ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)38

 (最新見直し2009.3.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ホツマツタエは、古代大和ことばのホツマ文字といわれる図象文字で綴られた全文で40アヤ(章)、五七調で一万余行に及ぶ叙事詩で、大和王朝前の御代の神々の歴史、文化、精神を詠っている。作者は、前半の天の巻、地の巻の1章~28章を櫛甕玉命(クシミカタマの命、鴨彦、神武時代の右大臣)、後半の人の巻29章~40章を三輪の臣である大直根子命(オオタタネコ、三輪秀聡、景行天皇時代)が編纂、筆録したと記されている。古事記、日本書紀と原文で詳細に比較するとホツマツタエを原本としている事が判明しており、いわば記紀原書の地位にある。

 2009.3.19日 れんだいこ拝


【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)38、ヒシロの世クマソ討つ文】
 景行帝とヤマトタケルのクマソ征伐

ホツマツタヱ38綾目次

はじめに→

1. 「おしろわけ」 すべらぎに即位
 後世に景行天皇の諡号(おくりな)となる(38-1~3)

2. 即位二年目 「おいらつ姫」が双子を生む(38-3~6)
3. 即位三年目 紀州への御幸取りやめ(38-6~8)
4. 「たけうち」について(38-8)
5. 景行天皇 美濃に行き八坂入姫をお妃に(38-8~13)
6. 即位五年目 八坂入姫 「わかたり彦」を生む(3-13~16)
7. 八坂入姫が生んだ子供は十三人(38-16~18)
8. その他のお妃が生んだ子供(38-18~21)
9. 日向の御幸のときに生まれた子供(38-21~22)
10. 景行天皇の子供は総勢八十一人(38-22~24)
11. 「おおうす」に美濃の美人姉妹を宮中へ呼ぶよう遣わせたが(38-24~26)
12. 即位十二年目 景行天皇 熊襲へ御幸(38-26~29)
12-1. 「かんかし姫」が出迎え(38-29~30)
12-2. 「はなたれ」、「みみたれ」、」あさはぎ」、」つちおり」、「いおり」の
悪党どもを討ち取って下さい(38-30~33)

12-3. 「たけもろ」引き出物で悪党どもを誘き出し一網打尽(38-33~34)
12-4. 豊のながお(長峡)に仮宮(38-34~35)
12-5. 十月には早見村へ(38-35)
12-6. 鼠(ねず)の岩窟に二つの「つちぐも」(38-35~37)
12-7. 来田見村の仮宮で作戦を取る(38-38~38)
12-8. 岩窟のくも(賊)を討ち殺す(38-38~39)
12-9. 「やた」と「うちさる」を討つ(38-39~42)
12-10. 柏峡野の石について(38-42~43)
12-11. 十一月に日向の高屋に至る(38-43~44)
12-12. 十二月五日に熊襲を討つ計画を(38-44~45)
12-13. 「ふかや」と「へかや」二娘を召し入れる(38-46~48)
12-14. 姉の「ふかや」の行い許せず(38-48~50)
12-15. 妹の「へかや」を国造の跡継ぎに(38-50~51)
12-16. 筑紫を完全に平定するために六年間高屋に滞在(38-51)
12-17. 「みはかせ姫」をお妃に、生まれた子供の「とよくにわけ」は日向の国造へ(38-51~52)
12-18. 日代十七年の三月十二日、子湯潟のにもの(丹裳小野)に御幸(38-52~58)
12-19. 日代十八年三月帰途に向かって御幸狩り、ひなもりにて(38-58~59)
12-20. 泉姫の家で集いの用意(38-59~60)
12-21. 四月三日 「くまつひこ兄弟」を呼び召したが弟は来ず殺す(38-60~61)
12-22. 葦北の小島で水を求めたら清水が湧き出した(38-61~63)
12-23. 五月一日に船を馳せて八代に(38-63~64)
12-24. 不知火国と名付く(38-64~65)
12-25. 六月三日、高来県で土蜘蛛の頭を退治(38-65)
12-26. 六月十六日には阿蘇国に(38-66~68)
12-27. 七月四日「つくし」の高田行宮で大御木が倒れる(38-68~71)
12-28. 八女県 やつめ姫神(38-71~73)
12-29. 八月 いくば村 うくは(皿)の用意を忘れる(38-73~75)
12-30. 十九年九月 大和のまきむき日代の宮に帰る(38-75)
13. 二十年二月 伊勢の神に筑紫75)遠征を報告(38-75~76)
14. やまと姫、隠居し、斎宮をいもの姫に継ぐ(38-76~79)
15. 二十五年七月「たけうちまろ」にほづま巡察の詔(38-79~80)
16. かぐのやかた(もとひこ)に道を乞う(38-79~80)
17. かみのりがゐのあや(38-80)
17-1. 五柱(いはしら)祭り(38-80~82)
17-2. 大晦日のお祭り(38-82)
17-3. 一月七日は七草の味噌粥(38-82~83)
17-4. 一月の満月の日、五臓六腑を守るお祭り
17-5. つちぎみ(猿田彦)の身内(しむ)の祭り(38-83~84)
17-6. 長寿を全とうするたけうち文書(38-84~85)

18. もとひこは本音で語り合った(38-86)
19. 二十七年二月 景行天皇が「えみし」について申された(38-86~87)
20. 二十七年十月「くまそ」が再び背き、景行天皇は勅を出す(38-87~88)
20-1. 出征を命じられたヤマトタケ名射手を求める(38-88~89)
20-2. 美濃のおとひこを射手に従え行く(38-89~90)
20-3. 「くまそ」の「やすくら」に、「こうす」は乙女姿で紛れ込む(38-90~92)
20-4. 「くまそたける」は女装姿の「こうす」の手を携える(38-92)

20-5. 夜も更け、「こうす」は剣でたけるの胸に一刺し(38-92~93)
20-6. 「くまそたける」は「こうす」に汝は何者かと哀願(38-93~95)
20-7. 「くまそたける」は「こうす」にヤマトタケと名乗るよう託し命絶える(38-95~96)

20-8. 二十八年二月 「やまとたけ」 無事帰京(38-97~98)
21. すべらぎ(天皇:景行天皇)に「くまそ」征伐を報告(38-98~101完)
ひしろくまそうつあや     ヒシロの世 クマソ討つ文
トキアスス ナモヤソヤホノ  ときあすす なもやそやの    時 天鈴       七百八十八年の
                                               (サシト)

 フツキソヒ アマツヒツキオ  ふつきそひ あまつひつきお    七月十一日     天地つ日月を

 ウケツキテ イムナタリヒコ  うけつきて いむなたりひこ    受け継ぎて     斎名 タリヒコ

 ヲシロワケ アメスヘラキノ  をしろわけ あめすへらきの    ヲシロワケ     天皇の
                                   (景行)

 トシヤソヒ ミクサタカラノ  としやそひ みくさたからの    歳 八十一      三種宝の

 アマヲシカ ヤトヨノミハタ  あまをしか やとよみはた    天御使       八豊の御幡

 タカミクラ イトオコソカニ  たかみくら いとおこそかに    高御座       いと厳かに

 アマツカミ ムヘクタリマス  あまつかみ むへくたります    天つ神       むべ下ります
                                                 27文

 ミカサリオ タミニオカマセ  みかさりお たみおかま    御飾を       民に拝ませ
                                           (上代の例)

 ワカミヤノ ハツコヨミナル  わかみやの はつこよみなる    若宮の       初暦 成る
 
 フホヤヨヒ キヒツヒコカメ  やよひ きひつひこ    二年三月      キビツヒコが女
                                 (天鈴789年)

 タツキサキ ハリマのイナヒ  たつきさき はりまいなひ    立つ        播磨イナヒ
                                 (他動詞)

 ヲイラツメ ウチメノトキニ  をいらつめ うちめときに    ヲイラツ姫     内侍の時に

 コソウツキ ハラミテウマス  こそうつき はらみうま    去年四月      孕みて生まず

 フソヒツキ ヘテシハスモチ  ふそひつき しはすもち    二十一月      経て 十二月十五日

 ウスハタニ モチハナナシテ  うすはたに もちはななして    臼端に       餅花 成して

 フタコウム ヱノナモチヒト  ふたこうむ もちひと    双子 生む      兄の名 モチヒト

 ヲウスミコ トノナハナヒコ  をうすみこ はなひこ    ヲウス御子     弟の名 ハナヒコ

 オウスミコ トモニイサミテ  おうすみこ ともいさみて    オウス御子     共に勇みて
                                             (成長が良く)

 ヒトナリハ ミノタケヒトセ  ひとなりは たけひと    人成は       身の丈 一背
                                               (=8尺)

 ヱハヨワク トハフソチカラ  よわく ふそちから    兄は弱く      弟は二十(人)力
 
 【原文カタカナ訳】      【語源考察】           【漢字読み下し】
 ヒシロノヨクマソウツアヤ   



 
 ミホノハル キサラキハツヒ  はる きさらきはつひ    三年の春      二月初日
                                  (天鈴790年)

 キノクニニ カミマツラント  くにに かみまつらんと    紀の国に      神 祭らんと

 ウラナエハ ユクハヨカラス  うらなえは ゆくよから    占えば       「行くは好からず」

 ミユキヤメ オシマコトノコ  みゆきやめ おしまこと    御幸 止め      オシマコトの子

 ウマシタケ ヰココロヤリテ  うましたけ ゐこころやりて    ウマシタケ     ヰココロ 遣りて

 マツラシム アヒカシハラニ  まつらしむ あひかしはらに    祭らしむ      阿備柏原に

 コトセスム キノウチマロカ  とせすむ うちまろか    九年 住む      紀のウチマロが
                                          (紀の国造)

 ヤマトカケ メトリテウムコ  やまとかけ めとりうむ    ヤマトカゲ     娶りて生む子
                                  (山下影媛)

 タケウチソ          たけうちそ            タケウチぞ
                                 (武内宿禰)
 
       ヨホキサラモチ        きさらもち              四年二月十五日
                                          (天鈴791年)

 ミノニユク トミラモフサク  みのゆく とみもふさく    美濃に行く     臣等 申さく
                               <天皇>

 ヨキメアリ ヤサカタカヨリ  よきあり やさかたかより    「好き女あり    ヤサカタカヨリ

 ココナキリ ウエテタノシム  ここなきり うえたのしむ    菊 桐        植えて楽しむ

 ココリミヤ カレコレヱント  ここりみや かれこれんと    菊桐宮」      故 「これ 得ん」と
                                   (泳宮)

 ミユキシテ ミノタカキタノ  みゆきて みのたかきたの    御幸して      美濃 高北の

 タカヨリノ ココリノミヤニ  たかよりの ここりのみやに    タカヨリの     菊桐の宮に

 カリイマス イケスノソメハ  かりいます いけすのそめは    仮り居ます     生簀 望めば

 サシノソク オトヒメトメテ  さしのそく おとひめとめて    差し覗く      オト姫 留めて

 キミメシツ ヒメオモエラク  きみめし ひめおもえらく    君 召しつ      姫 思えらく

 イセノミチ カヨエルノリモ  いせのみち かよえるのりも    妹背の道      通える法も
                                        (「通ふ」の連体形)

 ツヤナラス キミニモフサク  つやなら きみにもふさく    艶ならず      君に申さく

 ヤツカレハ トツキコノマス  やつかれは とつきこのま    「僕は       婚ぎ 好まず

 ミアラカニ メスモヨカラス  あらかに めすよから    御殿に       召すも好からず

 アネカナオ ヤサカイリヒメ  あねお やさかいりひめ    姉が名を      ヤサカイリ姫 

 スカタヨク キサヒノミヤニ  すかたよく きさひみやに    姿 好く       后の宮に

 メサルトモ ミサホナランカ  めさるとも みさほならんか    召さるとも      成らんが」
                                  (受身)          (成ると思うが・・・)

 キミユルシ アネヒメオメス  きみゆるし あねひめおめす    君 許し       姉姫を召す
 
 ネシモハヒ マキムキヒシロ  ねしもはひ まきむきひしろ    十一月初日     纏向日代

 ニイミヤニ カエリイリマス  にいみやに かえりいります    新宮に       帰り入ります

 ヤサカヒメ ナルミノウチメ  やさかひめ なるみのうちめ    ヤサカ姫      なる 美濃内侍

 ヰホネシモ ソヰカヒノテニ  ねしも そゐひのてに    五年十一月     十五日 日の出に
                                (天鈴792年)

 ウムコノナ ワカタリヒコソ  うむ わかたりひこそ    生む子の名     ワカタリヒコぞ
                                               (稚足彦)

 タカヨリハ ヒノマエモフテ  たかよりは ひのまえもふて    タカヨリは     日の前 詣で
                                           (天日の前宮)

 ウチマロカ タチテマコウム  うちまろか たちまこうむ    'ウチマロが     館で孫 生む

 ヰココロカ イムナオコエハ  ゐこころか いむなこえは    ヰココロが'     斎名を請えば

 タカヨリカ イムナタカヨシ  たかよりか いむなたかよし    タカヨリが     斎名 タカヨシ

 ナハウチト タケウチマロソ  うちと たけうちまろそ    名はウチと     タケウチマロぞ

 キシトヘハ タカヨリノホル  きしとへは たかよりのほる     飛べば      タカヨリ 上る
                                               <都へ>

 ウチマロモ ウチミヤニユキ  うちまろも うちみやゆき    ウチマロも     内宮に行き

 コトホキス キミヨロコヒテ  ことほき きみよろこひて    言祝す       君 喜びて

 イムナコフ ウチマロササク  いむなこふ うちまろささく    斎名 請ふ      ウチマロ 捧ぐ

 ウチヒトハ ヨツキミコナリ  うちひとは よつきみこなり    ウチヒトは     世嗣御子なり
                                (ワカタリヒコ)     (成務天皇)
 
 ミノウチメ ナルスケウムコ  みのうちめ なるすけうむ    美濃内侍      なる スケ 生む子

 ヰモキヒコ イムナススキネ  ゐもきひこ いむなすすきね    ヰモキヒコ     斎名 スズキネ
                                 (五百城入彦)

 オシワケト ワカヤマトネト  おしわけと わかやまとねと    オシワケと     ワカヤマトネと
                                  (忍之別)       (稚倭根子)

 オオスワケ ツキヌノシヒメ  おおすわけ つきぬのしひめ    オオズワケ     次 ヌノシ姫
                                  (大酢別)        (渟熨斗媛)

 ヌナキヒメ カノコヨリヒメ  ぬなきひめ かのこよりひめ    ヌナキ姫      カノコヨリ姫
                                 (渟名城媛)       (麛依姫)

 ヰモキヒメ ヰソサキヒコニ  ゐもきひめ ゐそさきひこに    ヰモキ姫      ヰソサキヒコに
                                 (五百城入姫)      (五十狭城入彦)

 キヒヱヒコ ツキタカキヒメ  きひゑひこ つきたかきひめ    キビヱヒコ     次 タカギ姫
                                  (吉備兄彦)       (高城入姫)

 オトヒメソ          おとひめそ            オト姫ぞ
                                  (弟姫)
 
       マタイワツクノ        またいわつくの              またイワツクの
                                              (磐衝別命)

 コノミツハ イラツメミオノ  みつは いらつめみおの    子のミツハ     イラツ姫 三尾の

 スケウムコ ヰモノメクスコ  すけうむ ゐものめくすこ    スケ 生む子     ヰモノ姫クスコ
                                           (五百野媛久須姫)

 ウチヲキミ          うちをきみ            内親君
 
       マタイソノカミ        またいそのかみ              また争の守

 ヰソキネノ ヰカワスケウム  ゐそきねの ゐかわすけうむ    ヰソキネの     ヰカワ スケ 生む
                                (ニシキイリヒコ)    (五十河媛)

 カンクシト ヰナセヒコマタ  かんくしと ゐなせひこまた    カンクシと     ヰナセヒコ また
                                  (神櫛)       (稲背入彦)
 
 アヘココト タカタウチウム  あへここと たかたうちうむ    アベコゴト     タカタ内(侍) 生む
                                  (阿部木事)      (高田媛)

 タケコワケ          たけこわけ            タケコワケ
                                  (武国凝別)
 
       マタソヲタケカ        またそをたけか              また 曽於 タケが
                                                (襲武)

 タケヒメハ ソムツキハラミ  たけひめは そむつきはらみ    タケ姫は      十六月 孕み
                                  (武媛)

 フタコウム クニコリワケト  ふたこうむ くにこりわけと    双子 生む      クニコリワケと
                                             (国凝別)

 クニチワケ ツキミヤチワケ  くにちわけ つきみやちわけ    クニヂワケ     次 ミヤヂワケ
                                  (国乳別)         (宮道別)

 トヨトワケ          とよとわけ            トヨトワケ
                                   (豊戸別)
 
       ヒウカミユキニ        ひうかみゆきに              日向御幸に
                                  

 カミナカカ ヲタネオシモメ  かみなかか をたねおしもめ    カミナガが     ヲタネ 乙侍
                                  (髪長)      (大田根姫)

 ウムコノナ ヒウカソツヒコ  うむ ひうかそつひこ    生む子の名     ヒウガソツヒコ
                                            (日向襲津彦)
 
 マタソヲノ ミハカセウムコ  またそをの みはかせうむこ    また曽於の     ミハカセ 生む子
                                      (襲武)       (御刀姫)

 トヨクニノ イムナソヲヒト  とよくにの いむなそをひと    トヨクニの     斎名 ソヲヒト
                                  (豊国別)

 ヒウカキミ          ひうかきみ            日向君       
 
       スヘラキノミコ        すへらきみこ              皇の御子

 ヲハヰソヰ メハフソムスヘ  ゐそゐ ふそむすへ    男は五十五     女は二十六 総べ

 ヤソヒナリ ヲヲウスオヨヒ  やそひなり ををうすおよひ    八十一なり     ヲヲウスおよび
                                            (ヲウス)

 ヤマトタケ ヰモキイリヒコ  やまとたけ ゐもきいりひこ    ヤマトタケ     ヰモキイリヒコ
                                  (オウス)       (イモキヒコ)

 ヰモノヒメ ワカタラシヒコ  ゐものひめ わかたらしひこ    ヰモノ姫      ワカタラシヒコ
                                            (ワカタリヒコ)
 
 トヨクワケ ムタリヲミコノ  とよくわけ たりをみこの    トヨクワケ     六人 親王の
                                   (トヨクニワケ)

