明治時代

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.2.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「日本の宗教史大全」をものしておくことにする。



キリスト教諸派の伝来

このように明治新政府が国家神道による天皇親政の方向に邁進している時期に、開国によって欧米の近代世界に門戸を開いたのですから、そこから流入してくる近代ヨーロッパ文明の奔流との間に激しい軋轢を生み出すことになります。その軋轢はまず欧米の近代文明の源流であるキリスト教との間に起こります。先にキリシタン史のところで見たように、日本はヨーロッパのキリスト教世界との接触をすでに一度は経験していました。しかしその結果は厳しい禁教と鎖国、それに続くと徳川幕藩体制の確立でした。当時世界伝道の意欲に燃えていたヨーロッパのキリスト教諸国は(本書一六五頁以下参照)、開国した日本に待っていましたとばかりにキリスト教布教の宣教師を送り込んできます。当時の欧米のキリスト教は(本論の第四章で見たように)、ロシア正教に担われている東方キリスト教と、西方ではローマカトリック教会とプロテスタント諸教会に分かれている三つの流れがありますが、そのそれぞれが開国した日本に宣教師を送り、布教活動を進めます。
鎖国以前に大きな成果を上げていたカトリック教会は、安政五年(一八五八年)に日仏条約ができると直ちにパリ外国宣教会を通してフランス人聖職者を派遣、横浜と長崎に天主堂を建てます。その長崎の天主堂を訪れた浦上の隠れキリシタン数名が信仰を示したので、司祭は浦上村で秘密裡にミサを行います。信仰を言い表した村民は寺との縁を切って寺請制度を否定しようとします。肥前藩は一八六七年にこれらのキリシタンを検挙(浦上四番崩れ)、この問題を引き継いだ維新政府は神道国教化政策の下で、一八六八年(明治一年)に「キリシタン邪宗門の禁制」を発令、幕府以上に厳しい処分で臨み、浦上村民三千人あまりを各藩預けの流刑に処します。各藩で拷問が行われ、多くの殉教者が出ます。とくに国学の盛んな津和野での殉教は有名です。ヨーロッパのキリスト教諸国からの圧力を受けた明治新政府は、一八七一年に宗門改を廃止、一八七三年(明治五年)に禁制の高札を撤去、浦上の信者を釈放します。これでキリシタン禁制は終息します。その後のカトリック教会は開港地や大都市に宣教師を派遣、教会堂を建てるだけでなく、各種の修道会も学校の設立などの教育活動をはじめ、各地で開拓、救貧、孤児、医療活動を進め、日本布教を前進させます。一八九一年(明治二四年)には東京に首都大司教座が置かれ、長崎、大阪、函館には司教が置かれ、カトリック教会の体制が整います。
東方キリスト教のロシア・ハリストス正教会からは、一八六一年に函館の領事館付司祭としてニコライが赴任、日本での布教活動を開始します。ニコライは最初函館の神社の神官三名を改宗に導き、彼らを通して仙台藩士数名を正教に入信させます。一八七二年(明治五年)にはニコライは東京に出て、全国への布教を図ります。戊辰戦争に敗れ、国家の革新を人心の改造、宗教の改革に求めた旧伊達藩士らが熱烈な伝道者となり、体制側からの迫害を耐えて布教を進め、東北から関東、東海、京都、大阪から全国に及びます。しかし一九〇四年の日露戦争以来、ロシアを敵視する風潮の中、教勢は停滞、本国からの援助も減少、危機を憂いつつ一九一二にニコライは没します。後を継いだセルギィは精力的に活動、教勢を伸展させますが、一九一七年に起こったロシア革命によって母教会からの送金は途絶、事実上の独立を強いられます。セルギィは震災で壊れた大聖堂を再建するために国外までに奔走し、ようやく一九二九年に再建しますが、その頃には日本には第二次大戦にいたる暗雲が立ち込め、教勢は停滞、信徒数は日露戦争時の半分にまで落ち込みます。ニコライが開教した日本ハリストス正教会は、明治初期の活況も束の間、日露戦争とロシア革命の打撃によって、日本における社会的影響力を失っています。
