| 室町時代 |
更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.2.16日
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室町時代の宗教
鎌倉幕府が倒れたのち南北朝時代を経て、足利尊氏が政権の座に就き、京都の室町に幕府を開きます。この足利氏の室町幕府が統治した時代が室町時代と呼ばれますが、この時代は鎌倉時代の新仏教をめぐる諸宗教の進展の時代として、この鎌倉仏教を扱う項目Ⅳの中でごく簡単にまとめておきます。
ヨーロッパに宗教改革が起こったとき、それに対抗してカトリック側にも対抗改革が起こったように、鎌倉室町時代には鎌倉新仏教に対抗して、奈良平安の旧仏教にも様々な形で改革が行われます。その一つひとつを詳述することはできませんが、その改革運動から多く秀れた仏僧が出て、その宗派や教団が独立して活動するようになります。鎌倉室町時代には天台宗や真言宗でも独立した宗派がそれぞれの本山寺院を建てて活動し、その宗派は現在に至るまで続いています。しかし鎌倉室町時代では、将軍家の保護を受けた禅の臨済宗が時代の宗教文化をリードします。鎌倉幕府は宋の制度に倣って、建長寺や円覚寺以下の臨済宗五寺を選んで官寺最高位の五山とし、それに続く位の十刹を定めました。尊氏は禅僧夢窓疎石によって天龍寺を建て、南北朝の戦乱の死者を弔うために全国に安国寺(後に全国の守護大名の菩提所)を建てます。以下の室町の歴代将軍は臨済宗を保護、南禅寺を五山の上、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺を京都五山とします。金閣・銀閣で有名な鹿苑寺と慈照寺も、将軍の別荘を改築した臨済宗の禅寺です。もともと禅宗は中国から伝えられた宗派ですから、臨済寺院では漢文と漢文学が学問の基本とされます。室町時代には明の中国との交流は禅僧が独占、禅僧の中から秀れた学者、文人、水墨画家が輩出し、禅の思想を文化の様々な領域に浸透させていきます。室町時代に発展した狂言、茶、立花、連歌などに、幽玄、わび、さびなどの禅特有の価値が取り入れられるようになり、この時代の禅寺の建築や庭園は日本文化を代表することになります。このような禅の土壌に花咲いた室町の宗教文化を「五山文化」と呼びます。
一方、鎌倉時代に成立した浄土系の真宗と法華信仰の日蓮宗は、室町時代には民衆の生活に根をおろして大きく発展します。小さな教団であった本願寺は、室町中期の一四五七年に蓮如が法主となって教団を率いるようになり、半世紀にわたる彼の活動によって大きな教団となって、門徒農民の一向一揆の大波を引き起こし、時代の転換の大きな力となっていきます。当時近畿や北陸の先進的な農村では名主を中心に農民の自主的な結合が生まれており、蓮如はまず近江湖南地方に門徒の組織を固め、天台宗から切り離しますが、僧兵たちの攻撃を受けて避難を余儀なくされます。次に応仁の乱のころに越前吉崎を拠点として北陸、信濃、東北に教線を伸ばします。しかし加賀の守護はその勢力を恐れ、吉崎の道場を焼き討ちにします。絶対他力の信仰で来世の救済を確信する門徒農民は、死を恐れず勇敢に守護の武士団と戦います。その頃一向宗と呼ばれた時宗の門徒が大挙して加わっていたので、また真宗門徒も念仏の一向専修を宗旨としていたので、彼らの武装蜂起が一向一揆と呼ばれるようになり、一四八八年に起こった二十万を超える加賀の一向一揆は、守護の富樫氏と戦って勝利し、加賀一国を支配するにいたります。蓮如は繰り返し封建領主の命令を尊重するように命じ、一揆を制止しようとしますが、火は燃え広がり、一向一揆は戦国時代には北陸、近畿、東海に及びます。蓮如は吉崎を去って、山科に本願寺を建て、門徒を指導しますが、七五歳で法主を子に譲り、大阪の石山に本願寺を建てて隠棲します。そして三年後の八五歳で山科で没します(一四九九年)。
石山本願寺は真宗の本拠地となり、門徒農民の貢納と隣接する堺の商人と結んだ日明交易で、強大な封建勢力となり、堀をめぐらした城郭のような広大な坊舎を中心に門前町が栄えます(これが大阪のはじまりです)。一〇代目法主の証如の時代に一向一揆は西国と東北に広がり、法主の力は破門によって信徒の来世を支配するまでになり、絶頂期を迎えています。一一代目の顕如の時代には、正親町天皇に即位礼の費用を献じ、門跡に列せられ、法主の貴族化が進みます。顕如は織田信長の天下統一に対抗、教団の総力を結集し、また戦国の武将と組んで、一五七〇年から十年にわたって織田軍と戦います。数次の講和を経て死闘を繰り広げ、ついに正親町天皇の仲介で講和、顕如は石山を退去し、石山本願寺は開城のさいの発火で焼失します。この石山戦争で一向一揆は終息することになります。その後、豊臣秀吉によって京都に西本願寺が建てられ浄土真宗本願寺派の本山となり、徳川家康によって東本願寺が建てられて真宗大谷派の本山となり、武士による統一政権に取り込まれていきます。
