| ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)37 |

| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ホツマツタエは、古代大和ことばのホツマ文字といわれる図象文字で綴られた全文で40アヤ(章)、五七調で一万余行に及ぶ叙事詩で、大和王朝前の御代の神々の歴史、文化、精神を詠っている。作者は、前半の天の巻、地の巻の1章~28章を櫛甕玉命(クシミカタマの命、鴨彦、神武時代の右大臣)、後半の人の巻29章~40章を三輪の臣である大直根子命(オオタタネコ、三輪秀聡、景行天皇時代)が編纂、筆録したと記されている。古事記、日本書紀と原文で詳細に比較するとホツマツタエを原本としている事が判明しており、いわば記紀原書の地位にある。 2009.3.19日 れんだいこ拝 |
| 【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)37、鶏合せ橘の文】 | |
| タジマモリ、常世国(とこよくに)と橘樹(たちばな) | |
37綾 目次、闘鶏と橘の綾
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| とりあわせたちはなのあや | 鶏合せ 橘の文 |
| たまきみや ふそなほはつき なかをみと | 珠城宮 二十七年八月 七日ヲミト |
| いくさうつわお みてくらに うらとえはよし | 兵器を 幣に 占問えば吉 |
| ゆみやたち もろのやしろに をさめしむ | 弓・矢・太刀 諸の社に 納めしむ |
| かんへさためて よりよりに | 神部定めて 度々に |
| うつわにまつる はしめなり | 器に祭る 初めなり |
| ふそやほかんな ゐかまかる | 二十八年十月 五日罷る |
| あにやまとひこ ねつきふか おもむろおくる | 兄ヤマトヒコ 十一月二日 骸送る |
| つきさかに はへるひとらお | 築坂に 侍る人等を |
| いきなから うつめはさけひ つひにかる | 生きながら 埋めば叫び 終に枯る |
| いぬとりはむお きこしめし | 犬・鳥食むを 聞こし召し |
| あわれにおほす みことのり | 哀れに思す 御言宣 |
| いきおめくまて からするは いたましひかな | 「生きおめくまで 枯らするは 痛ましいかな |
| ふるのりも よからぬみちは やむへしそ | 古法も 好からぬ道は 止むべしぞ」 |
| みそほはつむか みことのり | みそほはつむか 御言宣 |
| みこゐそきねと たりひこと | 御子ヰソキネと タリヒコと |
| のそむところお もふすへし | 「望む所を 申すべし」 |
| ゐそきねいわく ゆみやゑん | ヰソキネ曰く 「弓矢 得ん」 |
| たりひこいわく くらいゑん | タリヒコ曰く 「位得ん」 |
| きみふたみこの のそむまま ゆみやたまわる | 君二御子の 望むまま 弓矢賜わる |
| あにのみや おとはくらいお つくへしと | 兄の宮 「弟は位を 継ぐべし」と |
| みそふほふつき むかまかる | 三十二年七月 六日罷る |
| きさきひはすの みおくりは | 后ヒハスの 御送りは |
| もろとみめして みことのり | 諸臣召して 御言宣 |
| さきのおひかれ よからねは | 「先の追枯 好からねば |
| このおこなひは いかにせん | この行ひは 如何にせん」 |
| のみのすくねか もふさくは | ノミのスクネが 申さくは |
| いけるおうつむ ためしとは | 「生けるを埋む 例しとは |
| あによからんや はからんと | あに良からんや 図らん」と |
| いつものはしへ ももめして | 出雲の埴仕侍 百召して |
| はにてこおよひ くさくさの | 埴偶および 種々の |
| かたちつくりて たてまつる | 形造りて 奉る |
| いまよりのちは はしものお | 「今より後は 埴仕物を |
| いけるにかえて みささきに | 生けるに代えて 御陵に |
| うえてためしと なすへしや | 埋えて例しと 成すべしや」 |
| きみよろこひて みことのり | 君喜びて 御言宣 |
| なんちかはかり わかこころ | 「汝が図り 我が心 |
| よしとはにわの たてものお | 好し」と埴生の 奉物を |
| のちのためしと さたまりて | 後の例しと 定まりて |
| のみのすくねお あつくほめ | ノミのスクネを 篤く褒め |
| かたしところお たまわりて はしのつかさそ | 鍛し所を 賜わりて 埴仕の司ぞ |
| みそみとし みわのたたねこ | 三十三年 ミワのタタネコ |
| やましろか たちにいたれは | 山背(山背国造)が 館に到れば |
| さらすとふ むすめひとりお | サラス問ふ 「娘 一人を |
| みやにこふ たれにやりても | 三家に乞ふ 誰に遣りても |
| ふはうらむ こめさしたまへ | 二は恨む 極め指し給へ」 |
