鎌倉時代

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.2.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「日本の宗教史大全」をものしておくことにする。


Ⅳ 鎌倉仏教 ― 日本における宗教改革

末法思想

平安時代には寺院造営や法会や加持祈祷が宮廷の貴族社会に盛んになり、平安仏教は次第に貴族仏教となっていきます。諸大寺は貴族から寄進される荘園をもつ大領主となり、僧兵という武力まで保持するようになります。しかし平安中期以後は、律令制中央政権国家体制が揺らぎ、そこに飢饉、疫病、地震、洪水などの災害が加わり、末法思想が広く貴族と庶民の人心を捉えるようになります。末法思想というのは、釈尊の滅後には正法五〇〇年(または一〇〇〇年)の後、一〇〇〇年の像法の時代があり、それから末法の時代となり、末法が一万年続いた後に仏法が滅尽するという仏教の漸衰滅亡を警告する歴史観です。正法の時代は教法、修行、その証果の三つが揃っている時代ですが、像法は教と行はあるが証果がない時代、末法は教だけが残って行も証もない時代です。すでに中国の隋の初め頃に正像末の歴史観に基づく末法仏教運動の「三階教」が活動していました。末法の時代はいつ始まるのかについては、依拠する仏典によって違いますが、日本では一〇五二年に始まると信じられて、平安中期頃から末法の時代にふさわしい仏教を求める末法仏教運動が盛んになります。
すでに平安中期の一〇世紀には空也が出ています。空也は皇室の出身と伝えられ、若き日に修行を積むと同時に橋を架け井戸を掘り死者を供養するなど庶民の間で活動し、辺地や京都の庶民に阿弥陀信仰を広めて、市聖と崇められています。もともと貴族社会は庶民の信仰に無関心でしたが、空也が鉦を叩いて念仏を高唱して布教し、庶民の間に浄土信仰が広まるにつれて、貴族の間にも浄土信仰が広まっていきます。天台宗の学僧源信は比叡山横川の僧堂にこもって『往生要集』を撰述し(一〇一七年)、念仏を勧め、その後の浄土信仰に決定的な方向を与えます。良忍(一一三二年没)は大原に隠棲、声明を学び念仏の合唱を作曲、融通念仏宗を開いています。このような念仏信仰は貴族の間にも広まり、藤原道長の子の頼道が宇治の平等院を建立(一〇五二年)、阿弥陀佛を本尊として念仏を唱えたことは有名です。そして鎌倉時代が始まる少し前の一一七五年には、法然が専修念仏を唱えて浄土宗を開宗するに至ります。

