ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)39

 (最新見直し2009.3.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ホツマツタエは、古代大和ことばのホツマ文字といわれる図象文字で綴られた全文で40アヤ(章)、五七調で一万余行に及ぶ叙事詩で、大和王朝前の御代の神々の歴史、文化、精神を詠っている。作者は、前半の天の巻、地の巻の1章~28章を櫛甕玉命(クシミカタマの命、鴨彦、神武時代の右大臣)、後半の人の巻29章~40章を三輪の臣である大直根子命(オオタタネコ、三輪秀聡、景行天皇時代)が編纂、筆録したと記されている。古事記、日本書紀と原文で詳細に比較するとホツマツタエを原本としている事が判明しており、いわば記紀原書の地位にある。

 2009.3.19日 れんだいこ拝


【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)39、ホツマ討ち連歌の文】
 ヤマトタケルの東征とオトタチバナ姫

39綾 目次

39綾 目次

1. ヤマトタケがなぜ東征に(1~5)
2. ヤマトタケ東征に行く決意(5~9)
3. 景行天皇はヤマトタケに御矛(みほこ)を授けた(9~13)
4. ヤマトタケ東征へ、ヤマト姫から「むらくもの剣」を授かる((13~17)
5. 橘元彦を味方につける(17~21)

6. 御幸狩り決定、「おとたちばな姫」を先に実家へ(21~23)
7. 計略に遭うが秘密(火・水・土)の祓いで賊軍(あだいくさ)を焼き滅ぼす(23~26)
8. 相模の城へ南北に分かれて敵を挟み撃ち(26~31)
9. 「おとたちばな姫」と再会を喜ぶ(31~34)

10. 上総へ船で、嵐に遭い「おとたちばな姫」は竜の身代わりに(34~36)
11.上総にて(37~38)


12.勿来に行宮(あんぐう)を建て滞在、竹の湊で行く手を拒まれる(38~39)
13.大伴武日を勅使に、島津の神は降伏(39~40)
14大伴武日、日高見陸奥の言い分を聞く(40~46)
15.大伴武日が論証で日高見陸奥を説得(47~55)
16. ヤマトタケは陸奥を許し年貢を捧げさせた(55~60)


17. 東北からの帰途で(60~67)
18. つずうた発祥、早百合姫の歌(67~72)
19. つずうたの説明(73~79)
20. 神武天皇が日向に行ったときの流行(はやり)歌も(79~84)

21. 相模の館にて 虎柏(とらかしわ)鐙(あぶみ)を差し出す(84~86)
22. おとたちばな姫を祀る(86~89)
23. 大宮(氷川神)を建てる(90~91)


24. 関東をあとに、東の元(92~94)
25. 吉備武彦は越路へ、武日は土産を持って帝へ(94~95)

26. ヤマトタケは単独木曽路へ(95~98)
27. 美濃にて吉備武彦と再会(99~100完)
ほつまうちつすうたあや     ホツマ討ち 連歌の文
まきむきの ひしろよそ    纏向の       日代の四十年
せみなつき ほつまさわけは    六月        ホツマ 騒げば
さかおりの たけひのほりて    サカオリの     タケヒ 上りて
みかりこふ きみもろあつめ    恵り 請ふ      君 諸 集め
のたまわく ほつまのゑみし    宣給わく      「ホツマのヱミシ
かすめると たれひとやりて    掠めると      誰人 遣りて
むけなんや もろひといわ    平けなんや」    諸人 言わず
やまとたけ さきにはとみ    ヤマトタケ     「先には臣等
にしうつ ひかしおうつは    西を討つ      東を討つは
もちひとそ ときおほうす    モチヒトぞ」    時にオホウス
わななきて かくるるお    慄きて       野に隠るるを(都を逃れ美濃に)
よひめして きみせめいわく    呼び召して     君 責め曰く
いましあに しいやらんや    「汝 あに      強いて遣らんや
おそるるの あまりみのお    恐るるの      余り」と美濃を
まもらしむ ときやまとたけ    守らしむ      時 ヤマトタケ
おたけひて にしむけまなく    お猛びて      「西 平け 間無く
またひかし いつかおよはん    また東       何時 及ばん
たとえとみ いたわるとても    たとえ臣      労るとても
むけさらん            平けざらん」
ときにすへらき              時に皇
ほこもち われきくゑみし    矛を持ち      「我 聞く ヱミシ
むねしのき あれおさなく    胸 凌ぎ       粗長も無く
むらきみ あひおかしえる    村君等       相侵し 得る
やまあらし かたましものや    山荒し       佞まし者や
ちまたかみ なかにゑみし    ちまた守      中にヱミシら
めをませて しむみちかけて    女男 交ぜて     シム道 欠けて
あなすみ けししはみて    穴に住み      穢肉を食みて
けころも めくみわすれて    毛衣 着       恵み 忘れて
あたなし ゆみよくいる    仇を為し      弓も良く射る
たちまいも たくいあつめて    立ち舞いも     類 集めて
かくれんほ のやまはしる    かくれんぼ     野山を走る
わさて あまなるみちに    技を得て      天なる道
まつろは いまわれおもふ    服わず       今 我 思ふ
いましこそ すかたきらしく    汝こそ       姿 煌しく
ももちから ゆくさわら    百力        行くに障らず
 せめかつ すなはちしれ    攻めば勝つ     則ち知れり
わか まことかみの    身は我が子     真は神乗
われくらく むけさるみよお    我 暗く       平けざる世を
つかしめて たえさらしむる    継がしめて     絶えざらしむる
なんちこそ あめかしたしる    汝こそ       天が下 領る
くらひなり ふかくはかりて    位なり       深く謀りて
いつふせ めくみなつけ    稜威に伏せ     恵みに懐け
ほつまなし かたましものお    ほつま 為し     佞まし者を
 かんつに まつろはよと    上つ治に      服わせよ」と
さつけます            授けます
 ほこうくる              御矛を受くる  (征夷大将軍の璽)                                         (カゴ弓ハハ矢と同じ)
やまとたけ むかしみたまの    ヤマトタケ     「昔 御霊の
ふゆより くまそむけぬ    映により      クマソを平けぬ
いままた みたまによりて    今もまた      御霊に依りて
ふゆおかり あたさかいに    映を借り      仇の境に
ゆきのそみ まつろはさらは    行き臨み      服わざらば
うつへしと おかみきひの    討つべし」と    拝みて 吉備の
たけひこと おおともたけひ    タケヒコ (吉備武彦) と     オオトモタケヒ (大伴武日)
したかえ ななつかはきお    従えり       ナナツカハギ
かしはてと            膳方と  
かなつきに              十月二日に
かとてて みちよこきり    門出して      道を横切り
いせの かみいのりて    七日 妹背の     神に祈りて
いそのみや やまとひめにも    磯の宮       ヤマト姫にも
いとまこひ きみおおせに    暇乞ひ       「君の仰せに
あたうちに まかるあれは    仇討に       罷る」とあれば
やまとひめ にしきふくろと    ヤマト姫      錦袋と
つるきもち をみこいわく    剣 持ち       親王に曰く
あめみまこ そめひみつの    「天御孫      染めし火水の
をんはらひ ひみつさわり    御祓        火水の障り
はらふへし むかしいつもの    祓ふべし      昔 出雲
くにひらく むらくもつるき    国 開く       ムラクモ剣
これなるそ つつしみうけて    これなるぞ     謹み受けて
あたむけよ おこたりと    仇 平けよ      な 怠りそ」と
さつけます            授けます
さきたしまか              先にタジマ(田道間守)が
のこしふみ くにそまされは    遺し文       「国 染まざれば
 かくお んとおもえは    橘の木を      得んと思えば
たちはなの もとひこに    橘の        モトヒコが家に
としふりて なしみめくる    年 経りて      馴染みて巡る
ひたかみと しまつきみに    ヒタカミと     シマツの君
あひしりて ややかくお    会ひ知りて     やや得て橘を
ひかに きみかみなる    引かぬ間に     君 神となる
ちちくやみ いまわかみやに    散々悔み      今 若宮に
たてまつる きみやつかれか    奉る        君 僕が
もとひこに むすふしつくの    モトヒコに     結ぶしづくの (友好・同盟)
みなもとお おほしほつま    源を        思して ホツマ
 しろしめせ            領ろし召せ」
     ココニスヘラキ        ここすへらき              ここに皇

 タケウチト カタリアワセテ  たけうちと かたりあわせて    タケウチと     語り合わせて

 ホツマクニ カクモトヒコオ  ほつまくに かくもとひこお    ホツマ国      橘モトヒコを
                                      <の>

 ミニナシテ タチハナヒメト  なして たちはなひめと    己になして     タチハナ姫と
                                   (味方につけて)      (弟橘姫)

 ホツミテシ サクラネマシオ  ほつみてし さくらねましお    ホツミテシ     サクラネマシを

 サキニヤリ イクサクタレハ  さきやり いくさくたれは    先に遣り      軍 下れば

 ヒタカミカ マネクモトヒコ  ひたかみか まねくもとひこ    ヒタカミが     招く モトヒコ

 ウナツカス サカムノオノニ  うなつか さかむおのに    頷かず       相模の小野に

 シロカマエ テシトマシラト  しろかまえ てしましと    城 構え       テシマシ等と

 モリカタム          もりかたむ            守 固む
 
       ヱミシノヤカラ        ゑみしやから              ヱミシの族

 セメノホル スソノニテアフ  せめのほる すそのてあふ    迫め上る      裾野に出会ふ

 ヤマトタケ ヱソラアサムキ  やまとたけ ゑそあさむき    ヤマトタケ     ヱゾ等 欺き

 ノノシカカ イキキリタチテ  しかか いききりたちて    「野の鹿が     活き鑽り立ちて
                                            (=熱り立つ)

 フミシタク シモトユヒシテ  ふみしたく しもとゆひて    踏みしだく     細枝結ひして
                                            (末枝を束ねると)

 ミチオシル ノソミメクリテ  みちしる のそみめくりて    道を知る      望み回りて
                              (鹿の通った道が判るので)   (探し)

 カリタマエ キミハケニトヤ  かりたまえ きみにとや    狩り給え」     君は「実にとや」
                               <鹿を>

 ユキモトム アタノオヤキテ  ゆきもとむ あたやきて    行き回む      仇 野を焼きて

 アサムケハ シリテキリヒノ  あさむけは しりきりひの    欺けば       知りて鑽火の

 ムカヒヒニ ヒミツノハラヒ  むかひひに ひみつのはらひ    向ひ火に      火水の祓

 ミタヒノル コチフキカワリ  たひのる こちふきかわり    三度 宣る      東風 吹き変り
                                             <に>

 ニシケムリ アタニオフエハ  にしけむり あたにおふえは    西煙         仇に覆えば

 クサオナク モエクサトヒテ  くさなく もえくさとひて    草を薙ぐ      燃え草 飛びて

 アタイクサ ヤキホロホセハ  あたいくさ やきほろほせは    仇軍        焼き滅ぼせば

 ヤケツノヤ ツルキノナオモ  やけつのや つるきおも    焼けつ野や     剣の名をも

 クサナキト アシカラヤマニ  くさなきと あしからやまに    草薙と       足柄山に
                                 [腐退き]
 セメイタル          せめいたる            迫め至る
 
  
       サカムノオノノ        さかむおのの              相模の小野の

 シロセメオ カタクマモレハ  しろせめお かたくまもれは    城攻めを      固く守れば

 アタヤカラ ヨモニタキキオ  あたやから よもたききお    仇族        四方に焚木を

 ツミアケテ ナソカヒテリニ  つみあけて なそかひてりに    積み上げて     七十日 日照りに

 ヒセメナス カワキモユレハ  ひせめなす かわきもゆれは    火攻めなす     乾き燃ゆれば

 ヤマトタケ ヤクラノタケニ  やまとたけ やくらのたけに    ヤマトタケ     矢倉の岳に

 ノホリミテ キヒタケヒコオ  のほりて きひたけひこお    登り見て      キビタケヒコを

 オオイソエ オオトモタケヒ  おおいそえ おおともたけひ    大磯へ       オオトモタケヒ

 オオヤマノ キタニメクリテ  おおやまの きためくりて    大山の       北に回りて

 シロニイレ サネニワカチテ  しろいれ さねわかちて    城に入れ      南北に分ちて

 ヤマトタケ カミスキキヨメ  やまとたけ かみすききよめ    ヤマトタケ     髪 梳き清め

 シラカシノ タチオハラミノ  しらかしの たちはらみの    白橿の       太刀ハラミの

 ミハシラト イノルヒミツノ  みはしらと いのるひみつの    御柱と       祈る火水の
                                 (神体)

 キヨハラヒ タツタノカミノ  きよはらひ たつたかみの    清祓        タツタの神の

 アラワレテ コノシロヰケノ  あらわれて このしろゐけの    現れて       高聳池の

 タツノアメ フリヒオケセハ  たつあめ ふりけせは    の雨       降り 火を消せば

 ミヤイクサ イサミテアタオ  みやいくさ いさみあたお    宮軍        勇みて仇を

 ナカハウツ ミナニケチレハ  なかはうつ みなにけちれは    半ば討つ      皆 逃げ散れば

 トキオアケ ムカヒイルトキ  ときあけ むかひいるとき    閧を上げ      迎ひ入る時

 オトヒメハ キミノテオトリ  おとひめは きみとり    オト姫は      君の手を取り
                                 (弟橘姫)

 ヤスンセテ ヤツカレハシメ  やすんせて やつかれはしめ    安んせて      「僕 始め

 オノオノカ マサニヤケンオ  おのおのか まさやけんお    各々が       まさに焼けんを

 イノリマシ イマサイワヒニ  いのりまし いまさいわひに    祈りまし      今 幸に

 オカムトテ ヨロコヒナンタ  おかむとて よろこひなんた    拝む」とて     喜び涙
                                           (嬉し涙)

 ソテヒタス ココニモトヒコ  そてひたす ここもとひこ    袖 浸す       ここにモトヒコ

 モロニフレ マツロハサレハ  もろふれ まつろはされは    諸に告れ      「服ろはざれば

 コロスユエ オオンタカラカ  ころすゆえ おおんたからか    殺す故       大御宝が

 ミカリコフ コトハシメトテ  みかりこふ ことはしめとて    恵り 請ふ」     "事始" とて

 シハスヤカ カクカコタテテ  しはす かくかこたてて    十二月八日     橘篭 立てて

 シルシトス          しるし            標とす
 
       トキヤマトタケ        ときやまとたけ              時 ヤマトタケ

 オオイソオ カツサエワタス  おおいそお かつさわたす    大磯を       上総へ渡す

 イクサフネ タタヨフカセオ  いくさふね たたよふかせお    軍船         漂ふ 風を
                                           (他動詞)

 シツメント オトタチハナハ  しつめんと おとたちはなは    静めんと      オトタチバナは

 ヘニノホリ アメツチイノリ  のほり あめつちいのり    舳に上り      天地 祈り

 ワカキミノ イツオヤマトニ  わかきみの いつやまとに    「我が君の     稜威をヤマトに

 タテントス ワレキミノタメ  たてんと われきみのため    立てんとす     我 君のため

 タツトナリ フネマモラント  たつなり ふねまもらんと    となり      船 守らん」と

 ウミニイル モロオトロキテ  うみいる もろおとろきて    海に入る      諸 驚きて

 モトムレト ツイニヱサレハ  もとむれと ついされは    求むれど      遂に得ざれば

 ナミナキテ ミフネツキケリ  なみなきて みふねつきけり    波 凪ぎて      御船 着きけり
                                              (ツクモか)
 ヤマトタケ カツサニイレハ  やまとたけ かつさいれは    ヤマトタケ     上総に入れば

 サカキヱニ カカミオカケテ  さかきに かかみかけて    榊枝に       鏡を掛けて

 ムカヒマス カトリトキヒコ  むかひます かとりときひこ    向かひます     カトリトキヒコ

 ヒテヒコト イキスオトヒコ  ひてひこと いきすおとひこ    ヒデヒコと     イキスオトヒコ
                                    (カシマ)

 カネテマツ オオカシマヨリ  かねてまつ おおかしまより    予て待つ      オオカシマより

 ミアヱナス          みあゑなす            御饗なす
 
       アシウラコエテ        あしうらこえて              葦浦 越えて
                                          (阿字ヶ浦)

 ナコソハマ カリミヤニマス  なこそはま かりみやます    勿来浜       仮宮に坐す

 ヒタカミノ ミチノクシマツ  ひたかみの みちのくしまつ    ヒタカミの     ミチノク シマツ

 ミチヒコト クニツコヰタリ  みちひこと くにつこたり    ミチヒコと     国造 五人   

 アカタヌシ モモナソヨタリ  あかたぬし ももなそよたり    県主        百七十四人

 ヨロヤカラ タケノミナトニ  よろやから たけのみなとに    万族        タケの水門に

 コハムトキ タケヒオヤリテ  こはむとき たけひやりて    拒む時       タケヒを遣りて
 
 コレオメス シマツノカミハ  これめす しまつかみは    これを召す     シマツの守は
                                            (ミチヒコ)