明治の開国によって到来したキリスト教の中で、プロテスタント・キリスト教の活動開始は、先のキリシタン時代のカトリックの布教と違って、日本の近代化に一層大きな影響力を発揮します。それは、プロテスタント・キリスト教が近代の導入に大きな力となった啓蒙思想をより一層大きく含んでいたからではないかと考えられます(啓蒙思想については本書一二四頁以下を参照)。一八五八年(安政五年)の日米修好条約が締結されて、アメリカ人宣教師の来日が可能になり、当時海外伝道の機運が高まっていたアメリカから宣教師が続々と来日します(本書一四八頁参照)。まだキリシタン禁制の高札が立っていた日本に六〇人の宣教師が来ています。それらの宣教師による個々の改宗受洗のケースもありましたが、横浜、熊本、札幌における青年たちの集団的改宗は、それぞれ横浜バンド、熊本バンド、札幌バンドと呼ばれて、以後のプロテスタントの伝道活動に大きな活躍をする人材を輩出します。
横浜バンドは宣教師バラの英学校学生たちの祈祷会から始まり、バラやブラウンから学んだ植村正久、小川義綏らが一八八七年に長老主義の教会制度をもつ一番町教会(後の富士見町教会)を立ち上げています。後に植村はキリスト教内外の諸問題について論陣を張り、明治大正期のキリスト教界の指導的論客として活躍しますが、とくに日本のプロテスタント教会が外国のミッション所属の教派教会となることを憂いて、当初に構想した日本基督公会の無教派的伝統の継承を唱え、日本の教会の精神的・経済的自立、日本人伝道者の養成に努めています。
熊本では熊本洋学校でジェーンズの感化を受けた小崎弘道や海老名弾正らの三五名が、すでに一八七六年に奉教趣意書に署名しますが、直後に起こった神道派士族による神風連の乱のため廃校となり、翌年には大挙して京都に開学したばかりの同志社英学校に入学します。同志社は、幕末にアメリカに密航、アメリカのアマースト大学などで学んだ新島襄が、アメリカンボード(本書一四八頁参照)の大会で日本でのキリスト教主義の大学の必要を訴え、帰国して一八七五年に京都に設立した英学校で、設立翌年の熊本バンドの青年たちの入学で同志社教育と日本組合教会の基礎を確立することになります。新島はキリスト教を徳育の基本とし、自由自治の精神で、高度な学問を追求する総合大学の設立を目指しますが、政府からの圧迫と伝道者養成だけを意図するアメリカンボードの圧力で苦慮します。彼は大学設立を目指して奔走しますが、その途上で病死します(一八九〇年)。海老名は後にその同志社大学の総長を務めることになります。
札幌では北海道開拓の構想に基づいて設置された札幌農学校で、教頭クラークの感化の下でキリスト教と科学的精神を受け継いで入信した第一期と第二期の学生、新渡戸稲造、大島正健、宮部金吾、内村鑑三らは明治期の宗教界と教育界で活躍します。新渡戸は南部藩出身、アメリカやドイツの諸大学で農業経済を学び、京大や東大で植民政策の講座を担当、一高校長、東京女子大学学長も務めています。一九二〇年から一九二六年まで国際連盟事務局次長に就任、国際的な活動をしています。彼はクエーカー教徒として信仰を深め、クエーカーの神秘主義的な「内なる光」は宇宙生命の一体を説く東洋思想と通じるものがあるとして、武士道で日本の精神的伝統を代表させ、東西文明の交流を図り、英文で『武士道 ー日本の魂』を出して、国際社会に日本を紹介しています。内村鑑三は水産研究を志しますが、信仰に悩んでアメリカに渡りアマースト大学に学んだ時、総長シーリーの感化で回心を体験して帰国、一高の教員となります。その時に教育勅語に敬礼を拒んだことが不敬事件(一八九一年)として騒がれ、世から追われる苦悩を体験し、そこから『キリスト信徒の慰め』『求安録』『代表的日本人』などの名著が生まれています。その後、内村は「萬朝報」や「東京独立雑誌」で社会問題に評論の筆を振るい、日露戦争に際しては非戦論を唱えています。晩年は聖書講義に集中、『羅馬書の研究』など多くの優れた注解を著し、その門下から塚本虎二、黒崎幸吉、藤井武、矢内原忠雄、三谷隆正、前田多聞、南原繁ら、その後日本の学会や思想界で活躍する多くの人材を輩出しています。内村が聖書への沈潜から唱えるに至った無教会主義は、日本の教会史に大きなインパクトを与えただけでなく、世界のキリスト教史に深い意義をもつと考えられます(内村鑑三とその無教会主義については後述)。

