこうして熟瓜(ホゾチ・熟したマクワ瓜)をいただいていると、苦しめられたあの熱もうそのように癒えました。ああ、なんと父母の御心は深く永遠でございましょうか」。

 折り返し歌
 我が光る 蓬莱参錦織(ハラミツニシキ) 熱田神(アツタカミ)
 本津島衣(モトツシマハ)に 織れるか氷川(ヒカワ)

 (実は私ソサノオは、今はきらびやかな蓬莱参錦織・ハラミツニシキで飾られた神(ヤマトタケ)に納まっていますが、本当の私は貧しい氷川(ヒカワ)の放浪者に似つかわしい綴れ布を織ってもらいたかったのです)

 三度この願いを述べると神は、いやしい賤(しず)の姿に身を変えて雲隠れしてしまいました。君は夢から覚めてのたまわく、「これは、神の告げだ。『我は賤(いや)しき氷川神、望みを成した今、本(もと・氷川)に帰らん』と親子の恵みに感謝して去っていった。これこそ私の迷いを悟(さと)す神の啓示なり。昔ハナヒコ(ヤマトタケ)がのたまわく、

 人は神 神は人なり 名も誉(ほまれ) 道立つ徳(のり)の
 神は人 人素直(すなお)にて ホツマ(秀真)行く 真(まこと)神なり

 (神は本来人であり、また人は神である。手柄を立て、名を上げ、人の模範となる生き方を教え示した者が、神と崇められる。人は素直(正直)に、秀でた真のホツマの道に従えば、おのずと神の路を行くことになる) 

 君は夢の中で神の告げを受け、アイチダ(愛知田)に建つ蓬莱新宮大真殿(ハラシングウオオマドノ)に祭る神名を熱田神(アツタカミ)と名付けました。













(私論.私見)

40-25~28~33 ヤマトタケ葬儀のとき白い鳳が舞う

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12. ヤマトタケ葬儀のとき白い鳳が舞う(40-25~28)

 もろにのりして(40-25)
かみをくり ときに。をもむろ
なる。いとり いづれはもろと
みさゝきの みひつをみれば


ここで、葬儀の様子の描写になります。
君(景行天皇)は諸臣、民(もろとみ、たみ)に詔(みことのり)して、神おくり(神酎浴)をとりおこなう事にしました。
葬儀のときのことです。ヤマトタケの遺骸(おもむろ)が白い鳳凰(いとり)に化けて舞い上がったのを見て、人々は陵(みささぎ)の御棺(みひつ:保管する所、墳墓、石室)を見に行った所

かんむりと さくと。みはもと(40-26)
とゝまりて むなしきからの
しらいとり をいたづぬれば
やまとくに ことひきはらに
おは。よえた をきてかわちの(40-27)
ふるいちに またよは。をつる


御棺(みひつ)の内には冠と笏(さく:板片)と衣装(は)だけが残っていて、死体は既に消えて空っぽで、白凰(しらいとり)になって飛び去った後でした。
追いかけて尋ねていったら、大和国の琴弾原(ことひきはら:奈良県御所市)に、尾羽が四支(えだ)置き残されていました。次に、河内の古市にも又、四羽落ちていました。


そこ。ここに なすみさゞきの(40-27)
しらとりも つひにくもいに


その、二ヶ所に陵を築き祭ったら白鳥はついに天高く舞い上がり雲のなかに隠れてしまいました。

とびあがる おばは。あたかも(40-28)
かみのよの よはきしぞこれ


白凰(しらいとり)の尾羽はあたかも神の世の世箒花(よはきし)のように散り広がり正に掃き清める乗(しで)のようでした。

きつもみな たせば。まかれる(40-28)
あめのりぞ 


東(き)西(つ)の乱れを平定した後、死んでいったのでヤマトタケの天命であったに違いない。

13. 景行天皇の二人の子供の時の思いで(40-28~30)

このきみひしろ(40-28)
すべらぎの ふのみこはゝは
いなひひめ しはすのもちに
もちつきて もちはな。なして
ふたごうむ おうす。もちひと(40-29)
とはこうす はなひこもこれ
あめのなぞ(40-30)


景行天皇(日代朝すべらぎ)の二人のお子さんの母上は「イナイ姫」(吉備津彦の娘で播磨稲日太郎姫)といいます。この「イナイ姫」が師走の餅つきのお祝いの時、餅花を作っていたとき、産気づいて双子を生みました。兄を大碓(おおうす)望人(もちひと)、弟(と)は小碓(こうす)花彦(はなひこ)と名付けました。これも天の与えた名前であろうか。

14. 熊襲(くまそ)退治の時の思いで(40-30~33)

 ひとなるのちに(40-30)
くまそまた そむけば。こうす
ひとりゆき をとめすがたと
なりいりて はだのつるぎで(40-31)
むねをさす 


成人した後、熊襲が再び背いたので「こうす」が一人で行くことになった。(実際には弓の名手も連れている)そして、乙女の姿に変装して肌の剣で熊襲タケルの胸を刺した。

たけるしばしと(40-31)
とゝめいふ なんちはたれぞ
われはこれ いますべらきの
この。こうす(40-32)


クマソタケルは暫しと止めを言った。「汝は何者だ。」
ヤマトタケは「我は今の天皇(すべらぎ)の子の小碓なり。」

 たけるがいわく(40-32)
やまとには われにたけたは
みこはかり かれみなつけん
ききますや ゆるせばささぐ


クマソタケルが曰く、大和には我に勝けた皇子がいることを、今、知った。故に、ヤマトタケと名乗ってください。お聞きいただけるでしょうか。聞いていただけるのなら名前を捧ぎます。

やまとたけ みこ。なをかえて(40-33)
うちおさむ あめのほまれや


ここで、「こうす皇子」からヤマトタケ皇子に名を変えました。そして、クマソを討ち治めました。天の誉れです。

ジョンレノ・ホツマ
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40-12~13~25ヤマトタケ野褒野(のぼの)に着いた時は重症

5 ヤマトタケ野褒野(のぼの)に着いた時は重症(40-12~13)

いささかに なくさみゆけど(40-12)
あしいたみ みゑにまがれは
みゑむらぞ つゑつきざかも
やゝこえて のほのにいたみ
おもければ(40-13)


このように、慰みを作って進んでいったが、足が更に痛み二重の足も三重に曲がるほどの痛みだったので、此処を三重村と言います。杖をついて歩いた杖衛坂(つえつき)も過ぎ野褒野(のぼの)に着いたときは重症でした。

6. とりこ5人を鹿島命の添え人に(40-13)

 とりこ。ゐたりを(40-13)
うぢにやり かしま。みことの
そえびとぞ


日高見から連れてきていた、捕虜の五人を釈放して、宇治に送り、大鹿島命(初代伊勢神宮)の添え人にしました。

7. 吉備武彦はヤマトタケの手紙を持って都路へ(40-13)
 
きびたけひこは(40-13)
みやこぢえ のぼせ。もふさく


吉備武彦は都路(景行天皇のまきむき宮)へ参上してヤマトタケからの手紙を手渡しました。このとき迄、吉備武彦はヤマトタケに同行していたことがわかります。

8. ヤマトタケ病に倒れた無念さを手紙に(40-14~16)

そのふみに はなひこもふす(40-14)
とみむかし みことをうけて
ぼづまうち あめのめぐみと
いづにより あらふるかみも
まつろえば ふつくおさめて(40-15)


景行天皇に宛てたその手紙の内容は「はなひこ(ヤマトタケの生まれたときの名前)は申し上げます。昔、君(父上:景行天皇のこと)の詔(みことのり)を受けて東夷征討(あづまうち)に行きました。天の恵みとご加護を受けて、逆らう神も服従させ、全て収めて参りました。