 アラカシメ イサワニオソレ  あらかしめ いさわおそれ    あらかじめ     威多に恐れ

 ユミヤステ ミマエニフシテ  ゆみやすて みまえふして    弓矢 棄て      御前に伏して

 マツロヒヌ          まつろひ            服ひぬ
 
       タケヒマタユク        たけひまたゆく              タケヒ また行く

 ヒタカミノ ミチノクニツク  ひたかみの みちのくにつく    ヒタカミの     ミチノクに告ぐ

 サヲシカト ミチノクカトニ  さをしかと みちのくかとに    直御使人      ミチノク 門に
                                 (タケヒ)

 イテムカエ ミチノクイワク  いてむかえ みちのくいわく    出で迎え      ミチノク 曰く

 イマナンチ ヒトノスヘラキ  いまなんち ひとすへらき    「今 汝       人の皇
                                       <神ならぬ>

 キミトシテ ツカエルナンチ  きみて つかえるなんち    君として      仕える汝
                                        (「仕ふ」の連体形)

 オトロエリ イマキテクニオ  おとろえ いまくにお    衰えり       今 来て 国を

 ウハワンヤ タケヒノイワク  うはわんや たけひのいわく    奪わんや」     タケヒの曰く

 カミノミコ ナンチオメセト  かみのみこ なんちおめせと    「神の御子     汝を召せど

 マツロハス カレニウツナリ  まつろは かれうつなり    服わず       故に討つなり」

 コタエイフ コレナンノコト  こたえいふ これなんこと    応え言ふ      「これ 何の言
                                       <神の御子とは>

 ナンノイヰ ソレワカクニハ  なんのいゐ それわかくには    何の       それ我が国は

 オオミヲヤ タカミムスヒノ  おおみをや たかみむすひの    大上祖       タカミムスビの
                                           (キノトコタチ)

 コノクニオ ヒラキテナナヨ  このくにお ひらきなな    この国を      開きて七代
                                              (タカキネまで)

 コレオツク ヒノカミココニ  これおつく ひのかみここに    これを継ぐ     日の神 ここに
                                           (アマテル)

 ミチマナフ カレヒタカミソ  みちまなふ かれひたかみそ    道 学ぶ       故 日高みぞ
                                            (日神が学び高まる所)

 アメノミコ チチヒメトウム  あめみこ ちちひめうむ    天の御子      チチ姫と生む
                                 (オシホミミ)

 ミコフタリ ヱハアスカミヤ  みこたり あすかみや    御子 二人      兄はアスカ宮
                                          (テルヒコ)

 トハハラミ ソノトキクニオ  はらみ そのときくにお    弟はハラミ     その時 国を
                                (キヨヒト)   (オシホミミの罷る時ヒタカミ国を)

 タマワリテ ソヨノハツコノ  たまわりて そよはつこの    賜わりて      十四の裔の

 ワレマテハ ヨソノタウケス  われまては よそうけ    我までは      他所の治 受けず

 ソレノキミ アスカオウチテ  それきみ あすかおうちて    それの君      アスカを討ちて
                                  (神武天皇)      (ニギハヤヒ)

 クニオトル カミニタカエリ  くにおとる かみたかえ    国を盗る      神に違えり

 カレナレス イママタキタリ  かれなれ いままたきたり    故 平れず      今 また来たり

 トラントス コレモカミカヤ  とらんと これかみかや    盗らんとす     これも神かや

 スヘキミヨ          すへきみよ            皇君よ」
 
       タケヒホホヱミ        たけひほほゑみ              タケヒ ほほえみ

 コレナンチ ヰナカニスンテ  これなんち ゐなかすんて    「これ汝      井中に住んで

 サワオミス コトヨキニニテ  さわ ことよきて    沢を見ず      言 善きに似て

 アタラスソ シカトキクヘシ  あたらそ しかきくへし    当らずぞ      確と聞くべし

 コレトカン ムカシアスカノ  これとかん むかしあすかの    これ説かん     昔 アスカの

 ナカスネカ フミヌスメトモ  なかすねか ふみぬすめとも    ナガスネが     文 盗めども
                                          (世嗣文)

 アスカキミ タタサヌユエニ  あすかきみ たたさゆえに    アスカ君      正さぬ故に
                                 (ニギハヤヒ)
 
 ノリクタセ ホツマチヒロム  のりくたせ ほつまちひろむ   『乗り下せ      ホツマ方 平む
                                    [宣 下せ]       [ほつま道 広む]

 アマモイワフネ        あまもいわふね          天下 斎船』
                                 [天地も祝うね]
 ヨニウタフ シホツヲキナカ  よにうたふ しほつをきなか    万に謳ふ      シホツ翁が

 コレユキテ ムケサランヤト  これゆきて むけさらんやと    『これ行きて    平けざらんや』と

 ススムユエ ヤマトタタセハ  すすむゆえ やまとたたせは    勧む故       大和 正せば

 ヲヲンカミ カシマノカミニ  ををんかみ かしまかみに    大御神       カシマの神に
                                 (アマテル)      (タケミカツチ)

 ミコトノリ ユキテウツヘシ  みことのり ゆきうつへし    御言宣       『行きて討つべし』

 ソノコタエ ワレユカストモ  そのこたえ われゆかとも    その応え      『我 行かずとも

 クニムケノ ツルキクタシテ  くにむけの つるきくたして    国平けの      剣 下して

 タカクラニ コレササケシム  たかくらに これささけしむ    タカクラに     これ 捧げしむ』

 タケヒトハ キミタルイトノ  たけひとは きみたるいとの    タケヒトは     君たる威徳の
                                 (神武天皇)         (=イトウ)

 アルユエニ アメヨリツツク  あるゆえに あめよりつつく    ある故に      より続く
                                          (アマテル)

 カミノミコ ヨヨニアマテル  かみのみこ よよあまてる    神の御子      代々に天地 照る
                                      <然れば遍く>      (他動詞)

 ナンチヨヨ キミナクコヨミ  なんちよよ きみなくこよみ    汝 代々       君 無く 

 イツレソヤ コタエテイセト  いつれそや こたえいせと    何れぞや」     答えて「伊勢」と
                                              (ヒヨミの宮)

 マタイワク アマテラスカミ  またいわく あまてらすかみ    また曰く      「天地 照らす神

 コヨミナシ ソロウエサセテ  こよみなし そろうえさせて    暦 成し       ソロ 植えさせて

 カテフヤシ ミオタモタシム  かてふやし たもたしむ    糧 増やし      身を保たしむ」

 モモナソコ ヨロミチツツク  ももなそこ よろみちつつく    「百七十九     万三千 続く
                                <アマテル神は>
                              <地に顕現の後>

 コノヨミテ イマヒノワチニ  このて いまひのわに    この世 見て     今 日輪内に
                                     [回て]

 オワシマス ミマコノヨヨノ  おわします みまこよよの    御座します     御孫の代々の
                                          (その子孫)

 タミヲサム ヒニナツラエテ  たみをさむ なつらえて    民 治む       日に擬えて

 アマキミソ ナンチハヨヨニ  あまきみそ なんちはよよに    天君ぞ       汝は代々に

 ミノリウケ イノチツナキテ  みのりうけ いのちつなきて    実り 受け      命 つなぎて

 イマタソノ キミニカエコト  いまたその きみかえこと    未だ その      君に返言

 モフサヌハ ソノツミツモリ  もふさは そのつみつもり    申さぬは      その罪 積もり

 イクラソヤ ヌケミチアリヤ  いくらそや ぬけみちありや    幾らぞや      抜け道ありや

 ワカキミハ カミナラスヤト  わかきみは かみならやと    我が君は      神ならずや」と
 
 コノトキニ ミチノクオヨヒ  このときに みちのくおよひ    この時に      ミチノク及び

 ミナフシテ マツロヒクレハ  みなふして まつろひくれは    皆 伏して      服ひ来れば

 ヤマトタケ ミチノクユルシ  やまとたけ みちのくゆるし    ヤマトタケ     ミチノク 許し

 ナコソヨリ キタハミチノク  なこそより きたみちのく    勿来より      北はミチノク

 クニノカミ モカタノハツホ  くにのかみ かたはつほ    国の守       百県の果穂

 ササケシム ツカルヱミシハ  ささけしむ つかるゑみしは    捧げしむ      津軽蝦夷は

 ミチヒコニ ナソカタハツホ  みちひこに なそかたはつほ    ミチヒコに     七十県 果穂

 ササケシム ミナミハヒタチ  ささけしむ みなみひたち    捧げしむ      南は常陸

 カツサアワ ミカサカシマニ  かつさあわ みかさかしまに    上総・安房      ミカサカシマに
                                              (大鹿島)

 タマワリテ カシマヒテヒコ  たまわりて かしまひてひこ    賜りて       カシマヒデヒコ

 トキヒコモ オトヒコミタリ  ときひこも おとひこたり    トキヒコも     オトヒコ 三人

 ミハタマフ          みはたまふ            御衣 賜ふ      
 
       クニツコヰタリ        くにつこたり              国造 五人    
                                      <津軽・陸奥の>

 カミノミチ シイテモフセハ  かみのみち しいもふせは    神の道       強いて申せば
                                (=陽陰の道)

 メシツレテ イタルニハリエ  めしつれて いたるにはりえ    召し連れて     至る 新治へ

 ヱミシカラ カソニシキトハ  ゑみしから かそにしき    蝦夷から      上錦 十機
                                 (津軽蝦夷)

 ワシノハノ トカリヤモモテ  わしの とかりやもも    鷲の羽の      尖矢 百手

 タテマツル ミチノクヨリハ  たてまつる みちのくよりは    奉る        陸奥よりは
                                         (旧ヒタカミ)

 キカネトヲ クマソヤモモテ  きかね くまそやもも    黄金 十重      クマソ矢 百手

 タテマツル コノユキオモク  たてまつる このゆきおもく    奉る        この靫 重く

 フモヲアリ オイテモトムル  ふもあり おいてもとむる    二百重あり     負い手 求むる
 オオトモノ サフライヨタリ  おおともの さふらいたり    オオトモの     侍 四人
                                  (タケヒ)

 オイカハリ ツクハニノホリ  おいかはり つくはのほり    負い替り      筑波に登り

 キミトミモ ツサヘテイタル  きみとみも つさいたる    君 臣も       西南 経て至る

 サカオリノ ミヤニヒクレテ  さかおりの みやくれて    サカオリの     宮に日暮れて
                                 (諏訪サカオリ)

 タヒオソク シカレハコタエ  たひおそく しかれこたえ    灯 遅く       叱かれば応え

 ユキオモク ツカレネフリテ  ゆきおもく つかれねふりて    「靫 重く      疲れ眠りて

 クレシラス マタイフヨタリ  くれしら またいふたり    暮れ 知らず」    また言ふ 四人

 アヒマチソ ナンチハカリカ  あひまちそ なんちはかりか    「合ひ待ちぞ    汝ばかりが

 ナトツカル チカライトハハ  なとつかる ちからいとはは    何ど疲る      力 厭はば

 ウタオヨメ コタエテカミノ  うたよめ こたえかみの    歌を詠め」     応えて「上の

 ミヨハウタ イマハチカラヨ  みよはうた いまはちからよ    御代は歌      今は力よ」
 
 トキニキミ コレキコシメシ  とききみ これきこしめし    時に君       これ 聞こし召し
                                 (ヤマトタケ)

 ツスハツネ ウタミニソメテ  つすはつね うたみそめて    十九初音       歌見に染めて

 カエセヨト ナカエタマハル  かえせよと なかえたまはる    「返せよ」と    詠え給はる
 
 ニヰハリツ ツクハオスキテ  にゐはり つくはすきて   『新治        筑波を過ぎて
                                 (新治を発ち)      (筑波山を越えて)

 イクヨカネツル        いくよかつる          幾夜日 寝つる』
                                      (完了の「つ」の連体形)
 
 モロナサス ヒトホシヨスナ  もろなさ ひとほしよすな    諸 済さず      火灯し ヨスナ
                                    (返す)         (ソロリヨスナ)

 キミノウタ カエシモフサク  きみうた かえしもふさく    君の歌       返し申さく
 
 カカナエテ ヨニハココノヨ  かかなえて にはここ    『かがなえて    夜には九の夜
                                 1.(昼夜を総べて)
                                 2.(考えてみると)

 ヒニハトオカオ        にはとおお          日には十日を』
 
 ヤマトタケ ヒトホシホメテ  やまとたけ ひとほしほめて    ヤマトタケ     火灯し 褒めて

 タケタムラ ホカハハナフリ  たけたむら ほかはなふり    タケタ村      他はハナフリ
                                 (タケ賜村)

 タケヒオハ ユキヘオカネテ  たけひおは ゆきへかねて    タケヒをば     靫侍を兼ねて

 カヒスルカ フタクニカミト  かひするか ふたくにかみと    甲斐・駿河      二国守と

 コトオホム          ことほむ            殊を褒む
 
       キミヤマノヒハ        きみやまは              君 山の日は

 ユキヤスミ ワカキミニイフ  ゆきやすみ わかきみいふ    靫 休み       我が君に言ふ
                                   (靫負)        (タケヒ)

 スヘラキミ ヤツラハナフリ  すへらきみ やつはなふり    「統君       僕等 ハナフリ
                                 (ヤマトタケ)

 ソロリニハ タケタタマハル  そろりには たけたたまはる    ソロリには     タケタ 賜はる
                                 (ヨスナ)       (タケタ村)

 ナンノコト タケヒノイワク  なんこと たけひのいわく    何の殊」      タケヒの曰く

 ウタノコト マタトフカレハ  うたこと またとふかれは    「歌の殊」     また問ふ「彼は

 アワナラス ナニノウタソヤ  あわなら なにのうたそや    アワならず     何の歌ぞや」
                                   (アワ歌)

 マタイワク ツツウタムカシ  またいわく つつうたむかし    また曰く      「連歌 昔

 サユリヒメ トシソコノトキ  さゆりひめ としそことき    サユリ姫      歳 十九の時

 タキシミコ シタヒコフユエ  たきしみこ したひこふゆえ    タギシ御子     慕ひ恋ふ故

 ソノチチカ ヨヒタストキニ  そのちちか よひたすときに    その父が      呼び出す時に
                                   (神武)

 ヒメサトリ ノソクツツウタ  ひめさとり のそくつつうた    姫 悟り       除く連歌
 
 アメツツチ トリマスキミト  あめつつち とりますきみと   『天つ地       娶ります君と

 ナトサケトメ        なとさけるとめ          何ど割ける 止』
                                      (継句の拒否)
 
 ソノツツス カソエテナカオ  そのつつす かそえなかお    その連子      数えて中を

 ツホカナメ コノウタツツキ  つほかなめ このうたつつき    壺要        この歌 続き
                                (10音目のキ)

 カソエモノ オリアワセメニ  かそえもの おりあわせめに    数え物       折合せ目に

 ケリモアリ キミトワレトハ  けりあり きみわれとは    "けり" もあり    君と我とは
                                            (天) (地)

 ツツキケリ ヨコカメトルオ  つつきけり よこかめとるお    続きけり      よこかめ取るを
                                           (やっかむ)

 サカシマニ ルトメニトメテ  さかしまに るとめにとめて    逆しまに      "るとめ" に止めて

 タチキレハ マメモミサホモ  たちきれは まめみさほも    断ち切れば     忠も操も

 アラワセリ カレソコモツス  あらわせ かれそこつす    表わせり      故 "十九" も "ツズ"

 モノモツス ツツキウタナリ  ものつす つつきうたなり    "物" も "ツズ"   続き歌なり
                                  (言)
 
 ナツカハキ ココニヰテトフ  なつかはき こことふ    ナツカハギ     ここに居て問ふ

 ツキアリヤ タケヒコタエテ  つきありや たけひこたえて    「継ぎありや」   タケヒ 答えて

 ヤソアリテ ハツハオコリト  やそありて はつおこりと    「八十ありて    初は "起り" と
                                               (起)

 ツキハウケ ミツハウタタニ  つきうけ みつうたたに    次は "受け"     三つは "転たに"
                                     (承)          (転)

 ヨツアワセ ヰツハタタコト  よつあわせ ゐつたたこと    四つ "合せ"     五つは "立言"
                                     (結)

 ムツハツレ ナナハツキツメ  むつつれ ななつきつめ    六つは "連れ"    七は "尽詰"

 ヤツハツキ オモテヨツラネ  やつつき おもてつらね    八つは "尽き"    表 四連ね

 マメミサホ マテニカヨハス  まめみさほ まてかよは    忠 操        両方に通わす
                                                           (表裏)

 ウラヨツレ ハツハカシラノ  うらつれ はつかしらの    裏 四連れ      果つば 頭の
                                               (終れば)

 ヰヲシテエ メクラシツラヌ  をしてえ めくらつらぬ    五ヲシテへ     巡らし連ぬ
                                            (還し)

 ソノツキハ ウチコシココロ  そのつきは うちこしこころ    その継ぎは     "打越"  "心"

 ウタタサリ モトニムラカル  うたたさり もとむらかる    "転"  "去"     本に群がる

 ヒトツラネ ソムオヒトオリ  ひとつらね そむひとおり    一連ね       十六(句)を一織

 スヘヰオリ ヤソオモモトシ  すへおり やそももとし    総べ五織      八十を百とし
                                               (百とすると)

