天理教応法教学の行方考

 更新日/2019(平成31→5.1改元)年10.28日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、天理教学の原典考をものしておく。


【天理教応法教学の行方考】
 天理教学は、開祖中山みきご健勝の頃から、主として長男秀司を筆頭とする応法派によって、開祖中山みき教理の生硬な説き分けを忌避して来た。それはみき教理が、西郷派なき後の明治維新の変質、即ち日本のネオシオニズム傭兵化政治への邁進と正面衝突するものだったからである。初期の天理教は、みき教理の信奉派、応法派、その中間派の三派の寄り合い世帯となって、非公認のまま三派共どもが勢力を増して発展して行った。そして遂に天理教の公認が得られる日が来るが、その代償として、みき教理の重要カ所の改変を余儀なくされた。即ち、記紀神話創世記に基づく皇国史観を上位にして、その範囲内で天理教白眉な教理である泥海古記創世記を説くという転換となった。同時にみき教理信奉派の始末を約束させられた。即ち、公認代価が高く着いた。これが天理教理の第一次変質である。天理教はこの体制の下で、二代真柱正善の成長を待ちながら戦時下を生き抜く。

 その戦時体制は敗戦で決着させられた。天理教はこれを機に復元を宣言し、教理の見直しに向かう。これを主導したのが2代真柱正善だった。正善は、日本政府の統制下で時局に合わせたように、今度は戦後民主主義の時代に合わせた舵取りを巧みにこなして行く。教理の再構築に取り組み、教祖伝と教典を刊行した。他にも教団内の諸設備の整備、教団組織の整理統合、発展に尽力した。今日、正善時代を振り返って、よくやったと感慨せざるを得ない。本稿はそれを語るものではない。その正善が陥った復元の隘路を解析し、次の時代へ誘おうとするものである。

 正善が陥った復元の隘路とは何か。ほぼ誰も指摘しないが、れんだいこは、天理教教理を、戦後世界を席巻するユダヤ-キリスト教教理に合わせた啓示宗教化せしめた負を指摘する。その検証はこれから追々にやる。結論から言えば、正善時代は天理教理の第二次変質となった、この流れが今日に続いている。

 天理教教内に天理教の変質を嗅ぎ取る者は多いが、どのように変質したのか、今後はどのように切り開いていくべきなのかに答えられる者は恐らくいないだろう。以下、れんだいこなりの解を明らかにして諸兄の批判を仰ぎたいと思う。これを紐解くカギは、天理教教理とユダヤ-キリスト教教理の対照により、天理教教理がユダヤ-キリスト教教理と如何に真っ向対決するのかを明らかにすることにある。それ故、現代世界を牛耳るネオシオニストが、ユダヤ-キリスト教圏にある故に、それと屹立する天理教圏を目の敵にする必然性が見えてくることになる。してみれば、善意に解介せば、天理教の変質はそれ故の応法化であるという姿が見えてこよう。
 以下、天理教教理とユダヤ-キリスト教教理の対照をする。エンドレスなものなので、最重要なところを露顕させてみる。

 天理教の「元の理」と、ユダヤ教の『創世記』は、共に「人間はなぜ生まれたのか」という問いに答える物語であるが、神の性質、人間の目的、創造のプロセスに大きな違いがある。1. 創造の目的と神の姿。天理教では、神の姿は親のような存在である「親神(おやがみ)様」。目的は、人間が仲良く助け合って暮らす「陽気ぐらし」を見ることを楽しみに、人間を創った。これに対しユダヤ教では、神の姿は宇宙の絶対的な支配者である唯一の神。目的: 神は世界と人間を創り、それを「良し」としたが、人間を創った明確な目的は聖典には記されていない。2. 世界の始まりと創造のプロセスで、天理教では、始まりを世界の始まりは「泥の海(どろのうみ)」という混沌とした状態でした。プロセス: 神は道具として使った「魚」や「蛇」などの様々な生き物に、何億年もの時間をかけて人間を宿し込み、現在の姿に育て上げたとされている。

 ユダヤ教では、始まり: 何もない空間に神が言葉を発することで世界が始まった。プロセス: 神が「光あれ」と命じ、6日間で順番に光、水、大地、太陽、動物を創り、6日目に神に似せて人間を創造した。
 3. 人間観と救済の考え方。天理教人間は神の子供であり、人間同士が心から仲良く暮らすことを目指します。困ったときは「元の理」に基づいた「つとめ」を行うことで、神の守護を頂くことができます。ユダヤ教。人間は神によって特別に創られましたが、最初の人間アダムとエバが神の言いつけを破り「罪」を犯した。神との契約を守り、律法(教え)に従うことが重視される。
 宇宙はおよそ137億年前にビックバンでできて、地球は約46億年前にできたとされている。地球が太陽の周りを回り、月が地球の周りを回るという動きが始まっている。その後、地球の岩石に含まれた水分が蒸発して雲となって、ひたすら雨が降り続いた長い時期を経て、今から40億年ほど前に海ができたと考えられている。それから月の引力により、海洋は津波級の大きな波を作り続け、あらゆる物質が混ざることで水中で単細胞生物が生まれたと考えられている。しかし、単細胞生物の進化は遅く、20億年もの長い年月をかけてようやく真核生物が誕生し、同じころからオゾン層ができて宇宙からの有害な紫外線を遮るようになった。10億年頃に有性生物、すなわちオス・メスができ始めて生物はだんだんと進化を始めたということです(最近発見された地球最古の有性生物は、5億6500万年前のものだそうです)。こうした地球科学による研究は今から100年ほど前から急激に発展し、実際に詳しいことが分かるようになってきたのはここ数十年で、現在も次々と新しいことが分かってきている。ですから、教祖が元初りの話を説いてくださったときには、地球の始まり、人間の始まりについては世界中の誰も知らないことだった。

 さて、『天理教教典』第3章「元の理」には、この世の元初りは、どろ海であった。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた、とある。教祖が元初りとして教えてくださっているのは、人間を創めた9億9万9999年前からで、親神様が混沌たる様を味気なく思召され、人間を造ろうと思われたのは、およそ9億年前ということになります。そして第2節「ちよとはなし」の地歌に「このよのぢとてんとをかたどりて ふうふをこしらへきたるでな これハこのよのはじめだし」とあるように、「ふうふ」すなわちオス・メスをつくられてから、人間世界を始められ、それから何億年という時間を掛けて、だんだんと今の人間に育てあげたと教えられる。

 ユダヤ教、キリスト教の聖典で、イスラム教の啓典である旧約聖書にある「創世記」で述べられる、神が世界を6日でつくり、6日目に神に似せて人間を造ったという話との違いは一目瞭然です。

 2021 年度天理大学学術・研究・教育活動助成 教理研究会報告書「「原典」-教えの豊かさを汲み取るために-」。 
 天理教学の中核にある「原典」考。この教えの可能性やその豊かさについて考えていく。発表①では、「原典」の意味合いやその成立の経緯について考察する。原典にはどのような意義があるのか。その上で、発表②では、原典化の流れの中で見えにくくなった泥海古記の可能性について考える。教祖によって語りだされた泥海古記が持つ豊かさは、今日どのようにして見出されるのか。 発表③では、お筆先の「たすける」と「たすかる」という動詞に着目して、人だすけのあり方について考察する。

 天理教教義における原典 はじめに 澤井 治郎

 天理教事典第三版の「原典の研究」の項目では、冒頭で、「原典とは「おふでさき」、「みかぐらうた」、「おさしづ」の三つの書物を指して呼称される用語である」と記して。稿本天理教教祖伝逸話篇第22話「おふでさき御執筆」によれば、「おふでさき」のご執筆について、教祖は次のように語られたという。
 神様は、『書いたものは、豆腐屋の通い見てもいかんで』と、仰っしゃって、耳へ聞かして下されましたのや。何んでやなあと思いましたら、神様は、『筆、筆、筆を執 れ』と、仰っしゃりました。七十二才の正月に、初めて筆執りました。そして、筆持つと手がひとり動きました。天から、神様がしましたのや。書くだけ書いたら手がしびれて動かんようになりました。『心鎮めて、これを読んでみて、分からんこと尋ねよ』 と、仰っしゃった。自分でに分からんとこは、入れ筆しましたのや。それがふでさきである。
1.公刊の歴史
 み神楽歌は慶応2年(1866)から明治15年(1882)に教えられ、お筆先は、明治2年から明治15年に執筆され、お指図(刊行されている分)は明治20年から 同40年に下されたものである。明治21(1888)、 昭和2年(1927)、 昭和3年(1928)、 昭和11(1936)、 昭和13年12月、昭和14(1939)、昭和15年3月、昭和20年10月、昭和21年(1946)、昭和23年10月、昭和27年4月、昭和31年、昭和38年10月

 み神楽歌公刊本初版発行 お指図(1、2巻)公刊(昭和6年全33巻完了) お筆先第1巻公刊(~8月全5巻公刊)最初の公刊 五分冊「附釋義」 「みかぐらうた」二代真柱結婚記念交付本 各教会に下付 「おふでさき」原本写真版を大・中教会に下付 「おふでさき」、「おさしづ」(8 巻本)を教会に下付(~12 年) 「泥海古記に関する教説の禁止」(『諭達第8号 』) 「新修御神楽歌」刊行 各教会下付の『おふでさき』『おさしづ』回収 第9回教義講習会(明治教典の普及) 第12回教義講習会(復元講習会)開催 教祖60年記念「みかぐらうた」下付。 「おふでさき」(付註釈)、「おさしづ」8巻本下付(~24年) 『天理教原典集』出版、下付 「おふでさき」(写真版)を返付 『おさしづ』改修版を刊行、全教会へ下付(~41年)
 原典の中で、最初に公刊されたものは明治21年(1888)のみ神楽歌である。こ れは日々あるいは月ごとに行われるつとめにおいて歌われるもので、早くから手書きの写本や個人あるいは各教会が作成した私版本が出回っていた。み神楽歌本について調査した永尾広海は公刊本以前に29種の私版本の存在をあげている。天理教教会本部設置が 認可された明治21年という比較的早くに、み神楽歌が公刊されているが、それだけ「つとめ」の地歌として、日々の信仰生活において不可欠のものであったということができる。 しかし、そこから他の原典が公刊されるのは、約40年後の昭和2~3年まで時代を経ることになる。その間には、明治41年に天理教は教派神道の一派として神道本局から独立するが、その請願に際して明治36年に国学者や神道学者に依頼して天理教教典(明治教典)を編纂。表面上はこれが天理教の教義として活用されることになる。
 昭和2~6年の間にはじめてお指図が全33巻で刊行された。お筆先が最初 に刊行されるのは昭和3年の全5巻においてである。教祖による執筆から約50年の歳月を経ている。お筆先の公刊が遅くなったことの一つの要因は明治16年の事件によるとされる。稿本天理教教祖伝(251頁)によれば、その3月、鴻田忠三郎がお屋敷でお筆先を筆写しているところを、取締りにきた巡査に見とがめられた。戸主である中山眞之亮(初代真柱)は留守中のことで、戸主が戻ればお筆先を持って警察へ出頭するようにということになった。しかし、没収されるのを恐れた初代真柱は警察に焼き捨てたと報告した、という事件である。そうした手前、なかなかそれを公にすることはできなかったと言われている。昭和3年に、み神楽歌が二代真柱結婚記念版として全教会に下付された。さらに、昭和11年から12年にかけて、お筆先とお指図(8巻本)が、字句を整理して再度公刊され、全教会に下付された。これによって、はじめて各教会にお筆先、み神楽歌、お指図が揃い、ようやくこれらの書物に容易に触れることが可能になっ た。しかし、その翌年の11月に政府当局による干渉から、中山正善二代真柱は諭達第八号 を公布し、「教義儀式及行事は総て教典に依拠し、泥海古記に関連ある一切の教説は之を行 はず。」と表明することになった。翌年の昭和14年には、「みかぐらうた」の一部(よろづ よ八首、三下り目、五下り目)を削除して「新修御神楽歌」として刊行、また各教会に交付 していた「おふでさき」と「おさしづ」はそのすべてを教会本部が回収することになった。
第二次大戦が終わった昭和20年、天理教教会本部は「復元」を提唱し、昭和11年に刊行 されていた二代真柱結婚記念版の「みかぐらうた」を昭和21年に再版し各教会に下付、続 いて昭和23年に「おふでさき」(付註釈)と「おさしづ」(8巻本)が公刊・下付された。そ の後、「おさしづ」は改めて内容が整理・増補されて「改修版」として昭和38年から41年 にかけて下付された。以来、現在に至るまで「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」に 自由に触れることができるようになっている。
 2.教学研究と原典

