| 奈良・平安時代 |
更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.2.16日
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、「日本の宗教史大全」をものしておくことにする。 |
Ⅲ 神仏習合の歴史 ー 日本宗教史の軸として
仏教と日本の基層宗教の重なり
先に見たように、五世紀から六世紀にかけて渡来人によってこの国にも仏教が伝えられ、七世紀に入る頃には聖徳太子らの活躍により仏教は支配層に浸透し、ついに古来の民族的な日本宗教の大祭司ともいうべき立場の天皇まで、仏教の力によって国を治めようとするところまで来ます。八世紀の聖武天皇の場合に見られるように、大陸の圧倒的な先進の文化を背景に、奈良時代の仏教は、この島国の宗教と文化を主導することになります。聖武天皇亡き後、その妃の光明皇后が寄進した天皇の遺品を中心に集められた正倉院の宝物は、盛唐文化の粋を伝えると共に、遠くペルシャの文様を伝える器物もあり、当時栄えていたシルクロードによる東西交流の波が、東端の日本にも及んでいたことが知られます。なお、聖武天皇の妃の光明皇后が仏教への信仰心が篤く、悲田院や施薬院など飢えた人や病人のための施設を作り、当時としては先進的な(仏教には希薄な)社会活動を進めたことは、すでに中国に伝わっていたキリスト教の影響を見る見方もあります。一〇〇年ほど前の七世紀半ばにはペルシャからキリスト教が長安に伝えられて、景教の寺院も建てられていたのですから、ありえないことではありません。神話や宗教の伝播は想像以上に広範囲なものです。
仏教の伝来と共に中国古来の道教と儒教も伝わってきて、その伝来は七世紀から八世紀にかけて本格的になります。道教の陰陽五行説、易、暦、医術、神仙説、呪術も伝わり、これが後に日本独特の陰陽道になります。儒教はすでに四世紀末に百済から阿直岐と王仁が『論語』や『千字文』を献じていますが、六世紀には儒教の経典とされる易経、書経、詩経、春秋、礼記の五教が本格的に学ばれるようになり、これらの知識と理念が古代の律令制国家の形成に大きな力となります。仏教、道教、儒教という中国の宗教文化が、大陸の圧倒的な文化的優位を背景に古代の日本に流入していたことは、平安時代の初めに空海が『三教指帰』を著して、この中国の三宗教を比較して仏教の優れていることを論じたことにも示されています。仏教が国教的な扱いを受けているので、外来の宗教文化と日本の基層宗教の重なりは「神仏習合」と呼ばれていますが、実態は先進の大陸の宗教文化の全体と日本の古来の神祗祭祀の重なりです。
天皇が仏教に帰依したといっても、神々の祭祀と政治を一体とする祭政一致の基本理念は保持され、仏教国家の形成と並行して、日本古来の神々の祭祀が重んじられ、日本独特の神祗制度がつくられ、八世紀初めの大宝令で体系化されます。太政官の上に神祗官が置かれ、全国各地にあった大小の神社が官幣社(神祗官の管轄)と国幣社(国司の管轄)に体系化されました。もともと日本古来の神々には社殿はありませんでしたが、仏教寺院の影響でこの時代では社殿で祭祀が行われるようになっていたのです。この神祗制度により大嘗祭や新嘗祭など宮中の祭祀は国家の祭祀として制度化され、皇室神道となります。この日本古来の祭政一致の理念が、伊勢神宮など皇室神道系の神社では僧尼を忌む建前となり、仏教的な要素を意図的に排除する動きもあり、時代の状況によっては明治期の廃物毀釈の運動になったりします。
奈良・平安時代の神仏習合