 ナオオフル アマリナソヰコ  おふる あまりなそゐ    名を帯ふる     余り 七十五子

 クニアカタ ワケオサムソノ  くにあかた わけおさむその    国 県        分け治む その

 スエオオシ          すえおおし            末 多し       
 
       ソフホハツハル        そふはつはる              十二年 初春
                                          (天鈴799年)

 ミノノクニ カンホネカメノ  みのくに かんほねの    美濃の国      カンホネが女の
                                            (神骨)

 ヱトトオコ クニノイロアリ  ゑととおこ くにいろあり    ヱト トオコ     地の色あり
                                 (姉妹)(遠子姫)      (世の美)

 ヲヲウスオ ヤリテヨハシム  ををうすお やりよはしむ    ヲヲウスを     遣りて呼ばしむ

 ヲウスミコ ミノニイタリテ  をうすみこ みのにいたりて    ヲウス御子     美濃に至りて

 スカタミテ ヒソカニメシツ  すかたて ひそかめし    姿 見て       密かに召しつ

 トトマリテ カエコトナサス  ととまりて かえことなさ    留まりて      返言なさず

 コトシソヒ タケハヤタナリ  ことしそひ たけなり    今年 十一      丈は八尺なり
                                (ヲウス)

 キミトカメ ミヤコニイレス  きみとかめ みやこいれ    君 咎め       都に入れず
 
 アフミツキ クマソソムキテ  あふみつき くまそそむきて    七月        クマソ 背きて

 ミツキセス オシテササケテ  みつきせす おしてささけて    貢せず       オシテ 捧げて

 ミカリコフ ハツキモチヨリ  みかりこふ はつきもちより    恵り 請ふ      八月十五日より

 ミユキナル ナノヰカイタル  みゆきなる いたる    御幸なる      九月の五日 至る

 スハウサハ トキニスヘラキ  すはうさは ときすへらき    周防 娑麼      時に皇

 サオノソミ サカイキタツハ  のそみ さかいきたつは    南を望み      「逆生気 起つは
                                             (邪気)

 ツツカカヤ オホノタケモロ  つつかかや おほのたけもろ    恙かや」      オホのタケモロ
                                               (多の武諸木)

 キノウナテ モノヘナツハナ  うなて ものへなつはな    紀のウナデ     モノベナツハナ
                                    (菟名手)      (物部夏花)

 コノミタリ ヤリテカタチオ  このたり やりかたちお    この三人      遣りて形を

 ミセシムル カンカシヒメハ  みせしむる かんかしひめは    見せしむる     カンカシ姫は
                                 (他下二)         (神夏磯媛)

 ヒトノカミ ミツカヒキキテ  ひとのかみ つかひききて    人の頭       御使 聞きて

 シツヤマノ サカキオヌキテ  しつやまの さかきぬきて    磯津山の      を抜きて

 カンツヱニ ヤツカノツルキ  かんつに つかつるき    上つ枝に      八握の剣

 ヤタカカミ シモマカタマヤ  かかみ しもまかたまや    八尺鏡       下 環珠や

 シラハタオ トモヘニカケテ  しらはたお ともへかけて    白旗を       艫舳に掛けて

 ワカタクヒ タカハスアメノ  わかたくひ たかはあめの    「我が類      違わず天の

 メクミエン タタソコナフハ  めくみん たたそこなふは    恵み 得ん      ただ害ふは

 ハナタレカ ミタリマタカリ  はなたれか みたりまたかり    ハナダレが     乱りまだかり
                                  (鼻垂)          (=蟠る)

 ナオカリテ ウサニタムロシ  かりて うさたむろ    名を借りて     菟狭に屯し
                               <天の>          (菟狭川)

 ナリヒヒク マタミミタレモ  なりひひく またみみたれも    鳴り響く      またミミタレも
                                              (耳垂)

 ムサホリテ タミオカスムル  むさほりて たみかすむる    貧りて       民を掠むる

 ミケカワヱ マタアサハキモ  みけかわ またあさはきも    御木川江      またアサハギも
                                 (御木川河口)         (麻剥)

 トモアツム タカハカワマタ  ともあつむ たかはかわまた    供 集む       高羽川 また

 ツチオリト ヰオリモカクレ  つちおりと ゐおりかくれ    ツチオリと     ヰオリも隠れ
                                   (土折)       (猪折)

 ミトリノノ カワサカタノミ  みとりのの かわさかたのみ    緑野の       川境 頼み

 カスメトル ミナカナメチニ  かすめとる みなかなめちに    掠め取る      皆 要処に

 アツマリテ オサトナノルオ  あつまりて おさなのるお    集まりて      長と名乗るを
                                     <天の臣と偽り>

 ウチタマエ トキニタケモロ  うちたまえ ときたけもろ    討ち給え」     時にタケモロ

 ハカラヒテ アカキヌハカマ  はからひて あかきぬはかま    謀らひて      赤衣 袴

 ヒキテモノ ヒキテアサハキ  ひきてもの ひきあさはき    引手物       引きてアサハギ
                                         (「携える」の意)

 メシヨセテ コレニヒカセテ  めしよせて これひかて    召し寄せて     これに引かせて
                                          (アサハギ)

 モロクレハ フツクコロシツ  もろくれは ふつくころし    諸 来れば      悉く殺しつ
                              (ハナ・ミミタレ)
                                    (ツチ・ヰオリ)

 ミユキシテ トヨノナカオニ  みゆきて とよなかおに    御幸して      長峡に

 カリミヤコ          かりみやこ            仮都
 
       メツキニイタル        めつきいたる              十月に至る

 ハヤミムラ ヲサハヤミツメ  はやみむら をさはやみつめ    速水村       長 ハヤミツメ

 ミユキキキ ミツカラムカエ  みゆききき みつからむかえ    御幸 聞き      自ら迎え

 モフサクハ ネツカイワヤニ  もふさくは ねついわやに    申さくは      「北西が窟に

 フツチクモ ナハアオクモト  つちくも あおくもと    二地蜘蛛      名はアオクモと

 シラクモト ナオリネキノニ  しらくもと なおりねきのに    シラクモと     直入禰疑野に

 ミツチクモ ウチサルトヤタ  つちくも うちさるやた    三地蜘蛛      ウチサルヤタ

 クニマロト コノヰツチクモ  くにまろと このつちくも    クニマロと     この五地蜘蛛

 トモカラノ チカラツヨキオ  ともからの ちからつよきお    朋族の       力 強きを

 アツメオク アナカチメサハ  あつめおく あなかちめさは    集め置く      強ち召さば

 イクサセン ココニスヘラキ  いくさん ここすへらき    戦 せん」      ここに皇

 ススミヱス クタミノムラノ  すすみ くたみむらの    進み得ず      来田見の村の

 カリミヤニ ハカリテイワク  かりみやに はかりいわく    仮宮に       議りて曰く

 モロウタハ クモラオソレテ  もろうたは くもおそれて    「諸 打たば     蜘蛛等 恐れて
                                 (一斉に打って出れば)

 カクレント ツハキオトリテ  かくれんと つはきとりて    隠れん」と     海石榴を採りて
                               <窟に>

 ツチトナシ タケキオエラミ  つちなし たけきえらみ    槌となし      猛きを選み

 ツチモツテ ヤマオウカチテ  つちもつて やまうかちて    槌 以て       山を穿ちて

 クサオワケ イワヤノクモオ  くさわけ いわやくもお    草を分け      窟の蜘蛛を

 ウチコロス イナハカワヘハ  うちころす いなはかわは    打ち殺す      稲葉川辺は

 チタトナル マタウチサルオ  ちたなる またうちさるお    血方となる     またウチサルを

 ウタントテ ツハキイチヨリ  うたんとて つはきいちより    討たんとて     海石榴市より

 ネキヤマオ コストキアタカ  ねきやまお こすときあたか    禰疑山を      越すとき仇が

 ヨコヤイル アメヨリシケク  よこやいる あめよりしけく    横矢 射る      雨より繁く

 ススミエス キワラニカエリ  すすみ きわらかえり    進み得ず      城原に返り

 フトマニミ ヤタオネキノニ  ふとまに やたねきのに    フトマニ 見     ヤタを禰疑野に

 ウチヤフリ ココニウチサル  うちやふり ここうちさる    討ち破り      ここにウチサル

 クタリコフ ユルサスユエニ  くたりこふ ゆるさゆえに    降り 乞ふ      許さず 故に

 クニマロモ タキエミオナケ  くにまろも たきなけ    クニマロも     滝へ身を投げ

 コトコトク ホロヒヲサマル  ことことく ほろひをさまる    悉く        滅び治まる
 
 ソノハシメ カシハオノイシ  そのはしめ かしはおいし    その始め      柏峡の石
                                 (こうなる前)

 ナカサムタ ハハミタアツサ  なかさ ははあつさ    長さ六尺      幅三尺 厚さ

 ヒトタヰキ スヘラキイノリ  ひと すへらきいのり    一尺五寸      皇 祈り

 トヒアカル カレスミヨロシ  とひあかる かれすみよろし    飛び上る      故 スミヨロシ
                                       <戦勝の後>   (志賀若宮八幡)

 ナオリカミ モロハノヤシロ  なおりかみ もろはやしろ    直り神       両羽の社
                                 (中臣・物主)    (直入中臣神社・籾山八幡)

 サラニタテ コレマツラシム  さらたて これまつらしむ    新に建て      これ 祭らしむ

 カエモフテ ネツキニイタル  かえもふて ねつきいたる    返詣         十一月に至る 

 カリミヤハ ヒウカタカヤソ  かりみやは ひうかたかやそ    仮宮は       日向高屋
 
 シハスヰカ クマソオハカリ  しはす くまそはかり    十二月五日     クマソを議り

 ミコトノリ ワレキククマソ  みことのり われきくくまそ    御言宣       「我 聞く クマソ

 ヱアツカヤ オトセカヤトテ  あつかや おとせかやとて    兄 アツカヤ     弟 セカヤとて

 ヒトノカミ モロオアツメテ  ひとのかみ もろあつめて    人の頭       諸を集めて

 タケルトス ホコサキアタル  たける ほこさきあたる    長とす       矛前 当たる

 モノアラス ササヒトトカス  ものあら ささひとかす    者 あらず      少々 人と数

 サハナレハ タミノイタミソ  さはなれは たみいたみそ    多なれば      民の傷みぞ

 ホコカラス ムケントアレハ  ほこから むけんとあれは    矛 駆らず      平けん」とあれば

 トミヒトリ ススミテイワク  とみひと すすみいわく    臣 一人       進みて曰く

 クマソニハ フカヤトヘカヤ  くまそには ふかやへかや    「クマソには    フカヤヘカヤ

 フタムスメ キラキラシクモ  ふたむすめ きらきらしくも    二娘        煌々しくも

 イサメルオ オモキヒキテニ  いさめるお おもきひきてに    勇めるを      重き引手に
                              (「勇む」の連体形)

 メシイレテ ヒマオウカカヒ  めしいれて ひまうかかひ    召し入れて     隙を窺ひ

 トリコニス トキニスヘラキ  とりこ ときすへらき    虜にす」      時に皇

 ヨカラント キヌニアサムク  よからんと きぬあさむく    「良からん」と   衣に欺く

 フタムスメ メシテミモトニ  ふたむすめ めしみもとに    二娘        召して御許に

 メクミナス アネノフカヤカ  めくみなす あねふかやか    恵なす        姉のフカヤが

 モフサクハ キミナウレヒソ  もふさくは きみうれひ    申さくは      「君 な憂ひそ

 ハカラント ツワモノツレテ  はからんと つわものつれて    謀らん」と     兵 連れて

 ヤニカエリ サケオアタタニ  かえり さけあたたに    屋に帰り      酒をあただに

 ノマシムル チチノミヱヒテ  のましむる ちちのみゑひて    飲ましむる     父 飲み酔ひて

 フストキニ チチカユンツル  ふすときに ちちかゆんつる    臥す時に      父が弓弦

 キリオキテ チチアツカヤオ  きりおきて ちちあつかやお    切り置きて     父 アツカヤを

 コロサシム スヘラキアネカ  ころさしむ すへらきあねか    殺さしむ      皇 姉が

 シムタツオ ニクミコロシテ  しむたつお にくみころして    シム 絶つを     憎み 殺して

 オトヘカヤ ソノクニツコト  おとへかや くにつこと    妹 ヘカヤ      国造と

 オチノコノ トリイシカヤト  おちの とりいしかやと    叔父の子の     トリイシカヤと
                                  (セカヤ)         (取石鹿文)

 チナマセテ ツクシムケント  ちなまて つくしむけんと    因ませて      「筑紫 平けん」と

 ムトセマテ タカヤノミヤニ  とせまて たかやみやに    六年まで      高屋の宮に

 オワシマス ミハカセヒメオ  おわします みはかせひめお    御座します     ミハカセ姫を

 ウチサマニ トヨクニワケノ  うちさまに とよくにわけの    内添に       トヨクニワケの
                                            (ソヲヒト)

 ヲミコウム ハハコトトマリ  をみこうむ ははととまり    親王 生む      母子 留まり

 クニツコヤ          くにつこや            国造や
                                 (日向)
 
       ソナヤヨヒソフ        そなやよひそふ              十七年三月十二日
                                          (天鈴804年)

 コユカタノ ニモノニミユキ  こゆかたの にものみゆき    子湯県の      丹裳小野に御幸

 キオノソミ ムカシオホシテ  のそみ むかしおほして    東を望み      昔 思して

 ノタマフハ ミヲヤアマキミ  のたまふは みをやあまきみ    宣給ふは      「上祖天君
                                            (ここではニニキネらしい)
                                                 26文

 タカチホノ ミネニノホリテ  たかちほの みねのほりて    高千穂の      峰に登りて

 ヒノヤマノ アサヒニイナミ  ひのやまの あさひいなみ    日の山の      朝日に辞み
                                 (ハラミ山)

 ツマムカヒ カミシモメクム  つまむかひ かみしもめくむ    妻 向ひ       上下 恵む
                                (サクヤ姫)        (カモ)
               
 カミトナル クニノナモコレ  かみなる くにこれ    神となる      国の名もこれ
                                               (賀茂)

 カハカミノ アマネクテラス  かみの あまねくてらす    "カ" は上の     遍く照らす

 モハシモノ アオヒトクサオ  しもの あおひとくさお    "モ" は下の     青人草を

 メクマント ナルカミノアメ  めくまんと なるかみあめ    恵まんと      鳴神の雨
                                            (雷)

 ヨキホトニ ワケテミソロノ  よきほとに わけみそろの    良き程に      別けて満繁の

 ウルホヒニ タミニキハセル  うるほひに たみにきはせる    潤ひに       民 賑はせる
                                            (「賑はす」の連体形)

 イサオシハ カモワケツチノ  いさおしは かもわけつちの    功は        上下別雷の
                                           [賀茂別雷]

 カンココロ カクソオホシテ  かんこころ かくおほして    神心」       かくぞ仰して

 カミマツリ ミヤコノソラオ  かみまつり みやこそらお    神 祭り       都の空を

 ナカムミウタニ        なかむみうたに          詠む御歌に
                                 [眺む]
 
 ハシキヨシ ワキヘノカタユ  はしきよし わきへかた   『愛し清し      我家の方ゆ    
                                                        →40文

 クモイタチ クモハヤマトノ  くもいたち くもはやまとの    雲 出立ち      雲は大和の

 クニノマホ マタタナヒクハ  くにまほ またたなひくは    国の幻       復棚引くは
                                   (投影)     (雲が幾重にも連なり広がるは)

 アオカキノ ヤマモコモレル  あおかきの やまこもれる    青垣の       山も籠れる
                                             (「籠る」の連体形)
                                    (御諸山麓のヒシロ宮も)(豊かに栄えることを物語る)

 ヤマシロハ イノチノマソヨ  やましろは いのちまそよ    山繁は       命の増よ
                                  (山が繁ることは)    (命の肥やしよ)

 ケムヒセハ タタミコオモエ  けむひは たたみこおもえ    煙火せば      ただ子 思え
                                (煮炊する煙を見ると)  (直ぐに子等のことが思われる)

 クノヤマノ シラカシカヱオ  くのやまの しらかしお    熟山の       白橿が枝を
                                 (香久山)       [精がし]

 ウスニサセコノコ       うすさせこのこ         に挿せ 愛子』
                                (頭に挿して自身の山を繁らせ 愛しい子等よ)
 
 ソヤヤヨヒ ミヤコカエリノ  そややよひ みやこかえりの    十八年三月     都帰りの
                                (天鈴805年)

 ミユキカリ イタルヒナモリ  みゆきかり いたるひなもり    御幸巡り      至る 夷守

 イワセカワ ハルカニノソミ  いわせかわ はるかのそみ    岩瀬川       遥かに望み
                                                <し>

 ヒトムレオ オトヒナモリニ  ひとむれお おとひなもりに    人群を       弟ヒナモリに

 ミセシムル カエリモフサク  みせしむる かえりもふさく    見せしむる     帰り申さく

 モロアカタ ヌシラオホミケ  もろあかた ぬしおほみけ    「諸県       主ら 大御食

 ササケント イツミメカヤニ  ささけんと いつみめに    捧げんと      イヅミ姫が屋に

 ソノツトエ          そのつとえ            その集え」
 
       ユクウツキミカ        ゆくうつき               四月三日 行く

 クマノカタ オサクマツヒコ  くまのかた おさくまつひこ    熊の県       長 クマツヒコ

 ヱトオメス ヱヒコハクレト  ゑとめす ひこくれと    兄弟を召す     兄ヒコは来れど

 オトハコス トミトアニトニ  おと とみあにとに    弟は来ず      臣と兄とに

 サトサシム シカレトコハム  さとさしむ しかれとこはむ    諭さしむ      然れど拒む

 カレコロス          かれころす            故 殺す
 
       フソカアシキタ        ふそあしきた              二十日 葦北

 コシマニテ ヒテリニアツク  こしまにて ひてりあつく    離島にて      日照りに暑く

 ミツオメス ヤマヘコヒタリ  みつめす やまへこひたり    水を召す      ヤマベコヒダリ
                                                (山部小左)

