| 仏教伝来後の日本宗教 |
更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.2.16日
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、「日本の宗教史大全」をものしておくことにする。 |
仏教の伝来
先に渡来人の項で見たように、四世紀の末頃から盛んになった朝鮮半島や中国大陸との交流によって渡来した人々によって、五世紀から六世紀にかけて儒教、道教、仏教が日本にも伝えられていました。しかし公式には、百済の聖明王が仏像と経典を朝廷に献上した五三八年が仏教公伝の時とされます(年代には異説があります)。その時、蘇我稲目は仏教の受容を、物部尾輿は排斥を主張し、豪族間の争いが起こります。当初仏教は圧迫されますが、蘇我氏を中心に渡来系氏族が多い飛鳥の地に根づくようになります。五九二年に当時勢力絶頂の蘇我馬子が崇峻天皇を殺害、推古女帝が即位し、幼名を「厩戸皇子」と呼ばれた太子(後の聖徳太子、太子のウマヤドノトヨトミミという幼名からキリスト教の影響を見る説もあります)を摂政とし、蘇我氏の路線の政策を進めます。太子は若き日に蘇我馬子の軍に加わり、排仏派の物部守屋を討っています。太子は摂政として、大陸の文物・制度を取り入れる蘇我氏の開明政策を推し進め、冠位十二階や十七条憲法の制定、遣隋使の派遣、国史の編纂などの事業を成し遂げています。しかし何よりも太子がその後の日本に及ぼした大きな影響は太子の宗教性にあり、具体的には仏教の深い理解とその推進です。太子は深く仏教に帰依し、法華、勝鬘、維摩の三経の注釈書「三経義疏」を書き、十七条憲法でも「篤く三宝を敬え」と述べています。この古代日本の最高の宗教家は、後の時代には「聖徳太子」という尊称で崇められ、とくに仏教徒から日本仏教の基礎を置いた聖者として多くの伝説も加わり、超人的な霊威を有する信仰の対象となっていきます。
この時期の仏教は、蘇我氏が建てた日本最初の伽藍となる飛鳥寺、太子が建てた法隆寺などの豪族の私寺が中心になっていましたが、だんだんと天皇が仏教を受容するようになり、舒明、天智、天武、文武の時代には天皇が建て、そこで国家的行事が行われる官寺が多くなってきます。官寺で行われる法要は鎮護国家の法要です。奈良時代になると、都には朝廷によって東大寺、西大寺、法華寺、新薬師寺、唐招提寺などの太寺が建立され、仏教は国教的な扱いを受けるようになります。その頂点が聖武天皇による国分寺造営の詔(七四一年)と大仏造営発願の詔(七四三年)です。政局の動揺を克服するために、聖武天皇は全国の国ごとに立てた国分寺に護国の経典「金光明最勝王経」を置いて読経させ、国家の安定を祈願させます。当時の都の大寺は、雄大な七堂伽藍を擁し、燦然と輝く金色の仏像など、天皇や豪族の権勢と富を誇示する大陸文化の展示場でした。このように仏教は朝廷や権力者の帰依を受けて国教的な地位を享受しましたが、コンスタンティヌス以後のローマ帝国のようにキリスト教を国教として他の宗教を禁止するようなことはありませんでした。一般民衆はこれまでと同じで、多くの神々や祖霊を祀る儀礼を行い、古来の宗教(前述の基層宗教の項を参照)生活を送っていました。律令国家の重い課税に苦しむ庶民の中に入っていって、仏教信仰と同時に優れた土木技術で池や橋などを作たり孤児院のような社会事業的な働きを進めた行基のような私度僧が、民衆の帰依を受けて仏教を広めていました。大仏造営を発願した聖武天皇も、その資金を集めるのに行基を勧進役に起用し、彼を大僧正に任じるようになります。庶民の間に仏教が受け入れられていった様子は、「日本霊異記」などの説話文学で知られます。
顕密仏教体制
平安時代に入ると、インドに起こり中国で発展した密教が日本にも伝えられてきます(密教については本書四五五頁を参照)。平安京に遷都した桓武天皇(在位七八一~八〇六年)の末期、唐から帰国した留学僧の最澄によって天台密教が、空海によって真言密教が伝えられます。奈良仏教は「鎮護国家」、平安仏教は「護国仏教」と標語は異なっていましたが、両方とも古代国家の隆盛期に形成された仏教として、国家仏教の性格は共通しています。ただ、奈良仏教では大寺は都の中にあって、高位の僧はつねに中央政界に出入りして直接政治と関わっていましたが、平安仏教では天台は比叡山、真言は高野山を拠点とする山岳仏教に変わり、政治に一定の距離を置いて、宗門の独立を維持するようになります。この時代には「王法と仏法は車の両輪のごとし」という対等依存の思想が国家仏教の理念として唱えられるようになります。そして仏法は、顕教と密教の二種類ありますが、平安時代にはこの二つの形態の仏法が王法を支えるという国家仏教の体制がとられることになります。
顕教とは、多くの経典などに見られるように、仏法の教えが言葉によって説かれているので、それを学び解釈するという仕方で目的に達しようとする仏教です。それに対して非公開の教団内部で、秘密の教義と儀礼を師資相伝で伝える秘密の仏教を「密教」と称します。唐留学僧の最澄は天台智顗から、空海は青竜寺の恵果からそれぞれその秘伝の教義と儀礼(修法)を受け継ぎ、それを日本に伝えて天台宗と真言宗を開きます。密教の修法は本来多分に呪術的な要素を含み、国土平穏や病気平癒など加持祈祷の効用を求める貴族に流行し、多くの法会が開かれることになります。平安時代の仏教は、奈良仏教以来の伝統的な顕教と新しい密教系の仏教が社会の体制となる時代、顕密仏教体制といえる時代となります。
仏性を得ることを目的とする仏教で、法相宗を主流とする六宗の南都仏教(奈良仏教)では、その目的(成仏)は人間の素質によるとした三乗主義(大乗仏教には聴く人の素質に応じて三種類の乗り物があるという主義)に対して、天台・真言の平安仏教では素質や能力に関係なくすべての人が成仏できるという一乗主義、すなわち大乗という一つの乗り物があるだけだと説きます。この思想はすべてのものに仏性があるとする「悉皆仏性」の思想を含んでいます。その内なる仏性に気づいて悟りを開くのは、本来わが身に悟りが備わっているからだとして、それを「本覚」と呼んで、これが天台教学の基本路線となります。この本覚思想は、それから来る一乗主義によって東北地方を含む日本の全地に広まり、それ以後の日本仏教の基本思想となって、大きな影響を及ぼすことになります。
天台仏教も密教も大乗仏教の中の運動ですが、比叡山で学んだ仏教徒も国家公認の正式の僧になるには東大寺など奈良仏教の戒壇で受戒しなければならないので、最澄は天台の教団形成には独自の戒壇が必要であるとして、比叡山に大乗戒壇の設立を志しますが、生存中は果たせず、八二二年の没後七日目に勅許が出て、正式に天台教団が発足します。
(私論.私見)