ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)34

 (最新見直し2009.3.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ホツマツタエは、古代大和ことばのホツマ文字といわれる図象文字で綴られた全文で40アヤ(章)、五七調で一万余行に及ぶ叙事詩で、大和王朝前の御代の神々の歴史、文化、精神を詠っている。作者は、前半の天の巻、地の巻の1章~28章を櫛甕玉命(クシミカタマの命、鴨彦、神武時代の右大臣)、後半の人の巻29章~40章を三輪の臣である大直根子命(オオタタネコ、三輪秀聡、景行天皇時代)が編纂、筆録したと記されている。古事記、日本書紀と原文で詳細に比較するとホツマツタエを原本としている事が判明しており、いわば記紀原書の地位にある。

 2009.3.19日 れんだいこ拝


【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)34、ヤマト姫神鎮む文】
 みかど崇神(すじん)の御世(みよ)―伝染病を退治し、初めて平和国家を樹立する

 34綾 目次

1. 反乱を知らせる乙女の歌(34-1~3)
2 .ももそ姫は謀反者を知る(34-4~5)
3. 「たけはにやす」と「あだ姫」が謀反を起こす(34-5~6)
4. 詔が発せられ、「いさせり皇子」は「あだ姫」を打ち破る(34-7
5. 「おおひこ」と「ひこくにふく」は「はにやすひこ」を征伐に(34-7)
6. ならさかで「ひこくにふく」は手合いで勝つ(34-8~9)
7. 「おおひこ」は川下から「はにやすひこ」は川上から挑む(34-9~11)
8. 「はにやす」を射ち殺し、反乱は治まる(34-11~12)
9. 遠方の国の平定に向かう(34-12~13)
10. ももそ姫、大物主の妻になり主の姿を見たいと思う(34-14~15)
11. ももそ姫、櫛笥の中に子蛇を見てしまう(34-15~16)
12 .恥をかかせた姫は自害する(34-16~17)
13. ももそ姫を「はしづか」に埋葬する(34-17~19)
14. 遠方の国へ向かった教えどが戻り、平穏になる(34-19~20)
15. 「おおたたねこ」が戦死者の「おとく祀り」を(34-20)
16 .詔(みことのり)、平和な世に感謝し、今後を考える(34-21~23
17. 大人と未成年を区別する(34-23)
18. 休暇を制度として儲け、「肇国(はつくに)」と称えられる(34-23~25)
19. 崇神天皇の妃と子供たち(34-25~28)
20. 二人の皇子に詔、世継ぎを夢で占う(34-28~29)
21. 兄の「とよきひこ」と弟「いくめいるひこ」の夢(34-29~30
22. 君(崇神天皇)は夢で弟の「いそさち」(いくめいりひこ)を世継ぎ皇子に(34-30~31

任那の綾

23. 敦賀に御幸のとき、韓国からの皇子に出会うが言葉が通じず(34-33~35)
24. 韓国の皇子「つのがあらしと」は、君に会う(34-35~37)
25. 「つのがあらしと」を召したところ、有能につき「任那」という国名を与えた(34-37~38)
26. 「あらしと」の昔の話(34-39~41)
27. 持ち帰った神の白石は乙女に変身、消えた跡を追う(34-41~44)
28. 「あらしと」帰国の途中、新羅人に土産を奪われる(34-44~45
29. 任那の使いが新羅との仲裁を要請に(34-45~47)
30. 「しほのりつ」を任那へ派遣し、新羅との仲を平定する(34-47~49)

31. 崇神天皇は出雲に保管してある神宝を見たいと詔(34-49~50)
32. 神主「ふりね」の不在中、神宝を弟が渡してしまう(34-50~51)
33. 兄「ふりね」は弟「いいりね」に敵意をいだく(34-51~53)
34. 兄は弟を夜の花見に誘い、水浴びを誘う(34-53)
35. 先に水から上がった兄は弟の真剣を着け、木刀を持たされた弟を切りつける(34-54~56)
36. 「いづもたける」の流行り歌(はやりうた)(34-56)
37. 殺人事件を報告。「ふりね」は処刑される(34-57~58)
38. 出雲では神祀りをしなくなり、歌が流行った(34-58)
39. 出雲を祀ってくださいという歌が流行る(34-59~60)
40. 出雲を祭るようにと詔が下される(34-61)
41. 水不足でため池を造る詔(みことのり)(34-61~63
42. 任那の使者が貢ぎ物を献上(34-63~64)
43. 偉大であった崇神天皇は神になり、御世が変わる(34-64~68完)
やまとひめかみしつむあや     ヤマト姫 神鎮む文
たまきみや なつきそむ    珠城宮       九年九月十六日
きさきゆめ やまとおおくに     夢        ヤマトオオクニ(ヤマト大国魂)
かみして たまえはらみ    神の垂       賜えば孕み
つきみちて うまやめて    月 満ちて      生まずに病めて
とせのち なつきそむに    三年後       九月十六日に
うむみこの やまとひめ    生む御子の     名はヤマト姫
あとやみて かなつきに    後病で       十月二日に
ははまかる つつきかはゐの    母 罷る       ツヅキカバヰの
ははまかる つつきかはゐの    母 罷る       ツヅキカバヰの
そゐとしの きさらきもちに    十五年の      二月十五日
めすたには みちのうし    召す 丹波      道の治人の女
ひはすひめ ぬはたにいりめ    ヒハス姫      ヌハタニイリ姫
まとのひめ あさみにいりめ    マトノ姫      アサミニイリ姫
たけのひめ はつきはつひに    タケノ姫      八月初日に  
ひはすひめ きさきたてて    ヒハス姫      に立てて  
いとたり すけうちめに    妹 三人       スケ内侍
たけのひめ とりかえせは    タケノ姫      一人 返せば
はつかしく こしよりまかる    恥かしく      輿より罷る
 おちくにそ            堕国
そやとしさつき              十八年五月
きさき うむみこにしき    十日 后       生む御子 ニシキ
いりひこの いむなゐそきね    イリヒコの     斎名 ヰソキネ
ふそまふゆ うむみこやまと    二十年 真冬     生む御子 ヤマト
をしろわけ いむなたりひこ    ヲシロワケ     斎名 タリヒコ
つきにうむ おおなかひめと    次に生む      オオナカ姫
わかきにの いむなはるひこ    ワカギニの     斎名 ハルヒコ
すけぬはた うむぬてしわけ    スケ ヌハタ     生む ヌデシワケ
つきにうむ いかたらしひめ    次に生む      イカタラシ姫
あさみうむ いけはやわけと    アサミ 生む     イケハヤワケ
あさつひめ            アサヅ姫
ふそみなつき              二十三年九月
つみゑの みことのり    ツミヱ の     二日 御言宣
ほんつわけ ひけおひいさち    「ホンツワケ    髭 生ひ 騒ち
ものいわ これなにゆえそ    もの言わず     これ 何故ぞ」
もろはかり やまとひめて    諸 議り       ヤマト姫して
いのらしむ かんなきみ    祈らしむ      十月八日 君
とのたつ ときほんつわけ    殿に立つ      時 ホンツワケ
とふくくひ いわくこれ    飛ぶ       見て曰く「これ
なにものや きみよろこひて    何ものや」     君 喜びて
たれこの とりとりんや    「誰かこの     鳥 捕り得んや」
ゆかわたな とみこれとらん    ユカワタナ     「臣 これ 捕らん」
きみいわく とりほめん    君 曰く       「捕り得ば 褒めん」
ゆかわたな くくひとふかた    ユカワタナ     鵠 飛ぶ方
おひたつね たしまいつも    追ひ尋ね      但馬出雲
うやゑにて ついとりて    ウヤヱにて     遂に捕り得て
ねつき ほんすのみこに    十一月二日     ホンズの御子に
 たてまつる みこもてあそひ    奉る        御子 持て遊び
ものいえは ゆかわほめて    もの言えば     ユカワを褒めて
とりとりへ かはねたまわる    鳥取部       姓 賜わる
ふそゐの きさらきに    二十五年の     二月八日に
みことのり たけぬかわけと    御言宣       タケヌカワケ
くにふくと みかさかしまと    クニフクと     ミカサカシマ
といちねと たけひもろに    トイチネと     タケヒ等 諸に
わかみをや みまきさとく    「我が御親     ミマキは聡く
ほつましる あやまりたたし    ほつま 知る     誤り 正し
へりくたり かみあかめて    謙り下り      神を崇めて
こらす かれそろあつく    己を懲らす     故 繁 篤く
 たみゆたか いまわかにも    民 豊か       今 我が世にも
おこたら かみまつらんと    怠らず       神 祭らん」と
やよい あまてるかみお    三月八日      アマテル神
とよすきは はなちつける    トヨスキは     放ちて 付ける
やまとひめ            ヤマト姫
むかしとよすき              昔 トヨスキ
かみつけ みたまけかつき    神の告げ      御霊笥 担ぎ
よさゆく このはしたては    与謝に行く     この橋立は(天の橋立)
かさぬいの よりみやつの    笠縫の (相成山傘松)         上より宮津の
まつくも たなひきわたす    に雲 (宮津市松原)<を>      棚引き渡す
みつかきの みそこやよ    瑞籬の       三十九年三月三日
みことのり けくにのおとと    御言宣       ケクニの大臣
たけみくら いわひぬし    タケミクラ     斎主とし
います たにはみちうし    イマスの子     タニハミチウシ
みけもり あめのひおきは    御供の守      アメノヒオキ
かんぬしに ふりたまねき    神主に       フリタマ禰宜
とよけかみ あまてるかみお    トヨケ神      アマテル神
まつらしむ みちうしみけの    祭らしむ      ミチウシ 御供の
かんめくみ よきみこたり    神恵み       良き御子 得たり
とよすきは ささはたみやに    トヨスキは     佐々波多宮
かえります またかみつけ    帰ります      また神の告げ
ををかみの かたみいたたき    大神の       形見 頂き
あふみより みのめくりて    央海より      美濃を巡りて
いせいいの たかひおかわに    伊勢飯野       高日拝
すすととむ たかみやつくり    進 止む       高宮 造り
しつめます            鎮めます
ふそふしはす              二十二年十二月
すえに やまとめよしこ    二十八日に     ヤマト姫 ヨシコ
ことしそひ かみみつきの    今年 十一      神に貢ぎの
みつえしろ わかこをやこか    御杖代       ワカゴ親子
ともなひて うすめみくし    伴ないて      ウスメが御櫛
あくるとて おとすくしたに    上ぐるとて     落す櫛田
としこえて いてたつはつひ    年 越えて      出で立つ 初日
あけのはら いせたかみやに    明けの原      伊勢高宮
いりませは おはつかえて    入りませば     叔母と仕えて
なつきひめ かゐもてあにの    九月 姫       粥 以て兄の
こといのる かれいゐのみや    殊 祈る       故 飯の宮
とせのち とよすきよはひ    三年後       トヨスキ 齢
ももみつて みつえならと    百三つで      御杖 ならずと
みならわ かねてねかえは    見習わせ      予て願えば
このたひは よしこうちの    この度は      ヨシコを
をみこ みたまけかつき    親王とし      御霊笥 担ぎ
いゐのより いそへうつし    飯野より      磯辺に移し
しつめます よきみやところ    鎮めます      「良き宮所
ありと わかこやれは    南に在り」と    ワカゴを遣れば
ゐすすかわ ふもやよろの    五十鈴川      二百八万歳の
さるたひこ わかこにいわく    サルタヒコ     ワカゴに曰く
われむかし かみたまもの    「我 昔       神の賜物
さこくしろ うちみやいれ    サコクシロ     内宮に入れ
あらみたま やよろまち    荒御魂       八万年 待ちし
かんたから あまつひつきの    神宝        『天地つ日月
さかほこき うつくしきすす    サカホコキ     美しき鈴
わいきたち かかんのんてん    地生太刀      カカンノンテン
ときまちて みちあらわせと    時 待ちて      道 現わせ』と
おほろけの ものならかれ    朧げの        物ならず 故
にも そのぬしまつ    子にも得ず     その主を待つ
これさつけ なかたうまれの    これ 授け      長留生まれの
つちきみは もとかえらん    辻君は (サルタヒコ)       元に還らん
もちかえり つけよとてさる    持ち帰り      告げよ」とて去る
おおわかこ かえりもふせは    オオワカゴ     帰り申せば
やまとひめ うちいたりて    ヤマト姫      に至りて
いわく これかんかせの    見て曰く      「これ 神風の
いせみや みくさまつる    妹背の宮      三種は祭る
みなもとと いやまひかえす    源」と       礼ひ返す
あくらいし おおはたぬしと   (猿田が座っていた)  あぐら石      オオハタヌシ
やそともに ゐそすすはらの    八十供に      五十鈴原
くさから おちこちやまの    草 刈らせ      遠近山の
きら もとすえもとし    木を伐らせ     本末 戻し
まなかもて おおみやはしら    真中 以て      大宮柱
しきたてて ちきたかしりて    敷き立てて     千木 高知りて
みやなれは みかともふし    宮 成れば      帝に申し
みことのり みかさのをとと    御言宣       「ミカサの大臣
いわひぬし わたらひとみは    斎主        ワタラヒ臣
かんぬしに あへたけぬかお    神主に       アべタケヌガ
みかわりと わにくにふくお    御代りと      ワニクニフク
うちかわり ものへとちねお    代り       モノベトチネ
みうえから たけひあさとお    御上から      タケヒ(大伴タケヒ)朝臣を
みこかわり おのおのもふて    御子代り」     各々詣で
ふそむの なつきそむ    二十六年の     九月十六の日
ををんかみ ゐそすすかわの    大御神       五十鈴川
さこくしろ うちわたまし    サコクシロ     内に渡まし
そな みたけはしらお    十七日の夜     御丈柱
をさめしむ これすへらきの    納めしむ      これ 皇の
みつからの たけのみやこに    自らの       丈の都
そろいのり あめかせのふし    繁 祈り       「雨風の節
ほとよくて ゆたかなれと    程良くて      豊かに実れ」と
ふしやすみ いやまひもふす    伏し窶み      礼ひ 申す
めくみや かみよろこひ    御恵や       神も喜び
つけいわく むかしすむ    告げ曰く      「昔 我が住む
さこくしろ しきなみよする    サコクシロ     繁和 寄する
いせみや なかくしつまり    妹背の宮      永く鎮まり
まもるへし とよけかみと    守るべし      トヨケの神と
もろともそ やまとひめより    諸共ぞ」      ヤマト姫より
これつく きみよろこひて    これを告ぐ     君 喜びて
にきてなし とよけのかみえ    和幣 成し      トヨケの神
さおしかは みわみけもち    直御使は      ミワミケモチ
いわひとは たにはみちうし    斎人は       タニハミチウシ
くにぬしの かみおしえは    地主の       神の教えは
ををんかみ つきおほして    「大御神      嗣を思して
いせのみち やもひとくさお    妹背の道      八方人草を
いけめくむ かれかつを    活け恵む      故 カツヲ 八木
ちきうち そくうちみや    千木の内      削ぐは内宮
うちかろく やたみゆたかに    内 軽く       八民 豊かに
またとよけ さかほこのり    またトヨケ     逆矛の法
あめほし こくらあらわし    天の星       九座 表し
かつを ちきそく    カツヲ 九木     千木は外を削ぐ
かれとみや うちあつくいつ    故 外宮       内 厚く 厳
たみちち おそれみちよ    民の父       畏れ 道 得よ
うちみやは きみははお    内宮は       君 母の子を
めくむのりかな          恵む法かな」



