ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)33

 (最新見直し2009.3.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ホツマツタエは、古代大和ことばのホツマ文字といわれる図象文字で綴られた全文で40アヤ(章)、五七調で一万余行に及ぶ叙事詩で、大和王朝前の御代の神々の歴史、文化、精神を詠っている。作者は、前半の天の巻、地の巻の1章~28章を櫛甕玉命(クシミカタマの命、鴨彦、神武時代の右大臣)、後半の人の巻29章~40章を三輪の臣である大直根子命(オオタタネコ、三輪秀聡、景行天皇時代)が編纂、筆録したと記されている。古事記、日本書紀と原文で詳細に比較するとホツマツタエを原本としている事が判明しており、いわば記紀原書の地位にある。

 2009.3.19日 れんだいこ拝


【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)33、ミマキの御世任那の文】
 みかど崇神(すじん)の御世(みよ)―伝染病を退治し、初めて平和国家を樹立する

33綾 目次 神を崇めて、疫病を退治する綾

1. 「いそにゑ」皇子は「みまきいりひこ」(崇神天皇)に即位(33-1~3)
2. 「みまきいりひこ」(崇神天皇)のお妃たち(33-3~5)
3. 崇神天皇の子供たち(33-6~7)
4. 「みずかき宮」三年、新しい都を磯城の「みずかき」に(33-7)
5. 「みずかき宮」四年、崇神天皇の詔(33-7~10)
6. 天照大神の御霊を「とよすき姫」に祭らせる(33-10)
7. 「おおくにたま」の御霊は「ぬなぎ姫」に祭らせる(33-10~11)
8. 崇神天皇は新たに三種の神器を作り直します(33-11~12)
9. 「みずかき宮」五年、疫病で、国民の半数が死滅、神に乞う(33-12~13)
10. 二つの宮を本格的に再建(33-13)
11. 「みずかき宮」六年「おおくにたま」の御霊を「山辺の里」に(33-13)
12. 天照大神の宮を遷す(33-13~14)

13. 「いろ」の「つずうた」が詠まれた(33-14~15)
14. 「みずかき宮」七年、詔して「あさひのはら」(丹波)に御幸(33-15~17)
15. 「ももそ姫」に神が乗り移り「さつさつずうた」が告げられた(33-17~18)
16. 神様の名前を聞いて、大物主との答えを得た(33-18)
17. 神の意向が得られず、夢の中で「おおたたねこ」を斎主に(33-19~21)
18. 三人が夢で見た神のお告げの内容を崇神天皇に(33-21~23)
19. 自分の見た夢と同じに驚き、「おおたたねこ」を探す(33-23)
20. 「おおたたねこ」を尋ねて「ちぬすえ村」へ御幸する(33-24~25)
21. 「いきしこ姫」にも占わせる(33-25~26)
22. 神祭りをし、神名帳を編纂、「かんべ」を定め、神を崇める心が天に通じる(33-26~28)
23. みずかき宮八年「たかはしいくひ」が神酒を作り奉る(33-29
24. 御幸し、「いくひ」の作った酒で御饗(みあえ)する(33-29~33)
25. みずかき宮九年、夢に神の告げ、罪人の霊が疫病を引き起こしている(33-33~35)
26. みずかき宮十年、詔り、平和が甦る(33-36)
27. 遠方の国では受け入れていないので勅使を派遣する(33-36~37)
28. 「おおひこ」を越の国へ(33-37)
29. 「たけぬながわけ」は、ほづま(関東)へ(33-37~38)
30. 「きびつひこ」を山陽道へ(33-38)
31. 「たにわちぬし」を丹波へ(33-38~39)