いまこゝに かえればいのち(40-15)
ゆふづくひ こいねがわくは
いつのひか みことあえさん


今、ここに帰ってきました。しかし、私の命は夕暮れの落日で余命幾ばくもありません。乞い願わくは、いつの日か自ら父上にお目にかかりたいです。

のにふして たれとかたらん(40-16)
をしむらく まみゑぬことよ
あめの。のりかな


野(戦場)に伏して(病に倒れ)、心から語り合える人もないまま、お目にかかることもできずに死んでいくのが無念です。天命でしょうか。

9. 武将たちに はなふり(賃金)を分ける(40-17)

ふみとめて きみ。いわく。われ(40-16)
きつをむけ ことなれはみを(40-17)
ほろぼせる かれらやすます
ひもなきと なつかはぎして
はなふりを みなわけたまひ


ここで、ヤマトタケは父上への手紙を書くのを一旦やめて、こう言われました。
私は東(き)西(つ)の平定(むけ)に成功(成就:ことなれ)しましたが、わが身を滅ぼしてしまいました。彼ら従者たちを一日も休ませることもありませんでしたので、ナツカハギに命じて軍資金の花降り(砂金、銀)を皆に分け与えてください。

10. ヤマトタケ辞世の歌を読み神となる(40-18~21)

うたよめは あつたのかみと(40-18)
はやなると ゆあみはをかえ
さにむかひ ひとみ。いなむの
うたはこれぞと


歌を詠みました。「熱田の神と早なると」とのたまい、斎浴(ゆあみ=みそぎ)を済ませ衣(は)を新しく着替えて、南(さ)に向かって正座しました。
「人間(人身:ひとみ*)、死に臨んでの辞世の歌はこれなり」
*ひとみ:ひとみ草(朝鮮人参)、はらみ草として不老長寿の薬草として大陸に伝わったと思われ、徐福伝説へとつながったと思われます。

あつたのり 
いなむとき きつのしかぢと(40-19)
たらちねに つかえ。みてねど
さこくしろ かみの。やてより
みちうけて むまれ。たのしむ(40-20)
(うまれたのしむ:小笠原写本)


熱田宣(のり)辞(いな)む時(死に臨んで)、東(き)西(つ)の鹿路(けもの路、勅使(さおしか)の役割との掛け言葉)と父母(たらちね)に仕え満てねど(十分でなかったが)天上の精奇城(さごくしろ:48神の天国の宮)の八神(と・お・か・み・え・ひ・た・め)から八相(やて)の導き(みち)を受けて人生(むまれ)も楽しく送りました。

かえさにも いざなひ。ちどる(40-20)
かけはしを のぼり。かすみの
たのしみを くもゐにまつと
ひとにこたえん(40-21)


天国に召される時(昇天:かえさ)も、神の誘いのまま、心地よく千鳥足で天の御(み)柱(かけはし)を登り、霞の彼方に楽しみを求めて雲居に待つ(先に行って待っています)と人々に答えます。

もゝうたひ ながら。めをとぢ(40-21)
かみとなる 


何度も何度も(もも:百)繰り返して歌いながら、目を閉じて神となりました。

なすことなくて(40-21)
いとなみす うたはおはりえ


側近の者はなすすべ(こと)がなく、葬送の営みをしました。ヤマトタケが歌ったこの歌は尾張の宮簀姫へ届けられました。

11. 景行天皇は嘆き悲む(40-22~25)

きび。のぼり ふみさゝたれば(40-22)
すべらぎは ゐもやすからず
あぢあらず ひめもすなげき


吉備武彦は上京して、遺し文を奉げたところ、すべらぎ(景行天皇)は心(ゐ)が高まり、食事はのどが通らず(何を食べても味がなく)、終日嘆いてばかりおられました。

のたまわく むかしくまそが(40-22)
そむきしも まだあげまきに(40-23)
むけえたり まてにはべりて
たすけしに ほづまをうたす
ひとなきを しのびてあだに
いらしめば (40-24)


そして、おっしゃるには、昔、熊襲が反乱を起こしたときはまだヤマトタケは揚巻(総角姿)だったのに報えることが出来た。
本来なら、私の近くにいて補佐させたかったのに、ほづま(東夷)を討たす人が他にいなかったから、堪えに堪えて空しく(あだに)遠征させてしまった。

あけくれ。かえる(40-24)
ひをまつに こわそもなんの
わざわひぞ ゆぐりもなくて
あからめす たれと。みわざを
おさめんや(40-25)


明けても暮れても帰って来る日を待っていたのに、これは一体何たる禍いだ。
親子の縁(ゆかり)を温める間もなく天国に召されてしまった。誰に私の成務を継がせれば良いのだ。


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40-9~11尾津の一松の話(松を誉めた歌)

4 尾津の一松の話(松を誉めた歌)(40-9~11)

此処で突然、尾津の一松(市松)が出てきます。


 おづのひとまつ(40-9)
これむかし ほつまくたりの(40-10)
みあえどき ときをくつるぎ
まつのねに おきわすれしが
ながらえり かれにあげうた


昔、ヤマトタケがホツマ国へ下っていたときのこと、食事をした時、松の根元に剣を解いて、置き忘れたまま旅立ってしまったが、今日まで、そこにずーっと待ち続けてくれていたので、再会できました。故に、挙(あ)げ歌(献上歌)を歌いました。

この剣は、誰にも見つからなかったのか、誰か見つけても恐れ多くてそうっとしておいたものと思います。

おわすれど たゞにむかえる(40-11)
ひとつまつ あはれひとまつ
ひとにせば きぬきせまじを
たちはけまじを


ヤマトタケが松を誉めたうたです。
置忘れど 一途に守ってくれた 
一本の松よ あわれ(ふびんにも)人待つ(一松)
もし出会っていたら 衣着(きぬ)を着せて
太刀佩けまじを(刀を持たせてやれたのに)



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38-71~73 八女県 やつめ姫神(改定1、2009/10/19)


12-28-八女県 やつめ姫神(38-71~73)

やつめ姫神が住んでおられる所が、吉野ヶ里であることが、ホツマツタヱのこの38綾の「やつめひめかみ みねにあり」の記述 と「地図でみる西日本の古代」平凡社の参考資料の古代地図より「三根」(みね)という古代の郡名の位置が一致し、吉野ヶ里の場所であったことが確認できました。

よって、吉野ヶ里は「やつめ姫神」が治めていた「八女国(やつめ:やめ)」であったと考えて良いと思います。


 やつめをこえて(38-71)
まえやまの あわみさきみて(38-72)
きみいわく たゝみうるわし
かみありや


八女県(やつめ)を越えて、まえやま(眉山)のあわみさきを見て、君(景行天皇)は、畳の目ように山の峰が重さなりあっている所だ。うるわしい国神ありやとお聞きになりました

 みぬさるおうみ(38-72)
もふさくは やつめひめかみ
みねにあり(38-73)


このとき、「みぬさるおうみ」(水沼県猿大海・福岡県三瀦(みずま)郡大川市)が申し上げるには、「やつめ姫神」が此処を治めています。
「三根」(みね)におられます。
この「みね」三根は現在の吉野ヶ里遺跡の場所です。



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40-1~9熱田神。世を辞む綾

「あつたかみ」よをいなむあや
熱田神。世を辞む綾


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ホツマツタヱ最終綾です。景行天皇は我が息子「ヤマトタケ」に先立たれ、「ヤマトタケ」を熱田神として祀ります。
その後、景行天皇が「ヤマトタケ」の東征で平定(むけ)した国々を巡った記述で終わっています


1. ヤマトタケ木曽路より尾張の連の館に着き滞在(40-1~5)