 一派独立請願運動の過程で、国学者や神道学者に依頼して教典(明治教典)の編纂や「みかぐらうた」の釈義が進められる。

③一派独立~教祖40年祭(明治41年~大正5年) 教祖の生涯や天理教を紹介する出版物が急増。「おふでさき」の出版を求める声が 高まり、いくつかの私刊本が出版される。
④教学の第一高揚期(~教祖40年祭(大正15年)) 知的意欲の盛んな若い世代による比較的自由な研究の動きが出始める。東京で学ぶ学生による雑誌『三才』や天理教校別科職員による教義・史実研究を目的とする 「六踏会」の結成など。この時期、天理教校における増野道興校長による原典の講 義が、特に若い人の心を惹きつけ、“原典による信仰の再構成”という機運が高まる。 また、教会本部内に教学研究機関である教義及史料集成部が創設され、直接教会本部が関与しないところでも、高崎倫常なる人物を中心に組織された知新学会による教学研究が展開した。総じて、出版活動が盛んである。
⑤教学の第二高揚期(~両年祭(昭和11、12年)) 教義及史料集成部を中心に原典、教祖伝の研究が進められる。「おふでさき」「お さしづ」がはじめて公刊され、現在の『稿本天理教教祖伝』の史料集とも言える『御 教祖伝史実校訂本』(上中下)が作成される。「おふでさき」「おさしづ」の公刊 とともに教義講習会が開かれ、教学研究の軌道が確実に敷設されていった。特に中 山正善二代真柱による研究をはじめ、「おふでさき」の体系的な研究がはじまる。 また、岩井尊人『泥海古記 附註釈』も版を重ね広く読まれた。
⑥「雌伏」期(~第二次世界大戦終結(昭和20年)) 革新により、「おふでさき」「おさしづ」の回収、『新修御神楽歌』、『天理教教 典衍義』刊行、「泥海古記」の禁止。
⑦「復元」期(~現在) 5中島秀夫「教学研究の歴史」『あらきとうりよう』第114号、1979年、中島秀夫『総説 天理教学』天理やまと文化会議、1992年所収。 6 原典に基づいた復元教典の公刊(1949 年)、おもに史料的な研究が掲載される雑 誌『復元』が教義及史料集成部より発刊(1946年)、『稿本天理教教祖伝』(1956 年)、『おさしづ改修版』(全7巻、1963~1966年)、『稿本天理教教祖伝逸話篇』 (1976 年)が刊行される。

 革新により抑えられていた原典の研究、特に「おふで さき」研究が中山正善、上田嘉成らによって推進される。また、天理大学の宗教学 科設置により、天理教学研究の土壌と開かれた研究の場が確保される。 このようにしてみると、天理教学の研究は、教祖伝についての研究と原典に関する研究を 中心に展開されてきている。特に、原典の公刊ということについては、

④教学の第一高揚期、 ⑤教学の第二高揚期の時代に着目すべきであろう。この少し前から「「おふでさき」の出版 を求める声」が高まり、私刊本がいくつか出版されるようになっていた 。④の時代には、 知的意欲の盛んな若い世代による比較的自由な研究の動きが出始め、天理教校における増野道興校長による原典の講義が、特に若い人の心を惹きつけ、“原典による信仰の再構成”という機運が高まったと指摘されている。この背景には、直接、教祖によって導かれたという経験のない若い世代が、確かな信仰の拠り所を、「おふでさき」「おさしづ」という書物に求めたということができるだろう。それが、教義及史料集成部の創設(大正14年)、そして、 「おふでさき」「おさしづ」の公刊へと結実している。また、「おふでさき」「おさしづ」の 公刊を促進させたものは、上記のような教内の動きのほか、「側面的理由」として、茨木基敬や大西愛治郎らが異説を唱えて離反した事件から、「御神言を公開し、その正統的解釈を明らかにする必要が生じた」という理由もあったことが指摘されている7。
 3.教学の第二高揚期における原典

 このように、昭和初期になって「おふでさき」「おさしづ」が公刊され、各教会にも下付 され、「おふでさき」の体系的な研究が始まった。しかし、この頃には、「おふでさき」「み かぐらうた」「おさしづ」は「原典」とは呼ばれていなかった。 この時期は、まだ、表向きは一派独立を目指すなかで編纂された『天理教教典』(明治教典)が天理教の教義とされていた。それは必ずしも教祖の教えが十分に反映されているとは 言えず、「(明治)教典の中には求められない教祖の教えを、他のものの中に尋ねては、信仰の渇きを癒やしたと思われる」という。そうした代表的な書物として、「たとえば、天理教 道友社編『天理教綱要』は昭和4年から数年間、あたかも権威本であるかのように、多くの私刊本が注釈書も含め15種類あげて解説がなされている。 中島秀夫「教学研究の歴史」(中島秀夫『総説天理教学』所収、38頁 )。 読者を集めて版を重ねた」と言われる。
この『天理教綱要』のなかに、「基本教義書」という章がある。初版の昭和4年版では、 第一節 泥海古記、第二節みかぐらうた、第三節おふでさき、第四節おさしづ、となって いる。先述のとおり、「明治教典」が表向きの教義であったにも拘わらず、教典に関する言 及は一切ない。さすがに昭和5年版からは、第五節に「教典」が加えられるが、このように 「基本教義書」が紹介されているところに、教祖の教えに則して記そうという姿勢を見るこ とができる。 この昭和4年版の「みかぐらうた」の解説では、そのお歌は「天理の根本教理の大綱を収 めてある忝き思召」であり、「天理教にして、まづ手にするは之の聖歌である。そして最後 まで之の聖歌であります」と記されている。

 また、「おふでさき」の解説には、次のように ある。 おふでさき明治二年正月より同十五年(推定によれば多分九月頃迄に)に至る迄十四年 間に亘って、御教祖が親しく筆を執って書きのこされた天啓録で『どろうみこうき』(御教祖の口授)『みかぐら歌』及本席飯降伊蔵翁取次の『おさしづ』と共に、天理教々義 の骨子をなすもので、……『みかぐら歌』を教義の綱要とすれば『おふでさき』は之を敷衍補足せられた大詩歌集とも観られます。この解説では、「おふでさき」のことを、「天啓録」と表現され、「どろうみこうき」「みか ぐら歌」「おさしづ」とともに教義の骨子をなすものとされる。さらには、「みかぐら歌」が 教義の綱要、「おふでさき」はその敷衍補足という位置づけがさなれている。 昭和 9 年版の『天理教綱要』では、「おふでさき」の解説部分は次のようになっている。 おふでさきは泥海古記、みかぐらうた、おさしづと共に本教の重要なる天啓録の一つで あります。しかも御教祖御自身が天啓のまにへ御執筆くだされたといふ処により以 上の重要性を覚ゆるのであります。ここからは、「おふでさき」のみならず、「泥海古記」「みかぐらうた」「おさしづ」もが、 「重要なる天啓録」とされていることが分かる。当時の「おふでさき」研究の進展を反映してであろうが、「おふでさき」の位置づけが、「より以上の重要性を覚ゆる」と言われるよう になっている。 なお、『天理教綱要』は、初版の昭和4年から同10年まで、毎年刊行された。最初は道友社によって編纂されていたが、昭和7年版からは、「天理教綱要編纂委員会」が組織され、各項目の執筆者も明記されるようになった。それだけ力が入っていたということか。

 このように、現在「原典」とされる書物は、当時は「基本教義書」あるいは「天啓録」と呼ばれている。さらに注目すべきことに、その「天啓録」の一つに「泥海古記」が数えられており、第一番目に紹介されている。ここに、当時の信仰における「泥海古記」の位置づけ の一端を窺うことができる。昭和13 年11 月に文部省から中山正善二代真柱が招致された際にも、問題となったのは 「泥海古記」であった。当時の内務省警保局で作成されていた内部文書『社会運動の状況』 (昭和14年)によると、その際に文部省から天理教に対して指導された内容は以下のよう なものであった。
(一)凡て教義は教典に依拠すること
(二)泥海古記(元始まりの話、世界創造、人間宿し込みの話)に関する一切の教説及 之と関連する儀式、行事並に宗教上の施設を為さざること、特に ①みかぐらうた、おふでさき、おさしづ、神言及その解説註釈書等凡ゆる教義布教 に関する出版物中より右教説に関する箇所を悉く削除すること。 ②十柱の神、地場、親里、帰参等を泥海古記と関連せしめて説かざること。
(三)伊弉諾尊、伊弉冊尊、大日孁尊に関し国民的信念を誤らしむるが如き教説、行事 及施設を為さざること。
(四)教祖を伊弉冊尊と関連せしめて説かざること。
(五)おふでさき中より、たいしゃ高山及高山に関する部分を削減し、之に関する教説 を為さざること。
(六)教信徒より財物を譲出せしむるに当り、無理ありて其の私経済を破壊せしむる事 実及其の非難多し、布教及教団の運営に就ては此の点に充分に考慮を加え加善す ること。
(七)医療妨害の非難多し、依てにほひかけを為し身上、事情を説く場合には特に注意 すること。これを受けて、「泥海古記」の教説の禁止と、「おふでさき」「おさしづ」の回収を行うこ とになるが、特に(二)を読む限り、「みかぐらうた」「おふでさき」「おさしづ」そのもの が問題となっているというよりも、教義の上で問題となっているのは「泥海古記」の内容で あり、その内容が説かれている部分を削除せよと指導されている。また、(三)と(四)も 「泥海古記」に基づくことがらである。こうした指導は、戦時体制に突入する当時の国家の 政策を背景とするものであるが、これによって、当時、天理教内では「泥海古記」の教説が 広く流布していたことを知ることができる。

 その後の天理教の「革新」運動を監視していた特別高等警察の記録によれば、「天理教革 新委員会第四部(出版物検討)にありては、教学革新発表以来天理教関係出版物三百余種を再検討し、内一八九種を廃刊(廃刊に依る棄却冊数六萬五千余冊)、一〇八種を一部訂正す ることに決定せり」とある。「泥海古記」の教説の禁止は、同時の「天理教関係出版物」の ほとんどすべてに廃刊なり一部訂正という影響を及ぼしたようである。また、こうした動きに対する教内の「一般的意向」について、特別高等警察では次のように観察していた。 革新工作に対する教団内部の一般的意向は、概ね時局柄不可止のことなりとして之を 是認し、本部の意図を体して之が具現実践を期せんとするものゝ如くなるも、其の間一 部の教師にありては依然として旧来の邪義に執着し、「泥海古記、御筆先等の諸教典は 天理教の基本教義書にして之が廃止は即ち天理教の存立意義を全く喪失するものなり」 として遺憾の口吻を漏露する者少からざるやの模様にして其の動向に就ては相当注目 するの要ありと認めらる。


 このように、「泥海古記」や「おふでさき」の廃止に対して「天理教の存立意義を全く喪 失するもの」として「遺憾」に思った人が少なからずいたと報告されている。こうしたとこ ろからも、当時、天理教教義の骨子をなすものとして、「泥海古記」の存在が非常に大きい ものであったことが分かる。

 4.「復元」と「原典」 戦後の「復元」において、いわゆる『明治教典』が廃止され、あらたな『天理教教典』が 編纂される。その発行に際して出された「諭達第一号」(昭和24年10月26日)の冒頭で次 のように記されている。 おふでさき、みかぐらうた、おさしづは、本教教義の源泉である。この原典に基いて、 天理教教典を編述し、茲に、これを公布する。 「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」について、「原典」という表現がなされたの は、このときが初めてである。「原典」とは、辞書によれば「もとになる書物。よりどころ にする書物。引用や翻訳などのもとになった書物。原書。原本。」のことである。さしあたり、『天理教教典』を編纂するにあたり、そのもとになった書物という意味で、「原典」と言われていることが分かる。しかし、「諭達第一号」を読めば、この「原典」という言葉に、 それ以上の意味が込められているのは明らかである。 原典は、啓示により、この真実を悉く明かにされたもので、何人にも理解し易いように との親心から、平易な言葉や文字で表されているが、これを探れば愈々広く、これを極めれば愈々深くして、その理は無限である。このように「原典」とは啓示の書であり、「その理は無限」と言われる。「おふでさき、みかぐらうた、おさしづは、本教教義の源泉である」という言葉もあるとおり、「原典」とい う言葉に、教義の源泉、親神の汲み尽くせぬ思召が記された信仰のよりどころになる書物、 という意味が込められている。これ以降、天理教内では「原典」という言葉が「聖典」という意味を帯びつつ、「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」を指すようになる。このように、「復元」を通して、天理教の「原典」はその位置が明確になったということができる。

それでは、なぜこれらの書物は、「復元」において「原典」と規定されるようになったのだろうか。中島秀夫は、戦後の「復元」について、「何故このように速やかな、手際のよい復元の歩み出しが可能であったのか」という問いを提起している。そして、それに対して、 昭和初期に「おふでさき」「おさしづ」が公刊されたにもかかわらず、非常時体制にあった 国家のきびしい要求から、「革新」という呼称の下に暗がりの道を歩かなければならなかったことを指摘して、「この間、原典を手にすることができなくなった半面で、(中略)再び明 治教典の趣旨の普及徹底をはからなければならなくなった。こうした状況の中で「復元」感 覚は一層鋭敏になり、元に向けて、目いっぱいに指針が動いた」と論じている。この「復元」感覚というものが、再刊される「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」 を「原典」と規定することにもつながっているのではないだろうか。「復元」にあたり、教義及史料集成部において原典の再刊行、再下付などに奔走した上田嘉成の言葉はそのこと を示唆しているように思われる。 段々と復元の実を御守護頂きながら、いつも思うていたのでありますが、先に教祖の五 十年祭、立教百年祭当時、原典を御下附頂いておりながら、また回収せねばならんとい うふしをお見せ頂いたのは、全教がこの原典を読まなかったからである。また、読んで も実行しなかったからであると悟っていたのであります。ここに表明されているのは、原典の回収を余儀なくされた時代状況への不満ではなく、そ うした状況を招いてしまったことに対する“信仰的な悟り”である。その悟りによれば、全教 が読まなかったから、あるいは、実行しなかったから、原典を回収しなければならなくなっ たという。だからこそ、「復元」においては、再刊するだけではなく、この書物こそが、信仰のよりどころなのだと、よりはっきりと示す必要があったのではないだろうか。「原典」 という呼び方には、それまでに表明されてきた「明治教典」ではなく、この書物こそが本来の教義の源泉であり、信仰の真のよりどころなのだという、強い主張が込められているよう に理解できる。