 アスズ六百二十一年一月十三日、皇太子イソニエは五十二才の時即位して、ミマキイリヒコ天皇(アマツキミ)となられました。

 三年九日 磯城(シギ)のミズカキ宮を新都としました。
 四年十月二十三日、詔のり。
 私が天神皇祖から授かって受け継いだ三種神器は、クニトコタチの神璽(カンオシデ)とアマテル神のヤタ鏡、オオクニタマのヤエガキの剣です。
 この神器を宮中に祭りミト神(御トの教え、帝王学)として、常に敬い拝礼してきました。寝起きする殿床(とのゆか)も一緒なら、食事の器も同じくし、神と共に暮らしています。しかし近頃は、このように身近に気安く祭るのは、逆に神の威光を損なうのではないかと畏れを感じるようになり心が安まる日とてありません。
 アマテル神は笠縫(カサヌイ)の地に移しトヨスキ姫に祭らせ、オオクニタマは山辺(ヤマベ)の里に移してヌナギ姫に祭らせよう。鏡造りのイシコリドメの子孫と、剣打ちのアマメヒトツの子孫には、新たに鏡と剣を造らせてアマテル神の神璽(おしで)も合わせ三種神器として、今後はこの新しい三種(ミグサ)を皇室の日嗣(ひつぎ)の神宝と決めよう。

 五年 疫病(えやみ)が流行(はや)る。民の大半が死す。
 六年 万民離散し、国乱れる。
 君は神に敬けんな祈りを捧げます。このような人知を超えた疫病が再三襲って民を苦しめ政を危うくするのも、全ては罪深き己の至らぬ由縁である。今後は益々神を崇めて、民の生活(くらし)に思いをいたし、敬い、慎んで政治(まつり)を執ろう。どうか、己の罪をお許しください。
 早速、オオクニタマとアマテル神の二宮を新しく造らせて、遷宮の準備を整えます。
 六年 秋、遂に念願かなってオオクニタマの御魂(みたま)を山辺(ヤマベ、大和神社、奈良)にお移しになりました。
 翌九月十七日は、いよいよアマテル神を笠縫(カサヌイ、桧原神社、奈良)の社にお遷しする盛大な遷宮祭です。
 参拝者は引きも切らず続き、夜ともなると神前の豊(とよ)の明りが色良く灯り、天上からアマテル神が供の神々とそろって降りてまいります。神官は神饌を捧げてよっぴいてイロのツズ歌を唄い奉じました。(最初の一音がイ、折り返しの十音がロ、ツズは十九音で一小節)
 神の御饗(みあえ)は華やいで尽きることを知らず明け方まで続きます。
(イ)ざ遠し  悠基(ゆき)のよ(ロ)しも 大夜(おおよ)すがらも

(豊の明りは夜通し神を迎え、遠き天上の神々は宜しく下ります。)
 七年二月三日、詔のり。
 我が代々の皇祖(みおや)が、国造りのために開かれた基礎は偉大である。しかしながら我が世に至り被った災害の様な悲惨な状況はかって聞いたことがない。きっと我が神祭が不十分で、天に祈りが届かず咎めを受けたものと思う。今後は神の御心のままに極めねばならない。と宣いて、アサヒノ原天宮(現・比沼麻奈為神社、ヒヌマナイ、京都)に御幸されトヨケ神に詣でました。
 又、君は八百万の神々を招く湯の花神楽をモモソ姫に奉納させると、姫は神懸(かみがかり)になり、サッサツズ歌が告げられました。(初音のサ、折り返しにツ音、終わりの音がサのツズ歌) 去(サ)る民も ツズにま(ツ)らで 汚穢(おえ)に乱るさ(サ)

(オオタタネコの祖父オオミケヌシは九代ワカヤマト・ネコヒコ天皇(開化天皇)に対して、前天皇(八代ヤマトクニクル・孝元天皇)の后のイカシコメをイキシコメと名を変えて中宮に立てるのは良くないと諌言(かんげん・いさめ)するが聞き入れられず、大臣を下り民となってチヌ(茅渟、堺市、大阪)のスエ(陶器、堺市、大阪)村に蟄居した。その孫がオオタタネコ) 君はこの御神託を聞いて驚き、
 「かくお教え下さる神様は誰であるか」と問うと、
 「我は国神(くにのかみ)、大物主ぞ」と答えがありました。しかし、これ以上の神意(しんい)は得られませんでした。
 君は、斎戒沐浴(さいかもくよく)して更に告げ申すには、
 「我は神をこれほどまでに、敬えども、まだ受け下さらぬか」
 するとその夜の夢に、
 「我は大物主の神なるが、君よ憂えることなかれ。国が治まらないのは、我が意あっての事、我が裔(はっこ)のオオタタネコを斎主(いわいぬし)にして神を祭らせれば、国も無事治まり、海外の国(とおつくに)も自ら帰伏するであろう」
 八月七日、トハヤの娘のチハラメクワシ姫とオオミナクチとイセオウミの三人がミカドに告げ申すには、
 「夢に神託がありました。タタネコを大物主の斎主(いわいぬし)にして、シナガオイチをオオヤマトクニタマ神の斎主にすれば、疫病(えやみ)も去り国は天下泰平となります」
 君は、自分の夢と三人の夢が一致した夢合わせを大層喜んで、早速全国にオオタタネコを探す様お触れを発します。
 と、間もなくオオタタネコがチヌのスエ邑(むら)(スエアラタ・陶荒田神社 堺市、大阪)に居りますとの報告があり、君は八十人の供を引き連れチヌに御幸され、タタネコに直接問いかけました。
 「誰が子であるか」とお尋ねになるとタタネコの答えるには、
 「昔、物主(コモリ神)がスエツミの娘のイクタマヨリ姫との間に生んだオオミワ(カンタチ)神の子孫(はつこ)で、代々このスエ邑に住んでいます」これを聞いた君は、
 「この者こそ夢に見たオオタタネコに間違いない。これで我が世も天下泰平、栄えるであろう」と、大変喜んで親しくご歓談されました。
 十月一日、イキシコオに太占(フトマニ)を占わせ結果も吉兆と出たので、イキシコオに八十枚の平瓮(ひらか)を作らせて神祭りの用意を整え、オオタタネコをオオミワオオモノヌシ(大三輪大物主神 大神神社、奈良)の斎主に命じ、ナガオイチは、オオクニタマ(大和神社)の斎主を命じ、あまねく天下にお触れを出して、今度初めて神名帳も編纂して備えると神地神戸も定めて、八百万神(ヤオヨロズノカミ)を祭らせました。