| こたえいふ あすかもかみの | 答え言ふ 「明日賀茂神の |
| みまえにて こめさためんと | 御前にて 極め定めん」と |
| ともにゆく みをやのかみに | 共に行く 御祖の神に |
| にきてなし たてまつるわか | 和幣 成し 奉るワカ(和歌) |
| 三十年一月六日 | 三十年一月六日 |
| あめつちの みよのさかえお | 「天地の 弥の栄えを |
| いわはるる めをのみをやのか みそたふとき | 祝はるる 夫婦の御祖の 神ぞ貴き」 |
| ときにかみ つけのみうたに | 時に神 告げの御歌に |
| よのなかにものおもふひとの | 「世の中に もの思ふ人の |
| ありといふは われおたのまぬ ひとにそありける | 有りと言ふは 我を頼まぬ 人にぞありける」 |
| かみうたお ききてたたねこ | 神歌を 聞きてタタネコ |
| いわくこれ まよふゆえなり | 曰く「これ 迷ふ謂なり |
| いまよりそ ももかもふてて | 今よりぞ 百日詣でて |
| きたりませ われはからんと | 来たりませ 我 図らん」と |
| ゆくきふね たたねこかうた | 行く貴船 タタネコが歌 |
| あわうみの あつみのかみと | 「央海の 安曇の神と |
| すみのゑも ともにきふねの まもりかみかな | スミノヱも 共に貴船の 守り神かな」 |
| かもにゆき わけいかつちの 賀茂に行き ワケイカツチの | |
| かみもまた にきてとわかと 神もまた 和幣とワカと | |
| ひとくさお わけいかつちの 『人草を ワケイカツチの | |
| まもるゆえ みよはおさまる 守る故 御世は治まる | |
| かものかんかせ カモの神風』 | |
| たたねこは しるしささけて タタネコは 璽 捧げて | |
| [かえりもふさく] [帰り申さく] | |
| かものみや あるるおふして 「賀茂の宮 荒るるを伏して | |
| おもみれは かもといせとは 思みれば 賀茂と伊勢とは | |
| みをやなり すてにやふれて 上祖なり 既に破れて | |
| いつほそし まもりほそきは 稜威 細し 守り細きは | |
| おとろひか きみきこしめし 衰ひか」 君 聞こし召し | |
| たたねこか まこくらまろお タタネコが 孫 クラマロを | |
| いわひぬし なもおおかもと 斎主 名もオオカモ (大鴨積命)と | |
| かもやしろ さらにつくらせ 賀茂社 新に造らせ | |
| ねつきもち みをやわたまし 十一月十五日 御祖 渡坐し | |
| あすそむか わけいかつちの 翌十六日 ワケイカツチの | |
| みやうつし おおたたねこお 宮遷し オオタタネコを | |
| さおしかの にきておさむる 直御使の 和幣 納むる | |
| つきのとし かもにみゆきの 次の年 賀茂に御幸の | |
| みちつくり さらにうちはし 道作り サラに打ち橋 | |
| つくりきの きつはかりはし 作り木の 木津は仮橋 | |
| やよひはひ やそともそろえ 三月初日 八十供 揃え | |
| みやこてて たまみつやとり 都 出て 玉水 宿り | |
| ふかかあひ みてくらおさむ 二日 河合 幣 納む | |
| みをやかみ やましろふちか 御祖神 山背フチ (山背国造)が | |
| みあえなす みかきふねより 御饗なす 三日 貴船より | |
| かもにゆき わけいかつちの 賀茂に行き ワケイカツチの | |
| おほかみに みてくらおさめ 大神に 幣 納め | |
| かもすみか にいとのまえに カモスミが 新殿前に | |
| とりけあふ きみたのしめは 鶏 蹴合ふ (鶏合せ) 君 楽しめば | |
| わらんへか いろよきとりお 童んべが 色 良き鶏を | |
| ほめいわく いよかまはたよ 褒め曰く 「いよ カマハタよ」 | |
| きみとけす まてにとふいま 君 解けず 左右に問ふ「今 | |
| わらんへか かまはたはなに 童んべが カマハタは何」 | |
| いわくこれ はやりうたなり 曰く「これ 流行り歌なり | |
| おほくにか むすめかまはた 大国が 娘 カマハタ | |
| うつくしく あめにかかやく 美しく 大に輝く | |
| これなつく よかうちにゆく これ名付く」 四日 宇治に行く | |
| みちすから よきひとえんは 道すがら 「好き人 得んば | |
| しるしあれ ほことりいのり 徴 あれ」 矛 取り 祈り | |
| おほかめお つけはなるいし 大亀を 突けば 成る石 |
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| これしるし うちのかめいし これ 徴 宇治の亀石 | |
| かえるのち さらすかむすめ 帰る後 サラスが娘 | |
| よひのほせ かまはたとへお 呼び上せ カマハタトベを | |
| きさきとし いわつくわけの 后とし イワツクワケの | |