32. 「おおひこ」は乙女の歌で危険を知り引き返す(33-39~42)
みまきみよみまなあや     ミマキの御世 任那の文
みつかきの そな    瑞籬の       十年 九月の十七日
こしをし おおひこかえり    越の治人      オオヒコ 帰り
もふさくは ゆくやましろの    申さくは      「行く山城
ならさかに おとめうたに    奈良坂に      少女が歌に
みよみまき いりひこあわや    『みよ ミマキ    イリヒコ あわや
おのそゑ ぬすみしせんと    己が副       盗み 殺せんと
しりつお いゆきたかひ    後つ門を      い行き違ひぬ
まえつよ いゆきたかひて    前つ門よ      い行き違ひて
うかかわく しらとみまき    窺わく       知らじとミマキ
いりひこあわや          イリヒコ あわや』
しるしかと きみこれはかる    徴かと       君 これ 諮る
ももそひめ うまれさとくて    モモソ姫      生れ 聡くて
これしる きみにもふさく    これを知る     君に申さく
これしるし たけはにやすの    「これ 徴      タケハニヤス
そむくなり われきくつまの    背くなり      我 聞く 妻の
あたひめか かくやまはにお    アタ姫が      香久山埴
ひれいれ いのりくにの    領巾に入れ     祈りて地の
ものさねと これにことあり    物実と       これに如あり(これに相違なし)
はやはかれ もろはかるうち    早や謀れ」     諸 謀る内
はやすてに たけはにやすと    早や既に      タケハニヤスと
あたひめと いくさおこして    アタ姫と      軍 起して
やましろと つまおおさか    山城と       妻は大坂
みちわけて ともおそふお    道 分けて      共に襲ふを
みことのり いさせりひこお    御言宣       「イサセリヒコ
おおさかえ むかひあたひめ    大坂へ」       向かひ アタ姫
うちやふり ついころし    討ち破り      遂に殺しつ
おおひこと ひこくにふくと    オオヒコと (ハニヤスの異母兄弟)     ヒコクニフクと (チチハヤの孫)
むかわしむ ひこくにふくは    向わしむ      ヒコクニフクは
やましろの わにたけすきに    山城の       ワニタケスキ
いんへすえ つはものひきて    斎瓮 据え      兵 率きて
 いくさたて きかやふみむけ    軍 立て       木茅 踏み平け
 てかしわの いくさまつかつ    手柏の       戦 まず勝つ
ならさかそ またおおひこは    奈良坂ぞ      またオオヒコは
しもみちに わからあくらと    下道に       ワカラアクラ
あひいとむ はにやすひこは    合ひ挑む      ハニヤスヒコ
かわきたに ひこくにふくお    川北に       ヒコクニフクを
いわく なんちなにゆえ    見て曰く      「汝 何故
こはむそや くにふくいわく    拒むぞや」     クニフク 曰く
これなんち あめさかふお    「これ 汝      に逆ふを
うたしむと さきあらそいて    討たしむ」と    先争いて
はにやすか いるあたら    ハニヤスが     射る矢 当らず
くにふくか いるやはあたる    クニフクが     射る矢は当る
はにやすか むねうちころす    ハニヤスが     胸 撃ち殺す
そのいくさ やふれにくるお    その軍       破れ逃るを
おひうては きみわきみと    追ひ討てば     「我君 我君」と
なかれさる いくさおさめて    流れ去る      軍 収めて
みなかえる めつきはつひに    皆 帰る       十月初日
みことのり うちむけれと    御言宣       「内は平けれど
とつあるる みちいくさ    外方 粗るる     四道の軍
たつへしと すえにたつ    発つべし」と    二十二日に発つ
よもをしゑと          四方の教え人
ももそひめ おおものぬしの    モモソ姫      オオモノヌシ
つまなる にはきたりて    妻となる      「夜には来りて
ひるみえ あけなはきみの    昼 見えず      明けなば君の
すかたお んととむれは    御姿を       見ん」と留むれば
かみつけ こといちしるし    神の告げ      「言 著し
われあした くしけいらん    我 朝方       櫛笥に入らん
わかすかた おとろきと    我が姿       な驚きそ」と
ももそひめ こころあやしく    モモソ姫      心 怪しく
あくるあさ くしけおみれは    明くる朝      櫛笥を見れば
へひあり ひめおとろきて    小蛇あり      姫 驚きて
さけひなく おほかみはちて    叫び泣く      大神 恥ぢて
ひとなり なんちしのひ    人と成り      「汝 忍びず
わかはちと おほそらふんて    我が恥」と     大空 踏んで
みもろやま ひめあほきはち    御諸山       姫 仰ぎ 恥ぢ
つきおるに はしみほとお    つきおるに     箸に陰没を
つきまかる おいちうつむ    突き罷る      大市に埋む
はしつかや ひるひとてに    箸塚や       昼は人手に
かみの おおさかやまの    夜は神の      大坂山
いしはこひ もろあひつきて    石 運び       諸 合ひ継ぎて
たこしかて はかなるうた    手輿 担て      墓 成るの歌
おほさかも つきそえ   『大坂も       月の光を 添え(人足の頭数を加え、夜間も)
いしむらお たこしこさは    石群を       手輿に越さば(担架で運べば)
こしかてんかも          越し勝てんかも』 (運び尽くせるかも)
そひうつき そむみちの    十一年四月     十六日 四道の
えひすむけ きみつくれは    エビス (蝦夷)平け     君に告ぐれば
くにやすく あきたたねこに    地 安ぐ       秋 タタネコ
おれかれの とくまつりお    折れ枯れの      解く祭を
はしつかに なせかかやく    箸塚に        なせば輝く
 のりのいち            祝の市
そふやよいそひ              十二年三月十一日
みことのり あまつひつきお    御言宣       「天地つ日月を 
われつきて あめのおふひも     我 継ぎて      陽陰の和ふ日も
やすから めをあやまりて    安からず      陰陽 誤りて(乱れて)
ついてせす ゑやみおこりて    ついて(対処) せず     穢病 起りて
たみをえす つみはらわんと    民 汚穢す      罪 祓わんと
あらためて かみうやまひ    改めて       神を敬ひ
をしえたれ やをあらひと    教え 垂れ      八方の粗人
いまなれて もろたのしめは    今 平れて      諸 楽しめば
 かんかえて おさいとけの    考えて       長と幼の
みちあけ たみにおおする    道を散け      民に負する
 いとまあけ ゆはすたすえの    暇 空け       弓弭 手末
みつきとめ たみにきはせて    貢 止め       民 賑はせて
そろのとき なおりやすく    繁の研」      直りて安ぐ
このみよお はつくにしらす    この御世を     "果つ国 精らす
 みまき            美きの世"
たみたのしめは              民 楽しめば
きみやすく きさきおえて    君 安ぐ       后も生え[栄え]て
すけやさか といちもふて    スケ ヤサカ     十市に詣で
 うむみこは とちにいりひめ    生む御子は     トチニイリ姫
ふそむとし ねつきはつひに    二十六年      十一月初日
みまきひめ しきにうむみこ    ミマキ姫      磯城に生む御子
とよきひこ いむなしきひと    トヨキヒコ     斎名 シギヒト
ふそことし はつひをうとに    二十九年      初日 ヲウト(元日)に
きさきまた うむみこいくめ     また       生む御子 イクメ
いりひこの いむなゐそさち    イリヒコの     斎名 ヰソサチ
 みそやとし あきはつき    三十八年      秋 八月五日
きさきの くにかたうちめ    后の妹       クニカタ内侍
うむみこは ちちつくわひめ    生む御子は     チチツクワ姫
よそむつき すえうむ    四十年一月     二十八日 子 生む
いかつるの いむなちよきね    イカツルの     斎名 チヨキネ
よそやとし はつをあゑ    四十八年      一月十日 ヲアヱ
とよきみと いくめきみとに    トヨ君と      イクメ君とに
みことのり なんちめくみ    御言宣       「汝ら 恵み 
ひとしくて つきしることの    等しくて      継ぎ領る事の
ゆめへし ともゆあひ    夢 すべし」     共に湯浴し
ゆめなして とよきもふさく    夢 為して      トヨキ 申さく
みもろに むきたひ    「御諸上に      東に向き 八度
ほこゆけ いくめもふさく    矛遊戯し」     イクメ 申さく
みもろゑに よもなわはり    「御諸上に      四方に縄 張り
すすめおふ きみこのゆめお    雀 追ふ」      君 この夢を
かんかえて あにかゆめたた    考えて       「兄が夢 ただ
ひかしむき ほつまをさめよ    東 向き       ホツマ 治めよ
おとよも たみをさむる    弟は四方      民を治むる
よつきなり そこつみゑ    世嗣なり」     四月十九日 ツミヱ
みことのり ゐそさちたてて    御言宣       ヰソサチ 立てて
よつきみこ とよきいりひこ    世嗣御子      トヨキイリヒコ
 ほつまつかさそ          ホツマ司
みまなあや           【任那の文】
みつかきの ゐそやはつき    瑞籬の       五十八年八月
 みゆきて けゐおおかみに    御幸して      契大神(ホオテミ)に
もふてます もろいわふとき    詣でます      諸 斎ふ時
つのひと あるひとここに    角 一つ       有る人 ここに
たたよえ ことはきき    漂えり       言葉 聞き得ず
はらとみ そろりよしたけ    ハラの臣      ソロリヨシタケ
よくしれは これとはしむ    良く知れば     これに問はしむ
そのこたえ われからくに    その答え      「我は加羅国
きみみこ つのかあらしと    君の御子      ツノガアラシト
ちちは うしきありしと    父が名は      ウシキアリシト
つたえきく ひしりきみに    伝え聞く      聖の君に
まつらふと あなといたる    服ふと       穴門に至る
ゐつつひこ とみいわくは    ヰツツヒコ     臣に曰くは
このくにの きみはわれなり    『この国の     君は我なり
ここおれ ひとなりみれは    ここに居れ』    人なり見れば
きみなら さらにかえりて    君ならず      新に返りて
みやこと うらしまたつね    都路と       浦・島 訪ね
いつもて ややここつく    出雲 経て      ややここに着く
かみまつり きみここにあり    神祭        君 ここにあり」
かれつのか めしつかえは    故 ツノガ      召して仕えば
まめありて とせたまふ    忠 ありて      五年に賜ふ
みまな かそみねにしき    名は "ミマナ"    上熟錦
くにつとに かえるあらしと    国苞に       帰る アラシト
みまなくに これたちそめそ    任那国       これ 建初めぞ
これのさき あめうしもの    これの先      アメ牛に物
おほせやり あらしとゆけは    負せ遣り      アラシト 行けば
うしみえ をきないわく    牛 見えず      翁の曰く
これおすに さきもふけて    「これ 推すに    『先に儲けて
これくわん ぬしきたりなは    これ 食わん     主 来たりなば
あたいん すてころし    価せん』       既に殺しつ
もしさきて あたいおとはは    もし先で      価を問はば
まつるかみ んとこたえよ    祭る神       得んと答えよ」
たつぬれは むらきみうしの    探ぬれば      村君 牛の
あたいとふ こたえてまつる    価 問ふ       答えて「祭る
かみゑんと かみしらいし    神 得ん」と     神の白石
もちかえり ねやおくいし    持ち帰り      寝屋に置く石
なるおとめ あらしとこれと    成る乙女      アラシト これと
とつかんと おもひゆくに    婚がんと      思ひ行く間に
ひめうせぬ かえりおとろき    姫 失せぬ      返り驚き
つまとふ いわくおとめは    妻に問ふ      曰く「乙女は
きささる あとたつねて    東南に去る」    跡を探ねて
おひいたり ふねうかめて    追ひ出たり     船を浮めて
ついいる やまとなみはの    遂に入る      ヤマト浪速
ひめこその みやよりいてて    ヒメコソの     宮より出でて
とよくにの ひめこそみやに    豊国の       ヒメコソ宮
かみなる            神となる
ときあらしと              時にアラシト
もとくにに かえさみやけ    本国に (加羅国)      帰さに土産
うはわれて しらきくにと    奪われて      新羅の国と
あたおこり まみなつかひ    仇 起り       任那の使
つけいわく わかくにきねに    告げ曰く      「我が国 東北に
はえあり かみなかしもの    三栄えあり     上・中・下の
くにひろく よもみものりの    地 広く       四方 三百延の
つちこえて たみゆたかなり    土 肥えて      民 豊かなり
いますてに しらきあたに    今 既に       新羅の仇に
をさめ ほこたつねて    治め得ず      矛を尋ねて
たみいきす とみねかわくは    民 息す (=生きる)       臣 願わくは
くにむけの をしこふのみ    国平けの      御使を請ふのみ」
きみとみと はかれいわく    君 臣と       議れば曰く
くにふくの まこしほのりつ    「クニフクの    孫 シホノリツ
これよしそ かふへこふ    これ 好しぞ」    頭の三瘤
まつきみ せいたけ    松の君       背 一丈五尺
やそちから いさみはけしく    八十力       勇み 激しく
みことのり しほのりひこお    御言宣       「シホノリヒコを
みまなをし ゆきとくにむく    任那御使      行き 外国 平く
みちつかさ かえれよしと    道司」        帰れば "吉" と
かはねたまひ          姓 賜ひき
むそふつき そよみことのり    六十年七月     十四日 御言宣
たけひてる むかしささけ    「タケヒテル     昔 捧げし
かんたから いつもあるお    神宝        出雲に在るを
 みまくほし たけもろすみお    見まく欲し」    タケモロズミ
つかわせは かんぬしふりね    遣わせば      神主フリネ
かんほきに つくしゆきて    神祝に       筑紫に行きて
ゐいりね みやよりいたし    弟 ヰイリネ     宮より出し杵築宮)
おとうまし からひさの    乙弟 ウマシ     カラヒサと子の
うかつくぬ そえささくる    ウカツクヌ     添えて捧ぐる
のちふりね かえてゐいりね    後 フリネ      帰えて ヰイリネ
せめいわく いくかまた    責め曰く      「幾日も待たで
なとおそる いつもかみの    何ど恐る      出雲は上の(上代の)
 みちもと やもよろふみお    道の本       八百万文を
かくしおく のちさかえお    隠し置く      後の栄えを
おもわんや たやすくたすと    思わんや      容易く出す」と
うらみか しのひころすの    恨みしが      忍び殺すの
こころあり あにふりねか    心 あり       兄のフリネが
あさむきて やみやたまも    欺きて       「ヤミヤの玉藻
はなかよみ ゆきんとてそ    花暦        行き見ん」とてぞ
さそひくる おとうなつきて    誘ひ来る      弟 頷きて
ともゆく あにはきたちお    共に行く      兄は木太刀を
ぬきおきて みつあひよへは    脱ぎ置きて     水 浴び 呼べば
おともまま あにまつあかり    弟もまま      兄 まず上がり
おとかたち はけおとろき    弟が太刀      佩けば驚き
ゐいりねも あかりてあにか    ヰイリネも     上がりて兄が
きたちはく あにたちぬきて    木太刀 佩く     兄 太刀 抜きて
きりかくる ぬかたちに    斬り交くる     抜かれぬ太刀に
ゐいりねは やみやみふちに    ヰイリネは     闇々 淵に
 きえうせぬ よにうたふうた    消え失せぬ     万に謳ふ歌(大いに流行る)
やくもたつ いつもたけるか    『八雲たつ     出雲タケルが
はけるたち つつらさわまき    佩ける太刀      多巻き(柄巻は立派だけれども)
あわれさひなし          あわれ <刀身は> 錆 無し』
からひさは おいうかつくぬ    カラヒサは     甥ウカツクヌ
つれのほり きみつくれは    連れ上り      君に告ぐれば
きひひこと たけぬわけとに    キビヒコと     タケヌワケとに
みことのり ふりねうたれて    御言宣       フリネ 討たれて
いつもおみ おそれかみの    出雲臣       恐れて神の
まつりせす あるひひかとへ    祭 せず       ある日 ヒカトベ
わかみやに つくるわかの    若宮に       告ぐる我が子の
このころうた          この頃の歌
たまもしつ いつもまつらは    『玉藻 繁つ     出雲 祭らば
まくさま かよみおしふり    まくさま     日夜見御使 フリ(病むことは無いだろう)
みかかみ みそこたからの    ネ 神鏡       三十九宝の
みからぬし たにみくくり    神殻主       だに 罷くくり 霊
たましつか うましみかみは    魂 沈か       うまし斎上は
みからぬしやも          神殻主やも』
うたあや かみつけかと    歌の謂       神の告げかと
きみつけ いつもまつれと    君に告げ      「出雲 祭れ」と
みことのり            御言宣
むそふきなとの              六十二年 キナトの
あふみつき きみとつやゑ    七月        キミトはツヤヱ
みことのり たみわさもと    御言宣       民業は基
たのむとこ かうちさやまは    頼む床       河内 狭山
みつたら わさおこたれは    水 足らず      業 怠れば
なりはひの ためよさみと    生業の       ために依網
かりさかと かえおりゐけ    苅坂と       反折の池
ほらんとて くわまみやに    掘らんとて     桑間の宮
みゆきなる むそゐふつき    御幸なる      六十五年七月
みまなくに そなかしちて    任那国       ソナカシチして
みつきなす そのみちのりは    貢なす       その道程は
つくしより きたふちのり    筑紫より      北へ二千延
うみへたて しらきつさそ    海 隔て       新羅の西南ぞ
むそやとし しはすをなゑは    六十八年      十二月 ヲナヱは
ねあゑ きみこときれて    五日 ネアヱ     君 事切れて
ものいわ ゐねますことし    もの 言わず     寝ます如し
あくるとし ねやゑはつ    明くる年      ネヤヱ一月二日
あめひつき みよあらたまの    天地日月      御世新玉の
はつきそひ かみあかりとそ    一月十一日     神上りぞと
ふれて きみうちとみ    世に告れて     君と内臣
もはいり とのとみやはり    喪罷に入り     外の臣 やはり
まつりこと かんなそひに    政事        十月十一日
おもむろお やまへおくる    骸を        山辺に送る
このきみは かみあかめて    この君は      神を崇めて
ゑやみたし みくさたからお    穢病 治し      三種宝を
あらたむる そのことのりは    新むる       その言宣は
おほいなるかな          大いなるかな



