第二次世界大戦後

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.2.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「日本の宗教史大全」をものしておくことにする。




Ⅷ 戦後日本の宗教

国家神道の解体と信教の自由

一九三一年に起こった満州事変から始まった日中間の対立は、一九三七年の盧溝橋事件で全面戦争となり、日中戦争が始まります。この日中戦争は予想に反して長期化して泥沼化します。その間、一九三九年にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発、ドイツは短期間でフランスなどに進撃し、ヨーロッパに戦禍が広がります。日本は一九四〇年に結ばれた日独伊三国と同盟関係に入っていたので、一九四一年にアメリカとイギリスに向かって開戦して太平洋戦争に突入した時、その戦争は欧米とアジアを覆う世界戦争となります。この第二次世界大戦は、一九四五年のドイツの降伏と日本の降伏によって終結します。この日中戦争と太平洋戦争は、アジアの諸国に大きな戦争被害を与え、日本には膨大な戦死者と原爆投下を含む空爆による国土(とくに大都市)の壊滅的な被害を受けて、無条件降伏の悲惨な結果に終わります。この日本の歴史で未曾有の体験の後の時代、すなわち、われわれが生きている現代に、日本の宗教はどの方向に向かったのでしょうか。本節「日本の宗教史」の最後に、それを見ておきたいと思います。
敗戦後の日本の宗教に起こった最初の衝撃は、連合国総司令部から発せられた「神道指令」と、天皇自身による人間宣言による国家神道の解体です。戦争終結の年の一二月に、総司令部は「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督、弘布の廃止に関する件」という指令を発して、国家と神社神道との完全な分離を命じます。これは国家神道の解体指令です。これは国家神道が日本を戦争に追い込んだ歴史を知る連合国が、ポッダム宣言に盛り込まれている政教分離の原則に従って発した指令であって、神社神道という宗教を禁止したのではありません。この指令は、国家と宗教の分離の指令、「国教分離指令」ですが、「神道指令」と通称されています。翌年の元日に天皇が詔勅を出して、天皇は現人神ではないと神格を否定します。これが天皇の「人間宣言」と呼ばれることになります。この神道指令と天皇の人間宣言によって、国民を戦争に動員した国家神道は解体され、一九四六年一一月に公布された憲法に信教の自由と政教分離の原則が明記されるにいたります(憲法二〇条、八九条参照)。
連合国は一九四六年に極東国際軍事裁判(東京裁判)を開き、この戦争を指導した立場の二八名をA級戦犯として起訴して、「平和に対する罪」、「人道に対する罪」などで七名を絞首刑、他を禁固刑に処しました。その際、裁判を主導したアメリカの高度な政治的判断から天皇を訴追しませんでした。天皇は敗戦国の最高責任者として起訴されず、天皇制は存続しましたが、新しく制定された日本国憲法は天皇主権を否定、天皇はもはや「神聖にして侵すべからざる統治者」ではなく、国民統合の象徴であり、国政に関する権能を持たず、その地位は国民の総意に基づくと規定、主権が国民にあることを明記します。国家神道の時代には国家祭儀とされていた数種の神道祭儀も、天皇家の私的祭儀となります。政教分離の憲法下で、国家神道は存在しませんが、神社神道は神社本庁に統合された一つの宗教法人として、その存続を認められております。民間の宗教団体として神社本庁が設置され、伊勢神宮を本宗として大半の神社を組織します。敗戦によって大きな打撃を受けた諸神社も、日本の経済が復興すると共に再建復旧されて、民族信仰としての神道の根強さを見せています。神宮皇學館も大学として再建されます。各地の神社は地域社会の伝統の核として維持され、その祭礼は郷土愛の結集点として氏子によって盛大に行われています。しかし、神道の教理とか思想が広く国民の宗教性とか霊性を育てる使命を果たしているとは見受けられません。近年では靖国神社問題に見られるように、国家神道的ないし皇国史観的な底流が折に触れて顔をのぞかせています。
既成の伝統的仏教教団は、江戸時代以来の檀家制度の惰性で、大きな宗教勢力であることを続けていますが、戦後の混乱期に国民の精神的拠り所となって活動することは少なく、もっぱら葬儀を中心とする宗教儀礼の執行によって国民生活と結びついてきました。戦後の農地改革や家族構造の変化により農村の社会構造は激変、さらに朝鮮戦争による特需などで始まった経済復興期以後の都市部への人口流出によって、農村を基盤とする真宗など仏教教団は大きく動揺します。都市では生活が流動化して、もはや家単位の菩提寺・檀家意識はなくなります。その中から一九六一年の宗祖の遠忌などを機縁として、同朋運動、おてつぎ運動、一隅を照らす運動など、「家の宗教から個人の信仰へ」を共通のスローガンとして、仏教の近代化を目指す改革運動が始まってきます。
キリスト教は、それまでの敵意と偏見や迫害がなくなり、戦後にはキリスト教の連合国、とくにアメリカからの援助物資や宣教師たちの活発な活動によって活気づき、一種のキリスト教ブームといった現象が起こります。敗戦の翌年にプロテスタント諸派が合同した日本基督教団は、賀川豊彦らを先頭に「新日本建設キリスト教運動」を開始、三年で信徒数を倍以上に伸ばしています。その間、米国聖書協会から二四〇万部の聖書の寄贈があり、書物に飢えていた知識人と青年に信徒を増やしています。敗戦二年後の一九四七年には社会党が第一党となり、キリスト教徒の片山哲の内閣が出現しています。カトリックも地味な布教活動を続けますが、日本が経済復興期に入ると、神道と仏教の伝統的宗教が息を吹き返してキリスト教は退潮、プロテスタントとカトリックを合わせて日本総人口の一パーセント程度に止まります。しかし中産知識層を担い手とする宗教として、その後の日本の学術や思想に大きな影響を及ぼし、戦後日本の発展に貢献しています。