法然の専修念仏

平安時代に仏教の最高学府であった比叡山で学んでいた若き学僧の法然(一一三三年生まれ)は、十五歳で受戒して正式な出家僧となりますが、当時の比叡山の俗化に抵抗して十八歳で黒谷に隠棲、この末世の時代に苦しむ成道の機根(気根、能力)なき民衆を救う仏教を追い求めて、すなわち末法という時と機根なき民衆にふさわしい仏法を求めて苦闘し、一切経を五回も読破したと伝えられています。しかしそれを見出せず絶望の淵をさまよっていた四三歳のときに、法然は善導の『観経疏』の中の一句に出会い回心します。法然は源信の『往生要集』の研鑽の中で引用されている唐の善導の教学に傾倒していたのです。その一句とは「一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住座臥に、時節の久近を問わず、念々に捨てざる、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆえに」という一文です。この句に出会い、「たちどころに余業をすて、ここに念仏に帰」したと、後に『選択本願念仏集』で述べています。余業の中には高度な念仏と考えられていた観相念仏も含まれます。法然は無知の大衆の方便とされていた口誦念仏を、弥陀の本願から出て万人に与えられた道として選び取ったのです。この話は、ニュートンがリンゴが樹から落ちるのを見て万有引力の法則を発見したという話を思い起こさせます。これは天才ニュートンがそれまで必死に万有引力について考えていたから起こったことで、凡人が何百回リンゴが落ちるのを見ても万有引力の法則に思い至りません。法然が経典の解釈書の一句に出会って回心に導かれたのも、黒谷隠棲の二五年の苦闘があればこそ彼の深い霊性に起こった変革です。その後、法然は「偏依善導」(ひとえに善導に依る)を標榜して、比叡山を下り西山の広谷を経て東山の大谷に移り、念仏を広める活動に乗り出します。この法然四三歳の年、一一七五年を浄土宗開宗の年としてよいでしょう。それから一〇年後に平家は壇ノ浦に滅亡、一一九二年には源頼朝の鎌倉幕府が開かれることになり、時代は大きく転換します。
布教を開始したと言っても、当初は廬を訪ねてくる人に念仏を説く程度でしたが、一〇年ほどして天台宗の顕真が大原の勝林院に、当時注目され始めていた法然を招き、既成仏教の学僧たちと討論する場を設けます。これが後に「大原問答」と呼ばれることになるのですが、その討論の模様を後に法然自身が、「諸宗の教え(聖道門)と専修念仏の教え(浄土門)は、教えの優劣の比較では互角だったが、その教えを実行する人の能力に関する議論では、私の方が優っていた」と振り返っています。相手側も法然の末法にふさわしい仏法議論を認め、顕真の勧めで阿弥陀仏の周囲を念仏を唱えて巡ったと伝えられています。この大原問答によって法然の存在は広く世間に知られるようになり、法然は多くの貴顕を教化していきます。関白藤原忠道の三男の九条兼実(一一九一年に関白)も、長男を若くして失い、たびたび法然を招いて受戒し、念仏の教えを聞いていています。このような階層への念仏の浸透には、法然の持戒の天台僧としての一面が説得的だったのでしょう(法然は持戒の僧としても著名で、生涯独身を通しています)。後に兼実は法然を師として出家し、円証と名乗っています。兼実のような人の帰依は、当時の異端的仏教者の法然に対する世間の評価を変えることになります。そして法然独自の救済論は、一一九〇年東大寺で行われた浄土三部経の講義に際して、兼実の要望で撰述された『選択本願念仏集』においてまとめられることになります。
法然は貴賎男女の別なく浄土の教えを説き、多くの人を念仏に導きます。戦争すなわち人を殺めることを仕事とする武士にも念仏を説いて回心に導いています。たとえば南都(奈良)の焼打ちを行い、仏法の敵として極悪人とされていた平重衡は、法然によって念仏に導かれ、後に平安のうちに処刑されたと伝えられています。また合戦で息子と同年の平敦盛を討ち取った熊谷直実は、慚愧の念に駆られて法然に会い、念仏に導かれて出家します。遊女も流罪で四国に向かう途中の法然に救われたという逸話が伝えられています。法然は罪の軽重、善悪の量とは無関係に、誰でも念仏によって救われると説いて弥陀の慈悲の場に導いたので、慈悲の場に生きる念仏者に働く慈悲の力を理解できず、無条件の赦しは発菩提心(悟りを求める道心)を阻害し悪を許容するものだとして、南都北嶺の旧仏教側から激しい非難を浴びることになります。これはルターの宗教改革運動にも起こった非難と同質です。最初、叡山三塔の僧侶が天台座主に念仏停止を訴えた時、法然は「七ヶ条起請文」を書いて、諸宗を批判し阿弥陀仏以外の仏菩薩を譏ることをやめるように門弟に命じています。次いで南都六宗に天台・真言を加えた八宗が同心の訴状として、念仏停止の「興福寺訴状」を上皇に提出し、勅許を得ずに勝手に浄土宗を開いていることを批判しますが、この時にも念仏停止は行われず、法然も処罰されませんでした。しかしその後、後鳥羽上皇の女官が、上皇の留守中に安楽と住蓮によって出家したことで、上皇の怒りをかって二人は処刑され、法然も還俗、土佐に配流されます(一二〇七年)。翌年には大赦を受けますが、入洛は許されず、摂津に四年間滞留、一二一一年にようやく帰洛がかない、大谷の小庵に住みます。そこで病に臥し、翌年に八十歳の生涯を閉じます。死後も墓が荒らされるなど、法然の後半生は旧仏教側からの激しい反対で苦難の生涯でした。亡くなる二日前に弟子の源智の求めに応じて、一枚の紙に自分の教えの要約を書き留めます。それが三〇〇文字ほどの「一枚起請文」です。法然は遺言として、念仏が唱えられるところがわが遺跡となるのだから、遺跡などを建てて念仏の場を限定しないようにと言っています。弥陀の慈愛を絶対とし、自我を無とした姿が最後まで貫かれます。