 アスズ六百二十一年一月十三日、皇太子イソニエは五十二才の時即位して、ミマキイリヒコ天皇(アマツキミ)となられました。

 三年九日 磯城(シギ)のミズカキ宮を新都としました。
 四年十月二十三日、詔のり。
 私が天神皇祖から授かって受け継いだ三種神器は、クニトコタチの神璽(カンオシデ)とアマテル神のヤタ鏡、オオクニタマのヤエガキの剣です。
 この神器を宮中に祭りミト神(御トの教え、帝王学)として、常に敬い拝礼してきました。寝起きする殿床(とのゆか)も一緒なら、食事の器も同じくし、神と共に暮らしています。しかし近頃は、このように身近に気安く祭るのは、逆に神の威光を損なうのではないかと畏れを感じるようになり心が安まる日とてありません。
 アマテル神は笠縫(カサヌイ)の地に移しトヨスキ姫に祭らせ、オオクニタマは山辺(ヤマベ)の里に移してヌナギ姫に祭らせよう。鏡造りのイシコリドメの子孫と、剣打ちのアマメヒトツの子孫には、新たに鏡と剣を造らせてアマテル神の神璽(おしで)も合わせ三種神器として、今後はこの新しい三種(ミグサ)を皇室の日嗣(ひつぎ)の神宝と決めよう。

 五年 疫病(えやみ)が流行(はや)る。民の大半が死す。
 六年 万民離散し、国乱れる。
 君は神に敬けんな祈りを捧げます。このような人知を超えた疫病が再三襲って民を苦しめ政を危うくするのも、全ては罪深き己の至らぬ由縁である。今後は益々神を崇めて、民の生活(くらし)に思いをいたし、敬い、慎んで政治(まつり)を執ろう。どうか、己の罪をお許しください。
 早速、オオクニタマとアマテル神の二宮を新しく造らせて、遷宮の準備を整えます。
 六年 秋、遂に念願かなってオオクニタマの御魂(みたま)を山辺(ヤマベ、大和神社、奈良)にお移しになりました。
 翌九月十七日は、いよいよアマテル神を笠縫(カサヌイ、桧原神社、奈良)の社にお遷しする盛大な遷宮祭です。
 参拝者は引きも切らず続き、夜ともなると神前の豊(とよ)の明りが色良く灯り、天上からアマテル神が供の神々とそろって降りてまいります。神官は神饌を捧げてよっぴいてイロのツズ歌を唄い奉じました。(最初の一音がイ、折り返しの十音がロ、ツズは十九音で一小節)
 神の御饗(みあえ)は華やいで尽きることを知らず明け方まで続きます。
(イ)ざ遠し  悠基(ゆき)のよ(ロ)しも 大夜(おおよ)すがらも

(豊の明りは夜通し神を迎え、遠き天上の神々は宜しく下ります。)
 七年二月三日、詔のり。
 我が代々の皇祖(みおや)が、国造りのために開かれた基礎は偉大である。しかしながら我が世に至り被った災害の様な悲惨な状況はかって聞いたことがない。きっと我が神祭が不十分で、天に祈りが届かず咎めを受けたものと思う。今後は神の御心のままに極めねばならない。と宣いて、アサヒノ原天宮(現・比沼麻奈為神社、ヒヌマナイ、京都)に御幸されトヨケ神に詣でました。
 又、君は八百万の神々を招く湯の花神楽をモモソ姫に奉納させると、姫は神懸(かみがかり)になり、サッサツズ歌が告げられました。(初音のサ、折り返しにツ音、終わりの音がサのツズ歌) 去(サ)る民も ツズにま(ツ)らで 汚穢(おえ)に乱るさ(サ)

(オオタタネコの祖父オオミケヌシは九代ワカヤマト・ネコヒコ天皇(開化天皇)に対して、前天皇(八代ヤマトクニクル・孝元天皇)の后のイカシコメをイキシコメと名を変えて中宮に立てるのは良くないと諌言(かんげん・いさめ)するが聞き入れられず、大臣を下り民となってチヌ(茅渟、堺市、大阪)のスエ(陶器、堺市、大阪)村に蟄居した。その孫がオオタタネコ) 君はこの御神託を聞いて驚き、
 「かくお教え下さる神様は誰であるか」と問うと、
 「我は国神(くにのかみ)、大物主ぞ」と答えがありました。しかし、これ以上の神意(しんい)は得られませんでした。
 君は、斎戒沐浴(さいかもくよく)して更に告げ申すには、
 「我は神をこれほどまでに、敬えども、まだ受け下さらぬか」
 するとその夜の夢に、
 「我は大物主の神なるが、君よ憂えることなかれ。国が治まらないのは、我が意あっての事、我が裔(はっこ)のオオタタネコを斎主(いわいぬし)にして神を祭らせれば、国も無事治まり、海外の国(とおつくに)も自ら帰伏するであろう」
 八月七日、トハヤの娘のチハラメクワシ姫とオオミナクチとイセオウミの三人がミカドに告げ申すには、
 「夢に神託がありました。タタネコを大物主の斎主(いわいぬし)にして、シナガオイチをオオヤマトクニタマ神の斎主にすれば、疫病(えやみ)も去り国は天下泰平となります」
 君は、自分の夢と三人の夢が一致した夢合わせを大層喜んで、早速全国にオオタタネコを探す様お触れを発します。
 と、間もなくオオタタネコがチヌのスエ邑(むら)(スエアラタ・陶荒田神社 堺市、大阪)に居りますとの報告があり、君は八十人の供を引き連れチヌに御幸され、タタネコに直接問いかけました。
 「誰が子であるか」とお尋ねになるとタタネコの答えるには、
 「昔、物主(コモリ神)がスエツミの娘のイクタマヨリ姫との間に生んだオオミワ(カンタチ)神の子孫(はつこ)で、代々このスエ邑に住んでいます」これを聞いた君は、
 「この者こそ夢に見たオオタタネコに間違いない。これで我が世も天下泰平、栄えるであろう」と、大変喜んで親しくご歓談されました。
 十月一日、イキシコオに太占(フトマニ)を占わせ結果も吉兆と出たので、イキシコオに八十枚の平瓮(ひらか)を作らせて神祭りの用意を整え、オオタタネコをオオミワオオモノヌシ(大三輪大物主神 大神神社、奈良)の斎主に命じ、ナガオイチは、オオクニタマ(大和神社)の斎主を命じ、あまねく天下にお触れを出して、今度初めて神名帳も編纂して備えると神地神戸も定めて、八百万神(ヤオヨロズノカミ)を祭らせました。