まきむきの ひしろのこよみ(40-1)
よそひ。はる ヤマトタケきみ
きそぢより いたるおわりの


景行天皇朝(纏向き:奈良県桜井市)の日代の御世で
41年の春(新年)に、ヤマトタケの君は木曽路より尾張にたどり着きました。

たけどめが まごのむらじの(40-2)
ゐゑにいる つま。みやずひめ
みやこより をくりて。ちゝが
ゐゑに。まつ 


「たけどめ」(たけひてるの息子)の孫の連(むらじ:国神)の館(現在の熱田神宮)に滞在しました。
妻の宮づ姫(のちのつま、後妻)は都(纏向:まきむき)よりヤマトタケを美濃まで送った後、ずうーっと実家で待っていました。

「たけどめ」:「たけひてる」の息子。考霊天皇が富士登山されたとき、たけひてるが山を案内したことにより、息子「たけとめ」を宮中に召し上げた。そして、「たけとめ」が宮中の青竹筒の粥占い(かゆうらない、かいうらないとも言う)の神事を継ぎました。それまでは、諏訪・酒折(甲府)と称していましたが、「たけどめ」の代以降、甲斐というようになりました。(かゆ→かい)

「たけひてる」:「このはなさくや姫」の長男の子孫。

いま。きみ。こゝに(40-2)
つきをこす(40-3)


今、君(ここではヤマトタケのこと)はこの館で一月以上滞在しました。

きみ。のたまわく(40-3)
さかおりの みやはむかしの
はらのみや なを。ながらえり
わがねがひ うつしてひめと
たのしまん(40-4)


君(ヤマトタケ)が宣(のた)まうには、酒折の宮は昔のハラの宮(蓬莱宮:天照大神が生まれた所)で現存している。我が願いは、あのまま宮をこちらに移して、姫(宮簀姫)と一緒にこの地で楽しく住みたいものだ。

 むらじもふさく(40-4)
とみゆきて ゑかきうつさん
きみゑゝす むらじくたりて
さかおりの みやをくわしく
ゑにうつし かゑことすれば(40-5)


連(むらじ)が申しました。臣(とみ:大臣)が現地に行って館を写生してきます。
君(ヤマトタケ)は大喜び(ゑゝす)しました。
早速、連(むらじ)は出向いて行きました。そして、酒折の宮を詳しく写生して持ち帰って報告しました。

2. ヤマトタケ伊吹山へ行き、命からがら脱出(40-5~8)

此処で話しが変わります。

やまとたけ あらふるかみの(40-5)
あるをきゝ つるぎときおき
かろんじて いたるかみぢに


ヤマトタケは荒神(無法者:大和朝廷に反抗する無法者、治外法権者という認識)がいるとの知らせを聞き、軽率にも剣を持たないで(解いて置いたままで)神路(伊吹山)に入りました。


にぎてなく ゆきすぐみちに(40-6)
いふきかみ おをろちなして
よこたわる かみとはしらず
やまとたけ をろちにいわく


にぎて袋も持たずに、行過ぎてしまった道に、伊吹神が「おろち」に化けて横たわっていました。神とは知らずに乗り越えて行きました。
ヤマトタケは「おろち」に向かって言い放ちました。

にぎて=にぎて袋=ぬさ袋=道中の安全を祈るため、道祖神に捧げる幣を入れてたずさえた袋、幣(ぬさ)とは祈願をし、または、罪・けがれを払うため神前に供える幣帛(へいはく)。紙・麻・木綿(ゆう)などを使う。みてぐら


これなんぢ あれかたかみの(40-7)
つかひなり あにもとむるに
たらんやと ふみこえゆけば
いふきかみ つららふらして


これ汝、お前はどうせ荒神の召使だろうと。
どうせ、取るに足りないだろうと踏み越えていくと伊吹神が氷柱(つらら)を降らしました。

かをうはふ(40-8)
しいて。しのぎて
おしあゆみ わづか。いでゆく


光を奪い行き手を遮りました。
強いて(強行して)脱出して押し進みました。

「あらふる」神というのは、私は当時すでにたたら製鉄が行なわれており、これらの産鉄民であったのではないかと思います。
「あら」は鉱、砂鉄を採取している神を示しているということを吉野裕氏は「風土記世界と鉄王神話」のなかで述べておられます。農耕民からみると産鉄民は砂鉄を採取するため、山を切り崩し不要な土砂が川にはきだされ、まさに無法者に見えたのであったと思われます。

私見ですが、この伊吹神は鋳吹く神でタタラ製鉄の溶鉱炉の神を意味しており、この溶鉱炉のことをオロチ(大蛇)と称していたのではないかと推測します

すなわち、ヤマトタケは、溶鉱炉の中に、防熱具をつけないで無防備にも入ってしまい、全身におおやけどを負ってしまい、特に足元はひどかったのではないかと考えれれます。

たたら製鉄の炉の中の湿気が完全に取り除かれていないと、いわゆる水蒸気爆発が生じたことがあったようです。

伊吹山からは銅鐸が出土したり、たたら製鉄の適した跡であったことも分かっています。
よって、ヤマトタケはこれらの産鉄民を知っていたのではないかと私には思われます。鉄を扱っているものは、当時から国を動かすほどの勢力があったと考えられるからです。
何処かで繋がっていたように考えられます。

これらの考えは、柴田弘武氏の「産鉄族オオ氏」や「風と火の古代史」、吉野裕氏の「風土記世界と鉄王神話」、山内登喜夫氏の「和鋼風土記」、鉄山必要記事などを読んでいるとなぜか結びついてくるのです。
しかしながら、多くのホツマツタエをご存じない方がいきなりホツマツタエの話を聞かされても、直ぐには理解できず納得できないと同様に、この産鉄民の話を持ち出してもにわかに納得できないかも知れません。


3. ヤマトタケ足を痛めてしまい直接伊勢へ向う(40-8~9)

こゝろゑひ もゆるごとくに(40-8)
あつければ いづみにさます
さめがゐや(40-9


心が酔ったようにふらつき、燃えるような高熱に襲われてしまい、泉で冷ました。この冷ました所を醒ヶ井泉と言います。

 みあしいたむを(40-9)
やゝさとり おはりにかえり
みやづめの ゐゑにいらずて
いせのみち


足が痛むのは重症であると悟り、尾張に帰ってきましたが、宮簀姫の家(熱田神宮)には行かずに、直接伊勢路へと向かいました。もう自分の命が危ないと悟り、宮簀姫には会いたいが、一刻も早く都へ戻らなければと思ったのでしょう。

宮簀姫への思いを込めて書き記された歌がいくつか後で出てきます。ここでも、私見ですが、全身におおやけどを負ってしまい、変わり果てた自分の姿を宮簀姫に見せたくなかったという気持ちも働いていた気がします。

ジョンレノ・ホツマ
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40綾 目次

40綾 目次

「あつたかみ」よをいなむあや
熱田神。世を辞む綾


ホツマツタヱ最終綾です。景行天皇は我が息子「ヤマトタケ」に先立たれ、「ヤマトタケ」を熱田神として祀ります。
その後、景行天皇が「ヤマトタケ」の東征で平定(むけ)した国々を巡った記述で終わっています

1. ヤマトタケ木曽路より尾張の連の館に着き滞在(40-1~5)
2. ヤマトタケ伊吹山へ行き、命からがら脱出(40-5~8)
3. ヤマトタケ足を痛めてしまい直接伊勢へ向う(40-8~9)

4. 尾津の一松の話(松を誉めた歌)(40-9~11)
5. ヤマトタケ野褒野(のぼの)に着いた時は重症(40-12~13)