明治期日本におけるキリスト教の受容

開国にともなうキリスト教各派、とくにプロテスタント・キリスト教の流入に際して、そのキリスト教を受け入れた日本人の事情を見ると、ある種の共通性があることに気づきます。まず最初に気づくことは、ここに名をあげたキリスト教を受け入れた人たちの大部分は佐幕派の武士階級出身者です。薩長連合政権の下で志を得なかった旧佐幕派の諸藩の武士たちは、国の将来と自己の存立の土台を外来の新しい宗教であるキリスト教に見出したのです。もちろん唯一の創造者なる神の存在とかキリストによる贖罪の教義とか、キリスト教教義の高貴さに圧倒されたのも事実でしょうが、維新の変革に際してそれまで自分を支えてきた神道、儒教、仏教などの宗教が音をたてて崩れるのを体験し、その他のところに拠り所を求める姿勢を取らせた結果であると見られます。改宗者の大部分が青年であったことも、世の価値観の激変が多感な青年の心を古い価値の拒否と新しい価値の追求を促した結果でしょう。武士階級の儒教的教養が(その儒教には仏教や神道の混合があります)、キリスト教を知的・道義的に理解する方向に進ませ、霊的体験や民衆の生活上の必要や困窮を顧慮することが十分ではなかった面もあったのではないかと思われます。
聖霊による新生というような霊的体験はキリスト信仰の土台ですが、それは個々の体験として称揚されますが、一般のプロテスタント教会では教義の正統性と高度な道徳性が強調されていました。その日本のプロテスタント教会にも、多数の信徒や求道者が一挙に霊的覚醒を体験する信仰覚醒(リバイバル)運動が起こっています。一八八〇年代には全国各地の諸教会合同の集会にリバイバルが起こり、教会活動が活発になり、信仰の内面的深化は見られるようになっています。しかしこのようなリバイバル運動も一時的で、プロテスタント教会全体としては知的・道徳的な聖書理解の枠の中にとどまっています。これは明治期のキリスト教が文明開化の一つの入口として受け取られていた結果でしょう。明治期の日本、とくにプロテスタント・キリスト教の担い手の中産知識階級は、西欧諸国の高い文明に魅了され、それに追いつくために西欧の啓蒙主義・合理主義を積極的に取り入れていました。そのために西欧文明の源泉となっているキリスト教を知的・思想的・道義的に理解することを努めていた結果であると考えられます。一方、文明開化・富国強兵の路線を進める政策に取り残された下層の民衆には、イギリスの産業革命時代に起こったブースの救世軍運動(本書一二七頁を参照)を日本に取り入れた山室軍平の救世軍や、賀川豊彦の貧民街伝道が手を差し伸べています。賀川もアメリカ人宣教師から洗礼を受け、学生時代から神戸の貧民街に住んで伝道、アメリカ留学の後も貧民街に戻って活動、その体験から一九二〇年に『死線を越えて』を出版して有名になります。その後、労働運動、農民運動、協同組合運動などの各種の社会運動を起こしています。同時に地域教会や「イエスの友会」、「神の国」運動を立ち上げ、大衆伝道者として活躍します。賀川の伝道活動は民衆に向かう福音活動の典型として貴重な実例を提供しています。賀川は外国まで及ぶ多くの講演活動や著作によって、世界的にもっとも有名な日本人キリスト者となります。
こうして開国してキリスト教を受容した明治期以後の日本は、宗教上は神道、仏教、儒教、キリスト教の勢力が競い合って近代史を形成していくことになります。しかし儒教は江戸時代に国民道徳となっており、特定の祭儀を執り行う宗教とは意識されなくなっていたので、明治期以降の宗教は神道、仏教、キリスト教の三宗教間の問題となって議論され、精神上の主導権を争うことになります。ここで日本が日中戦争から第二次世界大戦に入り、敗戦によって新しい時代を迎えるまでの三宗教の動向を見ておきましょう。