 これをもって、神を崇める御心も天に通じて、やっと疫病(えやみ)も平癒(へいゆ)し、この年は、稲穂もたわわの豊作となって民の生活も豊かになり、再び平和がよみがえりました。
 八年四月四日、タカハシ邑のイクヒという者が、ミワ大神のために初めてお神酒(みき)を造り奉りました。その酒の味は大層美(うま)いとの評判です。
 十二月八日、オオタタネコにオオミワ神を祭らせて御幸されました。御饗(みあえ)の席でイクヒの造った酒を献上した所、君は心地良く歌われて、
この神酒(みき)は 我が神酒ならず
ヤマトなる 大物主の 神の神酒
イクヒサ造る 杉葉幾久(すぎばいくひさ)
(いつまでも造り続けよ 杉葉(酒林)よ 永遠に)
 御饗が終わると、今度は臣等が歌って
美酒(うまさけ)や 身はミワの殿(との)
朝戸(あさど)にも 出でて行かなん
ミワの殿(と)の戸(と)を
 この時、君は即座にこれを受けて返歌(かえしうた)を歌われました。
美酒(うまざけ)に 身はミワの殿
朝戸(あさど)にも 押し切らかねよ
ミワの殿(と)の戸(と)を
 美酒(うまざけ)と太平の世に酔いしれた君、臣等は一気に朝戸を押し開くと、御幸の宮を後にお帰りになりました。

 九年三月十五日夜、君の夢に神のお告げがあり、
 「赤、白、黄の幡矛(ほこ)立てて、神を祭れ。ウダのスミサカ(墨坂)も、オオサカ(逢坂)も、カワセサカ(河瀬坂)も、この三尾を残りなく祭れ。ここは罪科人(つみびと)等の死霊が迷い留まって、疫病を引き起こしている」と。

 四月二十二日、補佐役のオオカシマ(大暁島・伊勢神宮 神臣、初代神主)とタタネコ(大直根子・三輪臣、初代神主)に魂返しの法(のり)を祈らせました。その結果やっと明るい世が訪れました。

 十年七月二十四ネヤトの日、詔のり。
 民を治めるため教化に勤め、神意のままに神祭りを盛大におこない、やっと災いをほぼ克服することができたが、遠国(とおつくに)の荒人等(あらびと)は未だに法(のり)を守らず、我が詔のりを受けようとしない。故に、四方の国々に教使(おし)を派遣して、法(のり)を教化し、国の安定を計りたいと思う。
 九月九日、詔のり。
 オオヒコをコシ(越)の教使(おし)に、タケヌナガワケをホツマ(東海・関東)の教使(おし)に、キビツヒコをツサ(山陽道)の教使(おし)、タニワチヌシをタニワ(丹波)教使(おし)に任命する。
 もしも教えに従わない国神あらば、武力をもって討ち滅ぼせとの命が下りました。それぞれ神璽を賜わり、各将軍は兵を引きいて四方面に軍立(いくさだち)しました。
 十五日、オオヒコがヤマシロ(山背)ソエアガタ(添県神社・別名歌姫神社)のナラサカ(奈良坂町、奈良)に至った時のこと、どこからともなく少女の歌が聞こえてきました。
御世ミマキ イリヒコあわや 己が添人(そえ)
盗みしせんと 後(しり)つ戸を
い行き違(たが)いぬ 前つ戸よ
い行き違いて 窺(うかが)わく
知らじとミマキ イリヒコあわや(危急)
 オオヒコは、この意味ありげな歌を怪しんで、馬を引き返して少女に歌の訳を聞きました。少女が答えるには、
 「私は歌を唄うだけです。なにも存じません」と、言うやいなや又どこえともなく消え失せました。

 十年九月十七日、コシの教使(オシ)のオオヒコは、この歌に胸騒ぎを覚えて急ぎ軍を引き返し、ミズカキ宮に帰り着き君に申し上げるには、
 「ヤマシロのナラサカの少女が唄った歌は、しかじかかような内容の歌で悪い事の前兆ではないかと不安です。早急にご検討を願います」と申し上げました。
 君が、侍臣と協議を重ねている折に、常に君の政事(まつりごと)を助けて生まれつき聡明で予知能力に優れた姉のモモソ姫が君に申し上げました。
 「これは、タケハニヤスが謀反を起こす前兆です。彼の妻アダ姫がカグヤマの埴(はに・土)を領巾(ひれ)に入れ大切に持ち帰り、国の物実(ものざね)と称して、国を乗っ取ろうと祈っているのを知っています。この事に間違いありません。緊急事態です。早く決断を下してください」

 諸将が出発を延期して宮に留まって緊急作戦会議を始めるとまもなく、
「タケハニヤスはヤマシロから、妻(アダ姫)はオオサカ(現・逢坂、奈良)から、二人は共謀して二手に分かれ都を落とさんと反乱を起こし攻め上って来ます」との、ハヤキジ(伝令)が飛び込んできました。
 詔のりにより、イサセリミコをオオサカに追討の将として向かわしめ、ついに敵を打ち破りアダ姫(阿陀比売神社、奈良)を殺しました。
 オオヒコとヒコクニフクは、ハニヤスヒコ迎撃に向かわしめました。ヒコクニフコはヤマシロのワニタケスキ坂に斎瓮(いんべ)をすえ、戦勝祈願をして後、軍を引きいて軍立(いくさだち)して早々に、草木を踏み分け平(なら)しての白兵戦となり、まず手合い(勝負を試す)の戦いに軽く勝利を納めたこの地をナラザカ(現・奈良坂)と言います。オオヒコは下道(しもみち)を進み、川を挟(はさ)んで対戦し、兵供(つわものども)は我(ワ・地)から吾(ア・天)からと相挑みました。敵将のハニヤスヒコは川北(川上)に陣取って、ヒコクニフクを見下していわく、 「汝、何故邪魔だてするか」と。クニフクは答えていわく、
 「これ汝、天(あめ)に逆らう賊を成敗せんと、君の勅命により義兵を上げて討ちにまいった」と。言い終わるやいなや先を競ってお互い矢を放ったところ、ハニヤスが射る矢は当たらず、クニフクが射った矢はハニヤスの胸を貫通して討ち殺しました。大将を討たれたハニヤスの兵達は、混乱して我先にと逃げ惑います。その者達に追い討ちをかけると、
 「我君(わきみ)、我君」と悲痛な叫びを残しながら流れ去りました。ハニヤスの反乱も無事鎮圧し、全員宮に凱旋しました。

 十月一日、詔のり。
 大和国内は無事平定したが、遠国(とつくに)は未だにまつろわぬ乱暴者の騒動が絶えない。四道将軍達よ、今速やかに発つべし。二十二日、各将軍は四道に分かれて出発しました。この四方に派遣された将軍達を四方のオシエド(教導人)とも言います。

 モモソ姫が大物主の妻となる。
 夜になると主は来て、どうしたわけか昼には姿が見えません。
 ある日のこと、姫は何とか主人の尊顔を見たいと願い、明け方にお帰りを留めようとしますが、神の告げるには、
 「姫の願いはもっともなことだ。我は明朝必ず櫛笥(くしげ)に入っているので、我が姿を見ても決して驚かないでくれ」と言って去りました。
 モモソ姫は、この申し付けを不思議に思い、朝が来ると早速櫛笥(くしげ)を開けて見ると、小さな蛇がとぐろを巻いて入っていました。姫は驚きのあまり、おもわず泣き叫んでしまいました。 大神は、これを大変恥じて、人の姿になって現われて言うには、
 「汝は私の言いつけを守れず叫んでしまった。私には取り返しのつかない恥になった」と言うやいなや大地を蹴り大空跳んで駆け上り、ミモロの山(三輪山)に消え失せました。
 妻は、夫の去る方を仰ぎ見ながら、後悔のあまり後を追い箸(はし)で身陰(みほど)を突いて自害しました。モモソ姫の遺骸(いがい)を埋葬したのがオイチ(大市)の箸塚古墳(はしずか)です。
 この塚は、昼は人力により、夜は神の力でオオサカ山の石を運び築きました。諸人が並び継いで、手から手に石を渡して運び、ついに墓を築き上げました。
 墓が完成した時の喜びの歌。
オオサカ(逢坂)も 継(つぎ)の顔揃(ソ・添)え 石群(いしむら)を
手越(たごし)に 越さば 越(こし)がてんかも

(遠いオオサカ山の石も皆で次々と顔をそろえる様に手渡しして運べば乗り越えられぬ事はないさ) 十一年四月十六日、四道将軍が未開地征討から帰還して、各々が復命しました。
 「乱暴者等は、皆平和裏に朝廷に帰伏しました」との報告があり、君は安堵して国の安寧を確信しました。
 秋、君はオオタタネコに今度の軍立ちの犠牲者の供養を命じ、苦しみの霊(たま)の緒を解く祭りをハシズカ古墳上で盛大に行いました。群れ押し寄せる民の上に、神の法(のり)は照り輝きオイチ(大市)は大いに賑わいました。