| みこおうむ いむなとりひこ 御子を生む 斎名 トリヒコ | |
| ふちかめの かりはたとへも フチが女の カリハタトベも | |
| みをやわけ ゐいしたりひこ ミヲヤワケ ヰイシタリヒコ | |
| ゐたけわけ みたりうむなり ヰタケワケ 三人 生むなり | |
| みそゐほの なつきゐそきね 三十五年の 九月 ヰソキネ | |
| たかいしと ちぬのいけほる 高石と 茅渟の池 掘る | |
| めつきほる さきとあとみと 十月 掘る 狭城と迹見と | |
| もろくにに やものいけみそ 諸国に 八百の池溝 | |
| つくらしむ なりわひふえて 造らしむ 成生 増えて | |
| たみとめる 民 富める | |
| みそなほはつひ 三十七年 初日 | |
| をみゑたつ たりひこはそや ヲミヱ 立つ タリヒコは十八 | |
| よつきみこ 世嗣御子 | |
| みそこほめつき 三十九年十月 | |
| ゐそきねは うちみてつくる ヰソキネは 打ちみで造る | |
| ちつるきお あかはたかとも 千剣を "アカハタカ" とも | |
| なおつけて おしさかにおく 名を付けて 忍坂に置く | |
| このときに しとりへたてへ この時に シトリ侍 タテ侍 | |
| おほあなし ゆみやはつかし オホアナシ 弓・矢・刃造仕 | |
| たまへかみ あまのおさかへ 尊瓮守 天のオサカ侍 | |
| ちのへきへ たちはかせへの 地のヘキ侍 タチハカセ侍の | |
| としなへお あはせたまわる 十品侍を 合わせ賜わる | |
| にしきみこ ちつるきうつす ニシキ御子 千剣 移す | |
| いそのかみ かみかかすかの 石上 神が春日 (春日県主)の | |
| いちかわに つけおさめしむ イチカワに 告げ 納めしむ | |
| にしきみこ つかさとなせる ニシキ御子 司となせる | |
| むそよとし さみたれよそか 六十四年 五月雨 四十日 | |
| ふりつつき いなたみもちに 降り続き 稲田 みもちに | |
| いたみかる きみにもふせは 傷み枯る 君に申せば | |
| みつからに かせふのまつり 自らに カセフの祭 | |
| なしませは やはりわかやき なしませば やはり若やぎ | |
| みつほなる かえりもふての 瑞穂 成る 返り詣での | |
| ほつみおも みつからまつり 果実をも 自ら祭り | |
たまふゆえ くにゆたかなり 給ふ故 国 豊かなり |
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| やそなほの きさらきゐかに 八十七年の 二月五日に | |
| にしきみこ いもとにいわく ニシキ御子 妹に曰く | |
| われをひぬ みたからもれよ 「我 老ひぬ 御宝 守れよ」 | |
| をなかひめ いなみていわく ヲナカ姫 辞みて曰く | |
| たおやめの ほこらたかくて 「嫋女の 祠 高くて」 | |
| またいわく たかけれはこそ また曰く 「高ければこそ | |
| わかつくる かみのほこらも 我が造る 神の祠も | |
| かけはしの ままとうたえは 懸梯の まま」と訴えば | |
| をなかひめ ものへとちねに ヲナカ姫 モノベトチネに | |
| またさつく たにはみかそか また授く 丹波ミカソが | |
| いゑのいぬ なはあしゆきか 家の犬 名はアシユキが | |
| くひころす むしなのはらに 食ひ殺す 狢の腹に | |
| やさかにの たまありおさむ ヤサカニの 珠あり 納む | |
| いそのかみ 石上 | |
| やそやふみそか 八十八年 七月十日 | |
| みことのり われきくむかし 御言宣 「我 聞く 昔 | |
| しらきみこ ひほこかつとの 新羅御子 ヒボコが苞の | |
| たからもの たしまにあるお 宝物 但馬 (出石神社)にあるを | |
| いまみんと ひほこかひまこ 今 見ん」と ヒボコが曽孫 | |
| きよひこに さおしかやれは キヨヒコに 直御使 遣れば | |
| たてまつる はほそあしたか 奉る ハホソ アシタカ | |
| うかかたま いつしこかたな ウカカ珠 イツシ小刀 | |
| いつしほこ ひかかみくまの イツシ矛 ヒ鏡 奠の | |
| ひもろけす いてあさのたち 胙陶 イテアサの太刀 | |
| やつのうち いつしこかたな 八つの内 イツシ小刀 | |
| のこしおき そてにかくして 残し置き 袖に隠して | |
| はきいつる すへらきこれお 佩き出づる 皇 これを | |
| しろさすて みきたまはれは 知ろさずて 御酒 賜はれば | |
| のむときに はたよりおちて 飲む時に 肌より落ちて | |
| あらわるる きみみていわく 露わるる 君 見て曰く | |
| それなんそ ここにきよひこ 「それ 何ぞ」 ここにキヨヒコ | |
| かくしゑす ささくたからの 隠し得ず 「捧ぐ宝の | |
| たくいなり きみまたいわく 類なり」 君 また曰く | |