新宗教の展開ー 神道系新宗教について

経済復興を成し遂げた日本は人口が大都市に集中、現代都市の世俗化と人口の流動化の結果、宗教も変容していきます(本書二一七頁以下のコックス『世俗都市』についての項を参照)。現代都市において世俗化と社会構造の変化によって伸びなやむ伝統的既成宗教に代わって、日本では新興宗教と呼ばれる新宗教が大いに発展します。新宗教といっても天理教や金光教のように江戸末期から明治時代にかけて活動しているものから、戦後に開教したものまで、また神道系や仏教系など様々です。しかしそれらの新宗教の目覚ましい進展が、戦後日本の宗教の特色となっています。ここでそれらの新宗教の代表的なものを取り上げて、その概略とその宗教史的意義を見ておきましょう。
前述した国家神道の形成過程で、国家の祭祀となった神社神道とは区別された神道系の諸宗教を、教派神道とか宗派神道といいますが、それが一三ありましたので神道一三派ともいいます。その宗教は特定の個人が唱えた創唱宗教であり、国家神道とは異なる民衆の宗教でもあります。国家神道の体制下では、仏教、キリスト教と並んで公認された宗教として、神仏基の三教として国の宗教統制に取り込まれることになります。しかし戦後に国家神道が解体されると、これらの教派神道はそれぞれ独立の宗教としての活動を開始します。その中で注目すべきは天理教と金光教でしょう。
天理教は、江戸末期の一八三八年に、現在の奈良県天理市あたりの地主の婦人、中山みきが開教しています。神道系の新宗教の中では一八一四年開教の黒住教に次いで古いものです。みきは浄土宗の信徒でしたが、長男の病気治癒のために山伏と祈祷を共にしたとき、神がかりして「天の神、てんりんおうが三千世界のたすけのために天降った」と宣言します。そして近隣の農民たちに病気なおしのたすけによって「親神てんりんおう」の信仰を広めていきます。みきは既成の寺院、神社、山伏から圧迫されますが、それに対抗して神道化を進め、幕末の慶応三年に神道家元の吉田家から「天輪王明神」として公認されます。明治維新後、病気なおしの活動で河内や大阪に信者が急増、各地に講社組織ができてきます。明治新政府の国民教化政策の下に厳しい弾圧を受け、礼拝所の「かんろだい」を破壊されたりしますが、みきは信仰は政治支配に優越するとして、政府に屈服しませんでした。みきは教義歌の「おふでさき」を書き、独自の創造神話「こふき(泥海古記)」をまとめます。
一八八七年(明治二〇年)にみきが没した後、大工出身の飯降伊蔵が本席となり、神がかりして「おさしづ」を出して教団を指導、その後には中山家の当主が「真柱」として教団を統率、現在に至っています。天理教の教義は、天理王命を一神教的な親神とし、独自の創造神話をもち、神が人間を創造した聖地が中山家の地「おやさと」であり、さらに、神は時が来て教祖を神の社として世界の救済を行うという、独特の救済論を持っています。神はすべての人間が豊かで平和な「陽気ぐらし」を願っているので、人間は欲などの悪い心を捨て、自らを神からの借りものであるとして、神への奉仕に励むように求めています。天理教は人間本位で現世的な民衆宗教であり、世直しの志向が極めて強い宗教です。しかし、明治初期に国家神道を目指す政府によって弾圧された経験から、日清・日露戦争時には政府の公認を得るために、本来の民衆宗教の平和主義や平等観の上に無理に天皇崇拝の国家神道的教義を重ねたために、矛盾を孕んだ教義構造となっていました。戦後には、この人為的な教義を変えて本来の教祖の信仰に帰ろうとする復元運動が進められます。この全期間を通じて、天理教は真柱の統率の下に大教会、分教会、宣教所の組織を整え、海外にも進出して大教団に発展し、天理大学や病院・図書館などの文化設備も整えて、戦後の新宗教のモデルとなっています。