 ミツナキオ アメニイノレハ  みつなきお あめいのれは    水 無きを      天地に祈れば

 イワカトニ シミツワキテル  いわかとに しみつわきてる    岩角に       真水 湧き出る

 コレササク カレニナツクル  これささく かれなつくる    これ 捧ぐ      故に名付くる

 ミツシマソ          みつしまそ            水島
 
       サツキハツヒニ        さつきはつひに              五月初日に

 フネハセテ ユクヤツシロエ  ふねはせて ゆくやつしろえ    船 馳せて      行く 八代ヘ

 ヒノクレテ ツクキシシレス  くれて つくきししれ    日の暮れて     着く岸 知れず

 ヒノヒカル トコエサセトノ  ひかる とこさせとの    「火の光る     処へ差せ」との

 ミコトノリ キシニアカリテ  みことのり きしにあかりて    御言宣       岸に上がりて

 ナニムラト トエハヤツシロ  なにむらと とえはやつしろ    「何村」と     問えば八代

 トヨムラノ タクヒオトエハ  とよむらの たくおとえは    豊村の       焚く火を問えば

 ヌシオヱス ヒトノヒナラス  ぬし ひとなら    主を得ず      人の火ならず

 シラヌヒノ クニトナツクル  しらぬひの くになつくる    知らぬ火の     国と名付くる
                                  (不知火)
 
 セミナミカ タカクアカタノ  せみな たかくあかたの    六月三日      高来県の
                                              (からの)

 フナワタシ タマキナムラノ  ふなわたし たまきなむらの    船渡し       玉杵名村の

 ツチクモノ ツツラオコロシ  つちくもの つつらころし    地蜘蛛の      ツヅラを殺し
                                            (津頬)
 
 ソムカニハ イタルアソクニ  そむには いたるあそくに    十六日には     至る 阿蘇国
                                              (=肥国)

 ヨモヒロク イヱヰミエネハ  よもひろく いゑゐみえは    四方 広く      家居 見えねば

 ヒトアリヤ キミノタマエハ  ひとありや きみのたまえは    「人 在りや」    君 宣給えば

 タチマチニ フタカミナリテ  たちまちに ふたかみなりて    たちまちに     二神 成りて

 アソツヒコ アソツヒメアリ  あそつひこ あそつひめあり    アソツヒコ     アソツ姫 現り

 キミナンソ ヒトナキヤトハ  きみなんそ ひとなきやとは    「君 何ぞ      "人 無きや" とは」

 キミイワク タレソコタエテ  きみいわく たれこたえて    君 曰く       「誰ぞ」答えて

 クニツカミ ヤシロヤフレリ  くにつかみ やしろやふれ    「地つ神      社 破れり」

 トキニキミ ミコトノリシテ  ときにきみ みことのりて    時に君       御言宣して

 ヤシロタツ カミヨロコヒテ  やしろたつ かみよろこひて    社 建つ       神 喜びて
                                  (他動詞)

 マモルユエ ヰヱヰシケレリ  まもるゆえ ゐゑゐしけれ    守る故       家居 繁れり
 
 アフミヨカ ツクシチノチノ  あふみ つくしちのちの    七月四日      筑紫州後の
                                            (筑後)

 タカタミヤ オホミケタオレ  たかたみや おほみけたおれ    高田宮       大神木 倒れ

 キノナカサ コモナソタケソ  なかさ こもなそたけそ    木の長さ      九百七十丈ぞ
                                            (約2,200m)

 モモフミテ ユキキニウタフ  ももふみて ゆききうたふ    百 踏みて      往き来に歌ふ
 
 アサシモノ ミケノサオハシ  あさしもの みけさおはし   『アサシモの     神木の竿橋

 マヘツキミ イヤワタラスモ  まへつきみ いやわたらも    前つ君       礼 渡らすも
                               (身分ある人をも)     (恭しく渡らせる)

 ミケノサオハシ        みけのさおはし          神木の竿橋』
 キミトエハ ヲキナノイワク  きみとえは をきないわく    君 問えば      翁の曰く

 クヌキナリ タオレヌサキハ  くぬきなり たおれさきは    「歴木なり     倒れぬ先は

 アサヒカケ キシマネニアリ  あさひかけ きしまねあり    朝日影       杵島峰にあり

 ユウヒカケ アソヤマオオフ  ゆうひかけ あそやまおおふ    夕日影       阿蘇山 覆ふ

 カミノミケ クニモミケトソ  かみみけ くにみけとそ    神の御木」     国もミケとぞ
                                             (三池)

 ナツケマス          なつけます            名付けます
 
       ヤツメオコエテ        やつめこえて              ヤツメを越えて
                                            (八女山)

 マエヤマノ アワミサキミテ  まえやまの あわみさきて    前山の       合岬 見て

 キミイワク タタミウルワシ  きみいわく たたみうるわし    君 曰く       「畳 麗し
                                            (山並)

 カミアリヤ ミヌサルヲウミ  かみありや みぬさるをうみ    神 在りや」     水沼 サルヲウミ
                                            (水沼県主猿大海)

 モフサクハ ヤツメヒメカミ  もふさくは やつめひめかみ    申さくは      「ヤツメ姫神

 ミネニアリ          みねにあり            峰にあり」     
 
       ホツミニイタル        ほつみいたる              八月に至る

 イクハムラ ミケススムヒニ  いくはむら みけすすむに    的村        御食 進む日に

 カシハテヘ ミサラワスレル  かしはてへ みさらわすれる    膳方侍       御皿 忘れる

 オサイワク ムカシアメミコ  おさいわく むかしあめみこ    長 曰く       「昔 天御子
                                             (ホオテミ)
 
 ミカリノヒ ココニミケナシ  みかり ここにみけなし    恵りの日      ここに御食なし

 カシハテカ ウクハワスレリ  かしはてか うくはわすれ    膳方が       食瓮 忘れり

 クニコトハ ミサラオウクハ  くにことは みさらおうくは    国言葉       御皿を食瓮

 ヰハモコレ カカルメテタキ  ゐはこれ かかるめてたき    飯瓮もこれ     かかる愛でたき

 タメシナリ          ためしなり            例なり」
 
       ソコホナカヤカ        そこなか              十九年九月八日
                                          (天鈴806年)

 マキムキノ ミヤニカエマス  まきむきの みやかえます    纏向の       宮に帰ます

 フソサミヱ キサラキヨカニ  ふそさみゑ きさらきに    二十年 サミヱ    二月四日に
                                   (天鈴807年)

 ヰモノヒメ クスコウチミコ  ゐものひめ くすこうちみこ    ヰモノ姫      クスコ 内親王

 イセノカミ マツルイワヒハ  いせのかみ まつるいわひは    妹背の神      祭る祝は

 ツクシムケ ヒメコトシソヨ  つくしむけ ひめことしそよ    筑紫平け      姫 今年 十四

 ヤマトヒメ コトシモモヤツ  やまとひめ ことしももやつ    ヤマト姫      今年 百八つ

 ヨロコヒテ ヨハヒイタレハ  よろこひて よはひいたれは    喜びて       「齢 至れば

 ワレタリヌ ワカヤソモノヘ  われたりぬ わかやそものへ    我 足りぬ      我が八十モノベ

 ソフツカサ ヰモノニウツシ  そふつかさ ゐものうつし    十二司       ヰモノに移し

 ツカエシム クスコオカミノ  つかえしむ くすこかみの    仕えしむ」     クスコを神の
                                              (アマテル)
 
 ミツエシロ タケノミヤヰニ  みつえしろ たけのみやゐに    御杖代       丈の宮居に

 ツツシミテ ツカエハンヘル  つつしみて つかえはんへる    謹みて       仕え侍べる
 
 ヤマトヒメ ウチハタトノノ  やまとひめ うちはたとのの    ヤマト姫      内端殿の

 イソミヤニ ヒラキシツカニ  いそみやに ひらきしつかに    磯宮に       開き 静かに
                                           (「御開き」の意)

 ヒノカミオ マツレハナカク  ひのかみお まつれなかく    日の神を      祭れば 永く

 ウマナクソ          うまなくそ            倦まなくぞ
 
       フソヰホフミハ        ふそゐふみ              二十五年七月初日
                                           (天鈴812年)

 タケウチニ ホツマシルヘノ  たけうちに ほつましるへの    タケウチに     ホツマ知る侍の

 ミコトノリ キタヨリツカル  みことのり きたよりつかる    御言宣       北より津軽

 ヒタカミヤ カクノヤカタニ  ひたかみや かくのやかたに    ヒタカミや     橘の館に

 ミチオキク モトヒコイワク  みちきく もとひこいわく    道を聞く      モトヒコ 曰く

 クニシルノ ミチハイニシエ  くにしるの みちはいにしえ    「国 知るの     道は往にし方
 
 カミノリカヰノアヤ      かみのりかゐあや        【神乗り粥の文】

 ネノクニノ オホキノマツル  ねのくにの おほきまつる    根の国の      大きの祭る
                                           [多き]

 カミノミケ ネシモノスエノ  かみみけ ねしもすえの    神の御供      十一月の末の

 ユミハリニ カミノリカヰハ  ゆみはりに かみのりかゐは    弓張に       神乗り粥は
                                (11月23日=冬至)    (=黒豆飯)

 クロマメト ウムキトスメト  くろまめと うむきすめと    黒豆と       大麦小豆と

 ナナノヨネ カヰニカシキテ  ななよね かゐかしきて    七菜の米      粥に炊ぎて
                          

 ウケミタマ ヰハシラマツリ  うけみたま ゐはしらまつり    ウケミタマ     五柱 祭り
                                             (新嘗祭)

 トシコエハ ウムキトスメト  としこえは うむきとすめと    年越は       大麦と小豆と

 ヨネムマス トシノリヤマサ  よねむます としのりやまさ    米 蒸ます      トシノリ ヤマサ
                                             (歳徳神)(八将神)

 オニヤラヰ ムツキナアサハ  おにやらゐ むつきあさは    鬼遣らい      一月七日 朝は

 ナナクサノ ミソニヰクラヤ  ななくさの みそゐくらや    七種の       ミソに五臓や

 モチノアサ ムワタマツリハ  もちあさ むわたまつりは    十五日の朝     六腑祭は

 ヨネトスメ カミアリカユソ  よねとすめ かみありかゆそ    米と小豆      神現り粥ぞ

 ツチキミノ シムノマツリハ  つちきみの しむのまつりは    辻君の       シムの祭は
                                (サルタヒコ)

 マメスメニ サカメトナナノ  まめすめに さかめななの    大豆・小豆に     盛豆と七菜の

 ヨネカシキ アマコノカミノ  よねかしき あまこのかみの    米 炊ぎ       天九の神の

 ミシルカヰ          みしるかゐ            坐しる粥」
 
       ミオシルワサノ        しるわさの              身を治る業の

 イクサワニ トシナカラエテ  いくさわに としなからえて    幾多に       歳 永らえて

 ヨロヒトノ ミチノシルヘト  よろひとの みちしるへと    万人の       満ちの知る方と

 アルフミオ ヨヨニツタフル  あるふみお よよつたふる    現る文を      代々に伝ふる
                                 (著す文)

 タケウチハ ツイニナカラフ  たけうちは ついなからふ    タケウチは     遂に中らふ
                                             (中心たる)

 ミチトナルカナ        みちなるかな          道となるかな
                                (典・範)
 
 ネココロオ アカシカエリテ  ねこころお あかしかえりて    根心を       明かし帰りて
                                       <モトヒコに>

 フソナキノ ソミカモフサク  ふそなの そみもふさく    二十七年二月の   十三日 申さく
                                  (天鈴814年)

 ヒタカミハ メヲノコカミオ  ひたかみは めをかみお    「ヒタカミは    女男の子 髪を

 アケマキニ ミオアヤトリテ  あけまきに あやとりて    揚巻に       身を紋取りて
                                              (刺青)

 イサミタツ スヘテヱミシノ  いさみたつ すへゑみしの    勇み立つ      総てヱミシの
                                              (蝦夷)

 クニコヱテ マツロハサレハ  くにこゑて まつろはされは    地 肥えて      服わざれば

 トルモヨシ          とるよし            取るも好し」    
 
       クマソソムキテ        くまそそむきて              クマソ 背きて

 マタオカス カナツキソミカ  またおかす かなつきそみ    また犯す      十月十三日

 ミコトノリ オウスミコシテ  みことのり おうすみこて    御言宣       オウス御子して

 ウタシムル オウスモウサク  うたしむる おうすもうさく    討たしむる     オウス 申さく

 ヨキイテオ アラハツレント  よきいてお あらつれんと    「良き射手を    あらば連れん」と

 ミナモフス ミノノオトヒコ  みなもふす みのおとひこ    皆 申す      「三野オトヒコ

 ヒイテタリ カツラキミヤト  ひいてたり かつらきみやと    秀でたり」     葛城ミヤト

 ツカワシテ メセハオトヒコ  つかわして めせはおとひこ    遣わして      召せば オトヒコ

 イシウラノ ヨコタテオヨヒ  いしうらの よこたておよひ    イシウラの     ヨコタテおよび

 タコヰナキ チチカイナキオ  たこゐなき ちちかいなきお    タコヰナキ     チチカイナキを
 
 ヒキツレテ シタカヒユケハ  ひきつれて したかひゆけは    率き連れて     従ひ行けば

 コウスミコ シハスニユキテ  こうすみこ しはすにゆきて    コウス御子     十二月に行きて

 クマソラカ クニノサカシラ  くまそか くにさかしら    クマソ等が     国の盛衰
                                             (情勢)

 ウカカエハ トリイシカヤカ  うかかえは とりいしかやか    覗えば       トリイシカヤが
                                                  (を)

 カワカミニ タケルノヤカラ  かわかみに たけるやから    川上に       長けるの族
                                 (源流として)

 ムレヨリテ ヤスクラナセハ  むれよりて やすくらなせは    群れ寄りて     安座なせば

 コウスキミ オトメスカタノ  こうすきみ おとめすかたの    コウス君      乙女姿の

 ミハノウチ ツルキカクシテ  みはうち つるきかくして    御衣の内      剣 隠して

 ヤスミセシ オトメノミメニ  やすみせし おとめのみめに    優みせし      乙女の見めに
                                     →9文

 マシワレハ タツサエイルル  ましわれは たつさえいるる    交われば      携え入るる
                                       <コウスを>

 ハナムシロ ミオアケミキノ  はなむしろ あけみきの    花筵        身を上げ 酒の
                                          <そこに>

 タワムレヤ ヨフケヱヱレハ  たわむれや ふけゑゑれは    戯れや       夜 更け 酔えれば
                                               (「酔ふ」の已然形)

 コウスキミ ハタノツルキオ  こうすきみ はたのつるきお    コウス君      肌の剣を

 ヌキモチテ タケルカムネオ  ぬきもちて たけるむねお    抜き持ちて     長が胸を
                                         (トリイシカヤ)

 サシトホス タケルカイワク  さしとほす たけるかいわく    刺し徹す      長が曰く

 イマシハシ ツルキトトメヨ  いましはし つるきととめよ    「今 しばし     剣 止めよ

 コトアリト マテハナンチハ  ことありと まてなんちは    言あり」と     待てば「汝は

 タレヒトソ スヘラキノコノ  たれひとそ すへらきの    誰人ぞ」      「皇の子の

 コウスナリ タケルマタイフ  こうすなり たけるまたいふ    コウスなり」    長 また言ふ

 ワレハコレ クニノツワモノ  われこれ くにつわもの    「我はこれ     国の強者

 モロヒトモ ワレニハスキス  もろひとも われにはすき    諸人も       我には過ぎず

 シタカエリ キミノコトクノ  したかえ きみことくの    従えり       君の如くの

 モノアラス ヤツコカササク  ものあら やつこささく    者 あらず      奴が捧ぐ

 ナオメスヤ キミキキマセハ  めすや きみききませは    名を召すや」    君 聞きませば

 イマヨリハ ヤマトタケトソ  いまよりは やまとたけとそ    「今よりは     ヤマトタケとぞ

 ナノラセト イイツオハレハ  なのらと いいおはれは    名乗らせ」と    言いつ終れば

 ヤマトタケ オトヒコヤリテ  やまとたけ おとひこやりて    ヤマトタケ     オトヒコ 遣りて

 トモカラオ ミナウチヲサメ  ともからお みなうちをさめ    朋族を       皆 討ち治め

 ツクシヨリ フナチオカエル  つくしより ふなちかえる    筑紫より      船路を帰る

 アナトキヒ ワタリアラフル  あなときひ わたりあらふる    穴門・吉備      渡り 粗ぶる

 モノコロシ ナミハカシハノ  ものころし なみはかしはの    者 殺し       浪速カシハの

 モノヤカラ ミナコロシヱテ  ものやから みなころして    愚族         皆 殺し得て

 フソヤホノ キサラキハツヒ  ふそやの きさらきはつひ    二十八年の     二月初日
                                  (天鈴815年)

 マキムキノ ミヤコニカエル  まきむきの みやこかえる    纏向の       都に帰る

 ヤマトタケ モフスカタチハ  やまとたけ もふすかたちは    ヤマトタケ     申す形は

 スヘラキノ ミタマニヨリテ  すへらきの みたまよりて    「皇の       御霊によりて

 クマソラオ ヒタニコロシテ  くまそお ひたころして    クマソ等を     ひたに殺して

 フツクムケ ニシハコトナク  ふつくむけ にしことなく    悉く平け      西は異無く

 タタキヒノ アナトナミハノ  たたきひの あなとなみはの    ただ吉備の     穴門 浪速の

 カシハタリ アシキイキフキ  かしはたり あしきいきふき    カシハ辺      悪しき気 吹き
                                            (邪気)

 ミチユクモ ワサハヒモトム  みちゆくも わさはひもとむ    満ち行くも     災い回む
                                 (世に永らうも)     (災って回る)

 アフレモノ ウミトクカトノ  あふれもの うみくかとの    溢れ者       海と陸との

 ミチヒラク トキニスヘラキ  みちひらく ときすへらき    道 開く」      時に皇

 クニムケノ イサオシホメテ  くにむけの いさおしほめて    国平けの      功 褒めて

 タマモノナシキ        たまものなし          賜物 為しき



 即位二年三月、オシロワケ・タリヒコ君はキビツヒコの娘のハリマノイナヒオイラツ姫を中宮にたてました。 三年十二月十五日、后は年末の年中行事の餅花(まゆ玉)造りに参加して、碓(うす)の近くで楽しみながら手伝っている時産気づき、無事二子をお生みになりました。

 そこで早速、皆が子供達の名前を付け、兄の名を餅仁・大碓皇子(モチヒト・オウス)として、弟の名前を花彦・小碓皇子(ハナヒコ・コウス)とつけました。二人共、幼くしてその人となりは容貌勇健で、長じて身長一丈にもなりました。しかし兄は臆病で軟弱、弟は二十人力で勇猛そのものでした。

