ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)32

 (最新見直し2009.3.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ホツマツタエは、古代大和ことばのホツマ文字といわれる図象文字で綴られた全文で40アヤ(章)、五七調で一万余行に及ぶ叙事詩で、大和王朝前の御代の神々の歴史、文化、精神を詠っている。作者は、前半の天の巻、地の巻の1章~28章を櫛甕玉命(クシミカタマの命、鴨彦、神武時代の右大臣)、後半の人の巻29章~40章を三輪の臣である大直根子命(オオタタネコ、三輪秀聡、景行天皇時代)が編纂、筆録したと記されている。古事記、日本書紀と原文で詳細に比較するとホツマツタエを原本としている事が判明しており、いわば記紀原書の地位にある。

 2009.3.19日 れんだいこ拝


【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)32、神崇め疫病治す文】
 富士山と不老長寿の仙薬

ホツマツタヱ 32綾目次

1. 「やまとふとに」(考霊天皇)の即位の礼、「くろだ・いほど宮」に移す(32-1~3)
2.考霊天皇のお妃たち(32-3~5
3.うちめの「やまとくにか」が三つ子を生み、「ももそ姫」が生まれる(32-5~6)
4.「やまとくにか姫」の妹「はえ姫」も三つ子を産む(32-6~8)
5.「もときね」(後に考元天皇)が生まれる(32-8)
6.考霊天皇は三つ子を間引きすることを禁じた(32-9~13)
7.考霊天皇は「はらみ山」(富士山)と淡海(琵琶湖)の絵を賜る(32-13~17)
8. 「もときね」を世継ぎ皇子にする。後の八代孝元天皇となる(32-17~18)
9.考霊天皇は「はらみ山」(富士山)登山のため御幸(32-19~22)
10.「はらみ山」を新たに「ふじのやま」と命名する(32-22~25)
11.帰路、四神をむめ宮から野洲河原へ神を移す(32-25~26)
12.「たけひてる」が「たまがわ」の神宝文を奉る(32-26~27)
13.「たけとめ」に「竹筒(たけづつ)草の祭り」(粥占い)を継がせる(32-27~28)
14.「たまがわ」の神宝文を出雲に納める(32-28)
15.西の争いにいんべ主を派遣する(32-28~30)
16. 考霊天皇は崩御される(32-30~32)
17. 「やまとくにくる」(考元天皇)の即位の礼(32-32~34)
18. 「やまとくにくる」(考元天皇)は「かるさかひばら」に遷都(32-34)
19.「やまとあえくにおおひこ」が生まれる(32-35)
20. 「いほどみや」(考霊天皇)のご遺体を馬坂陵に納める (32-35~36)
21. 「うつしこめ」は内宮(うちみや:妃)に昇格(32-36)
22. 「うつしこお」は「けくに」(神に食事を捧げる役・政務のご意見番)に(32-36)

23. 妃(うつひこめ)が「ふとひひ(開化天皇)」・「わかやまとねこひこ」皇子を生む(32-36)
24.雨が降り続き琵琶湖が氾濫、稲熱病になった稲を「かぜふの祓い」で蘇らせる(32-37~39)
25.おほみけ主は祀り臣に、各地で「かぜふ」の祀りが行なわれる(32-40~41)
26.「へそぎね」の館へ御幸したとき「とと姫」を生む(32-42)
27.「いかしこめ」が孝元天皇の内妃に召される(32-42~43)
28. 孝元天皇の内妃「いかしこめ」が「おしまこと」を生む(32-43)
29.「はにやす姫」が「はにやす」を生む(32-44)
30.「ふとひひ」(後の開化天皇)の立太子礼が行なわれる(32-45)
31.「おしまこと」は「たかち姫」を娶り「うましうち」を生む (32-45)
32.「うましうち」は「やまとかげ姫」を娶り、「たけうち」をを生む(32-46

33.孝元天皇は崩御され、喪に服す(32-46~47)
34.六年後に孝元天皇のご遺体を納め、女官も開放される (32-47~48)