 5.「原典」と「こふき話」


 ここでもう一つ問いが立ち上がってくる。「原典」という規定のなかに、戦前には天理教 の重要な「天啓録」の一つであり、本教教義の骨子の一つともされていた「泥海古記」が入 っていないことである。『天理教教典』の裁定文にも「泥海古記」についての言及はなく、 天理教教義における「泥海古記」の位置づけがなされていないようにみえる。中山正善『こふきの研究』(天理教道友社、1957年)の緒言からその消息をたどってみると、以下のこと が問題と考えられたようである。 ・“どろうみこふきは荒唐無稽”とその筋より干渉を受けてきた ・いろいろな事情を起こしがちであった ・教祖は「こふきを作れ」と命じられ、書かれたものをご覧になったが、それでよいと仰らなかった。お話全体が間違っているのか、部分的に思召にかなわなかったのか も不明。 ・従来こふき話を「此世元始まりのお話」に限定し、それ以外のお話部分は雑話が混入したものと判断していた。しかし、この『こふきの研究』を通じて、従来の「泥海古記」や「此世元始まりのお話」 と呼んで創世説話が語られたものと理解してきたことを改め、「こふき話」と呼んで、これは取次を仕込むためのお話であるという見方が示された。そして、結論部分において次のように記される。 教理説述の方法として、“口に、筆に、或は行いに”と述べてあります教典の説明に、更 に加えて、“口授されて書き取らされた”“こふき”の一方法が考えられ、かく考えますと、 おさしづも亦、“こふき”の一つであると考えられるに至ったのであります。これによって、再び「こふき」は、「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」そして、 「ひながた」とともに、教祖によって教えが説かれた一つの形として、位置付けられるよう になっている。その後、1960年に国際宗教学宗教史会議(IAHR、於:マールブルク大学)で発表された 中山正善「天理教教義における言語的展開の諸形態」においても、「おふでさき」「みかぐら うた」「こふき話」「おさしづ」について、次のようにまとめられている。 かくしておふでさきによって原理的規範が示され、これに先立って、みかぐらうたによ って生命的教導がなされ、『こふき話』によって神秘的玄奥が語られ、おさしづによっ て現実的支持が与えられたのであった。3つの原典とともに、「こふき話」が教祖によって教えが説かれた一つの形態として、特に 教えの「神秘的玄奥が語られ」ているものとして、取りあげられている。このように見ると、 「原典」という規定がなされた頃には「こふき話」の位置が不明瞭であったものの、教史を通してみれば、「こふき話」は「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」とともに、この 道の信仰にとって最も重要な、教祖の教えを伝えているものと考えられてきたということ ができる。
 おわりに

 天理教原典の公刊、および、その「復元」を通して「原典」として位置づ けが明確にされる過程を確認してきた。戦時下の「革新」の時代、昭和初期に公刊されていた「おふでさき」「おさしづ」を回収し、「みかぐらうた」も一部削除し、「明治教典」を再度普及させる活動を余儀なくされた。その経験は、なお一層、教祖の教えをそのままに求める土壌を醸成し、「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」こそが、「教義の源泉」であり信仰のよりどころとしての「原典」であるという規定に結びついているといえるだろう。


 また、「こふき話」(泥海古記)については、「復元」の『天理教教典』が編纂された際には、「原典」として位置づけられてはいないが、「教典」の編纂に「こふき話」が参照されて いることは明らかである。その後の「こふき話」に関する研究を経て、戦前のように再び3つの「原典」とともに、教祖の教えを伝えるものとして位置づけられるようになっている。 今日、「こふき話」を取り次ぐという伝統は、別席のお話に引き継がれている。しかし、 それ以外の場面では、「こふき話」に触れる機会は、かなり限られている。「こふき話」が「原典」と同様に位置付けられるのであれば、「こふき話」がいかに語られ、伝えられてきたの か、そして、それをいかに活かしていくのか、今後さらなる検討と議論が必要になるはずで ある。


 もうひとつの原典——「泥海古記」を読みなおすために

 渡辺 優 はじめに

 「原典」をテーマとする研究会で「泥海古記」を論じるのはなぜか。まずはこの問いに答えることによって、本稿の基本的な見通しを示しておきたい。第一に、原典ではない「泥海古記」をあえて原典という問題系に引き付けて問うことは、 「原典とは何か」という問いを、より自覚的に問うことを可能にすると考えるからである。


 今日「三原典」と呼び習わされるテクストには入っていない「泥海古記」だが、その生成と 受容の歴史を振り返ることは、天理教という宗教共同体においてそもそも「原典」がどのよ うな過程を経て制定されるに至ったかを正面から問うことを要請する。「泥海古記」は、「お ふでさき」、「みかぐらうた」、「おさしづ」から成る「三原典」の外部に置かれているがゆえ に、「原典とは何か」という問いを先鋭化するのである。 第二に、端的に言えば私自身が、「泥海古記」の湛える「教えの豊かさ」を信じているか らである。最終的に「泥海古記」を原典から外した張本人である中山正善をして「神秘的玄 奥」と語らしめた「泥海古記」が、天理教の教えの決定的に重要な源泉であり、教内にもそ のような共通理解があることに異論はないだろう。だが、現代に生きる私たちは、果たして その源泉の豊かさを十分に汲み取れているだろうか。


 この問いかけは、次のように言い換えることができる。私たちは「泥海古記」に漲る民俗的想像力をどれほど共有できているだろうか、と。少しでも「泥海古記」にふれたことがあ る者は、それが土の香りのするテクストであるといえば頷いてくれるだろう。が、多くは土 から離れた生活を送っている現代人がこのテクストを「読む」ためには、或る種の民俗的想 像力を想起する必要があるのではないか。


 民俗的想像力とは何か。


 それは、教祖中山みきが生き、そこから教えのことばを語りだしたところの「場」、幕末の大和地方の農村という時空間に伝承されていた風俗や習慣に根差す想像力であり、いま・ここの現実とは別の現実を思い描く創造力である。さらに言えばそれは、明治以降に著しく進む日本社会の近代化・文明化の激流——天理教の教団化・教義化 もそのなかに含まれる——のなかで、徐々に常識となっていった合理的思考の論理を揺るがす力である。天理教の近代化のなかで教学も不可避に被り、現在に至る私たちの思案をそれと知らず支配してもいる思考の論理があるとして、「泥海古記」のことばには、そのような常識化した論理をぐらぐらと揺さぶる力、或る種の野生の活力ともいうべきものが認められる。 「泥海古記」が湛えるこうした想像力=創造力を掬い上げること。それはそのまま、「泥 海古記」のことばがもつ力、ふれる者を勇ませる力を汲み取ろうとする試みでもある。本稿 はそのような試みの一環をなす。そしてこの試みは、私たちの「原典」理解の問い直し、あるいは理解の拡充とも連動している。


1. 議論のための諸前提 まずは本稿全体の議論の前提となる基本的史実を中心に確認しておこう。 1-1. 昭和初期までの教内における「泥海古記」の重要性 1928(昭和3)年 10月、「おふでさき」公刊に伴い、天理教本部にて大規模な講習会が開 催された。全国から集まった参加者は、「おふでさき」各号の内容について5日間にわたる 講義を受講し、教理的解釈の基本を身に付けることを促されたのである。

 2 当時の教内において「泥海古記」がいかに重要視されていたかということは、とりわけ「泥 海古記」に関連する歌が頻出する第6号を扱った講義の冒頭部の、次の言葉によく示されて いる。 本号のみならず他の号におきましても、此『どろうみこふき』に関する御教理を充分はつきりと悟得してゐなければ、其御歌の眞の御精神を諒解させて頂くことの出来ない箇所があつちこつちにあることは、皆様の既に御気付のことだらうと存じます。例へば今ま での号にも時々出てまゐりました『ようきづとめ』或は『かぐらづとめ』の御歌に致しま しても、此『どろうみこふき』の御話がわからなければ、充分に其真意を悟ることは困難であります。又『ぢばの理』にしましても『御教祖の魂の因縁の理』にしましても、どう しても此『どろうみこふき』を中心としなければ其眞の意義を悟らせて頂くことは出来な いのであります。


3 今日では、「どろうみこふき」という言葉を耳にする機会はけっして多いとはいえない。教理的な文脈で聞くとして、それはむしろ「元の理」であろう。しかし、ここに引用した本部講習会の記録は、少なくとも昭和初期まで、「どろうみこふき」という言葉が教内において広く人口に膾炙していたことを教える。

1本稿の議論は、主に次の2つの拙稿に基づいている。「教学と宗教学の幸福な結婚?—— 天理教二代真柱・中山正善における教祖論をめぐって」『天理大学学報』(1)、2019年、 1-23 頁;「「泥海古記」の想像力」『天理大学学報』72(2)、2021年、21-50頁。本稿は、これらの議論を総合しつつ、「もうひとつの原典」としての「泥海古記」研究の可能性を拓 くことをねらう。 3「おふでさき講習会録」として刊行された『みちのとも』1928(昭和3)年11月20日 号を参照。講義は6ヶ所の講習会場に分かれて行われたが、原稿は統一されていた。この点はまた、1929(昭和4)年に刊行された『天理教綱要』にも確認できる。4天理教 の基本教義を世に知らしめることを目的としたこの書物において、「泥海古記」は、4 種類 の「天理教基本教義書」の筆頭に置かれていた(「泥海古記」、「みかぐらうた」、「おふでさ き」、「おさしづ」の順)。

1-2. 「教典」そして「原典」の成立 昭和初期までの天理教において、「泥海古記」は「おふでさき」にも優越する枢要な位置 を占めていた。議論の前提としてもうひとつ確認しておきたいのは、天理教における「原典」 の成立が「教典」の成立と不可分の事態であったということである。 「教典」という言葉は、天理教の歴史においては 2 つの書物を指す。第一に、「旧教典」 ないし「明治教典」と称されるテクストがある。
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1900(明治33)年から1908(明治41) 年に至るまでの一派独立請願運動のなかで形成された「明治教典」は、松村吉太郎を中心に、 国学者の井上頼圀、逸見仲三郎による執筆、神道学者の宮地巌夫による校閲を経て、内務省宗教局に提出されたという経緯をもつ。その後幾度かの修正を経て、ようやく1903(明治 36)年に承認されたこの教典は、国家主義・国民道徳的な色合いの濃いものであった。
戦後、中山正善・天理教二代真柱による「復元」の提唱のもと、新たに編纂されたのが現 在の『天理教教典』である。1949(昭和24)年10月26日に裁定されたこのテクストは、 前篇(教理篇:「おやさま」「たすけ一条の道」「元の理」「天理王命」「ひながた」)と後篇(信 仰篇:「てびき」「かしもの・かりもの」「道すがら」「よふぼく」「陽気ぐらし」)合わせて全 10 章から成る。先に述べたように、昭和期以降に教内における「泥海古記」という言葉の 使用は徐々に減少していったと推測できが、教祖によって語りだされた人間世界創造のも のがたりは『天理教教典』第3章に「元の理」として収められている。ところが、後述するように、それはたんなる名称の変更にはとどまらない、根本的な質的変容を被っていた。 ここではまず、『天理教教典』の裁定が、三原典の確立および「聖典」化と表裏一体の出 来事であったということを確認しておく。『天理教教典』扉裏には、「本書は おふでさき みかぐらうた及びおさしづに基き 天理教教会本部に於て編述したもので 天理教教規の 定めるところにより これを天理教教典として裁定する」と明記されている。さらに、『天理 教教典』公刊と同時に二代真柱によって発布された『諭達第一号』には、「おふでさき、み かぐらうた、おさしづは、本教教義の源泉である。この原典に基づいて、天理教教典を編述し、茲に、これを交付する」とある。少なくとも天理教における公式な用法としては、これ が「原典」という言葉の初出である。 加えて、『天理教事典』にも指摘されているように、「原典」という言葉はその後、教典編 纂の基盤という意味にはとどまらない意味をもつようになった。「今日においては、それは たんに教典のもとになった書物という意味にとどまらず、それぞれの書物が、いずれも親神 の直々の啓示を誌した書物であることから、教えの根源 ..... ............... 、根拠ないしは教えそのものを誌し ... という意味で言われている」。
7かくして、教典の裁定が三原典を形成し、三原典の聖 た聖典 典化を導いたのである。 最後にもうひとつ、これら原典の範囲決定が、1925(大正 14)年に創設された教義及史 料集成部と、中山正善によって主導されたという点を確認しておこう。これは、以下の議論 の前提となる基本的事実にして、その歴史的意味を掘り下げて考えるべき重要論点である。