浄土信仰、とくに浄土真宗が農村に浸透したのに対して、日蓮の法華信仰は京都をはじめ西国の都市に進出、町衆の宗教として商工民に迎え入れられます。法華経が現世利益を強調し、政治に積極的に関わる日蓮宗の実践的な性格が、勃興しつつある商工民に歓迎されたのでしょう。応仁の乱の前夜には、京都の町衆の大半が法華信仰に帰したといわれています。宗内では法華経の解釈について教学論争が続き、布施について不信者から受けるべきか否か、布教の方法について水がしみ通るように説く摂受か、激しく説得する折伏かが争われます。室町末期には京都に二一の本山が立ち並び勢威を誇ります。一五三二年に京都の上層町衆、近畿の有力武士団、郷村の支配層によって指導された法華一揆が起こり、京都を天台宗などの旧仏教勢力と一向一揆から守ろうとします。しかし比叡山は僧兵の大軍を出動させて、日蓮宗の二一の本山を破壊、法華一揆を砕きます。京都の日蓮宗は一時堺に本拠を移し、戦国時代末から復興に向かうことになります。
鎌倉室町時代には神道にも新しい動きがあり、伊勢神道と吉田神道という新しい形態とることになります。先に神仏習合の本地垂跡説のところで触れたように、仏教が国教的な地位を占めていた奈良平安時代には仏教が理論的にはリードして、仏が本地であり日本の神々はその垂迹(仮の現れ)とする理論が行われており、神道の各神社はその祭神を仏教的な起源で説明していました。ところが、元寇の国難によって高まった国家意識は、日本を天皇を中心とする神の国だとする神国思想になっていきます。鎌倉時代には王朝勢力の衰退とともに、伊勢神宮もその基盤を朝廷から封建領主や庶民に移し、御師と呼ばれる下級神職が全地方の各階層に呼びかけ伊勢参宮の風習を広め、武士や僧侶の参宮も多くなっていました。鎌倉中期に半世紀にわたって外宮の神職団のトップであった度会(わたらい)行忠は、外宮の祭神が水の神、食物の神であることから、この神を万物の創生者である神と同体であるとして、外宮優位の神道説(外宮神道、度会神道)を展開します。伊勢神道は古代王朝の回復によって、かっての伊勢神宮の地位を回復しようとする立場ですから、天皇の宗教的権威を神道の理論と歴史によって強調します。この伊勢神道の中から、南朝の武将北畠親房の『神皇正統記』が出ます。この書は「大日本は神国なり」と書き起こすことになります。この書では、三種の神器が皇統の根拠とされ、天皇の徳と政治理念を表すものとして理論化されています。
室町末期に吉田神社の吉田兼倶(一五一一年没)が新しい神道(卜部神道、唯一神道)を唱えます。吉田家はもともと卜占をもって仕える卜部氏が京都の吉田神社を預かり、吉田を称した家柄です。吉田家は神祗伯下位の立場でしたが、神祗伯世襲の白川氏を凌駕して、吉田神社の下で全国の神社を統合するために、代々学者を出してきた卜部家に伝わる神道説を総動員して、独自の神道教義を作り上げます。その教説は主著『唯一神道名法要集』に見られます。これまで垂迹説によって仏教と習合してきた神道を批判、それに代わって卜部氏だけが伝えてきた唯一至高の神道である元本宗源神道を説くと称します。この神道は、天地の根源、万物の霊性の顕現、常住恒存の大元尊神に発し、顕露教と隠幽教の二面を持つとします(これは明らかに仏教の顕教と密教に倣っています)。顕露教は古事記や日本書記に基づく神道であるが、隠幽教は実際には存在しない三つの経典を典拠にして、密教の加持や祈祷をして内と外の清浄を実現するなどと主張、かなり強引な仕方で自説を立てています。兼倶は策略を弄して幕府にとりいり、吉田神社の南に大元宮と称する神殿を建て、伊勢神宮をはじめ全国三千余の神々を勧請、神祗長上を自称し、全国の神社に位階を授けたり、各種の免状を発行したりして神官を傘下に収めていきます。兼倶が唱えた吉田神道は、仏教、儒教、道教の三教に対して神道の至上性と唯一純粋性を主張しましたが、実際は仏教、老荘、道教、陰陽五行説など様々な信仰を取り入れたものでした。江戸時代になると幕府は吉田家を神道家元と認めています。
(私論.私見)