江戸時代

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.2.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「日本の宗教史大全」をものしておくことにする。


Ⅵ 幕藩体制下の宗教

檀家制度による仏教の統制

江戸の幕府によって諸国の諸藩大名を統制することで全国を統一する幕藩体制は、キリスト教の禁教と鎖国によって、家康、秀忠、家光の時代に確立します。その幕藩体制下の江戸時代の宗教について、ここでごく簡単にまとめておきます。
幕府はキリスト教を禁圧するために仏教を用います。当時仏教諸派は全国各地に寺院をもち、死者の供養と祖霊祭祀を通じて家と結びつき、菩提寺と檀家の関係が広範に成立していました。幕府はその檀家制度を法制化することで、宗教を統制下に置きます。幕府は家光時代の一六三五年に宗門改めと寺請制度を作ります。寺請というのは、禁教の時代にキリシタン摘発のために密告が奨励されていましたが、ある人が密告された場合、寺の住職がこの人は自分の寺の檀家でありキリシタンではないことを請け合う証文を出して保証するという制度です。幕府は全国のすべての民にそれぞれの菩提寺に檀家であることを登録するように命じます。この寺請制度により、仏教寺院は役場の戸籍係と墓地管理を兼ねることになり、幕府の統制の下部組織になることによって、運営の安定と引き換えに、幕府の統制を受ける立場に置かれます。幕府は寺社奉行を置き、各宗派にそれぞれ法度を下し、本山を通して末寺を規制します。こうした幕府の保護と統制の下で、江戸時代の仏教は葬式仏教化し、外見は繁栄しますが魂の救済のための宗教としては活力を失っていきます。
厳しい幕府の統制下において仏教の各宗派は公儀への忠、家での孝を説いて、その上にその宗派の信仰に励むように勧めます。たとえば浄土系の宗派で最大の教団となっていた本願寺派の法主は、全門徒にあてた消息(指令)で、「世の中の掟に背かず、孝行と忠義の道を守り、真宗の信心を受けつぐことがたいせつである」と教えています。この忠・孝・信を兼ね備えた理想の念仏者を「妙高人」と呼んで、その伝記を出して顕彰し、教団がもはや一向一揆のような反体制宗派でないことを強調しています。しかし念仏を禁止する藩(たとえば薩摩藩)や本願寺教団の形式化や締め付けに反発して、教団とは別に隠れて念仏の信仰に生きる民衆の運動、「隠れ念仏」が各地に起こります。また日蓮宗では、他宗を厳しく批判して宗論を挑み折伏活動を行う不施不受派は、反体制的であるとして弾圧されます。不施不受というのは、法華経を信じないで誹謗する他派からの布施は受けず、他派の活動に参加しないという立場で、秀吉の方広寺の大仏建立に際して行なった千僧供養に参加を拒否した日奥から始まっています。この派の信者は、不受派に対する幕府側からの弾圧に対して、この原則こそ宗祖の教えであるとして、地下活動を続けます。いわば隠れ題目の地下活動です。この地下に潜ることを余儀なくされた不施不受派に対して、日蓮宗の大勢は受派が占めることになり、檀家制度の保護の下に、また摂受による布教で大名や武士の帰依を得て、日蓮宗は繁栄します。
禅宗は、幕府の官学となった儒教との親近性から(共にその時代の中国から学んでいます)、幕府と良好な関係を維持、大名や有力者の帰依を得るなど恵まれた環境で進展しています。江戸初期の一六五四年に明の臨済僧隠元が弟子と共に来日、幕府の許可を得て宇治に黄檗山満福寺を本山として活動します。満福寺はその生活様式から伽藍や僧衣まで中国風で、日本の禅宗に大陸禅の新風を吹き込み、日本の臨済や曹洞の僧もその門下に集まるようになり、その流派が黄檗宗となります。隠元の孫弟子になる鉄眼が黄檗版大蔵経を完成して、山内の宝蔵院に収めたことは有名です。曹洞宗でも、大きな教団となって弛緩した法脈を正そうと、宗祖道元の禅風の回復の動きが起こり、正法眼蔵の研究が盛んになります。江戸の曹洞宗の学問所には多くの修行僧が集まり、幕府の昌平坂学問所と勢いを競っています。一方、江戸時代の曹洞宗の禅僧には、草庵に隠れ托鉢の旅を続ける名僧も多くいました。その代表格が江戸後期に出た越後の良寛です。名主の子の良寛は、出家して禅寺で学び、道元に傾倒、その原始仏教の理念を実践します。托鉢遊行の後、越後の草庵に籠り、子供と戯れ、どのような身分の人とも差別なく、慈愛温顔で交わり、多くの人を感化します。和歌と書を良くし、その遺稿や遺筆がその霊性と人柄を伝えています。臨済宗では、大徳寺と妙心寺を本山として、沢庵、愚堂、至道、盤珪らの多くの禅僧を出しています。なかでも九州で活動した古月と駿河の松蔭寺の白隠は、江戸中期の妙心寺派を代表します。白隠は深く学問し、臨済録や碧厳録などを講じ、臨済禅正統を復興しています。それと並んで平易な仮名法語を出して民衆の教化に努め、大衆に親しまれる近代禅の道を開いています。