| そのたから あにはなれさる 「その宝 あに離れざる | |
| たくいかと よつてささけて 類か」と よって捧げて | |
| おさめおく のちにひらけは 納め置く 後に開けば | |
| これうせぬ きよひこめして これ 失せぬ キヨヒコ 召して | |
| もしゆくや こたえもふさく 「もし 行くや」 答え申さく | |
| さきのくれ こたちみつから 「先の暮 小太刀 自ら | |
| きたれとも そのあすのひに 来たれども その翌の日に | |
| またうせぬ きみかしこみて また失せぬ」 君 畏みて | |
| またとわす おのつといたる また問わず 自づと至る | |
| あはちしま かみとまつりて 淡路島 神と祭りて | |
| やしろたつ 社 建つ | |
| こそほきさはひ 九十年二月一日 | |
| みことのり かくおもとめに 御言宣 「橘を求めに | |
| たしまもり とこよにゆけよ タジマモリ トコヨに行けよ | |
| わかおもふ くにとこたちの 我が思ふ クニトコタチの | |
| みよのはな こそこほさしゑ 御代の木」 九十九年 サシヱ | |
| あふみはひ きみまかるとし 七月初日 君 罷る 歳 | |
| ももみそな みこのもはいり 百三十七 御子の喪罷入り | |
| よそやよる はにたてものし 四十八夜 埴奉物し | |
| しはすそか すからふしみに 十二月十日 菅原伏見に | |
| みおくりの たひもかかやく 御送りの 灯も輝く | |
| かみのみゆきそ 神の御幸ぞ | |
| あくるはる やよひにかえる 明くる春 三月に帰る | |
| たしまもり ときしくかくつ タジマモリ 研き優く橘果 | |
| ふそよかこ かくのきよさほ 二十四篭 橘の木 四竿 | |
| かふよさほ もちきたるまに 株 四竿 持ち来たる間に | |
| きみまかる みやけなかはお 君 罷る 土産 半ばを | |
| わかみやえ なかはおきみの 若宮へ 半ばを君の | |
| みささきに ささけもふさく 御陵に 捧げ申さく | |
| これゑんと はるかにゆきし 「これ 得んと 遥かに行きし | |
| とこよとは かみのかくれの トコヨとは 神の隠れの | |
| およひなき ふりおなしむの 及びなき 風を馴染むの | |
| ととせふり あにおもひきや 十年 経り あに思ひきや | |
| しのきゑて さらかえるとは 凌ぎ得て 更 帰るとは | |
| すへらきの くしひによりて 皇の 貴日によりて | |
| かえるいま すてにさります 帰る今 既に去ります | |
| とみいきて なにかせんとて 臣 生きて 何か為ん」とて | |
| おひまかる もろもなんたて 追ひ罷る 諸も涙で | |
| かくよもと とのまえにうゑ 橘 四本 殿前に植え | |
| かふよもと すかはらにうゆ 株 四本 菅原(菅原伏見陵)に植ゆ | |
| のこしふみ みこみたまひて 遺し文 御子 見給ひて | |
| かくきみか はなたちはなは 橘君が ハナタチバナは | |
| かれかつま おしやまやりて 故が妻 オシヤマ 遣りて | |
| よはしむる ちちもとひこと 呼ばしむる 父 モトヒコと | |
| のほりくる みこよろこひて 上り来る 御子 喜びて | |
| もとひこに ゆるしはたまひ モトヒコに 許し衣 賜ひ | |
| もおつとむ はなたちはなか 喪を務む ハナタチバナが | |
| さつきまつ よはにうむこに 五月末 夜半に生む子に | |
| みことのり むかしのひとの 御言宣 「昔の人の | |
| をおととむ をとたちはなと 緒を留む ヲトタチバナ」と | |
| なおたまひ にたるすかたの 名を賜ひ 似たる姿の | |
| おしやまに とつくははこも オシヤマに 婚ぐ母子も | |
| をんめくみ ふかきゆかりの 御恵み 深き縁りの | |
| ためしなるかな 試しなるかな |
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垂仁天皇の代、たまき宮二十七年八月「なか」(中旬)、「ほつま暦」の「おみと」に、武器(いくさうつわ:弓・矢・刀など)を神殿に捧げものとして占ったところ(ふとまに:今のおみくじの基になったもの)、「良し」と出ました。弓・矢・刀を沢山の社(やしろ)に納めさせました。「かんべ」神部(神社に属して、租・庸・調や雑役を神社に納めた民戸)を定めて(現在の住民票の始まり)、「よりより」(寄り合いの度ごと、季節の節々)に「いくさうつわ」(武器)を神器として祀る始めとなりました。