 これをもって、神を崇める御心も天に通じて、やっと疫病(えやみ)も平癒(へいゆ)し、この年は、稲穂もたわわの豊作となって民の生活も豊かになり、再び平和がよみがえりました。
 八年四月四日、タカハシ邑のイクヒという者が、ミワ大神のために初めてお神酒(みき)を造り奉りました。その酒の味は大層美(うま)いとの評判です。
 十二月八日、オオタタネコにオオミワ神を祭らせて御幸されました。御饗(みあえ)の席でイクヒの造った酒を献上した所、君は心地良く歌われて、
この神酒(みき)は 我が神酒ならず
ヤマトなる 大物主の 神の神酒
イクヒサ造る 杉葉幾久(すぎばいくひさ)
(いつまでも造り続けよ 杉葉(酒林)よ 永遠に)
 御饗が終わると、今度は臣等が歌って
美酒(うまさけ)や 身はミワの殿(との)
朝戸(あさど)にも 出でて行かなん
ミワの殿(と)の戸(と)を
 この時、君は即座にこれを受けて返歌(かえしうた)を歌われました。
美酒(うまざけ)に 身はミワの殿
朝戸(あさど)にも 押し切らかねよ
ミワの殿(と)の戸(と)を
 美酒(うまざけ)と太平の世に酔いしれた君、臣等は一気に朝戸を押し開くと、御幸の宮を後にお帰りになりました。

 九年三月十五日夜、君の夢に神のお告げがあり、
 「赤、白、黄の幡矛(ほこ)立てて、神を祭れ。ウダのスミサカ(墨坂)も、オオサカ(逢坂)も、カワセサカ(河瀬坂)も、この三尾を残りなく祭れ。ここは罪科人(つみびと)等の死霊が迷い留まって、疫病を引き起こしている」と。

 四月二十二日、補佐役のオオカシマ(大暁島・伊勢神宮 神臣、初代神主)とタタネコ(大直根子・三輪臣、初代神主)に魂返しの法(のり)を祈らせました。その結果やっと明るい世が訪れました。

 十年七月二十四ネヤトの日、詔のり。
 民を治めるため教化に勤め、神意のままに神祭りを盛大におこない、やっと災いをほぼ克服することができたが、遠国(とおつくに)の荒人等(あらびと)は未だに法(のり)を守らず、我が詔のりを受けようとしない。故に、四方の国々に教使(おし)を派遣して、法(のり)を教化し、国の安定を計りたいと思う。
 九月九日、詔のり。
 オオヒコをコシ(越)の教使(おし)に、タケヌナガワケをホツマ(東海・関東)の教使(おし)に、キビツヒコをツサ(山陽道)の教使(おし)、タニワチヌシをタニワ(丹波)教使(おし)に任命する。
 もしも教えに従わない国神あらば、武力をもって討ち滅ぼせとの命が下りました。それぞれ神璽を賜わり、各将軍は兵を引きいて四方面に軍立(いくさだち)しました。
 十五日、オオヒコがヤマシロ(山背)ソエアガタ(添県神社・別名歌姫神社)のナラサカ(奈良坂町、奈良)に至った時のこと、どこからともなく少女の歌が聞こえてきました。
御世ミマキ イリヒコあわや 己が添人(そえ)
盗みしせんと 後(しり)つ戸を
い行き違(たが)いぬ 前つ戸よ
い行き違いて 窺(うかが)わく
知らじとミマキ イリヒコあわや(危急)
 オオヒコは、この意味ありげな歌を怪しんで、馬を引き返して少女に歌の訳を聞きました。少女が答えるには、
 「私は歌を唄うだけです。なにも存じません」と、言うやいなや又どこえともなく消え失せました。

 十年九月十七日、コシの教使(オシ)のオオヒコは、この歌に胸騒ぎを覚えて急ぎ軍を引き返し、ミズカキ宮に帰り着き君に申し上げるには、
 「ヤマシロのナラサカの少女が唄った歌は、しかじかかような内容の歌で悪い事の前兆ではないかと不安です。早急にご検討を願います」と申し上げました。
 君が、侍臣と協議を重ねている折に、常に君の政事(まつりごと)を助けて生まれつき聡明で予知能力に優れた姉のモモソ姫が君に申し上げました。
 「これは、タケハニヤスが謀反を起こす前兆です。彼の妻アダ姫がカグヤマの埴(はに・土)を領巾(ひれ)に入れ大切に持ち帰り、国の物実(ものざね)と称して、国を乗っ取ろうと祈っているのを知っています。この事に間違いありません。緊急事態です。早く決断を下してください」

 諸将が出発を延期して宮に留まって緊急作戦会議を始めるとまもなく、
「タケハニヤスはヤマシロから、妻(アダ姫)はオオサカ(現・逢坂、奈良)から、二人は共謀して二手に分かれ都を落とさんと反乱を起こし攻め上って来ます」との、ハヤキジ(伝令)が飛び込んできました。
 詔のりにより、イサセリミコをオオサカに追討の将として向かわしめ、ついに敵を打ち破りアダ姫(阿陀比売神社、奈良)を殺しました。
 オオヒコとヒコクニフクは、ハニヤスヒコ迎撃に向かわしめました。ヒコクニフコはヤマシロのワニタケスキ坂に斎瓮(いんべ)をすえ、戦勝祈願をして後、軍を引きいて軍立(いくさだち)して早々に、草木を踏み分け平(なら)しての白兵戦となり、まず手合い(勝負を試す)の戦いに軽く勝利を納めたこの地をナラザカ(現・奈良坂)と言います。オオヒコは下道(しもみち)を進み、川を挟(はさ)んで対戦し、兵供(つわものども)は我(ワ・地)から吾(ア・天)からと相挑みました。敵将のハニヤスヒコは川北(川上)に陣取って、ヒコクニフクを見下していわく、 「汝、何故邪魔だてするか」と。クニフクは答えていわく、
 「これ汝、天(あめ)に逆らう賊を成敗せんと、君の勅命により義兵を上げて討ちにまいった」と。言い終わるやいなや先を競ってお互い矢を放ったところ、ハニヤスが射る矢は当たらず、クニフクが射った矢はハニヤスの胸を貫通して討ち殺しました。大将を討たれたハニヤスの兵達は、混乱して我先にと逃げ惑います。その者達に追い討ちをかけると、
 「我君(わきみ)、我君」と悲痛な叫びを残しながら流れ去りました。ハニヤスの反乱も無事鎮圧し、全員宮に凱旋しました。

 十月一日、詔のり。
 大和国内は無事平定したが、遠国(とつくに)は未だにまつろわぬ乱暴者の騒動が絶えない。四道将軍達よ、今速やかに発つべし。二十二日、各将軍は四道に分かれて出発しました。この四方に派遣された将軍達を四方のオシエド(教導人)とも言います。

 モモソ姫が大物主の妻となる。
 夜になると主は来て、どうしたわけか昼には姿が見えません。
 ある日のこと、姫は何とか主人の尊顔を見たいと願い、明け方にお帰りを留めようとしますが、神の告げるには、
 「姫の願いはもっともなことだ。我は明朝必ず櫛笥(くしげ)に入っているので、我が姿を見ても決して驚かないでくれ」と言って去りました。
 モモソ姫は、この申し付けを不思議に思い、朝が来ると早速櫛笥(くしげ)を開けて見ると、小さな蛇がとぐろを巻いて入っていました。姫は驚きのあまり、おもわず泣き叫んでしまいました。 大神は、これを大変恥じて、人の姿になって現われて言うには、
 「汝は私の言いつけを守れず叫んでしまった。私には取り返しのつかない恥になった」と言うやいなや大地を蹴り大空跳んで駆け上り、ミモロの山(三輪山)に消え失せました。
 妻は、夫の去る方を仰ぎ見ながら、後悔のあまり後を追い箸(はし)で身陰(みほど)を突いて自害しました。モモソ姫の遺骸(いがい)を埋葬したのがオイチ(大市)の箸塚古墳(はしずか)です。
 この塚は、昼は人力により、夜は神の力でオオサカ山の石を運び築きました。諸人が並び継いで、手から手に石を渡して運び、ついに墓を築き上げました。
 墓が完成した時の喜びの歌。
オオサカ(逢坂)も 継(つぎ)の顔揃(ソ・添)え 石群(いしむら)を
手越(たごし)に 越さば 越(こし)がてんかも

(遠いオオサカ山の石も皆で次々と顔をそろえる様に手渡しして運べば乗り越えられぬ事はないさ) 十一年四月十六日、四道将軍が未開地征討から帰還して、各々が復命しました。
 「乱暴者等は、皆平和裏に朝廷に帰伏しました」との報告があり、君は安堵して国の安寧を確信しました。
 秋、君はオオタタネコに今度の軍立ちの犠牲者の供養を命じ、苦しみの霊(たま)の緒を解く祭りをハシズカ古墳上で盛大に行いました。群れ押し寄せる民の上に、神の法(のり)は照り輝きオイチ(大市)は大いに賑わいました。