6. とりこ5人を鹿島命の添え人に(40-13)
7. 吉備武彦はヤマトタケの手紙を持って都路へ(40-13)
8. ヤマトタケ病に倒れた無念さを手紙に(40-14~16)
9. 武将たちにはなふり(賃金)を分ける(40-17)
10. ヤマトタケ辞世の歌を読み神となる(40-18~21)

11. 景行天皇は嘆き悲む(40-22~25)

12. ヤマトタケ葬儀のとき白い鳳が舞う(40-25~28)
13. 景行天皇の二人の子供の時の思いで(40-28~30)
14. 熊襲(くまそ)退治の時の思いで(40-30~33)

15. ヤマトタケの家族構成(40-33~38)

16. 宮簀(みやづ)姫の出迎えにヤマトタケの歌と返歌(40-38~42)
17. 宮簀(みやづ)姫に残した歌(40-42~48)
18. 愛知田(あいちだ)に新宮を落成祝いの詔(40-48~51)
19. 御幸の行列、野褒野(のぼの)から愛知田まで(40-51~57)
20. 宮簀(みやづ)姫は御食を捧げ、白凰が食いばむ(40-57~62)

21. 神送りの儀式(40-62~64)
22. えぞのとりこ5人を分散(40-64~66)
23 「わかたりひこ」七草の見あえに参加せず(40-66~68)
24. 「わかたりひこ」を世継ぎの皇子に(後の13代成務天皇)(40-68~69)
25. 妃の「いらつ姫」の葬儀(40-69~74)

26. 「やさかいり姫」が中宮に昇格(40-74~75)
27. 景行天皇は「こうす」が平定した国々を巡ることを決意(40-75)
28. 景行天皇は尾張の宮でにぎてを捧げた(40-75~77)
29. 景行天皇が夢の中で(40-77~83)
30. 迷いを諭す神の啓示(40-84)

31. 告げによりヤマトタケを熱田神に(40-85)
32. 景行天皇は東国相模で、まし・てしと涙す(40-86
33. 虎柏(とらがしわ)現れ目黒を賜る(40-87~88)
34. 景行天皇は船で上総へ渡る(40-89)
35. うむぎ(はまぐり)のなますを食す(40-90~91

36. 景行天皇は鹿島かぐらを楽しむ(40-91~93)
37. 景行天皇は伊勢から日代の宮へ戻る(40-93~94)
38. 三輪のタタネコが編纂したあとがき(40-94~98)


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40-94~98 三輪のタタネコが編纂したあとがき

38. 三輪のタタネコが編纂したあとがき(40-94~98)


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このときに みわのたたねこ(40-94)
みよのふみ あみてかみよの
ほづまぢと よそあやなして


まさにこのとき三輪のたたねこが神代からの文を編纂(あみて)してほづまの路を四十綾にまとめました。

くになづ。に しめせばたがひ(40-95)
みかさふみ みわえしめして
あひかたり あらたにそめて
ふたやより あげたてまつる


この編纂したものを「くになづ大鹿島命」(春日系)に、一方「くになづ」が纏めた「みかさふみ」を「三輪たたねこ」にお互いに示し合いました。内容をあい語り合い確認しました。新たに書き直して(染めて)右大臣・左大臣両方から献上いたしました。

このふみは むかしものぬし(40-96)
みことのり うけてつくりて
あわみやに いれおくのちの
よよのふみ まちまちなれは
みんひとも あらかじめにて(40-97)
なそしりそ


この文(天の巻き・地の巻き)は昔「ものぬし」(ふしみかた・神武天皇時代の右大臣)が詔を受けて作ったものをあわみや(滋賀県あわちの宮・現多賀神社?)に奉納した後、多くの文がまちまちになってしまい、見る人も困っているので、再び元から正して新たによみがえり本当のことを知ることができるようになったでしょう。

 ももちこころみ(40-97)
はるかなる おくのかみちえ
まさにいるべし


百回、千回と読めばはるかな奥の神の路に近づくことが出来るでしょう。

ときあすす やおよそみほの(40-98)
あきあめか これたてまつる
みわのとみ すゑとしをそれ
つつみてそむ すゑとし(完


あすず暦(神武天皇)八百四十三年、秋吉日(あめ:吉)にこれを景行天皇に献上奉りました。三輪の大臣すえとし(おおたたねこの実名)が謹んでこれを書き上げ(染む)ました。



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40-93~94 景行天皇は伊勢から日代の宮へ戻る

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37. 景行天皇は伊勢から日代の宮へ戻る(40-93~94)

しはすにのほり(40-93)
いせのくに いろとのみやに
おわしまし ゐそよほ。なづき
みそかには ひしろのみやに
かえりますかな(40-94)


十二月に上京して、伊勢の妹の宮に着いてしばらく滞在しました。
五十四年九月末(ここなづき=なづき)には、まきむきの日代の宮にお帰りになりました。


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40-91~93 景行天皇は鹿島かぐらを楽しむ

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36. 景行天皇は鹿島かぐらを楽しむ(40-91~93)

 かしまかぐらの(40-91)
ししまいを とえはときひこ
これむかし いよにわたりて
ししはむを つちきみ。とりて
たてまつる(40-92)


鹿島神楽の獅子舞をご覧になりました。景行天皇は香取時彦に問いたところ、これは昔伊予に渡ったとき、獅子が人を食い殺すというので、猿田彦が捕まえて天照大神に献上しました。

 きみたのしみの(40-92)
かぐらしし やおろかしまに
あるかたち さわりなかれと
もてあそぶ さるたのかみの
なにしあふ (40-93)


天照大神は大変喜んで神楽(神様を喜ばす)獅子としました。八万年鹿島に伝わりました。
景行天皇は食いつかないでくれと言って遊びました。これは猿田神の名にふさわしいことです。


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40-90~91 うむぎ(はまぐり)のなますを食す

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35. うむぎ(はまぐり)のなますを食す(40-90~91)

なますもよしと(40-89)
むつかりが がまたすきして(40-90)
とる。うむぎ なますになして
すすむれば かしはともへと
なおたまふ おほひこのまご
いわかなり(40-91)


なますにすると美味しいと「むつかり」(おおひこの孫、崇神天皇の孫)が、がまの穂でたすきを作り海に入ってうむぎ(はまぐり、う:大きい、むぎ:むき貝、二枚貝)を取り、なますを作って差し上げたら、「かしわともべ」という名前を賜りました。千倉にたかべ神社(料理)に「かしわともべ」を奉っています。
「おおひこ」の孫は「いわが」となりました。

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40-89 景行天皇は船で上総へ渡る

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34. 景行天皇は船で上総へ渡る(40-89)

みふね。かづさえ(40-89)
あほのはま みさご。ゑはむを
たみにとふ あれはうむぎと
しづがはむ 


御船は上総湊へ向かい富津付近の浜(あほ=あわ)へ着きました。みさご(雎鳩(しょきゅう)、州鳥(すどり)、うおたか、とも言う)がえさを取っているのを見て漁民に聞いた所、あれはうむぎ(う=大きい、むぎ=むき貝、ハマグリ)といって貧しい(しづ)人が食べる(はむ)ものです。

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40-87~88 虎柏(とらがしわ)現れ、目黒を賜る

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33. (40-89)

ここで、虎柏(とらがしわ)が景行天皇の前に現われます。

とらがしは さかき。みすがた(40-87)
たてまつる きみ。みたまえば
やまとたけ いけるすがたに
あふごとく ひとたびあひて(40-88)
よくにたる かれはめぐろと
そのさとを なつけたまわる


虎柏は榊にヤマトタケの御姿の人形を献上しました。景行天皇が、これを見てヤマトタケがまるで生きているようによく出来ている。まるで再会したようだ。一回会っただけなのによく似ている。しかるが故に、この地を目黒と名付け、そしてこの土地を賜りました。