35.「ふとひひ」(開化天皇)の即位の礼「かすがいさかわ」に遷都(32-48~50)
36.開化天皇は「いきしこ姫」を内宮にたてる(32-50~51)
37.母を犯すことになると「おおみけぬし」は忠告するが聞き入れられず蟄居(32-51~57)
38.開化天皇のお妃が生んだ皇子たち(32-57~58)
39.「へそきね」「うつしこ」は昇進する(32-59)
40.引き続き開化天皇のお妃が生んだ皇子たち(32-59~60)
41.「いそにえ」皇子(後の崇神天皇)が世継ぎに立つ(32-60~61)
42.開化天皇は崩御、春日率坂上陵(いささか)に納める(32-61~62)
かみあかめゑやみたすあや      神崇め 疫病治す文
ときあすす むもふそひとし     時天鈴 六百二十一年
きなゑはる むつきねしゑは     キナヱ春 一月ネシヱは
そみきしゑ ゐそにゑのみこ     十三日キシヱ ヰソニヱの御子
としゐそふ あまつひつきお     歳五十二 天つ日月を
うけつきて みまきいりひこ     受け継ぎて ミマキイリヒコ
あまつきみ みくさつかひも     天つ君 三種使も(日・月・星の使い)
あめためし たみにおかませ     天例 (上代の例) 民に拝ませ
 ははおあけ みうゑきさきと     母を上げ 御上后と
ももふそひ おおははのとし     百二十一 大母の歳
ももむそふ  おおんきさきと 百六十二 大御后と
 はつとしの きさらきさうと     初年の 二月サウト
そむつみゑ おおひこのめの     十六日ツミヱ オオヒコの姫の
ことしそひ めしてきさきの     今年十一 召して后の
みまきひめ きあらかとへか     ミマキ姫 紀(紀の国造) アラカトベが
とおつあひ めくはしうちめ     トオツアヒ メクハシ 内侍
おおすけに あふみかやさか     大スケに 近江がヤサカ
ふりいろね かりすけとなる     フリイロネ 仮スケとなる
おはりかめ おおあまうちめ     尾張が姫 オオアマ 内侍
なかはしの をしてとるもり     長橋の ヲシテ執る守'
これのさき めくはしかうむ     これの先 メクハシが生む
とよすきめ おおあまかうむ     トヨスキ姫 オオアマが生む
ぬなきひめ めくはしかうむ     ヌナギ姫 メクハシが生む
やまとひこ いむなゐそきね     ヤマトヒコ 斎名ヰソキネ
やさかうむ やさかいりひこ     ヤサカ 生む ヤサカイリヒコ
おおきねそ かれははおあく     オオキネぞ 故母を上ぐ
みほなつき しきみつかきに     三年九月 磯城瑞籬に
にいみやこ よほめすえみか     新都 四年 十月二十三日
みことのり みをやのさつく     御言宣 「上祖の授く
みくさもの くにとこたちは     三種物 クニトコタチは
かんをして あまてるかみは     神ヲシテ 天照神は
やたかかみ おおくにたまは     ヤタ鏡 オオクニタマは
やゑかきと つねにまつりて     八重垣と 常に祭りて
みとかみと きはとほからす     身と神と 際遠からず
とのゆかも うつはもともに     殿・床も 器も共に
すみきたる ややいつおそれ     住み来る やや稜威畏れ
やすからす あまてるかみは     安からず」 アマテル神は
かさぬひに とよすきひめに     笠縫に トヨスキ姫に
まつらしむ おおくにたまは     祭らしむ 大国玉は
ぬなきひめ やまへのさとに    ヌナギ姫 山辺の里に
まつらしむ いしこりとめの     祭らしむ イシコリトメの
まこかかみ あめひとかみの     孫鏡 アメヒト神の
まこつるき さらにつくらせ     孫剣 新に造らせ
あまてらす かみのをしてと     天照らす 神のヲシテと
このみくさ あまつひつきの かんたから     この三種 天つ日月の 神宝
ゐとしゑやみす なかはかる むとしたみちる                五年穢病す 半ば枯る 六年民散る
ことのりに たしかたしかれ     言宣に 「治し難し故
つとにおき つみかみにこふ     夙に起き 罪神に請ふ」
ふたみやお さらにつくらせ     二宮を 新に造らせ
むとせあき おおくにたまの かみうつし      六年秋  大国玉の神遷し 
なつきそむかよ あすのよは 九月十六日夜 翌の夜は
あまてるかみの みやうつし     天照神の 宮遷し 
とよのあかりの いろもよし     豊の明りの 色も好し
いさともかみは くたります     いざとも神は 下ります 
いろのつすうた    イロの連歌
いさとほし ゆきのよろしも おほよすからも      「いざ遠し 幸の喜も 栄よ優らも」
なほきさら みかみことのり     七年二月 三日御言宣
わかみをや ひらくもとひは さかんなり     「我が上祖 開く基は 栄んなり 
わかよにあたり をえあるは          我が世に当り 衰え粗るは
まつりととかぬ とかめあり        祭届かぬ 咎めあり
けたしきわめて よるなりと           けだし究めて 寄るなり」と 
あさひのはらに みゆきして       朝日の原に 御幸して
やもよろまねく ゆのはなの         八百万招く 湯の花の
ももそひめして のりこちに さつさつすうた            モモソ姫して 宣言に サッサッ連歌
さるたみも つすにまつらて をゑにみたるさ   「散る民も 連に服らで 衰えに惨るさ」
きみとふて かくおしゆるは たれかみそ    君問ふて 「かく教ゆるは 誰神ぞ」   
こたえてわれは くにつかみ おおものぬしそ  答えて「我は 国津神 オオモノヌシぞ」
きみまつる ことしるしなし     君祭る 殊徴無し
ゆあひして すかにいのりて つけもふす    湯浴して 清に祈りて 告げ申す   
われうやまえと うけさるや       「我敬えど 受けざるや」    
このよのゆめに われはこれ    この夜の夢に 「我はこれ 
おおものぬしの かみなるか        オオモノヌシの 神なるが   
きみなうれひそ たせさるは わかこころあり       君な憂ひそ 治せざるは 我が心あり
わかはつこ おおたたねこに まつらさは    我が裔 オオタタネコに 祭らさば    
ひとしくなれて とつくにも まさにまつらふ      ひとしく平れて トツ国も 真に服ふ」
