第一次日ユ攻防史

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.2.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「日本の宗教史大全」をものしておくことにする。


禁教令と鎖国

戦国の時代は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康によって統一政権の樹立に向かいます。その過程でキリシタンに対する姿勢も変化し、優遇から禁止・弾圧となり、ついに鎖国に至ります。その過程をここで瞥見しておきましょう。
信長は革新的であり、新しくヨーロッパから来たキリシタンに好意的であったというイメージが一般に定着しています。たしかに信長はキリシタン宣教師には好意的であり、安土に屋敷を与えたり、フロイスを身近に置いてヨーロッパの文化に関心を示し、ヴァリニャーノを謁見し、彼を本能寺に泊まらせたりしています。信長は石山本願寺の一向一揆とは戦いましたが、キリシタンは危険な宗教とは見ていなかったようです。信長は比叡山延暦寺を焼打ちしていますが、これは比叡山が敵方の浅井氏らについて信長に敵対したからであって、信長の戦略の一部でした。延暦寺に代表される伝統的宗教全体を壊滅させて、宗教支配の体制を覆し、近代的な支配体制を打ち立てようとするような性格のものではなかったようです。荒木村重が信長に背いた時、その臣下の高山右近を味方につけようとしてイエズス会宣教師を派遣して説得しますが、その際、従うなら布教の公認、拒否ならばキリシタン宗門の断絶と迫っています。信長にとって宗教勢力は天下威武の実現のための手段であったようです。信長は晩年には安土城を建て、自分をキリスト教の神のような絶対的主権者になろうとして自己神格化を図ったと、イエズス会側から批判されています。信長は本能寺の変に倒れ、秀吉の政権に受け継がれます。
政権の座についた秀吉は、一五八七年に島津義久を下して九州を平定、直後に博多で突然伴天連追放令を発し、翌年には教会領長崎を没収して直轄領とします。これは長崎貿易を独占するためです。貿易の利益は欲しいが、キリスト教は要らないということでしょう。伴天連追放令は、日本は神国でありキリシタン国より邪法を授けることはよくないとして、伴天連(宣教師)に退去を命じています。しかし交易と個人のキリシタン信仰は認めています。イエズス会の宣教師たちは一時的にマカオに退避、国内では潜伏して活動します。秀吉は探索したり処罰することはありませんでした。貿易を認めている以上、イエズス会を完全に追放することはできませんでした。しかしその後、一五九六年にスペイン船サン・フェリペ号事件が起こります。遭難した同船が土佐に漂着します。積み荷を没収して取り調べた奉行に船員が、スペインはまず修道士を派遣し、その後に軍隊を引き込んでその国を征服するのだと述べたことが秀吉に伝わり、秀吉を激怒させます。秀吉はポルトガルやスペインやキリシタン教会に強い警戒心を抱き、一五九七年にはフランシスコ会士六名を含む二六人が長崎に護送されて磔刑に処せられます。彼らは後に列聖されて、長崎の二六聖人と呼ばれます。
秀吉は九州を制圧した後、朝鮮国王に朝貢を求めます。それは朝鮮を明征服の足がかりとするためです。秀吉はポルトガル領インドの副王に、貿易は許可するがキリスト教の布教は禁止すると通告、スペイン領となっていたフィリピンの服属と朝貢を要求する使者を派遣しています。晩年の秀吉は自らを日輪の子と称して、アジアの盟主となる野心を実行しようとします。秀吉は明征服の先兵として期待した朝鮮側の対応を不満として、軍事的制圧を計画、一五九二年に小西行長、加藤清正、黒田長政らが指揮する軍隊を送ります。これが文禄の役です。日本軍は朝鮮国王を敗走させ、石田三成を奉行に任命して統治しますが、救援に入った明の軍勢には破れ苦境に陥り和議を結びます。しかし秀吉は和議の条件を不服として、一五九七年に第二次出兵(慶長の役)を行いますが、一五九八年の秀吉の死によって終了します。朝鮮に出兵した小西行長の従軍司祭として同行したスペイン人のイエズス会士が、朝鮮に入った最初のヨーロッパ人とされますが、秀吉の禁令もあって布教活動はしていないようです。二次にわたる戦争は朝鮮を相手としての戦争であり、多くの朝鮮人捕虜が日本に送られてきて、その中にはキリシタンに改宗する者も出てきます。韓国のキリスト教はこのような日本での改宗者から始まったする見方もあります。実際には清の時代の中国からキリスト教が韓国に入ってきて教会を形成しています。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て政権は家康に移ります。家康は朱印船貿易を推進、スペイン人有力神父や日本司教を謁見したり、イギリス人アダムズ(三浦按針)らを外交顧問にしたりして、対外貿易に積極的な関心を示しています。しかし一方、秀吉の伴天連追放令は撤回せず、その後の重大事件の関連者がキリシタンであったことから、また秀吉の家臣にキリシタン大名がいたことから、豊臣家とキリシタンの関係を危惧して、禁教へ傾きます。はじめ江戸や京都に禁教令を出しますが、一六一四年に江戸幕府は全国に禁教令を発布し、翌年には江戸において二七名のキリシタンを処刑することで、禁教令の厳格な施行を内外に宣明します。しかし幕府の禁教令の直前には、仙台藩主伊達政宗は南蛮貿易を企画し、支倉常長をメキシコ経由でスペインに派遣しています。しかしこの慶長遣欧使節団はスペイン系とポルトガル系の対立や、直後の幕府の禁教令などによって成果なく終わります。
一六一六年に家康が没し秀忠が後を継ぎますが、秀忠の政権は禁教令を厳しく実行し、元和の大殉教と呼ばれる三回の大規模な殉教を引き起こしています。一六一九年の京都の大殉教は日本人の一般信徒五二人を十字架刑や火刑で処刑、一六二二年の長崎の大殉教はポルトガル・スペインの聖職者や日本人のキリシタン数十人を火刑や斬首で処刑、その迫害は全国に波及します。一六二三年の江戸の大殉教では二回にわたり四〇人五〇人の規模で火刑によって処刑され、江戸にいる大名たちに見せつけ、各藩でもキリシタン弾圧が厳しく行われるようになります。伊達政宗もこれを見て、帰藩後にキリシタン弾圧を開始しています。当時のイエズス会の書簡は、江戸幕府の国是によってキリシタンが弾圧にさらされていることを報告しています。幕閣は、キリスト教は日本を征服するための手段であると考えたようです。殉教は信仰告白と無抵抗の受難で認められるのですから、当時では日本が唯一の殉教の地となり、ヨーロッパの修道士の間の殉教願望が禁教令の日本に潜入させることになったという面もあります。
江戸幕府は禁教を実現するために、キリスト教への対策として寺請制度を創設、すべての人を特定の仏教寺院の檀家として登録させます。この制度から宗門改め役が置かれ、寺請による宗門改帳の作成が進みます。この過程で、キリシタンでないことの確認として踏み絵が長崎で行われるようになります。三代将軍の家光は外国貿易に関心がなく、当時外国貿易は朱印船貿易から奉書船に変わっていましたが、その奉書船制度も廃止します(一六三三年)。これによって家康の頃には盛んであった東南アジアの日本人町(アユタヤの山田長政など)は衰退します。またポルトガル人の勾留地としていた長崎の出島を、ポルトガル人追放の後幕府はオランダ人に貸与、貿易をオランダ貿易に限定します。これは幕末まで続きます。幕府の政策はこの貿易統制とキリシタン禁令から一切の海外渡航の禁止(一六三九年)という鎖国へと進んでいきます。この決定的な鎖国に至る直前に島原の乱が起こり(一六三七年)、幕府に鎖国を決心させています。島原の乱は天草一揆とも呼ばれ、天草の農民が圧政に耐えかねて代官を殺した事件から始まります。天草四郎に率いられた一揆勢は島原の原城に籠り、幕府が派遣した大軍と善戦、幕府軍は数次の戦いの後ようやく鎮圧します。幕府は天草四郎をはじめ一揆の中心はキリシタンであると考え、キリシタンの取り締まりを強化し、決定的な鎖国に至ります。その後はキリシタン信徒はヨーロッパ諸国からの指導や援助を一切失い、平戸などに潜伏して隠れキリシタンとして、信徒組織を作り、地元の伝統宗教の体裁の陰に隠れてキリシタン信仰を維持します。