2. 「原典」の範囲決定の力学をめぐって 原典の原典たる所以は、信仰者にとってはあえて問うには及ばない、自明の理にも思える かもしれない。しかし、原典の形成は、世俗社会の論理や信仰の論理も含めてさまざまな人 間の思惑が渦巻くなかで進行した歴史的問題である。だとすれば、原典の範囲や序列の決定 に際し、そこにどのような力学がはたらいていたかを問う余地がある。
 2-1. 教えの教義化と内外の緊張

 原典の裁定をひとつの画期とする、天理教——この名称自体が最初からあったものでは ない——における教えの教義化には、内外の緊張関係がつきまとっていた。教祖が現身を隠 して後、主として教団の外部からの近代化の要請に応えるべく進められていった教義化の 動きには、内部からの強い反発もあった。 天理教の近代化の歴史を考えるとき、1900(明治33)年4月の天理教校の開設は最も重 要な出来事のひとつである。体系的な教義を習得した布教者を育成する教育課程を整える ことは、教団の近代化の要ともいうべきプロジェクトであったとすれば、天理教校の開設は そのはじめの一歩となる記念すべき出来事であったにはちがいない。ところが、天理教校の 設置をめぐっては、教内一致でこれを祝うなどというムードにはほど遠く、むしろ反対する 声のほうが大きかったようだ。「少数の理解者を除いては、ほとんどこれ〔天理教校開設〕 を外道のように思つていた8」。この松村吉太郎の言葉は、永岡崇が指摘するとおり、当時の 信者たちが「学校に象徴される近代的教育システムと親神共同体の信仰との異質性を強く 感じとっていた 」ことを示す証言である。ここで永岡のいう「親神共同体の信仰」とは、 いまだ「天理教」という名称もない、すなわち教祖在世当時の、教義化がなされる以前の人 びとの信仰実践を指している。そうした信仰に生きていた者たちのあいだには、教義やそれ を支える学問の言葉に対する一種のアレルギーが存在したのである。 教義化への大きな流れがある一方、そこには異質な声も響いていた。そうした異質な声と、 それが証言する異質な論理——教義化以前の「親神共同体の信仰」の教えの論理——を概観 するために、1925(大正14)年、教義及史料集成部の設立にあたり組まれた『みちのとも』 (第439号、1925年6月5日)の特集記事を以下に検討したい。そこでは、増野鼓雪(1890 1928 年)はじめ、当時の教内でも名が通っていたと思われる複数の論客が、それぞれの立 場から教義化の意義について論じている。ここで注目したいのは、各論者の立場が、根本的 には口承(口碑)による教えに対する考えかたの相違によって鮮明に区別されるということ である。 大正期の天理教を牽引した増野は、「教義及史料の集成」と題されたその論説のなかでこ う書いている。 本教の教義は、殆ど断片的のもので、必要に応じて語られたものであるから、思想的に 之を見たならば、何んの統一もないのである。宗教的の真理は直観的のもので思想的なも のでないから、統一のない断片的なものでも、別段差支は無いのであるが、体験するので なく、研究するとして見れば、やはり思想的に見て行かねばならぬのであるから、其処に 全体としての統一を求むるに至るのは止むを得ない。増野は、口頭による伝承によって支えられてきた従来の教えのありかた、その断片的、非 統一的、直観的、体験的性格を、ためらいなく是とする。彼にとって、教義及史料集成部や それによって進められることになる教義の統一化、体系化は、必ずしも望ましいものではな かった。彼にとって教義化は「止むを得ない」ものであった。教義化の動きに対して明らか に消極的なこの姿勢は、口承による教えの実践感覚(実践、経験を通じて身体化された感覚) に裏打ちされていた。そしてそれは、一人彼のみならず、少なくとも大正期までの信仰者の 多くに共有されていた感覚だったと考えられる。 こうした感覚は、白鳥鍖一(1902-1992年)の論説「教義と口碑」にも流れている。この なかで白鳥は、天理教においては従来、教義と口碑(口承)とが必ずしも明確に峻別されて こなかったことを端的に認める。ここから彼は、しかし、統一的な教義の整備を通じて疑わ しい口承を取り除くべき、という主張には向かわない。彼はむしろ、増野と同じく、口承の 教えに固有の意義を説くのである。


 我が天理教に於ては、現在、此の口碑伝説なるものを教義と如何に区別してゐるか。然 しながら、殆ど何事にも着手されてゐない。着手されるだけの年月を経過してゐない。相 当、これは口碑であらうと疑はれる数々のものが出て来てゐるのではあるが。換言すれば、 天理教団は、未だ信仰の熱度がさまされはしない、高い温度を保つてる、熱狂してゐる、 そこに何の、口碑なるが故に云々、教義なるが故に云々、があるであろうか。……殊に、 しゆんへに応じての神の仕込み。と云うような神言を信奉するものは、只に身上や事件 に於て我々の仕込みをせらるゝのみに限らず、こうして、自然と湧き出た口碑によつて、 手びきせらるゝことを信じ得られやう。人の口を以て云はせる。といふやうな事も仰せら れてゐるところから考へても、口碑は口碑として存在の意義がある譯である。……その時 代の信仰として大切に保持さるべきものであり、或る程度まで、これに依つて教義の潤色 さるゝ事も、許さるべきであろうと思う。 口承による教えの段階に留まっていることは、教義化によって克服すべき劣った段階に あるどころか、原初の信仰の熱狂を原初のまま保っている、言祝ぐべき事態なのだ。信仰の 実践は、語って聞かせられることばに拠る。「口碑は口碑として存在意義がある」という白 鳥は、「或る程度まで」と留保を付けながらも、口承による「教義の潤色」さえ「許さるべ き」と説くのである。 他方、深谷徳郎(1892-1941年)による論説「教義結集の急務」には、増野や白鳥のそれ とはおよそ対照的な主張が打ち出されている。 本教は立教の当初より、文筆の教にあらずとして、口より口へ、心より心へ伝えたもの である。この伝方法は、複雑繁褥なる既成宗教に対する革命として、最も当を得たるもの と言ふべく、また教祖存命の時、或は御本席の天啓の降る時代は、この方法にて何等の不 便も感じなかつたのである。〔改行〕然るに先覚者を漸次失へる今日の本教は、伝統的習 慣に従ひて、口伝にのみ信頼することを許さなくなつて来た。口伝の教義は、各個人の不 慮の不注意と、故意にあらざる誤信とによりて、異説を生む機会が多い。教祖昇天後僅に 四十年足らずの今日に於て既に、少からざる異説が流布されてゐる。この勢ひを以て進ま ば、立教百年にして神意を曲解誤伝するもの少しとせず。たしかに深谷も、「口より口へ」説かれた教え、すなわち口承による教えを、「既成宗教に 対する革命」ときわめて高く評価している。だが彼は、教祖や本席の口を通じて人びとに伝 えられた啓示はもはや降りず、教祖や本席の教えに直に接した先人たちも失いつつある現在にあっては、異説を生みだしやすい口承の教えに頼ることは危険である。それゆえ教義の 結集が急がれる、というのである。後にみるように、「文筆の教」の必要性を訴えるこの主 張は、そのまま中山正善の主張であり、彼の強力なリーダーシップのもとに推進されること になる教義化の基本的方向性を示している。それは、明治から昭和初期までの教内で優勢で あった口承の教えからの離脱を基調としていた。 加えてもうひとつ、昭和期以降の教学化によって見えにくくなっていったと思われる「口 承の教え」の重大な一面を確認しておこう。以下は、やはり増野による論説の一部である。 教祖は神懸になつてから五十年の道を通られたので、我々は教祖として尊崇するので あつて、その道を通らなければ我等は教祖として尊敬せぬかもしれぬから、教祖が踏み行 はれた五十年の道すがらが教理であると云ふのである。〔改行〕しかも五十年の年月は一 時に経過した訳でもなく、教祖の神格も等しく五十年間の道すがらに依つて出来たと云 つていい。教祖に初めて御目にかゝつた者が偉大なる感化にうたれたのも、五十年の鍛錬 に依るのである。そこで教祖の人格が教理であると云ひ得るのである。そこで教理の二種 に於て不言の教理とはこの人格の教理即ち人格そのものより発する教化である。之は言 語でなく書いたものでなく無意識裡に伝へられる教化である。……教祖の死と共に教理 が固定化し、教祖の人格から離れて教理を教理として取扱ふ様になつたのである。……之 〔今後予想される教理の学問的研究の進展〕は本教の青年達が現にこの方面に進みつゝ ある傾向があつて、理性の満足の為めに教理研究するのであつて、之は一面本教を学問化 し有識者の入信の動機をつくるかもしれないが、前述の真実味がない為め宗教として感 心すべき傾向や否やを危むものである。
ここには、後に中山正善によってはっきりと退けられることになる教祖解釈、いわゆる 「教祖成人説」が認められる。増野によれば、教祖によって説かれた教理は、教祖によって 歩まれた道すがら、すなわち教祖の実践、経験、生きかたそのもの、あるいはそれらを通じ て「鍛錬」されていった教祖の人格とは、けっして切り離せない。教理は、教理としてのみ分離抽出することはできない。こうした教祖論ないし教理理解は、先にみたような教義化へ の消極的姿勢と、口承による教えの尊重とに通底している。「口承の教え」については、先 述の深谷然り、また中山正善においてはいっそうのこと、伝達の不完全性(そこで伝達される教えの不純性)を理由に退けられることが多くなる。しかし、増野における口承性が、およそ教理伝達という問題の文脈に収まるものではなかったこと、むしろ教理そのものの本 質的構成要素として捉えられていることに注意しよう。
いずれにせよ、増野がリードした大正期までの天理教と、教義及史料集成部の設置を転機 に中山正善によって主導されてゆく昭和期以降の天理教とのあいだには、何か根本的な断 絶が認められるのである。
 2-2. 中山正善(1905-1967 年)による教義化