はつきなか とはやかちはら     八月七日 トハヤがチハラ
めくはしめ おおみなくちと いせをうみ      メクハシ姫 オオミナクチと イセヲウミ 
みたりみかとに つけもふす         三人帝に 告げ申す  
ゆめにかみあり たたねこお         「夢に神あり タタネコを 
おおものぬしの いはひぬし        オオモノヌシの 斎主  
しなかおいちお おほやまと          シナガオイチを 大ヤマト 
くにたまかみの いわひぬし         クニタマ神の 斎主   
なさはむけへし          なさば平けべし」
きみこれに ゆめあわせして ふれもとむ      君これに 夢合せして 告れ求む 
おおたたねこお ちぬすえに ありとつくれは         オオタタネコを 茅渟陶に(茅渟県の陶村)  ありと告ぐれば
きみやそと ちぬにみゆきし     君八十と 茅渟に御幸し
たたねこに たかこそととふ     タタネコに 「誰が子ぞ」と問ふ
こたえには むかしものぬし すえすみか    答えには 「昔モノヌシ スエスミが  
いくたまとうむ ものぬしの       イクタマと生む モノヌシの
おおみわかみの はつこなり         大三輪神の 裔なり」
きみさかえんと たのしみて 君 「栄えん」と 楽しみて 
いきしこをして うらなはす これまことよし         イキシコヲして 占わす これまこと吉し   
よそかみお とえはふとまに うらわろし    他神を 問えばフトマニ 占悪ろし  
めつきはつひに いきしこを        十月初日に イキシコヲ
やそひらかなし これおもて         八十平瓮成し これを以て 
おおたたねこお いわひぬし        オオタタネコを 斎主 
おおみわのかみ なかおいち           大三輪の神(大神神社) ナガオイチ 
おおくにたまの いわいぬし        オオクニタマの(大和神社) 斎主
あまねくふれて かみあかめ かみなふみなす          遍く告れて 神崇め 神名文成す
かんへして やもよろかみお まつらしむ     神部して 八百万神を 祭らしむ
ゑやみむけいえ そろみのり たみゆたかなり          穢病平け癒え ソロ 実り 民豊かなり
やほうよか たかはしいくひ みきつくり     八年四月四日 高橋イクヒ 酒造り
みわおおかみに たてまつる そのあちうまし          三輪大神に 奉る その味うまし 
しはすやか かみまつらせて     十二月八日 神(ミワ大神) 祭らせて
(異文)
やほさみと うよかたかはし    八年サミト 四月四日 高橋
むらいくひ うまささつくり     村イクヒ うま酒造り 
みわかみに そのみきうまし     三輪神に その酒 うまし
しはすやか たたねこやりて     十二月八日 タタネコ遣りて
みゆきなる いくひかさけに     御幸なる イクヒが酒に
みあえなす きみのみうたに     御饗なす 君の御歌に
このみきは わかみきならす    「この酒は 我が酒ならず
やまとなる おほものぬしの かみのみき     ヤマトなる オホモノヌシの 神の御酒  
いくひさつくる すきはいくひさ          イクヒ授くる 繁は幾久」
みあえおえ とみらうたふて     御饗終え 臣ら歌ふて
うまさけや みはみわのとの    「うま酒や 身はミワの殿
あさとにも いててゆかなん みわのとのとお     朝方にも 出でて行かなん 三輪の殿戸 (三輪鳥居)を」
ときにきみ これかえうたに     時に君 これ返歌に
うまさけに みはみわのとの    「うま酒に 身はミワの殿
あさとにも おしひらかねよ  朝方にも 押し開かねよ 
みわのとのとお とのとおし ひらきかえます     三輪の殿戸を 殿戸押し  開き帰ます」
こほやよひ もちのよゆめに かみのつけ    九年三月 十五日の夜夢に 神の告げ  
かしきほこたて かみまつれ          「畏祝 奉て(赤白黄の木綿) 神祀れ    
うたすみさかも おおさかも       宇陀墨坂も 大坂も
かわせさかみお のこりなく           かわせ邪霊を 残りなく   
これつみひとの しいととむ ゑやみなすゆえ           これ潰人の 魄留む  穢病成す故」
うすえふか をとみかしまと たたねこと  四月二十二日 大臣カシマと タタネコと
たまかえしのり まつらしむ かれにあかるき        魂返し宣り 祀らしむ 故に明るき
そほねやと ふつきすえよか みことのり    十年ネヤト 七月二十四日 御言宣
たみたすをしえ かみまつり           「民治す教え 神祭  
ややをゑされと とおつくに         やや汚穢去れど 遠つ国  
あらひとのりお またむけす          粗人法を まだ迎けず 
かれよもにをし つかはして のりをしえしむ       故四方に治人 遣はして 法教えしむ」 
なつきこか おおひこおして     九月九日 オオヒコをして
こしのをし たけぬなかわお     越の治人 タケヌナガワを
ほつまをし きひつひこして     ホツマ治人 キビツヒコして
つさのをし たにはちぬしお     西南の治人 タニハチヌシを
たにはをし をしえうけすは     丹波治人 教え受けずば
ほころはせ をしてたまはり いくさたち      綻ばせ 璽賜り 軍(いくさ)立ち  
おのおのたては もちのひに おおひこいたる              各々発てば 望の日に オオヒコ至る
ならさかに おとめかうたに     奈良坂に 少女が歌に
みよみまき いりひこあわや    「みよ ミマキ イリヒコあわや
おのかそゑ ぬすみしせんと     己が副 盗み殺せんと
しりつとお いゆきたかひぬ     後つ門を い行き違ひぬ
まえつとよ いゆきたかひて うかかわく    前つ門よ い行き違ひて 窺わく
しらしとみまき いりひこあわや             知らじとミマキ イリヒコ あわや」
おおひこは あやしくかえり     オオヒコは 怪しく返り
これにとふ おとめかいわく     これに問ふ 少女が曰く
われはうた うたふのみとて きえうせぬ    「われは歌 歌ふのみ」とて 消え失せぬ
むなさわきして たちかえりけり          胸騒ぎして 立ち帰りけり



