ユダヤキリスト教の伝来

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.2.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「日本の宗教史大全」をものしておくことにする。


Ⅴ キリシタン史 ー 日本と西欧の接触
ザビエルとイエズス会の布教活動

一五四九年のフランシスコ・ザビエルの来日から一六一四年の江戸幕府の禁教令までの六五年間に、イエズス会を先頭に行われたカトリック・キリスト教の布教活動は大きく進展し、禁教令が出た時には三七万人のキリシタン信者がいたと推定されています。日本史で「キリシタン史」とは、ザビエルの来日から島原の乱の後に出された鎖国令(一六三九年)までの約一世紀の歴史を指していますが、禁教の時期には多くの殉教者がその信仰を言い表しています。戦国の混乱期に行われたカトリック・キリスト教の布教が、なぜこれほど急速に日本で受け入れられたのか、また禁教期には多くの殉教者を出すほどの激しい抵抗をすることができたのか、ここでその歴史を概観しておきましょう。
諸国の大名たちが領地の保全と拡大のために命がけで戦った戦国時代は、人間の世界は極めて不安定で不安に満ち、神仏の加護や来世の確実さを求める宗教心が高揚した時代でした。仏教や神道の宗教的権威が大名や武将、農民や都市の庶民の心を捉えていました。大名や武士たちは戦場で神仏の名や名号・題目などを旗印に掲げて神仏の加護を祈り、本願寺は一向一揆に見られるようにその一声で農民を動員することができました。そのような戦国時代の不安が一層深刻な庶民に、より確かな拠り所を求めさせ、キリスト教に向かわせたと考えられます。
この時代の日本にキリスト教をもたらしたザビエルはイエズス会の有力な会士です。イエズス会の成立やその性格と活動については先に見ましたが(本書一一六頁)、それはローマカトリック教会の修道会の一つで、教皇に忠誠を誓い、ローマカトリック教会のために戦う先兵的組織です。また、宗教改革後の対抗改革の一つとして、カトリック教会の世界伝道についても先に触れましたが(本書一一九頁)、まさにザビエルの日本伝道はカトリック教会の世界伝道の先端に位置します。宗教改革の波はピレネーを超えてイベリア半島には及びませんでしたから、スペインとポルトガルのイベリア二国はカトリック教会の強固な基盤となります。イエズス会はロヨラやザビエルらのスペイン出身者が多いのですが、スペインでは認可されずポルトガルの認可を受けていたので、ポルトガル系の修道会とみなされ、ザビエルもイエズス会士として(後述の布教保護権によって)インドに派遣されることになります。
当時カトリック教会の世界伝道は、カトリック教会の布教保護権の下に行われていました。布教保護権というのは、ある国や王室が異教徒世界への教会の布教活動を援助すると、その国や王室に現地での植民地経営のための航海、征服、領有、貿易を行う権限を教皇が認めるという制度です。大航海時代にスペインは西に向かい南北アメリカの新大陸に進出、ポルトガルは喜望峰を経て東に向かいインド航路を開拓していました。教皇は大西洋上の経線によって地球を二分し、西側をスペインに、東側をポルトガルに、その布教保護権を与えました(ただ両国間の条約でその経線の西のブラジルにはポルトガルの布教保護権が認められました)。この布教保護権によって大航海時代の海洋大国であったスペインとポルトガルの両イベリア・カトリック教国が世界を二分して、カトリック・キリスト教の布教と植民地獲得を一体として推し進め、競合することになります。
東回りのポルトガルはインドのゴアに植民地を作り、インドと東アジアの布教と植民地経営の拠点としていました。ゴアをポルトガル領インドの首都として、ポルトガルはマラッカを制圧し、中国を目指しますが、中国は受け入れなかったので、非合法な貿易活動をしている倭寇と接触します。その中でゴアを拠点として活動していたザビエルは日本人アンジローと出会い、日本についての情報を得ることになり、日本布教を決意するにいたります。ザビエルが日本に到着する少し前の一五四二年には種子島に漂着したポルトガル人によって鉄砲が伝わり、戦国時代の戦争に大きな影響を与えています。ポルトガルを通して日本と西欧の接触は始まっていました。おそらくこれは、中国がすでに開拓していたインドにいたる海上交通路にポルトガルが入り込んできていたからであると考えられます。
ザビエルはイエズス会のトーレス、フェルナンデスの両名とアンジローと共に中国船で日本に向かってマラッカを出航、一五四九年の八月、アンジローに案内されてザビエル一行は鹿児島に上陸、藩主島津貴久に謁見しています。イエズス会はまず領主にキリスト教を説いて改宗させ、その領地の民に働きかける方針で布教していましたから、ザビエルも最初に藩主に会ったのですが、島津貴久はキリスト教に関心を示さなかったので、ザビエルは平戸に向かいます。平戸領主の松浦隆信はザビエル一向を歓迎したので、ザビエルはトーレスとフェルナンデスを平戸に残して後を託し、自身は山口に赴き、領主の大内義隆に謁見、続いて天皇から日本布教の認可を受けるために京都に向かいます。一五五一年一月に京都に到着しますが、応仁の乱以後の京都は荒廃していて、天皇には権力がないことが分かり、京都布教は断念して平戸に戻り、布教の拠点を作るために再度大内義隆に謁見、進物を贈呈、布教許可を受けます。さらに豊後国主の大友宗麟に会って、キリスト教を説いています。宗麟はポルトガル貿易の利益からキリスト教を庇護していますが、家中などの事情もあって受洗・改宗までには至っていません。イエズス会の布教方針によって領主たちに働きかけが行われ、ポルトガル貿易の利益を合わせてキリスト教を勧めています。何人かの大名が改宗してキリシタン大名が生まれましたが、そのことについては項を改めて述べることにして、ここではザビエルの足跡を追うことにします。
ザビエルは大友宗麟の招きで豊後府内へ向かい、山口にはトーレスとフェルナンデスを残しています。しかしザビエルは一五五一年の十一月に日本を離れ、一旦マラッカに帰還します。日本には二年三ヶ月いたことになります。その間に千人ほどの日本人を改宗させ、日本布教の開拓者として大きな足跡を残します。しかしザビエルは日本滞在の初期から、日本人が宗教と思想や学芸において深く中国の文物を尊敬して学んでいることを見て、中国にキリスト教を伝える必要を痛感しており、ひそかに中国布教の決意をしていたことが彼の書簡からうかがえます。マラッカでは司令官からの妨害と確執があり、鎖国状態の明に入国する困難から中国行きの船を確保することが困難でした。ザビエルはフェレイラと案内の中国人一人を従えて、単身広東省の上川島に上陸しますが、そこで熱病に罹り、一五五二年の十二月に四六歳で没します。遺体は一時上川島に埋葬されますが、三ヶ月後に掘り起こされた時、腐敗も損傷もなく、ミイラ化した状態でマラッカを経てゴアに運ばれ、ゴアの教会に保管されます。ザビエルの死去を知らなかったロヨラは、ザビエルをイエズス会総長の後任として期待してローマに呼び戻そうとしていたことが、当時の彼の書簡からうかがえます。ザビエルは一六二二年に列聖され、「カトリック布教の保護聖人」とされます。