 十四年新春、ミノ(美濃)の国のカンホネの娘の姉妹が国一番の美人だとの評判が君に伝えられました。 君は早速オウス(兄)を遣わして、姉妹を呼び寄せることにしました。オウス皇子はミノに行き、その美しい容姿を一目見るなり心を動かし、密かに密通してミノに滞在したきり復命しませんでした。この時兄は十一歳、身長は八尺近くありました。君は兄の無礼を咎めて帰京を許しませんでした。

 この年七月、ツクシ(筑紫)国のクマソ共が国に背いて朝貢をしませんでした。故に各県主(あがたぬし)から、君の御狩(みかり)を乞う書状が、矢継ぎ早に届けられました。君は早くも八月十五日から御幸され、九月五日、すでにスオウ(周防)のサバ(佐波)に至ると南方を望み見て、「殺気(ザガ)息立つは、賊供のしわざかや」と宣いました。

 そこで君は、忠臣のオオノタケモロとキノウナデ、及びモノベナツハナの三人を先遣隊として敵情を探らせました。そこに、カンカシ姫という人望高き諸族を従属させた一国の頭(神)が、君の使者の知らせを聞いて突然船で現われました。姫はシズ山(磯津山)の榊を抜き取り、上の枝には八握剣(ヤツカハツルギ)を、中枝に八呎(ヤタ)の鏡を、下枝に曲玉(マガタマ)を飾りたてて、白幡を船の艫(とも)と舳先(へさき)に揚げてやってきました。

 「我が同類(たぐい)は、全員裏切る事なく天朝に服し、君の御狩に従います。唯残念ながら、ハナダレ共が乱れて国境を侵し、山野を跨(また)がり、悪名を良いことに我が物顔でのさばり、ウサ(宇佐)にたむろして賢(さか)しらに鳴り響いています。又、ミミダレも貪(むさぼ)りて、民の糧をかすめ取り、ミケ川(御木川)の上流に群れています。又、アサハギも同類(たぐい)共を集めて、タカバ(高羽)川上にとぐろを巻いています。又、ツチオリとイオリもミドリノ(緑野)川上に潜伏し、険しい渓谷を利用して悪事の限りをつくしています。これらの者達は皆、要路(かなめじ)に陣取り往来の妨害をしています。これ等、長(おさ)と名乗る悪党共を討ちとってください」

 ここで、タケモロは計略を練り、赤絹被(あかぎぬはかま)や種々の引出物を山と車に積んで引き廻り、悪のアカハギを先ず召し寄せて、この者達に引かせて諸共が集まった所を徹底的に討ち殺しました。
 君はこの後、御幸してトヨ(豊)国のナガオ(長峡)に行宮(あんぐう)を建てて、仮都(かりみやこ)としました。

 十月にはハヤミ(速見)村に至り、長(おさ)のハヤミツ姫(メ)は、御幸の報をいち早く聞いて自ら君の一行をお迎えして申し上げるには、「ネズ(鼠)の岩窟(いわや)に、二族のツチグモが住み着いていて、名はアオクモとシラクモと言います。ナオリ(直入)県のネギノ(禰宜野)には、三族のツチグモが居て、ウチザルとヤタとクニマロを合わせた五族は仲間に強力共を大勢集めているので、真面(まとも)に掛かると戦(いくさ)となります」と。
 ここで君は、進み得ず、早速クタミ(来田見)村の仮宮で作戦会議を開いていわく、「苦境にあるこの時こそ、逆に多くの衆兵を動員して一気に打って出るべきだ。クモ等はすきを突かれて恐れをなし、各々分散して逃げ隠れするはずだ。後はゆっくりシラミ潰しに退治すれば良い」と。

 山の椿を切り出し、槌を大量に用意して、剛の者を選んで槌を持たせ、山を穿(うが)ち草を分け、岩窟に潜むクモ等を徹底的に打ち殺して廻ったので、イナバ(稲葉)川辺は血の川となり、次にウチザルを討とうとツバキイチ(海石木市)から、ネギ(禰宜)山を越すときのこと、賊の横矢が雨より激しく降り注ぎ、一歩も前進出来ずに再びキワラ(城原)に戻って太占(フトマニ)で占い作戦を立てたところ、ついにヤタをネギノ(禰宜野)に打ち破り、ここに至ってウチザルが降伏を願い出ました。君は許さぬゆえ、クニマロも一緒に瀧に身を投げことごとく滅び去りました。

 十一月に行き至った仮宮は、ヒウガ(日向)のタカヤ(高屋)宮です。
 十一月五日、クマソを討つための策議が開かれました。詔があり、「我聞くクマソとは、兄(エ)アツカヤと弟(オト)セカヤと言って、人の頭(かみ)を気取り、群衆を集めてクマソタケル(熊襲梟)を名乗っている。この二人に立ち向かえる者もなく、我が兵は数で劣勢にあり、民兵を多く動員すれば民に多大な犠牲を与えることにもなりかねない。武力を使わず敵を倒す戦法をとろう」との意向を表明すると、一人の臣が進み出て申し上げるには、「クマソには、フカヤとヘカヤという二人の娘がいます。その容姿はキラキラと輝き精神はりりしくもあります。この際、高価な宝物を引出物に用意して二姉妹を召し入れて、隙を狙って虜(とりこ)にすべきです」
 君は、「良からん」と決定すると、美しい絹織物を用意して二人の娘を身元に呼び寄せ、手厚く恵を与え親切にもてなして二人を懐柔しました。
 すると姉のフカヤが申し上げるには、「君よ、どうかご心配なされるな。私に名案があるので御任せ下さい」というや、皇軍を引き連れ家に帰ると、兵(つわもの)を隠しおいて、父に酒を多量に飲ませました。父はついに泥酔してその場に伏して寝てしまいました。その間に父の弓弦(ゆみずる)を切っておき、兵を手引きして父アツカヤを殺させました。

 スベラギは姉が肉親を殺したことを憎んでどうしても許せず、結局殺しました。しかし、妹のヘカヤは、その国の国造に取り立てて、叔父セカヤの子のトリイシカヤと結婚させ後を継がせました。
 この後、ツクシを完全平定するまで六年間、このタカヤ(高屋)の行宮(あんぐう)に滞在しました。この間、このソオ県主の娘の美しいミハカセ姫を后として迎え、トヨクニワケの親王が生まれました。母と子はこの宮に留まって後に、日向の国造の祖となりました。

 十七年三月十二日、コユガタ(子湯潟)のニモノ(丹裳小野)に御幸され、東方をはるかに望み、古(いにしえ)に思いを馳せてのたまうは、
御祖天君(ミオヤアマキミ) 高千穂の 峯(みね)に登りて 大日山(ヒノヤマ)の
朝日に辞(いな)み 妻向い 上下(かみしも)恵む 神となる 国の名もこれ
力は上(かみ)を あまねく照らす モは下(しも)の 青人草(あをひとくさ)を
恵まんと 鳴る神(雷)の雨 良き程に 別けて 稲畑(ミゾロ)の潤いに
民賑(たみにぎ)わせる 功(いさおし)は 加茂別雷(カモワケツチ)の
神心(かんこころ) かくぞ思(おぼ)して 神祭(かみまつ)り
 都の空を望み忍んでの御歌に
愛(はし)きやし  我家(わぎえ)の方ゆ  雲居(くもい)立ち
雲は大和の  国の秀(まほ) 又棚引(たなび)くは  青垣(あおがき)の
山も籠(こも)れる  山城(やましろ)は  命の真麻(まそ)よ
煙火(けむひ)せば  唯、 皇子(みこ)思え  香久山(くのやま)の
白樫(しらかし)の枝(え)を  髻華(うず)にさせこの子
 十八年三月、帰京途上の御狩りに発たれました。
 ヒナモリ(夷守)という所に近づくと、イワセ(岩瀬)川辺に立ち遠方を望むと何やらガヤガヤと人群が出来ているようすです。弟ヒナモリに見に行かせました。帰っての返答は、「諸県主(もろあがたぬし)等が君を迎えるため大御食(オオミケ)を捧げようと、イズミ姫(泉姫)の家に集い用意している集会です」とのことでした。
 又、行き進み、四月三日にクマノ県(ガタ・熊野)の長(おさ)のクマツヒコ兄弟(エト)を召し呼びましたが、兄(エ)ヒコは来ましたが、弟は来ません。
 臣(とみ)と兄ヒコとに、天朝に従うように諭させましたが、拒み出頭しないので誅(つみ)しました。

 二十日に海路を往き、アシキタ(葦北)の小島に泊まった時、日照りがきつく君は水を欲しましたが、どこにも泉が見つかりません。その時、ヤマベコヒダリが、水を天に祈ったところ、岩角(いわかど)に清水が湧き出したので、この水を捧げました。故に、この地の名をミズシマ(水島)と名付けました。

 五月一日(サツキハツヒ)に、船を馳せてヤツシロ(八代)に向かいました。
 やがて日もとっぷりと暮れてしまい、何とか接岸したものの、そこがどこの土地か分かりません。君は、「火の光るところに船を差し向けよ」との詔をしました。
 やっと対岸に着き上陸して、「ここは何村」と問えば、答えは、「ヤツシロ(八代)のトヨムラ(豊村)です」又、燃える火の光を聞けば、「火の主が解りません。あれは人の火ではなくシラヌヒ(不知火)です」と聞き、大変興味を覚えた君はここをシラヌヒ(不知火)国と名付けました。

 六月三日、タカク(高来)県(あがた)からタマギナ(玉杵名)村に船を渡し、この地のツチグモのツヅラという頭を退治しました。
 十六日はやっとアソ(阿蘇)国に至りました。
 四方は広大な風景で、一軒の家すら見えません。君はおもわず、「人はいるのか」と、宣いました。するとたちまち二神が出現し名をアソツヒコとアソツ姫と名乗りました。
 「君何ぞ、人無きやとは」と言えば、君がいわく、「なんじは何者ぞ」答えていわく、「我等は国神(くにつかみ)、なれど残念にも社殿は破れ朽ちて今はありません」
 これを聞いた君は早速、詔りして、立派な社を建てました。二神は大層喜んで、この社殿(やしろ)を立派に守護したので、この土地に民家が多く建ち並ぶようになり、国は再び賑わい民も増して豊かになりました。

 七月四日、ツクシ路後(ちのち・筑後)のタカタ宮(高田行宮)に入られると、間もなくこの地の大御木(オオミケ)が倒れました。木の長さは九百七十丈もある大木で、諸民はこの木の上を踏み歩いて、往来(ゆきき)にこんな歌をうたいました。

朝霜(あさしも)の  御木の棹橋(さおはし) 宮前(まえ)の君
いや、渡らずも  ミケ(三池)の棹橋(さおはし)
 君がこの木について問いかけると、一老人(おきな)が答えて、「この木は檪(くぬぎ)の木です。倒れる前は朝日の影がキジマ(杵島)峯にかかり、夕日の影はアソ(阿蘇)の山を覆っていました。これは神の御木(みけ)です」
これにより、土地の名もミケ(三池)と名付けました。

 ヤツメ(八女)県を越えて、前山の南方を遠望し、アワミサキ(粟崎)を見て、君いわく、「山峯重畳(やまみねかさなりたたみ)うるわし、国神(かみ)ありや」
 この時、ミルサルオウミ(水沼県主猿大海・みぬまのあがたぬしさるおうみ)が申し上げるには、「ヤツメの姫神は常に山中にお住まいです」と。この故、この地をヤメの国(八女国)の名が起こりました。

 八月に入り、イクバ(的)村に着きました。
 この日、御食(みけ)をお進めする時、膳部(かしわでべ)がお皿を忘れてしまいました。村長(おさ)が理由を述べて、「昔、天御子(あめみこ)が御狩(みかり)の日に、この地で御食(みけ)をとられて、その時も膳(かしわで)がウクハを忘れ、実は私等の国言葉で、お皿のことをウクハ(浮羽)又、イハとも呼んでいます。これは大変めでたい古事にならったものです」と答えました。

 十九年九月八日(ソコホナガツキヤカ)、君は御狩を終え日向(ヒウガ)を発ってマキムキ(纏向)の日代(ヒシロ)宮に、無事帰京しました。

 二十七年クマソが再び背き、又国法を侵し国民を苦しみ初めました。十月十三日、君の詔が発せられ、「今度の戦は、我が皇子(みこ)、コウス(小碓)に討伐させることとする」
 命を受けたコウスが申すには、「もし良き射手がいれば連れていきたいと思います」それを聞いた臣(とみ)等が、一斉に言うには、「それはミノ(美濃)のオトヒコが秀でています」との返事でした。
 早速、カツラギ(葛城)のミカドなる者を遣わしてオトヒコをお召しになると、オトヒコは臣下のイシウラノヨコタテとタゴノイナギを引き連れて参上しました。

 コウス皇子(みこ)一隊は、十二月に筑紫に着き、クマソ等の動静や地形を密かに窺っていました。
 ある日、トリイシカヤ(クマソの頭目)が支配する川上に、梟(タケル)の一族(やから)共が群れ集まり宴会を開いていました。この報を受けたコウスは、乙女(おとめ)姿に変装して、御衣(みは)の内に短剣を隠し持つと、休息中の乙女達の見物客中に紛れ込んで時を窺っていました。
 まもなくトリイシカヤは美しい衣装に身を包んだ高貴な乙女姿に目をとめ、自ら出向き手携(たずさ)えて室に入れると、一段高い花むしろの上座に座らせ、酒の酔いも手伝って戯れからかってお楽しみでした。

 やがて夜も更け、羽目を外して騒ぎすぎたクマソタケルにも酔いが回ってきた頃合を見て、コウス君は肌に付けていた剣を抜き持って、タケルの胸を一刺に貫き通しました。タケルはとっさの事に抵抗すらなく、コウスの動きを制するように手を動かすと、「今しばしお待ちを! 剣を留めよ! 事あり!」と最後の声をふりしぼって哀願しました。君は手の力を弛めてタケルの言い分を聞こうと、待ってやると、「汝は一体何者ぞ」と問いかけられ、「天皇(スベラギ)の子のコウスなり」と答えると、タケルは又続けて、「我はこれ国の武人(つわもの)ぞ、何人(なんびと)も我が武力に勝るものはなく、皆我に従ってまいった。が、君のごとき勇者を我知らず、奴(やっこ)の捧ぐ御名(みな)を君召すや」君が聞き入れると、「今よりは、ヤマトタケ(日本武)とぞ名乗らせよ」と言いつつ、静かな最期をとげました。ヤマトタケは直ちにオトヒコを差し向けて、残党共を皆打ち殺して凱旋しました。

 ツクシより船での帰路、アナト(穴門)・キビ(吉備)に上陸して、荒ぶる賊を殺しつつ、ナミハ(難波)・カシワ(柏)の悪者を討伐して帰京しました。

 ヤマトタケの復命は、「天皇(スベラギ)の御霊(みたま)によりて、クマソ等を我が手にかけて直接殺すことができました。今度はクマソを徹底して殺しましたので、これからは西国にも平和がよみがえり、国も豊かになるでしょう。唯、キビ、アナト、ナミハの海賊共が沿岸を荒し回り、又路行く人の妨げともなっていました。禍(わざわい)の元凶は溢(あぶ)れ者共で、これらも難無く平定し、海と陸との安全を確保してまいりました」

 天皇(スベラギ)は、この度のクマソ征伐から帰京し、一回りも二回りも大きく成長した我が子コウス(ヤマトタケ)の報告をはるかな昔の出来事のように聞きながら、夢に生き、何も怖いものもなかった自らのツクシでの戦いの日々を、二重写しに思い描いて大層満足気のご様子でした。
 コウス皇子(みこ)には、たくさんの賜物(たまもの)が褒美として与えられました。












(私論.私見)

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38-97~98 二十八年二月 「やまとたけ」 無事帰京

20-8. 二十八年二月 「やまとたけ」 無事帰京(38-97~98)

つくしより ふなぢをかえる(38-97)
あなときび わたりあらふる
ものころし なみはかしわの
ものやから みなころしゑて
ふそやほの きさらぎはつひ(38-98)
まきむきの みやこにかえる


筑紫より船で帰りました。長門(あなと)と吉備に上陸して荒ぶる賊を殺し、浪波(なみは)と柏原(かしわ)の悪党も皆征伐して二十八年二月の一日に「まきむき」の宮に無事帰りました。

前の年の十二月(日にちは不明)に出発していますから、1~2ヶ月の遠征ということになります。


21. すべらぎ(天皇:景行天皇)に「くまそ」征伐を報告(38-98~101完)


やまとだけ もふすかたちは(38-98)
すべらぎの みたまによりて
くまそらを ひたにころして(38-99)
ふつくむけ にしはことなく


ヤマトタケが申し上げたのは天皇(すべらぎ)の御霊(ご加護)によって、「くまそ」等を一途に殺して退治してきました。今後、西は平和になるでしょう。

たゝきびの あなとなみはの(38-99)
かしはたり あしきいきふき
みちゆくも わさはひもとむ(38-100)
あふれもの うみとくがとの
みちひらく


ただ、吉備と長門、浪波の柏原の海賊がけんかを吹きかけて(けんかを売って)きて、航路の妨げになっていました。災いの元凶はあぶれもの達でこれらの者も鎮め、海と陸(くが)との通行の安全を確保しました。
「なみは」は今の難波で当時は波が荒れていたようである。波の花が出来ていたと思われる。

 ときにすべらぎ
くにむけの いさをしほめて
たまものなしき(38-101完)


これを聞いたすべらぎ(景行天皇)は「やまとたけ」が国の乱れを正したことを褒め称えました。そして、沢山の賜物が与えられました。完


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38綾(章)完- 39綾(章)へ 続く
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38-92~93 夜も更け、「こうす」は剣でたけるの胸に一刺し

20-5. 夜も更け、「こうす」は剣でたけるの胸に一刺し(38-92~93)


 よふけゑゝれば(38-92)
こうすきみ はたのつるぎを(38-93)
むきもちて たけるがむねを
さしとほす


やがて、夜も更け、「こうすきみ」(やまとたけ)は肌につけていた剣を抜き出して「くまそたける」の胸に刺し通しました。

20-6. 「くまそたける」は「こうす」に汝は何者かと哀願(38-93~95)