 オリハフソ カレオリトメノ  おりはふそ かれおりとめの    織は二十      故 織留の
                                  (1織は20句)        (各織の第20句)

 ツスハタチ オリハツのツス  つすはたち おりはつのつす    ツズ "ハタチ"    織初のツズ
                                            (各織の第1句)

 アヒカナメ オリツメノツス  あひかなめ おりつめのつす    "合要"        織詰のツズ
                                            (各織の第19句)
                                           (また一の織詰を"ツズ")

 ミソコハナ ミノツメヰソコ  みそこはな つめゐそこ    三十九 "ハナ"    三の詰 五十九
                                 (二の織詰)

 ツスサツメ ヨノツメナソコ  つすさつめ のつめなそこ    ツズ "サツメ"    四の詰 七十九

 ツスフツメ ヰノツメコソコ  つすふつめ のつめこそこ    ツズ "フツメ"    五の詰 九十九

 ツスツクモ ヰフシニホヒノ  つすつくも ふしにほひの    ツズ "ツクモ"    五節 匂の

 ハナハユリ モトウタハキミ  はなゆり もとうたきみ    花は百合      本歌は君
                                   (ユリ姫タケヒトを暗示)

 ソノアマリ ヱタヤハツコオ  そのあまり ゑたはつこお    その余り      枝や裔を

 ヤソツツキ ナオフカキムネ  やそつつき なおふかきむね    八十 続き      なお深き旨
                                   (他四段)
 
 ナライウクヘシ        ならいうくへし          習い受くべし」
 
 マタトフハ ヤソオモモトス  またとふは やそもも    また問ふは     「八十を百とす

 カスイカン コタエハカナメ  かすいかん こたえかなめ    数 如何ん」     答えは「

 マタクハル モトウタオフソ  またくはる もとうたふそ    また配る      本歌を二十」
                                        (百句中に本歌が20回巡り来る)

 カエシトフ ユリカハシメカ  かえしとふ ゆりはしめか    返し問ふ      「ユリが初めか」

 コタエイフ カミヨニモアリ  こたえいふ かみよにもあり    答え言ふ      「上代にもあり

 ミヲヤカミ ツツノヲシテヤ  みをやかみ つつをしてや    御祖神       連のヲシテや
                                    (ウガヤ)              27文

 アメミコノ ヒウカニイマス  あめみこの ひうかいます    天御子の      日向に坐す
                                 (タケヒト)             <時の>

 ヤマトチノ ハヤリウタニモ  やまとちの はやりうたにも    ヤマト方の     流行り歌にも
                                 (本州地方)
 
 ノリクタセ ホマチロム  のりくたせ ほつまちひろむ   『乗り下せ     ホツマ方 平む
                                  [宣 下せ]     [ほつま道  広む]

 マモイワフネ        あまもいわふね          天下 斎船』
                                 [天地も祝うね]
 
 シホツツヲ ススメテヤマト  しほつつ すすめやまと    シホツツヲ     勧めて大和

 ウタシムル コレオリカエニ  うたしむる これおりかえに    討たしむる     これ 折返に

 アヒツアリ カレウチトルオ  あひあり かれうちとるお    "天日西" あり    故 討ち取るを
                                 (天日は西にあり)

 ヨシトナス ユリヒメモツツ  よしなす ゆりひめつつ    好しとなす     ユリ姫も十九(歳)

 ウタモツツ マメトミサホト  うたつつ まめみさほと    歌も十九(音)    忠と操と

 アラワセハ ツツキウタヨム  あらわせは つつきうたよむ    表わせば      続き歌 詠む

 ノリトナル ツイニホツマノ  のりなる ついほつまの    法となる」     「遂にホツマの
                                               (東国)

 マツリコト アメニトホレハ  まつりこと あめとほれは    政事        に通れば
                                          (中央政府)

 コトコトク マツロフトキソ  ことことく まつろふときそ    悉く        服う時ぞ
                                               <報奨として>

 ウタハクニ チカラハアタヒ  うたくに ちからあたひ    歌は地       力は値
                                         (力業にはハナフリ)

 タマハリシ キミハカミカト  たまはり きみかみかと    賜はりし」     「君は神か」と

 ミナメツム          みなめつむ            皆 愛つむ 
                                  (賛美する)     
 
       コソヨリツツキ        こそよりつつき              去年より継つき

 アメハレテ ムツキスエヤカ  あめはれて むつきすえ    雨 晴れて      一月二十八日

 ミユキフリ キミソリニメシ  みゆきふり きみそりめし    み雪 降り      君 ソリに召し

 ユキイタル サカムノタチニ  ゆきいたる さかむたちに    行き至る      相模の館に

 イリマセハ ノニカタアフミ  いりませは かたあふみ    入りませば     野に片

 トラカシハ ヒロヒカンカエ  とらかしは ひろひかんかえ    トラガシハ     拾ひ考え

 アフミサシ イマタテマツル  あふみさし いまたてまつる    鐙 挿し       今 奉る

 タマカサリ ホメテタマワル  たまかさり ほめたまわる    珠飾り       褒めて賜わる

 ムラノナモ タマカワアフミ  むらも たまかわあふみ    村の名も      タマカワアフミ
                                              (珠交鐙)
                                            (多摩川青梅)

 ミサシクニ サカムノクニト  みさしくに さかむのくにと    ミサシ国      相模の国と
                                  (武蔵)

 モトヒコニ ナツケタマワル  もとひこに なつけたまわる    モトヒコに     名付け賜わる

 クニツカミ          くにつかみ            国つ守
 
       マチカテチカノ        まちかてちかの              マチカテチカの

 トミフタリ ヲトタチハナノ  とみたり をとたちはなの    臣 二人       ヲトタチハナの

 クシトオヒ ウレハナケキテ  くしおひ うれなけきて    櫛と帯       得れば 嘆きて

 ヒメノタメ ツカリアヒキノ  ひめため つかりあひきの    姫のため      連り天引の  

 マツリナス コレソサノヲノ  まつりなす これそさのをの    祭りなす      これソサノヲの

 オロチオハ ツカリヤスカタ  おろちおは つかりやすかた    オロチをば     連り ヤスカタ

 カミトナシ ハヤスヒヒメモ  かみなし はやすひひめも    となし      ハヤスヒ姫も

 アシナツチ ナナヒメマツル  あしなつち ななひめまつる    アシナツチ     七姫 祭る

 タメシモテ カタミオココニ  ためしもて かたみここに    例し以て      形見をここに
                                      <骸に代えて>      <納めて>

 ツカトナシ ナモアツマモリ  つかとなし あつまもり    塚となし      名も吾妻守
                                    (墓)           [東守]

 オホイソニ ヤシロオタテテ  おほいそに やしろたてて    大磯に       社を建てて

 カミマツリ ココニトトマル  かみまつり ここにととまる    神祭         ここに留まる

 ハナヒコハ ワカサキミタマ  はなひこは わかさきみたま    ハナヒコは     我が先御魂

 シロシメシ カワアヒノノニ  しろしめし かわあひに    知ろしめし     川合の野に

 オホミヤオ タテテマツラス  おほみやお たててまつら    大宮を       建てて祭らす

 ヒカワカミ イクサウツハハ  ひかわかみ いくさうつはは    ヒカワ神      軍器は
                                 (ハナキネ)

 チチフヤマ          ちちふやま            秩父山
 
       キサラキヤカニ        きさらきに              二月八日に

 クニメクリ マツラフシルシ  くにめくり まつらふしるし    国周り        服ふ標
                                  (国中で)

 カクカコオ ヤムネニササケ  かくかこお やむねささけ    橘篭を       屋棟に捧げ

 コトヲサメ ホツマノヨヨノ  ことをさめ ほつまよよの    "事納"       ホツマの代々の

 ナラハセヤ          ならはせや            習わせや      
 
       ウスヰノサカニ        うすゐさかに              碓氷の坂に

 ヤマトタケ ワカレシヒメオ  やまとたけ わかれひめお    ヤマトタケ     別れし姫を
                                          (オトタチバナ姫)

 オモヒツツ キサオノソミテ  おもひつつ きさのそみて    思ひつつ      東南を望みて

 オモヒヤリ カタミノウタミ  おもひやり かたみうたみ    思ひ遣り      形見の歌見

 トリイタシミテ        とりいたして          取り出だし 見て
 
 サネサネシ サカムノオノニ  さねさねし さかむおのに   『実々し       相模の小野に

 モユルヒノ ホナカニタチテ  もゆるの ほなかたちて    燃ゆる日の     火中に立ちて

 トヒシキミハモ        とひきみはも          訪ひし君はも
 コレミタヒ アツマアワヤト  これたひ あつまあわやと    これ 三度      吾妻 あわやと

 ナケキマス アツマノモトヤ  なけきます あつまもとや    嘆きます      東の元や
 
 オヒワケニ キヒタケヒコハ  おひわけに きひたけひこは    追分に       キビタケヒコは

 コシチユク クニサカシラオ  こしゆく くにさかしらお    方 行く      国盛衰を

 ミセシムル タケヒハサキニ  みせしむる たけひさきに    見せしむる     タケヒは先に

 サカムヨリ ヱミシノミヤケ  さかむより ゑみしみやけ    相模より      ヱミシの土産

 モチノホリ ミカトニササケ  もちのほり みかとささけ    持ち上り      帝に捧げ

 コトコトク マツラフカタチ  ことことく まつらふかたち    悉く        服ふ形

 モフサシム ヒトリミユキノ  もふさしむ とりみゆきの    申さしむ      一人 御幸の

 ヤマトタケ シナノキソチハ  やまとたけ しなのきそは    ヤマトタケ     信濃・木曽方は  

 ヤマタカク タニカスカニテ  やまたかく たにかすかにて    山 高く       谷 微かにて

 ツツラオリ カケハシツタヒ  つつらおり かけはしつたひ    葛折        懸橋 伝ひ

 ムマユカス クモワケアユミ  むまゆか くもわけあゆみ    馬 行かず      雲 分け歩み

 ウエツカレ ミネノミアエニ  うえつかれ みねみあえに    飢え疲れ      峰の御饗に

 ナルシラカ マエニイキハキ  なるしらか まえいきはき    現る白鹿      前に穢気 吐き
                                           (御前)

 クルシムル キミハシロシテ  くるしむる きみしろして    苦しむる      君は知ろして

 ヒルヒトツ ハシケハマナコ  ひるひと はしけまなこ    蒜 一つ       弾けば 眼

 ウチコロス ナオクモオオヒ  うちころす なおくもおおひ    打ち殺す      なお雲 覆ひ

 ミチタツオ ヒミツノハラヒ  みちたつお ひみつのはらひ    道 断つを      火水の祓ひ

 ミタヒノル シナトノカセニ  たひのる しなとかせに    三度 宣る      シナトの風に

 フキハラフ カミノシライヌ  ふきはらふ かみしらいぬ    吹き払ふ      神の白狗

 ミチヒキテ ミノニイツレハ  みちひきて みのいつれは    導きて       美濃に出づれば

 タケヒコモ コシヨリカエリ  たけひこも こしよりかえり    タケヒコも     越より帰り
                                 (吉備武彦)

 ココニアフ サキニキソチノ  ここあふ さききその    ここに会ふ     先に木曽方の

 オエフスモ ハライマヌカル  おえふすも はらいまぬかる    衰え臥すも     祓い 免る
                                     (者も)

 シカノチハ ヒルオカミヌリ  しかは ひるかみぬり    「鹿の霊は     蒜を噛み塗り
                                               (命令形)

 サカイキニ アタラシモノト  さかいきに あたらものと    邪気に       当らじもの」と

 カタリタマヒキ        かたりたまひ          語り給ひき




 マキムキ(纏向)のヒシロ(日代)の御世四十年、六月(セミナツキ)の事です。
 突然、ホツマ国の国守オオトモノタケヒがサカオリノ宮(旧、ハラノ宮、現浅間神社)から上京して願い出ました。「辺境のエミシ(蝦夷)等が、再三騒動を起こし、国の掟に背いて治安を乱し国境を侵しています。どうか一刻も早く有力なスメラミイクサ(神軍)を率いて御狩りにご出発下さい」と乞い申し上げました。

 君は早速諸臣(モロトミ)を召集して宣はく、「ホツマ(東国)のエミシ(蝦夷)等が、再々法を犯し略奪を行って国民を苦しめている。今日ここにエミシ征討の将軍を選び、東国鎮撫に遠征させたいと思うが、誰が良いか申し出てみよ」しかし、誰一人として口を開く者はなく、息苦しい沈黙が続きました。ついにヤマトタケが最初に口火を切り、胸の思いを君に申し上げました。「先の西討(クマソ征伐)には、我と我が臣等が活躍しました。今度東を討つのは当然モチヒト兄の番です」

 それを聞いていたオオウスはやおら戦慄(わななき)声を上げて逃亡し、草の中に身を隠してしまいました。一部始終を見ていた君は、使いを出して兄オオウスを探し出し御前に呼び戻すと、責めていわく、「汝(いまし)兄よ、おまえの恐れ逃げる後ろ姿を見て、期待は完全に裏切られた。我が子とはいえホトホト愛想が尽きた。なさけない。もうよいからミノ(美濃)の国を守っておれ」と、言い捨てました。

 これを聞いていたヤマトタケが雄叫びを上げ、「西を平定してやっと帰京できたと思う間もなく、今度は我が臣達に休む閑も与えないまま、東の辺境へと戦いにまいります。いつの日にかきっとエミシ等を平定して、東国の民ともども平和に暮らせる世の中が来ることを信じ、たとえ我と我が臣等の上にいかなる困難が襲い掛かろうとも、共に力を尽くして必ずや勝利してまいります」

 この時、スベラギ(景行天皇)は手に矛を捧げ持ち、「我が聞くところによるとエミシ等は皆、入れ墨で身を飾り性格は狂暴、秩序を守る村長(アレオサ)も無く、酋長(ムラキミ)等はお互いに略奪を繰り返し、又、山の木を勝手に切り火をつけて焼く山荒しや、生業もなくうろつき物を乞うカダマシ者や、たむろして道を塞ぎ物を奪うチマタ神(岐神)、中でも特に手強いエミシ等は、父子男女の差別なく乱婚して岩穴に住み、獣血を好み、毛皮を着て獣のように早く走り、天への感謝を忘れて人に仇をなし、常に弓矢を携えてうまく獲物を射止め、刀舞(たちまい)を好んで踊り、一族群れて辺境を犯して作物を盗み、野山を走り逃げ隠れするカクレンボの術に長けていて、古来よりアメナルミチ(天成道)を拒み天朝に逆らい続けているという」

 君はここまで話すと再びヤマトタケを見据えて、「今、改めて汝を見るに、汝(いまし)こそは容姿端正にして、百人力の勇者だ。行く処、敵無く、戦えば必勝間違いなし。今やっと解った。汝は確かに身体は我が子でありながら、実は神が、私の力不足の世の乱れを案じて、汝を天降らした神の子に違いない。汝こそが天壌無窮の御代を嗣ぎ天下を治める皇位継承の位である。どうか深謀遠慮を忘れず、御身に備わった神の威光を信じて恵む心で敵に接し、秀でた真の教えによって、カダマシ(姦者)者達を神の世に帰順させよ」と言いつつ、御矛をヤマトタケに授けました。

 矛を重重しく拝領したヤマトタケは、この時、父ミカド(帝)に感謝の心を込めて最後の決意を力強く述べ、「昔、御霊(みたま)の天恩により無事クマソを征伐することができました。今も又、君の御霊によりて、天の威厳(いず)を借りて、仇の群居する辺境の地に行き臨(のぞ)み、服(まつわ)ざる者供を打ち負かしてまいります」と言い終わるや、深く拝礼して君の御前を辞しました。

 いつも身際(みぎわ)に控え侍るキビノタケヒコ(吉備武彦)と新たに加わった強力な助っ人オオトモタケヒ(大伴武日)を両翼の武将と定め、ナガツカハギを膳夫(かしわで)に伴い、十月二日(カナヅキフカ)に諸将を引き連れ皇軍(ミヤイクサ)は門出しました。

 ヤマトの道を横切って進み、七日には伊勢神宮に赴き天照神に東征の戦勝祈願をしてから、磯辺(イソベ)の伊雑(イサワ)宮に坐す斎宮ヤマト姫に暇乞い(いとまごい)に伺いました。「君の仰せにより、仇打ちにまかります」と、伝え聞いたヤマト姫は、神庫より取り出した錦袋(にしきぶくろ)を左手に捧げ、右手には剣を持ち、御皇子(オミコ)に向い凛とした声で神妙に告げました。
 「この袋の中味は、汝の先祖、天孫ニニキネが自ら記した秘密のお祓いの璽(おしで)が入っています。もしも緊急事態に陥った時、この呪術により火水埴(ヒミヅ)の難を祓い退けなさい。又この剣は、昔、ソサノオが出雲の国を開いた尊いムラクモ(叢雲剣)とはこれなるぞ。この二種とも吉を呼ぶ宝物です。慎みて受け、仇を平定して無事帰られよ。くれぐれも油断なきよう、注意をおこたらず行くがよし」と。授けました。