浄土信仰の進展

このように平安末期の源信の『往生要集』に方向づけを得た浄土信仰は、鎌倉時代初期の法然の活動によって浄土宗という明確な形をとり、その浄土信仰は親鸞、一遍に受け継がれて進展していきます。その浄土信仰の中核をなす念仏も、ますます徹底されて民衆に広まり、鎌倉仏教の大きな潮流となっていきます。ここで鎌倉時代の浄土信仰の展開を概観しておきましょう。
京都の有力貴族の家に生まれた親鸞は、九歳で出家し範宴と号します(一一八一年)。比叡山の堂僧として二〇年の学業と修行を積んで、なお悟りを得ずに苦悩していた範宴は、二九歳の時、京都の六角堂に参籠して救世観音に祈っていたとき聖徳太子の示現を得て、法然の門に入ったと伝えられています(一二〇一年)。彼は綽空という名で、法然の弟子として、師の法然への全面的な信頼で学びます。法然が「偏依善導」であれば、親鸞は「偏依法然」です。綽空はその優れた資質を認められて、入門五年で『選択本願念仏集』の書写を認められます(一二〇五年)。これは専修念仏を深く理解した高弟だけに認められているものです。しかし、そのころ旧仏教側からの非難は激しく、ついに一二〇七年には安楽・住蓮が処刑され、法然が土佐配流になります(前述)。このとき親鸞は越後に配流されます。親鸞が流罪になったのは、彼が法然教団で重要な位置を占めていたからですが、彼の結婚が破戒行為と見なされたという理由もあったようです。彼が結婚を決意したのは、仏道を修める者が宿縁によって女性と結ばれるとき、救世観音がその女性になりかわり、生涯仕え、死に臨んでは浄土へ導くであろうという六角堂救世観音の夢告によったと伝えられています。しかし法然の、現世を過ごすには念仏の妨げになるものはすべて捨てよとの意向、聖(ひじり、遁世の人)であって念仏ができなければ妻帯し、妻帯して念仏ができなければ聖になって念仏せよ、との意向によるものであったという面もあったようです。法然は独身を通して持戒の僧として念仏に徹し、親鸞は妻帯して戒律の外にあって念仏する道をとります。二人は、宗教的(この場合は戒律上の)価値や資格が、慈悲や恩恵の絶対性の前では無価値・無意味であることを実証しています。これはルターが妻帯して、修道院的な宗教価値観を打破したことと通じています。親鸞は還俗させられたので、もはや僧でなく、しかし俗人もないので「禿」を姓とし、愚者に徹して「愚禿親鸞」と名乗るようになります。
一二一一年に流罪を解かれた親鸞(三九歳)は、越後を出て、一二一四年(四二歳)頃から常陸に向かいます。その途中、上野国で浄土三部経の千部読誦を始めます。しかし、念仏者にとって余業は必要ではなく、念仏一つで救われるという信心こそ肝要であるという原点に立ち返って、千部読誦の行を中止、東国各地に念仏を説いて回ります。こうして約二〇年間、東国各地に布教して念仏教団を形成した親鸞は、一二三四年(六二歳)に京都に帰ります。当時、京都では念仏者は弾圧されていて、親鸞にとっても危険な状況であり、積極的な布教活動は困難であり、主として著述によって布教に努めます。その間、東国各地に残してきた念仏教団に書簡を送って、また親鸞を訪ねてきた信徒に答えたりして指導します。とくに子息の善鸞が異議を唱えて、教団を分裂させる危険を見た親鸞は、わが子を義絶して念仏信仰の純粋性を保ちます。京都で送った晩年には、東国布教の時代から書き進めてきた主著『教行信証』六巻を完成します。親鸞八五歳の一二四七年頃と考えられています。教巻では大無量寿経が浄土往生を説く主要経典であるとして、阿弥陀仏の本願が浄土の根拠であることを説いています。