 十二年三月十二日、詔のり。
 私が天(あま)つ日嗣(ひつぎ)を受けてからというもの、一日一日が追われるごとくで平穏な日とてなかった。天は陰(メ)と陽(オ)が乱れて天候不順が続き、ついには疫病が大流行して罪なき多くの国民を死亡させてしまった。
 私はこの罪や汚れを祓い清めんと心を改めて神を崇(うやま)い、神祇の教えに努めてきたおかげで、今やっと八方の乱暴者供もまつろい、平和で豊かな、民が楽しく暮らせる世の中に戻すことができた。
 この平安の世に感謝し深く考えた末、この度は成人と未成年者の区別を法をもって定めて若者を守るとともに、民に負担となる課役(かえき)を廃し、いとま明け(休養)としよう。又、男の弓端(ゆはず)の調(みつぎ)や、女の手末(たずえ・織物類)の調(みつぎ)も止めて、民の生活(くらし)に余裕を持たせて、豊かで賑わう国を造ろう。
 この秋には稲穂も大豊作となり、民の家屋も美しく整って、人々の暮らしや風俗も華やぎました。
 今、君の御心も安らかに、国の繁栄を心から楽しまれました。誰言うとなく、初めて国を平和に治めた御肇国(はつくにしらす)ミマキ天皇の世と称えました。

 四十八年一月十日、皇子(みこ)のトヨ君とイクメ君とに詔のり。
 「今日まで、汝等二人に平等に恵みを与えてきたが、今どちらか一人を日嗣(ひつぎ)皇子に選ばなければならない。ついては夢をもって占うので、二人とも沐浴(ゆあみ)して身を清め、日嗣の夢を見るべし」と、申されました。
 翌朝、兄のトヨギが申しあげるには、
 「ミモロの山に登って東を向き、八度矛遊戯(はちたびほこゆげ)をしました」
 次に、イクメが申さるは、
 「ミモロ山に登り、四方に縄を張って雀を追う夢をみました」と答えました。
 君は考えて、兄の夢は唯、東を向いているだけなのでホツマ(東海・関東)を治めよ。弟は四方の民を治める世嗣としよう。

 四月十九日ツミエ、詔のり。
 イソサチを立てて日嗣の皇太子とし、トヨギイリヒコをホツマツカサ(東国司)に任命しました。


ミマキイリヒコ天皇(人皇十代、崇神)
ツノガアラシトをミマナ(任那)国王に任命する。

 五十八年八月、君はツルガに御幸されケヒ大神(現・気比神宮)に詣でました。
 諸臣や北陸の国守達が集い、君に祝いの御饗をささげている処に、頭に角が一つある人物が、この北の津(現・敦賀市、福井)に船で漂い着きました。
 言葉が全く通じないので、ハラ(蓬莱山・現・富士山)のサカオリ宮(現・浅間神社、富士宮市、静岡)に使いを出し、外国語に詳しいハラの臣ソロリヨシタケを呼び寄せて、この者に質問させました。

 その答えは、こんな物語です。
 私は韓国(カラクニ・伽耶)の君の王子で、名はツノガアラシトと言います。父の名はウシキアリシトです。
 私が国に居た頃伝え聞いたところによると、日本国(やまと)には聖(ひじり)の君が居られると知り、君に服(まつら)おうと船出して、アナト(穴門国、山口県)に着きました。そこのイツツヒコなる者が、私にいわく、
 「この国の君は我なり。ここに居なさい」と申しました。しかし、その人となりがどう見ても品性卑しく君には見えませんでしたのでいったんは帰還して船出し、都への路を探して津々浦々を巡り、イズモを経てやっとこの地に着きました。
 幸い君が神祭りのためにご当地に御幸(みゆき)と聞き参上いたしました。どうか私をお召し下さい。

 君はツノガアラシトを召して仕えさせて見ると、忠義に厚く勤勉で、大変有能である事も解り、五年目には君ミマキイリヒコの名前の頭の二音をつけてミマというナ(名)の新国名をミマナとして賜いました。
 後、君はたくさんの国の産物やカゾミネ(緑の山々の模様)の綾錦織(あやにしき)を土産に持たせてアラシトを本国に送り出しました。これがミマナ(任那)建国の初めとなりました。

 アラシトの昔し話。
 黄牛(あめうし)に荷物を背負わせ、アラシトが旅行中のことです。少しの間、木陰で微睡(まどろ)んでいるうちに、いつしか牛の姿を見失ってしまい、たまたま近くに一軒の家があったので、そこの老人に聞いたところ、老人いわく、
 「荷物はもうとっくに盗まれちまい、牛もバレたら後で金を払えばいいとして、とっくに殺して食べられてしまったろうよ」
 「もしも、先に行って牛の値段を聞かれたら、この地の祭神(まつるかみ)が欲しいと答えりゃいい」
 牛の後を訪ね行くうち、この村の君が、牛の値段を聞いてきました。アラシトは老人に言われるままに、祭神(まつるかみ)が欲しいと答えると、村君が神の白石(しらいし)を牛の値(代金)として差し出したので、城中に持ち帰って寝室に大切に置いておくと、いつのまにか美しい少女の姿に変身しました。
 大変喜んだアラシトは、いつか必ず結婚しようと心に誓いました。しかししばらくの間、外国に行っている間に少女は消え失せていなくなりました。
 帰国して驚いたアラシトが、妻に問い正してみると、妻は、
 「少女は東南の方に去った」と言いました。アラシトは少女の行方を訪ねて追い求め、船旅の果てについに日本国(やまと)ナニワのヒメコソの宮(比売許曽神社、大阪)にたどり着きました。が、そこにも少女はすでになく、宮より出でてトヨの国のヒメコソ宮(比売語曾神社、姫島、大分)ですでに神上がっていました。

 時に、アラシトは自国に帰る途中、日本(やまと)からの土産をシラギ(新羅)人に奪い取られた事が原因で、シラギ国と戦いが起こりました。
 この一件で、ミマナ国王の使者が日本国に遣わされ、君に奉じていわく、
 「我が国の東北地方に三巴群(ミハエ)有り。上、中、下に分かれた土地は、土も肥えていて四方の広さは三百里に及び、民も豊かに暮らしています。しかし、今すでにシラギの敵との戦いが長く続いて、治めることも難しくなっています。農民は皆、戦いに明け暮れして農作業を欠き、今では国民の死活問題となっています。臣(とみ)、願わくば国平定のために、貴国の遠征軍を派遣されんことを切に乞うのみでございます」
 君は、この申し出を大変喜ばれて、早速、臣(とみ)等と相談したところ、皆がいわく、
 「クニフクの孫のシオノリツヒコこれ吉(よし)」と答えました。
 頭の三瘤(みこぶ)から松の君とも呼ばれ、背は何と一丈五尺にも及び力量は八十人力で勇壮で激しい性格です。

 詔のり。
 シオノリヒコをミマナ国に派遣する将軍に任命する。又、別名を外国遠征道司(ユキトクニムケミチツカサ)の名を授ける。
 ついに敵地をくまなく平定し、凱旋将軍として意気揚々と帰朝しました。

 君は帰れば吉(よし)と、吉(よし)姓をシオノリヒコに賜わりました。












(私論.私見)

33-39~42. 「おおひこ」は乙女の歌で危険を知り引き返す

32. 「おおひこ」は乙女の歌で危険を知り引き返す(33-39~42)

もちのひに おゝひこいたる(33-39)
ならさかに おとめがうたに


九月十五日に「おおひこ」は京都へ向かう途中の「ならさか」に着きました。其処に乙女が現われて歌を歌いました。



みよみまき いりひこあわや(33-39)
おのがそゑ ぬすみしせんと(33-40)
しりつどを いゆきたがひぬ
まえつどよ いゆきたがひて
うかがわく しらじとみまき
いりひこあわや(33-41)



御世(みよ)の「みまきいりひこ」(崇神天皇)は危ぶない・絶体絶命です。貴方(崇神天皇)の「そえ」(部下・要人・県主)が、貴方の政権を盗もう(国盗り)とたくらんでいます。
「後のつ戸」(背後・奥方のことを示す)からいったりきたり様子をうかがっていて君に背いています。
[前のつ戸]からも行ったりきたり様子をうかがって、国を奪おうと君に背いています。
知らないのは「みまきいりひこ」貴方だけですよ。「みまきいりひこ」は危ぶない・絶体絶命です。



おゝひこは あましくかえり(33-41)
これにとふ



「おおひこ」は怪しんで引き返してこの乙女に問いました。



 おとめがいわく(33-41)
われはうた うたふのみとて
きえうせぬ むなさわぎして(33-42)
たちかえりけり



そうすると、乙女が言うには、私はただ歌っているだけなのでと言いながら消えてしまいました。「おおひこ」は胸騒ぎして、「たち」(館)に帰りました。


34綾に続く

33-36~37. 遠方の国では受け入れていないので勅使を派遣する

27. 遠方の国では受け入れていないので勅使を派遣する(33-36~37)