 昔、崇神朝の頃、シラギ(新羅)の王子アメヒボコが来朝し、天皇に服つらい帰化した五代孫のタジマモリ(田道間守)(アメヒボコ、モロスケ、ヒナラギ、キヨヒコ、タジマモリ)の遺書にいわく、「私は天皇(垂仁)の勅を受けて東国(常世国)視察に赴きました。東夷の国々を巡り見ての感想は残念ながら一朝一夕に天朝に服すのは難しいことを悟りました。せめて君との約束のカグの木(橘樹)を得たいと考えて、タチバナノモトヒコ(橘元彦)の家に荷を解き、じっくりと土地の風俗に馴染み親しみながら年を重ねるうちに早十年が経ってしまいました。その間やっとヒタカミノミチノク(日高見君陸奥)とシマズミチヒコ(島津道彦)と親睦を深めることができました。

 ヤマト国とヒタカミ国との間の立場の違いも良く理解できたので、しばらくして後、ご報告を兼ねて念願のカグを君に献上しようと苦労して運んで上京する間に、君は先に神上がられてしまいました。何故もう少し早く帰京できなかったかと千々(ちぢ)に悔やまれてなりません。今このカグを若宮(景行帝)に奉ります。君よ、どうか僕(やつかれ)が、モトヒコの家で結んだ兄弟の滴(しずく)の源流(みなもと)を思しめして、ホツマ(東国)と友好関係を保って平和裏に国を治めて下さい。

 実は、私の妻はモトヒコの娘ハナタチバナ姫でございます。姫は今、私の子を身籠っております。私は先帝亡き後、いまさら何を生きがいにこれ以上生き長らえましょうか。どうか私を不憫に思して、ハナタチバナ姫と生まれ来る子をよろしくお願いいたします。平和な君の御世の永らんことを切に祈りつつ伏してお願い申し上げます」この残し文が語るようにタジマモリは、君の陵(みささぎ)の前で来る日も来る日も、君への思いに身をやつし、ついに泣きながら天上の君の御もとへと、みまかりました。

 このタジマモリの遺言により、天皇はタケウチノスクネ(武内宿禰)と話し合った後、先ずカグモトヒコの家にタケウチを派遣して味方につけてから、今は亡きタジマモリの一粒だね、実は今はヤマトタケのスケツマ(典侍)のオトタチバナ姫(弟橘)にホズミテシ(穂積臣橘右近)とサクラネマシ(桜本臣左近)を付けて、先駆けとして東国に遣わし、その後間もなく皇軍が下りました。

 事の急変を知ったヒタカミは急ぎモトヒコに使いを遣り、味方につけようと色々工作しますが、頑として傾きませんでした。サガム(相模)の小野に城を構えて、テシとマシ等が将兵を率いて守りを堅め、ヤマトタケの御幸狩(みゆきがり)を今か今かと待ち望んでいました。エミシ(東夷)の類(やから)の対応は素早く、ヤマトタケは富士の裾野でまもなくエゾ等と出会います。事前に待ち構えていたエゾ等は計略をはかり、ことば巧みに申すには、「この辺は、野鹿の息が霧のように立ち昇り、しばしば野を踏みしだいて困ります。木の枝の乱れ絡みで鹿の道が解ります。どうぞ望み巡りて狩って下さい」

 これを聞いた君は、「げに」とばかり鹿を求めて野に入りました。頃を見計らって賊等が火を枯野に放って焼きます。ここで君は、欺かれた事を知るとすぐに切り火を起こして、向かえ火を放ちました。そしてヤマト姫から授かった錦袋から取り出した火水埴(ヒミヅ)の祓(はら)いを三度祈りました。と、間もなく東風が西風へと急変し、火が仇の頭上に覆うのを見た味方の兵は、賊共を草中に追い回し相戦っている時、君がムラクモの剣を抜いて草を薙ぎ払うと賊軍の周囲に燃え草が飛び行き、一気に野火が燃え広がって、ついに賊軍(アダイクサ)を焼き滅ぼしてしまいました。ここがヤケズノ(焼津)と言い、この時から剣の名前もクサナギの剣と呼ぶようになりました。

 この事件があって急にサガムの城の窮状を知り、皇軍(ミヤイクサ)は急ぎアシガラ山(足柄山)に至りました。その頃すでにサガムのオノの城は数万の敵兵に包囲されていたものの、タチバナモトヒコ及び右近、左近率いる将兵は堅固に防戦し、数に勝る敵に一歩も譲らず相戦っていました。難攻不落を知った賊軍は今度は作戦を変え城のまわりに薪を積み上げ火攻めの戦いを仕掛けてきました。七十日間も日照りが続いた後だけに賊の放った火で乾ききった薪が燃え広がり、城は一気に火の海となり炎に包まれました。

 この時ヤマトタケは、ヤグラノ岳(矢倉岳)に登ってサガムの城を遠望して、遠く離れた城から火の手が上がるのを見て、緊急の作戦を取り、先ずキビタケヒコの軍を南方のオオイソに向けて出発させ、次にオオトモタケヒの軍をオオヤマ(大山)の北側に巡って裏より入城させ、南北に別れて敵を挟み撃ちに追いつめ戦いました。

 ヤマトタケは髪をすき身を清めると、急造した白樫の木刀をハラミ(富士山)の御柱に見立てて火水埴(ヒミヅ)の清祓いを三度祈りました。 と、ハラミ山のコノシロ池の龍(タツ)が現われて、龍の雨を降らせて城の火を消し、これを知った皇軍の兵は勇み立って一気に敵に戦い挑み、ついに半ばを撃ち殺しました。敗残兵共も皆四方に逃げ失せれば、皇軍(ミヤイクサ)の兵は皆一斉に、「万歳(ヨロトシ)、万歳」のときの声を上げて、苦戦の末の勝利に酔いしれました。

 城門が開き、いよいよ皇軍の将兵が入城しようとする時、オトタチバナ姫はいち早くヤマトタケに走りより、温かく迎え入れ、君の手を取ってやさしくねぎらいながら、こみ上げる涙に声も途切れとぎれに、思いのたけを訴えました。「私を初め城を守る将兵の各々が、あの火攻めにあって城も燃え落ち、もう焼け死ぬのを覚悟で戦いました。君の祈りが天に通じたお陰で龍の雨が降り、今こうして幸いにも君のお顔を再び拝むことができました」と、喜びの声もふるえて、とめどなく流れる涙に袖を濡らしました。

 戦いの決着がつくとモトヒコは、四方に触れを出して、「以後服従せぬ者共は、捕えて死罪に処す」旨を伝えると、農民達は皆服(まつ)ろい来たりて、君の御狩(みかり)を乞い願い出ました。東(ホツマ)の事始めとして十二月八日にヤマトタケは、橘籠(カグカゴ)を立てて御印として巡狩し、ホツマの民が皆君に帰順し、平和がよみがえったのを共に喜びました。

 時にヤマトタケがオオイソ(大磯)からカズサ(上総国)に渡ろうと軍船で渡航された時のことです。海上で突然暴風に襲われて、強風と高波に翻弄された船は舵が取れず海の藻屑の様にあてどなく浮き沈みを繰り返し漂っていました。その時の事です。荒れ狂う風をなんとか鎮めようとオトタチバナ姫は舳先(へさき)に登り天地に船の加護を祈っていわく、「我が君の厳(いつ・大功)をヤマト(国)に立てんとす。我、君のため龍神(たつ)となり、御船(みふね)を守らん」と言いつつ、海に飛び込みました。とっさの出来事に同船の諸将も驚いて海中を探しましたが、ついに見つけられませんでした。まもなくうその様に波は和(な)ぎ、船は無事カズサ(上総)に着きました。

 カズサに上陸したヤマトタケは、榊(さかき)の枝に鏡を掛けて霊飾(たまかざり)とし、これを君の御印としておし立てて皇軍(みやいくさ)はヒタカミ国へと向いました。香取神社の神主カトリトキヒコ(香取時彦)と鹿島神社の大神主のカシマヒデヒコ(鹿島秀彦)及び息栖社の神主のイキスオトヒコ(息栖乙彦)の三人は、事前にオオカシマの命を受けて皇軍を出迎え奉りました。クニナズオオカシマ(国摩大鹿島)は多くの兵のために御饗(みあえ)を盛大に開き、ヤマトタケ一行を心から歓迎しねぎらいました。ここ鹿島殿にしばらく回船を待って皆滞在し、英気を養った後、再び葦浦(アシウラ)を越えてナコソ(勿来)浜に着きました。
 
 君がここに行宮(あんぐう)を造営し、ご滞在中の事です。
 エミシ(蝦夷)の賊首(ぞくしゅ)ヒタカミノミチノク(日高見神陸奥)及びシマズミチヒコ(島津道彦)と国造(くにつこ)五人、県主(あがたぬし)、邑司(むらつかさ)等、計百七拾四人と数万の兵が各々弓矢を携えて武装し、竹の水門に結集して皇軍の行く手を拒み、一触即発の臨戦体勢で布陣していました。

 これを知った君は、オオトモノタケヒを正式に勅使として敵方に遣わして、両首領を召されました。シマズの神は事前に君の威勢に恐れをなして、たとえ戦っても勝目は無いと知り、弓矢を捨てて降伏し、君の御前にひれ伏して服(まつろ)いました。が、ヒタカミノミチノクは、君の要請を無視して動ずる気配がありません。そこでヤマトタケは再びタケヒを勅使として日高見の陣屋に赴かせて、粘り強く説得に当たらせることにしました。

この度は、ミチノクが勅使を門まで出迎えて陣中に座をしつらえると間もなく、
ミチノクいわく、「今汝、人間(ひと)の天皇(スベラギ)に仕えて君と言っているが、仕える汝も衰えたものだ。今頃ノコノコやって来て我が国を奪うつもりか」
タケヒのいわく、「いなや、神の皇子(みこ)が汝を召せど服(まつら)わぬゆえ、打ち滅ぼしにまいった」

ミチノク答えて言う、「いったいこれは何のこと、何の謂(いい)、それ我が国(ヒタカミ)はオオミオヤ(大御祖神)のタカミムスビ神(高皇産霊神)が国開き、七代(ナナヨ)のトヨケ(豊受神・伊勢神宮祭神)が位(これ)を嗣ぐ。この時、日の神(天照神)もこの地日高見のヤマテ宮(仙台宮)で天成神道(アメナルミチ)を学ばれた。だからこの地を日高見(ヒタカミ)と言うのだ。天照神の皇子(みこ)オシホミミは、タクハタチチ姫(豊受の娘)との間に皇子を二人儲け、兄はアスカ親王(クシタマ・ホノアカリ・テルヒコ)として大和国に封じ、弟はハラ親王(天孫ニニキネ)でホツマ国に封じ、その時アマテル神からヒタカミ国を賜わったのが我が先祖のタカギ神(高木神)で、十四代目の裔(はつこ)の我までは、他国の援助を一切受けずに独立国として今日まで守ってまいった。以前、タケヒト(神武)が正統なアスカ宮を打ってヤマト国を奪ったのは神の道に反しているぞ。これ故、汝等の行為を認めぬのだ。今、又突然現われて国を取らんとするのか。これでも神の天皇(スベラギ)かや。単に人の統治者(スベラギ)ではないか」

 ミチノクの言い分を黙って最後までうなずきながら聞き終えたタケヒは、いわく、「これ汝、井中(いなか)に住んで沢(さわ)を見ず。という言葉を知っているかな。一見道理にかなった話に聞こえるが、正当性に欠けている。そのわけを説いて聞かせるからしかと聞くべし」

 タケヒはここまで話すと一息入れて四囲を見回し、耳をそばだてて真面目に聞き入る賊将達にも理解が得られるよう、ていねいに話し始めました。
 「昔、アスカの臣(トミ)ナガスネが無断で春日の神庫から世嗣紀(よつぎふみ)を盗み出す悪事を働いたのにいつまでもアスカ君が糺(ただ)さぬゆえに、
乗り降(くだ)せ 秀真(ほつま)路
弘(ひろ)む下界(あまも)岩船(いわふね) この歌が世に流行して、シホヅチの翁がタケヒト(神武)に、「これ行きて、東征(むけ)ざらんや」との進言によりヤマトを糺(ただ)せば、オオン神(大照神)も夢枕に現われて、カシマ(鹿島神)に詔して、「行きてヤマトを打つべし」その答えは、「我行かずとも平国(くにむけ)の剣降してタカクラ(高倉下)に、これ捧げしむ」とあった。タケヒトは、君としての人格を十分そなえ威徳もあるので、天神より続く神の御子として今日まで代々に天照(あまてら)している。汝、代々君無くして暦(こよみ)をいずれから受けるのか」答えて、「伊勢(いせ)」と。

又いわく、「天照神(アマテル)が最初に暦を作り授けたので、田植えの時期も正確になり、お陰様で民の糧(かて)も増えて、皆命を保っているではないか。神は今も百七十九万三千年続いているこの世を見守って、今は太陽の日輪内(ひのわち)にお帰りになり御座します。御孫(みまご)ニニキネは民を豊かに治めたので、天照日に準(なぞらえ)て天君(あまきみ)になられたであろう。汝は代々実りを受けて命を保ちながら、今だに君に感謝の返礼もせず詣(もう)さぬようでは、その罪が積もり積もって幾らぞや。どうじゃ抜け道ありや。まだ我が君は神でないと言えるかな」と語りました。
 この時、ミチノク初め全員が平伏して服(まつら)い来たので、ヤマトタケはミチノクの罪を許して、ナコソ(勿来)より北はミチノク国(陸奥)と名付け賜わり、国神(クニツカミ)に新たに任命して、百(もも)の県(あがた)から初穂(はつほ・年貢)を捧げさせました。

 ツガルエミシ(津軽蝦夷)は島津道彦に与えて、七十県から初穂を捧げさせました。南はヒタチ(常陸)、カズサ(上総)、アワ(安房)、の三国をミカサカシマ(大鹿島)に賜わり、カシマヒデヒコ(鹿島秀彦)及びトキヒコ(香取時彦)、オトヒコ(息栖乙彦)の三人に、ヤマトタケの御衣を賜わりました。 国造(クニツコ)の五人が神の道を学びたいと強いて願い出るので、召し連れてニハリの宮に向いました。
 エミシ(島津道彦)からの献上品は、数峯錦(カゾミネニシキ)十端(トハ)と、鷲の羽(わしのは)の尖り矢(とがりや)百手(ももて)を奉りました。 ミチノク(陸奥)からは黄金十斤(トオ)を、熊襲矢(クマソヤ)百手(モモテ)を奉りました。

 去年から引き続き天気快晴でしたが、正月二十八日に大雪が降り、君はソリに召してサガムの館に向い、ただ今お着きになりました。そこにはトラカシワ(虎柏)なる者が君のお着きを待ちかねていました。トラカシワは君が野戦で失った馬具の鐙(あぶみ)の片方を、野で拾って考えた末、榊(さかき)の枝に鐙を差して御霊飾り(みたまかざり)を作り、君の御前に奉りました。
 君は大そうトラカシワを誉めて、鐙を拾った所をタマガワアブミ村(現・厚木市)と名付け報賞として賜わりました。又君はこの場で論功行賞を行い、片鐙(かたあぶみ)を差した霊飾り(たまかざり)にちなんで、戦歴の地をミサシ国(武蔵)と命名し、サガム国(相模)と一緒に、この度の戦(いくさ)で最も戦功の大きかったタチバナノモトヒコに与え、国神に取り立てました。

 マチカ・テチカ(右近・左近)の臣(とみ)の二人は、オトタチバナ姫の入水このかたずっと亡骸(なきがら)を海辺に探し続けていました。
 ある日、思いがかなってオオイソの海岸に姫の櫛(くし)と帯を手に入れることができました。姫が肌身につけていた遺愛の品々を手にした二人は、生前の美しく聡明で心やさしく気丈な姫に、再度触れて悲しみも新たにこみ上げ、姫のためにツガリアビキ(連雁天引)の祭をとり、姫の御霊を天国に届けました。形見の品はオオイソの山に塚を造って埋め、その上に神社(やしろ)を建てて神として祭り、名もアヅマモリ(吾妻森)と名付けました。マチカ・テチカの二人はついに姫への思いから、オトタチバナ姫の御霊をお守りして代々ここ大磯に留まりました。

 ヤマトタケはこの度の戦いで、自分の先祖霊が必ずやスサノオであることの確信を得て、河合(かわあい)の野に大宮を建ててお祭りをし、ヒカワ(氷川)神を祭らせました。
 戦勝記念に武器をチチブ(秩父)山に納めて、二月八日再び武蔵国を巡幸した時に人々が服(まつ)ろう印として、橘籠(カグカゴ)を家棟(やむね)に捧げて君を歓迎しました。事はすべて納まり平和がよみがえりました。そして、橘籠(カグカゴ)を捧げるのはホツマ国の世よの習慣となりました。 帰路ムサシの国を後にして、ウスイの坂(碓井)まで来た時、ヤマトタケは別れた姫を思いだし、東南(キサ)の海をはるかに望み、今は亡き姫と我との短い生涯を思いやり、姫の形見の歌冊(ウタミ)を胸からそっと取り出して見て、
さねざねし  サガム(相模)のオノ(小野)に
焼ゆる火の  炎中(ほなか)に立ちて  問(と)いし君わも この歌を三度読み「吾妻あわや」と悲しみ嘆き涙しました。
 これが東国(アズマ)の語源となりました。