 本節では、昭和期以降の教学形成に決定的な役割を果たした人物、中山正善について、そ の思考の特徴を押さえておきたい。 中山正善による教義化の基本的ベクトルは、なによりもまず、彼が主導した『稿本天理教 教祖伝』(以下『教祖伝』)の編纂の過程にみてとれる。1956(昭和31)年に公刊され、以後 「教会本部が編纂した教祖中山みき様の伝記で、唯一の権威本」とされる『教祖伝』の編纂こそは、教義及史料集成部設置の最大目的であり、中山正善の悲願でもあった。この編纂 プロセスを貫いていたのは、中山みきの神格化であり、教祖をめぐるさまざまな口承を「唯 一の権威本」へと一元化するベクトルであった。『教祖伝』の編纂はまた、1838年10月26日の「立教」から絶対的神格(「月日のやしろ」)として屹立する教祖像の確立を目指すプロ セスでもあった。その結果、増野が強調したような人格(「ひながたの親」)としての教祖中山みき——「五十年の鍛錬」によって教祖となりし者——は後景に退くことになるが、この変化も、大正期までの天理教の教えが濃厚に湛えていた口承性からの離脱として捉えられるのである。 教祖の神格化、口承の教えからの離脱を駆動していたのは何だったのか。「『稿本』の編纂 過程において、中山正善の徹底した教義理解と伝統的な信仰とは、すりあわされつつ叙述が 重ねられることになり、前者が後者の理解に強い影響力を持つことになった。みきを語る自由な信仰表明、あるいは多様な媒体は、『稿本』の持つ教会的権威もさることながら、むし ろ編纂の方向性、つまり、中山みきの直筆のテクストをもとに ................ 、みきを教祖として純粋に理 解しようとする「復元」の姿勢そのものによって、忌まれていくことになるのである」。 幡鎌の指摘にあるように、中山正善による教義化を支えていたのは、「中山みきの直筆のテ クスト」、すなわち「おふでさき」であった。教祖本人が直々に筆で記したがゆえに、伝承 であれば紛れ込んでしまうような誤謬の恐れはない。その意味で「純粋」な聖典である「お ふでさき」こそ、最も重要な「原典」であり、教義の典拠とみなされるのである。
中山正善の教祖論の基本的姿勢は、徹底した文献実証主義と、疑わしい伝承の忌避にあっ た。こうした姿勢は、彼の教祖論のマニフェストといえる初期のテクスト「教祖伝研究上の 増野鼓雪と中山正善のあいだに認められる緊張関係については、松本滋「経験科学としての宗教学の功罪——天理教学との関連において」にも表れていた。馬子にも衣装という世諺もある、もしこの盛装した、馬子君の写真が、幾十年かの後まで伝わったとしたならば、そは、その衣裳相応の者と認定されてしまうだろう。 ここに教祖伝研究について注意を要する点があるので、教祖様の大をそのまま伝える こと、独り自分一個の教祖様とせずに、ありしままの、よろづよかけて世界一列の教祖様 とすることが大切である。本来は余計なものであるはずの衣装、すなわち個々不純な口承を丹念に剥ぎ取り、純粋で 普遍的なる真の教祖像を追究すること。『教祖伝』編纂に臨んで示されたこの見通しは、教 祖の「直筆」であるという一点で「おふでさき」を至上の原典とする姿勢と地続きである。 しかし、明治から大正期にかけての天理教内では、「おふでさき」よりも「みかぐらうた」 のほうが重んじられていたという証言もある。
1916(大正5)年に刊行された『天理教祖の哲学』のなかで、岩井尊人(1892 -1940年)は次のように書いている。 二十年前〔1896年、明治 29年ごろ〕の信徒が殆ど教理を説明する道を知らず唯単に「みかぐら歌」をとなへ「みかぐら踊」を舞つたに過ぎなかった頃、その「にほひかけ」て道を説くものは只々一冊のみかぐら歌を朗詠したのみであつたといふのと全く同じ意味で、今も尚新来の求道者の先づ入るべく且つ終りまで伴はるべきものは是の聖歌である。「おふでさき」はといえば、岩井は別の箇所で、「御かぐらうたに従たる地位にある」と明言している。教義化以前の人びとの信仰実践にとっては「みかぐらうた」が第一であり、 「おふでさき」の存在感は相対的に小さかったことが窺える。ここからみると、「おふでさきは原典中の原典ともいうべき根本の一番中心となる、元と なる書き物であります」と主張する中山正善の、「おふでさき」至上主義というべき立場 の歴史的特殊性が浮かび上がってくる。今日では第一の原典とされる「おふでさき」の位置 づけは、けっして最初から定まったものではなかったのである。一に「おふでさき」、二に 「みかぐらうた」という原典の序列化は、昭和期以降の教義化のなかで起こってきたことで あった。 こうした原典の序列化を可能にした基準、すなわち「原本(教祖の真筆)」の有無という 文献実証主義的・反口承的基準も、歴史的なものであった。天理教学はけっして他の学問か ら区別される閉じた領域を形成していたわけではない。中山正善のそれも含めて、否、むし ろ中山正善の教学を筆頭に、近代日本のさまざまな思想潮流から陰に陽に影響を被っていた。教学の歴史的条件が問われなければならないのである。なかでも、天理教の教学形成に対する同時代の宗教学の影響は重大であったと考えられる。「昭和に入ると、史料を重視し、実証性を重んじる研究姿勢が醸成され、近代的学知、 とりわけ東京帝国大学宗教学研究室での影響を受けながら教学形成が図られた」。中山正善を中心に、中山慶一(1906-1985年)、上田嘉成(1908-1993年)、諸井慶徳(1914-1961年) ら、あるいは京都帝国大学に学んだ深谷忠政(1912-2007年)など、昭和期天理教の教義化 の主翼を担った者たちは、その多くが近代的学問の研鑽を積んだ知的エリートだった。 近代宗教学の天理教学形成への影響を考えるとき、姉崎正治(1873-1949年)の存在は決定的である。1905(明治38)年、東京帝国大学に日本で初めてとなる宗教学講座を設置し、 日本宗教学の父とも称される姉崎は、1926(大正 15)年に入学してきた中山正善にも大い に薫陶を与えるとともに、たんなる師弟関係以上の交流を重ね、きわめて親密な関係を築いた。それによって姉崎の天理教評価も変化していったと考えられるが、ここで確認しておき たいのは、中山正善との関係が始まるずっと以前、明治の終わりごろの天理教に対する姉崎 の評価の低さである。その名も「病的宗教」というタイトルが関された雑誌論説のなかで、 姉崎は典型的な淫祠邪教観ともいえるレッテルを天理教に貼りつけている。妖教とは天理教是なり、彼等が頻しきり に説教に舞踏讃歌に男女の間を蝶々し又暗中醜穢しゅうかい の所業を行ひて宗教儀式となすが如き、一見して其が印度の女神崇拝派と症状を同しく せるを知るべし。23 「病的宗教」のひとつとしての天理教に向けられた姉崎のまなざしにとって、とりわけ「みかぐらうた」は受けいれがたい他者だったのである。もっとも、その彼のまなざしも否定一色だったわけではない。次の引用は、2年後に同じ 雑誌に掲載された論説の一部である。 天理に至りては、其舞踏の祈禱、舞近ひきんの教は能く無教育の人気に投じ、一時五百万の 信徒を得たりと称せしも、其隆盛は馬脚を露はすの始となりて漸次衰退せしも、他の妖教 に比して稍道徳の教理を有せしを以て其勢力尚今日に存せり、此の如き妖教信者の間にも道徳の試金石が幾分か存在するを見るべし。 「みかぐらうた」という歌や舞踏、儀礼的実践によって無学な民衆を誑かすことへの嫌悪 が露骨に表明されている点は先の論説と変わらないが、「幾分か」ながらも見出される「道 徳の教理」については肯定的な評価が下されている。姉崎の眼に「泥海古記」がどう映った かは想像に難くない25。宗教の或る面を「病理」、或る面を「正常」と診断するまなざしも 近代宗教学には含まれていた。そうしたまなざしは、中山正善たち昭和の教学者たちにも多 かれ少なかれ内面化され、天理教の教義化を規定したと考えられる。
3. 「元の理」の裁定と「泥海古記」の変容 以上にみてきた教義化の流れのなかで、「泥海古記」の位置づけや語られかたも大きく変 わっていくことになった。昭和初期に至るまで天理教教理の中心にあったと思われる「泥海 古記」は、中山正善によって牽引された天理教教団の近代化と教義体系の整備が進められる なか、むしろ周縁に押しやられる。とともに、「泥海古記」そのものの理解や語られかたも 根本的な変容を被ったのだった。
3-1. 「泥海古記」の生成をめぐって——口承性という問題 1881(明治14)年ごろ、ちょうど「おふでさき」の執筆終了(明治15年)と重なるよう にして、教祖は側の者たちに「こふきを作れ」と促したという。そうして教祖に口述された 24 姉崎正治「宗教 明治三十年史」『太陽』4-9、1898年、208頁(『姉崎正治著作集』第9 巻、 国書刊行会、1982年、50頁 )。 25 姉崎の下に送られた『天理教教典稿案』(昭和21年7月11日第四編)には、姉崎自身 によるものとみられる書き込みがある(本論文末尾の画像1を参照)。「天理王命」と題さ れる第一章は、「天地人間創造」からはじまり、「立教」、「御守護」と続く。「此の世の元 初りは泥の海で、月日両神がおいでになつたばかりで御座います」という冒頭の一文にあ るように、そこで説かれるのは「泥海古記」の教えにほかならない。書き込みがあるのは 1 頁上方の余白部分から6頁まで長い線が引かれている。「此等神話を文字のまゝに見る や、此等を総括して親神さまと仰ぐ信仰にまとめえぬか」(一部現代仮名づかいに修正し てある)。つまり姉崎は、「これらの神話を字義通りに捉えるよりも、親神を創造神として 仰ぐ信仰を教理の中核としてまとめなおしたほうがよいのでは」という意見を示したとみ られる。ここでの「神話」という言葉には否定的な色合いが認められるが、それは、人格 的な創造神への信仰に教理の軸をもってくるべきという主張と照らし合わせることで明確 になる。姉崎にとって「泥海古記」が荒唐無稽な「神話」だったとまでいえるかどうかは わからないが、少なくともその評価が芳しくなかったことは確かである。 「こふき話」を筆録したものが、「こふき本」と呼ばれる。明治14年から明治20年にかけ て作成された、およそ40の写本が残存する。その大半は、人間世界創造の成り立ちを語る 「元はじまりの話」である。かくして人びとに伝えられたこのものがたりは、明治20年代から「どろうみこふき(泥海古記)」と呼ばれつつ教祖の教えの根本奥義として天理教の内 外に広く流通していった。 「泥海古記」はどのように語りだされ、書き残されたのか。そのはじまりの様子は、教祖 の高弟の一人、高井猶吉(1861-1941年)の述懐によって知られる。 〔明治〕十四五年頃だつたと思ふ。教祖様は、〔山澤〕良介さんと〔仲田〕佐右衞門さ んと自分と三人に、こふき話を書いて出せといはれた。良介さんは教祖様のお話の如く和 歌態にして出された。仲田さんは話態に出された。が何れも教祖様の思召には添はなかつ た。 その差出した書き物を下げて頂いたか否かは覚えてない。又教祖様の親しく筆とつて お書きになつたどろうみこふきはあらへん、第六号〔明治7年執筆の『おふでさき』〕や 其他に断片的ちぎれちぎれ に出てあるやろ。教祖様は、どろうみこふきのお話を、ずっとつゞけてさ れたのやない。時々仰言つたのを取次の者がまとめたのや。ここから汲み出して考えるべきことは多いが、目下の考察にとってなにより重要なのは、 「教祖様の親しく筆とつてお書きになつたどろうみこふきはあらへん」という証言である。 つまり、「泥海古記」には——「おふでさき」と異なり、また、「みかぐらうた」と同様に— —教祖の直筆なる原本が存在しないということである。教祖はひたすら語り、周りの者がそ れを書き取った。そうして書き残されたものは必然的に「断片的」であるほかなく、それぞ れに異文を含んだ複数の写本が存在するのである。 今日、私たちは「泥海古記」を、そうやって残された写本によって、何事かが書き記され たテクストとして読む。(多くのばあい、『天理教教典』第3章の「元の理」を読むに留まる かもしれないが。)「泥海古記」を読むのであれ「元の理」を読むのであれ、いずれにせよ私 たちはまずもって「そこに何が書かれているか」を読もうとする。しかし、そのような読み かたによって臨むかぎり、私たちは「泥海古記」という教えの精髄を捉え損ねてしまうので はないか。 これは本稿の議論の枠を超える論点になるが、教えの口承性をどう捉えるかということ に深く結びついている論点であるゆえ、あえて問題提起しておきたい。教祖は語るのみで書 かなかったこと、口述であるがゆえに周囲の人間も巻き込んでの共同作業が行われた(こと ばを書き取る人間なしには「泥海古記」は残されなかった)こと、そうやって残された教え は断片的であり、複数的、多声的であること——これらのことは、それ自体なにか肯定的な 意味をもつ事態として思案するべきではないか。後述するように、「泥海古記」には、少な くともそれをたんに書かれたテクストとして読むだけのまなざしからはつねに逃れてゆく 意味と実践の次元が認められることは確かだ。「文筆の教」という規範に馴染んだ読み手に は見えにくい、あるいは聞こえにくい、「口承の教え」の次元が存在するのである。 以上のように考えてみると、「教祖直筆の教え」であるがゆえに「おふでさき」を第一原 典として構築された教義体系において、その生成からして濃密な口承性を特徴とする「泥海 古記」が周縁化されていったことも頷けよう。背景にはやはり、口承性からの離脱という事 態が透けて見える。 