 十二年三月十二日、詔のり。
 私が天(あま)つ日嗣(ひつぎ)を受けてからというもの、一日一日が追われるごとくで平穏な日とてなかった。天は陰(メ)と陽(オ)が乱れて天候不順が続き、ついには疫病が大流行して罪なき多くの国民を死亡させてしまった。
 私はこの罪や汚れを祓い清めんと心を改めて神を崇(うやま)い、神祇の教えに努めてきたおかげで、今やっと八方の乱暴者供もまつろい、平和で豊かな、民が楽しく暮らせる世の中に戻すことができた。
 この平安の世に感謝し深く考えた末、この度は成人と未成年者の区別を法をもって定めて若者を守るとともに、民に負担となる課役(かえき)を廃し、いとま明け(休養)としよう。又、男の弓端(ゆはず)の調(みつぎ)や、女の手末(たずえ・織物類)の調(みつぎ)も止めて、民の生活(くらし)に余裕を持たせて、豊かで賑わう国を造ろう。
 この秋には稲穂も大豊作となり、民の家屋も美しく整って、人々の暮らしや風俗も華やぎました。
 今、君の御心も安らかに、国の繁栄を心から楽しまれました。誰言うとなく、初めて国を平和に治めた御肇国(はつくにしらす)ミマキ天皇の世と称えました。

 四十八年一月十日、皇子(みこ)のトヨ君とイクメ君とに詔のり。
 「今日まで、汝等二人に平等に恵みを与えてきたが、今どちらか一人を日嗣(ひつぎ)皇子に選ばなければならない。ついては夢をもって占うので、二人とも沐浴(ゆあみ)して身を清め、日嗣の夢を見るべし」と、申されました。
 翌朝、兄のトヨギが申しあげるには、
 「ミモロの山に登って東を向き、八度矛遊戯(はちたびほこゆげ)をしました」
 次に、イクメが申さるは、
 「ミモロ山に登り、四方に縄を張って雀を追う夢をみました」と答えました。
 君は考えて、兄の夢は唯、東を向いているだけなのでホツマ(東海・関東)を治めよ。弟は四方の民を治める世嗣としよう。

 四月十九日ツミエ、詔のり。
 イソサチを立てて日嗣の皇太子とし、トヨギイリヒコをホツマツカサ(東国司)に任命しました。


ミマキイリヒコ天皇(人皇十代、崇神)
ツノガアラシトをミマナ(任那)国王に任命する。

 五十八年八月、君はツルガに御幸されケヒ大神(現・気比神宮)に詣でました。
 諸臣や北陸の国守達が集い、君に祝いの御饗をささげている処に、頭に角が一つある人物が、この北の津(現・敦賀市、福井)に船で漂い着きました。
 言葉が全く通じないので、ハラ(蓬莱山・現・富士山)のサカオリ宮(現・浅間神社、富士宮市、静岡)に使いを出し、外国語に詳しいハラの臣ソロリヨシタケを呼び寄せて、この者に質問させました。

 その答えは、こんな物語です。
 私は韓国(カラクニ・伽耶)の君の王子で、名はツノガアラシトと言います。父の名はウシキアリシトです。
 私が国に居た頃伝え聞いたところによると、日本国(やまと)には聖(ひじり)の君が居られると知り、君に服(まつら)おうと船出して、アナト(穴門国、山口県)に着きました。そこのイツツヒコなる者が、私にいわく、
 「この国の君は我なり。ここに居なさい」と申しました。しかし、その人となりがどう見ても品性卑しく君には見えませんでしたのでいったんは帰還して船出し、都への路を探して津々浦々を巡り、イズモを経てやっとこの地に着きました。
 幸い君が神祭りのためにご当地に御幸(みゆき)と聞き参上いたしました。どうか私をお召し下さい。

 君はツノガアラシトを召して仕えさせて見ると、忠義に厚く勤勉で、大変有能である事も解り、五年目には君ミマキイリヒコの名前の頭の二音をつけてミマというナ(名)の新国名をミマナとして賜いました。
 後、君はたくさんの国の産物やカゾミネ(緑の山々の模様)の綾錦織(あやにしき)を土産に持たせてアラシトを本国に送り出しました。これがミマナ(任那)建国の初めとなりました。

 アラシトの昔し話。
 黄牛(あめうし)に荷物を背負わせ、アラシトが旅行中のことです。少しの間、木陰で微睡(まどろ)んでいるうちに、いつしか牛の姿を見失ってしまい、たまたま近くに一軒の家があったので、そこの老人に聞いたところ、老人いわく、
 「荷物はもうとっくに盗まれちまい、牛もバレたら後で金を払えばいいとして、とっくに殺して食べられてしまったろうよ」
 「もしも、先に行って牛の値段を聞かれたら、この地の祭神(まつるかみ)が欲しいと答えりゃいい」
 牛の後を訪ね行くうち、この村の君が、牛の値段を聞いてきました。アラシトは老人に言われるままに、祭神(まつるかみ)が欲しいと答えると、村君が神の白石(しらいし)を牛の値(代金)として差し出したので、城中に持ち帰って寝室に大切に置いておくと、いつのまにか美しい少女の姿に変身しました。
 大変喜んだアラシトは、いつか必ず結婚しようと心に誓いました。しかししばらくの間、外国に行っている間に少女は消え失せていなくなりました。
 帰国して驚いたアラシトが、妻に問い正してみると、妻は、
 「少女は東南の方に去った」と言いました。アラシトは少女の行方を訪ねて追い求め、船旅の果てについに日本国(やまと)ナニワのヒメコソの宮(比売許曽神社、大阪)にたどり着きました。が、そこにも少女はすでになく、宮より出でてトヨの国のヒメコソ宮(比売語曾神社、姫島、大分)ですでに神上がっていました。

 時に、アラシトは自国に帰る途中、日本(やまと)からの土産をシラギ(新羅)人に奪い取られた事が原因で、シラギ国と戦いが起こりました。
 この一件で、ミマナ国王の使者が日本国に遣わされ、君に奉じていわく、
 「我が国の東北地方に三巴群(ミハエ)有り。上、中、下に分かれた土地は、土も肥えていて四方の広さは三百里に及び、民も豊かに暮らしています。しかし、今すでにシラギの敵との戦いが長く続いて、治めることも難しくなっています。農民は皆、戦いに明け暮れして農作業を欠き、今では国民の死活問題となっています。臣(とみ)、願わくば国平定のために、貴国の遠征軍を派遣されんことを切に乞うのみでございます」
 君は、この申し出を大変喜ばれて、早速、臣(とみ)等と相談したところ、皆がいわく、
 「クニフクの孫のシオノリツヒコこれ吉(よし)」と答えました。
 頭の三瘤(みこぶ)から松の君とも呼ばれ、背は何と一丈五尺にも及び力量は八十人力で勇壮で激しい性格です。

 詔のり。
 シオノリヒコをミマナ国に派遣する将軍に任命する。又、別名を外国遠征道司(ユキトクニムケミチツカサ)の名を授ける。
 ついに敵地をくまなく平定し、凱旋将軍として意気揚々と帰朝しました。

 君は帰れば吉(よし)と、吉(よし)姓をシオノリヒコに賜わりました。













(私論.私見)

34-64~68完. 偉大であった崇神天皇は神になり、御世が変わる

43. 偉大であった崇神天皇は神になり、御世が変わる(34-64~68完)



むそやとし しはすおなえは(34-64)
ゐかねあえ きみこときれて(34-65)
ものいわず ゐねますごとし



みづかき宮の六十八年十二月「おなえ」の最初の月、五日「ねあえ」の日に、君は息が途絶えて物を言いませんでした。寝ているかのようでした。


あくるとし ねやえはつふか(34-65)
あめひつぎ みよあらたまの



明くる年、「ねやえ」の年の初めの二日目に、天日嗣(即位の礼)が行なわれ、御世が改まりました。十一代崇神天皇から、十二代垂仁天皇の代になりました。


はづきそひ かみあがりぞと(34-66)
よにふれて きみとうちとみ
もはにいり とのとみやはり
まつりごと



八月十一日、先帝(崇神天皇)が神になられましたと世に知らせました。君(垂仁天皇)と内臣は、「もは」(喪に服す)に入りました。「もは」は身を低くして過ごす意味。
遠くにいる大臣たちも同じように喪に服した祀りごとをとり行いました。



 かみなそひかに(34-66)
おもむろを やまべにおくる(34-67)



十月(かんな)十一日にご遺体を山辺にお送りしました。



このきみは かみをあかめて(34-67)
ゑやみたし みぐさたからを
あらたむる そのことのりは
おほひなるかな(34-68)



この君(崇神天皇)は、神を崇めて、疫病を退治し、風化していた三種の神器を新たに作り直しました。その業績は偉大でありました。

三十四綾 完

34-63~64. 任那の使者が貢ぎ物を献上

42. 任那の使者が貢ぎ物を献上(34-63~64)



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 むそゐほふづき(34-63)
みまなくに そなかしちして
みつぎなす(34-64)


みづかき宮の六十五年七月に、任那の国の「そなかしち」が、貢物を持ってきて献上しました。


 そのみちのりは(34-64)
つくしより きたへふちのり
うみへだて しらきのつさぞ


任那からの道のりは、筑紫より北へ二千里、海を隔てた所です。新羅の西南にあたります。


34-61~63. 水不足でため池を造る詔(みことのり)

41. 水不足でため池を造る詔(みことのり)(34-61~63)



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 むそふきなとの(34-61)
あふみづき きみとはつやえ
みことのり(34-62)



みづかき宮の六十二年(ホツマ暦「きなと」の年)、七月(ホツマ暦「きみと」の月)、初めての日(ホツマ暦「つやえ」の日)に詔がありました。



 たみはさはもと(34-62)
たのむとき かうちさやまは
みづたらず わざおこたれば
なりはひの ためによざみと

かりさかと かえをりのゐけ(34-63)
ほらんとて くわまのみやに
みゆきなる


万民(農民)が、沢の元(水源)を頼むとき(必要なとき)に、河内の「さやま」は水不足です。業(わざ・ここでは水不足対策を言っている)を、怠れば生業(なりわい・農作業)ができません。

そのために、「よざみ」と「かりさか」と「かえおり」の三つの池を掘るために「くわま」の宮に御幸されました。

今も、関西ではあちこちに溜め池が見受けられます。

34-61. 出雲を祀るようにと詔が下される

40. 出雲を祀るようにと詔が下される(34-61)



うたのあや かみのつげかと(34-61)
きみにつげ いづもまつれと(34-61)
みことのり



皇太子は、この歌を聞いて、これは神のお告げであるかもしれないと、君(崇神天皇)に告げました。そして、君(崇神天皇)は、出雲を祀りなさいという詔をくだしました。


34-59~60. 出雲を祀ってくださいという歌が流行る

39. 出雲を祀ってくださいという歌が流行る(34-59~60)