(私論.私見)

39-91~94~100関東をあとに、東(あづま)の元

24. 関東をあとに、東(あづま)の元(39-91~94~100)
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・ ・ ・ ・ うすいのさかに(39-91)
やまとたけ わかれしひめを(39-92)
おもいつつ きさをのぞみて
おもひやり かたみの。うたみ
とりいだしてみて


「さねざねし さがむのおのに もゆるひの(39-93)
 ほなかにたちて とひしきみはも」
これみたび あづま。あわやと
なげきます あづまのもとや (39-94)


むさしの国を後にして、いよいよ関東に別れを告げようと、箱根の碓氷峠(碓日坂:日本書紀)にきたとき、「オトタチバナヒメ」(弟橘媛:日本書紀、弟橘比賣命:古事記)が嵐を鎮めようと入水したときの情景を思い出して、感無量になってしまいました。
「やまとたけ」は峠から「きさ=東南」の海に向かって、今は亡き妻の「オトタチバナヒメ」が詠んだ形見の歌冊(うたみ)を胸からそっと取り出し、この歌を3度詠んで、「あづまあわや」と感無量になってしまいました。

「さねざねし さがむのおのに もゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」
 (もゆる「ひ」:火)(「ほ」なか:炎)
ここの「ひ」と「ほ」はそれぞれ「火」と「炎」を表す表意文字にもなっている。



あづま(吾妻:私の妻)あわや(絶体絶命、天地人、もう二度と会うことも出来ない)  悲しんだこの言葉が、「あずま」の語源ですよ。と結んでいます。
それまでは、「ホツマの国」と呼ばれていました。



なお、「これみたび あづまあわやと なげきます あづまのもとや」のホツマツタエの記述に対して日本書紀、古事記は以下のように表しています。

日本書紀:
三歎曰、吾嬬者耶。故因號山東諸國、曰吾嬬國也。
みたびなげきてのたまわく、かれよりて、やまのひがしのもろもろのくにをいふ、あづまのくにとなり。

古事記:
三歎詔云、阿豆麻波夜。故、號其國謂阿豆麻也。
みたびなげかして、のりたまひき、あづまはやと。かれ、なづけて、そのくにを、いふ、あづまと、なり。

碓氷峠と言うと、まず思い起こすのが長野県軽井沢と群馬県安中市の県境にある峠の事と思っていました。しかし、ヤマトタケが実際に通った碓氷峠は箱根のR138の北側にあります。峠の名前も標識も確認できました。
さらに、その先の御殿場方面への「乙女峠」の「おとめ」は「おとたちばなひめ」から来ているような気がします。


25. 吉備武彦は越路へ、武日は土産を持って帝へ (39-94~95)

おいわけに きびたけひこは(39-94)
こしぢゆく くにさかしらを
みせしむる 


追分(旧軽井沢、信濃追分)に、吉備武彦は越路へ向かいました。そして越前・越中・越後の国々で、謀反を起こすものがいないかどうか査察して行きました。(検察史の任務)
追分とは、違う目的を持って分かれて再び追いついて会うことを意味していると思われます。

たけひはさきに(39-94)
さがむより ゑみしのみやげ(39-95)
もちのぼり みかどにさゝげ
ことことく まつらふかたち
もふさしむ
 

大伴の武日は先に相模よりエミシの土産(戦利品)を持ち上り、みかど(まきむきのひしろの宮)に捧げました。そして、エミシらが従った様子を説明申し上げました。
土産(みやげ)という言葉が既にあったのに驚きます。

26. ヤマトタケは単独木曽路へ(39-95~98)

ひとり。みゆきの(39-95)
やまとだけ しなのきそぢは(39-96)
やまたかく たにかすかにて
つゞらおり かけはしつたひ
むまゆかず くもわけあゆみ


一人で行かれたヤマトタケは信濃木曽路は山は高く、谷は深く、道は九十九折(葛)で懸け橋を伝って行きました。
馬(むま)も行かない道で、雲の中を行くようでした。
この恵那山の所は難所であった。

[しなの]の語源、[よしな]にはからえ(よしなに計らう)

うえつかれ みねのみあえに(39-97)
なるしらか まえにいきはき
くるしむる 


餓えて疲れはてていました。峯での食事のとき突然山の神が白鹿が現われ、君の前で息を吐いて(毒気を吐いた)苦しめました。

この記述は当時の冶金がこの付近で既に行われていたことを偵察に行ったことを示しているのではないかと私は考えます。
鹿の皮はふいごとして風を送り込む非常に重要な道具であったと考えられ、この冶金時に発生する毒ガスに犯されたものとも考えられます。
たとえ、そうではなくとも、この付近はいろいろな鉱物資源が埋蔵されており、単に鉱毒にやられたのかも知れませんが・・・。この個所も要再考したいと思います。


 きみはしろして(39-97)
ひる。ひとつ はじけば。まなこ
うちころす (39-98)


君は悟ってひる(行者にんにく)を投げつけたら目に当たって撃ち殺してしまいました。

なおくもおゝい(39-98)
みちたつを ひみつのはらひ
みたびのる しなどのかぜに
ふきはらふ 


それでも、雲はおおっていて、道をふさいでいたので、秘密の祓いを三度唱えました。風の神が現われて、雲を吹き払ってくれました。

27. 美濃にて吉備武彦と再会(39-98~100)

かみのしらいぬ(39-98)
みちびきて みのにいづれば(39-99)
たけひこも こしよりかえり
こゝにあふ 


神が白犬となって、導きだしてくれて無事、美濃にたどり着けました。
吉備武彦も越中より帰り美濃で会いました。

さきにきそぢの(39-99)
おえふすも はらひまぬかる
しかのちは ひるをかみぬり(39-100)
ざがいきに あたらしものと
かたりたまいき (39綾完)


木曽路(みさか峠)でのけがれ(毒気)に苦しんだが、打ち払って命からがら抜け出しました。その後は、行者にんにくを噛んで体に塗って毒気に当たらないようにしようとかたりあいました。

-39綾 完-

40綾へ続く

39-86~89~91 おとたちばな姫を祀り、大宮(氷川神)を建てる

22. おとたちばな姫を祀る(39-86~89)

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 まちか。てちかの(39-86)
とみふたり おとたちはなの(39-87)
くしと。おび うれば。なげきて
ひめのため つかりあびきの
まつりなす 


「まちか」(左近)「てちか」(右近)の臣(とみ)の添人二人は漂着した「オトタチバナ姫」が身に着けていた櫛と帯を得たことにより、嘆き悲しみました。「オトタチバナ姫」のためにツガリアビキ(連雁天引:雁がつながって天を引くように、御霊を天国に届ける)の祀り(まつり)をいたしました。

これ。そさのおの(39-87)
おろちをば つかりやすかた(39-88)
かみとなし はやすひめも
あしなづち なゝひめまつる
ためしもて 


昔、ソサノウが「ヤマタノオロチ」を退治したとき「ツガリアビキの祀り」が行われました。その祀り(神として天国につなげて送り届ける)で、にくきオロチ(はやこ)も退治してしまえば神となり、ハヤスヒ姫、あしなづち(8番目の子)、殺された7人の姫達)も祀って、つがり(御霊を天国に届けて)やすかた(宗方:平和)になった前例にならったからです。

「ハヤスヒ姫」(大分県 8番目の子供)もソサノウが恋したので怨みをかって殺されてしまう。天照に冷遇されたハヤコは「うさばらし」をする。ハヤコがオロチとなって、天照朝廷打倒を全国に呼びかけて、八年間の内乱になってしまう。国に帰って(木枯らしの竜、九頭竜川で)兵をあげた。
ハヤコは、天照のお妃であったと同時にイサナギの弟のクラキネのお嬢さんでもあった。そして、非常に権力をもっていた。更に、こまつひめハヤコは山陰地方を治めていた。

オロチが、実在したわけではなく、実際には女性同士の戦いで、ソサノウが恋した女性が全て許せなく、七姫、皆、殺されてしまった残酷さを、物語としてのちに伝えるためのものである。
昔、殺された七姫を、ツガリアビキの祀りをしたように、今回の葬儀も、前例に倣いました。

かたみをこゝに(39-88)
つかとなし なもあつまもり(39-89)
かみまつり こゝにとゝまる 


流れ着いた、形見の櫛と帯を埋めて塚とし、名前を吾妻守としました。大磯(現在の二の宮)に社(やしろ)を建てて神祀りをしました。「オトタチバナ姫」の付き人であった右近左近が此処にとどまりました。

23. 大宮(氷川神)を建てる(39-89~91)

はなひこは わがさきみたま(39-89)
しろしめし かわあいののに(39-90)
おおみやを たててまつらす
ひかわかみ
  

「はなひこ」(ヤマトタケ=日本武尊、倭建命)は 今回の東征の成功により、自分の(我が)先祖の御霊が「スサノウ」であると固く信じたので、川と川の合流地点の野に、先祖「スサノウ」を奉るため、大きな宮(すなわち氷川神社)を建てました。
(「かわあいの「の」に」の「の」は野原を示す表意文字)

「さき(先祖)みたま(御霊)」→「さきたま」→「埼玉」→「さいたま」に変わって行った。「み」は謙譲語。
「おおみや(大きな宮)」→「大宮」の語源となった。

「ひかわかみ」→「氷川神社」について、大宮にある氷川神社は武蔵一ノ宮といわれています。
「ヤマトタケ」は「スサノウ」の生まれ変わりと固く信じたので、「スサノウ」つまり「氷川の神」を奉った。

昔、「スサノウ」が「ヤマタノオロチ」を退治した場所が「ヒカワ」であったため「スサノウ」は「ヒカワ神」の名を天照大神より賜わったことによります。
また、今回の東征で、「ヤマトタケ」は「やまと姫」から「スサノウ」が昔、使った「むらくもの剣」を授かって、役目を果たせたことが「スサノウ」の生まれ変わりと信じさせたと考えられます。なお、この「むらくもの剣」は、敵に枯れ草に火をつけられたとき、この草をなぎ倒したところより「くさなぎの剣」と名前が変わります。

関東地方のあちこちに氷川神社があるのは「ヤマトタケ」が訪れた場所の名残と考えられます。氷川神社という神社は関東地方以外ではほとんど見受けられないようです。氷川神社の御祭神が東国とは関係ないスサノウであることも理解できます。

(当時は東京湾の海面が5mほど高かった推定され、大宮付近は海に近かったと考えられます。この川は荒川と利根川?と思われる)

いくさうつわは ちちぶやま (39-90) 

用済みになった「いくさうつわ(武器、甲冑)」は「ちちぶやま(武甲山)」に収めました(埋めた)。

きさらぎ。やかに(39-90)
くにめぐり まつらう。しるし(39-91)
かぐかごを やむねにさゝげ
ことおさめ ほつまのよゝの
ならわせや
 

そして、2月8日にこの近辺の国(武蔵の国など)に、未だ反乱分子がいないかどうか巡回してまわりました。
みかんの籠を家の棟に捧げているのを、従っている印にさせた。ホツマの国の代々の慣わしになりました。
しめ飾りにみかんを使うようになった始めと考えられます。

 続く




39-84~86.相模の館にて 虎柏(とらかしわ)鐙(あぶみ)を差し出す

21. 相模の館にて 虎柏(とらかしわ)鐙(あぶみ)を差し出す(39-84~86)

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ここから、話はがらっと変わります。

こぞよりつゝき (39-84)
あめはれて むつき。すえやか
みゆきふり  


昨年より引き続き天気は快晴でしたが、一月二十八日は大雪が降りました。(日代の41年になると思います)

きみ。そりにめし(39-84)
ゆきいたる さかむのたちに
いりませば (39-85)
 

ヤマトへ帰る途中、君(ヤマトタケ)はソリに召して(お乗りになって)
相模の館(厚木神社と考えられる)にお付きにになりました。

のに。かたあぶみ(39-85)
とらがしわ ひろい。かんがえ
あぶみ。さし いま。たてまつる
たまかざり
 

虎柏なる武将が、野戦で失った君の片方の馬具の鐙(あぶみ)を拾って考えた末、榊の枝にさして、御霊飾(みたまかざり)として、君(ヤマトタケ)の御前に奉りました(献上しました)。

ほめてたまわる(39-85)
むらのなも たまがわ。あぶみ(39-86)
みさしくに さがむのくにと
もとひこに なつけたまわる
くにつかみ
 

君(ヤマトタケ)は「トラガシワ」を誉めて、玉川あぶみ村(現厚木市)と名付けて褒賞として「トラガシワ」に賜りました。
戦歴の地をミサシ(献上:武蔵)国と命名し、サガム(相模)国と一緒に、「タチバナモトヒコ」に与え国造(国神)に取り立ました。

ここで、武蔵の語源が出てきます。

鐙をさして献上したことにより「あぶみさし」→「みさし」という国の名前が付けられた。「み」は謙譲語。
このホツマツタエ記述のこの部分を知らなければ、ヤマトタケの東征で唯一激しい戦いであった場所なので、「みさし」が「むさし」になまり、「武蔵」という漢字に置き換えられたのは的を得ているようにも思えます。

深大寺の近くにある、虎柏神社はこの「トラカシワ」という武将の名残と考えられます。ただ、現在地元では虎柏(こはく)神社と呼んでいます。
漢字文化が渡来して漢字を当てはめた地名が、いつの間にか音読みになった例が此処にもありました。

この虎柏神社付近の町名になっている佐須町や佐須街道はこの「みさし」の「さす」という語源から来ているものと考えられます。

虎柏神社は青梅にもあり、代々青梅の虎柏神社を管理されている方の名字が「さした」さんとおっしゃるそうです。

また、この「あぶみを拾った」という記述部分から、当時既に馬に乗っていたことも分かります。


「さがむのくに」の語源について、
天照大神の「うち妃」の一人、コマツスヒメハヤコが、ソサノウと浮気(当時は陰のみやびと言った)をしてから生まれた子供、三つ子について、天照大神は疑っているということは言えないので、私は夢を見た。
「やつかの剣を みきだにおりて さがみにかみて みたとなした」
ソサノウが背負っていた、持つところが八握りもある大きな剣を三つに折って、清めのためにつき出して見たら、三つの子宝となった。この夢より自分の娘は宝(子宝)である。
でも、結局は宇佐に流してしまうことになる。

天照大神は自分の子かソサノウの子かわからない。
宗方三女神として、トヨヒメアヤコが面倒をみた。三人の子供(三女神)は成人してから生い立ちを知り、日本中を禊をしてまわった。青森の善知鳥神社まで行っている。

この三女神のうち、エツノシマヒメ・タキコは江ノ島の祭神(相模の国)である。日本全国にある弁天様は彼女たちが禊をした跡と思われます。7綾参照




39-60~67~84東北からの帰途で~つず歌~流行歌

17. 東北からの帰途で~つず歌~流行歌(39-60~67~84)

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このゆきおもく(39-60)
ふもをあり おいてもとむる
おおともの さすらいよたり
おいかはり (39-61)
 

この靱(ゆき:矢を入れる入れ物)が重くなり、二百斤あり、強力な負い手を捜しました。大伴の武日の侍から、四人が負うのを代わりばんこで背負いました。
二百斤は約140kg(1斤=600gと仮定)
「さすらい」は侍の語源になっている。「侍四人」のこと。

つくばにのぼり(39-61)
きみとみも つさへいたる 


筑波山に登りました。君(ヤマトタケ)も大臣も登った。そして、西南へと向かいました。

さかおりの みやにひくれて(39-61)
たひおそく 


酒折宮(大伴武日の本拠地:甲府市)に着いたときには日が暮れてしまっていました。松明(たびまつ:手にもつ灯)を持ち、重いものを担いできたから遅くなってしまいました。

しからばこたえ(39-61)
ゆきおもく つかれぬふりて(39-62)
くれしらず 


遅くなったことを叱ったら答えは、靱(ゆき:矢を入れる入れ物)が重たくて、疲れてしまい、つい寝てしまいました。日が暮れたことに(夜になった)気がつかなかったと弁解しました。

 またいふよたり(39-62)
あいもちで なんぢばかりが
などつかる  


そうしたら、四人で交互に持っただろう。なぜ、お前だけが疲れるのだ。

ちからいとはゞ うたをよめ (39-62~63) 

力を出すのが辛いのなら歌を読みなさい。

こたえてかみの(39-63)
みよはうた いまはちからよ 


そうしたら、重たい靱(ゆき)を持つことになったその侍は弁解・言い訳に、神の代は歌であったかもしれないが、今は重たいものを持つ力が要るのだと訴えました。

ときに。きみ これきこしめし(39-63)
つず。はつね うたみにそめて
かえ。せよと なかえたまわる (39-64)