天理教より少し遅れて、幕末ペリー来航数年後の一八五九年に、備中の川手文治郎が金神のお示しを受けたとして「金光大神」と名乗り、天地金乃神を説く活動を始め、布教の公許を得るために一八六七年(慶応三年)に白川家から金神社神主の補任状を受けています。金光大神こと文治郎が説く天地金乃神は、もはや江戸時代の祟り神としての金神ではなく、大地の神、愛の神であり、世界の総氏神とされ、最高神的な救済神としての性格をもつ神です。誠実勤勉に生きた農民文治郎が、祟り神の金神が実は大祖神であり救済者であることを体験し、その神を天地金乃神として説いたところから始まった新宗教です。文治郎は旧来の宗教から来ている日柄や方位などの俗信や禁忌を否定、「実意丁寧神信心」の信仰生活を説き勧め、病気や出産から農事に至るまでの相談を受け、その神に取り次いで布教します。教線は岡山から瀬戸内、大阪、京都へと伸び東京に至ります。一八八三年 の文治郎没には、後継者たちによって教義の整備がなされ、一九〇〇年に政府から独立を公認されるにいたります。
金光教の布教師であった出口なおが大本教を開き、その大本教が国家神道の政府から厳しい弾圧を受けたことは、先に触れました。その他にも、天理教から分かれた「ほんみち」教団とか大本教から出た世界救世教とか生長の家とか多くの神道系の新宗教が出ています。仏教系ではとくに法華信仰の新宗教が盛んで、霊友会とそこから出た立正佼成会、また創価学会の活動が目立っています。新宗教はすでに戦前から活動していましたが、戦争が終わるまでは、戦争に積極的に協力した霊友会とか生長の家などを例外として、多くは国家神道に立つ国家から抑圧・弾圧を受けて活動を抑えられていました。戦後の日本国憲法によって信教の自由が保証され、一九五一年に宗教法人法が施行されると、多くの新宗教が宗教法人となって、国からの干渉を受けることなく独立の布教活動を活発に進めるようになります。戦後の日本は神道、仏教、キリスト教の既成の伝統的な宗教の諸宗派と並んで多数の新宗教が乱立、宗教の博覧会の様相を呈するようになります。新宗教は神道系、仏教系、その他の諸教に分かれますが、その中から代表的な例を取り上げて見ておきましょう。
神道系の新宗教では、老舗の天理教と金光教は戦前の国家神道的な教義を上乗せするような妥協を強いられましたが、戦後はそれを除いて本来の姿を取り戻し発展しています。大本教は王仁三郎を苑主として愛善苑として復活しています。大本教から分かれた谷口雅春が始めた生長の家は、神仏基の三宗教と西欧の学説を総合すると称して、宇宙を「生命の実相」であるとし、病気治しと出版で教勢を伸ばします。戦時には天皇絶対と聖戦遂行を唱えて、戦争に積極的に協力していました。大本教からは岡田茂吉が出て、世界救世教を開宗しています。「ひとのみち」教団は、大阪で元黄檗僧の御木徳一と子の御木徳近が開いた新宗教で、太陽神・天照大神信仰を掲げ、教育勅語を教典とし天皇崇拝を説きましたが、その解釈が異端的だとして政府から弾圧され解散します。しかし戦後は神道色を取り除いて転身、名称を「パーフェクト・リバティー」(PL)と改称、人生の幸福を追求する活動を組織して、大きな教団に成長します。