 第一話 アマテル神の千代見草と西王母(ニシノハハカミ)

 アマテル神の御心も天下くまなくゆきとおり、秋の稔りも年々増して民の生活も豊かに世はすべて事もなく移ろいました。こんなある日のことです。アマテル神は皇子(みこ)のクスヒを伴って、二見浦(フタミノウラ)の海岸に御幸されました。打ち寄せる荒潮を浴び、親子揃って禊を済ませました。クスヒは、ふと素朴な疑問を覚えて父に尋ねました。

 「父御門(みかど)は、いつも八房御輿(やふさみこし、八角形の御輿)に乗られて行幸される日本一尊い神様なのにどうして禊をなさるのでしょうか。神様でもやっぱり穢れることもあるのですか」
 こんな子供らしく微笑ましい質問にアマテル神はニッコリされると、傍の皇子と諸神に向かって静かに詔りされました。
 「汝、ヌカタダ(クスヒの真名)よ、そして諸神も良く聞いておきなさい。本来の私は心身ともに無垢な玉子の様な姿でこの世に生まれました。御祖神(みおや)の御心の殻に固く守られていたので、一切の穢れや禍を受けませんでした。しかし大切な政を司る今日この頃は、次々と伝えてくる悪い訴えを糺し教えようと努めているうちに、いつしか耳も汚れてしまいました。時には鼻もちならない話を聞かされるに及び、間違いを戒めて諭そうと胸を痛めるうちに、いつの間にか身も心も汚れて疲れていました。
 私は今、次々と押し寄せる潮(うしお)に身を沈めて心身ともに浄らかになって、元の太陽の霊の輪(ちのわ)に帰って再び神の形を取り戻しました」
 君はここまで一気にお話をされると、並み居る諸神、諸民をゆっくり見回しました。
 先程まで一心に記録を取っていた臣(とみ)や司、又、君の話を一言も聞き漏らすまいとシーンと聞き入っていた諸民の、感動の声声も消えて、今は唯、波の音だけがひときわ大きく聞こえていました。君は、皆の熱心さに促されるように再び急ぎ話を続けました。

 「それでは、清く正しく美しい神の姿を保つための食べ物の話をしましょう。何よりも忌むべきは獣の肉を食べることです。実は四つ足の肉を嗜むと、一時は精が付くように思えても、身体の血が汚れ、やがては筋肉が縮んで病に犯され、苦しんで早死にしてしまいます。例えば、濁り水が乾き付くように、血や肉も汚れれば乾き付いて病のもとになります。先ず、新鮮な野菜をたくさんお食べなさい。すると、濁った血も太陽の様に、赤く透き通った輝きを取り戻し、ここ二見浦の潮のように力強い命を宿します。

 いつも私は、臣(とみ)も民もへだてなく、天から授かった我が子の様に慈しみ、平和で豊かに、健康で長生きして欲しいと願い、天の神に祈るばかりです」
 「諸民もこの話を良く聞いてください。食べ物の一番は何と言っても、お米に勝るものはありません。太陽と月の精を一杯含んだ幸い多き食べ物です。次に良いのは魚類です。三番目は鳥ですが、悪い精が付きすぎて病の元にもなり、あまりお進めできません。鳥や獣の肉を食べることは、あたかも灯火(ともしび)の火をかき起こして、油皿の油を早く燃やし切ってしまうようなものです。
 精が勝ち過ぎると大切な命の油を減らすことになるからです。動物の肉を食べ続けると筋肉はこり縮んで空肥りして、逆に生命の油は減り、顔は痩せこけ、毛が抜け落ち、死して悪臭を放つことになります。

 ある冬、スワの神からこんな訴えがありました。
 「シナノは冬大層寒いのです。諸民は鳥や獣の肉を食べ寒さを凌いでおります。何とか大目に見て下さい」と。

 私はスワの神に厳しく申しつけました。
 「その間違った考えを改めなさい! 魚類の四十物(あいもの・合物)は四十種もあるではないか。魚を食べなさい。これとて食後三日間はスズナを食べて毒を消すべきです。今日唯今から鳥獣を食うのを戒めよ! 天下にあまねく触れよ!
 たとえ自分の命はいらないなどと言っても、結局血が汚れれば、魂の緒(たまのお)が乱れて魂とシイが迷い苦しみ、長患いして、ついには巷で肉体(シイ)の苦痛に耐え兼ねて、鳥や獣の霊と求め合って、ついには鳥獣になってしまい、人として二度とこの世に帰れませんぞ。
 人は本来、太陽と月の精霊の支配を受けて生きているものです。善行を積み、清く美しく長生きして自然体で死ぬことができればこそ、天はその意に応えてくれます。獣になるのを防ぎ、御霊(みたま)を天上のサゴクシロに届けてくれ、神々は新たに人間の命を与えてこの世に戻してくれます」
 「実は、私が常に食している御食(みけ)は、千代見草(ちよみぐさ)です。この菜は世間一般の苦菜(にがな)の百倍も苦いものです。
 この恐ろしく苦い御食(みけ)のお陰でこの様に長生きして、民の暮らしを豊かにしようと、日々国を治めてきました。私の歳は今年で二十四万才になりますが、未だ盛りのカキツバタの様に花やいでいます。これから先まだ百万年も長生きして、先の世を見届けるつもりです」

第二話 天孫ニニキネ(ニニギ)とハラミ草

 「汝、クスヒよ、ココリ姫(白山姫)が、私に語ったことを良く聞いておきなさい。それは、むかし昔、この国の創造神クニトコタチが、この地球(クニタマ)の八方を巡狩した時、西方の地に行かれ、荒野を開拓して建国したクロソノツミテ国とは、現在の夏(カ)の国に相当し、ここを赤県神洲(アカガタシンシュウ・中国)といいます。
 クニトコタチの一子、カのクニサッチをその国の国王にして、彼の地で生まれ即位したアカガタのトヨクンヌ以来代々国を治めてまいりました。しかし長い年月が経つうちに、人が人として守るべき「天なる道(あめなるみち)」も衰えて、遂に道も尽きてしまいました。
 心配した一族出身のウケステメが我がネの国(北陸)に来朝して、タマキネ(伊勢外宮 祭神・豊受神)に師事します。良く仕え深く学ぶ一心さに感激したタマキネは、ココリ姫(白山姫)の義理の妹として姉妹関係を結ばせて、遂に神仙の秘法(ヤマノミチノク)を授与しました。
 大変感謝し喜んで中国に帰国したウケステメは、その後、コロビン君(崑崙王・コンロンオウ)と結婚して、クロソノツモル皇子を生んで、ニシノハハカミ(西王母)となられました。