行巻では、名号には阿弥陀仏が行ったすべての行が含まれているので、「南無阿弥陀仏」の名号を唱える人は名号の力で仏になれることを説きます。信巻では、浄土に生まれるか否かは名号の力を信じるか否かによって定るという「信心正因」を力説しています。行巻の最後に出てくる「正信偈」は、念仏は阿弥陀仏の本願を信じて往生が決定した人が、その恩に感謝して唱える称名であるという「信心正因・称名報恩」が唱えられています。親鸞は九〇歳になって京都で没します。親鸞は法然を阿弥陀仏の化身として敬愛し、地獄に落ちても従うとまで言って、師の法然とは別の宗門を立てる意図は全然ありませんでしたが、著作には浄土のまことの教えという意味で「浄土真宗」という表現も用いていました。ところが後の十五世紀に、親鸞の信仰を受け継いで形成された本願寺派の蓮如が、その語を宗派名として用いて、当時一向宗と呼ばれていた教団を「浄土真宗」と呼ぶようになり、大きな教団組織に発展します。
親鸞に続いて鎌倉中期には一遍が出て、念仏をさらに広く民衆に普及します。一遍は伊予の有力武士の家に生まれ(一二三九年)ですが、幼くして寺に入り、浄土宗西山派で学び、浄土の信仰を深めます。信濃の善光寺の参籠で霊感を受け、伊予に戻って草庵に住み、その後遊行の旅に出て、四国、九州、近畿の霊場を巡ります。一二七四年には浄土に最も近いとされる熊野の本宮に参籠し、そこで一遍は、衆生の往生には信・不信、浄・不浄に関わりなく、ただ阿弥陀仏の名号によって定まったことであるという啓示的な体験をし、その時の偈から一遍と名乗り、「南無阿弥陀、決定六十万人」と書いた札を配る活動を始めます。この時を時宗(毎日を臨終の時として生きる臨終終時の教え)の開宗の時としてよいでしょう。一遍は一切を捨てて、念仏を説き、この名号札を配る活動を続け、四国、九州、山陽、京都の各地を巡ります。信濃で先師と仰ぐ空也の先例に倣って、踊り念仏を催したところ、それが大きな評判となり、その後一遍が行くところ、必ず踊り念仏が行われて、多くの庶民がその運動に加わるようになります。遊行は奥州、関東と続き、鎌倉入りは幕府に阻止されますが、一二八四年に京都に入った時には大歓迎を受けます。その後、山陰、摂津、播磨、備後、故郷の伊予、四国各地を巡り、一二八九年に摂津の和田岬(現在の神戸)で没します。
平安末期から鎌倉時代にかけて、比叡山の教学を批判する中で起こった鎌倉新仏教は、祖師の周囲に集まった人たちの活動によって徐々に社会の各層に浸透していきます。鎌倉新仏教の主流は浄土信仰ですが、法然はひたすら念仏を唱えようとする衆生の努力によって、また親鸞は阿弥陀如来の救いを信じる心が起こった時に救いが決まると説いたのに対して、一遍は衆生の努力や阿弥陀如来の力によるのではなく、救いは名号そのものにあるとし、ひたすら名号を唱えれば、阿弥陀仏と衆生と名号が一体となって、そこに救いが現前すると説きます。そこに他力念仏の一つの極致が見られます。一遍が配る名号札は救いの証拠として人々の心を捉えます。一遍はこの他力念仏と一種の終末論(臨終時の強調)、また札や踊りという手段で大衆の宗教的エネルギーを結集することに成功します。しかし、それまでの顕密仏教体制を批判する鎌倉新仏教は、旧体制側から激しい批判と迫害を受けることも避けられませんでした。鎌倉新仏教の主流は法然、親鸞、一遍らを祖師とする浄土念仏信仰ですが、すでに法然や親鸞は、先に見たように比叡山や旧仏教側から激しい反対と体制側から迫害を受けて流刑になっています。そして一遍が活動した鎌倉中期には、鎌倉新仏教自身からこの念仏に対して激しい反対運動が起こります。それは「念仏亡国」を唱えた日蓮の活動です。