儒教による統治

江戸幕府の宗教政策の基本は儒教の尊重と官学化です。この事実を無視して江戸時代の宗教を語ることはできません。ところが少し前の日本宗教史の著述で、江戸時代の宗教を扱う章で儒教のことがほとんど扱われていないものがあります(たとえば山川出版社の『日本宗教史』)。これは、これまで儒教は道徳とか社会倫理の思想であって宗教でなないという考えが一般的であったからでしょう。しかし、本書(四五二~四五五頁)で述べたように、儒教は長年中国の体制宗教となった立派な宗教です(加地伸行『儒教とは何か』中公新書)。儒教は漢の時代から各王朝で国教とされ、それぞれの時代に新しく解釈されて時代の指導的な思想となってきました。宋の時代に行われた経学(儒教文典の解釈学)を集大成した朱子学や、明の時代の陽明学という儒教の解釈が中国の宗教思想を主導します。江戸幕府はこの儒教、とくに朱子学の解釈をその統治の基本理念として採用、支配階級の武士に学ばせ、幕府の官学とします。江戸には湯島に昌平坂学問所を置いて幕臣の子弟を教育、諸藩も藩校を設置、武士の子弟に儒学を学ばせます。儒教は君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の五倫、それを支える仁、義、礼、智、信の五常を中心とする宗教思想であり、身分制度の上に立つ幕藩体制の統治原理としてもっとも適切な宗教思想とされたのでしょう。ここで江戸時代の儒教の進展とその主要な担い手を見ておきましょう。
江戸初期の藤原惺窩は相国寺で禅と儒学を学び、後に僧衣を脱いで儒者として活動します。彼は宋の儒者の説に従って四書五経を訓読して研究、朱子学の基礎を作ります。その門下の林羅山は若き日に建仁寺で漢籍を学び、出家はせず独学で経学を学び、藤原惺窩に会って朱子学に進み、惺窩の勧めで家康に会い、その後秀忠、家光、家綱の四代にわたって徳川家に仕えています。家光には侍講として仕え、後の昌平坂学問所の基をつくり、武家諸法度などの作成、また伊勢神宮参拝典礼、朝鮮への国書起草、朝鮮使節応接など、創業期の幕府の法制の整備など内政だけでなく、典礼や外交にも幅広く活躍しています。羅山の子孫の林家は幕府のお抱え顧問のような地位を受け継ぎます。羅山の学説は朱子学ですから、朱子学は幕府の官学として扱われ、松平定信の寛政異学の禁(一七九〇年)によって朱子学が唯一の幕府公認の学とされ、官学としての地位を確立します。朱子学では本然の性と気質の性があるとして、本然の性は純粋に善であるが(孟子の性善説)、物欲によって人には気質の性が生じるのであるから、それを克服するために人には修徳の工夫が必要であるとし、書を学び敬を保つという内面と外面の修養に励まなければならないとします。
官学として朱子学が江戸時代の儒教の主流となりますが、すでに江戸時代の初期から朱子学に対抗する儒教の学派として陽明学が行われるようになります。朱子学は宋の時代の解釈学でしたが、科挙に用いられたことで中国に学術思想の主流となっていました。それに対して明の時代に出た王陽明が、朱子学の心性論が自力救済を主張したのに対して、その挫折体験から朱子学から訣別、万人が持っている本来完全な自己実現の能力を「良知」と呼んで、外からの権威や伝統的規範に依存しない、知行合一説を唱えます。この王陽明の儒教理解を日本にもたらしたのは、近江聖人と呼ばれる中江藤樹です。藤樹は近江の高島郡に生まれますが、米子藩の家臣であった祖父の家で育ち、朱子学の儒教に傾倒します。彼は若き日に老母を養うために近江に帰り、そこで陽明学の書に出会って次第に没入、その立場で儒教と医学を講じ、熊沢蕃山、淵岡山、大塩中斎(平八郎)らの多くの門人を育てます。その知行合一の高い徳行から近隣の農民を含む多くの人を感化、岡山藩主池田光政の尊信を受けています。内村鑑三も理想的教育者として『代表的日本人』の一人として取り上げています。なお、江戸前期には伊藤仁斎が朱子学を批判、直接論語や孟子の本文を読解して、聖人の原意を追求することを主張する古義派を起こしています。古義派は道徳の基準を人情に置くことで、元禄期の町人文化を代表し、仁斎の生家の京都から全国に広がります。