新宗教の展開 ー 仏教系新宗教について

戦後の新宗教の中では仏教系、とくに法華系の新宗教が目立ちます。すでに大正期に久保角太郎が法華行者西田利蔵の万霊供養の法華信仰を受け継いで、その義姉(久保の実兄の妻)で神がかりが起こる小谷喜美を教祖として、法華経の功徳と先祖供養を結びつけた教義をととのえ、「大日本霊友会」を立ち上げます。その教義によると、あらゆる霊は父方と母方の先祖の霊によって友としてつながっており、人は先祖の霊を手あつく供養し、家族一同が懺悔滅罪することで、悪い因縁が切れ、神とか霊の加護を受けて、家と国家の安泰と幸福を得ることができるとします。昭和初期の皇国史観の中で日本を天皇を中心とする家族と見る家族国家観が高まると、家中心の信仰と自己抑制の倫理を説いて、都市の家庭婦人の間に広まり、やがて農村部にも拡大していきます。戦時中に霊友会は戦争に積極的に協力し、東京を中心に大きく発展し、そこから孝道教団や立正佼成会の創立者が出たように、戦後の新宗教の母体となっています。
立正佼成会は、霊友会から分かれた庭野日敬が霊能者の長沼妙佼と組んではじめた法華系在家仏教の教団です。日敬は霊友会の先祖の成仏と人格の完成を求める信仰を受け継ぎながら、法華経への帰依を鮮明にして、一九三八年に「大日本立正公成会」を出発させます(後に立正佼成会と改名)。日敬は法華信仰から因縁を強調、様々な民間信仰や姓名判断を取り入れて教義をととのえ、信者が少人数のサークルで信仰体験を話しあい教義を学ぶ場としての法座を中心に活発な布教活動を進め、さらにその法座を地域ブロックに組織して、組織の近代化と会員の急増に成功、全国に二百数十の教会を有する大教団にします。東京に本部を置き、周辺に学校、病院、出版社などを設立、さらに財団を設立して国際的な宗教協力を通じて平和運動に貢献した人物に賞を贈って、あらゆる宗教の協力を唱え、宗教者の国際会議を開催するなど、戦後の新宗教界を主導しています。
創価学会も日蓮系の新宗教です。一九三〇年に牧口常三郎と戸田城聖が創価教育学会を創立し、法華経を唯一の経典として他宗を排撃、戦時中は大麻(神宮神札)の奉斎を拒否して弾圧され、牧口と戸田は投獄されます。戦後に出獄した戸田は、獄死した牧口の志を生かすべく、一九四六年に「創価学会」を発足させ、第二代会長として活動します。戸田は機関紙「聖教新聞」を創刊、広宣流布による折伏大行進運動を展開します。創価学会は日蓮正宗の在家信徒団体ですが、本山の大石寺から本尊を受けて宗教としての自主性を確立、一方で大御本尊を幸福製造機と呼んで現世利益を掲げる折伏活動を進め、大きな教団になっていきます。学会は一九五五年からその組織力を活かして政界に進出、一九六七年には衆議院議員を出すにいたります。戸田は「王仏冥合論」を発表、国立戒壇を建てて日蓮正宗を国教にすることを目指します。