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とをつくに あらひとのりを(33-36)
まだむけず(33-37)



しかし、遠方の国では、荒人が法(のり)を、まだ受け入れない状況です。



 かれよもにおし(33-37)
つかわして のりおしえしむ


よって、四方の国々に勅使を派遣して、矛を持って、法(のり)を教えに行かせることにしました。


28. 「おおひこ」を越の国へ(33-37)


なつきこか おゝひこをして(33-37)
こしのおし


九月九日、「おおひこ」(八代目孝元天皇の子供)を越の国への勅使として派遣しました。

29. 「たけぬながわけ」は、ほづま(関東)へ(33-37~38)



 たけぬながわけ(33-37)
ほづまおし(33-38)



「たけぬながわけ」を「ほずま」関東地方への勅使として派遣しました。



30. 「きびつひこ」を山陽道へ(33-38)


 きひつひこして(33-38)
つさのおし



「きびつひこ」を山陽道(「つ」西、「さ」南)への勅使として派遣しました。
後に「きび」の国をたてる。



31. 「たにわちぬし」を丹波へ(33-38~39)


 たにわちぬしを(33-38)
たにわおし



「たにわちぬし」を丹波への勅使として派遣しました。


 おしえうけずば
ほころばせ おしてたまわり
いくさだち おのおのたてば(33-39)



もしも、教えに従わない国神がいれば、ほこで(武力で)討ち滅ぼせとの命が下りました。
各将軍は兵を引き連れて四方に進軍しました。





33-36. みずかき宮十年、詔り、平和が甦る

26. みずかき宮十年、詔り、平和が甦る(33-36)



そほねやと ふづきすえよか(33-36)
みことのり



みずかき宮十年(ねやとの年)七月二十四日、詔がありました。



 たみたすおしえ(33-36)
かみまつり やゝおゑされと



民を治める教えをもって平和が甦りました。神祀りもしました。やっとの思いで災い(けがれ)は去りました。





33-33~35. みずかき宮九年、夢に神の告げ、罪人の霊が疫病を引き起こしている

25. みずかき宮九年、夢に神の告げ、罪人の霊が疫病を引き起こしている(33-33~35)



こほやよひ もちのよゆめに(33-33)
かみのつげ(33-34



みずかき宮九年三月十五日の夜、夢の中に神のお告げがありました。



 かしきほこたて(33-34)
かみまつれ



「か」(赤)「し」(白)「き」(黄)のにぎてに矛を立てて神を祀りなさい。


 うだすみさかも(33-34)
おゝさかも かわせさかみお
のこりなく


「うだ」の「墨坂」(柏原地方)も、「逢坂」も「河瀬坂」も、この三つの「お」(おやしろ)を残りなく祀りなさい。
神武天皇時代の戦歴の場所であった。



 これつみひとの(33-34)
しいとゝむ ゑやみなすゆえ(33-35)



ここは、罪科人の死霊が迷い留まって、「えやみ」(疫病)を引き起こしている原因になっています。



うすえふか おとみかしまと
たゝねこに たまかえしのり(33-35)
まつらしむ



四月二十二日、「おとみ」(両翼の臣・左大臣・右大臣)「かしま」(おおかしま・大暁島・伊勢神宮神臣・初代神主・左大臣)と「たたねこ」(おおたたねこ・大直根子・三輪臣・若宮・初代神主・右大臣)に、「たまがえし」(魂返し・死者を甦らす)の法(のり)を祀り祈らせました。



 かれにあかるき(33-35)


その結果、やっと明るい世が訪れました。






33-29~33. 御幸し、「いくひ」の作った酒で御饗(みあえ)する

24. 御幸し、「いくひ」の作った酒で御饗(みあえ)する(33-29~33)




しわすやか かみまつらせて(33-29:和仁估安聰写本)
しはすやか たゝねこまつり(33-29:小笠原写本)



師走十二月八日、神祭りをしました。「おおたたねこ」は神祭りをしました。



みゆきなる いくひがさけに(33-30)
みあえなす


君(崇神天皇)が御幸をされた時、「いくひ」(たかはしいくひ)が作った酒で御饗(みあえ・宴会・もてなし)をしました。



 きみのみうたに(33-30)
このみきは わがみきならず
やまとなる おほものぬしの
かみのみき いくひさつくる(33-31)
すきはいくひさ



御饗(みあえ)のとき、君(崇神天皇)が歌を詠まれました。
この神酒は私のための神酒ではなく、「やまと」なる「おおものぬし」の神の神酒である。幾久(いくひさ・未来永劫・永遠に・いつまでも)作る、杉葉(酒林)幾久(いくひさ)
ここで、「いくひさ」は幾久(いくひさ・未来永劫・永遠に・いつまでも)という意味と、この神酒を作った「たかはしいくひさ」の掛け言葉になっている。



みあえおえ とみらうたふて(33-31)
うまさけや みはみわのとの
あさどにも ゐでゝゆかなん(33-32)
みわのとのとを


御饗(みあえ)が終わり、今度は臣たちが歌いました。
美酒(うまさけ)や、我が身は、この三輪の殿中で宴会をして、朝戸(あさど)の時間(開門時間)になったので、もう出て行かなければならない。三輪の殿中の戸を押し開けて。



ときにきみ これかえうたに(33-32)
うまさけに みはみわのとの
あさどにも おしきらかねよ(33-33)
みわのとのとを



そうすると、君が即座に返し歌を歌われました。
美酒(うまさけ)に、我が身は、この三輪の殿中で朝戸(あさど)の時間(開門時間)になったけど、根が生えて押し切ることが出来ない(帰りたくない)三輪の殿中の戸です。



とのとおし ひらきかへます(33-33)


まだ、帰りたくなかったが、覚悟を決めて、朝戸を押し開き、御幸の宮を後にお帰りになりました。

33-29. みずかき宮八年「たかはしいくひ」が神酒を作り奉る

23. みずかき宮八年「たかはしいくひ」が神酒を作り奉る(33-29)



やほうよか たかはしいくひ(33-29:和仁估安聰写本)
みきつくり みわおゝかみに
たてまつる そのあぢうまし


みずかき宮八年四月四日、「たかはしいくひ」という者が神酒を作りました。そして、三輪大神(ことしろ主)に奉りました。その、神酒の味は大変美味しいものでした。



やほさみと うよたかはし(33-29:小笠原写本)
むらいくひ うまさゝつくり
みわかみに そのみきうまし



みずかき宮八年「さみと」の年の四月四日、「たかはし」村の「いくひ」が美味い神酒をつくり三輪大神(ことしろ主)に奉りました。その、神酒は大変美味しいものでした。


このページは、写本で記述が違います。どちらかの写本の方で、途中の代のときに、一頁ほとんどが虫食いで読み取りが不可能に近い状態であったのではないかと推定します。





33-26~28. 神祭りをし、神名帳を編纂、「かんべ」を定め、神を崇める心が天に通じる

22. 神祭りをし、神名帳を編纂、「かんべ」を定め、神を崇める心が天に通じる(33-26~28)



 めつきはつひに(33-26)
いきしこお やそひらかなし


十月一日に、「いきしこ」に八十枚の平瓮(ひらか・お皿)を神祭りのために作らせました。



これをもて おゝたゝねこを(33-27)
いわいぬし おゝみわのかみ



これ(八十枚のお皿)をもって「おおたたねこ」を斎主(いわいぬし)に定めて「おお三輪の神」を祭らせました。



ながおいち おゝくにたまの(33-27)
いわいぬし



そして、「ながおいち」を斎主(いわいぬし)に定めて「おおくにかま」の神祭りをさせました。




 あまねくふれて(33-27)
かみあがめ かみなふみなす(33-28)



あまねく天下にお触れを出して、神を崇め、神の神名帳を編纂しました。




かんべして やおよろかみを(33-28)
まつらしむ



「かんべ」(全ての民を神・神社ごとに氏子を組織的に割り振った)を定めて、八百万の神を祀らせました。




 ゑやみむけいえ(33-28)
ぞろみのり たみゆたかなり



この結果、疫病も癒えて、神を崇める御心も天に通じて、稲穂もたわわに稔り、民の生活も豊かになりました。


33-25~26. 「いきしこ姫」にも占わせる

21. 「いきしこ姫」にも占わせる(33-25~26)


 いきしこおして(33-25)
うらなわす これまことよし(33-26)


「いきしこ姫」に占わせたら、「いきしこ姫」の占い(ふとまに)も実に良い(大吉)と出ました。「よし」は「吉」と「日吉神社・日枝神社」を掛けている。「いきしこ姫」は九代開化天皇の中宮で、崇神天皇の母親に当たります。



よそがみを とえばふとまに(33-26)
うらわろし



他の神に祀らわせることを「ふとまに」で占わしたら凶(悪い)とでました。

33-23~25.崇神天皇は自分の見た夢と同じに驚き、「おおたたねこ」を探す

19. 崇神天皇は自分の見た夢と同じに驚き、「おおたたねこ」を探す(33-23)
20. 「おおたたねこ」を尋ねて「ちぬすえ村」へ御幸する(33-24~25)



きみこれに ゆめあわせして(33-23)
ふれもとむ おゝたゝねこを



君はこれを聞き、自分の夢とこの三人の夢が合ったことを喜び、全国に「おおたたねこ」を探すお触れを出しました。



20. 「おおたたねこ」を尋ねて「ちぬすえ村」へ御幸する(33-24~25)