国家神道の確立

先に見たように、尊王攘夷の精神によって成立した明治新政府は、尊皇思想を天皇による祭政一致の形で実現しようとして様々な指令を出します。その神道国教化政策の中で、神仏分離の指令が廃仏毀釈の騒動を引き起こし、政府は行き過ぎを抑えて方針を転換、神職と僧侶だけでなく民間の有力者も動員、教部省の宣教使または教導職として国民教化に当たらせます。その教化の基本大綱として敬神愛国、天理人道、皇上奉戴・朝旨遵守の三教条をあげ、天皇に従順な臣民の育成に努めます。この教化運動に対して森有礼は、これは信教の自由を認めないで新しい宗教を国が押し付けるものだと批判、島地黙雷も三教条を批判して真宗四派は離脱を表明、神道国教化は挫折します。神道側では、神社神道を国家の宗祀として一般宗教から分離し、国教的な地位を確保しようとする意見が強くなり、政府もそれに応じて神社神道を国家神道として育成しようとします。政府は神社局を設置、その下で全国の神社を官国幣社と府県社・郷社の系列に統合、神社の支配体制を整えます。
官国幣社は、律令制古代国家で神祇官から例幣を受ける神社の官幣社、国司から受ける國幣社の両方を合わせた呼称で、アマテラスを祭神とする伊勢神宮を頂点にいただく神社の系列であり、その経費は国庫から支給されます。神道側が待ち望んでいた国庫からの全面支援は、日露戦争で国民の神社崇敬が高揚した明治三九年(一九〇六年)に実現します。府県社は道府県または市町村から神饌幣帛料の費用を受ける神社です。官国幣社は国家権力に支えられた官社ですが、府県社や郷社は地域民衆の共同生活と深く結びついている民社です。民社は膨大な数に上りますので、政府は統制上一町村に一社を目標に合祀統合しようとしますが、地域の生活に密着した民社では無理で、神社の合祀整理は一部に止まります。しかし官社を中心にして民社でも原理的に行われた、国家権力による神社の支援と統制の体制(日本版コンスタンティヌス体制)が出来上がり、神道は国家神道となり、神道の国教化は事実上実現します。
官社の中には明治維新以後に国家権力によって創建された社がかなりあります。近代天皇制国家のための戦没者を祀る東京招魂社(後の靖国神社)、南朝の忠臣楠正成を祀る湊川神社など実に多くあります。また開拓地や新しい植民地などに日本人地域社会の統合の中心として札幌神社、台湾神社、朝鮮神宮などが建立されています。これらの外地の神社は、日本の国家神道が外国の民にも国家神道の天皇崇拝を及ぼそうとした日本ナショナリズムの現れです。その国家権力による新しい神社の創建の中で、国家神道の確立を象徴する記念碑的な存在が明治神宮です。明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする明治神宮は、東京市内の広大な敷地に巨額の経費と六年の歳月をかけて建造されます。創建の発議は明治天皇歿後直ちに始まっていますが、完成は皇太后歿後の大正期です。天皇を現人神として神格化する国家神道は、その後各地に天皇を祭神とする神社を建てていきます。京都遷都の桓武天皇と最後の孝明天皇を祀る平安神宮も明治期の創立です。国家神道は神社神道から宗教的機能を切り捨てて、その儀礼を国家祭儀として国民に強要するものです。国家神道は、国民の国家に対する儀礼であるから、他の宗教と同列の一宗教ではなく、宗教を超えるものであるという論理で、近代国家が要請する政教分離の原則をすり抜けます。その強要は地方に広がり、国家神道の教典である教育勅語の教育現場における徹底、神社の例祭日に生徒児童を引率して参拝させるなどの動きが起こってきます。こうして国家が強要する国家神道が、明治から大正にかけて制度的な完成を見せ、昭和初期には天皇制ファシズムを成立させ、日本を破滅的な戦争に駆り立てます。日中戦争中の一九四〇年には神話に基づく皇紀二六〇〇年の祝祭が行われ、神祇省廃止後七〇年で神社を統率する神祇院が設立されて、国家神道は絶頂期を迎えます。