たまき宮28年十月(かんな:神々が並びいる月)五日、垂仁天皇の兄の「やまとひこ」が亡くなられました。(「やまとひこ」は崇神(すじん)天皇と「めくうし姫」との間に生まれた皇子。)十一月二日に葬儀(おもむろ:死体を送る)が行なわれました。「つきさか」(地名:柏原の北側)に埋葬されました。死体を1ヶ月近く風化させてから埋葬したことがわかります。 天皇を埋葬する時、「はべる」(部下・従ってきた人々)を、生き埋めにして殉死させました。苦しがって泣き叫び続けてついには死に至りました。野犬や鳥が食いついているのを見、突付くのが聞こえきて、哀れに思いました。(かる:枯れる:当時は人間が死ぬことも枯れるという表現をしていた。追い枯れ:殉死、折れ枯れ:事故死、早枯れ:早死 からす:死体を埋葬するまで守って風化させる、死体処理すること、忌み嫌われる鳥になる)神武天皇の時は部下たちは自ら進んで殉死したが、後世になって殉死するのが風習となって義務化されていたようである。 そこで、垂仁天皇が詔を発しました。生きたまま(息をしている、生きている人を恵んでまでして)死に至らせるのは痛ましい限りである。 古い法典であっても、悪い教えは止めるべしと申されました。 たまき宮三十年一月六日に垂仁天皇の詔がありました。皇子の「いそぎね(兄)」(にしきいりひこ)と「たりひこ(弟)」(やまとおしろわけ:後の景行天皇)に何が望みか皇子の「いそぎね(兄)」(にしきいりひこ)に何が望みか申し述べなさいとおっしゃいました。 兄の「いそぎね」は弓が欲しいと言いました。弟の「たりひこ」は位が欲しいと言いました。 君(垂仁天皇)は、二人の皇子の望みを聞いて、その望みどおり叶えて差し上げました。兄の宮(いそぎね)には、弓矢を賜りました。そして、弟の「たりひこ」には位(天皇の位)を継ぐようにと申されました。 たまき宮三十二年七月六日、中宮の「ひはず姫」がお亡くなりになりました。(「たにはみちうち」の五人娘の長女) 葬儀(見送り)について、諸臣を集めて詔を申されました。今までの追い枯れ(殉死すること)は良くないことなので、今度の葬儀は殉死に代えてどのようにしようかと相談されました。「のみのすくね」が申し上げるには、生きたまま埋めるという「ためし」(お手本・見本・試すこと・前例に従うこと)は絶対にやめましょう。考えて(図らん)見ましょうと言って、出雲の土師部(はしべ)多数に、埴でこ(土人形)及びいろいろ(くさぐさ)な形のもの(馬・舟・建物など)を作ってお納めしました。(奉りました) 今後は、「はしもの」(土で作ったもの・「は」は「はに」、埴)を、生きた人間に代えて陵に「はにわ」を植えて(建てて)納めることを今後の「ためし」(お手本)にいたします。 君(垂仁天皇)は大層喜ばれ、詔をいたしました。汝(のみのすくね)が計画したものは、私の思う心と同じで(良しと決定する)あるので、今後は「はにわ」で作った建物(殉死に置き換わる造形)を後世へのお手本にするよう定めまることとする。 「のみのすくね」を大変誉めて、「かたしところ」という称号を賜りました。そして、土師部(はしべ)という役職(司:司る)に出世しました。 「かたしどころ」の解釈について、 一つは「かたづける場所」「かたす所」から推測して作業場のある土地を示しており、良い土の取れる土地を賜ったと考えられます。 もう一つの解釈としては、「のみのすくね」がすもうをしたことより、勝負のかたをつける場所、(後世の土俵につながる)であったのではないかと思われます。 垂仁天皇の代のときに、「はにわ」が始まった理由や経緯がこの記述でよくわかります。 たまき宮三十三年、「三輪のおおたたねこ」(このホツマツタヱの人の部の著者)が、「やましろのたち」に行ったとき、「おおくにのさらず」(兄)がこう問いました。 (弟は「やましろきち」といいます。) 私に一人娘がいるが、宮に来て欲しい(嫁に欲しい)と豪族(三人)から言われている。三人の内の誰に娘をやっても、あとの二人は恨みますので、如何したら良いか指図して(決めて)くださいと「おおたたねこ」に相談しました 「おおたたねこ」が答えて言うには、明日、下賀茂神社に行くので、下賀茂神社の神前で決めましょうと言って、一緒に行きました。 「おおたたねこ」は「みおやの神」(先祖神:宇宙神:下賀茂神社の御祭神)に、にぎてを成しました。そして、歌を奉りました。 「あめつちの」天地の「みよのさかえ」天皇の御世のご時世が栄えるよう「いわはるる」祝い(けがれをとる)平和が来るように「めおのみおやのかみぞ」雌雄の先祖神・宇宙神の神は「たふとき」尊いものです。と神を称えました。 「めおのみおや」は「たまより姫(後に神武天皇を生む」と「うがやふきあわせず」の二神を示しています。 そうしたら、神から歌で返事がありました。 世の中に、物思う人がいるのは、「われをたのまぬ」その人は自分を信じることが出来ない(可哀想な)「ひとぞありける」人であろう。(この歌は、娘を誰に嫁がせるか迷っている、「おおくにのさらず」の相談の答えになっています。) 神のこの返しの歌を聞いて、「おおたたねこ」が、心の迷いがあるからであると言いました。今日から、100日の行をして、迷いを払ってから来なさい。そうすれば、決めてあげます。と、「おおたたねこ」が「おおくにのさらず」に申しました。でも、この結果は垂仁天皇のお妃になってしまいます。三人の豪族にとっては、トンビに油揚げをさらわれたよう! 