天理教教祖中山みきの研究新版のお知らせ

 更新日/2023(平成31→5.1栄和改元/栄和5)年12.15日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「天理教教祖中山みきの研究新版のお知らせ」を記す。

 2012.03.13日 れんだいこ拝


【天理教教祖中山みきの研究新版のお知らせ】
 2007.11.29日付けブログ「れんだいこのカンテラ時評348、天理教教祖中山みきの研究新版のお知らせ」を転載しておく。
 【天理教教祖中山みきの研究新版のお知らせ】

 れんだいこは、久しぶりに「天理教教祖中山みきの研究」を書き換えた。まだまだ不十分であるが、既成本のどれよりも勝れた中山みき論に成り得ていると自負している。興味のある方は読まれ、ぜひご意見くださればあり難い。糠釘が一番辛い。

 れんだいこがなぜ中山みきに拘るのか。それは、極めて深遠な現代ネオシオニズム批判になっていることに気づいたからである。ネオシオニズムは今や世界をままにしており、その挙句に社会の奇形と戦争と原子力、地球環境破壊をもたらしており、その傾向をますます強めつつある。当然ながら、いびつな現代を招来せしめた張本人であるネオシオニズムはこの危機を打開する能力を持たない。なぜなら、彼らが推進する強欲資本主義秩序の自己否定に繋がるからである。彼らは自己の支配権を維持しながらの改良を望み、為に付け刃の構造改革に精出しているが、既に事態はそういうものでは何ら事態を解決し得ない、否、その間にも現代世界の文明的危機はますます深刻さを深めつつある。

 れんだいこはほぼ30年前の或る時、中山みきの御教えと邂逅した。それまで天理教とは何の接点もなかったのに不思議なほど胸にすっきり治まったのでよほど相性が良いのだろう。そう云えば、村上重良氏の「ほんみち不敬事件」を読んでいたので、それが効いていたのかも知れない。天理教聖地のおじばに都合6ヶ月留まり、離れるに当たってれんだいこなりのみき教祖伝を書き上げる心定めをした。みきが神がかった41歳の時までを期したが、それはかなわなかった。ほぼ完成したのはれんだいこ50歳頃である。道中何度足踏みしたことか。今57歳だから7年ぶりに書き換えたことになる。

 今なぜれんだいこが中山みきに拘るのか。それは、中山みきの御教えが、現代の世界閉塞をこじあける叡智を秘めていると思うからである。そう思うようになった。れんだいこは坐りづとも立ち手踊りも忘れたが、改めて覚え直そうと思っている。あの踊りの中に思惟の原理原則が凝縮されていると気づかされたからである。

 まだある。れんだいこが拘り続けてきたマルクス主義の再生が、マルクスを起点にする限り不可能と云うマルクス主義のネオシオニズム性に気づかされたからである。俗流マルクス主義が親ネオシオニズムなのは決して偶然ではない。そういうことからむしろ、中山みき思想を核として世界の様々な思想を練り合せたほうが、却ってれんだいこの希求するものに近づくということを知ったからである。

 まだある。ネオシオニズムを原理的に批判するのにキリスト教に傾斜して為そうにも、キリスト教自体がネオシオニズムの思惟様式を取り入れており、ほぼ絶望的に難しいことを知らされたからである。むしろ、開祖イエスの御教えに着目し、イエス教義とみき教義を練り合わせたほうが、却ってれんだいこの希求するものに近づくということを知ったからである。世界思想にはほかにも多々優れたものがあるだろうが、奥深い根本まで立ち入って思惟を深めているとなるとそうはなかろう。むしろ、みき教義を核としながら、世界の優れものを寄せたほうが手っ取り早いのではなかろうか、そう思っている。

 最後に云いたいことはこうである。最近は学んで為にならず却って馬鹿になるネオシオニズム系学問が横行隆盛しつつあり、次第に我々の日常生活をがんじがらめに規制しつつある。政財官学報司警軍八者権力機関の頭目がこぞって被れているから、下が皆な倣(なら)う。これに対抗するには、ネオシオニズム系学問の個々を批判してもキリがなく、ネオシオニズム系学問総体に対峙する別系学問思想を打ち立てる以外にない。その別系学問は、みき教義を学び深く思案するところから生まれる。そう気づいた次第である。みき教義にちんぷんかんぷんな者には何を言っているのかそれこそちんぷんかんぷんだろうが、各自銘々がみきの門を叩くのが良かろうと思う。れんだいこは、毎日の生活の癒しにもなることであるからして、日々立ち返り更に充実させて行こうと思う。

 2007.11.29日 れんだいこ拝


【天理教教祖中山みきの研究新版のお知らせ】如往 2007/11/30
 れんだいこさん、こんにちは。 遅ればせながら、病の快癒を御祝い申し上げます。 私はれんだいこさんと年格好は殆ど違いのない世代に属していますが、自身や伴侶が脳梗塞や心臓麻痺等に襲われたどうしたらよいのだろうかと、世情にも鑑みながらそんなことを考えるようになった今日この頃です。

 ところで、『ほんみち不敬罪』(村上重良1974年)は卒論のためかおそらくその後の文献研究で目にしてはいたものの、天皇史観と根本的に対立しているのはどの部分なのかがはっきりしないまま、否、自身では解明ができぬまま今日に至っています。その間にも天理教学の重鎮の一人でもある宗教心理学者松本滋氏の著作(『父性的宗教 母性的宗教』等)を読むなどして推察したところでは、どうやら皇祖=アマテラスとした場合の正統性の問題にも絡む対立ではなかったかと記憶しているのですが、この問題の顛末や戦後の天理教会がどう総括しているのかについては今も尚判然としてはいません。れんだいこさんによる今後の『天理教教祖中山みき研究』に期待したいと考えております。また、会いましょう。

【天理教教祖中山みきの研究新版のお知らせ】れんだいこ 2007/11/30
 如往さんちわぁ。久しぶりです。我々の世代も養生のいる年頃になりました。何とか全快していますが、なりわい上のストレスが多くゆっくりできません。今年は越年が厳しいほど特に強い。ほかの方はどうなんだろうね。

 私の「天理教教祖中山みき研究」へのエール有難うございます。今日も暇を見つけては書き直しており、これ後も取りかかります。結構面白いんです。全体の構成とストーリーを確定してから読み易く表現し直そうと思っております。れんだいこの世に送る初版本にしたいと少し色気を出しております。

 中山みき思想を理解するには、れんだいこがしたように、或る時期に修養科へ行き三ヶ月ほどひたらないと無理かもしれませんね。もっとも、本部教材の稿本天理教教祖伝をそのままに受け取るとみきの実像に迫れなくなりますが。れんだいこは、かの教祖伝でみきに興味を覚えたので、それぐらいの価値はあるかも知れません。

 今れんだいこは、中山みき思想を21世紀に通用する指針として注目し始めております。その他のあらゆる思想が色あせつつある中で、みきのそれは逆に生彩を放ちつつあるとみなしております。それをどう言葉にするのか、そこが問われております。れんだいこの畢生の仕事となりそうです。しかしなんだな、天理教の教会長さん辺りが取り組んでも良い仕事なんだけどね。




(私論.私見)