近代社会における仏教

明治初期の神仏分離令による廃仏毀釈運動の時期に、政府は神社と寺院の領地をすべて官有地とします(一八七〇年)。政府の支援を受けるようになる神道とは違って、寺領に依存する仏教各派は大きな打撃を受けます。しかし徳川幕藩体制下で寺請に基づく檀家制度によって形成された仏教と民衆の結びつきは、政府の指令ですぐに解消されるものではなく、多くの仏教寺院は葬式と先祖供養の法要で檀信徒とつながり、日本社会の古い体質を温存することになります。先に見たように、この事実を無視した明治初期の性急な神道国教化の試みは挫折し、教部省の国民教化運動も仏教僧侶の主導に帰していきます。仏教にはもともと鎮護国家の面がありますから、明治期の仏教は国家の方針に協力しながらその存立を維持しますが、全体としては教化活動は不活発で停滞し、多くの僧侶は儀礼の執行者となります。
このような情勢の中で、寺領に依存することの少ない真宗と在家運動が盛んな日蓮宗には、活発な信仰の活動が見られます。真宗の本願寺派は、宗教貴族となった法主を絶対化する古い体質を残しながらも、下部には改革運動が芽生えてきます。明治中期以降には日本仏教界にも批判精神が高まり、村上専精は、加上説で仏典の歴史的成立を説明した富永仲基を高く評価、『大乗仏説論批判』を出しています(一九〇三年)。この大乗非仏説論争を機に、仏教を歴史的に理解して教理を自由に研究する新仏教運動が起こります。西本願寺の改革運動から境野黄洋らによってピューリタン的改革をモデルにしたような「仏教清徒同志会」が結成され、すべての政治上の保護干渉を斥け、宗教的制度と儀礼の必要を否定、他宗との自由討究を認めることによって、仏教の根本義を明らかにしようとする運動が進められています。東本願寺派では東大哲学科で学んだ清沢満之が、その後の厳しい禁欲生活の中で発した結核の療養中に、「歎異抄」などから他力の信仰への回心を体験、当時財政本位の宗政を教学中心に改めさせようとしますが、本山から除名処分を受けて挫折します。その後、真宗大学(大谷大学の前身)の学監を経て、その卒業生らと浩々洞を開き、雑誌「精神界」を発刊して、真宗が親鸞に回帰する道として「精神主義」を提唱しています。その後継者として曽我量深や金子大栄らが出ています。一方、真宗大谷派の仏教哲学者の井上円了は、東大哲学科を出て東京湯島に哲学館(東洋大学の前身)を創設(一九八七年)、明治期の国粋主義に共鳴、雑誌「東洋精神」などを発行、キリスト教を批判して仏教を顕彰、文筆活動や政教社の創立など、この時期の仏教に影響を与えています。
日蓮系では田中智学の国家主義的な日蓮主義運動が目立ちます。田中は日蓮宗の僧でしたが、当時の日蓮宗の主流が天台教学中心で、教団が教義の穏やかな浸透を図る摂受派であることに飽き足らず、一九歳で脱宗還俗して、他宗を論破して日蓮の信仰を広める折伏中心の運動を進めます。彼は人間の救いを禅や念仏のように個人の主観的な心の世界に求めるのではなく、社会的状況の浄化に求めて天下国家の変革のための活動に集中します。彼は還俗の翌年に蓮華会を起こして在家仏教運動を開始、続いて立正安国会を立ち上げ、さらに一九一四年には国柱会をを発足させています。この国柱会には石原莞爾や宮沢賢治らが参加、会は純正日蓮主義を唱え、明治憲法を王仏冥合の実現だとして、国体主義を唱える国家主義的な運動ととなり、ファシズムに大きな影響を与えます。