日蓮の反念仏活動

日蓮は安房の九十九里浜近くの身分の低い家に生まれ(一二二二年)、一二歳で地元の天台宗清澄寺に入り、一六歳で僧となって、鎌倉、京都で学び、比叡山や高野山でも研鑽を重ね、密教、浄土教、禅を学びます。その中で天台が中心の経典とする法華経の至上を確信、天台復興を使命とするようになります。長期の修学の旅を終え、三二歳で清澄寺に帰った日蓮は、昇る太陽に向かって「南無妙法蓮華経」の題目を唱えて、法華経に基づく信仰の確立を宣言します。日蓮は法華経に基づいて、阿弥陀仏だけを至上の仏として帰依し念仏を唱える浄土教を批判したため、浄土教の地頭や念仏信者から攻撃されて鎌倉に逃れます。鎌倉では草庵で法華経を説き、弟子も出来てきます。その頃諸国に飢饉が広がり餓死者が出ます(一二五九年)。これらの災厄は幕府も民衆も念仏に走り法華経を捨てたからであると、日蓮は辻説法で激しく批判します。一二六〇年には『立正安国論』を書いて幕府に提出します。このような行動で念仏信者の怒りを買い、草庵は焼き打ちされます。民心の動揺を恐れる幕府は日蓮を伊豆への流刑に処します。二年ほど経って、日蓮は赦されて鎌倉に戻ります。
この頃、元から国書が届いて(一二六八年)、幕府はその対応に苦慮します。日蓮は『立正安国論』で予告した他国からの侵略が実現しているとして、念仏や禅を退けて、自分を国師として用いるように幕府に上書します。この上書を理由に、幕府は日蓮と弟子たちを捕らえ、日蓮を佐渡への流刑に処します。この時、幕府は密かに日蓮を斬首しようとしますが、奇跡が起こって免れたという「竜ノ口法難」は、後世に造られた伝説と考えられます。佐渡での二年余りの厳しい流人の生活の中で、日蓮は末法の世に法華経を広める自分の使命をさらに深め、『開目誚抄』(書名の抄は金偏)などを書いて、その独自の教説を展開していきます。一二七四年に赦されて鎌倉に戻っていた日蓮は、元の侵攻に動揺する幕閣に面会し、蒙古調伏に密教儀礼を用いないように諌言します。そこでも自説を容れられなかった日蓮は、有力信徒の所領である甲斐の見延山に退き、久遠寺を開き、集まってきた弟子たちの教育と著作に専心します。
天台の教学では、法華経を中心に置きながら、他の経典も相応の価値があるとして学んでいきます。それに対して日蓮は、法華経だけが絶対の真理であるとして、それ以前の経典はブッダの仮の教えであるとして価値を拒否します。また、法華経信仰以外の宗派については、「念仏無限、禅天魔、真言亡国、律国賊」として激しく反対します。そして末法の時代の仏弟子が行うべき行は題目の流布だけであるとして、他の行を厳しく退けます。題目は真理そのものであり、そのまま全宇宙をあらわす曼荼羅であるとし、題目を中央に、周囲に諸仏、諸菩薩、日本の諸善神を配した曼荼羅を書いて本尊とし、弟子たちに与えます。法華経だけが真理であり正法であるのですから、政治もその正法に従わなければならないとして、王仏冥合を理想とし、その立場から天皇や幕府の政治を批判します。晩年の日蓮は、本尊と題目に並んで、国立の戒壇についても語るようになります。天皇や将軍の命令で戒壇が立てられることは、その宗派の国教化を意味することになるでしょう。一二八一年に弘安の役(元の来襲)があり、その翌年見延で健康を損なった日蓮は、湯治のために下山しますが、途中で六十年の波乱の生涯を閉じます。日蓮没後は六老僧と呼ばれる高弟たちが交代で久遠寺を守り、日蓮の信仰を継承します。
日蓮が見延の山中にこもってからは、高弟たちが実際の布教活動を進めていました。彼らはそれぞれ各地に拠点があり、有力な外護者がいたので、天台教学に対する姿勢の微妙な違いもあって、その勢力は各地に分散し、分裂も起こります。その中で注目すべきは六高弟の一人、日興の活躍です。日興は駿河の富士郡を地盤とし、地元の地頭の後援を得て最大の信徒集団を組織していました。法華経とその題目だけを正法とする排他的な信仰が組織されて教団となって現れると、その地を支配する権力はそれを弾圧して除こうとします。刈り取りの農事の紛争を口実に、権力側は日興の信徒集団の熱原の農民を逮捕するに至ります。裁判で念仏を唱えるように強制、拒否して題目を唱え続ける農民の代表を鎌倉に送って、三名を処刑、一七名を投獄します。この熱原の殉教事件は日蓮の存命中の一二七九年に起こっており、日蓮は殉教者たちを「法華経の行者」と呼んで賞賛しています。この日興が建てた大石寺(富士宮市)を拠点とし、その宗派は駿河から東方各地に伸び、後に日蓮正宗を名乗ることになります(創価学会もこの系統から出ています)。