その時、会話を聞いていた君(ヤマトタケ)は
十九歌の、発句を歌札(うたみ:短冊)に染めて(書いて)、返歌しなさいと皆の中(侍者中)へ捧げました。

にゐはりつ。つくばを(39-64)
すぎて。いくよかねつる 


にいはり(新治:水戸線にある地名)地区から、筑波を通過して、幾晩寝た事だろう。

もろなさず ひとぼしよすな(39-64)
きみのうた かえしもふさく (39-65)


諸侍(皆)返し歌が出来なかったら、「ひとぼしよすな」が君(ヤマトタケ)の歌に返し歌を申し上げた。

かがなえて。よにはこゝ(39-65)
のよひにはとおかを 


考えてみると、夜は九泊(九の夜)なのに、昼(日)は十日たっています。

やまとだけ ひとぼしほめて(39-65)
たけだむら ほかは。はなふり (39-66)


返し歌を聴いて、「ひとぼしよすな」を誉めて、タケダ村(笹子峠を出た所)を賜わりました。その他の侍たちは賃金(花降り:砂金・銀)を賜わりました。

たけひおば ゆきべをかねて(39-66)
かひ。するが ふたくに。かみと
ことをほむ
 

大伴の武日はお宝(ゆきべ)を兼ねて、甲斐、駿河を賜り、両国の国神(守護神)として事を褒め称えました。

きみ。やまのひは ゆき。やすみ (39-66~67) 

君(天皇:此処ではヤマトタケ)が山に登る日は、靱(ゆき)侍は休みになります。

国見山、国見峠の名前が各地に見られるのは、国の様子がどうなっているのか高い所に登って眺望した名残りだということがわかります。

群馬県の尾瀬片品村に雪質の素晴らしい武尊(ほたか)オリンピアスキー場があり、その奥に武尊(ほたか)山があります。
この記述より、ヤマトタケが帰路に此処に立ち寄り登山されたことがわかります。
ここには、武尊山(前武尊と奥武尊)があります。さらに、この近くには花咲村という地名が残っています。花咲の武尊神社もあるようです。花咲の「はな」はヤマトタケの「はなひこ」から来ているのではないかと感じます。
何も知らないで、学生時代の仲間と一緒にこの片品村の武尊山の麓に山小屋をつくり、毎週のように来ていたことになんとも不思議な縁を感じます。ヤマトタケがこの武尊山に登っていたことを知り、ホツマツタエが非常に身近に感じられるようになりました。





18. つずうた発祥、早百合姫の歌(39-67~72)

わがきみにいふ(39-67)
すべらぎみ やつら。はなふり
そろりには たけた。たまわる
なにのこと  


休み中の侍が、不満をぶちまけました。わが君(ヤマトタケ)に言ってくれ。皆は賃金しかもらえないのに、「そろり」(ひとぼしよしなの実名)にはたけだ村を賜ったのはなぜだ。不公平だと文句を言っています。

たけひのいわく うたのこと (39-67~68)

大伴の武日は、それは歌を作ったからだと答えました。

 またとふかれは (39-68)
あわならず なにのうたぞや
 

そうしたら、再び問いました。
それ(かれ)はアワの歌((5・7調)になっていないではないか。一体何の歌なんですか?

また。いわく つずうた。むかし (39-68)

ここで、大伴武日が昔、つずうたが発祥した経緯の説明を始めました。

さゆりひめ とし。そこのとき (39-68)

昔、早百合(さゆり)姫という神武天皇の隠しお妃が19歳のときのことです。「そ」は十、「こ」は九 神武天皇は恐妻家であったので早百合姫とは密会していました。

たぎしみこ したひこうゆえ (39-69)

神武天皇が九州を統治していた頃、アビラツ姫(中宮:正妻で三島と伊予の両国を管轄していたかなりやり手の出身)との間に生まれた長男「たぎしみこ」がこの早百合姫(まだ19歳)に横恋慕してしまった。

分かりやすく言えば、父親の先妻との間に生まれて成人した(?)男の子が、父親の、年もまだ若くてかわいい、隠れ妻に手を出そうとしたことが発端です。

そのちゝが よびだすときに(39-69)
ひめさとり のぞくつゞうた 


早百合姫の父親(久米)が、呼び出したので、早百合姫は悟って、災いを取り除く「つづうた」を突きつけました。

あめつつち とります (39-69)
きみと などさけるどめ (39-70)


天つ地 鳥り増す君と(求愛行動・つがう) 何ど(何故)裂ける止め
私と天皇とは太陽と月の関係で、もう離れることは出来ません。なぜ、私たちの間の関係を壊そうとするのですか。

そのつずゝ かぞえてなかを(39-70)
つぼかなめ  


その十九音で歌った歌の最初から数えて真ん中の10番目を折り返し点(すなわち:き)を壺要(つぼ・かなめ)と言います。

このうたつゝき(39-70)
かぞえもの おりあわせめに
けりもあり (39-71)


この歌続きと上の句には「つず」があります。数えもの(中の句のことで十番目に「き」が君のことが入っています)。
そして、折り合わせ目(下の句のこと)には蹴りも入っています(蹴り返すの意味で此処では「ける」になっている)

きみとわれとは つゝきけり (39-71)

この歌は二人の仲(神武天皇と早百合姫)が続いていることを言っています。

 よこがめどるを(39-71)
さかしまに るどめに。とめて
たちきれば まめもみさほも
あらわせり (39-72) 


横我娶る(よこがめどる)すなわち横恋慕してめどる(性交する)ことを逆手に取って「ルドメ」に止めて(最後にする:「メドル」を逆から読んで「ルドメ」)、断ち切れば忠実心も操も表せます。

かれ。そこも。つず(39-72)
ものも。つず つゝきうたなり 


故に十九もツズ
「もの」(人物)もツズ(十九歳) よって、続き歌(連歌)なりけり

なつかはぎ こゝにゐてとふ(39-72)
つぎありや たけひ。こたえて 


七柄脛(なつかはぎ:人名)が此処に居て問いました。歌の続きはあるのですか。そうすると、大伴武日は答えて言いました。

19. つずうた(十九歌)の説明(39-73~79)

やそ。ありて はつは。おこりと(39-73)
つぎはうけ みつは。うたゝに
よつあわせ
  

一連八十句ありて、発句は「起こり」と言います。
次ぎ(二つ目)の句は[受け]と言い、三つ目の句は「転たに」と言います。四つ目の句は「合わせ」と言います。漢詩でも起承転結と同じようですね。

ゐつは。たゞこと(39-73)
むつは。つれ なゝは。つきづめ 
やつは。つき (39-74)
 

五つ目の句は「只事」と言い、六つ目の句は「連れ」と言い、七つ目の句は「月詰め・付き詰め」と言い、八つ目の句は「月・くっつく」と言います。

おもて。よつらね(39-74)
まめみさほ まてにかよはず
うら。よつれ はつは。かしらの
ゐおしてえ めくらしつらぬ 


表四連ね 忠実心・操 まて(両手)に交わらず
(初折)裏四連れ 発は頭の 五文壐(おしで)
巡らし連ねます。


そのつぎは うちこしこゝろ(39-75)
うたゝ。さり もとにむらがる
ひとつらね そむをひとおり
すべゐおり やそをもゝとし 
おりは。ふそ (39-76) 


その次は 打越し心 
転た去り 元に群がる
一連ね 十六句を一折 (そむ:十六)
総べ五折 八十を百として 
一折二十句とします。

かれ。おりとめの(39-76)
つずはたち おりはつのつず
あひかなめ おりつめのつず
みそこはな みの。つめゐそこ


故に、折留めの 
二十(機立)のツズ 第二折り初のツズ
天一要め おり詰めのツズ 
三十九花 第三折の 詰五十九

ここで、機織(はたおり)の「機立(はたち)」と、「つず歌」の「折りとめ」が同じ「止め」を意味しており、この「つず歌」の「折りとめ」が「機立(はたち)」と同義語になったと考えられます。すなわち、「十九」の次に来る「二十句」目のことを「はたち」と言うようになり、二十歳のことを「はたち」という語源であると考えられます。



つず。さづめ よの。つめ。なそこ(39-77)
つづ。ふづめ ゐの。つめこそこ
つず。つくも  


ツズ 早詰 第四折 詰七十九
ツズ 文詰 第五折 詰九十九
ツズ 「も」百に「つく」つながる。

ゐふしにほひの(39-77)
はなはゆり もとうたはきみ 


五節句は匂い(香花)の 花は百合(早百合姫を意味している)で元歌は君(宗匠:ししょう)

そのあまり ゑだや。はつこを(39-78)
やそつゞき なお。ふかきむね
ならひうくべし
 

その余り続きは 支族や子孫がうめて行きます。
八十連続き 尚、深遠なる旨
良く習って受けなさい。

またとふは やそを。もゝとす(39-78)
かずいかん (39-79)


七柄脛(なつかはぎ)が大伴武日に又、問いました。 
八十の句を百句に数えるのはどういうことですか。

 こたえはかなめ(39-79)
またくばる もとうたをふそ 


答えは閉じる側(要側)には各歌の元歌が配される。元歌は毎回出るので合計一折二十句になります。

私には、何となく分かったような、分からないような説明です。実際には、どんな配列でどんな綴じ方をしていたか、裏とあるのは紙の裏表を使っていたのかなどが分からないため、完全には納得していません。要再考です。

20. 神武天皇が日向に行ったときの流行歌も(39-79~84)

かえしとふ ゆりがはじめか(39-79)
こたえいふ かみよにもあり  


再び、七柄脛(なつかはぎ)が質問しました。この歌は百合姫(早百合姫)が初めてですか。
大伴武日が答えました。もっと昔からもありますよ。

みおやかみ つゝのおしてや (39-80)

天照大神の時代の「さつさつづうた」にもありますよ。

天照大神がお妃に裏切られ、八年間内乱になった時、反逆者(反乱軍=はたれ)を取り押さえるため、自らが八さ車(八角形の神輿に車のついたもの)に乗り戦った。
「さつさつづうた」を記した板切れに餅をつけて敵の陣地に投げ入れ、敵はその餅をむさぼり食べているところを一網打尽に捕らえた。

悪魔払いの長い歌「さつらでも はたれもはなげに みつたらず かかんながも てだてつき かれのんでも あにきかず ひつきとわれは あらもてらふさ」 の最初の「さ」と真ん中の「つ」と最後の「さ」で「さつさ」の三文字で全てを言い表した。

はたれ=はたやれ=はたおれず=機(はた)が織れない つまり反逆者(悪魔)がいると国が乱れ、国が治まらない。悪魔払いの語源が「さつさ」となった。
いまでも「さっさと片付けなさい」などと言っており面白い。

また、国が「治まらない」の語源は「おさ」(筬=縦糸の位置を整えて横糸を打ち込む櫛のような治具:竹の薄い小片を櫛の歯のように列ね、長方形の框(わく)にいれたもの)が廻らないから、機織(つまり国の政治)がまわらないことを言っている。

あめみこの ひふがにいます(39-80)
やまとちの はやりうたにも 


そして、神武天皇(あめみこ)が日向に赴いていた時、中央(ヤマト)が荒れてきたという流行歌(はやりうた)にもありますよ。

神武天皇は滋賀の多賀の宮の生まれですが成人される頃、お父さん(うがやふきあわせず)が九州で亡くなられたので、神武天皇は九州に行きましたが、九州での乱れを治めるため引き止められてしまい10年ぐらい現地で政治を取ることになってしまいました。その結果、中央(ヤマト)では「ながつねひこ」や「にいはやひ」などが勝手な振る舞いをするようになってしまった。そのため、ヤマトが荒れているので、天皇に早く戻ってきて欲しいという流行歌が広まった。

のりくだせ。ほづまぢ(39-80)
ひろむ。あまもいわふね(39-81)


乗り降せ 秀真路 弘む下界(あまも)岩船
天皇よ、早く東国(九州から見ているのでヤマトのこと)に帰ってきて下さい。
政治の行き届いた天下にして欲しい。

この当時から、既に流行歌(はやりうた)という語源があったことに驚きました。ヤマトでの流行歌が九州まで広がっていったという事実には更に驚かせられます。

しほづゝお すゝめて。やまと(39-81)
うたしむる これ。おりかえに
あひつ。あり かれうちとるを
よしとなす (39-82)


しほつちの翁(はやみ県主:九州の豪族)がヤマトを討てと押しすすめました。
この歌を逆に読むと「あ」・「ひ」・「つ」が含まれており、「あまひつぎのきみよ」を意味しています。

「あ」は「あま」で天皇であり、「ひつ」は「ひつぎ」で勅使とか天皇の位の皇子のことを示しています。

つまり、「あまひつぎのきみよ」は天皇になるタケヒト(神武天皇の本名)よと言っています。

留守を良いことに勝手なことを言い出しているヤマトを討つ正当な理由が出来た。貴方(神武天皇)が行く以外ないと勧められ、神武天皇はヤマト討ちに出発することになった。

 ゆりひめ。もつゝ(39-82)
うたもつゝ まめとみさほと
あらわせば つゝきうたよむ
のりとなる (つゝにうたよむ:小笠原写本)


百合姫本人もつづ(十九)、百合姫の歌もつづ(十九)であり、まめ(忠義)と操の両方を織り込んでいる歌をつきうた(連歌)のしきたりとなりました。

 ついにほつまの (39-82)
まつりこと あめにとほれば(39-83)
ことごとく まつらふときぞ 


ついに真秀の政治が天下に行き渡ったので、全てのハタレ(反逆者たち)や全国の神も従う時が来ました。戦いが終わって平和になりました。
それほど、トラブルが多かったことを示していたことになります。

うたはくに ちからは。あたひ(39-83)
たまわりし きみは。かみかと
みなめつむ (39-84)


だから、歌は国と引き換えになるほど、重要な価値のあるものです。力仕事は単なる賃金です。
ヤマトタケから賜り、配下の八十神たちは君(ヤマトタケ)は神ではないかと皆涙しました。

 続く




39-38~39~60.勿来に行宮(あんぐう)を建て滞在、竹の湊で行く手を拒まれる

12. 勿来に行宮(あんぐう)を建て滞在、竹の湊で行く手を拒まれる(39-38~39~60)

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あしうらこえて (39-38)
なこそばま かりみやにます 


葦浦(あしうら)を越えて、勿来(なこそ)浜に着き、ここに行宮を造営して滞在しました。
 
ひたかみの みちのく。しまつ (39-38)
みちひこと くにづこ。ゐたり (39-39)
あがたぬし ももなそよたり 
よろやから たけのみなとに 
こばむとき  


日高見神陸奥と島津道彦と国造り5人、県主等計百七十四人と数万の兵士が竹の水門(湊)に結集して行く手を拒んでいました。

「なこそ」の解釈については、「な」は否定語で、「こ」は、来るの意味から、蝦夷に対して、此処から先へ来てはいけないという関所であったようです。
いわき市の南、茨城県と福島県の県境が有名ですが、他にも同じ「勿来」という地名があり、歴史の流れの中の力関係で行きつ戻りつしていたものと考えます。


竹の水門(湊)について、吉川弘文館発行の街道の日本史13によると、この勿来の関の北のいわき市の小名浜港の近くに代官所があり、初代代官に竹垣治部右衛門(たけがきじぶえもん)という方の名前が目に留まり、ひょっとして、関連があるのではないかと推測しました。場所的にも大人数が終結できるし、此処が竹の湊(水門)と思われますが、如何なものでしょうか。

13. 大伴武日を勅使に、島津の神は降伏(39-39~40)

たけひを。やりて これをめす (39-39~40)

そこで、ヤマトタケは大伴の武日を勅使として遣わし、両首領を召されました(呼び寄せました)。

しまつのかみは (39-40)
あらかじめ いさわに。おそれ 
ゆみやすて みまえにふして 
やつろひぬ 


島津の神は、事前に君の威勢に恐れをなし、て勝ち目は無いと知り、弓矢を捨て、君の御前に降伏して服しました。

14. 大伴武日、日高見陸奥の言い分を聞く(39-40~46)

たけひまたゆく (39-40)
ひたかみの みちのくに。つぐ (39-41)
さおしかど みちのくかどに 
いでむかえ
 

大伴武日は、再び出向いて、日高見陸奥に告げました。勅使(大伴武日)を、日高見陸奥が門まで出迎えました。

みちのく。いわく (39-41)
いまなんぢ ひとのすべらぎ 
きみとして つかえるなんぢ (39-42)
おとろえり 


日高見神陸奥は言いました。今、汝は神ではなく人間の天皇(すべらぎ)に仕えて、君(天皇)と言っているが、仕える汝も衰えたものだ。

いまきてくにを うばわんや (39-42)

今頃、ノコノコやって来てわが国を奪うつもりか。

たけひのいわく (39-42)
かみのみこ なんぢを。めせど 
まつろはず かれにうつなり (39-43)


大伴武日は答えて言いました。神の皇子(みこ)(ヤマトタケ)が汝を召せど(呼び寄せたが)、服(まつろ)わないため、故に討ち滅ぼしに来た。

こたえいふ これなんのこと (39-43)
なんのいゐ
  

日高見陸奥が答えて言った。いったいこれは何のこと。何の謂い(いい)。

それわがくには (39-43)
おゝみおや たかみむすびの 
このくにを ひらきてなゝよ (39-44)
これをつぐ 

 
それわが国日高見は、大御祖神(おおみおや)高皇産霊神(たかみむすび)がこの国を開いて、七代の豊受神(とよけ:伊勢神宮祭神)がこれ嗣(つ)ぐ。

ひのかみここに みちまなぶ (39-44)