国家神道による宗教弾圧

一八八九年の明治憲法が信教の自由を認めた時、キリスト教は教派神道、仏教と並んではじめて公認宗教としての扱いを受けることになりましたが、その唯一神信仰と近代的個人主義倫理は、天皇を現人神とする国家神道の国教化の中で支配層からは反発され、また江戸時代に叩き込まれた耶蘇嫌いの風潮の中で民衆に浸透せず、中産知識階級の支持にとどまり、広く国民の生活に溶け込むことはできませんでした。現在にいたるもカトリックとプロテスタントを合わせて人口の一パーセント程度の少数派にとどまりますが、その教育事業や社会事業における活発な活動は、日本社会の近代化に大きく貢献しています。日中戦争から太平洋戦争の時期に宗教への統制が強化された時、プロテスタントのほとんどの諸派は日本基督教団に統合され、政府の統制下に置かれ、戦争協力を余儀なくされます。その中で批判的な姿勢のキリスト教徒は弾圧され、殉教者も出ます。ホーリネスなど一部の教派はキリスト再臨を唱えて、天皇を至上とする国体に反するとして厳しい弾圧を受けることになります。
仏教は全体としてはいつも国策に忠実でしたが、少数ながら戦争に反対する仏教者も出て弾圧を受けています。しかし国家神道が確立し敗戦によって崩壊するまで、その理念の実現を目指した政府の宗教弾圧の典型は大本教の弾圧です。その大本教弾圧の法的根拠になったのが刑法の不敬罪の条文であり、キリスト者の弾圧を含め、国家神道を推進する政府の宗教政策の武器となる法律ですから、ここでまず不敬罪について手短に説明しておきます。不敬罪は一八八〇年に公布された旧刑法の「皇室に対する罪」の中に登場し、「天皇三后皇太子ニ対シ、マタ皇陵ニ対シ、不敬ノ所爲アル者」に懲役刑を含む重い刑を課しています。内村鑑三の不敬事件はこの刑法の成立後です。そして一九四七年の新憲法の施行に伴って廃止されるまで、七〇年近くにわたって、新興宗教団体の弾圧だけでなく、広く思想・学問・言論の抑圧と萎縮に猛威を振るいます。不敬の行為の要件は拡大され、現天皇だけでなく、皇室の祖先、さらに萬世一系という神話への批判も不敬とされるようになり、日記のような非公開の文書まで対象となります。この時代の政権が天皇制という国体の護持に極めて神経質であったことがうかがわれます。社会主義や共産主義の天皇制批判にも発動されますが、この方面の発動は、ずっと強力な治安維持法(一九二五年)の登場からは、かえって減少します。この不敬罪を武器とする新宗教や思想への弾圧は、西欧キリスト教世界での正統派による異端狩りを連想させます。
江戸末期から明治にかけての変動期に、生きる苦悩が既成の仏教や神道では救われない底辺の民衆の間に、霊感を受けて霊界からの言葉を語った(多くは女性の)シャマン的な憑依者の教えを、身近な男性がシステム化して新しい宗教が数多く生まれてきます。その代表的なものが金光教と天理教です。これらの新宗教は現代まで続き、とくに敗戦後の日本で発展しますが、それは次項の「戦後日本の宗教」でまとめることにして、ここではそれらの新宗教に対して、国家神道のイデオロギーと不敬罪で武装した政府の弾圧について、この国家神道の項で先に述べておきます。
このような性質の弾圧の典型が大本教の一九二一年(大正一〇年)と一九三五年(昭和一〇年)の二回にわたる大弾圧です。大本教は、京都綾部の大工の未亡人で貧困のどん底にあった出口なおが、娘の発狂をいやされたのが機縁となって金光教に入信、その後「うしとらの金神」を名乗る霊に憑依して、その霊が語り出す「世の立替え」の言葉を「筆先」に書き綴ります。なおは初め金光教の布教師でしたが、後に独立、自らを「うしとらの金神」として病気いやしの宗教活動を始めます。その頃なおは、やはり農民出身の神秘体験者で神道系の霊能者出口王仁三郎と出会い、王仁三郎は教祖なおの筆先を教義化して、習合神道系の大本教の教団形成に協力します。王仁三郎は戦争によって富を蓄積する資本家や地主に憤り、民を不幸にする戦争を強く否定し続けます。大本教は、王政復古の明治維新に続いて、神政復古の大正維新を予言、軍人や知識層の信者を増やし、大正初期には全国的に進出して教勢を伸ばします。一九一八年に教祖なおは死去、王仁三郎が教団の指導者となって、亀岡城址を本部とし、大阪の新聞社を買収して宣伝するなどして大々的に活動します。戦争に反対するなど政府に批判的な言動の大本教を潰すために、政府は不敬罪で多くの幹部を起訴します。なおの墓も天皇陵に似ているとし、不敬罪を理由に破壊されます。これが第一次の弾圧です。その後、大本教は現状打破の主張を後退させ、万教同根や人類愛善を主張、農村救済の政治革新を唱えて昭和神聖会を結成します。しかし政府は、なおも活動を続ける大本教を国家神道と相容れない異端の邪教として、二回目の弾圧に踏み切り、綾部と亀岡の教団の全施設を爆破、王仁三郎には不敬罪と治安維持法違反で無期懲役の判決を下します。この大本教の弾圧は、近代史上、最大の宗教弾圧事件となります。
なお他にも、国家神道の強化に突き進む政府が、不敬罪を武器として新宗教を弾圧した例は多くあります。「ほんみち」教団は、天理教教師の大西愛治郎が、国家神道を受け入れて教義を改変した天理教を批判、その教義で天皇は天徳がなく日本統治の資格がないと明言しために、昭和三年と一三年の二回にわたって徹底的に弾圧されます。また、神道系の新宗教「ひとのみち」教団は、天皇崇拝と国家神道に忠実で、昭和初期には信者百万人を称するほど発展していましたが、アマテラスを太陽であるとしたり、教育勅語に卑俗な解釈を加えたとして、昭和一一年に徹底的な弾圧を受けています。日蓮正宗の信者団体である創価教育学会(後の創価学会)は、末法に神社を拝むことを謗法とする教義から、伊勢神宮の大麻(神札)を祀ることを拒否して弾圧され、会長の牧口常三郎は敗戦の前年に獄死しています。