かみすがた おほやまみねに(40-88)
やしろなす (40-89)


ヤマトタケの榊みすがたを大山の峰に社を作ってお祀りしました。

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40-86 景行天皇は東国相模で、まし・てしと涙す

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32. 景行天皇は東国相模で、まし・てしと涙す(40-86)

あづまぢえ ゆけばさがむに(40-86)
みあえなす まし。てし。おがみ
なき。いわく ひめほろぼして
まみえ。ゑす きみもなんだに(40-87)


景行天皇が東路へ旅立ち、相模の小野の館(おとたちばな姫の実家、厚木市)で接待を受けました。「さくらねまし」(左大臣、左近)、「ほつみてし」(右大臣、右近)は拝謁して泣きながら申し上げるには、姫(おとたちばな姫)を亡くしてしまいました。
景行天皇もこれを聞いて涙しました。


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40-85 告げによりヤマトタケを熱田神に

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31. 告げによりヤマトタケを熱田神に(40-85)

むかしいわくは(40-84)
ひとはかみ かみはひとなり
なもほまれ みちたつのりの
かみはひと ひと。すなほにて(40-85)
ほづまゆく まことかみなり


景行天皇が思いだしながら、昔、「はなひこ」(ヤマトタケ)がこう言いました。
人は皆、神であり、また、神は人である。手柄を立て、名をあげて人の模範となる生き方を教え示した者が神と崇められる。人は素直に秀でた真のほづまの道に従えば自ずと神の路へ入れます。

つげにより なもあつたがみ(40-85)

君(景行天皇)は夢の中で神の告げを受けてヤマトタケをここで熱田神と名付けました。(今の熱田神宮のことです。)

みやずひめ いつきにくらべ(40-85)
かんぬしも みやづかさ。なみ(40-86)


宮づ姫(ヤマトタケの後の妻)は伊勢のいつきの宮に較べる位の立場でありました。そのときの神主も伊勢神宮並みの力がありました。


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40-84 迷いを諭す神の啓示

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30. 迷いを諭す神の啓示(40-84)

きみさめいわく(40-83)
かみのつげ われはいやしき
ひかわがみ もとにかえると
めぐみこる まよひをさとす(40-84)
しめしなり 


君(景行天皇)が夢から覚めておっしゃるには、これは神のお告げである。本当は私は賤しい氷川神です。望みを達した今、元の所(氷川)に帰ります。と、親子の恵(溺愛、拘り)に凝り固まっているのを断ち切るために、私の迷いを諭す啓示です。


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40-77~83 景行天皇が夢の中で

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29. 景行天皇が夢の中で(40-77~83)

 そのよのゆめに(40-77)
つしまもり しらいとりなる(40-78)
やまとたけ いわく。おゝがみ
そさのおに いわく。いかんぞ
くにたぞむ あめのりなせば
くにのかみ おしえのうたに(40-79)


その夜、夢の中で津島守(社)からヤマトタケが白凰になって現われて言いました。天照神が、ソサノウに如何ぞ国望がと言って天の宣(のり)をして国の神(ソサノウ)を教えの歌で諭しました。

あめがした やわしてめぐる(40-79)
ひつきこそ はれてあかるき
たみのたらちね


この天の宣(のり)は国の指導者たる者、天下(天が下)あまねく平等に巡る太陽や月のように晴れて明るく照らして民の父母と慕われるようでなければなりませんという諭しです。

これとけず つみにおつるを(40-80)
いふきがみ ひきて。かみとす


しかし、ソサノウはこの教えが解けずついに宮中から追放されてしまい、下民(したたみ)に落ちてしまいましたが、伊吹神に拾われて神になりました。(帰り咲きました)



ににぎねは このこころもて(40-80)
ほづまゑて あまきみとなる

天孫ニニキネはこの天照神の精神を持って、民を豊かに国を平和に導いたのでホツマ国を与えられて天君(あまきみ)となられました。

うらやみて かりの。おやこぞ(40-81)
みことうけ


ソサノウは天君になったニニキネが羨ましくて、仮の親子としてみことのりを受けてこの世に帰ってまいりました。父(景行天皇)の子(ヤマトタケ)になりました。

 き。つ。むけ。かえる(40-81)
かみしづか まみえてほぞち
あつさたす たらちのめくに
うまざるや (40-82)


東(き)西(つ)を平定(むけ)して、父の元に帰った今、神の心は安らぎ静かです。目見える(まみえる)ことが出来、まくわうり(ほそち)を頂いていると、あの熱さも嘘のように癒されました。


おりかぞえうた(40-82)
わがひかる はらみつにしき
あつたがみ もとつしまはに(は:衣)
おれるかひかわ


数え歌
我が光る 蓬菜参錦織(はらみつにしき)で飾られた熱田神(ヤマトタケ)に納まっていますが、本当は貧しい氷川の放浪者に似つかわしい綴れ(つづれ)布を織ってもらいたかったです。

みたびのべ しづのすがたに(40-83)
くもがくれ 


三度この歌を述べると賤(しず)の姿に身を変えて雲へ隠れてしまいました。(ここまでは景行天皇が夢で見た内容です)


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40-75~77 景行天皇は尾張の宮でにぎてを捧げた

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28. 景行天皇は尾張の宮でにぎてを捧げた(40-75~77)

なさんと。いせに(40-75)
みゆきなり をはりつしまに
いたるとき むらじ。むかえば(40-76)
このごとく
 

まず、伊勢に詣でました。そして、尾張の津島に着いたときのことです。尾張の連(むらじ)が出迎えに伺うと、君(景行天皇)は我が子に再会できたようにお喜びになりました。

ともに。おほまの(40-76)
みやにいり みつからつくる
にぎてたて いわくおやこの
ゆぐりなふ わかれあわねば(40-77)
わすられず みずから。きたり
にぎてすと やゝひさしくぞ
いたましむ


そして、お二人でおほま(愛知田:熱田神宮)の宮に入り自らお作りになった和幣(にぎて)を御前に立てました。
ここには既にヤマトタケ(景行天皇の息子)が祀られているところです。
親子でゆっくり過ごすこともなく、先立たれて分かれに遭わなければならないということが忘れられないので、こうやって自ら来ました。
こうして和幣(にぎて)を捧げましょう。と長い間、神の前に居られるのはお痛ましいお姿でした。

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40-75 景行天皇はこうすが平定した国々を巡ることを決意

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27. 景行天皇はこうすが平定した国々を巡ることを決意(40-75)

いそみほ。ほづみ(40-74)
みことのり かえりをもえば
やむひなし こうすがむけし
くにめぐり


五十三年八月、君の詔がありました。顧り思えば悲しみが一日として止む日はなかった。こうす(ヤマトタケ)が平定(むけ)した国々を巡ってみようと思い立ちました。

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40-74~75 やさかいり姫が中宮に昇格


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26. やさかいり姫が中宮に昇格(40-74~75)

あふみなか やさかいりひめ(40-74)
うちつみや 


七月七日「やさかいり姫」は中宮(うちつみや)に昇格しました。


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40-69~74 妃のいらつ姫の葬儀

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25. 妃のいらつ姫の葬儀(40-69~74)

ゐそふほさつき(40-69)
すえやかに きさきいらつめ
かみとなる (40-70)


まきむき宮五十二年五月二十八日(末の八日)に中宮(きさき)の播磨おいらつ姫(ヤマトタケの母親)がお亡くなりました。

みをくりのりは(40-70)
あつたのり をほたんやわけ
みけかしぎ ちりひるめしと
もるひらで ぬのをしひめに
いたゞかせ (40-71)