この時、日の神(天照神)もこの地(日高見のヤマテ宮:仙台)で天成神道(アメナルミチ)を学ばれたではないか。

ここはタカミムスビ家であり、この「タカミ」に天照大神の「ヒ」をつけて「ヒタカミ」という国名になった。仙台という漢字はヤマ(仙)テ(台)宮からつけられた。

かれひたかみぞ (39-44)
あめのみこ ちゝひめとうむ 
みこふたり (39-45)
 

だから、この地を日高見と言うのだ。天照神(あめ)の皇子(みこ)=オシホミミはタクハタチチ姫(豊受の娘)との間に二人の皇子を儲けた。

ゑはあすかみや とははらみ (39-45) 

兄(ゑ)はアスカ親王(クシタマ・ホノアカリ・テルヒコ)として大和国に封じ、弟(と)はハラ親王(天孫ニニキネ)でホツマ国(はらみ山=富士山)に封じた。

そのときくにを (39-45)
たまわりて そよの。はつこの 
われまでは よその。た。うけず 


その時、天照神から日高見(ひたかみ)国を賜ったのが、我が先祖のタカギ神で十四(そよ)代の裔(はつこ)の我までは他国の援助(た:助け)を受けず守ってきた。

それのきみ あすかをうちて (39-46)
くにをとる かみに。たがえり
かれなれず (46)


以前、タケヒト(神武)が正統なアスカ宮を討って、ヤマト国を奪ったのは神の道に反しているぞ。これ故、汝らの行為を認めないのだ。

 いま。また。きたり(39-46)
とらんとす これも。かみかや
すべぎみよ (39-47)


今、また、突然現われて、国を取らんとするのか。これでも神天皇(すべらぎ)のやることか、単に人の統治者(すべぎみ)ではないか。



15. 大伴武日が論証で日高見陸奥を説得(39-47~55)

たけひ。ほゝゑみ (39-47)
これなんぢ ゐなかにすんで
さわをみず ことよきに。にて
あたらずぞ
 

日高見陸奥の言い分を黙って聴きおえた大伴の武日は
これ汝、井の中に住んで沢を見ずという言葉を知っているかな。一見道理にかなっているようだが、正当性に欠けている(似て非なる)のだ。 

いなか(田舎)の語源 井中に住んで沢を見ず

しかときくべし(39-47)
これとかん (39-48)


そのわけを説いて聞かせるからしっかりと聞くべし。

むかしあすかの(39-48)
ながすねが ふみぬすめとも
あすかぎみ たゝさぬゆえに 


昔、アスカの臣のナガスネが無断で春日の神庫から世嗣紀(よつぎふみ)を盗み出したのに、いつまでもアスカ君が糺さなかった。(糺せなかった)

のりくだせほづまぢ 
ひろむあまもいわふね (39-48~49)


乗り降せ 秀真路 弘む下界(あまも)岩船

よにうたふ しほつおきなが(39-49)
これゆきて むけざらんやと
すゝむゆえ やまとたゞせば


 この歌が世に流行して、「シホツチ」の翁(九州宇佐の県主と思われる)がタケヒト(神武)に「今こそ立って国を治めなさい東征(むけ)ざらんや」との進言により、ヤマトを討って糺した。
(だから、勝手に盗んだのではないと援護した)

おおんがみ かしまのかみに(39-50)
みことのり ゆきてうつべし 


オオン神(天照大神)が夢枕に現われて、鹿島神(タケミカヅチ)に向かって命令(詔みことのり)した。
「神武天皇が苦労しているようだから、お前が行って、ヤマトを討ってきなさい」

そのこたえ われゆかずとも (39-50)
くにむけの つるぎくだして
たかくらに これさゝげしむ (39-51)


鹿島の神の答えは「私が行くこともないでしょう。国を成敗する剣を神武天皇に捧げれば済むことです。」
夢から覚めたら高倉に剣が捧げられていました

たけひとは きみたるいとの(39-51)
あるゆえに あめよりつゝく
かみのみこ よゝにあまてる 


タケヒト(神武)は君としての人格を充分にそなえて、威徳もあるので天神より続く神の御子として代々に天照(あまてら)していらっしゃいます。

なんじよゝ きみなくこよみ(39-52)
いづれぞや こたえて。いせと
 

汝、代々君無くして、暦をいったい誰から受け取っているのかとの問いに「伊勢」からであると答えました。

またいわく あまてらすかみ(39-52)
こよみなし ぞろうえさせて 


更に、天照神が最初に暦を作り授けたので、田植えの時期も正確に出来るようになったではないか。

かてふやし みをたもたしむ(39-53)

お陰で、民の糧(かて)も増えて、皆、命を保っているではないか。

もゝなそこ よろみちつゞく(39-53)
このよみて いまひのわちに
おわします
  

神は今も百七十九万三千年続いているこの世を見守って、今は日輪内(ひのわち:太陽の中心)にお帰りになり御座されています。

みまこのよゝの(39-53)
たみおさむ ひに。なづらえて(39-54)
あまきみぞ 


御孫(みまご)(天孫ニニキネ)は本格的に水田を作り、代々民を豊かに治めたので、天照日に準えて(なぞらえ)天君(あまきみ)と呼ぶようになったのです。

なんぢはよゝに(39-54)
みのりうけ いのちつなきて
いまだその きみにかえこと
もふさぬは そのつみつもり(39-55)
いくらぞや
  

汝は、代々実りを受けて、命を保ちながら、未だにそのことに気づかず、君に感謝の返礼もせず、詣(もう)さぬようでは、その罪が積もり積もって幾らぞや。

ぬけみちありや(39-55)
わがきみは かみならずやと


どうじゃ、抜け道があるか。まだ、わが君は神でないといえるか!と諭しました。

16. ヤマトタケは陸奥を許し年貢を捧げさせた(39-55~60)

このときに みちのくおよび(39-55)
みなふして まつろいくれば(39-56)
やまとだけ みちのくゆるし 


武日の説得に応じた、このとき、日高見陸奥はじめ全員がひれ伏して服(まつら)い来たので、ヤマトタケは日高見陸奥の罪を許しました。

なこそより きたはみちのく(39-56)
くにのかみ もがたのはつほ
さゝけしむ (39-57) 


勿来(なこそ)より北は、陸奥(みちのく)と名付け賜り、国神(クニツカミ)に新たに任命して、百県(あがた)から初穂(はつほ:年貢)を捧げさせました。

つかるゑみしは(39-57)
みちひこに なそがた。はつほ
さゝけしむ
 

津軽蝦夷(えみし)は、島津道彦に与えて、七十県から初穂(はつほ:年貢)を捧げさせました。

みなみはひたち(39-57)
かつさあわ みかさ。かしまに
たまわりて (39-58)


南は常陸(ひたち)、上総(かずさ)、安房(あわ)を「ミカサカシマ」(大鹿島)に賜わりました。

かしまひでひこ (39-58)
ときひこも おとひこみたり 
みはたまふ
 

鹿島秀彦、香取時彦、息栖乙彦の三人にはヤマトタケの御衣(みは:着物)を賜わりました。

くにづこゐたり(39-58)
かみのみち しいてもふせば
めしつれて いたる。にはりえ (39-59)


国造(くにつこ)の五人が、神の道を学びたいと強いて願い出るので、召し連れてニハリの宮へ向かいました。

後にこの5人はトリコ(捕虜)という記述になっており、宇治で釈放と書かれており(40綾-13)、大鹿島命(初代伊勢神宮)の添人にするが、勝手な振る舞いをするので5人を播磨、安芸、阿波、伊予、讃岐と別々に住まわせることになります。(40綾-64~66)

ゑみしから かぞにしきとは(39-59)
わしのはの とがりやもゝて
たてまつる 


エミシ(津軽蝦夷 島津道彦)からの献上品は、数峯錦(かぞみねにしき)十反と、」鷲の羽根の尖り矢(石のやじり)を百手(ももて)奉りました。


数峯錦(かぞみねにしき)とは、沢山の山を織りこんだ錦織のことであり、当時の大陸からの交易品と考えられる。既に、北方の交易が頻繁に行われていたことの証拠でもあります。
中国(支那)の北側にセレスという絹の国が存在していており、シルクロードの出発点であったことよりもうなづける。プトレマイオスの復元地図に記載されており、スキタイ人の住む二つの国を越えると高い城壁が取り囲むセレス人の国に到るとあります。




みちのく。よりは(39-59)
きかね。とを くまそやもゝて(39-60)
たてまつる  


ミチノク(日高見陸奥)からは、黄金を十斤と熊龍矢(クマソヤ:クマゲラ(鷲)の毛)を百手(ももて)奉りました。


「きかね」といっていた訓読みの黄色と金の漢字をあてはめていたのが、いつの間にか音読みで読まれるようになった例ですね。
黄金を十斤について、当時はどうか分かりませんが、一斤は約600gと仮定すると、十斤=約6kgfになり、1gが約三千円弱として現在の価値では1千8百万円近くになります。

金について、当時から貴重な財源として取り扱われていたことがわかります。それと同時に、ここ陸奥で金が採取されていたことは、ヤマト政権に頼らずとも独自の大きな権力を持っていたことが伺えます。後世の平泉中尊寺や奈良の大仏建立時の金に容易に結びつきます。

余談ですが、今、温暖化が叫ばれていますが、当時(?)縄文・弥生時代にかけて、現在より気温が5℃位温暖であったという研究報告を聞いたことがあります。そうであれば、仙台以北のこの地方は今よりも非常に温暖で住みやすく、逆にヤマトの方はかなり暑かったのかもしれません。
そして、紀元後、時代とともに、気温が下がってきて、エミシが南下して来ることに繋がった要因ではないかと考えます。


続く

39-34~36. 上総へ船で、嵐に遭いおとたちばな姫は竜の身代わりに

10. 上総へ船で、嵐に遭いおとたちばな姫は竜の身代わりに(39-34~36)

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とき。やまとだけ (39-34)
おゝいそを かづさえ。わたす 
いくさぶね  


ときにヤマトダケは大磯(吾妻神社)から上総国(かずさ湊)に軍船(大亀船)に乗ってわたりました。

たゞよふかぜを (39-34)
しつめんと おとたちばなは (39-35)
へにのぼり あめつちいのり 
わがきみの いつを。やまとに 
たてんとす 
 

そうしたら暴風にあい、暴風を鎮めようとオトタチバナ姫は舳先に上り、天地神に祈り、我が君(ヤマトタケ)が必ずや大和のために手柄をたてて欲しいと願いました。

われ。きみのため (39-35)
たつとなり ふねまもらんと (39-36)
うみにいる 


私は君(ヤマトタケ)のために、竜の身代わりになって、船が無事に着くようにと海に身を投げて走り水)しまった。
横須賀の浦賀水道に面した所に走水という地名が残っています。


もろ。おどろきて (39-36)
もとむれど ついにゑざれば 


皆、驚いて探しましたが、ついに見つけられませんでした。

なみなきて みふねつきけり (39-36

その後、波は凪いで船は無事に着きました。



11. 上総にて(39-37~38)

やまとだけ かづさにいれば (39-37)
さかきゑに かがみを。かけて 
むかひます  


ヤマトダケは上総に入って、榊枝に鏡を掛けてひたかみ国へと進軍しました。(皇軍:みやいくさ)

かとり。ときひこ (39-37)
ひでひこと いきすおとひこ 
かねてまつ おゝかしまより (39-38)
みあえなす 


香取時彦と鹿島秀彦と息栖乙彦が既に待っていました。大鹿島(国摩(くになず)大鹿島)は、多くの兵のために御饗(みあえ:もてなす)を盛大に開きました。

続く

39-21~23~36. 御幸狩り決定、おとたちばな姫を先に実家へ

6. 御幸狩り決定、おとたちばな姫を先に実家へ(39-21~23~36)

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話しが、また現在に戻ります。

たちばなひめと (39-21) 
ほつみてし さくらね。ましを 
さきにやり (39-22)


おとたちばな姫(ヤマトタケの3番目の奥方)と「ほつみてし」・「さくらねまし」(右大臣・左大臣)を先に実家(おとたちばな姫の実家:厚木)に行かせました。
ヤマトタケは「やまと姫」に挨拶のため伊勢の宮を経由しての別行動であった。

尾張までは後妻である4番目の宮づ姫を、尾張の実家迄送っていった記述が、後に出てきます。
それぞれのお妃を実家へ連れて行ったのは、死を覚悟していたから、万一のときは、後々、宮中で主のいない生活をさせないという配慮があったと考えますが如何でしょうか。

そして、御幸狩り(戦闘開始)の決定がなされました。

いくさくだれば (39-22)
ひたかみが まねく。もとひこ 
うなづかず さがむのおのに 
しろかまえ てしと。ましらと 
もりかたむ (39-23)


御幸狩り(戦闘開始)の決定がなされた御触れがでました。「みちのくのひたかみ」が橘元彦を味方に引き込もうとしましたが、元彦はうなづきませんでした(同意しなかった)。
橘元彦は相模の小野に館を構えて、「テシ」と「マシ」等(右近・左近)将兵を率いて守りを堅め、ヤマトタケの御幸狩りに来られるのを今か今かと待ち望んでいました。

「たじまもり」(田道間守):崇神天皇の時、新羅の王子「あめひぼこ」が来朝し、天皇に服つらい帰化した5代孫)・「おとたちばな姫」の実の父親
橘元彦(関東の厚木の小野神社を拠点)


7. 計略に遭うが秘密(火・水)の祓いで賊軍(あだいくさ)を焼き滅ぼす(39-23~26)

ゑみしのやから (39-23)
せめのぼる すそのに。であふ 
やまとたけ 


エミシの奴らの対応は素早く攻めてきました。富士の裾野でヤマトタケはエゾ等と出会います。

ゑぞらあざむき (39-23)
ののしかゝ いき。きり。たちて 始めの「の」は野を示す文字
ふみしだく しもとゆふして (39-24)
みちをしる のそみめぐりて 
かりたまえ 


エゾ等は言葉巧みに計略をはかりました。この辺は野性の鹿が群れを成して息が霧のように立ち昇り山を踏みしだいています(荒らしている)。木の枝の乱れ絡みで鹿の道が分かります。存分に鹿狩りを楽しんでください。


きみはげにとや (39-24)
ゆきもとむ あたのをやきて 
あざむけば しりて。きりひの (39-25)
むかいひに ひみつのはらひ (ひ:火)
みたびのる (24~25) 「み」は三を示す


きみ(ヤマトタケ)は「分かった」と言って鹿を求めて野に入っていきました。敵は頃合いを計って辺りの野に火をつけた。ヤマトタケは欺かれたことを知って、切り火を起こして迎え火を放って、秘密の祓いを三度唱えた(祈った)。

ここで、「むかいひ」、「ひみつ」の「ひ」は「火」を表す表意文字(今風の絵文字)になっています。

こちふきかわり (39-25)
にしけむり あだにおふえば 
くさをなぐ もえくさとびて (39-26)
あたいくさ やきほろぼせば 
やけづのや つるぎのなをも 「の」は野を示す文字
くさなぎて (くさなぎと:小笠原写本) 


秘密の祓いをしたら、風向きが東風にかわり西に煙が移りました。
仇(敵の頭上)に火が覆った。そして、きみ(ヤマトタケ)が草を薙ぎ払うと燃え草が飛び行きて賊軍(アダイクサ)を焼き滅ぼしてしまいました。
このときから、ここを焼けた野原(焼津)と言うようになりました。そして、むらくもの剣の名前も草薙の剣というようになりました。
草薙(草薙の剣)の語源と 焼津の語源もここから出ていると考えられます。

8. 相模の城へ南北に分かれて敵を挟み撃ち(39-26~31)

あしがらやまに (39-26)
せめいたる さかむのお野の (39-27)
しろせめを かたくまもれば 
あたやから よもに。たきぎを 
つみあげて なそか。ひでりに (ひ:日)
ひぜめなす (ひ:火)(39-28)


この事件により、相模の館の窮状を知り、急いで足柄山に至りました。相模の小野の城を敵が攻めているのを必死で守っていました。敵どもは四方に薪を積上げて、七十日間も日照りの続いた後に、火攻めを仕掛けてきました。

かわきもゆれば (39-28)
やまとだけ やぐらのたけに 
のぼりみて 


相模の館の方面が、乾ききって燃え広がているのを、ヤマトタケは矢倉岳に登って遠望して、緊急の作戦を取りました。

きびたけひこを (39-28)
おゝいそえ おゝとも。たけひ 
おゝやまの きたにめぐりて (39-29)
しろにいれ さねにわかちて 


まず、吉備武彦の軍を南側の大磯に向けて出発させて、大伴武日の軍を大山の北側から回って入城させ、南北に分かれて敵を挟み撃ちに追い詰め戦いました。

やまとだけ かみすき。きよめ (39-29)
しらかしの たちをはらみの
みはしらと いのるひみつの 
きよはらひ (39-30)