ちぬすえに ありとつぐれば(33-24)
きみやそと ちぬにみゆきし




そうすると、「おおたたねこ」が「ちぬすえ村」(陶荒田神社・堺市)に居るとの情報を得ました(居ることが告げられた)ので、君(崇神天皇)は八十人衆の供を連れて「ちぬ」(ちぬすえ村)に御幸されました。



たゝねこに たがこぞととふ(33-24)
こたえには むかしものぬし
すえすみが いくたまとうむ(33-25)
ものぬしの おゝみわかみの
はつこなり



君は「おおたたねこ」に誰の子(子孫)かとお聞きになりました。(先祖は誰かと)「おおたたねこ」は答えて、昔、「ものぬし」(こもり神)と「すえすみ」の娘の「いくたまより姫」との間に生まれた「ものぬし」(こもりの神)の「おお三輪神」の神の子孫(はつこ)です。



 きみさかえんと(33-25)
たのしみて



これを聞き、君は、これで我が御世も栄えて安泰になるであろうとホッとされました。(喜ばれました・楽しみができました)





33-21~23. 三人が夢で見た神のお告げの内容を崇神天皇に

18. 三人が夢で見た神のお告げの内容を崇神天皇に(33-21~23)


はづきなか とはやがちはら(33-21)
めくはしめ おゝみなくちと
いせおうみ みたりみかとに(33-22)
つげもふす ゆめにかみあり



八月七日、「とはや」の娘の「ちはらめくはし姫」と「おおみなくち」と「いせおうみ」の三人が「みかど」(崇神天皇)に告げ申されるには、夢に神のお告げがありました。



たゝねこを おゝものぬしの(33-22)
いわひぬし



お告げは、まず、「たたねこ」(おおたたねこ)を大物主の斎主(いわいぬし)に執りたてなさい。



 しながおいちを(33-22)
おほやまと くにたまかみの(33-23)
いわひぬし なさばむけべし



次に、「しながおいち」を山辺の「おおやまとくにたま」神の斎主(いわいぬし)に執りたてなさい。そうすれば、良い方向に向けられます。疫病も去り天下泰平になります。

33-19~21. 神の意向が得られず、夢の中で「おおたたねこ」を斎主に

17. 神の意向が得られず、夢の中で「おおたたねこ」を斎主に(33-19~21)




きみまつる ことしるしなし(33-19)

君(崇神天皇)は、神祀りをしましたが、神の意向は得られませんでした。


ゆあみして すがにいのりて(33-19)
つげもふす


「ゆあみ」(斎戒沐浴・滝に打たれる?)されて、心身を清めて(すが:「が」(悪、邪悪、汚れ)「す」(素、何もない、無)、(すがすがしく)祈って告げ申し上げました。


 われうやまえど(33-19)
うけざるや


我は神をこれほどまでに敬っておりますが、まだ受けていただけないものなのでしょうか。


 このよのゆめに(33-19)
われはこれ おゝものぬしの(33-20)
かみなるが きみなうれひそ


そうすると、その夜の夢に、我は大物主の神である。君よ、そんなに憂えることはありませんよ。



たせざるは わがこゝろあり(33-20)

たせざる(満たされない・国が治まらない)のは、我が意があってのことである。



わがはつこ おゝたゝねこに(33-20)
まつらさば ひとしくなれて(33-21)
とつくにも まさにまつらふ


我が子孫の「おおたたねこ」を斎主(いわいぬし)にして神を祀らせば、平穏になって、遠い国も従うようになるでしょう。





33-18. 神様の名前を聞いて、大物主との答えを得た

16. 神様の名前を聞いて、大物主との答えを得た(33-18)




きみとふて かくおしゆるは(33-18)
たれかみぞ



このご神託を聞いて驚いた君(崇神天皇)は、問いました。このように教えてくださる神は一体何と言う神様ですかと。


 こたえてわれは(33-18)
くにつかみ おゝものぬしぞ



すると、神から(「ももそ姫」にのりうつっている)、我は国神大物主であるという答えがありました。


後日、「ももそ姫」は大物主の妻となる。という記述(34-14)が、あります。そこで、見てはいけないものを見てしまい、びっくりして「みほど」を突いて亡くなってしまいます。そして、箸塚(古墳)に埋葬されます。

33-17~18. 「ももそ姫」に神が乗り移り「さつさつずうた」を告げる

15. 「ももそ姫」に神が乗り移り「さつさつずうた」を告げる(33-17~18)



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 やおよろまねく(33-17)
ゆのはなの もゝそひめして
のりごちに さつさつずうた


君(崇神天皇)は八百万の神々を招く、「湯の花神事」を「ももそ姫」に奉納させました。そうすると「ももそ姫」に神が乗り移って、神から「さつさつずうた」が告げられました。
「ももそ姫」は「やまとももそ姫」で八代孝元天皇のお姉さんにあたる。崇神天皇は十代なので二代先になる。



 さるたみもつずにま(33-17)
 つらでをゑにみだるさ(33-18)



去っていった民も、続けて祀らなかったから、けがれて、乱れてきたのですよ。

33-15?17. 「みずかき宮」七年、詔して「あさひのはら」(丹波)に御幸

14. 「みずかき宮」七年、詔して「あさひのはら」(丹波)に御幸(33-15?17)



なほきさら みかみことのり(33-15)
わがみをや ひらくもとひは
さかんなり(33-16)



みずかき宮七年二月三日、詔がありました。我が皇祖(みおや)が開かれてきた国は偉大であり栄えてきました。



 わがよにあたり(33-16)
おえあるは まつりとゝかぬ
とがめあり



しかし、我が御世になって、「おえ」(不浄なこと、けがれ、疫病を示す)があって悲惨な状況になっているのは、きっと神祀りが不充分で、天に祈りが届いていない神の咎めだと思います。



 けだしきわめて(33-16)
よるなりと あさひのはらに
みゆきして(33-17)


自分が本気で窮めて(突き詰めて)、神の意向に寄り添わなければならないと申され、「あさひの原」(今の京都丹波、比沼麻奈為ひぬまない神社)に御幸され「とよけ」神に詣でました。




33-14?15. 「いろ」の「つずうた」が詠まれた

13. 「いろ」の「つずうた」が詠まれた(33-14?15)



 いろのつずうた(33-14)

「いろ」の「つずうた」が詠まれました。「いろ」は「とよのあかりのいろもよし」から来ている。


「つずうた」は十九音からなっており、「続く」の語源にもなっております。
また、十九音の後、次の人が二十音目から続いて言の葉を発する(はたち・初の音を発する)事から、二十歳のことを「はたち」と呼ぶようになったと考えられます。
「つずうた」(連歌)発祥の地として酒折(山梨県甲府市)が知られています、詳細については、39-68?84参照。



 ざとほし ゆきのよしも おほよすがらも(33-15)



いざ遠し、ゆきの(遙かなる、天上のさごくしろ宮の神々よ)、よろしも(我々が行なっている神祀りをよろしく)おほよすがらも(高天原に降臨されておそらく分かっていただけるであろう)

33-13?14.「みずかき宮」六年「おおくにたま」の御霊と天照大神の宮を遷す

10.11.12.「みずかき宮」六年「おおくにたま」の御霊と天照大神の宮を遷す



10. 二つの宮を本格的に再建(33-13)


ふたみやを さらにつくらせ(33-13)



二つの宮を本格的に再建させることにしました。
二つの宮とは、一つは「おおくにたま」の御霊を祭る「山辺の里」に、もう一つは、天照大神の御霊を祭る「笠縫」を示しています。




11. 「みずかき宮」六年「おおくにたま」の御霊を「山辺の里」に(33-13)


むとせあき おゝくにたまの(33-13)
かみうつし


「みずかき宮」六年目の秋、「おおくにたま」の御霊を山辺の里にお移しになりました。



12. 天照大神の宮を遷す(33-13?14)


 なつきむそかよ(33-13)
あすのよは あまてるかみの(33-14)
みやうつし



九月十六日の夜になりました。明日の夜(九月十七日の夜)は天照大神の宮を遷す日です。



 とよのあかりの(33-14)
いろもよし



夜になり、神前の豊の明かりが色よく燈りました。



 いざともかみは(33-14)
くだります




天上からきっと天照大神が供の神々とそろって降臨されるでしょう。



ジョンレノ・ホツマ

33-12?13. 「みずかき宮」五年、疫病が流行り、国民の半数が死滅、神に乞う

9. 「みずかき宮」五年、疫病が流行り、国民の半数が死滅、神に乞う(33-12?13)



 ゐとしゑやみす(33-12)
なかばかる むとしたみちる



みずかき宮五年、疫病が流行りました。民の半分は死んでしまいました。翌年の六年には、民は散り散りになってしまいました。



ことのりに たしがたしかれ(33-12)
つとにおき つみかみにこふ(33-13)


天皇が自らおっしゃったことは、民を治められず政治がうまくいかない(足し難い)のはなぜだろうか、夜中に突然(つとに)起きて目が覚め、罪(助け)を神に願いました(乞いました)。

33-11?12. 崇神天皇は新たに三種の神器を作り直します

8. 崇神天皇は新たに三種の神器を作り直します(33-11?12)




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 いしこりどめの(33-11)
まごかがみ あべひとかみの(33-11)
まごつるぎ さらにつくらせ