 たけるがいわく(38-93)
いましばし つるぎとゝめよ
ことありと まてばなんぢは(38-94)
たれひとぞ


「くまそたける」は哀願しました。今、しばし剣を留めて!お待ちを! そして、「こうす」が剣を刺すのを一旦待ったら、「くまそたける」は、汝は何者かと問いました。

 すべらきのこの(38-94)
こうすなり


すべらぎ(天皇・景行天皇)の子の「こうす」である。
(まだこのときはヤマトタケの名前はついていない)

 たけるまたいふ(38-94)
われはこれ くにのつわもの
もろひとも われにはすぎず(38-95)
したがえり


「くまそたける」が再び言った。我はこれ、国のつわもの(強者・武人)で誰一人として我に勝るものはおらず、皆、我に従ってきた。

 きみのことくの(38-95)
ものあらす 


きみのごときの勇者は今まで誰もいなかった。


20-7. 「くまそたける」は「こうす」にヤマトタケと名乗るよう託し命絶える(38-95~96)


やつこがさゝぐ(38-95)
なをめすや きみきゝませば
いまよりは やまとたけとぞ(38-96)
なのらせと いゝつおはれば


「くまそたける」は、奴(やっこ・自分を卑下して)が捧げる名前を召して下さいと言いました。そして、君(こうす皇子・このときまで)がこの願いを聞き入れると、「くまそたける」は今からはヤマトタケと名乗らせよと言いながら命絶えました。

やまとたけ おとひこやりて(38-96)
ともがらを みなうちおさむ
(みなうちおさめ:小笠原写本)


「やまとたけ」は直ちに「おとひこ」を差し向けて残党共を皆討ち殺しました。



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38-90~92 「くまそ」の「やすくら」に、「こうす」は乙女姿で紛れ込む

20-3.「くまそ」の「やすくら」に、「こうす」は乙女姿で紛れ込む(38-90~92)


 とりいしかやが(38-90)
かわかみに たけるのやから(38-91)
むれよりて やすくらなせば


「くまそ」(とりいしかや・くまその正式名)は川上で首領の「くまそたける」の一族が集って大宴会(やすくら・あぐらをして)を開いていました。

こうすきみ おとめすがたの(38-91)
みはのうち つるぎかくして
やすみせし おとめのみめに(38-92)
ましわれは


「こうす君」(きみ・これ以前は皇子であったのが此処からは君(天皇扱い)になっている)は乙女姿に変装して御衣(みは・着物)の中に剣を隠し持って、休息中の乙女達の見物客に紛れ込んでいました。


20-4. 「くまそたける」は女装姿の「こうす」の手を携える(38-92)


 たつさえいるゝ(38-92)
はなむしろ みをあげみけの
たわむれや (みをあげみきの:小笠原写本)


そうしたら、「くまそたける」は乙女姿の「こうす」(やまとたけ)に目が止まりました。
「くまそたける」は乙女姿の「こうす」の手を携えて室に入り、花むしろに座らせ、酔いも手伝って戯れました。

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38-89~90 美濃のおとひこを射手に従え行く

20-2. 美濃のおとひこを射手に従え行く(38-89~90)

 めせばおとひこ(38-89)
いしうらの よこたておよび
たごゐなぎ ちちかいなぎを
ひきつれて したがいゆけば(38-90)


「くまそ」らの国のさかしら(動静や地形などの様子)を偵察に行かせました。
勅使の「かつらぎみやぢ」は「おとひこ」に「やまとたけ」のお供をするよう召されました。
そうしたら、射手の「おとひこ」は弟子の「いしうらのよこたて」と「たごいなぎ」と「ちちかいなぎ」の三人を引き連れて、「こうす皇子」に従って行きました。

こうすみこ しはすにゆきて(38-90)
くまそらが くにのさかしら
うかゝえば


「こうす皇子」(やまとたけ)は十二月に出発しました。
「くまそ」らの国のさかしら(動静や地形などの様子)を偵察に行かせました。


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38-88~89 出征を命じられたヤマトタケは名射手を求める

20-1. 出征を命じられたヤマトタケは名射手を求める(38-88~89)


 こうすもふさく(38-88)
よきゐてを あらばつれんと


こうす皇子(後のやまとたけ)は名弓射手がいれば連れて行きたいと申しました。

みなもふす みのゝおとひこ(38-88)
ひいでたり (38-89)


そうすると、大臣たちは皆美濃の「おとひこ」が優れていると申しました。

かつらきみやぢ(38-89)(かつらきみやど:小笠原写本)
つかわして


そこで、「かつらぎみやぢ」を勅使として美濃に行かせました。



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続く

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38-87~88 二十七年十月くまそが再び背き、景行天皇は勅を出す

20. 二十七年十月くまそが再び背き、景行天皇は勅を出す(38-87~88)

 くまそそむきて(38-87)
またおかす


「くまそ」が再び背き、法を犯し、国民を苦しめ始めました。

 かなつきそみか(38-87)
みことのり こうすみこして(38-88)
うたしむる


十月十三日(二十七年の)に、景行天皇は勅を出しました。「こうす皇子」(後に「やまとたけ」と名乗る)に出征を命じました。



熊襲が再び背いたのは、景行天皇が戻られてから、八年経った時であることがわかります。

景行天皇は熊襲退治に十二年の八月五日に出発して、七年間御幸された後、十九年の九月八日に戻って来ています。


御自分が再び熊襲退治に行くのには大変であったのと、子供が成長して、まかせられると判断したからだと思います。
即位二年目の十二月十五日に「おおうす」「こうす」の双子の子供は生まれていますから、計算上、二十五歳の成人になっています。

(38-3~6)参照願います。

このとき、既に景行天皇は自分の跡を継ぐ者として、二十人力であった弟の「こうす皇子」に期待をかけていたことがわかります。

なぜなら、景行天皇自身が熊襲へ御幸される前に、兄である「おうす皇子」は、景行天皇の言い付けをすっぽかして、激怒させて宮に入れなかった経緯があります。
その言いつけとは、美濃に良い美人姉妹がいるから連れて来るようにということであったが、お使いに行った本人がぞっこんほれ込んでしまい帰ってこなかったからです。

(38-24~26)参照願います。



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38-86~87 二十七年二月 景行天皇が「えみし」について申された

19. 二十七年二月 景行天皇が「えみし」について申された(38-86~87)

ふそなきの そみかもふさく(38-86)
ひたかみは めおのこかみを
あげまきに みをあやどりて
いさみたつ すべてえみしの(38-87)
くにこえて まつろわざれば
とるもよし


二十七年二月十三日、景行天皇が申されるには日高見は男も女も髪をあげまきにしている。入れ墨をして勇猛である。
えみしの国はどこも全て土地が豊かで豊潤である。もし、逆らって従わないようならば国をとりあげるのも良かろう。



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38-86 「もとひこ」は本音で語り合った

18. 「もとひこ」は本音で語り合った(38-86)

ねこゝろを あかしかえりて(38-86)

本音(ねごころ・木の根の心)で「たけうちまろ」と語り合って、真実が明らかになったので、「たちばな元彦」は、えみし側から大和側にかえりました。
後日、ヤマトタケ東征のときエミシに言い寄られたが首を振らなかった。

かみのりがゐの綾の前から続くと思われます。



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38-80~85 かみのりがゐのあや

17. かみのりがゐのあや(38-80~85)

かみのりがゐのあや(38-80)

神に典(祈り・教え)して、粥占いする綾

粥占いの「かい」は甲斐の国の語源になったと考えられます。
詳細は32綾参照(後日ブログに掲載予定)

17-1. 五柱(いはしら)祭り(38-80~82)

ねのくにの おほぎのまつり(38-80)
かみのみけ ねしものすえの(38-81)
ゆみはりに かみのりがゐは
くろまめと うむぎとすめと
なゝのよね かゐにかしぎて


北陸(越)の国の「おほぎ」(豪族)が祀っている、神の御食は、十一月(ねしも・しもつき・木の根に霜が付く季節)の末の弓張り月(下弦の月・二十四日夜)の日に、神に祈るお粥は、黒豆と大麦(うむぎ)と小豆(すめ・あずき)と七升のお米でお粥を焚き上げ(かしぎ)ます。
「ねの国」は「ねのこえ国」とも言い、「こ」は蚕、「え」は桑の木を示し、養蚕が盛んであったことがうかがえます。

うけみたま ゐはしらまつり(38-82)

これが、受け御霊(おいなりさん)の五柱(いはしら)祀りです。五柱とは、五元素の 空(うつほ・天空の神)・風(すなとべの神)・火(はぐつきの神)・水(みずはめの神)・土(はにやすの神)のことを示しており、おしで文字の五つの母音を表している。

17-2大晦日のお祭り(38-82)

としごえは うむぎとすめと(38-82)
よねむます


年末・大晦日の年越しは大麦と小豆と米六升を焚き上げます(蒸します)。旧暦の二月三日節分(節を分ける)

 としのりやまさ(38-82)
おにやらゐ


としのり(たまめ神・五臓六腑を守る神)やまさ(やまさ神・八しょう神・とおかみえひため)を祭り、鬼を追い出す祭りをします。

鬼掃いについては「みかさふみ」に詳細記述があるそうです。
なお、「みかさふみ」は、この「ホツマツタヱ」と、対を成すもので、現在10章分しか我々の目に触れることが出来ないようです。

17-3. 一月七日は七草の味噌粥(38-82~83)

 むつきなあさは(38-82)
なゝくさの みそにゐくらや(38-83)


睦月(一月)七日の朝は、五臓六腑を守るために、七草の味噌のお粥をつくります。

17-4. 一月の満月の日、五臓六腑を守るお祭り(38-83)

もちのあさ むわたまつりは(38-83)
よねとすめ かみありかゆぞ


睦月(一月)の満月の日の朝、五臓六腑を守るための祭りはお米と小豆のお粥で霊験あらたかなお粥です。

17-5. 「つちぎみ」(猿田彦)の身内(しむ)の祭り(38-83~84)

つちぎみの しむのまつりは(38-83)
まめすめに さかめとなゝの(38-84)
よねかしぎ あまこのかみの
みしるがゐ


「つちぎみ」(猿田彦)の身内(しむ)の祭りは大豆、小豆にささげ豆と七升のお米を炊いてお粥を作ります。天のみなか主(天神八神)に捧げる御しる粥です。

17-6. 長寿を全とうするたけうち文書(38-84~85)

 みおしるわざの(38-84)
いくさわに としなからえて
よろびとの みちのしるべと(38-85)
あるふみを (ちちのしるべと:小笠原写本)


身の程を知る質素な食事をして、謙虚に生きることで、いついつまでも生きる長寿を全うして、万人の生き方の道しるべとなるための文書(竹内文書)を書きました。

 よゝにつたふる(38-85)
たけうちは ついにながらふ
みちとなるかな


代々後世に伝える「たけうちつくね」は長寿を得て実際にその道を示しました。

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38-8~13景行天皇 美濃に行き八坂入姫をお妃に

5. 景行天皇 美濃に行き八坂入姫をお妃に(38-8~13)

よほ。きさら。もち(38-8)
みのにゆく とみらもふさく
よきめあり(38-9)


纒向の日代四年の二月十五日に景行天皇は、大臣たちが良い娘がいますというのを聞いて、美濃に行きました。

 やさか。たかより(38-9)
こゝな。きり うゑて。たのしむ
こゝりみや


菊桐(ここり)の宮では、八坂高頼が菊の花と桐を植えて楽しんでいました。

 かれ。これゑんと(38-9)
みゆきして みのたかぎたの
たかよりの こゝりのみやに(38-10)
かりいます


しかるが故に、この娘を得ようと御幸して美濃の高北の高頼の菊桐(ここり)の宮に仮住まいすることにしました。


 いけすのそめば(38-10)
さしのぞく おとひめとめて
きみめしつ ひめ。おもえらく
いせのみち かよえるのりも(38-11)
つや。ならず きみに。もふさく 
やつかれは とつぎ。このまず


(とつぎのぞまず:小笠原写本
みあらかに めすも。よからず


景行天皇が生け簀(いけす)を覗いていたら、向こう側からも覗いている弟の姫(二人の姫がいて妹の方)と目が合いました。
君(景行天皇)はこちらにいらっしゃいとお誘いしたら、この姫は深く考えて断りました。
自分は男女(いせ)の道(エッチする)には魅力(つや)がありません。君(天皇)に申し上げます。自分は皇后に成ることは望みません。宮中に召し上がることも好みません。


あねがなお やさかいりひめ(38-12)
すがたよく きさいのみやに
めさるとも みさほならんか


その代わり、姉を推薦します。姉は八坂入姫といいます。姿、器量良く妃の宮(きさい)に召されても操を立てて良き妃になるでしょう。

きみゆるし あねひめをめす(38-12)
ねしも。はひ まきむきひしろ(38-13)
にいみやに かえりいります


君(景行天皇)は承諾して姉姫をお妃に召されました。十一月(ねし)一日に纒向の日代に帰ってこられ、新築した宮にお入りになりました。

二月中旬に美濃に行って、十一月初めに帰ってきたということなので、八ヵ月半の間、美濃で仮住まいしていたことになります。


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(38-6~8)即位三年目 紀州への御幸取りやめる

即位三年目 紀州への御幸取りやめ

別のはなしになります。

みほのはる きさらぎはつひ(38-6)
きのくにゝ かみまつらんと
うらなえは ゆくはよからす(38-7)
みゆきやめ


纒向の日代三年(みほ)の春、二月初めに紀州に神を祭ろうと占ったところ、行くことは凶と出たので御幸はやめました。

 おしまことのこ(38-7)
うましたけ ゐこゝろ。やりて
まつらしむ あび。かしはらに
ことせすむ(38-8)


そのかわり、忍信人王の子の「うましたけ」の「いごころ」を遣わして祭らせました。そして、天の日の柏原(大阪府柏原市)に九年間住みました。

4. 「たけうち」についての記載がここに記載されています


 きのうぢまろが(38-8)
やまとかげ めとりてうむこ
たけうちぞ 


その「うましたけ」の「いごころ」が柏原で、紀の国の「うぢまろ」の娘の「やまとかげ姫」を娶って産んだ子が武内(武内宿禰是)です。(うぢ=うち、武内:たけうぢ)

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38-3~6「おいらつ姫」が双子を生む

即位二年目 「おいらつ姫」が双子を生む(38-3~6) 
 ヤマトタケルの誕生です


ふほ。やよい きびつひこがめ(38-3)
たつ。きさき はりまのいなひ(38-4)
おいらつめ うちめのときに
こぞうづき はらみてうまず


即位二年目(纒向の日代二年)三月に吉備津彦(岡山県出身)の娘を妃(中宮)にたてました。名前は播磨の稲日(いなひ)おいらつ姫と言い、昨年(こぞ)の四月、「うちめ」の時に孕みましたが生まれませんでした。想像妊娠であったと思われます。
「うちめ」とはお妃の位付けで「すけ」妃(中宮)に次いで2番目の位です。


ふそひつき へて。しわす。もち(38-4)
うすはたに もちはな。なして(38-5)
ふたごうむ


そのおいらつ姫が、二十一(ふそひ)ヶ月経て、師走12月のもち(15日のこと、小正月)の時に、臼で餅を作っていたときのことです。臼のそばで餅花を作っていたとき、突然産気づいて双子を生みました。

 ゑのな。もちひと(38-5) 
おうすみこ とのな。はなひこ
こうすみこ ともにいさみて
ひとなりは みのたけ。ひとせ(38-6)
ゑはよわく とは。ふそちから


生まれてきた、兄貴(ゑ)の名は「もちひと」、「おうす皇子」とつけました。
弟(と)の名は、「はなひこ」、「こうす皇子」とつけました。
二人とも元気で身長は一丈にもなりました。
兄は軟弱でしたが、弟は二十人力でした。

餅花(もちはな)まつりの時に生まれたから、兄の方には「もち」をとり、弟の方には「はな」をとり、そして、兄の方には「もちひと」という「ひと」がつき、弟の方には「はなひこ」という「ひこ」が付いている。
「ひと」は「ひ」(一)から「と」(十)まで全て具わった完全な人を意味し、「ひこ」は「ひ」(一)から「こ」(九)までで少し位を下げている。

また、餅つきの臼のそばで産気づいたから「うす」の頭に「お」(大)をつけて「おうす」、「こうす」は「こ」「小」をつけた。いたって簡単明瞭な名付け方であったことが分かります。

この弟の「こうす皇子」が後のヤマトタケルになります。

乞う、次回


ps:本文後の(38-xx)はホツマツタヱの38綾(章)のページ番号です。

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38-1~3「おしろわけ」すべらぎに

「おしろわけ」 すべらぎに即位
 後世の景行天皇という諡号(おくりな)(
38-1~3)


ときあすゞ なもやそやほの(38-1) 
ふつぎそひ あまつひつぎを 
うけつぎて いむな。たりひこ 
おしろわけ あめすべらぎの(38-2) 
としやそひ 


神武天皇の即位からの時はあすず暦の七百八十八年の七月(ふつぎ=文月の略)十一日に立太子になられる儀式を引き継ぎました。実名(いむな)が「たりひこ」おしろわけ(景行)天皇(すべらぎ)の年は八十一歳でした。

ここで即位した時の年令が八十一というのは正確には誰も分からなくて何かを誇張したのではないか?と推測しています。
例えば、景行天皇の子供が総勢八十一人だったから同じ語呂合わせで八十一歳と記載したか?
編纂時に歳と子供の数の写し違いをしたまま気が付かなかったのか?