37-17~19 「たたねこ」は貴船神社・上賀茂神社へ行く6. 「たたねこ」は貴船神社・上賀茂神社へ行く(37-17~19) 初めてのページへ 目次のページへ ゆくきぶね(37-17) その後、「おおたたねこ」は貴船に向かいました。 たゝねこがうた(37-17) あわうみの あづみのかみと すみのゑも ともにきぶねの(37-18) まもりかみかな そして、貴船神社の尊厳を称えて歌を詠みました。 「あわうみの」近江の「あづみのかみと」安曇の神と「すみのえも」住吉の神も「ともにきぶねの」共に貴船の神の「まもりかみかな」守り神です。と歌を奉納しました。 かもにゆき わけいかつちの(37-18) かみもまた にぎてとわかと その後、上賀茂神社へ行き、「わけいかづち」の神にも、「にぎて」と歌を奉納しました。 「わけいかづち」の神:天孫ニニキネが天照大神から賜った神の名前、あちこちに水田用の池を作り、雷(いかづち)を水と光に別けた事によります。 ひとくさを わけいかつちの(37-19) まもるゆえ みよはおさまる かものかんかぜ 国民(ひとくさ)を「わけいかづち」の神が守っているので、今の天皇の代(みよ)は平和に治まっています。上賀茂神社(かも)の神風(意向)のお陰です。 ジョンレノ・ホツマ 37-19~21 天皇に賀茂の宮が荒れていることを報告7. 天皇に賀茂の宮が荒れていることを報告(37-19~21)
初めてのページへ 目次のページへ たゝねこが かえりもふさく(37-19) (たゝねこは しるしさゝげて)小笠原写本 「おおたたねこ」が「たまき宮」に帰って天皇に申し上げました。 かものみや あるゝをふして(37-20) おもみれば かもといせとは みおやなり 賀茂の宮に行って見たところ、大変荒れていました。心を伏して(神を崇めて謙虚に)重んじて考えて見ると、賀茂と伊勢とは「みおや」神であります。 すでにやぶれて(37-20) いづほそし まもりほそきは おとろひか(37-21) しかし、賀茂の宮は既に壊れていて、神の意向(いづ)が細くなっているので、神を守ること、尊ぶ心が細くなり、今の天皇の御世が衰えるのではないかと憂います。(国が乱れることを憂いたので、神の重さを再認識させました。) 37-21 「おおたたねこ」の孫を賀茂宮の「いわい主」に8. 「おおたたねこ」の孫を賀茂宮の「いわい主」に(37-21) 初めてのページへ 目次のページへ きみきこしめし(37-21) たゝねこが まこくらまろを いわいぬし なもおゝかもと かもやしろ さらにつくらせ 君(垂仁天皇)は、それを聞きて、「おおたたねこ」の孫の「くらまろ」を「いわい主」(神だけを祀る専任の神職)にして、名前を「おおかも」と賜いました。そして、賀茂の社に向かい、さらに(新しく、改めて)修復させました。 37-22~23「みおや神」と「わけいかづちの神」の「わだまし」を「おおたたねこ」が勅使(さおしか)に9.
「みおや神」と「わけいかづちの神」の「わだまし」を
「おおたたねこ」が勅使(さおしか)に(37-22~23) 初めてのページへ 目次のページへ ねつきもち みおやわたまし(37-22) あすそむか わけいかつちの みやうつし おゝたゝねこを さおしかの にぎておさむる たまき宮三十三年十一月十五日、下賀茂神社で「みおや神」の渡御(わたまし:建て替え工事のため神様の御霊を仮屋へお移しする)がありました。 明くる十六日には、上賀茂神社の「わけいかづちの神」の渡御(宮を移す)しました。 「おおたたねこ」を天皇の勅使(さおしか)として、神祭りのにぎてを納めました。 つぎのとし かもにみゆきの(37-23) みちつくり さらにうちはし つくりきの きづはかりはし 翌年の三十四年、垂仁天皇が賀茂に御幸されるための道を作りました。そして、新しく宇治橋を作り、木の集積所であった木津には仮橋を架けました。 ジョンレノ・ホツマ 37-23~25 垂仁天皇は「みおや神」と「わけいかづちの神」に「みてぐら」を納める10.
垂仁天皇は「みおや神」と「わけいかづちの神」に「みてぐら」を納める(37-23~25)
初めてのページへ 目次のページへ やよひはひ やそともそろえ(37-23) みやこでゝ たまみづやどり(37-24) たまき宮三十四年三月一日、垂仁天皇は八十神を引き連れて、都(たまき宮)を出て、「たまみづ」に一泊しました。「たまみづ」は「たまはべとべ」祀る神社、奈良街道にある。 ふかかあひ みてくらおさむ(37-24) みおやかみ 二日目、河合(高瀬川と賀茂川が合流する所)で、「みおや神」に「みてくら」を納めました。 やましろふちが(37-24) みあえなす 次に、「やましろふち」が歓迎の宴会(みあえ)をしました。 みかきぶねより(37-24) かもにゆき わけいかつちの(37-25) おほかみに みてぐらおさめ 三日、貴船から上賀茂に行き、「わけいかつち」の大御神(天孫ニニキネ)に「みてぐら」を納めました。 37-25~26 闘鶏を見ていて「かまはだ」が絶世の美人と知る11.