「いしこりどめ」(鋳物師)の子孫に「鏡」を、「あべひと神」の子孫に「剣」をそれぞれ新たに作らせました。
「あべひと神・あめひと神」魂を入れて打つ意



あまてらす かみのおしてと(33-11)
このみぐさ あめつひつきの(33-12)
かんたから



天照大神の神璽もあわせて、新しい三種の神器として皇位継承の日嗣(ひつぎ)の神宝としました。

33-10?11.天照大神と「おおくにたま」の御霊を「とよすき姫」と「ぬなぎ姫」に祭らせる

6&7. 天照大神と「おおくにたま」の御霊を「とよすき姫」と「ぬなぎ姫」に祭らせる(33-10?11)



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6. 天照大神の御霊を「とよすき姫」に祭らせる(33-10)

 あまてるかみは(33-10)
かさぬひに とよすきひめに
まつらしむ



天照大神の御霊は「笠縫」の地に移して、「とよすき姫」に祭らせました。


ここで、「とよすき姫」が初代の斎女「ひのみこ」つまり、「ひみこ」として大陸に伝わり卑弥呼という漢字があてはめられたと思われます。
実際には、魏志倭人伝の記述は、年代がもっと下がってからですから、二代目斎女の「やまと姫」のことを言っているように思えます。
十四歳で三代目斎女になった「いもの姫」は、年齢からみて魏志倭人伝に十三歳で王になった「壱与(いよ)」を言っているのではないかと思われます。漢字化されたとき、「いもの」の「いも」が「いよ」として伝わったと考えられるからです。(38綾76?79)



7. 「おおくにたま」の御霊は「ぬなぎ姫」に祭らせる(33-10?11)


 おゝくにたまは(33-10)
ぬなぎひめ やまへのさとに
まつらしむ(33-11)


「おおくにたま」の御霊は「山辺の里」に移して、「ぬなぎ姫」に祭らせました。

33-7?10. 「みずかき宮」四年、崇神天皇の詔

5. 「みずかき宮」四年、崇神天皇の詔(33-7?10)




 よほめすえみか(33-7)
みことのり(33-8)


「みずかき宮」の四年十月の二十三日(末の三日)に崇神天皇の詔がありました。
十月(雌月・女性の月・女性は妊娠後十ヶ月で生まれると考えられていた)



 みおやのさづく(33-8)
みぐさもの くにとこたちは
かんおして あまてるかみは
やたかがみ おゝくにたまは
やゑがきと(33-9)



「みおや」(先祖神・天神皇祖)から授かって受け継いできた三種の神器は、「くにとこたち」の神璽(かんおしで・天なる道を示した法・書かれたもの)と、天照大神の「やたの鏡」と、「おおくにたま」(おこのみたま神・おこの神・ことしろ主・えびす様)の八重垣の剣の三つのことです。



 つねにまつりて(33-9)
みとかみと


この三種の神器を宮中に祀り常に拝礼してきました。
御との神(御との教え(帝王学)として)祀ってきました。




 きはとほからず(33-9)
とのゆかも うつはもともに
すみきたる



神の居られる場所の際(きわ)から遠くない所で、寝起きする殿の床(寝床)も近くにして、食事の器も神と同じようにして、今まで住んで来ました。


 やゝいづおそれ(33-9)
やすからず(33-10)


しかし、最近、気安くしてしまい、「いず」(神の意向)を恐れるようになって、失礼に当たっていたのではないかと心が安まりません。


33-7. 「みずかき宮」三年、新しい都を磯城の「みずかき」に

4. 「みずかき宮」三年、新しい都を磯城の「みずかき」に(33-7)




みほなづき しぎみづかきに(33-7)
にいみやこ


崇神天皇の「みずかき宮」の三年の九月に、磯城(しぎ)の「みずかき」に新しい都を作りました。
即位してから宮を新築するのに約三年かかったことが分かります。

33-6~7. 崇神天皇の子供たち

3. 崇神天皇の子供たち(33-6~7)




これのさき めくはしがうむ(33-6)
とよすきめ



これの先(崇神天皇が各姫を娶ったこの後)、「めくはし姫」(紀の国の「あらかとべ」の子)が生んだ子は「とよすき姫」です。

「とよすき姫」は後に初代天照大神を生涯独身で守る斎女になられます。

私見ですが、大陸に伝わった、初代、卑弥呼(ひのみこ、「ひ」=天照大神)の「みこ」)を示すことになります。「ひのみこ」の「の」は所有格の「の」で、漢字化する時、この所有格の「の」は通常省略されるので「ひみこ」という「単語:おしで文字」が漢字化されたと思われます。よって、「ひみこ」とは特定の一個人を示すのではなく、神の遣いをする別格の「みこ」(神に仕える・天照大神のお子さん)を意味していことがわかります。
魏志倭人伝に記述されているのは2代目の「やまと姫」を言っていると思われます。詳細は後述の予定。


 おゝあまがうむ(33-6)
ぬなぎひめ


「おおあま」(尾張の連の娘の「おおあま姫」)が生んだ子は「ぬなぎ姫」です。



 めくはしがうむ(33-6)
やまとひこ いむなゐそぎね


「めくはし」が二番目に生んだ子は「やまとひこ」で実名を「いそぎね」です。(後の垂仁天皇の兄にあたります)



やさかうむ やさかいりひこ(33-7)
おゝぎねぞ かれはゝをあぐ


「やさか姫」(近江の「やさかふりいろね姫」)が生んだ子は「やさかいりひこ」で実名は「おおぎね」皇子という名前です。
故に、男の子を産んだので母(やさか姫)は階級が上がりました。
ここで、仮の「すけ」ではなくなり正式な「すけ妃」になったものと思われます。


なお、崇神天皇の子供たちについては、34綾25~28にも記されており、両方を照らし合わせて初めて正しい判断が出来るとおもいます

33-3~5. 「みまきいりひこ」(崇神天皇)のお妃たち

2. 「みまきいりひこ」(崇神天皇)のお妃たち(33-3~5)




はつとしの きさらぎさうと(33-3)
そむつみゑ おゝひこのめの(33-4)
ことしそひ めしてきさきの
みまきひめ



崇神天皇の「みずかき宮」元年の二月(ほつま暦の「さうと」の月)十六日(ほつま暦の「つみえ」の日)、「おおひこ」の娘の年は、今年十一歳になり、妃(中宮)に召されました。「みまき姫」と呼ばれました。



 きあらかとべが(33-4)
とおつあひ めくはしうちめ
おゝすけに(33-5)


紀の国の「あらかとべ」親王の「とおつあいめくはし姫」が「うちめ」から「おおすけ」という「すけ妃」になりました。(位が上がりました)



 あふみがやさか(33-5)
ふりいろね かりすけとなる



「あふみ」(近江)の「やさかふりいろね姫」は「かりすけ」(仮のすけ妃)になりました。
(後日、皇子を生み、位が上がったため、「かりすけ」という仮りの名が区別のためにつけられたものと思われる)




おはりがめ おゝあまうちめ(33-5)
なかはしの おしてとるもり


尾張の連の娘の「おおあま姫」は「うちめ」という位になり、「なかはし」(事務所を示す)で「おして」(文書・おしで文字)を取り扱い、守る責任者になりました。もちろん崇神天皇のお妃の一人です。

33-1~3. 「いそにゑ」皇子は「みまきいりひこ」(崇神天皇)に即位

ホツマツタヱ 33綾
1. 「いそにゑ」皇子は「みまきいりひこ」(崇神天皇)に即位(33-1~3)



かみあがめ ゑやみ たす あや

神を崇めて、疫病を退治する綾




ときあすゝ むもふそひとし(33-1)
きなゑはる むつきねしえは
そみきしえ


時は「あすず暦」の六百二十一年(神武天皇より)、「ほつま暦」では「きなゑの年」の春、新年の一月の「ねしえの月」の十三日「きしえの日」のことです。
(「あすず暦」は「あずさ」の木に印しをつけて暦にしていました)
ほつま暦は大陸から伝わった干支と符合するようです。
「きなゑ=きのえさる 甲申」
「ねしえ=みずのえうま 壬午」
「きしえ=きのえうま 甲午」



 ゐそにゑのみこ(33-1)
としゐそふ あまつひつぎを(33-2) (あ)=天
うけつぎて みまきいりひこ
あまつきみ



「いそにえ」の皇子(みこ)は、年令は五十二歳で皇位を継承して即位されました。「みまきいりひこ」天皇(あまきみ)となられました。「みまきいりひこ」天皇は、後世になって「崇神天皇」と名付けられました。




みぐさつかひも(33-2)
あめためし


三種の神器を天孫ニニキネの前例にならってとり行いました。


 たみにおがませ(33-2)

翌日、かざり(三種の神器、装束、宝飾など)を、国民、民衆に拝ませ、支持を受けました。(=即位の礼、天孫ニニキネ以降続いている)


はゝをあけ みうゑきさきと(33-3)
もゝそふひ おゝはゝのとし
もゝむそふ おゝんきさきと



「はは」(先帝の中宮)を太上皇后に上げたてて、御上妃(みうえきさき)と呼びました。歳は百二十一歳でした。
「おおはは」(先先帝の中宮)の歳は実に百六十二歳で、大御上妃(おおんきさき)と呼びました。