一九六〇年に池田大作が会長に就任、その指導で学会は宗教政党の公明党をつくり、政権獲得の構想を立てます。しかし日蓮正宗を国教にしようとする創価学会の政教一致路線は、政教分離の憲法下で活動する公明党の方向とは矛盾し、創価学会は国立戒壇の主張を取り下げ、一九七〇年に公明党との分離を表明します。創価学会は信者を少人数の座談会に組織、また青年部や婦人部の組織力を整え、その並外れた行動力で海外にも進出、強い組織を持つ日本最大の宗教団体に発展します。創価学会はもともと日蓮正宗の在家信者団体でしたが、一九九一年に日蓮正宗が創価学会を破門することで決裂、創価学会は既成仏教の信者団体から一つの新宗教として再出発します。
仏教系の新宗教には、法華系の新宗教だけでなく、根本仏教を標榜する新宗教もあります。桐山靖雄が一九七八年に開宗した「阿含宗」は、ブッダの純粋な教説は最初期のパーリ語の阿含経にあるとして、阿含経を基本聖典としていますが、その宗旨の表現あるいは実行を大規模な護摩法要によって誇示しています。その護摩焚きは大乗仏教の一つである密教の秘法の一つですから、阿含宗は小乗の中心経典である阿含経と大乗の密教行法の奇妙な混合であると言えます。阿含宗は「真正仏舎利を本尊とし、釈尊直説の成仏法を修行する」ことを宗旨としており、チベットからもたらされた本物のシャカの遺骨とされる一片を本尊とし、因縁からの解脱のために阿含経の修行法を説いています。そして成仏していない先祖の霊が家庭に霊障をもたらしているとして先祖霊を供養する法要を要求するなど、霊友会系の新仏教であることを示しています。
一九八六年に大川隆法が設立した新宗教「幸福の科学」は、エル・カンターレと呼ばれる至高霊を本尊とし、仏法真理の流布による人類幸福を目指すとしています。孔子や日蓮、さらにイエスやムハンマドまで霊界にいる歴史上の人物と交流して、その霊言を受けたとして多くの霊言集の著作を出し、会の経典「正心法語」や「太陽の法」などを出して会の基本方針を確立、説法活動を展開します。国内と海外に多くの支部や精舎を有し、信者は公称一〇〇〇万人(経典「正心法語」の累計発行部数)となっています。しかし半数以上(創立メンバーも含む)が脱会しているとの報告もあります。会は政界への進出を図り、選挙の度ごとに候補者を立てていますが、創価学会のように国会に議員を出すまでには行っていません。この新宗教は人間を霊的存在とすることを第一の真理として、その幸福を与える宗教としながら、本来合理性を本質として霊界のような超合理世界の根拠にはなり得ない科学を結びつけて「幸福の科学」と名乗るところに、科学万能の現代につけこもうとする異様さを感じます。もっともキリスト教にも「クリスチャン・サイエンス」という一派もありましが、両者の内容はかなり違うようです。





(私論.私見)