江戸中期の元禄時代に、荻生徂徠が出て儒教を初期の内面道徳から後期の外面的な政治理論への方向転換の舵を切ります。徂徠は言葉の意味が時代によって変遷する事実に着目、古代中国の古文辞で表現された儒教経典を正しく理解するために、古文辞の客観的で厳密な研究を行い(古文辞派)、理想とされる古代王朝の政治理念を回復しようとします。内面の道徳性の強調より、政治的に有効な制度の確立によって人間性の完成を目指す儒教を追求します。この政治志向と内面道徳を論じないという方向から、人間性への寛容という側面をもち、詩文と文学は道徳から解放されて自由に発展することになります。この古文辞派の主張が本居宣長の古事記研究の方法理念となります。
また江戸中期には木下順庵の弟子の新井白石が六代将軍家宣に仕え、家宣を中国古代の聖人のような理想的君主にしようとして講義に努め、幕政の改善を図り、礼楽の振興に力を尽くし、仁愛の精神で民に臨むように補佐、次の幼い将軍家継をもよく補佐して通貨改良、貿易制限、司法改革に励みます。この時期は「正徳の治」と呼ばれますが、次の将軍吉宗からは遠ざけられ、不遇の中で著作に励みます。白石は朱子学派に属しますが、漢籍だけでなく日本の文献にも造詣が深く、それを実証的に検証、多くの歴史書や地誌を書いています。またイタリア人宣教師の尋問によって得た知識で「西洋紀聞」を書き、鎖国下の日本に世界情勢を紹介しています。白石は和文に長じ、その和文による自叙伝「折りたく柴の記」を残しています。
江戸中期から後期にかけての儒学は、朱子学の官学化に伴い、表向きは朱子学の枠内に止まりながら、陽明学や徂徠学の影響で様々な方向に向い、人々は主体的に儒教と関わるようになっていきます。自然哲学の三浦梅園、医師・思想家で平等主義を唱えた安藤昌益、大阪の思想史家の富永仲基らが出ます。この富永仲基は、仏教はインドの、儒教は中国の文化の中の聖教であるとして相対化し、大乗仏教は釈尊の教えに自説を「加上」したものであるとして大乗非仏説を唱えて、仏教界に衝撃を与えています(富永仲基については後述)。また、商家で儒学を勉強した石田梅岩は、京都で商人を集めて心学的な商業道徳を説き、石門心学を全国的に展開、武士階級にも波及します。陽明学者の大塩中斎(平八郎)は大阪の天満に学塾を開き、貧農の救済を志し、私財を売り払って救援し、一八三七年ついに檄文を回して近隣の農民数百人と蜂起するにいたります。彼は飢饉に苦しむ農民を放置して江戸回米を行い不正を行う奉行と暴利を貪る豪商を襲撃、鎮圧の幕府軍に敗れて自害します。そこまでは行かないでも、朱子学と陽明学を学んだ西郷隆盛や高杉晋作は幕末の政治に関与、徂徠学から洋学に向かった西周、西洋の自然科学を受け入れた儒学者佐久間象山など、多彩な方向を取るようになります。
なお江戸中期から幕末にかけての宗教思想については、蘭学の興隆に触れなければなりません。蘭学は宗教ではありませんが、その担い手の多くは儒者ですから、蘭学は時代の体制宗教に大きな影響を与えることになります。日本はキリシタン時代に西洋の宗教と思想に触れていますが、幕府の鎖国政策によってその接触は閉ざされ、ただ長崎の出島に置かれたオランダ商館だけが、西欧の文化学術を知る唯一の窓口となり、そこから得られた知識が蘭学と呼ばれて、鎖国日本が世界を知る唯一の手段となります。殖産興業のために実学を奨励した吉宗によって一七二〇年に洋学の制限が緩和されると、オランダ語と蘭書の研究が盛んになり、青木昆陽のオランダ語研究は前野良沢と杉田玄白の『解体新書』に結実、蘭学者らの活動が活発になります。玄白が晩年に著した『蘭学事始』が初期の蘭学者たちの苦労が偲ばれます。ここであげた名が示しているように、蘭学は医学の分野で始まりますが、西欧の富強の原動力となっている科学技術の諸分野に及んでいきます。しかし体制側も思想統制を強め、寛政異学の禁を発令、一七九二年の海防を論じた林子平の処罰を機に蘭学の統制に乗り出します。一八三九年には渡辺華山や高野長英らが海防問題で幕府の方針に反したとして投獄される「蛮社の獄」が発生します。しかし一八四〇年に起こったアヘン戦争に衝撃を受けた幕府は方針を転換、西洋軍事科学の研究移植に熱心になります。この風潮の中で江戸や大阪の民間の蘭学塾も多くの門弟を集めて盛んになります。医師の緒方洪庵が開いた適塾は大村益次郎、福沢諭吉、橋本左内らを育てています。こうして蓄積された蘭学による西欧理解が、ペリー来航によって突きつけられた開国の要求に対応する準備をすることになります。





(私論.私見)