葬儀の典(のり、式典)は熱田典(ヤマトタケの時と同じやり方)で行いました。おほたんやわけ(崇神天皇の子供)はみけを蒸し(かしぎ)て、霊在(ちり)日霊飯(ひるめし)を器(陶器、ひらで)に盛りました。
そして、ぬのし姫(景行天皇のお嬢さん)がこの器(ひらで)を神に捧げました。

ここからは葬儀の行列の様子の説明です。

そふたんやわけ(40-71)
さきかりに つぎは。ひめみこ
すけうちめ をしもあおめら
みそりそふ


祖父の「おおたんやわけ」が行列の先頭(さきがり)に立ちました。次は姫の御子さんが続き、すけ妃、うちめ、おしも、女官たち(あおめら)三十人が添うように続きました。

 つぎ。もともとの(40-71)
やいろはた かみことよそや(40-72)
(かみのとよそや:小笠原写本)
わけそめて きびのいゑとみ
もちならふ たてものくもに
かけはしと かすみにちどり


次は元々の八本の八色で染めた幡に神様の名前四十八(よそや)音(あ・か・は・な・ま・・・・・・・し・ゐ・た・ら・さ・や・わ)を書いています(染めて)
吉備津彦の家臣たちがこの幡を持って並びました。立ち並んだ幡(旗)は天(雲)への架け橋のように思われました。空には霞みに千鳥が鳴いていました。


きび。はりま えとのたけひこ(40-73)
よはぎしを まてにならびて
みはしらは うちみやのとみ
みこしまえ みこはみおすえ


吉備武彦と弟の播磨おと(弟)武彦は世箒(よはきし:世を清める)を持って両手(左右)に並んで行きました。
御(天)柱(霊が行き来する)は中宮の直属の大臣が柩の前を進みました。皇子(景行天皇の)は遺体の後に続きました。

おしかとは うつよひのをみ(40-74)
こしにのる もろ。をくりけり


勅使は太陽を映すことを司る大臣で神輿に乗って参列しました。庶民たち(もろ)も続いてお送りしました。

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40-68~69 わかたりひこを世継ぎの皇子に(後の13代成務天皇)

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わかたりひこを世継ぎの皇子に(後の13代 成務天皇)(40-68~69)



はづきよか わかたりひこを(40-68)
よつぎみこ たけうちすくね(40-69)
むねのとみ みこ。と。たけうち
をなひどし 


八月四日に「わかたりひこ」を皇太子(世継ぎ皇子)に昇格しました。(後の13代成務天皇になる)
「たけうちすくね」を棟梁(統率者、むね)の臣に取り上げました。皇子(わかたりひこ)と「たけうちすくね」は同い年です。

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40-66~68. わかたりひこ七草の見あえに参加せず

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23. わかたりひこ七草の見あえに参加せず(40-66~68)

よそむほのはる(40-66)
なゝくさの みあえにうたの
ひかずへる
 

まきむき四十六年の春(新年)、七草がゆのお祝い(みあえ:祝い、宴会、接待、見合い)のとき歌で遊んで何日も経って(経る)しまいました。

わかたりひこと(40-66)
たけうちと うちにまいらず(40-67)


「わかたりひこ」(後の成務天皇)と「たけうち」はこのお祝いに参加しませんでした。

かれめして とえばもふさく(40-67)
えらくひは あそびたわむれ
ことわする くるえどあらば
うかゞわん (40-68)


しかるが故に(かれ)二人を呼んで、来なかった理由を問いただしたらこう返事しました。宴会(えらく:悦楽)で遊び戯れていると、人の心もなえて大切なものを忘れてしまいます。(葬儀後まだ一年も経っていないのに)狂ったもの(悪魔)が狙っているかも知れません。


かれにみかきを(40-68)
まもりをる きみきこしめし
いやちこと あつくめくみて


というわけで(かれに)垣(御垣、垣根)を守っていました。君(景行天皇)はこれを聞いてまさにその通り(いやちこ:同意)と心から誉めました(褒章を与えました)


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40-64~66 えぞのとりこ5人を分散

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22. えぞのとりこ5人を分散(40-64~66)

いせにそえいる(40-64)
ゑぞゐあり いやまいあらず
やまとひめ とがめみかどえ
すすめやる みもろにをけば


大鹿島命(初代伊勢神宮)の添え人になった伊勢にいる蝦夷の五人は敬いの心がないので、「やまと姫」は咎めて帝へ送り直接監視しました。

ほどもなく きを。きりたみを(40-65)
さまたげる きみのたまわく
ゑみしらは ひとこゝろなく
をきがたし まゝにわけをく
はりま。あき あわいよ。さぬき(40-66)
さえきべぞ 


理由(ほど)もなく木を切り、住民に迷惑をかけている。
君(景行天皇)がおっしゃるにはこの五人の蝦夷たちは人としての心を持ち合わせていないのでこのまま置いておく訳にはいかない。距離をおいて分けて置くことにする。
播磨、安芸、阿波、伊予、讃岐に一人づつばらばらに配置し、後に佐伯という名前になりました。

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40-62~64 神送りの儀式

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21. 神送りの儀式(40-62~64)

をほまとのより(40-62)
みやうつし さおしか。にぎて
みことあげ このとき。おしか
たゝねこと をはりむらしと(40-63)
にいはらの をほまのかみと
なづくなり
 

大真殿より新宮(現在の熱田神宮)へ霊を移して勅使(天皇のさおしか、清い鹿)がにぎて(しで)を持って詔(のりと)をあげました。このときの役をたまわったのが大田根子と尾張の連の二人で、この二人を新しい宮(熱田神宮)の大間の神と名付けました。

かみをくるとき(40-63)
よをいなむ ちりひるめしと
のこるなり (40-64)

神送り(葬儀)のとき世を辞む高希な食事(霊在(ちり)日霊飯(ひるめし)とのりとを唱えました。

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40-57~62 宮簀(みやづ)姫は御食を捧げ、白凰が食いばむ


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20. 宮簀(みやづ)姫は御食を捧げ、白凰が食いばむ(40-57~62)

よにますごとく(40-57)
みやずひめ きりひのかゐを
もる。ひらべ いたゞき。さきに(40-58)
いりまちて みまえに。そなえ
もふさくは


生前と同じように(よにますごとく)宮簀姫は、自ら切り火を起こして、神饌用のご飯を炊いて、平瓮(ひらべ)に盛って頭上に捧げ(頂き)ました。先導して大真殿に入って、皆が揃うのを待って、神前にお供えして申し上げました。

 このみけむかし(40-58)
いぶきより かえさにさゝぐ
ひるめしを みづからかしぎ(40-59)
まちをれど よらでゆきます
ちゝくやみ いま。またきます
きみのかみ むべうけたまえ


この御食(みけ)は昔、伊吹山からのお帰りの時に捧げるつもりだった昼飯です。
あの日、自ら食事を炊いでお待ち申し上げたのにどうして、私の元にお立ち寄りされずに遠くへ行ってしまわれたのでしょうか。私も君の後を追って行くべきだったと今は千々(ちぢ)に悔やまれてなりません。今宵は又、君は私の元に神の君となってお帰り下さるのですね。どうぞごゆっくりお召し上がりください。(むべ:果物、おいしいもの、良いもの、むべなるかな)

これは宮づ姫の十九歌(つづうた)です

ありつよの あいちだにまつ(40-60)
きみがひるめし


君が生前(ありつよ)の居られるままの愛知田で待ち続けた私の作った日霊飯(ひるめし)でございます。

みたびのり いざよふつきの(40-60)
ほがらかに しらいとりきて
これをはみ なるしらくもに(40-61)
かみのこえ こたふつヾうた


宮づ姫は霊前で三度宣(のり)して渡しました。
空は十六夜月が明るく照らして透き通っていました。
何処からともなく白凰(しらいとり)が舞い降りてきて御食(みけ)をついばみ(はみ)、再び舞い上がって白雲の彼方に消えていきました。
そのとき、神の声の十九歌が答えられました。

