| 弥生時代の日本宗教 |
更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.2.16日
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、「日本の宗教史大全」をものしておくことにする。 |
弥生時代
日本列島の原始社会は、紀元前三世紀から二世紀にかけて徐々に縄文文化の時代から弥生文化の時代に移行していきます。この列島にまで伝えられてきたイネ作りが九州北部からこの列島の各地に伝えられ、農耕社会の成立とともに、農耕儀礼を中心に縄文文化とは異質な新しい弥生文化が形成されることになります。人類史上の大きな変革となる農耕革命はこの時期に日本列島に及んできます。前一世紀には大規模な農耕集落があらわれ、川の下流の沖積平野に水田が広がります。東日本でも紀元後の二世紀には静岡県の登呂遺跡に見られるような大きな農耕集落があらわれます。弥生時代には稲作の伝来に伴って、大陸から青銅器や鉄器が伝えられ、金属器の使用と製作が始まります。弥生時代の遺跡からは青銅製の鏡、銅剣と銅戈(九州に多い)、銅鐸(近畿に多い)などが出土していますが、これらの金属器は宗教祭儀で用いられたと考えられます。集落の近くに共同墓地があり、土葬や甕棺墓も多く見られますが、この時代には大きな板石を石で支えた支石墓が見られるようになります。また周囲に四角く溝を巡らした方形周溝墓もあらわれています(福岡県の三雲遺跡)。これらの大きな墓には多くの大陸渡来の高級な副葬品が見られ、富と権力の集中がうかがわれます。
弥生時代の宗教は稲作の農耕儀礼を基本として発達しました。原始的な農作業は自然的な災害には無力であったので、神や霊が災いを防ぎ助けてくれるように、決まった時期に、決まった形で集団で祭りを行いました。稲作農業では春の耕作の開始と秋の収穫後の祭りが中心で、イネの霊や土地の神に献げ物を供えて、イネの実りを祈願する祭りを行いました。この弥生時代に始まった農耕祭祀は現代にも続いており、日本文化の基層となっています。このような農耕民の集落(ムラ)がいくつか統合されて一つの国(クニ)になっていきますが、その統合の仕方にはまず宗教による統合があったと考えられます。この時期の人間の生活はすべてが宗教によって支配されていたからです。弥生時代の国の統合を示している重要な遺跡に、北九州の吉野ケ里遺跡があります。この遺跡が示している大規模な環濠集落は、弥生時代の初期から始まり、中期と後期まで拡大を続け、後期には二重の環濠で囲まれ多くの建造物と墓地を有する大規模な集落になっています。防護柵をもつ環濠を二重にめぐらしている事実は、この時代には他のムラを武力で統合しようとする戦争があったことを物語っていますが、中央に最も重視されたと見られる建物の奥まった部屋には、神とか霊が降るとされる依代(ヨリシロ)の榊を立てて、シャマンとして巫女が神のお告げを受けている場面が模型で再現されています。この光景はわたしたちに、邪馬台国の女王卑弥呼(ヒミコ)を思い起こさせます。
二世紀の中頃に倭国で内乱があり、それを克服するために邪馬台国の卑弥呼が擁立されて王となり、三十余の小国の連合を統率します。卑弥呼は、神がかりして天にある神と交流し、神のお告げを伝えるシャマンであり、そばに仕える男性に補佐されて政治や軍事を統率していた巫王です。この女王は独身で、常に宮殿の奥まった部屋にいて姿を現わすことなく、飲食も一人の男性に委ねられ、原始国家によく見られる「幽閉された王」を思わせます。卑弥呼は二三九年に魏の明帝に使者を送って朝貢し、「親魏倭王」の称号を授けられました。亡くなった時には大きな墓が造られ、奴婢百人余りが殉葬されたといいます。この邪馬台国の例に見られるように、弥生時代の後期には、かなりの規模のクニが成立し、権力が大きくなり、統治者の墓も大きくなって、次の古墳時代に入っていきます。
(私論.私見)