| 大和王朝時代 |
更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.2.16日
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、「日本の宗教史大全」をものしておくことにする。 |
古墳時代
三世紀末から近畿地方を中心に各地に古墳が築かれるようになり、七世紀頃まで続きます。この時代には、イネを主とする農業生産が発展して、各地に豪族があらわれ、クニをつくります。古墳時代の後期(六~七世紀)には各地の国々を支配するようになったヤマト政権が古代統一国家を形成するようになります。全国各地にある大規模な古墳は、このような大小の国々の支配者にために築かれたものです。この古墳時代の宗教は、そこに葬られた権力者のための副葬品や古墳を取り囲む位置で発掘される埴輪などから、またこの時代の各地の祭祀遺跡から推測されます。さらに当時の宗教観念は、この時代からの伝承が編纂された歴史書である『古事記』や『日本書紀』、ほぼ同じ時代に成立していた『風土記』『古語拾遺』『万葉集』から知ることができます。
古墳時代の宗教は、弥生時代の宗教を受け継いで、イネの農耕儀礼を中心に、それに祖霊崇拝が結びつき、太陽、月、大地、山岳、岩石、水などの自然物、また風、雨、雷などの自然現象を神として崇拝していました。この時代の日本人の宗教は、集団による祭りの宗教です。祭りの基本は、イネの実りを得るために行われる春の予祝祭トシゴイと秋の収穫祭ニイナメです。祖霊や自然、動植物の神の祭りも行われました。祭りはシメ(注連)などで聖別された場所に、サカキなどの依代(ヨリシロ)を立てて神を迎え、そこに降った神に土器に盛った飲食物の神饌(しんせん)を供え、玉、石、金属の器物や衣などの幣(へい)帛(はく)をささげました。次に祭りを取り仕切る祭司が祝詞(のりと)をささげ、祭る側の願望を伝え、イネの稔りと集団の繁栄に力を示すように神に祈願します。最後に神饌を全員で飲食するナオライ(直会)が行われ、祭具は砕かれて地に埋められます。この時代の祭りには、神社などの建物は造られていません。
祭られる神は、おもに土地の神です。土地神はイネを稔らせる農業神であり、集団を存続させ繁栄させる力をもつ神ですから、やがて集団の祖先神とされるようになります。他に山岳の神ヤマツミ、海の神ワタツミ、その他多種多様な自然物、自然現象、動植物が神とされました。産み育てる働きはムスビ、子を産む力はイザナギとイザナミ、腕力はタチカラオ、知力はオモイカネ、災害はマガツヒの神の働きとされます。神に仕えるには、人間は罪とか穢れを除いて清浄であることが必要であり、外から付着する穢れを払い落とすハライ(祓)、とくに水で洗い流すミソギ(禊)が行われました。さらに完全になるために一定期間禁忌(タブー)を守るイミ(忌)が求められました。この世と別の他界については、天には神々の世界である高天原がり、地上にはこの世のナカツクニ、地下には死者が住むヨモツクニがあるという考えが、ヤマト朝廷の進出とともに支配的になってきていましたが、この世のほかに海の彼方にはトコヨ(常世)があるという観念もありました。
この時代の理解には、この時代の宗教と文化に大きな影響を与えた渡来人の活動が欠かせません。四世紀の末頃から日本と朝鮮半島や中国大陸との交流が盛んになり、時には朝鮮の百済、新羅、高句麗とは戦争までしています。それらの地域から渡来して日本に定住する者も多く、彼らによって五世紀から六世紀にかけて儒教、道教、仏教などの宗教や、古代中国の思想や多くの新しい技術が伝えられます。中でも文字(漢字)の使用が始まったことは、その後の日本文化に巨大な影響を与えることになります。渡来人は畿内の地域に一定の居住地を与えられ、やがて氏族を形成し、各種の学芸や技術によって朝廷から一定の世襲職の地位を与えられます。この時代の最新技術は渡来人が独占していました。中でも文筆を専門とする諸氏は、徴税や出納の記録を担当して、ヤマト政権の行政技術と各方面の文化を飛躍的に高めます。とくに中国の文化を身につけた百済や高句麗からの渡来人の活躍は目覚ましく、大化革新の前後にかけて、中央集権的な国家と飛鳥文化の発展に大きく寄与しています。ところが六六三年の白村江の戦いで百済を救援したヤマト政権の水軍が唐の水軍に大敗して百済が滅びた時、百済からの多数の貴族や官人が日本に亡命し、その後しばらくして唐と連合した新羅によって滅ぼされた高句麗からも、王族を含む多数が日本に亡命してきています。これらの亡命渡来人が最後の波となって、八世紀には渡来人の影響は散発的になり、鑑真の渡来(七五三年)などの僅かなものになります。九世紀に入る頃には渡来人の独自の歴史的意義はなくなります。