禅仏教

鎌倉時代には法然、親鸞、一遍の浄土信仰が、それに対抗する日蓮の法華信仰を含めて、民衆の中の大きな流れとなって、奈良平安の旧国家仏教を改革しますが、それと並んでもう一つ別のタイプの仏教が盛んになります。それは中国から栄西と道元によってもたらされた禅の仏教です。禅は、他の宗派がどれかの経典に依拠して信仰と教義を立てるのに対して、禅は「不立文字」を掲げ、書かれた経典に依拠することなく、自分の霊性の中で直接ブッダの悟りに至ろうとする仏教です。
禅はすでに中国で盛んに行われていましが(中国における禅の展開については本書四五六~四五七頁を参照)、宋の時代に栄えた天台山と天童山で臨濟禅を修めた栄西が、その禅を日本に持ち帰り、鎌倉幕府が開かれる前年の一一九一年に臨済宗を開きます。栄西は禅こそ末法の教えであるとして、禅による天台の復興を唱えますが、比叡山は彼を異端とし、朝廷は禅宗を禁じます。栄西は『興禅護国論』を著して、禅によって天台宗を復興し、新しい鎮護国家の仏教を打ち立てることを主張します。一一九九年に幕府から招かれて鎌倉に下った栄西は、公卿階級に対抗しようとする武士階級に歓迎され、幕府に支援された栄西は京都に戻って建仁寺を創建します。建仁寺は天台、密教、禅の三宗兼学の道場です。臨済禅は、師から出された公案を瞑想解決して悟りに至ろうとする禅で、栄西は鎌倉と京都に拠点を作って多くの弟子を育てました。栄西の没後も、臨済宗は幕府の保護を受け、武士層に大きな影響を与えることになります。幕府はその後も日宋交流を重視、来日した秀れた禅僧によって鎌倉には建長寺、円覚寺などが建てられ、室町時代には京都五山、鎌倉五山などの臨済宗の有力寺院を中心に、五山文化が栄え、日本の禅文化は大きく発展します。
栄西の臨済禅に続いて、道元が宋から曹洞禅を日本に伝えます。道元は内大臣の家に生まれますが(一二〇〇年)、幼くして両親を失い、一三歳で出家して比叡山に入ります。比叡山では天台を学びますが、仏法を極めるには宋で学ぶことが必要と考え、宋との交流の深い建仁寺に入ります。そこで師事した明全に従って宋に渡り、五年にわたり各地で禅を学びます。そして最後に天童山の如浄から曹洞禅を学び、帰国して建仁寺に戻り、曹洞の座禅を実践します。そこで『普勧坐禅儀』を著して禅こそ釈迦の正法であると強く主張したため、天台、密教、禅の三宗兼学の建仁寺で孤立し、比叡山からの批判もあって、宇治に隠棲します。道元は、理論にとらわれず、ひたすら座禅して悟りに到る道を説き、不立文字、只管打坐を唱えます。道元は、念仏も加持祈祷も否定、天台、真言、臨済、浄土(念仏)の諸宗を厳しく批判します。その後、寄進を受けて深草に興聖宝林禅寺を建て(一二三四年)、禅林の清規(規則)を定めて、座禅修行を指導します。臨済宗から懐奘らの集団入門もあって、その興聖寺教団は隆盛期を迎えますが、比叡山衆徒の攻撃も激しくなり、ついに一二四三年、弟子の豪族からの寄進を受けて、越前に永平寺を建てて移り、そこを曹洞第一道場として弟子の指導にあたります。その間、道元はすでに宇治の時代から書き始めていた主著『正法眼蔵』を書き続けます。この書名は、真理を見通す知恵の眼によって悟られる秘蔵の法蔵を意味しています。道元は、地上のあらゆる権力より上位にある仏法の権威を主張し、この世との交渉を避け、京都や鎌倉に行くことはほとんどありませんでした。しかし永平寺に入って一〇年ほどで病を発し、永平寺を高弟の懐奘に託して京都で療養、一二五三年に五四歳で没します。
道元は厳しい出家主義を主張しましたが、鎌倉末期で出た三代目の弟子の瑩山は、道元の出家主義と純粋禅の宗風を改め、大胆に伝統宗派の兼修や、地元の白山観音信仰との習合を進め、加持祈祷や葬儀など民衆に関わりの深い法要を整備、曹洞宗が大きく地方に進出することに成功、中興の祖と仰がれるようになります。曹洞宗は現在一五〇〇〇余りの末寺を有する大教団になっています。
 なお日本における禅の宗派には、鎌倉新仏教として出発した臨済宗と曹洞宗の他に、一七世紀(江戸時代初期)に明から来日した隠元によって開かれた黄檗山万福寺を本山とする黄檗宗があります。万福寺は伽藍や法要はすべて中国風を用いていますが、日本の黄檗宗の禅は念仏禅の禅風を掲げ、江戸時代に諸藩大名の支持を得て拡大、大きな勢力となります。