「『おふでさき』は語るべきことを語りおえて第十七号で完結したわけではなく、根源的 真理の開示という課題は『おふでさき』以外の文書、すなわち『こふき』に委ねられたので ある27」。いまから40年前に島薗進によってなされたこの指摘は、これまでの教学ではまっ たく顧みられることがなかった。しかし、「口承の教え」の豊さを再発見するとき、教義化 以降の「泥海古記」の位置づけは根本的な再考を促される。なお、その時私たちに必要なの は、真理の内容(何が真理として開示され、語られているか)以上に、真理の開示のされか ... た . ..... 、真理の語られかた への注意であろう。 3-2. 「泥海古記」と中山正善 大正期から昭和初期にかけて、「泥海古記」はむしろ教団の外で、さまざまな註釈ととも に刊行された。1928(昭和3)年——「おふでさき」公刊の年——に出版された岩井尊人の 『泥海古記附註釈』もそのひとつである。ところが、記紀神話とも相容れない教えを含む「泥 海古記」への視線は厳しさを増し、そうした書籍の出版は難しくなってゆく。岩井の本もつ いには発禁処分を受けてしまう。 「泥海古記」への権力の干渉や世間の風当たりは、幼少期からの負の記憶として、中山正 善の脳裏に刻まれていたようだ。「私がもの心ついた頃には、既に、“どろうみこふきは荒唐 無稽である”とて、その筋より干渉を受けた話が語り伝えられていましたが、話ばかりでは なく、その後も同じ問題で、種々な事情を起し勝ちでもありました」。帝国大学を卒業し、 管長としていよいよ教義化を推進してゆかねばならない彼にとって、「泥海古記」はひとつ の憂いの種でもあった。彼の「泥海古記」への両義的態度は次の言葉にも滲み出ている。 その頃から、私は、“教祖のお話に矛盾のある筈はない、それらは何等かの誤解から来るのだ。例えば、伝承中の誤字、遺漏とか、解釈上の誤解とかあるのではなかろうか、そ れをただしたい”と考えまして、先ず、“原本”なるものをつきとめようと、努力しました。 いくつもの写本をもち、いくつもの異文が存在する「泥海古記」が「荒唐無稽である」と は、一面では中山正善自身の見方でもあったろう。彼は、実証主義的な近代的学知を重んじ、 また、それによって天理教の組織や教義の近代化を進め、「淫祠邪教」のレッテルを撥ね除 けようともしていた。なればこそ彼は、教義形成の基盤を教祖直筆の「おふでさき」に求め たのだが、「泥海古記」についても同様に、まず「原本」の確定を急いだのである。 彼の試みは、しかし、間もなく頓挫する。彼は原本をつきとめることはできなかった。先述の高井猶吉の証言にあるように、そもそも「泥海古記」に原本はないのだから。 けれども、原本がないからといって、なんらかの合理的説明を放棄するわけにはいかない。 たとえ「泥海古記」の「荒唐無稽さ」そのものを解消することはできないとしても、あるい はむしろかえってそれゆえにこそ、「泥海古記」が何故に「荒唐無稽」にみえるのかを合理 的に説明しつつ、確固たる教義体系のなかに位置づける論理が要請されたとも考えられる。 じっさい、中山正善が提唱したことで知られる「こふき=口記」説は、このような要請に適 うものだった。 “古記”は“こふき”の写音であり、文字には大した意味を考えぬ方が本来の意味を生かす ものであり、先にのべた“こふき”の内容なり、対象を“取次の仕込み”において考えるとき、 寧ろ、“こふき”は口で述べられたお話を“記”された書き物を意味し、おふでさき ..... に対して の“こふき”、即ち、教祖の親しく筆を執られた書物に対して、教祖が口で述べられ、取次 を仕込む上から、筆執り学人として、一は取次に筆を執らしめ、一は取次の話の台本とさ れたものと考えられるのであります。即ち、親しく誌されたおふでさき ..... に対して、口授し て書き取らしめられた“記”を“こふき”と呼ばれたものであり、強いて字を当てれば、“口 記”の方が寧ろ、本来の意味を写す文字ではないかと考えるのであります。とどのつまり、このように説かれる「こふき=口記」説は、「おふでさき」を中心とする 教義体系のなかに「泥海古記」を合理的に収めることを可能にしたのだった。つまり、「こ ふき」は「口記」と解釈することによって、「泥海古記」という矛盾だらけの厄介なテクス トを、説明不可能なまま放置するのではなしに、「おふでさき」という「書記」を中心とす る「原典=記スクリプチャ 」の確たるヒエラルキーの内部に位置づけることができたのである。「泥海古 記」は、真正純粋な書記たる「おふでさき」とははっきりと区別されつつも、それに従属する(不純な)「記」として、ともかくも「文筆の教」のなかに場を与えられる。ここに顕在 化しているのは、書記と口承性との緊張関係であり、前者による後者の統御の試みである。 かくして「おふでさき」に従たるものとされた「泥海古記」は、その位置づけばかりでな く、本質的な変容を被ることになる。『天理教教典』の第三章に掲載されている「元の理」 は、「泥海古記」の諸写本に少しでも接したことがある者であれば、ずいぶん「きれい」な 印象を抱かせる。こうした「泥海古記」から「元の理」への変容もまた、口承性からの離脱 という昭和期以降の教学・教理の大きな流れのなかにあって、その最も重大な結果のひとつ であった。この質的変化に対して自覚的であるため、あえて強調して言えば、「元の理」に おいては、各種「こふき本」に満ち満ちている民俗・民間信仰的要素(いわゆる「裏守護」 の数々)、また、換喩や語呂合わせをばねに展開してゆく融通無碍な語りは、すっかり削ぎ 落されている。井上昭洋の秀逸な表現を借りれば、「元の理」は、「泥海古記」が湛える民俗 的想像力が「サニタイズ」(消毒、無害化)された産物なのである。この民俗的想像力のサ ニタイズは、口承性の疎外とも言い換えられる。
小括
ここまでの議論を簡単にまとめておこう。まず、天理教における三原典の確立と聖典化の プロセスは、そのまま「泥海古記」の周縁化のプロセスと表裏一体であった。その背景には、 天理教の近代化、すなわち教団組織の整備や教義体系の構築という問題が存在した。文明開 化、富国強兵をモットーとする近代日本社会にあって、教団が教団として対社会的な承認を 得、淫祠邪教のイメージを払底するためにも、教義の近代化は死活的課題だった。中山正善 の官長就任、教義及史料集成部の設置を画期として、東京帝国大学で宗教学を修めた若きエ リートたちを中心に、教義化が推し進められていった。より具体的には、とりわけ『教祖伝』 の編纂を通じて、絶対的神格(「月日のやしろ」)としての教祖像の確立が目指された。その 過程においては、「おふでさき」という教祖直筆の書物を頂点とする「筆の教」が重視され、 大正期まで優勢であった口承の教えの意義は相対的に低下していった。 さらに、本論中では詳述できなかったが、近代日本の天理教は「啓示宗教」としての自己 成型を進めていったといえる。この点についても、同時代の宗教学、近代的宗教理解の影響 は深甚であったと思われる。「宗教」には啓示者たる教祖がいて、その言葉を書き記した聖 典があり、教義や組織を備えているという近代的宗教理解は、それまでの「天理教」(永岡 の表現でいえば「親神共同体」)の信仰実践が根差していたところの民俗・民間信仰との断 絶を促した。これもまた「泥海古記」の変容という問題にそのまま関わってくる この傾向は、たとえば中山慶一『教派神道の発生過程』(森山書店、1932年)によく表れている。東京帝国大学宗教学研究室提出の卒業論文が基になっている本書は、天理教も 含め幕末維新期の教派神道の興隆の背景を、江戸時代における諸宗教の停滞とそれによっ て促された民間信仰の伸長に求めたもので、草創期の日本の宗教学にとっても重要な成果学問論的=認識論的エピステモロジック な問題である。 しかし、「教義化」以前の教祖の教え、信徒たちの実践に目を凝らすとき、「書かれたもの」 に支えられた教義とはずいぶん異なる教えのありかたが浮かび上がってくる。
4.「泥海古記」の詩学へ
ここまでの議論では、「泥海古記」の位置づけの変遷をめぐって、とくに教義化の力学を 歴史的に浮き彫りにするべく努めてきた。本章では、教義化以前の教えの本質的特徴と認め られる口承性にフォーカスして、「泥海古記」のことばのダイナミズムを掬い上げる解釈の 糸口を探る。合わせて、従来の「原典」理解を拡充する可能性も示したい。
4-1. 「みかぐらうた」と「泥海古記」に響くもの 私たちの常識を少なからず規定してきた固定観念を歴史的に相対化し、「筆の教」が支配 的となる前には教えの本質的要素であったと考える口承性や民俗的想像力への想像力を呼 び起こすとき、「おふでさき」を第一原典とする教義的教学的理解は問い直され、私たちの 「原典」理解も刷新されるかもしれない。とりわけ、教義化以前の人びとの信仰実践を培っ ていた「みかぐらうた」と「泥海古記」について、これまでの教学が必ずしも十分に考えて こなかった可能性を掬い上げることができるかもしれない。 そもそも、「みかぐらうた」にしても「泥海古記」にしても、それを解釈するということ はどういうことなのか。ここでいう「解釈」は、少なくとも、個人が書かれたテクストに単 独で向きあってそれを黙読しつつ釈義を施すという営みには還元できない。なにより「みか ぐらうた」については言うまでもないが、それはただ読んで意味をとるべきことばではなく、 奏でられ、歌われ、踊られるべきことばなのである。 ただし、ここで注意しなければならないのは、「みかぐらうた」を歌い踊るという信仰実 践は、本来それ自体が「みかぐらうた」ということばの読みであり、釈義だということであ る。口承性と「筆の教」はけっして二項対立的に相反するものではない。このことは、「み かぐらうた」について教祖が語ったとされる次のことばによって確かめることができる。 この歌は、何程、「私は字はようしらん、あきめくらや」といふてゐるものでも、三人 と評される。中山慶一の議論は、しかし、とくに天理教については、結局のところ教祖の 啓示の超歴史的絶対性を強調して終わる。「天理教を育てたものは其他にもあらうが之等 各宗教の真主張を探究し、其総和を以てしても天理教の全体は決して釈明されない。真の 天理教は教祖の絶大神格の思想より流露された新しき未到のものである。此意味に於いて 天理教の発生も歴史的継承的のものであるより、寧ろ独創的天啓的のものであると言はなければならない」(島薗進・高橋原・星野靖二(編)『シリーズ日本の宗教学5 宗教学の 諸分野の形成 第9巻』クレス出版、2007年所収、110頁 )。よると、きつと読みがくだる。わからんと思うてゐてもひとりでに解つてくる。みながい つのまにやら調子づくのやで。それ自体伝承であることのことばは、出所の不確かさが祟ってか、現在ではほとんど参照 されない。しかしながらこのことばは、近代人にはもはや想像し難い、ややもすれば「神秘 的」とも言いたくなる「読み」のありかたが、近代化・教義化以前の天理教の口承的な信仰 世界には存在したことを考えさせる。 とはいえしかし、ここで言われていることは、現在の私たちにとっても、けっして理解不 能ではないはずだ。とりわけ、日々「みかぐらうた」を歌い踊っている信仰者には、むしろ 深く頷ける話ではないだろうか。 今世紀の最初に刊行された『みかぐらうたの世界をたずねて』の終わりには、「みかぐら うた」解釈のありかたをめぐって、先の教祖のことばとも共鳴する洞察が示されている。 「みかぐらうた」の本質を理解するには、ただ言葉の解釈だけでは十分ではない。「歌 い、踊り、奏でる」おつとめ勤修の中に身を置くことが大切であり、それが本筋であると 思う。そのようにして信仰の世界へ参入し、「みかぐらうた」が教えるところに目覚め、体で 理解していくものと考えるのである。手振り、足どり、歌詞など、それぞれを個別的、部分的に解釈するのではなく、それぞ れの要素を一つの流れの中で総合的にとらえることが必要である。だれにも、こんな経験があるであろう。 ・ふと雑念がわいたとき、手振りを間違えることは言うまでもない。逆に言葉の意味を確 かめながら、それに合った手振りはと考えた瞬間、間違えることがある。 ・人と一緒に踊っていると、その人の手振りを見ているわけでもないのに自然と踊れる が、一人の時には、たとえ歌詞を見ながら踊っていても戸惑うことがある。「みかぐらうた」のことばは、それにふれる者——読み、歌い、踊り、奏でる者——の「願 い」に応えて、その都度さまざまな「手ごたえ」を与えてくれることばである。このような「みかぐらうた」解釈は、畢竟「一様ではなく、弾力的になる」。「みかぐらうた」の真 理は単一ではない。それは、さまざまな読みかた、歌いかたを許すのである。それは、正し い意味を確かめて読みとるというより、日々の信仰生活のなかで活用(身読?)することに よってその都度意味を汲み出すべきものである。 かくしてさまざまな解釈に開かれた「みかぐらうた」のことばに認められる多孔性と実践 性は、そのまま「泥海古記」のことばの特徴でもある。