基層宗教
このように日本人が文字を使うことができるようになり、歴史の記録が始まる時代までの数千年の長い期間にこの列島で営まれてきた生活と、その共同体を統合する宗教が、日本人の霊性に深く刻み込まれて、その後の歴史において日本人の宗教と文化の基層となります。この時期の宗教は、後に儒教や道教や仏教などの外来の宗教から影響されて宗教としての形式をとり、「神道」と呼ばれるようになります。神道は諸宗教の一つとして時代と状況に応じて様々な形をとって現れます。しかし、歴史時代以前の長い時代に刻み込まれた民族の霊性は、国家とか各種の共同体がいかなる宗教形態をとっても、その基底とか基層となって、上層に重なってくる宗教と何らかの形で重なってきます。「三つ子の魂、百まで」という諺がありますが、それは日本の宗教史にも当てはまります。その典型的な形が、この日本の基層宗教と後に鎮護国家の宗教として朝廷に信奉されるようになる外来宗教の仏教との重なりです。この重なりが「神仏習合」と呼ばれて、日本の宗教史の軸となります。この重なりは、以下の諸項で見ることになります。
Ⅱ 統一国家の形成と仏教伝来
統一国家の形成
先に弥生時代と古墳時代の項でみたように、この時代には稲作農業が発展して、列島の各地に定住農民の集落ムラが作られ、富の蓄積によって多くのムラをまとめる豪族が現れてクニが形成されます。そうするとこの時代の後期(六~七世紀)には、その国々を統合して支配しようとする動きが活発になります。その中で九州の日向の高千穂宮にいた一人(後に神武と呼ばれる人物)が兄と計い、全地を支配する地を求めて、はるばる東方を目指して軍を進め、宇佐、筑紫、安芸、吉備を経由して瀬戸内海を東進、難波に至ります。しかしその地の豪族の長髄彦(ナガスネヒコ)と戦い、兄の五瀬命(イツセノミコト)を失います。そこで南に回り、困難な旅をして熊野を北上、大和の宇陀に出て、そこの諸豪族を従わせて、大和平定を成し遂げます。彼は大和に成立した政権の初代の王として、後の子孫から神武天皇と呼ばれるようになります。この大和に成立した王権を中心にした一定の臣下の集団組織が大和朝廷となります。
神武が初代の天皇として即位した年代は、後述の古事記や日本書紀によれば、辛酉の年に天命が改まるとする古代中国の思想から、日本書紀はその成立から一千年以上も遡らせて、紀元前六六〇年の辛酉の年に橿原で即位したとしてますが、これは神武天皇をアマテラスの直系の子孫として権威づけるための神話であり、実際の神武東征は古墳時代の後期(六世紀)の頃であったと見られます。大和朝廷はまだ蘇我氏などの豪族の実権支配を克服できませんでしたが、藤原氏と組んだ中大兄皇子(後の天智天皇)が六四五年にクーデタを起こし、宮中で蘇我入鹿を暗殺、自分は皇太子として国政を掌握、年号を大化と改め、都を難波に移し、次々と中央集権的な改革を進めます(大化革新)。当時は中国に隋・唐の強大な中央集権国家が勢威を振るっていたので、皇子はこの国を中央集権国家として統一して対抗する必要があったのでしょう。六四六年には改新の詔勅を公布します。その根幹は、土地・人民をすべて公有化して国に登録させ、耕地を人民に公平に割り当てるための「班田収授」です。この律令(天皇が発する法令)による統治の天皇制中央集権国家が機能するまでにはなお長い年月がかかり、ほぼ半世紀後の大宝律令(七〇一年)をもってほぼ完成したと見られます。こうして大和政権は七世紀には各地の豪族を服属させて、この列島を一つの中央集権国家として形成します。大和政権が地方の豪族を服属させていく過程の一例として、出雲地方の豪族が大和朝廷の圧力に屈してその支配権を譲渡する過程が、後の記紀神話に大国主の国譲り神話として描かれています(後述)。
神武天皇の後、政権の所在地は変わりますが、推古天皇(即位五九二年)以後は飛鳥の各地を都としたので、奈良遷都(七一〇年)に至るまでの時代を飛鳥時代と呼んでいます。この間、難波や近江大津京への短期間の遷都もありましたが、桓武天皇(即位七八一年)が都を平安京に移すまで、都は平城京と呼ばれる奈良にあり、都が奈良にあった時代が奈良時代と呼ばれます。奈良時代は八世紀初頭からその末期まで続き、ほぼ八世紀の大半がこの時代になります。この時代は、それまでの日本文化が花開いた時代であり、その時代の中心になる聖武天皇の年号から天平文化とも呼ばれます。その文化の意義と問題は後続する項で概略を見ることになります。こうして神武以来の飛鳥時代と奈良時代は、古代日本の文化が文字の使用により明確な形をとって現れた時代であり、奈良平野は日本の古代国家の揺籃の地となります。国家という大きな集団を統制するためには、文字による記録が必要です。
(私論.私見)