| 幕末時代 |
更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.2.16日
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、「日本の宗教史大全」をものしておくことにする。 |
神道とナショナリズム
儒教は幕府の官学となり、支配階級の武士の間に行われますが、庶民には浸透せず、民間では仏教と神道が広く行われておりました。とくに仏教は檀家制によって民衆の葬儀を担当、その勢力は安定し繁栄していました。そこで儒教と仏教および神道の三宗教の関係が問題になってきます。当初、儒教は仏教とくに禅宗と親近性があり、儒仏の融合が見られました。江戸時代の儒教は中国から学びますが、当時漢文をよくしたのは五山の禅僧ですから、藤原惺窩の場合に見られるように禅僧から儒者になる者が出て、江戸時代の儒教が始まることになります。初期の儒者には禅寺で学んだ者が多かったようです。しかし仏教も儒教も共に外来宗教です。日本には古代から民族の基層宗教としての神道があります。幕府も吉田家を神道家元と認め、当時全国の神社を統合していた吉田神道を宗教統制に利用します。儒者も伊勢神道を認め、林羅山のように伊勢神宮参拝典礼を定め、新しい神道説(理当心地神道)を唱えたりしています。
すでに江戸初期に山崎闇斎が儒教と神道の融合を唱えて、垂加神道説を提唱しています。山崎闇斎(別号は垂加)は妙心寺の僧でしたが、儒学に転じて朱子学を学び、君臣関係の絶対性を重視、江戸に出て諸大名ら武家社会で講じ、会津藩主保科正之の信任を得ています。闇斎は朱子学の大成者(闇斎学)であると共に、中国の儒教と日本の神道の根本における冥合一致を確信、神道諸伝の総合を志し、秘伝的な神道説(垂加神道)を唱えています。彼の朱子学も神道説もその弟子たちによって継承されて、江戸時代の宗教思想に影響を及ぼしています。
もともと現世的な神道は、伝統的な神仏習合を克服するために、新興の儒教と結びつく傾向があり、とくに武士の間では仏教を排して儒教と神道を結びつける傾向が強まります。このような仏教を排斥した神儒一体論は、藩によっては実際の仏教排除の政策となって実行されます。水戸藩では『大日本史』の徳川光圀が、岡山藩では池田光政が、会津藩では闇斎に傾倒した保科正之が、それぞれの領内の寺院整理を行っています。庶民の間では幕府の支持を受けた神仏習合が主流であったのに対して、神仏分離と排仏の底流が武士階級にあり、それがやがて水戸学や復古神道になって現れることになります。
その流れの中に、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤の国学が出てきます。本居宣長は徂徠の古文辞研究の方法によって神道経典の古事記を研究、「漢意(からごころ)・儒意を、清く濯ぎ去て、やまと魂をかたくする事」を道、すなわち自らの生き方としています。宣長は仏教や儒教以前にある日本人の基層を純化しようとしたと言えるでしょう。宣長の後を受けて、平田篤胤は東西の文献を読み漁って、日本の優越性を証明しようとします。これは吉田兼倶の唯一神道が、仏法は万法の花実、儒教は万法の枝葉、神道は万法の根本とした神道優位説の固執にすぎませんが、宣長とは異なり『鬼神新論』を書いて国学を宗教化、宇宙開闢論、幽冥信仰、因果応報思想も取り入れた神秘的な神学体系を作り上げます。これが平田神道、あるいは復古神道と呼ばれるようになります。
古事記を聖典とした宣長にも、天照大神の子孫である天皇信仰が見られますが、平田篤胤の復古神道はそれを宗教化し、水戸学などと共に、後に天皇による祭政一致によって西欧の侵略に対して防衛しようとする「尊王攘夷」思想の源流となります。どの民族の民族宗教も自民族を世界の中心とする中華思想を伴いますが、このような神儒融合の幕末の日本型の中華思想が、明治以後のナショナリズムの源流となります。