たまもしづ いづもまつらば(34-59)
まぐさまじ かよみおしふり


「たまもしづ」の「たま」は御霊、つまり殺された「いいりね」のこと言っています。
「しづ」は静まる・沈むという意味から殺されたことを示しています。

「いづもまつらば」の「まつらば」は(祀(まつ)らなければ)より、祀ってください。と訴えています。

「まぐさまじ」の最初の「ま」は真(まこと)真実を言っており、「ぐさ」は、草々、事々で今回の殺人事件を示しています。そして、「まじ」は、今でも、「まじぃー?」とか「まじかよ!」などの語源にもなっているように、本来在ってはならないことや通常では考えられないことを意味しており、ここでは兄が弟を殺すことなどあってはならないことを言っています。


「かよみ」の「か」は本来、光を意味し、ここでは明るい花(旬菜の花)を示していると思われます。よって、「かよみ」で花見・花をよむ・花を数えるになります。「おしふり」は、押し殺して・偽ってになり、「しふり」は、渋るという動作も含まれている。渋っている弟を、偽って、花見に行こうと誘い出した。という意味になります。



ねみかがみ みそこたからの(34-60)
みからぬし たにみくゝりみ



「ねみ」の「ね」は根本という意味もあるが、嫉(ねた)みの意味に捉えることが出来る。「かがみ」は善悪を映すことから、密かに怨んでいたことが明らかである。」という意味になります。

「みそこ」は「み」(三)、「そ」(十)、「こ」(九)で、亡くなった「いいりね」の年を示しています。
三十九歳の尊い命(たから)の身を枯らした主(いいりね)です。(三十九歳の若さで死んでしまったのです)
「たにみ」は険しい谷底に身をおき、「くくりみ」は苦しい思いに置かれています。



たましづか うましみかみは(34-60)
みからぬしやも


「いいりね」の御霊は苦しんでいます。美しい本当の神は、「みからぬし」(御、枯れた(亡くなった)「いいりね」ですよ。出雲を祀ってください。

34-58. 出雲では神祀りをしなくなり、歌が流行った

38. 出雲では神祀りをしなくなり、歌が流行った(34-58)




いつもおみ おそれてかみの(34-58)
まつりせず



その結果、出雲の臣たちは宮中の出方をうかがい、恐れて神の祀りをしなくなりました。



 あるひかべとべ(34-58)
わかみやに つぐるわがこの(34-59)
このごろのうた 



祀りをしなくなったある日、「かべとべ」という者が「若宮」(皇太子:後の垂仁天皇になる)にこのごろ流行っている「我が子」(乙女)の歌を伝えました。

34-57~58. 殺人事件を報告。「ふりね」は処刑される

37. 殺人事件を報告。「ふりね」は処刑される(34-57~58)


からひさは おいうかつくぬ(34-57)
つれのぼり きみにつぐれば


「からひさ」(うましからひさ:殺された「いいりね」の弟)は、甥(おい)の「つくぬ」(うかつくぬ)を一緒に連れて、「やまと」に上京しました。そして、君(崇神天皇)に報告しました。


きびひこと たけぬわけとに(34-58)
みことのり ふりねうたれて(34-58)


「きびひこ」(きびつひこ)と「たけぬわけ」の二人に詔がありました。
宮中に背いたため、詔を受けた(命令をうけた)「きびひこ」と「たけぬわけ」により、「ふりね」は討たれました。(刑の執行になります)

この記述は、ヤマト政権が出雲の人の刑の執行をしたことにより、力関係をはっきり示していたことがわかります。

34-56. 「いづもたける」の流行り歌

36. 「いづもたける」の流行り歌(34-56)



 よにうたふうた(34-56)
やくもたつ いづもたけるが
はけるたち つゞらさわまき(34-57)
あわれさびなし


世に流行り歌として歌われたは
八雲たつ(八色の雲が立ち上る)、出雲たける(殺された弟の「いいりね」)が、着けた刀は、蔓(つる)を鞘(さや)に巻きつけただけの哀れにも真剣(さび=鉄)ではなかった。

ここで、「やくもたつ」の解釈ですが、私ジョンレノ・ホツマとしては、既にこの時、製鉄がなされており、砂鉄か鉄鉱石の含まれている土を炭焼きしており、その時排出される煙が立ち上っている様をうたっていると考えます。
すなわち、焼いて出てくる煙のことを焼く雲がたつと表現したと思われます。製鉄方法は当時、国家機密であると同時に、製鉄事業は国としての威容(ほまれ)を示していたものと推測できます。

垂仁天皇の長男「いそぎね」が剣を欲しい(37綾-5~6)と言って、次男の「たりひこ」が天皇の位を引き継ぎ景行天皇になったわけですが、「いそぎね」は千本の剣を作り10の専門職集団(37綾-32~35)を司ることになり、国家の威信をかけた大事業であったと考えられます。

34-54~56. 先に水から上がった兄は弟の真剣を着け、木刀を持たされた弟を切りつける

35. 先に水から上がった兄は弟の真剣を着け、木刀を持たされた弟を切りつける(34-54~56)

 おとうなづきて(34-54)
ともにゆく あにはきだちを
ぬきおきて みづあびよべば
おともまゝ(34-55)



弟はうなずいて一緒に行きました。池に着くと、兄は背負っている木刀を抜き置いて、水浴びをしました。そこで、兄は弟にも水浴びするよう呼びかけたら、弟も言いなりに従って入りました。



 あにまづあかり(34-55)
おとがたち はけばおどろき
ゐいりねも あかりてあにが
きだちはく


兄がまず最初に上がり、弟の真剣を着けたので、驚いて
弟の「いいりね」も上がって兄の木刀を着けました。



 あにたちぬきて(34-55)
きりかくる ぬかれぬたちに(34-56)
ゐいりねは やみやみふちに
きえうせぬ



兄が弟の真剣を抜いていきなり斬りかかってきました。しかし、木刀を持たされた「いいりね」(弟)は、刀を抜くことが出来ず、闇夜の中で消えてなくなりました。
兄が弟を斬り殺してしまったことになります。

34-53. 兄は弟を夜の花見に誘い、水浴びを誘う

34. 兄は弟を夜の花見に誘い、水浴びを誘う(34-53)



 あにのふりねが(34-53)
あざむきて やみやのたまも
はなかよみ ゆきみんとてぞ(34-54)
さそひくる



兄の「ふりね」が、あざむいて(だまして)「やみや」(地名?)の「玉藻・旬菜(じゅんさい)」の花を見に行こうと(花を数える・見る)誘い出しました。
池や川の玉藻はここでは旬菜を示していると思われます。

34-51~53. 兄「ふりね」は弟「いいりね」に敵意をいだく

33. 兄「ふりね」は弟「いいりね」に敵意をいだく(34-51~53)



のちふりね かえてゐいりね(34-51)
せめいわく いくかもまたで(34-52)
などおそる



後日、兄の「ふりね」が帰ってきて、弟の「いいりね」を責めて言いました。そんなに簡単に手渡してしまって、もう何日間か待てなかったのかと怒りました。なぜ、そんなに中央(やまと)の権力を恐れているのだ。



 いづもはかみの(34-52)
みちのもと やおよろふみを
かくしおく のちのさかえを
おもわんや(34-53)


兄の「ふりね」は更に続けました。出雲は教えの大元である。秘蔵の八百万の文(神事)を隠し置けば(歴史を守り徹せば)、後に栄えるときのことを考えてみたことがなかったのか。と問いただしました。



 たやすくだすと(34-53)
うらみしが しのびころすの
こゝろあり



いとも簡単に秘蔵の宝を渡してしまったことを恨んで、密かに兄は弟に殺意を抱きました。

34-50~51. 神主「ふりね」の不在中、神宝を弟が渡してしまう

32. 神主「ふりね」の不在中、神宝を弟が渡してしまう(34-50~51)



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 かんぬしふりね(34-50)
かんほぎに つくしにゆきて



しかし、出雲に着いた時、出雲の神主の「ふりね」は「かんほぎ」(神に祝詞をあげる)のため、筑紫に御幸(みゆき)中でありました。

筑紫の「つくし」の語源は古代、「月が沈む国」又は、「月が住む国」と考えられていた。これに対して、青森県の方は、「ひつみの国」すなわち、「日(太陽)の昇る国」とか「日(太陽)が住む国」と考えられていたようである。



とゐいりね みやよりいだし(34-51)
おとうまし からひさとこの
うかつくぬ そえてさゝぐる



そこで、弟の「いいりね」は、宮(書庫)より持ち出して、この神の宝と一緒に、自分の弟の「うましからひさ」と、「ふりね」の子の「うかつくぬ」を添えて捧げました。

ここで、「うかつくぬ」が、自分の子ではなく、兄の子と分かるのは、後述の(34-57)に、「おいうかつくぬ」とあり、「おい」であることにより推測できると思います。

ジョンレノ・ホツマ

34-49~50. 崇神天皇は出雲に保管してある神宝を見たいと詔

31. 崇神天皇は出雲に保管してある神宝を見たいと詔(34-49~50)


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ここから、 話が変わります。


むそふづき そよみことのり(34-49)
たけひてる むかしさゝげし
かんたから いつもにあるを(34-50)
みまくほし



みづかき宮の六十年七月十四日、詔(みことのり)がありました。
「たけひてる」が昔、献上した神宝(たまがわのふみ)が出雲で保管されているので、「みま」(みまきいりひこ=崇神天皇)は今見たい(欲しい)と申されました。

七代目孝霊天皇の時代、天孫ニニキネが自ら書き記したとされる「たまがわのふみ」を「たけひてる」(天孫ニニキネの子孫)が昔、献上したものを孝霊天皇が出雲に保管せよと申され、ずぅーっと出雲で神の宝として保管されてきた。それを、今、みまきいりひこ=崇神天皇が見たくなり持ってこさせることにしました。



 たけもろずみを(34-50)
つかわせば



君(みまきいりひこ=崇神天皇)は「たけもろずみ」を出雲に派遣させました。

34-47~49. 「しほのりつ」を任那へ派遣し、新羅との仲を平定する

30. 「しほのりつ」を任那へ派遣し、新羅との仲を平定する(34-47~49)


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きみとみと はかればいわく(34-47)
くにふくの まごしほのりつ
これよしぞ