 再び来朝したニシノハハカミが申すには、
 「コロ山本国では、愚かにも動物の肉を食べていますので、皆早死にしてしまい、平均寿命はせいぜい百才か二百才程度です。毎日の肉食が命を縮めているのです。
 私は、シナ国王が一族から輩出し即位した時、肉食の習慣を改めるよう進言しましたが今だにこの悪習は止みません。シナ国王はホウライの国の千代見草が欲しいと八方手をつくして、いつも徒労に終り、なんとか手に入れたいと未だに嘆き暮らしています」
 と、訴えてきました。
 私は、常に汚れた心身を禊して天道を守り、長寿を保ってきたことに感謝して、早死を恐れ悩むシナ国王に同情して奥義を授けました。
 思ってもみなさい。命こそは身の宝ですぞ。この事を諺とすべきです。たとえ、一万人の憂えた国王が居たとしても、一人として命を代われる者はないのです」

 天孫ニニキネは、ツクバのニハリの宮から遷都して、ここハラミ山(現・富士山)の麓にハラ宮を建てて、恋する妻のコノハナサクヤ姫ともども、秀でた真の政を執り、人呼んで、秀真国(ホツマノクニ)と称えられました。
 この山の火口湖の名を子代池(コノシロイケ)と呼ぶようになりました。この由来は、コノハナサクヤ姫が、身の潔白を証明しようと三人の子供と一緒に空室(うつむろ)に籠って火を放ち自殺を計った時、子供達が熱さで苦しんでいるのを知った竜田姫(タツタヒメ)の神が、この山の池に棲む竜に代わって水を吹きかけ、母と三人の子を救い出したことから、この名が付けられました。

 又、ある日ニニキネは、子代池の都鳥にラハ菜を投げ与えたところ、ラハナに鳥が戯れ遊ぶその様子を見て大変面白く思い、臣下のコモリに絵を描かせて、綾織物に織った模様が鳥襷文(とりだすきぶん)となりました。
 ラハは、艾(もぐさ)や蕪葉(かぶろは)の様で、血を増して老いも若やぐと言い伝えられています。
 この日、ハオ菜が君の御衣裳(みはも)に染まったままの姿で政(まつり)をきこしめされたところ、その年は例年になく稲の実りが厚く、豊作になりました。
 このハオナを食べれば、千年の長寿を得るという言い伝えがあります。一般に若菜の中にも苦いものがありますが、このハオナは百倍も苦くて、千年も長生きできると解っていながら、民は一人も食べようとしません。その根の形は人間の身体の様でもあり、葉は嫁菜(よめな)に近い葉で、その花は八重咲きです。
 又、ある日ニニキネは、北陸地方に巡狩に行かれました。北の峰で身体を冷やして腹を痛めて病んだことがありました。その折り、右大臣のコモリが君に参草(みくさ)を煎じてお進めして、腹痛を治しました。この参(み)とは、三種の薬草の総称でもあり、人参草(ひとみぐさ)もその一つです。人参草は小さな根をしていて薄黄色です。茎は一本で四つに枝分かれしてそれぞれ五葉で、人の身に似ていて、花は小白(こじろ)、秋には小豆(あずき)に似た実をつけて、味は甘苦くて、薬効は脾臓(ヨコシ)を潤し、肺病(ムネ)を療養(ひた)します。

 現在、世に百種もの薬草がありますが、ハ・ラ・ミ三草(さんぞう)に勝る仙薬は他にありません。君はこの三草を誉めたたえてこの山の名をハラミ山と名付けました。

第三話 ヤマトフトニ(孝霊天皇)の富士登山と千代見草

 ヤマトフトニの即位後、二十五年目の正月十二日の朝のことです。
 信州スワの祝人(はふり)が都に上り、新春のお祝にハラミ山(富士山)の絵を献上しました。君はこの絵が大層気に入られて、秀麗な山容は天下無類と、霊峯ハラミ山を誉めたたえました。丁度その時、今度は淡海(オウミ)の白髭(シラヒゲ、現・白髭神社)の子孫のアメミカゲが、淡海(あわうみ)の絵を奉りました。君はこの山と湖が対をなした奇遇を大変面白く思われ二人にたくさんの贈り物をされました。
 ある日のこと、君がカスガ親王(オキミ)・(人皇五代、孝昭天皇の皇子アメタラシヒコクニ)に申されるには、
 「実は、私は昔一度このハラミ山の絵を見たことがあったが、立て長であまり良い絵とも思わず、これを捨ててしまった。今こうして偶然に、山と湖の絵合わせができたのは、割札(わりふだ)を符号したようで大変良い瑞兆であろう。ハラミの山の千代見草も、五百年前の噴火で焼け失せたと聞いていたが、もう草木の種も復活した兆しに違いない。この絵にある美しい淡海(オウミ)の湖が養分を蓄えて、ハラミの山を潤せば、千代を見るという千薬も生え出てきたに違いない」
と、大変ごきげんのようすでした。

 それから早や十年が過ぎ、ある新春の十日のことです。
 皇子(みこ)のモチキネを世嗣(よつぎ)御子に立て、立太子礼も無事終えて肩の荷をおろした君は、三月半ばいよいよ念願のハラミ山登山を決意して行幸(みゆき)されました。事前にお触れが発せられて、その行く道の整備もすでに完成しています。その行程は先ず、クロダの宮から御輿に乗ってカグヤマを目指して進み、カシオの神武天皇(カンヤマトイワワレヒコ)の陵(みささぎ)にお参りして後、山城(ヤマシロ・京都)の鴨神社に向かい、ここで天孫ニニキネと御祖天皇(みおやあまきみ・ウガヤフキアワセズ)の社に詣でた後、国の開拓神を祭る淡海(オウミ)の多賀神社に、にぎてを捧げました。木曽路を抜けてスワに行き、甲斐のサカオリ宮に入られました。
 ここでは、タケヒテルが盛大な御饗(みあえ)を用意してお迎えいたしました。
 早速、あくる日から高齢をおして登山に挑み、遂に山頂に立たれた君は、お鉢巡りもされて大八州(おおやしま)を巡り見、生涯一度の念願を果たされ感慨無量の様子でした。
 下山はスバシリ口を一気に降りて、裾野を南回りに巡って梅大宮(ムメオオミヤ、現・浅間神社)にお着きになりました。宮でお待ちしていたカスガ親王(おきみ)は、君が旅の疲れをいやす間もなく、
 「今度、山の峰で採ったこの御衣(ミハ)の綾草(アヤクサ)が、本当に千代見草でしょうか」と、聞きました。そこで、諸神が早速煮て食べようと試みましたが、苦くて苦くて結局誰もまともに食べる者はいませんでした。
 ハラミ山の中峯(なかみね)は、ひときわ高くそびえたって雪をいただき、丁度深い淡海(あわうみ)に対比することができます。昔のハラミ山には裾野に八湖海(ヤツウミ)がありましたが、前回の大噴火で三つが埋ってしまいました。溶岩の流出で焼けたとはいえ、未だに火口湖の子代池(このしろいけ)は、天孫ニニキネ時代の昔のままの姿で残っていました。
 神代(かみよ)の時代の物語に思いをはせた君は、この喜びを御製(みつくり)の歌にされました。