鎌倉仏教の革新性

鎌倉時代に起こった新仏教は、奈良平安時代の伝統的な旧仏教を改革する仏教として注目されます。鎌倉時代の新仏教としては、法然・親鸞の浄土信仰、それに反対する日蓮の法華信仰、および栄西と道元による禅仏教が代表的なものですが、それらの新仏教はほぼ例外なく、発足当初には旧仏教側から厳しく批判され迫害されています。その事実は、それらの新仏教が旧仏教にはない新しい主張であり、旧仏教には容認できない信仰であったからです。では、鎌倉新仏教はどういう点で、旧仏教側から批判と迫害を受けるほど革新的だったのでしょうか。
鎌倉新仏教の革新性は、まず第一にその庶民性にあります。奈良平安期の仏教は何よりもまず鎮護国家の仏教であり、統一国家の統治と安泰のための仏教であり、庶民の救済のための仏教ではありませんでした。それに対して鎌倉期に起こった法然・親鸞の阿弥陀信仰は、もはや国家のためではなく、庶民が一人ひとり念仏を唱えて浄土に救われるという民衆のための仏教でした。念仏に反対した日蓮の法華信仰も、題目を唱えることが法華の業であるとした点で、その庶民性は浄土宗と同じです。仏教が庶民の救済のためであるならば、鎮護国家の旧仏教はその存在理由を失います。その庶民性は末法思想の影響が大きいことは先に見ました。厳しい修行を要求するように見える禅宗も、膨大な経学の知識を必要とせず、直接釈尊の悟りの境地に至ろうとする点で、末法の時代の万人の仏教であることを標榜しています。鎌倉新仏教が仏教を庶民のものにしたという点に、その革新性を見ることは広く認められています。しかし、奈良平安の旧仏教にも、行基や空海さらに空也のように、広く旅して社会事業を行い、仏法を庶民に説いて幅広い尊崇を得た仏僧もいました。鎌倉仏教の庶民性は全く新しい革命的変革とは言えない面もあります。
鎌倉新仏教のもう一つの革新性は、その選択主義にあります。法然がその主著に「選択本願念仏集」という名をつけたことに示されているように、法然が諸仏の中の阿弥陀仏の一仏を選び、その阿弥陀仏の名号を唱える念仏だけを浄土に生まれる行として選び取ったこと、その「選択」を新しい宗門の基本原理とした選択主義が、旧仏教側の激しい反発を招くことになります。法然は口誦念仏だけを浄土に生まれる唯一の道とし、他のすべての聖道門の行を無意味として退けたので、既成仏教側から求道心を否定する宗門として激しく批判されることになります。旧仏教側が念仏禁止の勅令を求めて朝廷に出した訴状にも、念仏だけを認めて他の行を否定する法然の排他主義が非難されています。法然も教団の存続を考え、他宗やその行を非難しないように弟子たちに求めています。念仏に激しく反対した日蓮も、法華経だけを選び、その他の経典を拠り所とする他宗を邪教として否定し、「南無妙法蓮華経」という題目だけを真理としたので、その排他主義が他宗から激しく非難されることになります。禅宗もすべての経典をとそれに基づくすべての宗門を否定、座禅という一行だけを選びとる点で、選択主義を基本にとしているといえます。「法然と親鸞の手によって、仏教がその成立以来もっとも一神教に近い相貌を示すことになった」という見方も出てきます(佐藤弘夫『鎌倉仏教』ちくま学芸文庫、一一一頁「一神教理念の成立」を参照)。
しかし、一つの仏一つの行の選択と、その結果としての一神教的信仰の確立という鎌倉仏教の革新性は、祖師を継承した弟子たちが形成した教団では長く続きませんでした。法然は「念仏以外に救いはない」として、専修念仏を唱えます。その選択主義とそれに伴う排他性によって、法然の専修念仏は国家と結びついた伝統的な旧仏教側からその排他性を批判され禁圧されることになります。法然の信仰を継承し、その念仏の信仰によって教団を形成した弟子たちは、その教団が社会的に安定した地位を得て拡大するためには、伝統的仏教からその存在を認定してもらうことが不可欠になります。この問題に直面して弟子たちは、祖師の信仰を貫いて、迫害を覚悟して選択の原則を維持するか、念仏の他力信仰は維持しながら、選択主義は棚上げして他行(聖道問の諸行)も認めて、伝統仏教からの認可も得るという妥協の道をとるかの選択を迫られます。法然の教団でも、大多数は後者の妥協の道を選びます。法然の没後、弟子の証空(浄土宗西山派の祖、久我通親の養子)は当時の貴族社会での交友も広く、天台座主に慈円の庇護で流罪も免れています。証空は多くの上層貴族の帰依を受け、すべての衆生の往生はすでに確定しており、浄土往生とはそれを悟ることに他ならないとします。彼の浄土信仰は天台教学と融合、天台の本覚思想の影響を強く受けているといわれます。また法然の弟子の弁長は、聖道門も浄土門も釈迦の法門の一つであって、互いに批判してはならないと主張、浄土門は聖道門の行を行えない人を対象とした法門であるとして、住み分けによる妥協を図ります。これは法然が、末法の時代には聖道門はその効力を失うとした立場とは違ってきています。この弁長の弟子の良忠は、鎌倉に布教、鎌倉末期には京都に戻って、法然ゆかりの大谷の地を手中にして知恩院を建て、法然の正統な後継者を称します。