Ⅶ 近代化された日本における宗教
開国と明治新政府の宗教政策
来航したペリー提督から突きつけられた開国の要求に従って、幕府が勅許を得ずに通商条約を結んだことが、尊王攘夷の倒幕派に火をつけて、天皇の権威(錦の御旗)を背負った薩長の連合軍に敗れ、幕府は大政奉還に至ります。こうして成立した薩長連合の明治新政府は二つの目標を実現しようとします。一つは尊王攘夷理念の実現としての天皇親政による祭政一致の国家形成です。もう一つは富国強兵の国家形成です。開国によって日本は、当時新しい植民地獲得によって勢力の拡大を追求していたヨーロッパ近代国家群の競争の渦に巻き込まれることになり、国がヨーロッパ列強の植民地となることを防ぎ、自身がその列強と同列の国となることを目標にします。そのために富国強兵のスローガンを掲げて、経済的な富の蓄積と軍事力の強化を図ります。尊王攘夷の理念の内、尊皇は天皇親政と祭政一致の方向に進みますが、攘夷は夷狄であるヨーロッパ列強を目標としてそれに追いつくという方向に転換します。この方向の明治新政権の努力は一般の歴史書に詳しく記述されていますので、日本の宗教史を扱う本書では、第一の宗教的目標に限定して簡単に見ておくことになります。
一八六八年に成立した明治新政府は、復古神道の人物を登用、その年に神祇官を置いて神道の国教化を目指し、神仏分離令を次々と出して仏教を排除しようとします。仏教排除の動きはすでに江戸時代の数藩にもありましたが(本書五二一頁参照)、それが新政府の命令によって全国に及び、廃物毀釈の運動が起こります。神社内の仏像や仏号は廃止、僧は還俗させられ、時には寺院が破壊される場合も出てきます。この神仏分離令によって長い間続いていた神仏習合に終止符が打たれます。しかし廃仏の動きが激しくなると、真宗を中心に反対運動も高まり、農民一揆も起って、政府も行き過ぎを抑えるようになり、大規模な宗教施設の破壊は収まります。実際には社会的に大きな力をもっている仏教を無視して、神道を国教とすることは不可能であり、古代国家と同じく太政官と並ぶ位置の神祇官は維持できず、明治五年には太政官管轄下の教部省に格下げされて、やがてそれも解体されて神道国教化は挫折します。
この新政府の神道国教化の前に立ちふさがったのは真宗本願寺派僧の島地黙雷です。黙雷はヨーロッパ視察で政教分離と信教の自由の重要性を痛感、教部省の国家主導の宗教政策を批判、当時の啓蒙思想家と共に信教の自由を主張、教部省の構想から真宗の脱退を主張して教部省を解体に追い込みます。このような運動と自由民権運動の成果として、一八八九年(明治二二年)に公布された憲法にも信教の自由は明記されるに至ります。しかしながら、この信教の自由は「安寧秩序をさまたげず、臣民たるの義務に背かざる限りにおいて」認められている自由であって、神聖にして侵すべからずの天皇の支配に従順な臣民としての義務が負わされています。そしてその天皇の支配は、アマテラスから天皇への系譜を国家公認の神話として体系化、その国家神話と祭祀の体系(国家神道)は宗教ではないとして、臣民の義務として国民に強要します。信教の自由は国家神道の枠組みの中に取り込まれることになります。その強要を国民に徹底させるために、政府は憲法制定の翌年に教育勅語を発布、学校教育の基本原理とします。教育勅語は天皇が臣民に語りかける形で、萬世一系の天皇が統治する「国体の精華」を説き、臣民に天皇への忠節と孝を中心とする家庭道徳を求める内容になっています。それは神儒混淆の産物であり、まさに国家神道の教典です。著者の世代の日本人は皆小学校でこの教育勅語を繰り返し聞かされ叩き込まれた経験をもちます。
(私論.私見)