闘鶏を見ていて「かまはだ」が絶世の美人と知る(37-25~26)
初めてのページへ 目次のページへ かもつみが にひとのまえに(37-25) とりけあふ きみたのしめば 「かもづみ」(「おおたたねこ」の孫の「くらもの」)が、あたらしい殿(新殿)の前で闘鶏をやっていました。それを見て、きみ(垂仁天皇)は楽しみました。 わらんべが いろよきとりを(37-26) ほめいわく いよかまはだよ きみとけず まてにとふいま(37-26) わらんべが かまはだはなに そのとき、子供たちが、美しい鳥を褒めて 「いよーっ!かまはだよーっ!」と、声をかけました。 しかし、きみ(垂仁天皇)は、何のことだかわからず、両側にいた臣たちに問いました。今、子供が言った「かまはだ」って、何のことを言っているのだろう。 いわくこれ はやりうたなり(37-27) おほくにが むすめかまはだ うつくしく あめにかゝやく かれなづく 答えていわく、今の流行語(はやりうた)です。「おおくに」の娘の「かまはだ」が大変美しく、天に届くほど知れ渡っている絶世の美人だと聞いて、うなずきました。 「かまはだ」考 「釜膚」という言葉が、茶の湯の釜の文様について、山内登喜夫著 「和鋼風土記」に出ています。どこかで繋がっているように思えます。茶の湯の釜は、もっと後世になってからなので直接の関連はないかも知れませんが、釜膚が美しいものという意味合いがあるように思えます。 人間国宝長野垤志氏の茶の湯釜を見るとまさに茶褐色に輝いた表面の釜膚はこの鶏の鮮やかな茶褐色に見えてくるから不思議です。 |
| ミズカキ宮(第十代崇神帝)三十九年、ヒボコと言う者、ハリマ(播磨国)に船で来朝し、しばらく停泊した後に、アワジ(淡路)のシシアワ村に移動しました。 その時君は、オオトモヌシとナガオイチの二人の臣をハリマに派遣して質問させると、「私はシラギ国王の王子で、名前をアメヒボコと申します。日本には大変優れた聖人(ひじり)の御門(みかど)が居るとかねて聞いていましたので、君にお仕えしたいと願い、弟のチコに国を譲ってはるばるやって参りました」この由を君に告げると、君は早速アメヒボコに対し、「ハリマのイデサ村(出浅村)とアワジ国のシシアワ(宍粟)村を与えるから自由に住むがよい」との詔がありました。するとヒボコが願い出て、「もしお許しいただけるならば、住む所はこの美しい国を自分で巡り見てから決めたいと思います」と、申し上げました。 君のお許しが出るとアメヒボコはウジ(宇治)川を遡り、アワウミ(近江)のアナ(吾名)村にしばらく住み、供(とも)の陶人達(すえびと)をこの地のハザマ(現・鏡谷)谷に定住させて、さらにワカサ(若狭)を巡り見て後、タジマ(但馬)国に落ち着きました。時にアメヒボコはこの地の豪族イズシマフトミミ(出島太耳)と言う者の娘マタオオ姫を娶ってタジマモロスケ(諸助)を儲け、モロスケはヒナラギ(日楢木)を儲け、ヒナラギはキヨヒコ(清彦)を儲け、キヨヒコが儲けたのがタジマモリ(但馬守)です。 タマキ宮(垂仁帝)八十八年六月十日の事です。 君(イクメイリヒコ・イソサチ)が詔して、「私が聞いたところによると、昔シラギ王子のヒボコが産物(みやげ)に持参した神宝がタジマに秘蔵されていると言うが、今見たいと思うのでアメヒボコの曾孫(ひまご)キヨヒコに勅使をつかわそう」 君の詔を受けて参上したキヨヒコが奉った宝物は、ハボソ(葉細玉)、アシタカ(足高玉)、ウカガ(鵜鹿河)玉、各一個。イズシ(出石)小刀一口。イズシ矛一枚。ヒカガミ(日像鏡)一面。クマノヒモロゲズ(熊神籬)一式。イデアサ(出浅)の太刀(たち)一振。 キヨヒコはこの八種のうち、何故か先祖の思い入れが強くて離し難い、イズシ小刀だけをそっと袖中に隠し持ってなにくわぬ顔で太刀を自ら佩(はく)いて昇殿しました。この一件に気が付かない君は、興味深く宝物類を見て大変喜ばれ、キヨヒコに天杯(てんぱい)を賜わりました。 お神酒(みき)を呑もうとした時のことです。小刀がスルリと落ち出て見つかってしまいました。君は見ていわく、「それ何ぞ」と即座にお聞きになったので、キヨヒコもこれ以上隠せず、献上すべき宝物の一つでございます」と、白状すると、君は又問うて、「その宝物はそんなに離し難い物なのか」と、聞かれました。 この様なわけで、結局全ての宝物は捧げられ宮中の神庫に納められました。後に蔵を開いてみると、どうしたわけか小刀だけが消え失せてしまい見つかりません。大騒ぎになり君は再びキヨヒコを召し上京させて、「もしかすると小刀が又そっちに行ってないかね」と問いました。