君(崇神天皇)は臣と謀って(相談して)言いました。派遣する将軍には「くにふく」(ひこくにふく:孝霊天皇の子)の孫の「しほのりつ」が良いと決まりました。




 かふべのみこぶ(34-47)
まつのきみ せいひたけゐた(34-48)
やそちから いさみはげしく



「しほのりひこ」は頭に三つのこぶがあり、「松の君」と呼ばれています。背丈は何と一丈五尺もあり、八十人力の力持ちで、勇ましく気性の強い人物です。




みことのり しほのりひこを(34-48)
みまなおし ゆきとくにむく
みちつかさ かえればよしと(34-49)
かはねたまひき




詔が発せられました。
「しほのりひこ」を任那へ派遣して、雪解け(行って問題点を解決)のために向かいました。
敵対していた道を司取り(支配・管理・平定)して、帰朝しましたので、「よし」という名(姓)を賜りました。


ジョンレノ・ホツマ

34-45~47. 任那の使いが新羅との仲裁を要請に

29. 任那の使いが新羅との仲裁を要請に(34-45~47)




 みまなのつかひ(34-45)
つげいわく わがくにきねに
みばえあり かみなかしもの
くにひろく よもみおのりの
つちこえて たみゆたかなり(34-46)



任那の使いが申し上げて言うには、わが国の「きね」(東北)に「みばえ」(三つの栄えているところ)があります。上・中・下と国は広く、四方は三百里あり、土地も肥えており、民の生活も豊かです。



いますでに しらきのあだに(34-46)
おさめゑず ほこをたづねて



しかし、今は既に、新羅との戦いが未だ治めることが出来ず仲裁(ほこ・司法)をお願いしに来ました。



たみいきず とみねがわくは(34-46)
くにむけの おしをこふのみ(34-47)



現在、民の生活が死活問題になっております。臣、願わくは国を平定するため援軍(押し・教え・力沿い)を願うばかりです。

34-44~45. 「あらしと」帰国の途中、新羅人に土産を奪われる

28. 「あらしと」帰国の途中、新羅人に土産を奪われる(34-44~45)


ここで、前の話に戻ります。


 ときにあらしと(34-44)
もとくにゝ かえさにみやげ
うばわれて しらきのくにと
あだをこり(34-45)




さて、「あらしと」が「元の国」(韓国・任那国の名を賜った)に帰る途中、「やまとの国」からの土産を新羅人に奪われてしまい、それが原因で、新羅と任那の間で戦いが始まりました。

34-41~44. 持ち帰った神の白石は乙女に変身、消えた跡を追う

27. 持ち帰った神の白石は乙女に変身、消えた跡を追う(34-41~44)




 かみのしらいし(34-41)
もちかえり ねやにおくいし
なるおとめ あらしとこれと(34-42)
とつがんと おもひゆくまに
ひめうせぬ



村の君は「神の白石」を差し出しましたので、持ち帰りました。そして、その石を寝屋(ねや)において置きました。
この白石が乙女に変身していました。「あらしと」はこの乙女と結婚しようと一目惚れしてしまいました。思い焦がれながらも、旅に出かけていたら、姫(乙女)は消え失せてしまいました。

なぜ、石が乙女に変身したか、何を意味しているのか、何を隠しているのか、不思議です。



 かえりおどろき(34-42)
つまにとふ いわくおとめは
きつにさる(34-43)(きさにさる:小笠原)
 


帰国して、驚いて妻に問いただしました。そうすると、乙女は「き」(東)「つ」(南)に行ったと答えました。
ここで、「つま」とは都万(つま)という地名、島根県北部の隠岐郡にあった旧村名を示しているように思えます。



 あとをたづねて(34-43)
おひいたり ふねをうかめて
ついにいる やまとなにはの
ひめこその




「あらしと」は行方を尋ねて、追いかけて行きました。船を浮かべて(船に乗り)やっと居所を突き止めて、「やまと・なにわ」の「ひめこそ」の宮にたどり着きました。




 みやよりいでゝ(34-43)
とよくにの ひめこそみやに(34-44)
かみとなる



しかし、その宮より出て、「とよの国」の「ひめこそ宮」で既に神になっていました。(亡くなっていました)

ジョンレノ・ホツマ

34-39~41. 「つのがあらしと」の昔の話

26. 「つのがあらしと」の昔の話(34-39~41)



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これのさき あめうしにもの(34-39)
おほせやり あらしとゆけば
うしみえず
 

ここから先は昔の話です。飴牛(あめうし・黄牛ともいい、古くは立派な牛として尊ばれた)に、荷物を背負わせて「あらしと」は進んでいきました。しかし、途中で牛を見失ってしまいました。多分、一休みした時、一寝入りしてしまったのでしょう。

なお、ちょっと気になったのが「あらしと」の父親(韓国の君・国王)の名前が「うしきありしと」と何か「うし」に関係がありそう。また、「つのがあらしと」は後日、牛頭(ごず)天王と言われている方を指しているような気がします


おきなのいわく(34-39)
これをすに さきにもふけて
これくわん(34-40)


翁と出会います。この老人に聞いた所、荷物を「す」(素・元手)に、(あるいは、掏られて)大きく儲けているだろう。牛はすで喰われているだろう。

 

ぬしきたりなば(34-40)
あたいせん すでにころしつ



もし、牛の持ち主と出会ったら、値段をつけなさい。(値千金?)でも、既に、殺されているかもしれないが。(??)





もしさきで あたいをとはゞ(34-40)
まつるかみ ゑんとこたえよ




もし、この先で、牛の値段を聞いてきたら
この地で祭る神が欲しいと答えなさい。



たづぬれば むらきみうしの(34-41)
あたいとふ こたえてまつる
かみゑんと



牛を探して尋ねていくと、村の君(長)が、牛の値段を聞いてきましたので、「あらしと」は祭る神が欲しいと答えました。

34-37~38. 「つのがあらしと」を召したところ、有能につき「任那」という国名を与えた

25. 「つのがあらしと」を召したところ、有能につき「任那」という国名を与えた(34-37~38)


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かれつのが めしてつかえば(34-37)
まめありて(34-38)



よって、話を聞いた君(崇神天皇)は、「つのが」(つのがあらしと)を召して使ってみることにしました。そうしたら、まめでありました。(忠義に厚く勤勉で有能でありました)



 ゐとせにたまふ(34-38)
なはみまな


「つのがあらしと」は非常に有能であったので、五年後には「みまな」という国名を賜りました。
君(崇神天皇)の「みまきいりひこ」の名前の二文字「みま」を取って「みまな」と名付けられました。



 かぞみねにしき(34-38)
くにづとに かえるあらしと
みまなくに これたちそめぞ


数峯錦という錦織を国への土産に「あらしと」(つのがあらしと)は「みまな国」へ帰りました。これが「みまな国」の建国の始めです。

34-35~37. 韓国の皇子「つのがあらしと」は、やっと君(崇神天皇)に会えた

24. 韓国の皇子「つのがあらしと」は、やっと君(崇神天皇)に会えた(34-35~37)





つたゑきく ひしりのきみに(34-35)
まつらふと あなとにいたる



私の国で、聖の君が居られると伝え聞いていたので、やまとの国に服らおうと国を出て船で「あなと」(穴門国・山口県)に着きました。



ゐつゝひこ とみにいわくは(34-36)
このくにの きみはわれなり
こゝにおれ ひとなりみれば
きみならず



「あなと」で「いつつひこ」なる人物が「とみ」(ここでは私)に言うには、この国の君(天皇)は私です。だから、ここに居なさい。と申されました。しかしながら、その人なりを見れば、どう見ても君(天皇)には見えませんでした。



 さらにかえりて(34-36)
みやこぢと うらしまたづね(34-37)
いつもへと やゝこゝにつく



一旦、帰ることにして、都へ通じる道を探し求め、通津浦裏の島々を尋ね、「いづも」を経て、やっとこの地(敦賀)に着きました。



かみまつり きみこゝにあり(34-37)


運良く、神祭りのため君(崇神天皇)がちょうどこの地に居合わせお会いすることが出来ました。

34-33~35任那の綾. 敦賀に御幸のとき、韓国からの皇子に出会うが言葉が通じず

みまなのあや 任那の綾
23. 敦賀に御幸のとき、韓国からの皇子に出会うが言葉が通じず(34-33~35)



みづかきの ゐそやほはづき(34-33)
みゆきして けゐおゝかみに
もふでます



みづかき宮の五十八年八月に、君(崇神天皇)は御幸されました。敦賀の「けひ(気比)大神・神宮」に詣でました。



 もろいわふとき(34-33)
つのひとつ あるひとこゝに
たゝよえり(34-34)



諸臣が祝っているときに、頭に角が一つある人物がここ、敦賀(福井)に漂着しました。舟で漂い着きました。



 ことばきゝゑず(34-34)
はらなとみ そろりよしたけ
よくしれば これにとはしむ



言葉が何を言っているのか分からず通じないので、「はら」(はらみ山・蓬莱山・酒折宮・現浅間神社)の臣の「そろりよしたけ」が外国の言葉に詳しいので、呼び寄せて詳しく問うことにしました。
この「そろりよしたけ」は中国から渡来した徐福の末裔の可能性もあると思います。
敦賀から美濃・今の中仙道を経由して酒折・浅間神社まで約三百五十キロの道のりを呼びに行かせて連れてくるまで、どの位待っていたのでしょうかね。




そのこたえ われはからくに(34-34)
きみのみこ つのがあらしと(34-35)
ちゝがなは うしきありしと



その答えは、我は「からくに」(韓国)の君(王)の皇子の「つのがあらしと」と申します。父の名は「うしきありしと」と申します。


年代の特定が出来ませんが、当時朝鮮半島の南方にあった「辰:チン」という国が、紀元前1世紀頃、馬韓、辰韓、弁韓の3国に分裂した。その後1世期ごろまでに、馬韓は漢や北方の国々と、辰韓と弁韓は南の倭寇と撃退しながら、馬韓は百済に、辰韓は新羅に統合されていった。一方、紀元前37年中国の東北地方南部に興った高句麗は韓半島の北部まで支配するようになったようです。(韓国の歴史書より)
いずれにせよ、政情が不安定であったことが窺えます。


34-30~31. 君(崇神天皇)は夢で弟の「いそさち」(いくめいりひこ)を世継ぎ皇子に

22. 君(崇神天皇)は夢で弟の「いそさち」(いくめいりひこ)を世継ぎ皇子に(34-30~31)