噴火(なか)口は歴(ふ)り  中(なか)は湧きつつ  このヤマト
共鎮(ともしず)まりの  この山よこれ
 この歌を詠まれた後に、君はこの栄えある登山を記念して、この山に新しい名を付けようと思された丁度その時、田子(タゴ)の浦人が君の御前に進み出て、一抱えの咲き誇った藤の花を奉りました。
 この藤を捧げた縁りに想(そう)を得た君は、新しい山の名を織り込んだ秀歌(しゅうか)を詠まれました。

ハラミ山  一降り(ひとふり)咲けよ  藤蔓(ふじつる)の
名おも縁(ゆか)りの  この山よこれ

この歌により、その後ハラミ山の名をフジの山と讚えるようになりました。












(私論.私見)

32-19~22.考霊天皇は「はらみ山」(現・富士山)に登山のため御幸する 

9.考霊天皇は「はらみ山」(現・富士山)に登山のため御幸する (32-19~22


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やよひなか はらみやまえと(32-19)
みゆきなる
 


三月中旬、「はらみ山」(富士山)へ登山されました(行幸されました)。この年の一月には、世継ぎも決まり一安心されて富士登山されたものと思われます。



そのみちなりて(32-19)

その行程は事前にお触れが出て、道の整備もされました。



くろだより かぐやまかもや(32-19)
たがのみや



まず、「くろだ」の宮を出て、香久山(奈良県桜井市)を通り、賀茂神社(京都)へ行き、淡海(滋賀県)の多賀神社に、にぎてを捧げました。
「くろだ」=奈良県磯城郡田原本町黒田


 すわさかおりの(32-19)
たけひてる みあえしてまち(32-20)



(その後、木曽路を経て)諏訪・酒折を管轄している「たけひてる」が宴(うたげ:歓迎の接待)の用意をされて待っていました。
なお、この時はまだ甲斐という呼び方はしていないことがわかります。



やまのぼり くたるすばしり(32-20)
すそめくり むめおゝみやに
いりいます



その後、天君(孝霊天皇)は、はらみ山(現富士山)に登山されました。登頂後、須走り口から下山しました。そして、はらみ山(現富士山)の裾野を廻りました。そして、「むめ大宮」(富士宮市本宮浅間大社)にお入りになりました。
「むめ」とつくのは「むめひと」がこの地で政治をとっていた時があったから。



 かすがもふさく(32-20)
みねにえる みはのあやくさ(32-21)
ちよみかや もろくわんとて
にてにがし たれもえくわず



「かすが」(かすがちちはや・すけ妃のやまか姫の父)が申しました。はらみ山(現富士山)の峯に待望の千代見草を得ることができました。それは、染めると青色、緑、黄色と光り加減でいとも美しい綾草のことでした。
この千代見草を、皆が食べようとしましたが、煮ても苦くて、誰も口にすることが出来ませんでした。



なかみねの あてはあわうみ(32-21)


はらみ山(富士山)の主峰(中峰)の高さ(て:方向)は「淡海」(琵琶湖)の大きさ(広さ)にあてはまります。



やつみねは すそのやつうみ(32-22)
みつうまり 



廻りの八つの峰(外輪山)は、裾野の八つの湖(海)に相対しています。しかし、三つの湖が溶岩流で埋まってしまいました。



やくれどなかは(32-22)
かわらしと みつくりのうた



噴火があったけれど、主峰(中峰:中央の頂)は変わらなかったので安心されお喜びになりました。
中腹からの噴火であったことがわかります。
そこで、お歌を作られました。

32-17~18. 「もときね」を世継ぎ皇子にする。後の八代孝元天皇となる

8. 「もときね」を世継ぎ皇子にする。後の八代孝元天皇となる(32-17~18)


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みそむとし はつはるそかに(32-17)
もときねを よつぎとなして



くろだ・いほど宮三十六年初春、正月十日に「もときね」(やまとねこひこくにくる)を世継ぎ皇子としました。後の八代孝元天皇になります。



みてつから みはたおりとめ(32-17)
さつけまし これあまかみの(32-18)
おしてなり



天皇の御親(みてづか)ら、直接、御機(みはた)の織留(おりと)めを授けられました。これは天皇(天神)の璽(印:しるし)となりました。



 あさゆふながめ(32-18)
かんがみて たみをおさめよ
よそほひを たみにおがませ



このおしで(ここでは機織り機)を朝夕眺めて鑑みて民を治めなさい。そして、装い(出来あがった衣装)を民に見せて拝ませなさい。

32-13~17.考霊天皇は「はらみ山」(富士山)と淡海(琵琶湖)の絵を賜る

7.考霊天皇は「はらみ山」(富士山)と淡海(琵琶湖)の絵を賜る(32-13~17)

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あすそふかあさ(32-13)
すわはふり はらやまのゑを
たてまつる きみこれをほむ