結び

 先に見たように、鎌倉室町期の仏教や神道において専修一仏への信仰や原理追求の中で根源神の探求が行われて、一神教的精神風土が形成されていたのがキリスト教を受け容れる備えとなっていたのですが、宗教勢力が天下統一の妨げになることを恐れた政権による弾圧が鎖国にまで行かせることになります。キリシタン史は、日本がそれまでまったく知らなかった西欧と本格的に接触した最初の時代ですが、この鎖国によって日本は世界史の大きな流れから国全体を閉め出してしまいます。
 ここで一神教に向かう精神的風土が形成されていたことを示す指標として、戦国の時代に「天道」という理念が広く行われていたいたことをあげることができます。太陽や月がその道(軌道)から離れないで運行しているように、神道、仏教、儒教などの諸宗教の神仏を超えて、人間界を永遠に支配している究極の法則や摂理があるという信仰です。おそらく中国の「天」の思想から来ているのでしょうが、各宗教が争う戦国の武将たちは「天道」を拠り所にして正義を主張し、その加護を祈っています。キリスト教の宣教師たちも初期には、ラテン語の《デウス》を天道と訳していたことが、当時のポルトガル語の辞書にも出てきます。
ところで、ここに見たキリシタン史の時代の布教活動は、イエズス会を先頭としてカトリックの修道会が行なったローマ・カトリックのキリスト教の布教活動でした。しかし、そのキリスト教布教の中に日本の霊性はキリストの福音を聞き取り、それを信受してキリストの救いにあずかり、キリストの命に生きるキリスト者が起こり、多くの殉教者を出すまでに強い勢力となりました。その短期間の成果は驚くべきものです。そこに神の恵みの働きを認めなくてはなりません。しかし布教する側はあくまでカトリック教会の権威と勢力の確立を目指す布教活動でしたから、政権の反発を招き、日本に禁教と鎖国の道をとらせます。日本が、西欧の歴史的産物であるキリスト教宗教ではなく、その源泉であるキリストの福音そのものを受容するには、明治維新以後の近代化し、自由の原理に立つ日本での苦闘を経なければなりませんでした。





(私論.私見)