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 きみこのゆめを(34-30)
かんがえて あにがゆめたゞ(34-31)
ひがしむき ほづまおさめよ
おとはよも たみをおさむる
よつぎなり


君(崇神天皇)は、この二人の見た夢を考えて(考慮して)、兄の夢はただ東を向いているだけなので、「ほづま」(東国)を治めなさい。
弟は、四方の万民を治める世継ぎにすると申されました。



 うそこかつみえ(34-31)
みことのり ゐそさちたてて(34-32)
よつぎみこ とよぎいりひこ
ほづまつかさぞ




みづかき宮の四十八年四月十九日(ほつま暦・つみえの日)に、詔がありました。
「いそさち」(いくめいりひこ)を日嗣の皇太子に立てて、「とよぎいりひこ」(兄)は「ほづま」の司(政務をつかさどる)に任命しました。

34-29~30. 兄の「とよきひこ」と弟「いくめいるひこ」の夢

21. 兄の「とよきひこ」と弟「いくめいるひこ」の夢(34-29~30)



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 とよぎもふさく(34-29)
みもろゑに きにむきやたび(34-30)
ほこゆげし



兄の「とよぎ」(とよきひこ)が申し上げるには、「みもろ」の山に登り、「き」(東)に向かって、八回、矛を突付く夢を見ました。



 いくめもふさく(34-30)
みもろゑに よもになわはり
すゞめおふ



弟の「いくめ」(いくめいりひこ)が申し上げるには、「みもろ」の山に登り、四方に縄を張って、雀を追う夢を見ました。


ジョンレノ・ホツマ
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34-28~29. 二人の皇子に詔、世継ぎを夢で占う

20. 二人の皇子に詔、世継ぎを夢で占う(34-28~29)



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よそやとし はつそかおあえ(34-28)
とよぎみと いくめぎみとに
みことのり(34-29)



みづかき宮の四十八年一月十日(ホツマ暦おあえの日)に長男「とよぎみ」と次男「いくめぎみ」に崇神天皇の詔がありました。数え年だと次男が二十歳になった時です。




 なんぢらめぐみ(34-29)
ひとしくて つぎしることの
ゆめすべし



詔は、汝ら(二人)には、今まで平等に育ててきたが、日嗣をする皇子を決めるために(知るために)夢で占うことにする。



 ともにゆあみし(34-29)
ゆめなして



二人とも「湯浴み」(身を清めて)してから、それぞれ日嗣の夢を見ました。


ジョンレノ・ホツマ


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34-25~28. 崇神天皇の妃と子供たち

19. 崇神天皇の妃と子供たち(34-25~28)



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 きさきもおえて(34-25)
すけやさか といちにもふで
うむみこは とちにいりひめ



妃も子供を生(お)えました。(役割を終えました・生みました)
すけ妃の「やさか姫」(やさかふりいろね)が十市に詣でた時に生んだお子さんは「とちにいり姫」です。



ふそむとし ねつきはつひに(34-25)
みまきひめ しぎにうむみこ(34-26)
とよきひこ いむなしぎひと



みづかき宮の二十六年十一月一日に「みまき姫」(おおひこの娘)が磯城(しぎ)で生んだ皇子は「とよきひこ」で実名は「しぎひと」です。



ふそことし はつひおうとに(34-26)
きさきまた うむみこいくめ
いりひこの いむなゐそさち(34-27)



みづかき宮の二十九年「おうと・ホツマ暦」の初日に妃の「みまき姫」が二人目の皇子を生みました。「いりひこ」(いくめいりひこ)と言い、実名は「いそさち」です。
「とよきひこ」の弟ですが、後の十一代垂仁天皇になられます。

「はつひ」の「おうと」がいつなのかは解析が必要です。




みそやとし あきはづきゐか(34-27)
きさきのと くにかたうちめ
うむみこは ちちつくわひめ



みづかき宮の三十八年の秋、八月五日に妃(みまき姫)の「と」(妹)のうちめの「くにかた」が生んだ御子は「ちちつくわ姫」です。



よそむつき すえやかこうむ(34-28)
いかつるの いむなちよぎね



四十年の正月の末の八日(二十八日)に生んだ二人目の子は「いかつる」で実名を「ちよぎね」といいます。

17-18. 大人と未成年を区別、 休暇を制度として儲け、「肇国(はつくに)」と称えられる(34-23~25)

17. 大人と未成年を区別する(34-23)


 おさといとけの(34-23)
みちもあけ


「おさ」(大人・成人)と「いとけ」(幼・稚・未成年)の区別を定めます。




18. 休暇を制度として儲け、「肇国(はつくに)」と称えられる(34-23~25)


 たみにおゝする(34-23)
いとまあけ ゆはずたずえの
みつぎとめ(34-24


次に、民(国民)に負うていた(負担であった)、暇(いと)間を与えましょう。
その日は、弓端(ゆはず)や手末(たずえ)の貢ぐための作業はやめましょう。

語源は多分、機織で、糸と糸の間を開けて、余裕を持たせた方がきれいに速く織りあがる所からきているものと考える。そこから、「おいとま」します、とか休暇を与えるという意味合いになったと考えます。


 たみにぎはせて(34-24)
ぞろのとき なおりてやすく


休暇を取り入れたので、万民は元気に(にぎやかに)なりました。稲穂の収穫の時には、家屋も修復されきれいになりました。


このみよを はつくにしらす(34-24)
みまきのよ たみたのしめば
きみやすく(34-25)



この御世を「肇国(はつくに)・全国統治したことを知らしめした初めての天皇の意味」の「みまきの世」と称えられました。
万民がこの世を謳歌したので、君(崇神天皇)は心がやすまりました。

ジョンレノ・ホツマ

34-21~23 .詔(みことのり)、平和な世に感謝し、今後を考える

16 .詔(みことのり)、平和な世に感謝し、今後を考える(34-21~23)



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 そふやよいそひ(34-21)
みことのり あまつひつぎを
われつぎて あめのおふひも
やすからず



みづかき宮の十二年三月十一日に、詔がありました。
私、(崇神天皇)は天の日嗣を受け継いでから、天の追う日も(毎日が追われるようで)平穏ではなかった。(気が気ではなかった)



 めおあやまりて(34-21)
ついでせず ゑやみおこりて(34-22)
たみおえず


陰陽(めお・天地)が違って(乱れて)、継いで(順番や自然の流れの法則)が機能しなくなり(天候不順になり)、疫病が起こり(発生し)、民を死なせてしまった。




 つみはらわんと(34-22)
あらためて かみをうやまひ
おしえたれ



この罪(汚れ)を掃い清めるために、改めて神を敬い、神の教えに従ってきました。




 やおのあらびと(34-22)
いまなれて もろたのしめば(34-23)
かんかえて


八方にいた荒人(乱暴者)も祀いました。その結果、今やっと、平和になって民(諸人)が楽しく暮らせる世の中になりました。そこで、この平和な世に感謝して今後のことを考えました。



ジョンレノ・ホツマ


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34-20. 「おおたたねこ」が戦死者の「おとく祀り」を

15. 「おおたたねこ」が戦死者の「おとく祀り」を(34-20)



 あきたゝねこに(34-20)
おれがれの おとくまつりを



君(崇神天皇)は、この秋に「おおたたねこ」に、今度の「おれがれ」(戦死)した犠牲者の「おとく」(苦しんでいる緒を解きほどく・供養をする)の祀りをするようを命じました。



はしづかに なせばかゝやく(34-20)
のりのいち(34-21)


「おおたたねこ」は、この「おとく」祀りを「はしづか」古墳で行ないました。そうすると、辺りは明るく照り輝き、神の宣告(のり)で太市は賑わうようになりました。

34-19~20. 遠方の国へ向かった教えどが戻り、平穏になる

14. 遠方の国へ向かった教えどが戻り、平穏になる(34-19~20)



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ここで、前に戻ります。

そひうづき そむかよみちの(34-19)
えびすむけ きみにつぐれば(34-20)
くにやすく




みづかき宮十一年四月十六日、四方(よも)の「おしえど」(教導人)は遠方の国(えびす)に向かった内容を君に報告しました。皆、朝廷に平穏に帰伏しました。


ジョンレノ・ホツマ
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34-17~19. ももそ姫を「はしづか」に埋葬する

13. ももそ姫を「はしづか」に埋葬する(34-17~19)



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 おいちにうづむ(34-17)
はしづかや(34-18)




太市に埋葬したのが箸塚古墳です。


 ひるはひとでに(34-18)
よはかみの おゝさかやまの
いしはこび もろあひつぎて
たごしがて


昼は人力で、夜は神の力で、逢坂山の石を運びました。諸人が並び継いで、次から次へと手渡し(手越し)で石を運びました。



 はかなるのうた(34-18)
おほさかも つきのかおそえ(34-19)
いしむらを たごしにこさば
こしがてんかも



お墓が完成した時の歌。
逢坂も継の顔を添えて(並べて)、石群(いしむら)を手越しに越さば、越(こしらえる)が、天かも。
逢坂山の石も次々と手渡しで運べばできるということだ。

この綾により、現在発掘中の箸塚古墳は「卑弥呼」の墓か?と騒がれていますが、「ももそ姫」の墓であることがわかります。「ももそ姫」が「卑弥呼」と同一人物と仮定するには、魏志倭人伝の記述から難しいことが分かります。
もっと「卑弥呼」と呼ばれるにふさわしい人の存在が浮かび上がってきます。なぜ「卑弥呼」とよばれたか、同時に「邪馬台国」の本来の意味もやっと見えてきました。


ジョンレノ・ホツマ
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34-16~17 .恥をかかせた姫は自害する

12 .恥をかかせた姫は自害する(34-16~17)



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 おほがみはぢて(34-16)
ひとゝなり なんぢしのびず
わがはぢと おほそらふんで(34-17)
みもろやま



大神は大変恥じて、人の姿になって、汝は私の言いつけを守れず、私には取り返しのつかない恥である。と言うやいなや、大空を駆け上がり「みもろ山」(三輪山)に消え失せてしまいました。



 ひめあほぎはぢ(34-17)
つきおるに はしにみほどを
つきまかる



ももそ姫は、仰ぎ見ながら、恥をつかせてしまった。
箸で御陰を突いて自害された。

というのが大方の取り方ですが、この不自然な記述について、私は本当のことは部外者には洩れては困る秘密が隠されているように思えます。


「ももそ姫」の秘密については下記も参照ください。
http://jhonreno.exblog.jp/12312639/



34-15~16. ももそ姫、櫛笥の中に子蛇を見てしまう

11. ももそ姫、櫛笥の中に子蛇を見てしまう(34-15~16)