あくる日(くろだ・いほど宮二十五年一月)の十二日の朝です。
諏訪の神主(はふり)が「はらみ山」(現富士山)の絵を奉りました。
天君(孝霊天皇)はこの絵を大層お褒めになりました。



おなしとき しらひけのまご(32-13)
あめみかげ あわうみのゑを(32-14)
たてまつる 



全く同じときに、近江の「白髭:しらひげ」の子孫の「あめみかげ」が「あわうみ」(琵琶湖)の絵を奉りました。



きみおもしろく(32-14)
たまものや 



天君(孝霊天皇)はこの二つの賜った物について、大変面白いと思いました。
皇孫二ニキネの時に、淡海の水ではらみ山の高峰を潤したという故事とあまりに似ているので縁起が良いと思われたからであろう。(月刊ほつま76-77号)



あるひかすがに(32-14)
のたまふは われむかしこの
ゑをみれど あてなでたかく(32-15) (たてなでたかく)
これをすつ



ある日、天君(孝霊天皇)は「かすが」(すけ妃になった、やまか姫の父親かすがちちはや)に申されました。
私は、昔この絵を見たことがありましたが、風化(劣化)がひどく捨ててしまいました。
(たてなで:風化による縦にひび割れした筋のことではないかと推測します。:あるいは、縦に長く良い絵とは思えなかった?
根拠はないが、噴火によって絵の中の姿が違っていたことを示していたのかとも考える)



 いまやまさわの(32-15)
ゑあわせは わりふたあわす
よきしるし 



今、山(はらみ山:富士山)とさわ(淡海:琵琶湖)の絵が合わさるとは、割符を合わせたような吉祥の印である。

割符た(木片などの中央に証拠となる文字を記し、また証印を押して、二つに割ったもの。当事者どうしが別々に所有し、後日その二つを合わせて証拠とした。符契。符節。割り札。わっぷ)



はらみのやまの(32-15)
よきくさも いもとせまえに(32-16)
やけうせし たねもふたゝび
なるしるし
 


「はらみ山」(現富士山)に生えていた良き草(千代見草)が、五百年前に噴火で焼けて失せてしまった。この二枚の絵合わせによって、千代見草の種が再び生えてきたかも知れない吉報のように思えます。
ここで、五百年前に焼け失せてとあるのは富士山の噴火があったことを記録しています。



におうみやまを(32-16)
うるほせば ちよみるくさも
はゆるぞと たのしみたまひ(32-17)


「におうみ」(淡海:琵琶湖)の水が、富士山の峰を冠雪となって潤せば、千代見る草(長生きする草)も生えてくるだろうと楽しく期待されました。

ジョンレノ・ホツマ

32-9~13.考霊天皇は三つ子を間引きすることを禁じた

6.考霊天皇は三つ子を間引きすることを禁じた(32-9~13)

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ふそゐはる いつもはつそひ(32-9)
あがためし みなものたまひ
みことのり
 

くろだ・いほど宮二十五年、いつも通りに新春の十一日に、県主を召して(呼び出して)皆に賜物をされました。そして、詔をされました。


  もしひはらみこ(32-9)
うむものは みかどにつげよ
したゝみも たまものあるぞ(32-10


もし、一回の受胎で三つ子を産んだものは帝(みかど)に告げるように。下民であっても、褒美をつかわそう。という詔でした。



そのゆえは あめのみまこの(32-10)
さくやひめ みつごうむより
のちきかず


その理由は、天の御孫(みまこ)の「このはなさくや姫」が三つ子を産んだ以降、三つ子を産んだという話を聞いたことがありません。



 われいまみつご(32-10)
うむにつき ほのかにきけば(32-11)
みつごをば まびくとなづけ
ころすとや 



我は今、三つ子を産んだが、風のうわさ(ほのかに)に聞くところによると、三つ子が生まれたら、「間引く」と称して(名付けて)殺すらしい。



  いまよりあらば(32-11)
つみびとぞ わかこもひとは
あめのたね(32-12)
 

今日より、このようなこと(三つ子が生まれたら間引くこと)をしたら罪人にする。若子(赤ん坊)も人であり、天の授かりものである。(花の種に対応して天の種という使われ方をしている)



 しかいぬちより(32-12)
ひとひとり 



鹿や犬の千匹より、人ひとりの方が大事です。



  たけみなかたの(32-12)
のりなりと みことさだまる



「たけみなかた」の宣(法律)として、詔(法律)が定まりました。


くにつかさ たみにふれんと(32-12)
もろかえる (32-13)



国司達は万民にお触れを出すために、皆、国に帰りました。

32-8.「もときね」(後に考元天皇)が生まれる

5.「もときね」(後に考元天皇)が生まれる(32-8)

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そやほはる はつもちきさき(32-8)
うむみこは やまとねこひこ
くにくるの いむなもとぎね


くろだ・いほど宮十八年の春、正月の十五日に妃(中宮の「ほそ姫」)が産んだ皇子は「やまとねこひこくにくる」で実名を「もとぎね」といいます。(後に第八代孝元天皇になります。)

32-6~8.「やまとくにか姫」の妹「はえ姫」も三つ子を産む

4.「やまとくにか姫」の妹「はえ姫」も三つ子を産む(32-6~8)


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そひふゆいもと(32-6)
はえをうち そみしはすはつ(32-7)
はえひめも またみつごうむ



くろだ・いほど宮十一年の冬、「やまとくにか姫」の妹の「はえ姫」も内女になりました。
くろだいほど宮十三年十二月初め(初日)に、「はえ姫」もまた、お姉さんと同じように三つ子を産みました。



なはゑわか たけひこのなか(32-7)
ひこさしま とわかたけひこ



生まれた三つ子の名前は、兄が「えわかたけひこ」、真ん中が「ひこさしま」、弟が「とわかたけひこ」です。「え」=兄、「と」=弟



はゝもあけ わかをゝみやめ(32-8)