後述の箇所から長寿が実際にあり得たかも知れない内容もあり、一方では、当時の年の数え方は新年が二回あったと考えると、実年令は1/2で納得できます。
この年の件については、ひとまず記述どおりとして、先に進みたい。将来、ほつま暦で書かれている所を解析して行けば何かヒントがでてくることを期待して・・・・。


みぐさ。たからの(38-2)
あまおしか やとよのみはた
たかみくら いと。おごそかに
あまつかみ むべ。くだります(38-3)


三種(みぐさ)の神器を授ける天の使いの方から八色(やとよ)の旗を受け取り、高見倉に御立ちになり、大変厳かに即位の礼がとり行われました。神に認めてもらう儀式です。天と地との儀式で天神は下って来られました。

みかざりを たみにおがませ(38-3)
わかみやの はつこよみなる


その後、神に認めてもらった御飾りを一般民衆に拝ませました。そして、暦が改まり、新たにすべらぎ(天皇)になられた日代の宮おしろわけ元年になりました。
 
新しくすべらぎ(天皇)になられた「おしろわけたりひこ」は後世になって漢字が渡来して、景行天皇という諡号(おくりな)がつけられました。現在の一般的な呼び名になっていますので、現代訳には景行天皇と表します。


乞う、次回

ps:本文後の(38-xx)はホツマツタヱの38綾(章)のページ番号です。

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38-79~80 かぐのやかた(もとひこ)に道を乞う

16. かぐのやかた(もとひこ)に道を乞う(38-79~80)


 きたよりつがる(38-79)
ひたかみや かぐのやかたに
みちをきく(39-80)


北は津軽や日高見(仙台・東北)などを「たけうちまろ」は、橘(たちばな・かぐの木)の館(厚木市小野神社)に道(此処での道は行きかたと同時にどういう人(先祖)がどういう生活、どういう考え(教え・今で言う宗教観)をもっているのか、どういう世界か知っていること全て)を聞きました。

 もとひこいわく(38-80)
くにしるの みちはいにしえ


そうすると、「たちばなもとひこ」がおっしゃるには、東北のことを知るには、道は昔にさかのぼらなければなりません。と言って以下のかみのりがゐの綾に続けたと考えられます。

このあと 38-80 から 38-86~87 へ話の流れが飛びます。

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続く

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38-79~80 二十五年七月、「たけうちまろ」にほづま巡察の詔

15. 二十五年七月、「たけうちまろ」にほづま巡察の詔(38-79~80)

 ふそゐほふみは(38-79)
たけうちに ほづましるべの
みことのり


二十五年七月一日に、「たけうちまろ」にほづま地方(東北・北陸・関東)の巡察をするようにとの詔がありました。

次の 38-79~80 から 38-86~87 へ話の流れが飛びます。

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続く

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38-76~79やまと姫、隠居し、斎宮をいもの姫に継ぐ

14. やまと姫、隠居し、斎宮をいもの姫に継ぐ(38-76~79)

 ひめことしそよ(38-76)
やまとひめ ことしもゝやつ
よろこびて


「ゐもの姫」は今年十四才です。「やまと姫」は今年百八才になりました。長生きと斎宮の仕事を達成したことについて大変喜ばれました。

なお、当時正月が年に二回あったことより実際の年令は半分という可能性があります。

 よはひいたれば(38-76)
われたりぬ わがやそものべ(38-77)
そふつかさ ゐものにうつし
つかえしむ


私(やまと姫)は弱ってきたので、私は充分に出来ません。私が引き連れている八十神(人)のもののべと、十二人の役人を、これからは、「いもの姫」に引き受けてもらい、天照大神に仕えてもらいます。

 くすこをかみの(38-77)
みつえしろ たけのみやゐに
つつしみて つかえはんべる(38-78)


「いもの姫くすこ」は天照大神の御霊を遷して(背中に背負って)生涯神祀りをします。「たけのみや」(垂任天皇の宮があったところ)に謹んで(身を清めて)いつもお傍にお仕えしました。

やまとひめ うぢはたどのゝ(38-78)
いそみやに


「やまと姫」は宇治宮の機織どの(絹を織る)のいそ宮に隠居されました。

 ひらきしづかに(38-78)
ひのかみを まつればながく
うまなくぞ(38-79)


行為は静かに(ひっそりと)天照大神の神祀りをいつまでも末永く行いました。

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38-75~76 二十年二月 伊勢の神に筑紫遠征を報告

13. 二十年二月 伊勢の神に筑紫遠征を報告(38-75~76)

ふそさにゑ きさらぎよかに(38-75)
ゐものひめ くすこうちみこ
いせのかみ まつるいわひは(38-76)
つくしむけ


二十年のさにゑ(当時の六十年ごとのえと)の二月四日に「ゐもの姫くすこ」が内親王になり、伊勢の神(伊勢山田・宇治宮で天照大神)に筑紫(九州)遠征を祀る祝い(報告)をしました。

「ゐもの姫くすこ」は三代目の斎宮(代宮)と考えられます。

一代目は「とよつき姫」(天照大神が丹後のまない原で亡くなり、御霊を遷して鈴鹿まで連れてきた)で、二代目は「やまと姫いつきのみや」と考えられます。

なお、私はこの「いもの姫」の「いもの」は鋳物の語源に関連している気がします。全編読み切った後で再度関連を挑戦したいと思っています。

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38-75 十九年九月 大和のまきむき日代の宮に帰る

12-30 十九年九月 大和のまきむき日代の宮に帰る(38-75)


 そこほながやか(38-75)
まきむきの みやにかえます


(まきむきの日代の)十九年九月八日に君(景行天皇)は大和のまきむき(現在はまきむく・近鉄桜井線)の日代の宮に無事に帰りました。


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38-73~75 八月 いくば村 うくは(皿)の用意を忘れる

12-29-八月 いくば村 うくは(皿)の用意を忘れる(38-73~75)

 ほづみにいたる(38-73)
いくばむら


八月(旧暦・稲穂を摘む季節)に入り、いくば村(生葉村・福岡県浮羽郡浮羽町)に着きました。

 みけすゝむひに(38-73)
かしはでべ みさらわすれる


御食(みけ)をお勧めするとき、膳部(かしわでべ)がお皿を忘れてしまいました。

おさいわく むかしあめみこ(38-73)
みかりのひ こゝにみけなし(38-74)
かしはでが うくはわすれり
(かしはべが:小笠原写本)
 

村長が忘れた理由を述べました。昔、天皇子(あめみこ・天孫ニニキネ・わけいかづちのみち)が御狩りの日にこの地で御食(みけ)をとられた時、膳部(かしわでべ)が「うくは」(お皿)の用意するのを忘れました。

くにことば みさらをうくは(38-74)
ゐはもこれ かゝるめでたさ 
ためしなり(38-75)(かゝるめでたき:小笠原写本)


お国言葉で、お皿のことを「うくは」と呼ぶようになりました。また、お皿のことを「いは」とも呼んでいます。
これは大変めでたい古事にならったもので、この地を「うくは」と呼ぶようになりました。

続く

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38-71~73 八女(やつめ)姫神は、三根(現吉野ヶ里遺跡)を治めていた

12-28.八女(やつめ)姫神は、三根(現吉野ヶ里遺跡)を治めていた(38-71~73)


 やつめをこえて(38-71)
まえやまの あわみさきみて(38-72)
きみいわく たゝみうるわし
かみありや


八女県(やつめ)を越えて、「まえやま(眉山)」の「あわみさき」を見て、君(景行天皇)は、畳の目ように山の峰が重さなりあっている所だ。うるわしい国神ありやとお聞きになりました

 みぬさるおうみ(38-72)
もふさくは やつめひめかみ
みねにあり(38-73)


このとき、「みぬさるおうみ」(水沼県猿大海・福岡県三瀦(みずま)郡大川市)が申し上げるには、「やつめ姫神」が此処を治めていて山中にいます。


なお、景行天皇の御幸の行程を見ると、吉野ヶ里に一番近いところを通過していますが、吉野ヶ里の地名に相当する場所を示す記録が見当たりませんでした。(見つけられませんでした)。

先を急いでいたのか、
敢えて避けたのか、
既にこのとき沢山の国々があり、その中の一つで
単に通過する道から離れていただけで触れなかったのか、
時代が違っていたのか、
あるいは、この本文の中に隠れているのか、もう一度じっくり検討したいと思っていました。

まえやまのあわみさき(場所は不詳とされていた)について、以下のように解釈しました。

昨日、「街道の日本史53 佐賀・島原と長崎街道」吉川弘文館の中に、雲仙普賢岳の噴火の記載が載っていることを知りました。
そこには、寛政四年の大噴火で溶岩流の流出で眉山(まゆやま・前山とも)の東半分が大崩壊したの記録がありました。
多分、この眉山のことを見ながら通過されたと思います。

また、弥生時代、海岸線は今より奥まっていて、吉野ヶ里遺跡も海岸線に近かったと考えられていることから、あるいは「あわみさき」のことを示しているのかもしれません。

「八女を越えて」とあるので、八女もまた当時海岸線に近かったことを考えると、八女付近から、有明海が目の前に広がり、対岸には、左から順番に眉山(前山)、雲仙岳、多良岳、経ヶ岳、八幡岳、天山、背振山(吉野ヶ里)と山の峰がパノラマ状に重なり合って見えたのではないかと推定します。

そうであれば、眉山からあわみさき(吉野ヶ里)まで一連のことを伝えているととれますが如何でしょうか。

もし、この推論が正しいとすれば、吉野ヶ里を治めていたのは「やつめ姫神」になるかも知れません。
自分でも、ちょっと飛躍しすぎているようにも思えるのですが、一つの可能性はあると考えています。





続く


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38-68~71 七月四日つくしの高田行宮で大御木が倒れる

12-27-七月四日つくしの高田行宮で大御木が倒れる(38-68~71)


あふみよか つくしちのちの(38-68)
たかたみや おほみけたおれ(38-69)


七月四日つくし・ちのち(筑紫後の高田宮・大御木倒れ:福岡県三池郡大牟田市)の高田行宮に入られると間もなくこの地の大御木(御神木)が倒れました。

きのながさ こもなそたけぞ(38-69)
もゝふみて ゆききにうたふ


木の長さは九百七十丈もある大木で庶民はこの木の上を踏み歩いて往来にこんな歌を歌いました。

あさしもの みけのさおはし(38-69)
まへつきみ いやわたらずも(38-70)
みけのさおはし


朝霜の 御木の棹橋 宮前の君 いや渡らずとも 三池(御木)の棹橋

きみとえは おきなのいわく(38-70)
くぬぎなり


君がこの木について問いかけると、長老(おきな)が答えました。この木はくぬぎの木です。

 たをれぬさきは(38-70)
あさひかげ きじまねにあり(38-71)
ゆふひかけ あそやまおゝふ


倒れる前までは、朝日の影が杵島峯(佐賀県杵島郡武生市)にかかり、夕日の影は阿蘇の山を覆っていました。

かみのみけ くにもみけとぞ(38-71)
なづけます


これは御神木(神のみけ・御木の影が髪の毛のように見えたことを言っていると思う)です。これにより、国の名も三池(みけ)と名付けました。三池炭鉱のあったところでもあります。


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38-66~68 六月十六日には阿蘇国に

12-26-六月十六日には阿蘇国に(38-66~68)

そむかには いたるあそくに(38-66)
よもひろく いゑゐみえねば
ひとありや きみのたまえば
たちまちに ふたがみなりて
あそつひこ あそつひめあり(38-67)


十六日には阿蘇国に至りました。四方は広く、一軒の家も見えなかったので、誰か人はいるのかと君(景行天皇)が宣いました。
すると、たちまち二神が現われました。名前を「あそつ彦」と「あそつ姫」と名乗りました。

きみなんぞ ひとなきやとは(38-67)
きみいわく たれぞこたえて
くにつかみ やしろやぶれり


「君、何ぞ人無きやとは」と言ったので、君は「汝は名者ぞ」とおっしゃると、「我らは国神(くにつかみ)である。しかし、残念にも社殿は破れ朽ちて今はありません」と答えました。

ときにきみ みことのりして(38-68)
やしろたつ かみよろこびて
まもるゆえ ゐゑゐしげれり


これを聞いた君は早速、詔りして立派な社を建てました。二神(あそつ彦とあそつ姫)は大変喜んでこの社殿(やしろ)を守護したのでこの地に家々が多く立ち並ぶようになり賑わい豊かになりました。


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38-65 六月三日、高来県で土蜘蛛の頭を退治

12-25-六月三日、高来県で土蜘蛛の頭を退治(38-65)

せみなみか たかくあがたの(38-65)
ふなわたし たまぎなむらの
つちぐもの つゞらをころし


六月三日、高来県(たかくあがた・長崎県北高来郡、南高来郡諫早市、島原市・高来郡、肥前国高来郡―和名抄)に船を渡し、玉杵名村(たまぎなむら・玉杵名邑、熊本県玉名郡荒尾市、玉名市)のこの地の土蜘蛛のつづらという頭を殺し(退治し)ました。


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38-64~65 不知火国と名付く

12-24-不知火国と名付く(38-64~65)


 たくひをとえば(38-64)
ぬしをゑず ひとのひならず
しらぬひの くにとなづくる(38-65)


また、燃える火の光を聞いたところ、火の主は分かりません。あれは、人の火ではなく不知火(しらぬひ)ですと聞いて、此処を不知火国(熊本県宇城市不知火町・大野川の河口左)と名付けました。


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38-63~64 五月一日に船を馳せて八代に

12-23-五月一日に船を馳せて八代に(38-63~64)

 さつきはつひに(38-63)
ふねはせて ゆくやつしろえ


五月一日に船を馳せて八代に向かいました。

ひのくれて つくきししれず(38-63)
ひのひかる とこえさせとの
みことのり(38-64)


やがて、日も暮れて、岸にたどり着いたものの何処の土地か分かりません。君(景行天皇)は火の光る所へ、船を差し向けよと詔(みことのり)をしました。

 きしにあかりて(38-64)
なにむらと とえばやつしろ
とよむらの


岸(対岸)に上がって、此処は何村と問うたところ、八代の豊村(熊本県宇城市松橋町豊崎・大野川の河口右・八代郡豊福郷―和名抄)です。


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38-61~63 葦北の小島で水を求めたら清水が湧き出した

12-22. 葦北の小島で水を求めたら清水が湧き出した(38-61~63)

 ふそかあしきた(38-61)
こしまにて ひてりにあつく
みづをめす(38-62)


二十日に葦北の小島に泊まったとき、日照りがきつく、水を欲しましたが、何処にも見当たりませんでした。


 やまべこひだり(38-62)
みづなきを あめにいのれば
いわかどに しみづわきでる
これさゝぐ かれになづくる
みづしまぞ(38-63)


そのとき、「やまべこひだり」が水を求めて、天に祈ったところ、岩角に清水が湧き出したので、この水を捧げました。故に、この地を水島(熊本県八代市水島町)と名付けました。この泉は、今も水嶋の崖にあるそうです。

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38-60~61 四月三日 「くまつひこ兄弟」を呼び召したが弟は来ず殺す

12-21. 四月三日 「くまつひこ兄弟」を呼び召したが弟は来ず殺す(38-60~61)

 ゆくうつきみか(38-60)
くまのがた おさくまつひこ
ゑとをめす


また、更に行き進みました。四月三日にくまのがた県(熊本県球磨郡人吉市:球磨郡延喜居部式・和名抄)の長の「くまつひこ兄弟」(ゑ=兄、と=弟)を召し呼びました。


 ゑひこはくれど(38-60)
おとはこす とみとあにとに(38-61)
さとさしむ しかれとこはむ
かれころす


兄(えひこ:兄彦)は来ましたが、弟の方は来ませんでした。臣と兄に天朝に従うよう諭させましたが、拒み出頭しなかったので殺しました。

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38-59~60 泉姫の家で集いの用意

12-20. 泉姫の家で集いの用意(38-59~60)

 おとひなもりに(38-59)
みせしむる かえりもふさく
もろあがた ぬしらおほみけ
さゝけんと いつみめがやに(38-60)
そのつどえ


弟「ひなもり」に見に行かせました。そうすると帰ってきての返事は諸県主たちが君(景行天皇)を迎えるために大御食(おおみけ)を捧げようといずみ姫(泉)の家に集いを用意しているところです。


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38-58~59 日代十八年三月帰途に向かって御幸狩り、ひなもりにて

12-19. 日代十八年三月帰途に向かって御幸狩り、ひなもりにて(38-58~59)

そややよひ みやこかえりの(38-58)
みゆきがり


日代十八年三月帰途に向かっての御幸狩りに発ちました。

 いたるひなもり(38-58)
いわせかわ はるかにのぞみ(38-59)
ひとむれを


ひなもり(夷守:宮崎県小林市付近)という所に近づいたとき、岩瀬川の川辺に立ち遠方を望むと人の群れができていました。


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38-52~58 日代十七年の三月十二日、子湯潟のにもの(丹裳小野)に御幸

12-18. 日代十七年の三月十二日、子湯潟のにもの(丹裳小野)に御幸(38-52~58)

 そなやよひそふ(38-52)
こゆがたの にものにみゆき
きをのぞみ むかしおほして
のたまふは(38-53)


日代十七年の三月十二日、景行天皇は子湯潟(こゆがた)の丹裳小野(にもの)に御幸されました。そして、はるか東(き)を望みながら昔を思い馳せて宣(のたま)いました。

都(やまとの日代の宮)を出てから、既に五年の年月が流れていたわけです。今の宮崎県の日向灘の海の向こうの遠い故郷に思いを募らせていたことと思います。

 みおやあまきみ(38-53)
たかちほの みねにのほりて
ひのやまの あさひにいなみ
つまむかひ かみしもめくむ
かみとなる くにのなもこれ(38-54)
かはかみを あまねくてらす
もはしもの あをひとくさを
めぐまんと なるかみのあめ
よきほとに わけてみぞろの(38-55)
うるほひに たみにぎはせる
いさをしは かもわけつちの
かんこゝろ かくぞをぼして 
かみまつり(38-56)


御祖天君(みおやあまきみ) 
高千穂の 峯に登りて 
大日山(ひのやま:当時の富士山)の 朝日に辞み 
妻向かい 上下(かみしも)恵む 
神となる 国の名もこれ 
「か」は上(かみ)を あまねく照らす 
「も」は下(しも)の 青人草(あおひとくさ)を
恵まんと 鳴る神(雷神)の雨 
良き程に 別けて 稲畑(みぞろ)の
潤いに 民、賑(たみにぎ)わせる 
功(いさおし)は 加茂別雷(かもわけつち)の
神心(かんごころ) かくぞ思(おぼ)して 神祭り


 みやこのそらを(38-56)
なかむみうたに
はしきよく わきべのかたゆ
くもいたち くもはやまとの
くにのまほ またたなびくは(38-57)
あおかきの やまもこもれる
やましろは いのちのまそよ
けむひせば たゞみこをもえ
くのやまの しらかしがゑを(38-58)
うすにさせこのこ


都の空を 望み忍んで(眺める)の御歌に
愛(はし)きよし 
我辺(わきべ)の方ゆ 
雲居立ち 雲は大和の 
国の秀(まほ:ほまれ) 又、棚引くは 
青垣の 山も籠れる 
山城は 命の真麻(まそ)よ 
煙火(けむひ)せば 唯、皇子思う 
香具山(くのやま)の 白樫の枝を 
うすにさせこの子