もゝそひめ こゝろあやしく(34-15)
あくるあさ くしげをみれば(34-16)
こへびあり ひめおどろきて
さけびなく



「ももそ姫」は不思議に思い(こころあやしく)、
明くる朝、櫛笥を開けて見ると、そこには小蛇が入っていました。「ももそ姫」は驚いて大声で叫び泣いてしまいました。

櫛笥、子蛇は何を意味しているのか、意図しているのか、何を隠しているのか、興味の湧く所です。

34-14~15. ももそ姫、大物主の妻になり主の姿を見たいと思う

10. ももそ姫、大物主の妻になり主の姿を見たいと思う(34-14~15)



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ここから、話しが変わります。


もゝそひめ おほものぬしの(34-14)
つまとなる




「ももそ姫」が「おおものぬし」の妻になりました。



 よにはきたりて(34-14)
ひるみえず あけなばきみの
みすがたを みんととむれば
かみのつげ(34-15)


どういうわけか、夜になると主は来て、昼間は姿を見せません。姫は明け方に君(主)のお姿を見たいと願い、お帰りになるのを留めようとしたところ神のお告げがありました。




 こといちじるし(34-15)(こといとじるし)
われあした くしげにいらん
わがすがた なをどろきそと




その願いははっきりわかります(著しい)。
我は明日、櫛笥(くしげ)に入っているので、我が姿を見ても決して驚かないでくれ。と言って消えました。



ジョンレノ・ホツマ

34-12~13. 遠方の国の平定に向かう

9. 遠方の国の平定に向かう(34-12~13)




 めつきはつひに(34-12)
みことのり(34-13)



その年(みづかき宮十年)の十月一日、詔がありました。



 うちはむけれど(34-13)
とつあるゝ よみちのいくさ
たつべしと すえふかにたつ (たつべきと:小笠原写本)
よものおしゑど



うち(やまとの国内)は平定できたが、遠くにある国々は、まだ争いが絶えない。よって、「よ」(四)「みち」(道・方面)の軍(いくさ)に行くべしと、十月二十二日(末の二日)に出発しました。
この将軍のことを四方(よも)の「おしえど」(教導人)と言いました。


なお、この内容については、(33-36~39)前の綾でみづかき宮十年七月にも同じ詔りをされており、多少前後関係が混乱されているかもしれません。


34-11~12. 「はにやす」を射ち殺し、反乱は治まる

8. 「はにやす」を射ち殺し、反乱は治まる(34-11~12)



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 さきあらそいて(34-11)
はにやすが いるやあたらず
くにふくが いるやはあたる
はにやすが むねうちころす



言い終わるや否や、双方が先を争って矢を放ちました。「はにやす」が射った矢は当たらず、「くにふく」が射った矢は当たりました。
矢は「はにやす」の胸に突き刺さり、「はにやす」を討ち殺しました。



そのいくさ やふれにくるを(34-12)
おひうてば わきみわきみと
ながれさる



その軍(いくさ)は大将が討たれてしまい、敗れた兵たちは我先に逃げ途惑いました。敗れたその兵たちに追い討ちをかけると我が君、我が君と叫びながら流れ去りました。



 いくさおさめて(34-12)
みなかえる




反乱も無事治めて、皆、都に凱旋しました。


34-9~11. 「おおひこ」は川下から「はにやすひこ」は川上から挑む

7. 「おおひこ」は川下から「はにやすひこ」は川上から挑む(34-9~11)



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 またおゝひこは(34-9)
しもみちに わからあからと (わからあくら:小笠原写本)
あひいどむ


また(一方)、「おおひこ」は下道(しもみち)を進み、「わから」(我・地・下から)と「あから」(天・上から)川を挟んで相挑みました。
「わからあから」は、「あわ」の歌の、おしまいの「わ」、はじめの「あ」より、「隅から隅まで」・「隈なく」とか、「一網打尽」とか「ねずみ一匹逃さず」の意味合い。



 はにやすひこは(34-9)
かわきたに ひこくにふくを(34-10)
みていわく なんちなにゆえ
こはむぞや




反乱を起こした「はにやすひこ」は川北(川上)に陣取って、「ひこくにふく」を見下して、汝、何ゆえに邪魔立てをするのだ。と言いました。



 くにふくいわく(34-10)
これなんぢ あめにさかふを
うたしむと(34-11)



「くにふく」(ひこくにふく)が答えていわく、これ汝、君の勅命により、天に逆らう、おぬしの事(賊)を征伐しにまいった。

34-8~9. ならさかで「ひこくにふく」は手合いで勝つ

6. ならさかで「ひこくにふく」は手合いで勝つ(34-8~9)




 ひこくにふくは(34-8)
やましろの わにたけすきに
いんべすへ つわものひきて
いくさだて


「ひこくにふく」は「やましろ」の「わにたけすき」坂に「いんべ」(器・戦勝祈願のため、器に御神酒を入れ神に祭った)をすえて(清めて)軍を率いて軍(いくさ)に発ちました。
特攻隊が、御神酒がなく水杯(みずさかずき)で清めてから、死を覚悟して出撃したということを思い出し、この頃からの風習であったことに驚きます。



きかやふみむけ(34-8)
てがしわの いくさまづかつ(34-9)
ならざかぞ



生い茂った木や茅(萱・かや・イネ科の植物)を踏み分けて、「てがしわ」(手合い・前哨戦)の戦にまず軽く勝ちました。この地のことを「ならざか」と言います。


ジョンレノ・ホツマ

34-7. 「おおひこ」と「ひこくにふく」は「はにやすひこ」を征伐に

5. 「おおひこ」と「ひこくにふく」は「はにやすひこ」を征伐に(34-7)




おゝひこと ひこくにふくと(34-7)
むかわしむ(34-8)



「おおひこ」(やまとあえくに・八代目開化天皇の兄)と「ひこくにふく」(七代目孝霊天皇の子供)の二人を「はにやすひこ」の征伐に向かわせました。


ジョンレノ・ホツマ

34-7. 詔が発せられ、「いさせり皇子」は「あだ姫」を打ち破る

4. 詔が発せられ、「いさせり皇子」は「あだ姫」を打ち破る(34-7)


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みことのり いさせりみこを(34-7)
おゝさかえ むかひあだひめ
うちやぶり ついにころしつ


崇神天皇から、詔が発せられました。「いさせり皇子」(七代目孝霊天皇の子供)を「逢坂山」へ向かい征伐しに行きました。そして、「あだ姫」を打ち破り最後には殺しました。

ここに出てくる「あだ姫」の「あだ」が、「あだを討つ」とか「あだ討ち」の語源になったと考えられます。

34-5~6. 「たけはにやす」と「あだ姫」が謀反(むほん)を起こす

3. 「たけはにやす」と「あだ姫」が謀反(むほん)を起こす(34-5~6)



はやはかれ もろはかるうち(34-5)


君(崇神天皇)は早速、計画を行動に移すため諸臣を集めて諮りました。




はやすでに たけはにやすと(34-6)
あたひめと いくさおこして


はやくも、既に「たけはにやす」と妻の「あだ姫」が、反旗をひるがえして軍(いくさ)を起こしました。



やましろと つまはおゝさか(34-6)
みちわけて ともにおそふを




反旗をひるがえした「たけはにやす」は「山城」側から、同じく妻の「あだ姫」は「逢坂山」側から、道分けて(それぞれ逆方向から挟み撃ちして)同時に襲ってきました。




34-4~5 .ももそ姫は謀反者を知る

2 .ももそ姫は謀反者を知る(34-4~5)



もゝそひめ うまれさとくて(34-4)
これをしる


「ももそ姫」は生まれつき聡明でこの内容を直感的に理解しました。



 きみにもふさく(34-4)
これしるし たけはにやすの
そむくなり



そして、君(崇神天皇)に申し上げました。これは悪い前兆です。「たけはにやす」の謀反に違いありません。



 われきくつまの(34-4)
あたひめが かぐやまはにを(34-5)
ひれにいれ いのりてくにの
ものざねと これにことあり




私が聞いた所によると、「たけはにやす」の妻の「あた姫」が香具山の土を取って、「ひれ」(布・ふろしきのようなもの)に入れていました。これは、何とか国を手に入れたいと祈っていると思われます。

「ものざね」(物事の素にになるもの・物の種・思いをかたちに換えようとしていることをしめしている)
このことを乙女は歌っていたと思われます。

34-1~3. 反乱を知らせる乙女の歌

1. 反乱を知らせる乙女の歌(34-1~3)

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今日から34綾です。

みまきの御世、任那の綾 後世の十代崇神天皇:みまきいりひこ になります。




1. 反乱を知らせる乙女の歌(34-1~3)

みづかきの とほなのそなか(34-1)
こしのおし おゝひこかえり
もふさくは


みづかき宮の十年九月十七日(「と」=十、「ほ」=年・歳、「な」=な月・菊な月・九月、「そ」=十、「な」=七、「か」=日)、越の国に勅使(おし)として派遣された「おおひこ」が、君(崇神天皇)に、帰って申し上げました。


 ゆくやましろの(34-1)
ならさかに おとめがうたに(34-2)
みよみまき いりひこあわや
おのがそゑ ぬすみしせんと
しりつどを いゆきたがひぬ



まえつどよ いゆきたがひて(34-3)
うかがわく しらじとみまき
いりひこあわや


「おおひこ」(やまとあえくに・八代目開化天皇の兄)は京都へ向かう途中の「やましろ」の「ならさか」に至ったとき、乙女が歌っていた歌が聞こえてきました。その歌の内容は、
御世(みよ)の「みまきいりひこ」(崇神天皇)は危ぶない・絶体絶命です。貴方(崇神天皇)の「そえ」(部下・要人・県主)が、貴方の政権を盗もう(国盗り)とたくらんでいます。
「後のつ戸」(背後・奥方のことを示す)からいったりきたり様子をうかがっていて君に背いています。

[前のつ戸]からも行ったりきたり様子をうかがって、国を奪おうと君に背いています。
知らないのは「みまきいりひこ」貴方だけですよ。「みまきいりひこ」は危ぶない・絶体絶命です。
(この歌は33綾にも全く同じものが重複しています。)



しるしかと きみこれはかる(34-3)


これは、何かの悪い前兆ではないかと、君(崇神天皇)はこのことを皆に諮(はか)りました(相談しました)。