法然の門下で、このような妥協を排して選択主義の原則を維持し、念仏を唯一至上の法門とした少数派の代表が親鸞ですが、その親鸞の教団も三代目の孫の覚如やその子の存覚(本願寺派開祖)になると、「聖道門の修行に耐えられない人々のために、今易行の一道を設けて他力の往生を示す」と述べて、念仏は数ある救いの中の一つの選択肢となります。この本願寺派の八代目の蓮如が北陸の農村に勢力を拡大、今日では末寺二万を超える本願寺派の基礎をつくります。念仏に激しく反対、法華経とその題目だけを真の法門として他宗を邪教として切り捨てた日蓮の門弟の間でも、その選択主義を固持する日興(前述)は孤立し、多数派は妥協の道を選び、日蓮晩年の講義の筆録と称する偽書まで出て、天台の本覚思想に立って伝統仏教との融合が図れます。日蓮晩年の門弟の一人ひとり日像は、京都に出て布教、比叡山からの迫害でしばしば洛外追放処分を受けますが、それに屈せず布教して洛中の商工階層に信徒を獲得、ついに勅許を得て妙顕寺を設立、後醍醐天皇から勅願寺の一つに列せられます。こうして東国の小教団であった日蓮宗は、国家公認の宗派となり、全国に教線を伸ばすきっかけを得ます。悟りに至る行として座禅の一行だけを選び、厳しく出家主義を貫いた道元の曹洞禅も、三代目の弟子の瑩山によって他宗との兼修を認め、加持祈祷や葬儀などの法要を取り入れることで曹洞宗という大きな宗派となっていきます(前述)。こうして宗祖たちが掲げた選択主義の厳しさは、その教団が社会的認知を受けて成長する過程で失われ、鎌倉仏教の革新性は歴史の中で希薄になっていきます。
 鎌倉時代に起こった新仏教の中で、やはり法然・親鸞の浄土信仰がその後の日本の仏教の主要な流れになったという点で注目されますが、その革新性はここで見たような庶民性と選択主義に見られます。その革新性は教団としての歴史の中で希薄になっていったこともここで見たことですが、法然・親鸞の浄土信仰、専修念仏の主張には、人間の宗教性を根本から革新する革命性、すなわちヨーロッパのキリスト教が経験した宗教改革と同質の革新性があることを見逃すことができません。それは「恩恵の絶対性」による救済の信仰です。 本書第四章のキリスト教の歴史の宗教改革のところで見たように、ルターに代表される宗教改革の根本原理は「恩恵の絶対性」にあるとわたしは理解しています。キリスト教における宗教改革は、それまで西欧社会を支配していたカトリックの原則、すなわちカトリック教会の宗教であるキリスト教という宗教を忠実に行うこと(その教義の信奉や洗礼・聖餐などの儀礼への参加)によって救われるという原則に対して、改革者たちは「信仰によって救われる」ことを根本原則として掲げ、カトリック宗教の枠の外に出たのです。改革者たちのいう信仰とは、キリストにおいて与えられる神の恩恵への全存在的な委ねであって、それ以外の宗教的諸行は救済の必要条件ではないとしたのです。その主張は、パウロが律法の外での義、すなわちユダヤ教という宗教の枠の外で、ただキリスト信仰によって救われるとした主張と同じであること、すなわち宗教改革はパウロの福音と同質の改革であることは広く認められています。そしてパウロのキリスト信仰とは、キリストにおいて示された神の絶対無条件の恩恵への全面的な委ねであり、それはイエスの告知の中身であることは、わたしも前著『福音の史的展開』で述べました。
 法然・親鸞が阿弥陀仏の慈悲から出る衆生救済の本願を絶対として、その本願だけに自己を委ねる念仏だけを救いとしたことは、キリストにおける神の恩恵を絶対として、その無条件の恩恵に自分を委ねる信仰だけを救いとしたパウロの福音と、人間の側の信仰の姿勢は同質です。ただ阿弥陀仏は福音が示す天地万物を存在させる根源的な働きとしての創造者ではなく、その本願にイエス・キリストの出来事における贖罪の働きのような告知もありません。その点で福音とは違いますが、「恩恵の絶対性」を指し示している点で、法然・親鸞の浄土信仰は福音の先駆者的役割を果たしています。一二〇〇年前後の法然・親鸞の出現は、一六世紀の西欧の宗教改革の三〇〇年も前のことです。第五章のバルトのところで見たように(本書一九九頁)、バルトは法然・親鸞の浄土信仰による旧仏教の改革と西欧の宗教改革を比較して、その相似と相違を述べた上で、その出現を神の摂理だとも言っています。バルトが言うように、法然・親鸞の浄土信仰は、救済者の恩恵を絶対とする点で、「日本のプロテスタント主義」と言えるでしょう。





(私論.私見)