キリシタン大名の出現

ザビエルと弟子たちによる熱烈な布教活動とポルトガル貿易の利益を求める動機が重なって、戦国時代の大名の中にもキリスト教を受け入れ、カトリックの洗礼名をもつ者が現れます。いわゆる「キリシタン大名」の出現です。大友宗麟、大村純忠、有馬晴信、高山右近、小西行長らが著名です。その二、三の事例をここで簡単に見ておきましょう。
戦国大名の最大の関心事は領国の維持と覇権の拡大であり、そのための戦いを有利に進めることでした。戦いに際しては、神仏の加護を祈り、家中の者たちの士気を高め、強く団結することが必要でした。そのため個人的にはいくらキリスト教を受け入れていても家臣団の神仏信仰を無視できず、改宗は極めて困難でした。たとえば豊後の領主大友宗麟の場合、若くしてキリスト教に接し、ザビエルにも会っています。ポルトガル側が貿易の条件とした布教活動の許可を積極的に行って、イエズス会の宣教師を優遇しています。宗麟は南蛮貿易に期待し、ゴアのインド副王との交易を望んでいました。しかし伝統宗教の家臣団の反対によって改宗には踏み切れません。彼が受洗、すなわち改宗に踏み切ったのは、晩年に所領豊後を嫡子に委ね、救援を依頼された日向に侵攻する直前です。救援の戦いには破れますが、隠居領の津久見に全領民を改宗させてキリシタン領主としての支配を実現します。豊後を譲られた嫡子義統は、僧侶を憎み寺院を破壊し寺領を家臣にに与えるなどし、それをイエズス会の論理を模して織田信長の社寺破壊を引き合いに出して正当化したので、家臣団から抗議を受けています。
肥前の大村を拠点とする武将大村純忠は、有馬家からの養子ですが、実子をいただく反抗勢力と戦うためにイエズス会の力に依存、開戦前に自身も受洗して改宗(一五六三年)、領地の横瀬浦を貿易港として寄進し、軍旗や衣装に十字架を用いています。横瀬浦が戦乱で焼失したので、後に長崎港を寄進しています。同じく肥前有馬の領主有馬晴信は、対抗する龍造寺家と戦うためにキリシタン大名の大村純忠と同盟、苦心して家中を説得、自らも洗礼を受け、イエズス会も籠城する有馬方の諸城に武器や兵糧を送って援助します。こうしてイエズス会の力で領地を維持して大名でありえた有馬晴信の家中では、イエズス会の権威は絶大となり、晴信を上回ることもありました。イエズス会宣教師の要請で日本の少年少女を進物としてインド副王に送ったことで領民の反発を招き、司祭たちの要求に従って社寺を破壊したことを、後にそれは本意ではなかったと反省しています。
高山右近は摂津高山の飛騨守の家に生まれ(一五五二年)、一二歳で受洗、二一歳で高槻城城主となっています。荒木村重に属していましたが、村重が信長に反すると信長にも忠節を示し、山崎合戦では秀吉に就き、その後の諸国平定で武勲をたてて、明石に領地を得ています。その間、高槻、京都、安土などで教会堂を建設、領民の改宗に尽力、その高潔な人柄で小西行長、黒田孝高、蒲生氏郷らの有力武将をキリシタン信仰に導いています。右近は茶人で利休の弟子であり、同じく茶人の友人細川忠興に教えを説きますが、それによって彼の妻(明智光秀の娘)が信仰に入って細川ガラシャとなります。後に伴天連追放令を発した秀吉から、直前に棄教を迫られますが拒否したため、領内の社寺を破壊し、家臣に信仰を強要したという理由で、所領を没収されることになります。さらに江戸幕府の禁教令によって、フィリピンに追放されて、そこで没します(一六一五年)。