平安時代には仮名文字の使用など固有の文化が芽生え始めますが、中国宗教文化の圧倒的な影響は続きます。しかし米作農業を生業とするこの国の民衆は、古来の日本の神々を祭る宗教に生きていました。仏僧の中にも行基や空也のように民衆の中に入って仏法を説き、空海のようにその多才によって民衆の崇敬を集める者もいましたが、全体としては、この国の宗教は世界宗教である仏教と民族宗教であり基層宗教である古来の神々の祭祀が混在することになります。この列島に統一的な国家が成立する奈良時代と平安時代という時期に、その国家の指導層に信奉された仏教は、この国の宗教と文化に圧倒的な影響力を示します。そのことは、日本の成立とその理念を語り、大和朝廷の正統性を主張するための日本神話(記紀神話)の成立にも、仏教の思想が深く浸透している事実からもうかがわれます。後に神道と呼ばれるようになるこの国の基層宗教の上に仏教という世界宗教が重なってくる状態を、普通「神仏習合」と呼んでいますが、これは宗教学でいう宗教混淆(シンクレティズム)とは少し違った独特の様相を示しており、現代に至るまで日本の宗教史を貫く縦糸、または軸としてその理解を欠くことができません。
仏教と民族古来の神々との重なり方には様々な形態がありますが、奈良時代では天にいる日本の神々も、六道(天も地獄や餓鬼など六道の一つ)に輪廻する苦しみから脱していないのであるから、仏教による供養によって救われるという考えから、神社の傍に神宮寺を建てて読経などの供養を行いました。一方この時代では、インドで帝釈天や梵天などヴェーダの神々が仏教を護るものとされたのに倣って、日本でも八幡や稲荷の神々が仏教の保護神とされて崇められることになります。大仏建立に際しても聖武天皇は橘諸兄や行基を伊勢神宮に派遣して成就を祈らせ、天照大神と盧遮那仏(大日如来)は同体であるとの夢告を受けたと伝えられています。奈良末期の道鏡の場合に見られるように宇佐八幡宮は神託で著名でした。平安時代に入りますと、政治的陰謀によって不慮の死を遂げた人の怨霊を祀って、飢饉や疫病を鎮めようとする御霊信仰が行われるようになります。その代表的な事例が、菅原道眞を天神として祀った北野天満宮です。その祀りには仏教の密教儀礼が用いられます。
本地垂跡説
また平安時代には天台教学の影響によって、仏と日本の神々の関係について「本地垂迹」と呼ばれる理論が行われるようになります。天台では法華経を中心の経典として重視しますが、その法華経は前半が迹門と呼ばれ、後半が本門と呼ばれます。本門で説かれる永遠のブッダに対して、迹門で説法する地上の(歴史的な)ブッダはその仮の現れ(迹)であるとされます。その関係が仏と日本の神々との関係に適用されて、仏を本地、日本の神々を仏が仮の姿で現れた垂迹とする理論です。平安末期には、日吉は釈迦、伊勢は大日の垂迹というように本地と垂迹の関係が具体的に決められます。
この本地垂迹説は仏教と日本古来の宗教の重なりを説明する理論として、各時代の要請に応えて様々な形態をとって利用され、場合によっては逆の応用もなされます。本来は仏教が日本の神々をその体系の中に取り込んで支配する理論でした。ほとんどの神社で祭神の本地となる仏の名が定められて、仏が本地であり神はその垂迹であるとする思想が一般化していました。ところが鎌倉時代後の中世には、中国で釈尊が老子の仮の現れであるという逆転が起こったように、その逆転(反本地垂迹説)が起こります。鎌倉時代には伊勢神道が起こり、神が本門であり仏はその垂迹であるとする思想を提起します。室町時代には吉田神道が、仏法は万法の花実、儒教は万法の枝葉、神道は万法の根本とするに至ります。ここまで来て本地垂迹説は終わりますが、このように日本では基層宗教が外来の世界宗教によって理論化されて、両者の重なりが複雑な様相を示すことになります。
日本古来の山岳信仰(山を神々や祖霊の住む場所として畏敬する信仰)が外来の密教、道教、儒教などに影響されて、山岳修行(山伏)によって超自然の霊力を得ようとする呪術的な儀礼中心の宗教となり、平安末期に「修験道」が形成されます。その他、日本における基層宗教と外来の世界宗教との複雑な重なりは、以下の各項で必要に応じて触れることになりますが、その歴史の全体については、末木文美士『日本宗教史』(岩波新書)を参照してください。
(私論.私見)