ありつよの はらみつほしき(40-61)
ちりをひるめし


生前の世(ありつよ)の腹一杯食べたかったが(ハラミヤとかけている)霊在(ちり)を日霊飯(ひるめし)(心のこもった食事を頂きたかった)
「ありつよの」が同じで「きみがひるめし」と「ちりをひるめし」が対応しています。

くしひるを まことにをそれ(40-62)
をがみさる 


くしひる(天照大神)の霊妙な奇跡を皆おそれ(感極まって)いたたまれなくなって(尊敬の念を含めて)宮簀姫を残したままその場を去りました。

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40-51~57 御幸の行列、野褒野(のぼの)から愛知田まで

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19. 御幸の行列、野褒野(のぼの)から愛知田まで
(40-51~57)


ここからヤマトタケの葬儀の神輿の行列の説明です。

ひしろ。よそよほ(40-51)
やよひそひ たそかれよりぞ(40-51)
みこしゆき のぼのをひかし
もろつかさ かたむ。たひまつ
さきかりは さかきにふそり
そえかふど


日代の宮の四十四年三月十一日の黄昏より、神輿が能褒野(のぼの:三重県)を発って東の愛知田の宮(後の熱田神宮)へと進みました。大勢(もろ)の司(つかさ:国史)達は、松明で白神輿を囲んで守りました。先駆(さきがり:先頭)は、榊を持った二十人の副神主(そえかふど)が行きました。

 さるたひこかみ(40-52)
みかほあて かふどやたりを(40-53)
やもとはた をゝかふどのは
かふり。みは みはしらもちて
とみやたり をしやますくね
かふり。みは よはきしもちて(40-54)
とみむたり 


猿田彦神は天狗のお面(みかほ:御顔)を当てた神主八人が八元幡(と・お・か・み・え・ひ・た・み・八神を祭る八色の幡)を掲げて進みました。
大神主殿(おおかふどの)は冠をつけ正装(みは:御衣)して御柱(天国へ送るため)を持って大臣八人が進みました。穂積氏忍山宿禰(おとたちばな姫の親になった)は冠をつけ正装(みは:御衣)して進みました。大臣六人は世箒(よはきし:世を清める)を持って進みました。

きびたけひこも(40-54)
をなじまえ をゝたんやわけ
かふり。みは つるぎさゝげて


吉備武彦も同じ衣装で進みました。大多牟爺別(おおたんやわけ)は冠をつけ、正装(みは:御衣)して剣を捧げて進みました。

とみそたり みこし。あをほひ(40-55)
おさのとみ いえばとみそり
みおずへは きぬふたながれ
よたけやた みこみおすえに
すがりゆく(40-56)


大臣十人は、神輿に傘(あ:天を覆う)を掲げていました。長老(おさ)の大臣に使用人三十人が従っていきました。御緒末(みおずえ)は神輿に四丈八尺の絹で括って玉の緒の先(御子御緒末)に縋りついて送って行きました。


 あまてるかみの(40-56)
のこるのり いわいさおしか
とみそふり つぎみゆきもり
もろづかい みなをくりゆく
よなかまで (40-57


天照神をお送りした時と同じ典(のり:法典)に従いました。葬儀(いわい)を仕切る勅使(さおしか)は大臣十二人で行きました。次に御幸の時の道路奉行、大勢の司達が御幸守を兼(送り行く)ねました。行列は夜中まで続きました。

かくむよいたり(40-57)
はらみやの をほまのとのに
みこします 


このようにして六日の夜を過ぎて(初七日)、ハラ宮(新装なった、亡くなってから建てた)の大間の殿に神輿を据えました。




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40-48~51 愛知田(あいちだ)に新宮を落成祝いの詔

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18. 愛知田(あいちだ)に新宮を落成祝いの詔(40-48~51)

ここで場面が変わります。

ちゝははらみの(40-48)
ゑをうつし みやこに。のぼり
わかみやの ねがひのまゝを
もふしあげ あいちだにたつ(40-49)

宮づ姫の父むらじは、ハラ宮(蓬莱宮:浅間神社)の建物を絵に書き写し取り都に登り(戻り)ました。若宮(ヤマトタケ)の願い通りに申し上げて許可を取り、愛知田(愛知県(あがた):熱田神宮)にハラ宮と同じように宮殿を建てました。

みやなりて わたましこえば(40-49)
みことのり たゝねこいはふ
さをしかど むらじ。かふとの


宮殿が出来上がり、新築落成(わたまし)を祝って、景行天皇は詔をされました。大直根子(タタネコ)は斎主(いわいぬし:いわう=葬儀の時も使った)として勅使人(さおしか)を務めなさい。尾張の連(むらじ)は神主(かんどの:かふとの)を務めなさい。

みこたちを みゆきのそなえ(40-50)
をごそかに 


皇子たちは神幸(みゆき)の備えに当たりなさい。そうして、厳かに進められました。


ことひきはらの(40-50)
みさゝきに をちしおはよつ
ふるいちの おはよつともに
もちきたり(40-51)


琴弾原(ことひきはら:奈良県御所市)の陵(みささぎ)に落ちた尾羽四枚と、河内の古市の陵に落ちた尾羽四枚も、共に持って来ました。

 のぼのの。かふり
さくみはも みたまげにいれ
しらみこし (40-51)


能褒野(のぼの:三重県地名)の君(ヤマトタケ)の冠、笏(さく)、御衣装(みは)の三点も御霊笥(みたまげ:ひつぎ)に入れて白神輿に納めました。

ジョンレノ・ホツマ
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40-48~51 愛知田(あいちだ)に新宮を落成祝いの詔

18. 愛知田(あいちだ)に新宮を落成祝いの詔(40-48~51)

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ここで場面が変わります。

ちゝははらみの(40-48)
ゑをうつし みやこに。のぼり
わかみやの ねがひのまゝを
もふしあげ あいちだにたつ(40-49)


宮づ姫の父むらじは、ハラ宮(蓬莱宮:浅間神社)の建物を絵に書き写し取り都に登り(戻り)ました。若宮(ヤマトタケ)の願い通りに申し上げて許可を取り、愛知田(愛知県(あがた):熱田神宮)にハラ宮と同じように宮殿を建てました。

みやなりて わたましこえば(40-49)
みことのり たゝねこいはふ
さをしかど むらじ。かふとの


宮殿が出来上がり、新築落成(わたまし)を祝って、景行天皇は詔をされました。大直根子(タタネコ)は斎主(いわいぬし:いわう=葬儀の時も使った)として勅使人(さおしか)を務めなさい。尾張の連(むらじ)は神主(かんどの:かふとの)を務めなさい。

みこたちを みゆきのそなえ(40-50)
をごそかに 


皇子たちは神幸(みゆき)の備えに当たりなさい。そうして、厳かに進められました。


ことひきはらの(40-50)
みさゝきに をちしおはよつ
ふるいちの おはよつともに
もちきたり(40-51)


琴弾原(ことひきはら:奈良県御所市)の陵(みささぎ)に落ちた尾羽四枚と、河内の古市の陵に落ちた尾羽四枚も、共に持って来ました。

 のぼのの。かふり
さくみはも みたまげにいれ
しらみこし (40-51


能褒野(のぼの:三重県地名)の君(ヤマトタケ)の冠、笏(さく)、御衣装(みは)の三点も御霊笥(みたまげ:ひつぎ)に入れて白神輿に納めました。


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40-42~48. 宮簀(みやづ)姫に残した歌

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17. 宮簀(みやづ)姫に残した歌(40-42~48)