結び

この項目Ⅶの「近代化された日本における宗教」では、開国して世界の歴史の奔流の中に投げ込まれた日本が、明治維新の以後の時代に、高度に近代化した欧米諸国に追いつき、自国の植民地化を避けるために、文明開化・殖産興業・富国強兵に努める一方、中央集権国家の統一のために天皇親政による祭政一致を目指して国家神道の確立の方向に向い、思想や宗教の自由を抑圧、政府を批判する思想や宗教を弾圧する歴史を概観しました。このような状況の中で、開国によって活動を始めたキリスト教諸派は、日本社会への浸透を阻まれて少数派にとどまります。しかし、目標とする欧米諸国の近代化の源泉としてキリスト教を受け入れた中産知識階級は、国家神道への批判勢力となって、この国の近代化に大きな影響を及ぼすことになります。全体としては、国家権力と癒着した国家神道が、権力も国民も熱狂させ、皇国史観の「八紘一宇」の独善的使命感となって、アジア諸国への侵略戦争に突入させます。

「八紘一宇」というのは、日本の優れた「国体」を全世界に及ぼそうという主張です。これは、日本の歴史を優れた国体の顕現発展ととらえ、一九三〇年代以降に確立、全盛期を迎える皇国史観の必然的な帰結です。皇国史観とは、日本は神国であり、皇祖天照大神の神勅を奉じる万世一系の天皇が統治する国柄(国体)であるとし、天皇の神性とその統治の正統性と永遠性を主張する歴史観です。この国体、すなわち神性を有する天皇の支配を諸国に及ぼすという(まったく独善的な)使命感を国民に押し付け、欧米の植民地支配からの解放を大義名分として、「大東亜共栄圏」の建設を旗印に、日本はアジアへの侵略戦争を開始します。そしてドイツ・イタリアのファシスト国と同盟、自由主義と民主主義を死守しようとするイギリス・フランスとアメリカを中心とする連合国と戦う第二次世界大戦に入っていきます。





(私論.私見)