母親も位が上がり、「若おおみやめ」になりました。

32-5~6.うちめの「やまとくにか」が三つ子を生み、「ももそ姫」が生まれる

3.うちめの「やまとくにか」が三つ子を生み、「ももそ姫」が生まれる(32-5~6)


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なつうちめ やまとくにかが(32-5)
みつこうむ なはみなやまと(32-6)
もゝそひめ ゐさせりひこに
わかやひめ


同年(くろだ・いほど宮三年)夏には「うちめ」の「やまとくにか姫」が三つ子を産みました。名前は皆「やまと」がついており、「やまとももそ姫」、「やまといさせりひこ」、「やまとわかや姫」です。


 はゝもやまとの(32-6)
おゝみやめ 



母親も「やまと」がついて「やまとおおみや后」になりました。

32-3~5.考霊天皇のお妃たち

2.考霊天皇のお妃たち(32-3~5)

ふとしきさらぎ(32-3)
そひにたつ しぎのおゝめが
ほそひめを きさきぞかすが(32-4)
ちちはやが やまかひめなる

すけきさき


くろだ・いほど宮二年二月十一日に磯城の「おおめ」の娘「ほそ姫」を妃(中宮)にたてました(めとりました)。
そして、「かすがちちはや」の娘「やまか姫」を「すけ妃」にいたしました(めとりました)。



といちまそおが(32-4)
ましたひめ こゝたえとなる


「といちまそお」の娘「ました姫」は「ここたえ」役になりました。
「ここたえ」は二代綏靖天皇以降の制度(「ここり:菊」+「たえ:妙」)と考えられる。(月刊ほつま38号)



うちよたり おしもゝよたり(32-5)


その他に「内女:うちめ」が四人、「おしも」が四人付きました。



みとしはる おゝみなくちと(32-5)
おゝやぐち ともにすくねと



くろだ・いほど宮三年の春、「おおみなくち」と「おおやくち」は、二人とも「宿禰:すくね」という役職になりました。

32-1. 「やまとふとに」(考霊天皇)の即位の礼、「くろだ・いほど宮」に移す

ホツマツタヱ 32綾

ふじとあわうみみづのあや
富士山と淡海(琵琶湖)、瑞(みず:生き生き)の綾



この32綾は、3人の天皇の生誕から亡くなられるまでが記されています。

 考霊天皇 ねこひこ (やまと・ふとに) 
 考元天皇 もとぎね (やまと・ねこひこ・くにくる)
開化天皇 ふとひひ (わかやまと・ねこひこ) 


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1. 「やまとふとに」(考霊天皇)の即位の礼、「くろだ・いほど宮」に移す(32-1~3


ときあすゝ よもふそやとし(32-1)
はつそふか あまつひつぎを
うけつぎて
 

時はあすず歴の四百二十八年の正月十二日に天日嗣(あまつひつぎ)を受け継ぎました。(皇位継承)



やまとふとにの(32-1)
あまつきみ いむなねこひこ(32-2)



「ヤマトフトニ」は天皇(孝霊天皇)になられ実名は「ねこひこ」(根子日子)と申します。



もろはかり あめのみまこの(32-2)
のりをもて たみにおかませ



諸大臣は、天の御孫(みまこ)の法(のり:勅)に則って、即位の礼を実行し、万民に拝ませました。



はゝをあげ みえうきさきと(32-2



先帝の母(尊御母)を中宮にたて、御上妃(大政皇后)と呼びました。




こぞしはす よかにくろたの(32-3)
いほどみや うつしてことし
はつこよみ
 


昨年十二月四日に黒田(奈良県磯城郡田原本町)の「くろだ・いほど宮」に新居を移しました。
そして、暦も新しくしました。今年は初暦(いほど宮元年)になりました。

32-61~62.開化天皇は崩御、春日率坂上陵(いささか)に納める

42.開化天皇は崩御、春日率坂上陵(いささか)に納める(32-61~62)

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 むそとしのなつ(32-61)
うづきこか きみまかるとし
ももそひぞ
 


いさかわ六十年の夏、四月(卯の花の月)九日、君(開化天皇)が崩御されました。(お亡くなりになりました。)百十一才でした。



みこのもはいり(32-61)
よそやのち まつりごときき(32-62)
とみととめ いますのみあえ



皇子の喪衣入り(喪に服す)が行なわれ、四十八日目の夜が明けるまで祀りごとがとり行われました。前帝の臣たちもそのまま留まりました。
そこに天君が生きておられるように御饗を捧げて敬いました。




めつきみか おもむろおさむ(32-62)
いささかぞこれ



十月三日に、ご遺体をおさめました。
「いささか」(春日率坂上陵)です。

32-60~61.「いそにえ」皇子(後の崇神天皇)が世継ぎに立つ

41.「いそにえ」皇子(後の崇神天皇)が世継ぎに立つ(32-60~61)

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ふそやとし むつきのいかに(32-60)
よつぎたつ いそにえのみこ(32-61)
ことしそこ



いさかわ二十八年一月の五日に世継ぎに立ちました(立太子礼)。「いそにえ」(みまきいりひこ)の皇子で今年十九才でした。





32-59~60.引き続き開化天皇のお妃が生んだ皇子たち

40.引き続き開化天皇のお妃が生んだ皇子たち(32-59~60)

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 そみむつきいか(32-59)
きさきまた うむみまつひめ


いさかわ十三年一月五日、妃(中宮の「いきしこ姫(旧称いかしこ姫)」)が二人目の子供の「みまつ姫」を生みました。


めすうちめ かつたるみが(32-60)
たかひめが さのもちにうむ
はつらわけ いむなたけとよ



(新たに)「うちめ」に召された「葛城(かつき)たるみ」の娘の「たか姫」が五月(さつき)の十五日に生んだ子が「はつらわけ」で実名を「たけとよ」と言います。