38-51~52 「みはかせ姫」をお妃に、生まれた子供「とよくにわけ」は日向の国造へ

12-17. 「みはかせ姫」をお妃に、生まれた子供「とよくにわけ」は日向の国造へ(38-51~52)

 みはかせひめを(38-51)
うちさまに とよくにわけの
おみこうむ はゝことゝまり(38-52)
くにづこや


この間、景行天皇は「みはかせ姫」(そお県主の娘)を日向で二人目のお妃(内妃・うちきさき)として迎えました。そして、皇子の「とよくにわけ親王」が生まれました。(38-21~22参照)

母と子供はこの地(高屋の行宮)に留まりました。その後、「とよくにわけ親王」は、日向の国造の祖(日向親王)となりました。


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38-51 筑紫を完全に平定するために六年間高屋に滞在

12-16. 筑紫を完全に平定するために六年間高屋に滞在(38-51)

 つくしむけんと(38-51)
むとせまて たかやのみやに
をわします


その後、筑紫を完全に平定するため(ヤマトに従うようになるまで)に、六年間という年月の間、高屋(宮崎県西都市高屋八幡)の行宮に滞在されました。


この間、現地には、二人のお妃がおられ、「おおたけ姫」と「みはかせ姫」で、それぞれ、お子さん一人をもうけています。(38-21~22)参照


この六年間という年月は、今の我々から見ると非常に長く感じます。時間の流れが違うのでしょう。

時代が下って、垂仁天皇の御世のとき、「たじまもり」が橘樹(かぐ)の木を常世の国へ取りに行った時には、現地に馴染むまで十年間過ごしたという記述があります。
(37綾―48~54参照)

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38-50~51 妹の「へかや」を国造の跡継ぎに

12-15. 妹の「へかや」を国造の跡継ぎに(38-50~51)

いとへかや そのくにつこと(38-50)
(おとへかや:小笠原写本)
をぢのこの とりいしかやと
ちなませて(38-51)


(くまその親玉は娘(姉の方)に殺されてしまい。景行天皇がこの姉を罰して殺したため、跡継ぎがいなくなり)、妹の「へかや」をその国の国造に取り立てました。叔父(せかや)の子の「とりいしかや」と関係させて(結婚させて)後を継がせました。

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38-48~50 姉の「ふかや」の行い許せず

12-14. 姉の「ふかや」の行い許せず(38-48~50)

 あねのふかやが(38-48)
もふさくは きみなうれひそ
はからんと


すると、姉の「ふかや」が申し上げるには君(景行天皇のこと)よ、どうかご心配しないで下さい。私に名案がありますからおまかせください。

 つわものつれて(38-48)
やにかえり さけをあたゝに(38-49)
のましむる ちゝのみゑいて
ふすときに ちゝがゆみつる
きりおきて ちゝあつかやを
ころさしむ


と言って、皇軍の兵士をこっそり連れて家に帰りました。そして、酒を父に存分に飲ませました。父は泥酔してその場に伏して寝てしまいました。その間に、父の弓弦を切っておいて、父の「あつかや」を殺させてしまいました。

 すべらぎあねが(38-50)
しむたつを にくみころして


ところが、すべらぎ(景行天皇)は、この姉の「ふかや」が肉親である自分の父親を殺したことが許せず、憎みました。そして、すべらぎは、この姉の「ふかや」を殺してしまいました。

引き出物に目が眩んだのか、以前から父親に反感を持っていたのか、身内を殺してしまうという恐ろしい事は、最近に始まったことではなかったようですね。

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38-46~48「ふかや」と「へかや」二人の娘を召し入れる

12-13. 「ふかや」と「へかや」二人の娘を召し入れる
(38-46~48)


とみひとり すゝみていわく(38-46)
くまそには ふかやとへかや
ふたむすめ


一人の臣が進み出て申し上げるには、熊襲(くまそ)には「ふかや」と「へかや」という二人の娘がいます。

 きらきらしくも(38-46)
いさめるを おもきひきでに(38-47)
めしいれて ひまをうかゝひ
とりこにす


容姿端麗きらきらと輝き凛々しくもあります。高価な引き出物を用意して二姉妹を召し入れて隙(ひま・すき)を狙って手なずけてとりこにしましょう。

ここでも引き出物は相手を引き出すための手段として使っています。

 ときにすべらぎ(38-47)
よからんと きぬにあざむく
ふたむすめ めしてみもとに(38-48)
めぐみなす


それを聞いた時、すべらぎ(景行天皇)は非常に良い考えだと言って、美しい絹織物に目がくらんだ(欺むいた)二人の娘を身元に呼び寄せ手厚く恵みを与えて親切にもてなし(手懐け)ました。

この場面で、敵の頭(かしら)に二人の娘がいることを知った天皇は、二人の娘をとりこにしようと、高価な絹織物を引き出物に使って、結果は手なずけてしまったわけですが・・・・

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38-44~45 十二月五日に熊襲を討つ計画を

12-12. 十二月五日に熊襲(くまそ)を討つ計画を(38-44~45)

しはすゐか くまそをはかり(38-44)
みことのり われきくくまそ
ゑあつかや おとせかやとて
ひとのかみ もろをあつめて(38-45)
たけるとす


十二月五日に熊襲(くまそ)を討つため計画を練りました。そして、景行天皇の詔がありました。我が聞く熊襲は兄が「あつかや」で、弟が「せかや」といって人の神(頭)で群集を集めてクマソタケル(熊襲たける)を名乗っている。

 ほこさきあたる(38-45)
ものあらず さゝひとゝかず
さわなれば たみのいたみぞ
ほこからず むけんとあれは(38-46)


この二人に立ち向かえるものはなく、我が兵は小数(ささい)で劣勢(とどかず)にある。民兵を多数(さわ・大勢)動員すれば、民(たみ)に多大な犠牲を強いることになりかねない。武力(ほこ)をつかわずに敵を倒す戦法を取ろうとの意向を表明しました。


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38-43~44 十一月に日向の高屋に至る

12-11. 十一月に日向の高屋に至る(38-43~44)

かえもうで ねつきにいたる(38-43)
かりみやは ひふがたかやぞ(38-44)


戦勝記念として十一月(ねつき・しもねつき・霜が根に付く月)に行き至った仮宮は日向の高屋(宮崎県西都市高屋八幡・高屋温泉付近)です。

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38-42~43 柏峡野の石について

12-10. 柏峡野の石について(38-42~43)

そのはじめ かしはをのいし(38-42)
ながさむた はゞみたあつさ
ひとたゐき


柏峡野(かしわの・大分県直入郡荻町付近)にある石は長さ六尺、巾三尺、厚さ一尺五寸あります。
(た=尺、き=寸)

 すべらきいのり(38-42)
とびあがる かれすみよろし(38-43)
なおりかみ もろはのやしろ
さらにたて これまつらしむ


ここで、すべらぎ(景行天皇)が祈ったら、この石が飛び上がって祈りました。
それ故に、
「すみよろし」(志賀住吉神、若宮志賀八幡・大野町)、
「なおりかみ」(直入物主神(右大臣)直入郡直入町大字社家)、
「もろはのやしろ」(両翼の神社・直入中臣石神明社、上半田(左大臣)の三神を祭りました。


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38-39~42 .「やた」と「うちさる」を討つ

12-9 「やた」と「うちさる」を討つ(38-39~42)


 またうちさるを(38-39)
うたんとて つはきいちより(38-40)
ねぎやまを こすときあだが
よこやいる あめよりしげく
すゝみえず


次に「うちさる」を討とうと海石木市(「つはきいち」大分県直入郡菅生村付近)から禰宜山(ねぎやま)を越す時に賊(あだ)の横矢が雨より激しく降り注ぎ一歩も先に進めませんでした。

 きわらにかえり(38-40)
ふとまにみ やたをねぎのに(38-41)
うちやぶり こゝにうちさる
くたりこふ


再び木原・城原(大分県竹田市久住町と竹田市の中間)に戻り、「ふとまに」で占ってみました。
その結果、「やた」を禰宜野(ねぎの)で討ち破りました。そうしたら、ここに至って「うちさる」が降伏を願い出ました。

 ゆるさずゆえに(38-41)
くにまろも たきえみをなげ
ことことく ほろびおさまる(38-42)


しかし、景行天皇は許しませんでした。「くにまろ」も滝へ投げてことごとく滅ぼし治めました。


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38-38~39 岩窟のくも(賊)を討ち殺す

12-8 岩窟のくも(賊)を討ち殺す(38-38~39)

 つばきをとりて(38-38)
つちとなし たけきをえらみ
つちもつて やまをうがちて(38-39)
くさをわけ いわやのくもを
うちころす


山の椿(つばき)を切り出して、槌(つち・大ハンマー)をつくり、剛者を選び、槌を持たせて山を押し分けて進み(穿ちて)、草の根を分けて探し出し、岩窟に潜んでいたくも(賊・ヤクザ)を討ち殺しました。
なお、椿の木の木質は固く緻密、かつ均質で、摩耗に強くて摩り減らない特徴を持っているから、槌(つち・大ハンマー)に適していたと考えられます。

 いなばかわべは(38-39)
ちだとなる


稲葉の川辺(稲葉川・大分県直入郡久住山に発し竹田市を貫流、大野川上流)は血の川(血田、知多)となりました。


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38-38 来田見村の仮宮で作戦を取る

12-7 来田見村の仮宮で作戦を取る(38-38~38)

 ここにすべらぎ(38-37)
すゝみゑす くたみのむらの
かりみやに はかりていわく(38-38)
もろうたは くもらおそれて
かくれんと


ここに来て、すべらぎ(景行天皇)は進むことが出来ませんでした。そこで、来田見村(大分県直入郡久住町大宇仏原)の仮宮で作戦を取りました。
そして、おっしゃるには多勢で一気に打って出れば、蜘蛛(賊)らは、隙を突かれて恐れをなして逃げ出すはずだ。



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38-35~37鼠(ねず)の岩窟に二つの「つちぐも」

12-6 鼠(ねず)の岩窟に二つの「つちぐも」(38-35~37)

 ねづがいわやに(38-35)
ふつちくも なはあおくもと(38-36)
しらくもと


鼠(ねず)の岩窟(現・青龍窟・福岡県京都郡行橋市苅田町)には二つの「つちぐも」という賊(今風に言えばヤクザ集団でしょうか)が住みついています。名前は「あおくも」と「しらくも」と言います。

 なおりねぎのに(38-36)
みつちくも うちさるとやた
くにまろと


直入(なおり)県の禰宜野(ねぎの・大分県直入郡竹田市及び熊本県阿蘇郡の一部)には三つのつちぐもが住みつき、名前は「うちさる・打猿」と「やた・八田」と「くにまろ・国磨」といいます。

 このゐつちくも(38-36)
ともからの ちからつよきを(38-37)
あつめおく あながちめさば
いくさせん


この五つの「くも」(賊・ヤクザ)集団は仲間を集めていて力が強いので、まともにかかると戦になってしまいます。

「くも」は、蜘蛛が蜘蛛の巣に虫が引っ掛かるのを待っているように、要路に隠れ潜んで、獲物が通るのを待ち構えているしぐさが、語源になったものと思います。
続く

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38-35 十月には早見村へ

12-5-十月には早見村へ(38-35)

 めつきに。いたる(38-35)
はやみむら おさはやみつめ
みゆききゝ みつからむかえ
もふさくは


十月には早見村(大分県 早見郡杵築市・別府市周辺)に至りました。長(おさ)の「はやみつ姫」は景行天皇の御幸を聞き付け、自ら天皇御一行を迎えに来て次のように申し上げました。

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38-34~35 豊の「ながお」(長峡)に仮宮

12-4. 豊の「ながお」(長峡)に仮宮(38-34~35)



みゆきして とよのながおに(38-34)
かりみやこ(38-35)


君(景行天皇)は御幸して、豊の長峡(ながお:福岡県京都郡行橋市長尾:豊前長尾)に行宮をたてて仮宮としました。

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38-33~34「たけもろ」 引き出物で悪党どもを誘き出し

12-3. 「たけもろ」 引き出物で悪党どもを誘き出し
一網打尽(38-33~34)


 ときにたけもろ(38-33)
はからひて あかきぬ。はかま
ひきでもの ひきてあさはぎ(38-34)
めしよせて これにひかせて
もろくれば ふつくころして


ここで、「たけもろ」(景行天皇の先遣隊の一人、おおのたけまろ)は計略を謀りました。
赤絹袴(赤い絹織りもので作られた袴(はかま)で非常に高貴で通常は手に出来るようなものではなかった)など、高価な引き出物を積み、悪党の「あさはぎ」を召し寄せて、この者にこの引き出物を引かせました。諸共が引き寄せられて集まったところを徹底的に討ち殺しました。


引き出物とは、相手を引き出すために用意した高価な贈物を指している。狙った獲物を引き寄せる釣り餌と同じ使い方が面白い。
まともに戦っては勝ち目がないと判断し攻略方法であったわけです。

隠れている者、誘(おび)き出したい者に、高価な物を見せて、誘い出すこと、つまり引き出す時に使ったものを引き出物と言っていたことが分かります。


現在では結婚式に招かれたお客に渡すものを引き出物というように、多少ニュアンスが違ってきているが語源として興味あります。
おもしろいと思ったのは、しまってあるものを手元に持ってくるという意味合いからも、この「引き出物」は「箪笥の引き出し」とか、「預金を引き出す」などの使い方と語源として同じであることに感心しました。


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38-30~33「はなたれ」、「みみたれ」、「あさはぎ」、「つちおり」、

12-2. 「はなたれ」、「みみたれ」、「あさはぎ」、「つちおり」、
「いおり」の悪党どもを討ち取って下さい(38-30~33)


 たゝ。そこなふは(38-30)
はなたれが みだりまたがり(38-31)
なをかりて うさにたむろし
なりひゞく


ここで、「かんかし姫」は、君(景行天皇)に、お願い申し上げました。

但し、お約束出来ないのは、「はなたれ」共が乱れて国境を侵しており、悪名をいい事に我が物顔で宇佐(大分県宇佐市大字南宇佐)にたむろしていて悪事が鳴り響いています。

 また。みゝたれも(38-31)
むさほりて たみをかすむる
みけがわゑ(38-32)


また、「みみだれ」も貪って民の糧をかすめとっています。そして、三毛川(福岡県豊前市三毛門)に群れています。

 また。あさはぎも(38-32)
ともあつむ たかはかわ。


また更に、「あさはぎ」も悪仲間を集めて鷹羽川(現・彦山川?福岡県田川郡田川市~大任町)に群れています。

また(38-32)
つちをりと ゐおりもかくれ
みとりのの かわさかたのみ
かすめとる(38-33)


また更に、「つちおり」と「いおり」も「みとり野」(福岡県北九州市小倉南区)の川上に潜伏して険しい渓谷を利用してかすめとる悪事の限りをしています。

 みな。かなめぢに(38-33)
あつまりて おさとなのるを
うちたまえ


これらの悪党らは要路(かなめぢ)に陣取っていて、困っています。悪党共の長(おさ)と名乗るかしら達を討ち取って下さい。

「はなたれ」とか「みみたれ」のイメージはどうしようもない悪がきが思い浮かばれ、語源として面白いと思いました。「はなたれ小僧」は、今でも分別をわきまえないどうしようもなく困っているチンピラをイメージしてしまいます。

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38-29~30「かんかし姫」が出迎え

12-1. 「かんかし姫」が出迎え(38-29~30)

 かんかしひめは(38-29)
ひとのかみ みつかひ。きゝて
しつやまの さかきをぬきて
かんつゑに やつかのつるぎ
やたかがみ しも。まがたまや(38-30)
しらはたを ともへにかけて


人望高い(人の神)「かんかし姫」は君(景行天皇)の使者(使いの者に「み」という敬語)の知らせを聞いて、
しつやま(磯津山、現 貫山:北九州市小倉南区と京都郡苅田町に跨がる山)の榊を抜いて、
上の枝には八握(やつか)の剣を、
中の枝には八呎(やた)の鏡を、
下枝には勾玉を飾り立てて、
そして白幡(しらはた)を船の艫(とも)と舳先(へさき)に掲(かか)げてやってきました。

わがたぐひ たがわずあめの(38-30)
めくみえん


そして、「かんかし姫」は君(景行天皇)に向かって、
我が同類(たぐい)は全員裏切ることなく天朝に服し君の御狩りに従います。
(つまり、やまとの恵をお受けいたします)と、申し上げました。


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38-26~29即位十二年目 景行天皇 熊襲へ御幸

12. 即位十二年目 景行天皇 熊襲(くまそ)へ御幸(みゆき)(38-26~29)

あふみづき くまそ。そむきて(38-26)
みつぎせず おしてさゝけて(38-27)
みかりこふ


(この年、纒向の日代(まきむきのひしろ)十二年)の七月に筑紫の「くまそ」(熊襲)が背いて朝貢(みつぎ)をしませんでした。
君(景行天皇)の御狩りを乞う書状が矢継ぎ早に届けられました。天皇のことを「すべらぎ」、「きみ」と呼んでいた。

 はつきもちより(38-27)
みゆきなる なの。ゐか。いたる
すわふ。さば


景行天皇は、早速、八月十五日より御幸(みゆき)されました。九月(な:ここな月)の五日には、周防の佐波(山口県防布市佐波)に至りました。
「もち」の日は十五日を示す。満月も十五夜であることから同じ語源であることが分かります。

 ときにすべらぎ(38-27)
さをのぞみ ざがいきたつは(38-28)
つゝがかや


さて、景行天皇は南(さ)を臨んで殺気(ざが)立つ(息立つ)のは、賊供の仕業かやと宣たまいました。

 おほのたけもろ(38-28)
きのうなで ものべ。なつはな
このみたり やりてかたちを
みせしむる(38-29)


景行天皇は「おおのたけもろ」と「きのうなで」と「ものべなつはな」の三人を先遣隊として敵情を探らせました。

語源:御幸(みゆき)
銀座に「みゆき通り」という通りがありますが、これは、明治天皇が皇居から浜離宮へ「御幸」(「行く」の尊敬語)されるときによく通られた通りであったため、「御幸」された道、「みゆき通り」と付けられたようです。


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38-24~26「おおうす」に美濃の美人姉妹を宮中へ呼ぶよう遣わせたが

11. 「おおうす」に美濃(みの)の美人姉妹を宮中へ呼ぶよう
遣わせたが(38-24~26)


 そふほ。はつはる(38-24)
みのゝくに かんほねがめの
ゑ。と。とおこ くにのいろあり(38-25)


纒向(まきむき)の日代(ひしろ)十二年の初春、美濃の国にかんほねの娘の姉妹(兄と弟)が国一番の美人だとの評判が君(景行天皇)のもとに伝えられました。

おゝうすを やりて。よばしむ(38-25)
おうすみこ みのにいたりて
すかたみて ひそかにめして
とゝまりて かえことなさず(38-26)
ことし。そひ たけはやたなり
きみとがめ みやこにいれず


君(景行天皇)は早速息子の「おおうす」(ヤマトタケと双子の兄)を遣わして姉妹を呼び寄せることにしました。
「おうす皇子」は美濃に行って美しい容姿を見て心を動かし密かに密通してしまい、美濃に行ったまま帰って来ませんでした。この年、「おうす皇子」は十一歳(そひ)で身の長(丈)は八尺ありました。
君(景行天皇)は「おうす皇子」の無礼を咎めて帰京を許しませんでした。

このとき、君(景行天皇)のお妃は、自分の母親である「おいらつ姫」と、まだ若い「八坂入り姫」の他に、既に「みつはいらつ姫」、「いかわすけ姫」、「たかたうち姫」、「たけ姫」がお妃であった可能性があります。(前後関係が分かりませんが、何人かのお妃は、この後の六年間に及ぶ日向に及ぶ日向御幸の後であったかも知れません。
そうであれば、六人のお妃を抱えているのに、更に新しいお妃を二人(美人姉妹)を呼びに行かされた「おおうす」の気になれば、魔がさしたのもわからないでもないような気になりますね。

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38-22~24景行天皇の子供は総勢八十一人?