ヤマトタケは髪をすき身を清めました。(死を覚悟した) 白樫の木刀を富士山の御柱になぞらえて、秘密の災いを祓った。

たつたのかみの (39-30)
あらわれて このしろゐけの 
たつのあめ ふりひをけせば 


そうしたら、龍田の神(波沈めと火を沈める神)が現われて、このしろ池に竜の雨を降らせて火を消し止めました。

9. 「おとたちばな姫」と再会を喜ぶ(39-31~34)

みやいくさ いさみてあだを (39-31)
なかばうつ みな。にげちれば 
ときをあけ (31)


皇軍(みやいくさ)は勇み立って、敵を半ば撃ち殺しました。敗残兵は皆逃げたので、ときのこえ(戦勝宣言)を上げました。

むかひいるとき (39-31)
おとひめは きみのてをとり 
やすんぜて やつかれ。はじめ (39-32)
おのおのが まさにやけんと 
いのりまし 


城門が開き入城した時、オトタチバナヒメはヤマトタケに走りより、手を取り、労いの声をかけました。火攻めににあって焼け死ぬ状況の中で君の安否を祈って聞いて歩きました。

いまさいわひに (39-32)
おがむとて よろこびなんだ 
そで。ひたす (39-33)


今、こうして君のお顔を拝むことが出来ましたと、喜びの声でとめどなくなく流れる涙で、袖を濡らしました。

こゝにもとひこ (39-33)
よもにふれ まつろわざれば 
ころすゆえ おゝんたからが 
みかりこふ ことはじめとて 
しはすやか かくかご。たてゝ (39-34)
しるしと。す 


ここで「もとひこ」が 四方にお触れを出しました。従わない者があれば殺す。(死罪に処す)そうしたら、百姓たちが、み刈を願い出ました。事の始めとして12月8日にみかんを籠に入れて進軍しました。

軒先にみかんを入れた籠をたてることで従っている印としました。

日代40年の6月に大伴武日が上京して訴えてから、約3ヶ月後の10月2日に門出して、富士山の麓の反逆者を制覇して12月2日に凱旋の進軍をしている。馬を使ってのかなりの機動力であったことがうかがえます。
出発までの準備期間が3ヶ月というのも、80人分の馬、食料などかなりの量を、まかわなければならず大変であったと思う。


 続く




39-17~21. 橘元彦を味方につける

5. 橘元彦を味方につける(39-17~21)
ここで、突然、話しが昔に戻って、「かぐもとひこ」(橘元彦)に会いに行った「たじまもり」(田道間守)にふれています。

さきにたじまが (39-17)
のこしふみ くにそまざれば (39-18)
かぐのきを ゑんとおもえば 
たちばなの もとひこがやに 
としふりて なじみてめぐる 
ひたかみと しまずのきみに (39-19)
あひしりて やゝゑてかぐを 
ひかぬまに きみかみとなる
 

以前「たじまもり」(田道間守)の遺言書(のこしふみ)には、天皇(垂仁)の勅を受けて東国(ほつまえみし)へ視察に赴きました。講和を結びに行きましたが、先方のプライドが高いので、少なくとも表向きは「かぐの木」をもらいに行くことにしました。橘元彦の館で、じっくりと土地に馴染み親しんでいるうちに10年も経ってしまいました。
日高見君陸奥(仙台)と島津道彦(青森)とも馴染みになって(親しくなって)やっと念願が叶い「かぐの木」を得ルことが出来ました。そして、宮中に帰りましたが、時すでに遅しで君(11代垂仁天皇)は神となって天国へまかられていました。

ちゝくやみ いまわかみやに (39-19)
たてまつる きみやつかれが (39-20)
もとひこに むすぶしづくの 
みなもとを おぼしけほづま 
しろしめせ (19~20)


やっとの思いで戻ったら君は亡くなっていたことを知り、悔やんで悔やんで(千の千:非常に多いこと)、今の新しい天皇(12代景行天皇)に奉ります。君よ(天皇)、どうかやつかれ(私)が元彦の家で結ばれた兄弟の滴(しずく)の源流(みなもと)を思しめして、ほつま国と平和裏に国を治めて下さい。自分からは戦いをしないでくださいと願っています。
すなわち、たじまもり(田道間守)は、もとひこの妹のはなたちばな姫と一緒に住んでおり、夫婦であったことを暗に言っています。

ここにすべらぎ (39-20)
たけうちと かたりあわせて (39-21)
ほづまくに かぐもとひこを 
みなにして 


この遺言書を読んで景行天皇は「竹内すくね」と相談してホツマの国の「かぐもとひこ=橘元彦」を味方に引き入れてることにしました。

38綾(章)の下記を参照願いたく
15. 二十五年七月「たけうちまろ」にほづま巡察の詔(38-79~80)
16. かぐのやかた(もとひこ)に道を乞う(38-79~80)
18. もとひこは本音で語り合った(38-86)

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39-13~17.ヤマトタケ東征へ、ヤマト姫にあいさつ

4.ヤマトタケ東征へ、ヤマト姫から「むらくもの剣」を授かる(39-13~17)

おがみてきびの (39-13)
たけひこと おゝともたけひ 
したがえり なゝつかはぎを (39-14)
かしはでと かなつき。ふかに 
かどでして 


参拝して、いつも身際に控える吉備武彦と大伴武日を武将として定め従えて、ナナツカハギを食事係に決めました。そして10月(かなつき:神無月)2日に門出(出発)しました。このナナツカハギは会計も担当していたことが後(40綾-17)になって分かります

みちをよこぎり (39-14)
なか。いせの かみにいのりて 
いそのみや やまとひめにも (39-15)
いとまこい きみのおゝせに 
あたうちに まかるとあれば 
やまとひめ 


けものみちを真っ直ぐに突き進み(よこぎり)急ぎました。そして7日には伊勢神宮に戦勝祈願をした後、伊勢の宮の「やまと姫」にも挨拶に行きました。ヤマトタケは景行天皇の命によりあだ討ちにまかります(敵を退治にまいります)と「やまと姫」に報告(訴え)しました。

此処で、やまと(まきむき宮:景行天皇)を10月2日に出発して、10月7日(5日目)に伊勢で祈願している。当時の移動手段、時間を推定するのに一つの基準になる貴重な記載である。
また、天皇とこの伊勢の宮との関連でありますが、景行天皇が九州の熊襲征伐から帰ってきたときもこの伊勢の宮に報告に行っています。(38綾-76頁)


私見ですが、当時の天皇は、天地の「地」を守り、伊勢の宮(斎宮)は、天地の「天」を守っていたと考えられないでしょうか。
もっと、噛み砕けば、当時の天皇は、今の内閣総理大臣の立場のように実際の業務をされ、伊勢の宮は、今の天皇のように象徴的な存在を維持することと見れば、分かりやすくなるのではないでしょうか。

この伊勢の宮を守っていた二代目の斎女「やまと姫」の役割(天照大神を御守りする)を、大陸から見て、卑弥呼(「ひのみこ」=「日(天照大神)の御子」が「卑弥呼」と漢字化された)が日本という国の女王として君臨していたように見られていたこともうなづけます。
この卑弥呼考については、後日、やまと姫の章(36綾)のところで詳しく再考したいと思います。



にしきふくろと (39-15)
つるぎもち おみこにいわく (39-16)
あめみまこ そめしひみつの 
おんはらひ ひみづのさわり 
はらふべし 


やまと姫がヤマトタケに錦袋(錦織の袋で秘密の払いの呪文が書かれたものが入っていた)と剣を持ち出してヤマトタケ(おみこ=天皇になる人)に話しました。錦袋の中は、昔、あめみまこ(天孫ににきね)が自ら記した秘密(火・水)の祓いです。火の災難、水の災難にあったらこれらの障害を払いなさい。

「ひみつ」は、火の「ひ」と、水の「みづ」の二つを表しているのかなとも思います。忍者の術で、火炎の術、水団の術という言葉を聞きます。
でもまた、(39綾-38)にあるように、「ひみつ」の祓いで「しなどの風の神」が出てくるので、秘密の祓いがどういう内容であったかは計り知れません。 
ただ、此処で「秘密」という言葉の語源になったことは確かなものと思われます。

むかしいづもの (39-16)
くにひらく むらくもつるぎ (39-17)
これなるぞ つゝしみうけて 
あだむけよ な。おこたりそと 
さづけます 


昔出雲の国を開いた(つまりスサノウのこと)が使った「むらくもの剣」(やまたのおろちの尻尾から取り出した剣)がこれである。謹んで拝領して敵を退治してきなさい。くれぐれも注意を怠らないようにと言って授けました。


やまと姫がこの「むらくもの剣」を受け継いで持っていたことからも、現在発掘中の斎宮跡の規模の大きさからも、偉大な存在であったことがうかがえると思います。

「なおこたりそ」の「な」は否定を表している。韓国語でも単語の前に否定の「アン」という語をつける場合と、文章語尾で否定する場合の二通りあることを知り非常に似通っていることにびっくりしました。  
英語の「un-」も否定語であることも面白い現象だと思いました。
「no」にも発音が通じるようであり、もともと同じ出所だったのか、否定する場合の意思表示としては万国共通なのかなと思った次第。







39-9~13. 景行天皇はヤマトタケに御矛を授けた

3. 景行天皇はヤマトタケに御矛を授けた(39-9~13)

景行天皇はヤマトタケに自分の反省と子供への思いを話されて授けました。

いまわれおもふ (39-9)
いましこぞ すがたきらしく 
ももちから ゆくにさわらず 
せめばかつ 


今、我思う 汝(いまし)こそは容姿りりしく端正である、百人力である。行く処、敵は無く(邪魔するものはない)戦えば必ず勝つ。

すなわちしれり(39-9) 
みはわがこ まことは。かみの (39-10)
われくらく むけざる。みよを 
つがしめて たえざらしむる 
なんぢこそ あめがしたしる 
くらいなり (39-11)


すなわち、私は今、気がついた。み(そなた)は我が子だが、本当は神が使わした子である。神が私の力不足(我暗く)で世の中の乱れを案じて、汝こそを天が降らした神の子に違いない。(次の天皇を途絶えないようにする汝が天皇の位である)

ふかくはかりて(39-11) 
いづにふせ めぐみになづけ 
ほづまなし かだましものを 
かんつよに まつろわせよと 
さづけます (39-12


深謀に(軽はずみな戦いはするな)、神の意向を持って説き伏せなさい。恵み物を与えてなづけなさい。(真っ向から戦ってはいけません。講和をしなさい。)秀真(ほつま)道で相手に対しなさい。不良人(かだまし者)を神の世に伴わせなさいと言って御矛(ホコ)を授けました。

ヤマトタケが覚悟を決めて東征へと出発の準備に進みます。

みほこをうくる (39-12)
やまとたけ むかしみたまの 
ふゆにより くまそをむけぬ 
いまもまた みたまによりて 
ふゆをかり あだのさかいに (39-13)
ゆきのぞみ まつろはざらば 
うつべしと 


景行天皇は御矛(みほこ:青銅製と思われる)をヤマトタケに授けました。御矛を受け取ったヤマトタケは「昔、天皇(=みたま)の御加護・恵み(=ふゆ)により、自分は熊襲を退治することが出来ました。
今、再び天皇の御加護・恵みを借りて、敵国(あだ)の前線(境)に向かいます。行って、もしも従わなければ、戦って討ち負かしてきます。」と誓いました。

39-5~9 ヤマトタケ東征に行く決意

2. ヤマトタケ東征に行く決意(39-5~9)

ヤマトタケが東征に行く決意を表明したとき、景行天皇がエミシについての話を続けました。当時(紀元1~2世紀)の大和朝廷がエミシについて捉えていた内容です。

ときにすべらぎ(39-5) 
ほこをもち われきく。ゑみし(39-6) 
むね。しのぎ あれおさもなく 
むらきみら あいおかしゑる 
やまあらし かだましものや 
ちまたかみ(39-7) 


そのとき、景行天皇は矛を持ってこう捧げました。
私が聞いた所によると、エミシらは我先にと前に出て、村長(荘園主)もおらず、村の親分たちはお互いに犯し(領土を取り合って)あって、やまあらし(山賊)、かだまし(ふうてん)、岐(ちまた)神(生業もなくうろつき物を乞う)等である。

夜の巷(ちまた)に悪党が・・・の「ちまた」の語源でしょうね。

なかに。ゑみしら (39-7)
めおまぜて しむみちかけて 
あなにすみ けしゝをはみて 
けころもき めぐみわすれて 
あだをなし (39-8


なかでもエミシらは男女混じって身内同士乱婚している。穴居(*)生活して、毛の生えた四足の動物を食べ、毛皮を着ている。天への感謝を忘れて悪いことをしている。

あなにすみの穴居生活とは、当時すでに鉄を作っていた人種を示していると考えられる:東国の古代産鉄族オオ氏 柴田弘武氏より 詳細は後日再考したいと思っています。

あだをなし:あだ討ち、あだ姫(34綾-5)が語源となっていると考えられます。

ゆみもよくいる (39-8)
たちまいも たぐい。あつめて 
かくれんぼ のやまをはしる 
わざをゑて あめなる。みちに 
まつろはず (39-9)


更に、弓もよく射り(弓の名手)、剣による舞も優れている。一族を集めて野山に隠れて生活し、野山を駆け巡って猟をしている。そして、天なる道を関知していない。(大和朝廷を関知していない)

「かくれんぼ」という言葉がこの時既に出てきており、隠れて見つからないようにするしぐさの語源になっている。

「野やま」の「の」という文字(おしで文字)は「野原」などを表す絵文字(今風に言えば)で、他の「の」とは違っています。通常の「の」は漢字の「田」という字とそっくりだが、「野」を表すときは、真ん中の縦横の線が全て突き出ています。




39-1~5 ヤマトタケがなぜ東征に

1.ヤマトタケがなぜ東征に(39-1~5)



ヤマトタケがなぜ東征にも行くようになったか、日本書紀、古事記には表しきれていない内容がホツマツタヱを読む事により、非常に分かりやすく理解できると思います。

当時の天皇(すべらぎと言っていた)は景行天皇「人皇十二代ヤマトオシロワケ」で、ヤマトタケが天皇の勅使として東征に出向いた経緯が良くわかります。

まきむきの ひしろのよそほ(39-1) 
せみなつき ほづま。さわげば 
さかおりの たけひ。のぼりて 
みかりこふ (39-2)


まきむき(景行天皇)即位後、日代40年の蝉が鳴く月(6月)に、「ほづま地方」(関東・東北)が騒々しい(=乱れている)ので酒折を管轄している「大伴の武日」が上京して巡狩り(軍を差し向ける)してくださいと頼みに来ました。
蝉がじーじー鳴いてうるさい様子とほづまが騒いでいることを擬音化して、蝉をいれたように思われます。

きみもろあつめ(39-2)
のたまわく ほつまのゑみし 
かすめると たれびとやりて 
むけなんや


そこで、きみ(まきむき:景行天皇)が諸臣を集めて話されました。「ホツマにいるヱミシが自分たちの領土をかすめとっている。誰を将軍にして向けようか。」

もろひと。いわず(39-2) 
やまとたけ さきにはとみら(39-3) 
にしをうつ ひがしをうつは 
もちひとぞ 


誰も何も言わなかったので、ヤマトタケ(弟)が「先の戦いで部下を引き連れて西(九州・熊襲)を討ってきました。東(ほづま・えみし)を討つのは、もちひと(兄)ではないですか」と、進言しました。

ときにおほうす(39-3) 
わなゝなきて のにかくるゝを (の=野)
よびめして きみせめいわく(39-4) 
いまし。あに しひて。やらんや 
おそるゝの あまりとみのを 
まもらしむ
 

そうしたら、「大うす」(兄のもちひと)は、わめきだして野に隠れてしまいました。連れ戻されて、きみ(景行天皇)が責めて言うには、あえて卑怯さ、臆病さを分かった上で東征にやるつもりはない。「大うす」はあまりにも臆病なので美濃を守っていなさい。

ときやまとたけ(39-4) 
おたけびて にしむけ。まなく(39-5) 
またひがし いつかおよばん 
たとえとみ いたわるとても 
むけざらん (4~5)


その天皇の言葉を聞いたとき、ヤマトタケが大声で、「私は西(九州熊襲)で戦ってきて、休む間もありませんが、また今度も私が東(ほつま・えみし)に行きます。いつか、必ず平和なときが来ることを信じています。
帰ってまだ間がないので自分のとみ(部下)をいたわらなければなりませんが、自分が行かざるを得ません。」という決意を表明しました。

ヤマトタケの生い立ちは景行天皇が父親で、母親は中宮の「ハリマノイナヒ オイラツ姫」(吉備津彦の娘、播磨稲日大郎姫)です。双子で生まれ弟の方がヤマトタケです。江戸時代まではヤマトタケと称していたのが明治にはいってヤマトタケルと「ル」がついたとのことです。
兄はオウス(大碓)で真名(イミナ)はモチヒト(望人)と言い、弟(ヤマトタケ)はコウス(小碓)で真名(イミナ)はハナヒコ(花彦)といいました。