4-2. 融通無碍な解釈の跳梁——「泥海古記」の想像力の発露 「みかぐらうた」がそうであるように、「泥海古記」も一人ひとりの信仰者によって読ま れるべきものであるが、そうした読みの手がかりの一端を提示すべく、いくつか具体的な解 釈を挙げておこう。 まずは「こふき十六年本」(桝井本)より、「をもたりのみこと」をめぐる語りを引用する。 「をもたりのみこと」は、世界では火の守護、人間の身の内では温みの守護の理に配される 神名だが、「泥海古記」では12の頭部と、それぞれ剣状の形をした3本の尾部をもつ大蛇の 姿で描かれる。これらの数字を手掛かりとして、「をもたりのみこと」の守護の理は12月と いう暦法や十二支にも及び、あるいは阿弥陀三尊が想起されることで仏法とも結びつけら れる。民俗信仰はじめ当時の人びとの生活に身近な信仰の世界を幅広く巻き込んで、融通無 碍な語りが展開してゆく。 この神様わ人間やと宿しこ込みたもふ後わ、日々にみ身がおも重くなるゆゑ故に、おもたの 命とゆう。日々にり理をま増すゆ故に日輪様とゆう。をう尾に三ッのつるき剣あるゆゑ故に、 この此り理をあ(し)きな女わじやけん蛇剣(邪険)といま今にてもゆ云うなり。かしら頭十二ある壹つの かしら頭にて、十二月のあいた間、壹月づ〻かしら頭かわ代りてしゆうご守護を事。日〻かわ代り てしゆうこう守護。又、十二時つゝかしら頭かわ代りて、目を壹時とすしゆうごう守護あるゆゑ故 に壹ケ年を十二月とさゝ定め、壹日を十二とき時とゆ云う。十二支のほふ方かしら頭をとり取 まき巻かありてしゆうごう守護あり。このり理をもつて十二支とゆ云うなり。ふつほふ仏法にてわ三 づん 尊(?)のみだによふらい彌陀如来、また又、こゝろ心す澄んだるり理をもつ以て、せいしくわんおん勢至観音、 おふ大きみ見ゑるゆゑ故に、くわたい寛大ともゆ云う。くわんおん観音とゆ云うもをな同じり理なり。 人間のみ身のうち内ぬく温みのしゆうごう守護の神、又ぬく温みわこの此神様のかりものなり。37 大蛇=だいじゃという発声から、「台じゃ」ないし「大事や」という意味を充て、重層的 な解釈を施すとは、『正文遺韻』にも確認できるように、当時の信仰者たちには馴染みのや りかたであったようだ。 そこで月様の御姿を、龍といふハ、是ハ理の世やといふ事を、あらはしてあると聞せら れます。又日様の御姿を大蛇といふハ、だいである、此よのだいじや .... でといふ事を、あら はしてあると聞せられます。この土地を大地といひ、又どだいというたり、何かのだい .. な どといふだいと同じ意味であります。口承性を強く帯びたこれらの言語的信仰的実践を、単純素朴な語呂合わせにすぎないも の、取るに足りない言葉遊びと片づけてしまうことは簡単だ。しかし、そう考える今日の私 たちは、天理教の近代化と教義化が成し遂げられた後の、「筆の教」が支配的となった後の 思考の枠組みのなかに生きているのかもしれない。そう疑ってみることも必要だろう。 先に「サニタイズ」という強い表現を用いて確認したように、これら融通無碍なことばは、 それを可能にする民俗的想像力とともに、とりわけ『天理教教典』と「元の理」の裁定以後、 影を潜めてしまった。しかしながら、民俗的想像力とそれに根差す自由闊達な解釈は、「元 の理」裁定以降も、けっして完全に消失してしまったわけではない。一例として、深谷忠政 による解釈を取り上げよう。「その後、人間は、虫、鳥、畜類などと、八千八度の生れ更り を経て、又もや皆出直し、最後に、めざる ... が一匹だけ残った」という「元の理」のよく知ら れた一文について、深谷は、「元の理」の解釈本として今日まで教内に最も流通したと思わ れる自著のなかで次のように語っている。 ... めざる ... は、つなぎの道具神、くにさづちのみことの理である。猿を去るに語呂を合わせ、 去ったが残ったという言葉より、つなぎの意味を表しているとも悟られる。少しこじつけ に過ぎるかも知れないが、めざる とは“滅せざる意なり”という説もある。……田舎に行く と道路の三叉路に、猿にちなんだ石柱が立っているが、これは、猿田彦神が、天孫降臨の 際、天孫の先頭に立って道案内をしたという故事による。猿と道祖神(道路を守りて旅人 の安全を得しむる神)との関係より、このめざる ... に、爾後の人間生活発展の母胎という意 味をこめているとも悟られる。深谷は、京都帝国大学で哲学を修め、戦後は諸井慶徳とともに天理教学の発展に尽力した 教学者の一人である。彼は、二代真柱によって基盤を固められた教義体系を、時にはドイツ 観念論の術語も駆使して読みなおし、知識人層にも訴えるべく、天理教学に哲学的な深みを 与えようとした。しかしながら、深谷の「元の理」解釈には、少なくとも上の引用箇所をみるかぎり、「元の理」を枠づけているものを超え出るような民俗的想像力、「泥海古記」の想 像力の発露と呼ぶべきものが認められる。音としてのことばや、イメージの重なり合いを可 能にし、またそれらによって羽ばたくこの想像力=創造力は、たしかに、「口承の教え」の 知脈に棹差すものである。 そしてこの知脈は、現代の信仰者たちのあいだにもなお息づいている。『陽気』に掲載さ れていた記事で知ったものだが、ひとつの事例を挙げておこう。それは、天理大学の卒業生 である宮原美沙子氏により、在学中に立川忠義氏(山一分教会長)の講演を通じて耳にし、 感銘を受けた話として紹介されている。立川氏は、十柱の神の守護について悟りを深めるべ く赴いた地元仙台港で、漁師からひとつの興味深い知見を得たという。 ... 「かしこねのみこと様」のお姿はかれい (鰈)。かれいはどんな魚かと漁師さんに尋ね ると、「かれいはいつも海の底を泳いでいるが、海が荒れるという時には海面に浮き出て くる。そうすると、必ず風が吹いて海が荒れるから、かれいの姿を見たら漁師たちはすぐ に港に帰るのだ」とのお話だった。深く印象に残るお話だった。40 「かしこねのみこと」は、世界では風の守護、人間の身の内では息の守護の理と説かれる。 海面に浮き出るかれいと吹く風との因果関係を教える漁師の話は、現代の伝承として、立川 氏、またその話を伝え聞いた宮原氏(さらにはその読者である私)に、教理のことばを生き 生きと捉えなおすことを可能にする。「泥海古記」は、漁師や、あるいは幕末の大和地方の 農民のように、自然のはたらき——火・水・風の守護——のなかに生き、皮膚感覚でそれを 知る人びとの日常的経験や実践感覚とこそ響き合うのかもしれない。しかし、たとえ土や海 から離れて生きる者が多数派を占めるような現代社会にあっても、私たちの想像力が枯渇 しないかぎり、「泥海古記」の想像力は生き続けるだろう。 おわりに 「泥海古記」には民俗的想像力が漲っている。これを汲み上げるためには、私たちの教義 理解や解釈の常識を疑ってみることが必要である。このことは、近代以降の日本そして天理 教の歴史のなかで、「文筆の教」を範としてきた私たちの「原典」理解の硬さをほぐすこと にもつながるだろう。 「泥海古記」を「もうひとつの原典」として捉えなおそうとした本稿の試みは、たんに「泥 海古記」を現行の三原典に並ぶものとして引き上げようとするものでもなければ、中山正善 以降の教学や教義形成を批判することに留まるものでもない。「泥海古記」を「原典」とし て論じようとしてみえてきたのは、原典のことばの断片性や実践性というべき性質である。 すなわち、原典のことばは、統一的で体系的な教義であるより前に、個々の信仰者の生の文脈に即応して語られる、つまりその都度の必要に応じて用いられる 性格のことばであると いうことである。 そもそも「典」という言葉には、「ふみ」(書物)という意に加えて「のり」(手本)とい う意味もある。また、ギリシア語で「正典・聖典」を意味する「カノン(κανών)」 と い う 言葉の原義は、「葦の茎」あるいは「真っ直ぐな棒」である。今日では、聖典といえばすなわ ち文字で記された書物であり、書物といえばすなわち読んでその意味を解釈すべきものと いう理解が一般的である。しかし、「のり」や「真っ直ぐな棒」という原義に注意を向ける とき、文字を読んで意味を理解するという前に、その都度の状況で使われる道具としての原 典という実践的性格が改めて認識されるのである。私はここで飯降伊蔵と「天の定規」の逸話を想起する。 教祖は、ある日飯降伊蔵に、「伊蔵さん、山から木を一本切って来て、真っ直ぐな柱を 作ってみてくだされ。」と、仰せになった。伊蔵は、早速、山から一本の木を切って来て、 真っ直ぐな柱を一本作った。すると、教祖は、「伊蔵さん、一度定規にあててみて下され」 と、仰せられ、更に続いて、「隙がありませんか」と、仰せられた。伊蔵が定規にあててみると、果たして隙がある。そこで、「少し隙がございます」とお答えすると、教祖は、 「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、 狂いがありますのやで。」と、お教え下された。これは原典のありかたを考えるにも示唆的な逸話と思われる。原典は、書かれたものであ れ口承の教えであれ、まさに「天の定規」として、個々の信仰者がそれぞれの日常において 実践的に活用すべきものではないだろうか。この逸話の解釈については、どのような柱もそ の前には真に真っ直ぐではない「天の定規」の絶対的規範性が強調されることが多いだろう。 だが、この逸話の肝はむしろ、真っ直ぐな柱を作ろうとする者がそれを用いることによって ........................... 得られる悟りにこそあるのだと私は思う。原典とは、それ自体で自己完結した書物であるの ではなく、用いられることによってはじめて活きることばなのだとすれば、まさにその意味 で「泥海古記」は原典である。 改めて、原典とは何だろうか。この問いには複数の回答可能性がある。教祖という絶対者 によって啓示された神聖なる言葉が記された不変のテクストと答える者もいれば、教義の 正しさを根拠づけるテクスト(典拠)、あるいは、あるべき信仰の規範となるべきテクスト (典範)と答える者もいるだろう。しかし、次のような答えもまた可能ではないだろうか。 原典とは、個々の信仰者によって実践される(読まれる、詠まれる、歌われる、踊られる……) ことで、信仰者の生にその都度新たな意味を開示し、生きかたを導くことばである。原典と は、信仰者たちそれぞれの参与を促し、信仰者を生かし、勇ませるまさにそのことによって、 『稿本天理教教祖伝逸話篇』天理教道友社、1976年、49-50頁。画像2を参照。 自らも生成し続けることばである。 1911(明治44)年生まれの私の祖母の部屋には、「原典」からの引用と思しきことばを記 した短冊や紙切れがあちこちに掲げられていた(画像 3)。これら文字通り「断片的」なこ とばたちもまた「口承の教え」の知脈に連なる。祖母のような信仰者はおそらく他にも大勢 いたし、いまもいるのだろう。かくして、「泥海古記」をもうひとつの原典として読みなお す試みは、個々の信仰者の生のなかに散り撒かれつつ息吹く神のことばを掬い上げること を促される。それは来るべき教学の課題であり、新たな可能性でもあるのではないだろうか。
「たすかる」をめぐって ―「おふでさき」と「ひながた」を往復しながら― 深谷 耕治 はじめに 「おふでさき」は「みかぐらうた」や「おさしづ」と並んで「原典」の一つであり、とり わけ教祖直筆のテクストという点において「文筆の教え」の典拠とされ、天理教教義の源泉 として特別な信頼を有してきた。教理理解の刷新を考えるとき、「おふでさき」に優位があ るような「文筆の教え」だけではなく、「泥海古記」に見出されるような「口承の教え」、あ るいは「みかぐらうた」が生み出す身体的・律動的な教えなどへの可能性は拓かれていくべ きであろう1。 しかし、本研究会の先の発表にもあったように、「文筆の教え」と「口承の教え」は決し て二項対立の関係にあるのではない2。「泥海古記」や「みかぐらうた」と並んで、「おふで さき」それ自体にも教えの豊かさが蓄えられているはずである。本稿は、そうした「おふで さき」に蓄えられた豊かさを汲み取るべく、それをあえてテクスト(読み物)として捉え、 その読み方の可能性を問-+うてみたい。そして、本稿では「おふでさき」が「何を語ってい るのか」ではなく、「いかに語っているのか」という問いの方向で論を進めていく。 改めて「おふでさき」は言葉であり、テクストである。もう少し言えば、明治の初め頃に、 当時の大和地方に流通している方言を交えて、一農家の一人の女性によって筆記された和 歌体の言葉である3。そうした歴史的・地域的な制限を受けたテクストの性格は、一方で真 理に近づく途上の躓きになり得る。すなわち、今日の私たちからすれば、「おふでさき」の 言葉は時代的な隔たりを感じさせるものであり、「それが何を語っているのか」は一読する だけでは理解困難な箇所が多い。 しかし、他方で、そのようなテクストの不透明さはそれ自体が真理に近づくための方途に なるとも考えられる。つまり、「おふでさき」のテクストの性格への理解が、そこに蔵され ている真理についての有力な手がかりを与える可能性がある。さらにいえば「いかに語って いるのか」という問いから始めることでこそ接近可能な真理もあろう。 1本研究会における前二者の発表を参照。 2本書、29頁。 3本稿では「おふでさき」の和歌体としての性格については扱えないが、それを主題とす る研究としては、たとえば、仁尾雅信「『おふでさき』の歌学的考察」(『天理教学研究』 26 号、1987年)、同「『おふでさき』の歌学的表現」『G-TEN』第23号、1987年)があ る。 私は以前、このような観点から「おふでさき」の動詞の働きに着目して考察を進めた 。 本稿は、そこでの議論をベースにしながら、テクストとしての「おふでさき」の理解が今日 の具体的な信仰実践へといかに接続できるのかを探究していきたい。今回は「おふでさき」 読解の上では「たすける/たすかる」という動詞のあり方に着目し、そこでの洞察を教祖の 「ひながた」と関連づけながら、今日の「人だすけ」の信仰実践について考えていく。

