記紀神話確立

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.2.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「日本の宗教史大全」をものしておくことにする。


記紀神話の確立

 都が奈良に移って国の統一がさらに進んだ奈良時代に、その後の日本の宗教に決定的な影響を及ぼす二つの大きな出来事が起こります。古事記と日本書紀という文書(合わせて記紀と呼ばれます)の出現と仏教の国教化です。仏教については次の項で概観することにして、ここでは古事記と日本書紀の成立の意義を見ておきます。  
 人間は古来、どの文化においても,太古に起こったとされる一連の出来事に関する物語によって,世界と人間の起源や,それぞれの文化の中で人間が順守しなければならない制度・習俗などの由来に説明を与えてきました。その物語が神話です。日本人も生業である狩猟や農耕の起源を語り、國の統一期に活躍した英雄たちの働きを物語るにさいして、それを神々の働きとして物語り、独自の神話、すなわち日本神話を形成していました。その神話は口頭で語り伝えられて、それぞれの共同体で当然従うべき規範となっていました。ところで先に渡来人の項で見たように、飛鳥時代には朝鮮半島経由で中国大陸の文化が流入して、文字(漢字)の使用が始まっていました。統一国家の形を整えようとした大和朝廷は、それまでに各地に伝えられてきた神話を集成して、自分たちの支配を根拠づけ、朝廷への服従を民衆の規範として確立しようとします。その重要な事業として、神話の文書化を試みます。
その試みは奈良遷都の前から始まっており、天武天皇(即位六七三年)は稗田阿礼(ヒエダノアレ)に各地の神話を誦させますが、それを文字で文書化することはできませんでした(稗田阿礼(ヒエダノアレ)は巫女であったと考えられます)。日本語の口頭伝承を漢字で書きあらわす困難な仕事は、三〇数年後に太安麻呂(オオノヤスマロ)によって完成し、奈良遷都の直後の七一二年に元明女帝に献呈されます。こうして出来た「古事記」は、上中下の三巻から成り、上巻は天地創成に始まり,伊邪那岐(イザナキ)・伊邪那美(イザナミ)二神による国生み神話,皇祖神にして日の神である天照大神(アマテラスオオカミ)の誕生,日神の天の岩屋戸(アマノイワヤド)がくれ,その弟素戔嗚尊(スサノオノミコト)の出雲での大蛇退治,天孫に国譲りする大国主(オオクニヌシ)の国譲り神話,アマテラスの孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の天孫降臨神話,隼人(はやと)服属の由縁を語る海幸(ウミサチ)・山幸(ヤマサチ)の話などからなっています。中巻は,ニニギノミコトの四代目の子孫神武天皇が大和に都を定め,続く各代が支配領域を広げ,英雄日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の活躍により東西の辺境の蛮族も平定されるという話などを収めています。そして,一五代天皇とされる応神が,母神功(ジングウ)皇后の胎内にありながら海の彼方の韓国まで服属させ、国家統一は成ったという話で終わります。下巻に入ると、天皇の代替わりごとの反乱の話しと、歌物語風の天皇の恋愛物語が続き、推古朝(五九二~六二八年)で終わります。
一方、日本書紀は、奈良遷都前の天武期に皇子や廷臣が「上古諸事」の記録と編集を開始、約四〇年を経て舎人(トネリ)親王らが七二〇年に完成したと伝えられています。八年前に成立していた古事記は参考にせず、奈良遷都をした元明時代に、諸国の国司と群司を総動員して作成させ提出させた各地の地誌である「風土記」や墓記、地方伝承、寺院の縁起、朝鮮や中国の歴史書を参考にして、全三〇巻の編年体(年代順)の歴史書を完成します。巻一と二で神代、巻三を神武紀、以下の各巻を天皇ごとにまとめ、巻二八と二九を天武紀、巻三〇を持等紀としています。当時は中国の制度や文物を取り入れることに熱心な時代ですから、この書の文体も漢文による潤色が著しく、漢籍や仏典を写し取った部分もあります。歴史書と称していますが、その成立の事情に見られるように、これは各地に伝わる神話や伝承を、大和朝廷の正統性を確立するためにまとめた文書ですから、古事記と共に古代の日本の神話と伝承の集大成と見ることができます。事実、後代の歴史家は両書をまとめて「記紀」と呼んで、日本の古代の神話と伝承、および天皇家の歴史を知るための基礎資料として用いることになります。それだけでなく、両書(とくに古事記の上巻や中巻)は、古代日本の神話をまとめており、日本の基層宗教の姿を伝えています。この両書がその後の日本人の心情に及ぼした決定的な影響は、計り知れないものがあります。そして古代の基層宗教の継承者であると自任する神道が、この両書を典拠とするのも当然です。なお、大和朝廷によって諸地域のカミ信仰が統合されて古事記などに表現されるようになった時期の宗教を、「古代神道」と呼ぶこともあります。
古事記と日本書紀の成立と並んで、この時代に文字(漢字)を用いて記録された重要な文献に、「万葉集」と呼ばれる歌集があります。飛鳥・奈良時代の日本人は、その心情を歌にしてきました。日本の歌には五七五七七の五句からなる短歌と、五音と七音の句を基本として句数が七句をこえる長歌などがありますが、七~八世紀に歌われた四五〇〇以上の歌が集められて、万葉集という大きな歌集が奈良時代に成立しています。音数で韻を踏む日本語の歌を漢字で書きあらわすことは困難な仕事でしたが、この歌集は漢字を表意文字として訓読する法と、漢字を表音文字としてその音を借りる法を合わせた「万葉仮名」を用いて表記されています。作者は、天智や天武、持等らの諸天皇や皇妃、皇子などの王族から、柿本人麻呂のような宮廷詩人、旅人や憶良などの宮廷人、さらに防人などの庶民に至るまでのあらゆる階層の人の歌を含み、古代世界では類を見ない詩歌集となっています。この歌集の最終的な編纂は、奈良時代の末期に高位の廷臣であった歌人の大伴家持によるとされています。家持は四八〇首ほどの最多の歌をこの歌集に残しています。この歌集では内容による類別が行われており、おもなものに雑歌(ゾウカ)、相聞(ソウモン)、恐歌(バンカ)の三つがあります。雑歌は宮廷祭式などの機会に歌われた公的な作、相聞は男女の恋歌を主とする贈答歌、恐歌は死者の葬送や哀愁の歌を指します。この歌集の歌は概して心情の率直で大らかな表現を感じさせます。この歌集は、その後の歴史で生まれた様々な歌集の原型となっただけではなく、基層宗教形成期の日本人の心情の表現として、現代に至るまで日本人の感性の基層をなしていると思われます。





(私論.私見)