また、此処で辞世の歌がいくつか挿入されています。

やまとたけ をばよりたまふ(40-42)
くさなぎを ひめのやにおき(40-43)
(むらぐもを ひめがやにおき:小笠原写本)
いぶきやま かえさはいせぢ
(かえりいせぢに:小笠原写本)
いたはれば みやこ。おもひて


ヤマトタケが、伯母さん(ヤマト姫)より賜った、草薙の剣を宮簀姫(ミヤヅヒメ)の家に置いたまま、伊吹山に登り足を痛めてしまい、宮簀姫の家に寄らなかったので家族を心配しながら、都に早く戻らなければならないという思いをはせて歌ったづづ歌(十九音)です。

「むらぐも」が「くさなぎ」に名前が変わったのは富士の裾野でエミシに騙され火を放たれた時、草を薙いだ所からです。(39-26)参照 
多分どちらかの何代目かの写本で虫食いがあり、その部分が読めず前後関係から推測したものと思われます。その他にも、何箇所かありました。

はしきやし。わきべの(40-43)
かたゆ。くもいたちくも(40-44)


愛(は)しきやし 我家辺(わきべ)の
方ゆ雲居(くもい)立ち雲

のこしうた みこやうからに(40-44)
をりあひの つずはやかたで
いでたつは たびやにあえる
まろびとゝ まよひのこさぬ(40-45)
さとしうた ふかきこゝろの
みちびきぞこれ


この遺歌(のこしうた)は自分の皇子(みこ)や親族(うから)に折り合いの十九(つず)は館(「か」が真ん中の10番目のこと?)で出で立つは旅館(たびや)で会える客人(まろびと)と思いなさい。
迷いを残さぬように諭した歌で、深き君の御心の導きです。

のぼのにて かみなるときに(40-45)
のこしうた みやづひめえと(40-46)
あいちだの をとめがとこに
わがをきし いせのつるぎの
たちわかるやわ


能褒野(のぼの:三重県地名)で神上がられるとき(神になる)に宮簀姫に歌を遺しました。
愛知田の乙女が床に私(我)が置いてきた伊勢の剣の立ち別るやわ

このわかは いもせのみちは(40-47)
つらなりて たちわかるれど
つりのおは きれはせぬぞと
みちびきを たつるあめのり


この歌は妹背(愛し合う女と男。夫婦)の道は連綿と続いて、たとえ我が剣のように、別れても吊りの緒は決して切れはしない、という導きをはっきりさせた神の教示です。

みやずひめ もたえたえいり(40-48)
やゝいけり 


宮づ姫は、悲しみのあまり息も絶え絶えに悶え泣き、生きているのがやっと(漸:やや)でした。


ジョンレノ・ホツマ
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40-38~42宮簀(みやづ)姫の出迎えにヤマトタケの歌と返歌

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16. 宮簀(みやづ)姫の出迎えにヤマトタケの歌と返歌(40-38~42)

此処から、話は生前の時に戻ります。

みやづひめ ねまきのまゝに(40-38)
いでむかふ ひめのもすそに
つきおけの しみたるをみて(40-39)
やまとたけ みしかうたして


君(ヤマトタケ)が尾張の宮へ帰ってこられたとき宮簀姫(ミヤヅヒメ)は生理にあたっていました。うれしさの余り、寝巻き姿のまま出迎えてしまいました。そうしたら、寝巻きの裾に月経血(つきおけ)の染みているをみてヤマトタケは即座に歌を作って知らせました。

ひさかたの あまのかぐやま(40-39)
とがもより さわたりくるひ
ほそたわや かひなをまかん(40-40)
とはすれど さねんとあれは
をもえども ながきけるその
つきたちにけり


久方の天の香具山、遠鴨よりさ渡り来る日 細手弱や 腕(かいな)を巻かんとはすれど さ寝んとあれば 思えども 汝が着ける裾の 月経ちにけり。
生理(月経)のことを「つきたち」と言っていたことがわかります。

ひめかえしうた(40-41)
たかひかる あまのひのみこ
やすみせし わがをほきみの
あらたまの としがきふれば(40-41)
うえなうえな きみまちがたに(40-42)
わがきける をすひのすそに
つきたゝなんよ


宮簀姫(ミヤヅヒメ)は直ぐに返歌をされました。
高光る 天の日の皇子 休みせし 我が大君の
新玉の 年が来、経れば 宣えな宣えな 君待ち難たに 我が着ける 襲いの裾に 月経たなんよ


ジョンレノ・ホツマ
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40-33~38ヤマトタケの家族構成

15. ヤマトタケの家族構成(40-33~38)

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以降ヤマトタケの家族構成です。

やまとたけ いますのまごの(40-33)
たんやがめ ふたぢいりひめ
うむみこは いなよりわけの(40-34)
たけひこと たりなかひこの
かしきねと ぬのをしひめと
わかたけぞ


1番目のお妃:
坐増王(イマス)の孫大多牟爺別(タンヤワケ)の娘の(1妃)両道入姫(フタジイリヒメ)が生んだ御子さんは
1男:稲依別王(いなりよりわけ)の建彦、
2男:足仲彦・仲哀天皇(たりなかひこ)の香椎杵(かしきね)
1女:布忍入姫(ヌノヲシヒメ)と
3男:稚武王(わかたけ)です。

 きびたけひこが(40-34)
あなとたけ うちつまに。うむ(40-35)
たけみこ。と ときわけ。となり


2番目のお妃:
吉備武彦の娘の(2妃)穴戸武姫(あなとたけ)が内妻で生んだのは武見児王(たけみこ)と十城別王(ときわけ)でした。

おしやまが をとたちはなを(40-35)
すけつまに わかたけひこと
いなりわけ あしかみかまみ(40-36)
たけこがひ いきながた。わけ
ゐそめひこ いがひこ。らうむ


3番目のお妃:
穂積氏忍山宿禰の養女(3妃)緒止立花姫(オトタチバナヒメ 紀:弟橘媛・記:弟橘比賣)は典妻(すけつま)になって生んだ御子さんは
1男:稚武彦王(わかたけひこ)と
2男:稲入別王(いなりわけ)、
3男:葦敢蒲見別命(あしかみまみ)、
4男:武養蚕命(たけこがひ)、
5男:息長田別命(いきながたわけ)、
6男:五十目彦王命(いそめひこ)
7男:伊賀彦王(いがひこ)たち男7人を生みました。

をはりがめ みやづひめまた(40-36)
のちのつま たけたとさえき(40-37)
ふたりうむ そよを。ひめあり


4番目のお妃:
尾張の姫の(4妃)宮簀姫(ミヤヅヒメ)は後の妻(後妻)が生んだ御子さんは
1男:武田王(たけだ)、
2男:佐伯命(さえき)を生みました。

ヤマトタケは合計十四男と一女を儲けました。


後妻のことを「後(のち)の妻」と言っていたのが漢字が当てはめられた結果、いつの間にか音読みになってしまったようです。

この宮簀姫(ミヤヅヒメ)と他の3人のお妃「先の妻」と区別するために「後の妻」といったのが元になったと思います。

さきのつま みなかれいまは(40-37)
みやづひめ ひとりあわんと
はらみより こゝろほそくも(40-38)
かけはしを しのぎのぼれば


先の妻(1妃)両道入姫(フタジイリヒメ)、(2妃)穴戸武姫(あなとたけ)、(3妃)緒止立花姫(オトタチバナヒメ)の3人は皆死んで(かれる)亡くなっており、今は宮簀姫(ミヤヅヒメ)一人がはらみより心細くとも天の懸け橋を耐えて(偲んで)登りました。

人間が死ぬことも枯れるという表現をとっていたことが分かります。

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