キヨヒコが答えて言うには、「昨年の暮れ頃、小刀が自ら帰ってきましたので不思議に思いましたが、明くる日又、消え去っていました」この話しを聞いた君は、急ぎ衣を正すとかしこまり、二度とこの件に触れず、不問とされました。 小刀は自然に自らの落ち着き先を求めてアワジ島に飛び行き、ご当地で神として祭られ、社が建てられました。 九十年二月一日、タジマモリに君の詔がありました。 「タジマモリ、橘樹(カグ)を求めに常世国(トコヨ)に行けよ。我れ思うに、カグの木は、クニトコタチがトコヨ宮前に植えて国を開いたという御世(みよ)の花である」 九十九年七月一日、この年君は百三十七歳で崩御されました。 皇太子は喪中最後の四十八日目の夜、埴輪建物(ハニタテモノ)の製造を命じ、自らの喪服を脱いで陵に納めました。 十二月十日、スガラフシミ(菅原伏見)陵では盛大な葬送の式典が夜っぴいて繰り広げられました。無数の松明(ダビ)に写し出された飾り建物の埴輪達は列をなし、人々の悲しみに打ちふるえる心を写して、心なしか涙に濡れていました。 満天の星空の下、透明な御柱(みはしら)を伝って、天上サゴクシロの宗宮(ウジミヤ)に御幸(みゆき)される大君の御魂が放つ一閃(いっせん)の光芒(こうぼう)を誰もが心深く憶いて、君の再来を信じて日の出を待っていました。 明る春弥生、タジマモリが常世(とこよ)の旅から帰ってきました。君との約束を果たして土産は、トキシク橘果(カグツ)を二十四籠(かご)、及び橘樹(カグノキ)四竿(ヨサホ)を、供の者に担(にな)わせて、多くの困難を乗り越えて帰って来ました。 しかし、帰ってみれば君はすでにこの世にはなく、君の喜ぶ笑顔を見たい一心で一路急いだ京への遠い道も、君の温かな御心に触れるねぎらいの言葉を心の支えに急いだ夜道も、雨や日照りから、カグの鮮度を保つために心をくだいた配慮の数々も、それもこれも君への一途の思いがあればこそ、何の苦にもなりませんでした。 タジマモリは土産の半分を東宮(わかみや)に献上して、残る半分を君の陵(みささぎ)の御前(みまえ)に捧げ、涙ながらに復命いたしました。 「君の命を受けて、このタジマモリは橘樹(カグノキ)を求めにはるかなトコヨに行ってまいりました。トコヨの国とは、神仙の隠れ住むという、他に比べ得えない程説明しがたい仙境でした。彼の地の言葉や風習も全く変わっていて、習慣に馴染むのにも十年の年月がかかってしまいました。 今こうして困難にもめげず君の奇霊(クシヒル)に守られて、やっと帰ってまいりました。が、君は今すでに世を去り、そのお声、そのお姿を拝することとてもうできません。 臣(とみ)はどうして、君のいないこの世を生きてられましょうか」と、涙ながらに泣き伏して自ら死んで行きました。 居並ぶ群臣たちも皆、一途で素直なタジマモリの思いに涙しつつ、橘樹(カグ)四本を正殿前に植樹し、残りの株四本をスガワラの陵に植えて、君とタジマモリへの手向け(たむけ)のよすがとしました。 実はタジマモリは遺書を東宮(わかみや・オシロワケ、タリヒコ)に残していました。皇子(みこ)はこの文(ふみ)を見たまいて、「橘君(カグキミ)の娘ハナタチバナ姫は、彼(タジマモリ)の妻である。早速オシヤマスクネを彼の地に派遣してタチバナモトヒコ(橘元彦)親子を京に呼び寄せよ」と申しつけると、父モトヒコとともに娘のハナタチバナ姫が上京してきました。皇子(みこ)は大変喜ばれて父子を迎えると、モトヒコに御依(みは)を賜わり、タジマモリの喪を勤めさせました。ハナタチバナは懐妊していましたので、君の配慮で宮中に留め置くよう手配が整えられました。 サツキの末に、姫が産んだ女児に君は詔して、「故人(ムカシノヒト)の魂(たま)の緒(お)を止めているので、良く似て美しい子だ。オトタチバナ(乙橘)姫と名付けよう」と言い、名付け親となられました。ハナタチバナ姫には、生前のタジマモリに顔や姿が良く似ているオシヤマに母子共に嫁がせて、深き恵みを垂れたまいました。 このような深い縁が結ばれた結果、後にヤマトタケル(タケ)の東征を可能にし、成功に導くキッカケの本縁(もとおり)となりました。 タジマモリの墓は、現在奈良市尼辻町にある垂仁天皇の大きな前方後円墳の周濠中に浮かぶ小島が彼の墓だと言われています。又、持ち帰った橘はその後、垂仁天皇の纒向珠城宮(マキムクタマキ)のあった穴師(アナシ)の里に植えて広められ、ここのミカンは代々天皇に献上されるようになり、現在でも十二月の暮れから春先に掛けて山の辺の道を歩くと、一面のミカン畑が色づいて香(かぐ)わしいかおりに包まれています。 ”タジマモリの墓は。。。。。包まれています。”までは、 「歴代天皇100話」林睦郎監修 を参考にさせていただきました。 |