巡察師ヴァリニャーノ

ザビエル亡き後も日本の布教はイエズス会の主導の下に進められますが、フランシスコ会などの托鉢修道会なども参加して、複雑な様相を見せるようになります。イエズス会はイタリア出身の会士ヴァリニャーノを東インド巡察師として派遣、日本を含む東アジアの布教活動を統括してリードします。ヴァリニャーノはマカオを拠点として日本にも三回来て、困難な時期を迎えていた日本での布教や教育をイエズス会の方針に従って再建しています。彼は東アジアの布教全般を主導しており、来日前にマカオで中国布教の開始を指示し、マテオ・リッチらはマカオで中国語を学習し、中国布教の準備をしています。
一五七九年の第一次巡察の時は、大村純忠と協議して長崎港の寄進を受け、長崎をイエズス会領としています。以後イエズス会は長崎を拠点として活動します。またヴァリニャーノはセミナリオやコレジオなどの教育機関を設立、日本人聖職者の要請を開始します。そしてセミナリオに学ぶ少年をヨーロッパに派遣することを企画し、離日に際して使節団をインドまで引率しています。ヴァリニャーノは日本におけるイエズス会の布教の成果を教皇に見せるために、この企画を立てたのでしょう。九州のキリシタン大名の大友・大村・有馬の三氏がその代理として四人の少年を選びます。これが「天正少年使節」または「天正遣欧使節」と呼ばれ、日本とヨーロッパの接触開始の象徴となります。一行は長崎を発ち、マカオ、マラッカ、ゴアを経てリスボンに到着し、ポルトガルを巡回してマドリードでフィリペ二世に謁見、さらにスペインを巡回、ローマで教皇に謁見することになります。この使節団はヨーロッパのキリスト教国の威容に圧倒されて帰国しますが、その時にグーテンベルグ式の活版印刷機をもたらしています。
一五九〇年の第二次巡察の時は、少し前に秀吉が伴天連追放令(一五八七年)を出していたので、表向きはインド副王の使節として来日しています。この時の最大の課題はこの追放令に対処することでしたが、同時に数次の教会会議を開いてイエズス会の布教方針を確立するために奔走しています。異教国の日本ではヨーロッパにおける倫理をそのまま適用できず、身分制度を認めるなど日本向けの倫理を確立する必要があるとして、日本の現状に「適応」するように努力しています。一五九八年の第三次巡察では、日本・中国の巡察師としての来日であり、主教区に昇格した日本管区に着任したセルケイラ司教と協力して、日本布教の進展に努めています。その中で注目すべき点を二、三取り上げておきます。
長崎がイエズス会に寄進されてからは、長崎がイエズス会の活動拠点となりましたが、長崎は貿易港としてマカオ・長崎間の生糸貿易をほとんど独占します。日本布教の莫大な経費をまかなうのに、本国からの送金では到底足りないので、不足を補うためにイエズス会もその貿易に関わるようになりますが、その際ポルトガルとスペインの利害が対立することもありました。さらに日本布教のためにまず日本を軍事的に征服すべきかどうかが議論され、おもにスペイン系のイエズス会士が長崎を要塞化して日本を軍事征服することを主張します。イタリア出身のヴァリニャーノは、常にポルトガル系とスペイン系の会士のバランスを図ってきましたが、この時も慎重論を唱えて軍事行動を思いとどまらせています。





(私論.私見)