10. 景行天皇の子供は総勢八十一人(38-22~24)

 すべらぎのみこ(38-22)
おは。ゐそゐ めはふそむ。すえ
やそひ。なり(38-23)


景行天皇のお子さんは、男は五十五人、女は二十六人、よって、計八十一人になりました。

ここで、私はある疑問を持ちました。
というのは、本文に生んだ母親ごとに詳細に記されている子供の数は、いくら数えても二十五人しかいません。この後にも記述は見当たりません。
具体的には、男は五十五人、女は二十六人とあり、本当にこれだけのお子さんをつくられたのか?という気になりました。

よって、いくつかの推測をしてみました。

1. 本書が書き記された時点での孫まで加えた数を言っているのか?「やまとたける」(ホツマでは「やまとたけ」で「る」は付かない)の子供(十四男、一女)や、兄の「おおうす」の子供たちなども含まれているのだろうか?

2. 子供の名前が明記されている二十五人以外は表に出せない隠し子や、あるいは幼くて亡くなった子供や、他にも数え切れないほどいたのか?

3. 「やそ」は(八十)で「やそ神」などと使われていて、非常に多くのという慣用的な数字と見れば、更に一つ加えた「やそひ」(八十一)は「更に多くの数」から、多すぎて「数え切れない数」という意味で使われたのではないだろうか?という気になりました。
しかしながら、この推測は、男五十五人、女は二十六人という数字や、後述の県主になった子供が七十五人いたという記述に合わなくなる。
本当のところはどうだったんでしょうね?


 おゝうす。および(38-23)
やまとだけ ゐおきいりひこ
ゐものひめ わかたらしひこ
とよくわけ むたりおみこの
なおおぶる(38-24)


「おおうす」(やまとたけの兄)および「やまとたけ」(おいらつ姫の子で二人は双子の兄弟)、「いおきいりひこ」(やさか姫の子)、「いものひめ」(みつはいらつ姫の子)、「わかたらしひこ」(やさか姫の子)、「とよくにわけ」(日向みはかせ姫の子)の六人は皇子の名を賜りました。

 あまり。なそゐこ(38-24)
くにあがた わけおさむ。その
すえおゝし


その他の七十五人の子供はそれぞれの国の県主になりました。それぞれ国を分けて治めました。景行天皇の末裔は広がりました。

具体的に七十五人とか、男の子五十五人、女の子二十六人とか、記載されているのは、やはり、本当にそれだけいたということなのでしょうか????



38-21~22日向の御幸のときに生まれた子供

9. 景行天皇が日向の御幸されたときに生まれた子供(38-21~22) 

ひうがみゆきに(38-21)
かみながゞ おたけ。おしも。で 
(おたけおしもめ:小笠原写本)
うむこのな ひふがそつひこ


景行天皇が日向に御幸(みゆき)したとき、「かみなが」の娘の「おたけ姫」(おしも)との間に生まれた子は「ひうがそつひこ」です。
「おたけ姫」は七番目のお妃になります。

またそおの みはかせ。うむこ(38-22)
とよくにの いむなそおひと
ひふがきみ


更にまた、「そお県」主の娘の「みはかせ姫」が生んだ子が「とよくに」で実名を「そおひと」といい日向の国造の祖(日向親王)になりました。
「みはかせ姫」は八番目のお妃になります。

熊襲(くまそ)征伐に行った時、日向(宮崎県・九州)にかなり長期間にわたって滞在され、お子さんももうけられたことがわかります。

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38-18~21三番目~六番目のお妃が生んだ子供

8. 景行天皇の三番目~六番目のお妃が生んだ子供たち(38-18~21)

 また。いわつくの(38-18)
この。みづは いらつめ。みおの
すけうむこ ゐおのめ。くすこ(38-19)
うちおきみ


また、「いわつくわけ」の娘、「みつはいらつ姫」(三番目のお妃)
みお(三尾、安曇川)のすけ妃が生んだ子は「いおのめくすこ親王」です。
「やまと姫」の斎宮の役目を引き継ぎます。

 またいそのかみ(38-19)
ゐそきねの ゐかわすけ。うむ
かんくし。と いなせひこ。


また、いその神「いそきね」の娘の「いかわすけ妃」(四番目のお妃)が生んだ子は一人目が「かんくし」で二人目が「いなせひこ」です。

また(38-19)
あべ。ここと たかたうち。うむ(38-20)
たけこわけ 


また、「あべここと」の娘「たかたうち姫」(五番目のお妃)が生んだ子は「たけこわけ」です。

また。そおたけが(38-20)
たけひめは そむつきはらみ
ふたごうむ くにこりわけと
くにちわけ つぎ。みやぢわけ(38-21)
とよとわけ


また、「そおたけ」の娘の「たけ姫」(六番目のお妃)は懐妊後十六ヶ月で双子を生みました。「くにこりわけ」と「くにちわけ」です。そして、続いて「いやぢわけ」と「とよとわけ」を生みました。


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38-16~18八坂入姫が生んだ子供は十三人

7. 八坂入姫(やさかいりひめ)が生んだ景行天皇の子供は十三人(38-16~18)

みのうちめ なる。すけ。うむこ(38-16)

美濃の「うちめ」であった八坂姫は「すけ妃」に昇格しました。
世継ぎ皇子「わかたりひこ」を生んだことによると思われます。{すけ妃}は一番上位のお妃で「うちめ」は二番目の位のお妃です。

ヤクザ映画で親分の女性に対して、よくも俺の「スケ」に手を出したな!とかいう「すけ」という言葉も、このお妃(すけ妃)が語源かもしれませんね!?

「すけ妃」になってから生んだ子(二人目以降)は、

ゐおきひこ いむなすゝきね(38-17)
をしわけ。と わかやまとね。と
をゝずわけ つぎ。ぬのしひめ
ぬなきひめ かのこよりひめ
ゐおきひめ ゐそさきひこ。に(38-18)
きびゑひこ つぎ。たかぎひめ
おとひめぞ


二人目の子供は「いおきひこ」 実名「すすきね」、
三人目は「おしわけ」と
四人目は「わかやまとね」と
五人目は「おおずわけ」次、
六人目は「ぬのし姫」、
七人目は「ぬなき姫」、
八人目は「かのこより姫」、
九人目は「いおき姫」、
十人目は「いそさきひこ」に
十一人目は「きびえひこ」次、
十二人目は「たかぎ姫」、
十三人目は「おと姫」です。

以上、十三人のお子さんを八坂姫がお生みになりました。

お疲れ様でした。

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3-13~16即位五年目 八坂入姫はわかたりひこ」を生む

6. 景行天皇の即位五年目 八坂入姫は「わかたりひこ」を生む(3-13~16)

やさかひめ なる。みのうちめ(38-13)
ゐほ。ねしも そゐか。ひのでに
うむこのな わかたりひこぞ(38-14)


八坂入姫(景行天皇の二人目のお妃)は美濃のうちめ(お妃には、すけ、うちめ、おしも三階級あり)になりました。
五年十一月十五日の日の出とともに子供が生まれました。生まれた子の名前は「わかたりひこ」です。

(後の十三代成務天皇になります。十二代景行天皇はヤマトタケルに跡を継いで欲しかったわけですが、先立たれてしまった結果です)

たかよりは ひ。のまえもふて(38-14)
うぢまろが たちて。まこうむ
ゐこゝろが いむなを。こえは
たかよりが いむな。たかよし(38-15)
なは。うち。と。 たけうちまろぞ


高頼(八坂いりひこの子供、いりひこは十代崇神天皇の孫)は紀の国の日の前(ひのくま、和歌山市)に詣でました。
うぢまろ(紀の国の国造)の館(たち)で子供が生まれました。
ゐこゝろ(うしまたけ・いごころ:子供の父親にあたる)が名前を付けてくださいと(乞えば)お願いしたら、高頼は名前を自分の「たかより」の「たか」に因んで「たかよし」と付けました。姓は「うち=うぢ・妻の父のうちまろ」と「たけ・父親のうましたけ・いごころ」をとって「たけうちまろ」と名付けました。

きじとべば たかよりのほる(38-15)
うぢまろも うちみやにゆき
ことほぎす きみよろこびて(38-16)
いむなこふ うぢまろさゝく
うぢひとは よつぎみこなり


高頼の娘が子供を生んだという至急便(伝令)が宮中よりきたので、高頼は上京しました。一緒にいた、「うぢまろ」も中宮へ行きました。
お祝いの言葉を述べました。君(景行天皇)は大変喜んで名前をつけてくれと頼みました。うぢまろはうぢひとと奉げました。「うぢひと」実名 「わかたりひこ」 (後に成務天皇になる)は世継ぎ皇子です。

「きじ」はおとぎ話の「もも太郎」のお供に出てきますが、伝令役とか密偵役という使命があったことがわかります。伝書バトのように鳥を飛ばすのではなく、飛脚便の「はしり」でしょう。

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38-8~13景行天皇 美濃に行き八坂入姫をお妃に

5. 景行天皇 美濃に行き八坂入姫をお妃に(38-8~13)

よほ。きさら。もち(38-8)
みのにゆく とみらもふさく
よきめあり(38-9)


纒向の日代四年の二月十五日に景行天皇は、大臣たちが良い娘がいますというのを聞いて、美濃に行きました。

 やさか。たかより(38-9)
こゝな。きり うゑて。たのしむ
こゝりみや


菊桐(ここり)の宮では、八坂高頼が菊の花と桐を植えて楽しんでいました。

 かれ。これゑんと(38-9)
みゆきして みのたかぎたの
たかよりの こゝりのみやに(38-10)
かりいます


しかるが故に、この娘を得ようと御幸して美濃の高北の高頼の菊桐(ここり)の宮に仮住まいすることにしました。


 いけすのそめば(38-10)
さしのぞく おとひめとめて
きみめしつ ひめ。おもえらく
いせのみち かよえるのりも(38-11)
つや。ならず きみに。もふさく 
やつかれは とつぎ。このまず


(とつぎのぞまず:小笠原写本
みあらかに めすも。よからず


景行天皇が生け簀(いけす)を覗いていたら、向こう側からも覗いている弟の姫(二人の姫がいて妹の方)と目が合いました。
君(景行天皇)はこちらにいらっしゃいとお誘いしたら、この姫は深く考えて断りました。
自分は男女(いせ)の道(エッチする)には魅力(つや)がありません。君(天皇)に申し上げます。自分は皇后に成ることは望みません。宮中に召し上がることも好みません。


あねがなお やさかいりひめ(38-12)
すがたよく きさいのみやに
めさるとも みさほならんか


その代わり、姉を推薦します。姉は八坂入姫といいます。姿、器量良く妃の宮(きさい)に召されても操を立てて良き妃になるでしょう。

きみゆるし あねひめをめす(38-12)
ねしも。はひ まきむきひしろ(38-13)
にいみやに かえりいります


君(景行天皇)は承諾して姉姫をお妃に召されました。十一月(ねし)一日に纒向の日代に帰ってこられ、新築した宮にお入りになりました。

二月中旬に美濃に行って、十一月初めに帰ってきたということなので、八ヵ月半の間、美濃で仮住まいしていたことになります。

(38-6~8)即位三年目 紀州への御幸取りやめる

即位三年目 紀州への御幸取りやめ

別のはなしになります。

みほのはる きさらぎはつひ(38-6)
きのくにゝ かみまつらんと
うらなえは ゆくはよからす(38-7)
みゆきやめ


纒向の日代三年(みほ)の春、二月初めに紀州に神を祭ろうと占ったところ、行くことは凶と出たので御幸はやめました。

 おしまことのこ(38-7)
うましたけ ゐこゝろ。やりて
まつらしむ あび。かしはらに
ことせすむ(38-8)


そのかわり、忍信人王の子の「うましたけ」の「いごころ」を遣わして祭らせました。そして、天の日の柏原(大阪府柏原市)に九年間住みました。

4. 「たけうち」についての記載がここに記載されています


 きのうぢまろが(38-8)
やまとかげ めとりてうむこ
たけうちぞ 


その「うましたけ」の「いごころ」が柏原で、紀の国の「うぢまろ」の娘の「やまとかげ姫」を娶って産んだ子が武内(武内宿禰是)です。(うぢ=うち、武内:たけうぢ)

38-3~6「おいらつ姫」が双子を生む

即位二年目 「おいらつ姫」が双子を生む(38-3~6) 
 ヤマトタケルの誕生です


ふほ。やよい きびつひこがめ(38-3)
たつ。きさき はりまのいなひ(38-4)
おいらつめ うちめのときに
こぞうづき はらみてうまず


即位二年目(纒向の日代二年)三月に吉備津彦(岡山県出身)の娘を妃(中宮)にたてました。名前は播磨の稲日(いなひ)おいらつ姫と言い、昨年(こぞ)の四月、「うちめ」の時に孕みましたが生まれませんでした。想像妊娠であったと思われます。
「うちめ」とはお妃の位付けで「すけ」妃(中宮)に次いで2番目の位です。


ふそひつき へて。しわす。もち(38-4)
うすはたに もちはな。なして(38-5)
ふたごうむ


そのおいらつ姫が、二十一(ふそひ)ヶ月経て、師走12月のもち(15日のこと、小正月)の時に、臼で餅を作っていたときのことです。臼のそばで餅花を作っていたとき、突然産気づいて双子を生みました。

 ゑのな。もちひと(38-5) 
おうすみこ とのな。はなひこ
こうすみこ ともにいさみて
ひとなりは みのたけ。ひとせ(38-6)
ゑはよわく とは。ふそちから


生まれてきた、兄貴(ゑ)の名は「もちひと」、「おうす皇子」とつけました。
弟(と)の名は、「はなひこ」、「こうす皇子」とつけました。
二人とも元気で身長は一丈にもなりました。
兄は軟弱でしたが、弟は二十人力でした。

餅花(もちはな)まつりの時に生まれたから、兄の方には「もち」をとり、弟の方には「はな」をとり、そして、兄の方には「もちひと」という「ひと」がつき、弟の方には「はなひこ」という「ひこ」が付いている。
「ひと」は「ひ」(一)から「と」(十)まで全て具わった完全な人を意味し、「ひこ」は「ひ」(一)から「こ」(九)までで少し位を下げている。

また、餅つきの臼のそばで産気づいたから「うす」の頭に「お」(大)をつけて「おうす」、「こうす」は「こ」「小」をつけた。いたって簡単明瞭な名付け方であったことが分かります。

この弟の「こうす皇子」が後のヤマトタケルになります。

乞う、次回


ps:本文後の(38-xx)はホツマツタヱの38綾(章)のページ番号です。

38-1~3「おしろわけ」すべらぎに

「おしろわけ」 すべらぎに即位
 後世の景行天皇という諡号(おくりな)(
38-1~3)


ときあすゞ なもやそやほの(38-1) 
ふつぎそひ あまつひつぎを 
うけつぎて いむな。たりひこ 
おしろわけ あめすべらぎの(38-2) 
としやそひ 


神武天皇の即位からの時はあすず暦の七百八十八年の七月(ふつぎ=文月の略)十一日に立太子になられる儀式を引き継ぎました。実名(いむな)が「たりひこ」おしろわけ(景行)天皇(すべらぎ)の年は八十一歳でした。

ここで即位した時の年令が八十一というのは正確には誰も分からなくて何かを誇張したのではないか?と推測しています。
例えば、景行天皇の子供が総勢八十一人だったから同じ語呂合わせで八十一歳と記載したか?
編纂時に歳と子供の数の写し違いをしたまま気が付かなかったのか?

後述の箇所から長寿が実際にあり得たかも知れない内容もあり、一方では、当時の年の数え方は新年が二回あったと考えると、実年令は1/2で納得できます。
この年の件については、ひとまず記述どおりとして、先に進みたい。将来、ほつま暦で書かれている所を解析して行けば何かヒントがでてくることを期待して・・・・。


みぐさ。たからの(38-2)
あまおしか やとよのみはた
たかみくら いと。おごそかに
あまつかみ むべ。くだります(38-3)


三種(みぐさ)の神器を授ける天の使いの方から八色(やとよ)の旗を受け取り、高見倉に御立ちになり、大変厳かに即位の礼がとり行われました。神に認めてもらう儀式です。天と地との儀式で天神は下って来られました。

みかざりを たみにおがませ(38-3)
わかみやの はつこよみなる


その後、神に認めてもらった御飾りを一般民衆に拝ませました。そして、暦が改まり、新たにすべらぎ(天皇)になられた日代の宮おしろわけ元年になりました。
 
新しくすべらぎ(天皇)になられた「おしろわけたりひこ」は後世になって漢字が渡来して、景行天皇という諡号(おくりな)がつけられました。現在の一般的な呼び名になっていますので、現代訳には景行天皇と表します。


乞う、次回

ps:本文後の(38-xx)はホツマツタヱの38綾(章)のページ番号です。

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