1. 「おふでさき」研究と「人だすけ」における問い 本章では、議論の前提として、まず中動態論を参照しながら「おふでさき」の「たすける /たすかる」という動詞のあり方について記す。そして、節を変えて、「おふでさき」の議 論に関連するような今日の実践的な問いを立ててみたい。なお、以下に引用する「おふでさ き」には便宜上、漢字を当てている。 1-1. 三号 「人たすけたら我が身たすかる」をめぐって 「おふでさき」に対して「何を語っているのか」ではなく「いかに語っているのか」という 問い方で迫るとき、「あらわす」(他動詞)と「あらわれる」(自動詞)のように一対の動詞 の組み合わせがあることに気づく。つまり、「おふでさき」では、「あらわ」という語幹に対 して「す」を付すのか、それとも「れる」を付すのかという選択が行われており、「す」と 「れる」の差に意味を持たせるような語り方をしている。 「たすけ」の理解という点において、特に三号47の「わかるよう胸の内より思案せよ/人 たすけたら我が身たすかる」という歌は重要な歌であると思われるが、ここでも自他動詞の 組み合わせが効果的に用いられている。すなわち、この歌の要点の一つは「たすける」(他 動詞)と「たすかる」(自動詞)の差にある。 上記の拙著では「おふでさき」のこのような動詞の性格を理解する上で昨今注目を集めて いる中動態論を参照した5。中動態とは、能動態や受動態と同じように主語と行為との関係 を示す文法範疇(態・ヴォイス)の一つであり、日本語では「たすかる」など自動詞に関わ るものである。たとえば、「見る」という動詞を例に挙げると、「見る」(能動態)や「見ら れる」(受動態)に加えて「見える」がある。「見る」という動作ではその動作主の能動性が 示されており、他方で「見られる」ではそれは失われている。それに対して、「見える」と は、「見つつも、見させられている」ような事態といえる。動作主はその能動性(「見る」) を残してはいるものの、それ以上の何かの影響を受けている。こうした「見える」のような 動詞の形態が中動態と呼ばれている。 日本語では、「あらわれる」や「見える」のような自動詞がほぼ中動態に対応しており、 本稿で取り上げる「たすかる」も中動態として捉えられ得る。すなわち、「たすかる」とい 4拙著『「おふでさき」の動詞からの探究』グローカル新書、2020年。 5たとえば、國分功一郎『中動態の世界-意志と責任の考古学』語学書院、2017年。うのは、単に受け身的な「たすけられる」ではなく、いくぶんの能動性があり、また「たす け」の主体でありながら半分「たすけ」に巻き込まれている状態といえる。 今日では「能動態/受動態」という枠組みが優勢であるが、中動態に着目しながら「能動 態/中動態」という枠組みで動詞のあり方を考察した言語学者にエミール・バンヴェニスト がいる。彼は『一般言語学の諸問題』(1966年)において、次のように述べている。 能動態においては、動詞は、主語から発して主語の外で行われる過程を示す。これとの対 立によって定義されるべき態であるところの中動態では、動詞は、主語がその過程の座で あるような過程を示し、主語の表すその主体は、この過程の内部にあるのである。6 このようなバンヴェニストの見解によれば、「たすかる」(自動詞)というのは「たすけ」 の主体が「たすけ」という過程の内部にいるような事態を示していると考えられる。三号47 「人たすけたら、我が身たすかる」でいえば、「人たすけたら」とは動作主が「たすけ」の 外にいるような過程であり、また、「我が身たすかる」とは動作主(我が身)が「たすけ」 の内にいるような過程と捉えられる。「たすかる」では、動作主が「たすけ」という出来事 の中にあり、そのプロセスのおいては自他の区別が曖昧化されているともいえよう。 さらに、これらを踏まえて、三号この歌を前後の文脈に関連づけて考えてみたい。 このたびはたすけ一条にかかるのも 我が身のためしかかりたる上 44 たすけでも拝み祈祷でいくでなし 伺い立てていくでなけれど 45 このところよろづの事を説き聞かす 神一条で胸の内より 46 分かるよう胸の内より思案せよ 人たすけたら我が身たすかる 47 「たすけ一条」に取り掛かる上で、まず「我が身のためし」(験証)が示されている(44)。 「我が身」に「ためす」ものとは、親神の守護といえよう。つまり、ここでは、「たすけ一 条」に先立って、親神の守護に浴した「たすかる」という事態があことが示唆されている。 それは、まずみずからが「たすけ」の中に入っていくことともいえる。 その上で、その「たすけ」に入っていく方途が単なる「拝み」や「祈祷」、「伺い」ではな いことが告げられる(45)。すなわち、「おふでさき」が示す「たすけ」とは、それまでの宗 教者や易者などの実践によってではなく、教祖の口から発せられた「よろづの事」に関する 神意を「胸の内」から「神一条」で「思案」することによって果たされる(46)。 このような流れを考えると、47の「人たすけたら、我が身たすかる」における「たすけ」 とは、自分が先に入った「たすけ」という出来事の中に相手と共に入っていくことと言える のではないだろうか。そのような観点から言えば、「よろづの事」を「説き聞かす」という プロセスでは、それをみずからにも言い聞かせるという側面を持ち、相手に親神の守護を 6エミール・バンヴェニスト『一般言語学の諸問題』(河村正夫・木下光一・高塚洋太郎・ 花輪光・矢島猷三共訳)みすず書房、1966年、169頁。 41 「見せる」ということではなく、むしろ親神の守護が「見える」ように共に歩むことといえ る。そうした歩みが47の「我が身たすかる」の重要な一局面ではないだろうか。 次節では、以上のような「おふでさき」の解釈の実践的な可能性について、今日の「人だ すけ」のありようを反省的に捉えながら考えてみたい。 1-2. 「人だすけ」の信仰実践における問い 本教の信仰活動において、「人だすけ」はとりわけ大きな位置を占めている。教祖の歩み は「人だすけ」の道として語られ、その実践は信仰者に広く推奨されている。本節では、そ うした「人だすけ」の実践において感じられる素朴な疑問を記してみたい。 「人だすけ」において、実践者たちはそれぞれどのような立ち位置から当該の「たすけ」に 関わっているのであろうか。たとえば、当事者たちは「たすける側」と「たすけられる側」 に明確に分けられるのであろうか。もしそうであるなら、「人だすけ」とは相手の主体性を 損なうような、どこか差し出がましい行いにも感じられないだろうか。あるいは反対に、自 分自身が「人だすけ」の「対象者」になったとき、その行いがどこか不遜に感じられはしな いだろうか。これらの疑問は、問いと呼ぶにはあまりにも素朴で、ほんの感触程度のもので はあるが、しかし、私自身の体験や身近な人たちを見渡しても一定の現実味を帯びているよ うに思われる。 「たすけ」という事態では、その初発において、人と人とが非対称的な関係になることは不 可避であろう。すなわち、「たすけ」という働きを担う者がいなければ、「たすけ」は始まら ず、その初発においてはある種の特権性を帯びる者の存在は認めざるを得ない。そうした非 対称性の代表的なものには「親子」や「師弟」のような関係が思い浮かぶ。 しかし他方で、そのような関係の一方を「たすける側」、もう一方を「たすけられる側」 と固定的に位置づけるとき、その非対称性が引き継がれたまま、その関係性が固定化されて しまう。言い換えれば、「たすけ」という場において、それを担う者たちが柔軟にその主体 性を発揮する為には、「たすける/たすけられる」という枠組みそれ自体を考え直すことが 必要ではないだろうか。 わたしたちの行為を捉える上で「能動態/受動態」の枠組みが必ずしも固定的でないとす れば、「たすけ」という場において、「たすけられる」という受け身的な態度は必ずしも想定 される必要はない。むしろ、前節での解釈によれば、「おふでさき」では「たすかる」とい う中動態的なあり方に基づいた「たすける/たすかる」という枠組みが示唆されている。こ うした問題意識を持つとき、「たすかる」とは単に「おふでさき」解釈における言語学的な 一視点に留まらず、「人だすけ」の実践的な取り組みにおいても一つの視座を与えることが できるのではないだろうか。 2. 教祖の「ひながた」との関連で ここまで「おふでさき」が「いかに記されているか」という問題設定のもと中動態論を参照しながら三号44-47を解釈し、「たすけ」における「たすける/たすかる」という事態を 確認した。すなわち、「たすける」という働きはそれだけで成立するものではなく、「たすか る」という働きと不可分である。そして、「たすける」の行為者は、まず自分自身が「たす け」の中に入って「たすかる」ことが求められ、「おふでさき」ではそのことが「我が身へ のためし」として示されている。 そして、次に、「人だすけ」の実践において、その当事者の立ち位置や主体性に関する疑 問を記した。「おふでさき」から読み取れる「たすける/たすかる」という働きは、「人だす け」の実践では具体的にどのように捉えられるのであろうか。本章では、そうした観点から、 「たすかる」という事態に着目しながら教祖のひながたや先人の歩みを事例研究的に見て いく。 2-1. 教祖の「をびやためし」 三号44の「我が身のためしかかりたる上」というとき、教祖のひながたではまず「をび やためし」の事例が思い起こされる7。 天保12年、教祖が44歳のとき、妊娠7か月のある日、親神から「今日は何処へも行く事 ならぬ」や「眠る間に出る」とのお話があった。その後、教祖は流産をするも、ご自身でそ の後始末をし、普段通りの生活に戻られた。教祖伝では、教祖は親神の守護に一心にもたれ て通れば何も心配いらないことを示された、とある。このような教祖の行いは、どのような 状況においても親神の守護によって「たすかる」ことができるということを示されたといえ よう。 そして、教祖は、こうした自身の体験をもとにして、その後三女おはるや隣家の清水ゆき のお産に際して「をびや許し」を出し、親神の守護を人々に示していった。これらの出来事 は今日では「たすけ一条」の道明けとして語られており、教祖自身の「をびやためし」は「た すけ一条」にかかる上で、まさに我が身で「たすかる」ことの「ためし」をしたと捉えるこ とができる。
2-2. 教祖の七十五日の断食 「をびやためし」の他に教祖が「ためし」という言葉を用いた例として、七十五日の断食の 最中の松尾宅でのおたすけが挙げられる。 明治5年、御年75歳のとき教祖は七十五日の断食を行っていたが、その最中に先方の願 い出によって東若井村の松尾市兵衛宅へおたすけに行かれることになった。松尾宅に行く 際、教祖は「ためしやで」と仰せられて駕籠には乗らず、長期間の断食の最中にもかかわらず足取り軽く歩まれたという。 松尾宅に到着後、家人のおたすけをされたが、断食は約二週間の滞在中ずっと続いた。そ して、松尾宅からお屋敷に帰る際に、周りの人の勧めによって一度は駕籠に乗られたが、そ の後「目眩いがする」と仰せられて、ご自身で歩いて帰られた。そのとき、「 親神様が『駕 籠に乗るのやないで。歩け』と仰せになった」と伝えられる。 ここでの「ためしやで」という言葉は、三号44「我が身のためしかかりたる上」と直接的 な響きが感じられる。七十五日の断食の最中、駕籠に乗らずみずから歩いて松尾宅のおたす けに赴かれるお姿は、まさに「たすけ」の現場においてその身で示された「たすかる」姿で はないだろうか。
2-3. 山田こいその場合 次に、「をびやためし/をびや許し」ということに関して、敷島大教会の基盤を作った山 田こいそのお産を見ておきたい。 明治15年の春、山田こいそは、自身のお産に際して「今度はためしやから、お産してお ぢばへ帰る時は、大豆越へもどこへも道寄りせずに、ここへ直ぐ来るのや。ここがほんとの 親里や」とのお言葉を頂く。その頃は、田植えの準備で皆忙しく、こいそは家に一人でいる ことが多かった。そのようなある日突然産気づいてしまう。しかし、こいそは一人で無事に 出産し、その後普段通り昼食の準備をしていた。田植えから帰ってきた家人は、こいその普 段と変わらない姿に驚いたという。それからこいそは産後三日目に 14 ㎞離れたお屋敷へ、 雨上がりの道を歩いて帰ったそうである。そして、この「ためし」としての「をびや許し」 が村から村へと噂となって、大きなにをいがけとなったことが記されている。 このエピソードでは、「ためし」というのは、親神の守護にもたれ切る覚悟のようなもの が試されていることが分かる。こいその場合は、そうした親神の守護にもたれ切る行いが、 「をびや許し」への信頼と共に、「ここがほんとの親里や」という教祖の言葉に基づいた「お ぢばがえり」の実践として現れていた。そして、この出来事がその後のおたすけに続いてい くことを思えば、こいその「をびや許し」は、「たすけ一条」に向かう前提としての「たす かる」姿といえよう。 2-4. 加見兵四郎の場合 最後にもう一人先人を取り上げたい。教祖から「人たすけたら、我が身たすかる」という 言葉を直接頂いた先人に東海大教会初代会長・加見兵四郎がいる。明治6年、兵四郎(31歳)夫妻は初産に際して、「をびや許し」を頂く。それから7年ほ どは年に2~3回お屋敷に帰る程度であったが、山本いさの大病の御守護頂いた話を聞いたり、山田伊八郎に出会って十全の守護の話を聞きはじめ、次第におたすけに専心するよう になった。そして、数年で24戸の講社を結成するに至る。山田伊八郎は前述の山田こいその夫であり、「をびや許し」による「たすけ」の広がりが示されている。 明治18年、兵四郎は長女とともに目の身上となり、教祖より「この目はなあ、難しい目 ではあらせん。神様は一寸指で抑えているのやで。そのなあ、抑えているというのは、ため しと手引きにかかりているのや程に」や「本人が出て来るがよい」といったお言葉を頂く。 そこで、笠間から四里の道を、片手には杖、片手は妻に引いてもらって、お屋敷へ帰り約2 時間、元初まりのお話を聞き、目が見えるようになった。その時の教祖の声の大きさは「あ たりの建具が、ぴりぴりと震動したそうである」と記されている。しかし、その後、兵四郎の目は、毎朝八時頃までは、ボーっとして遠目は少しもきかず、 どう思案してもご守護がない。そこでさらに伺うと、「それはなあ、手引きがすんで、ため しがすまんのやで。ためしというは、人救けたら我が身救かる、という。我が身思うてはな らん。どうでも、人を救けたい、救かってもらいたい、という一心に取り直すなら、身上は 鮮やかやで」とのお言葉を頂き、その後熱心におたすけに奔走するうちに身上もおたすけ頂 いた、とある。 加見兵四郎の場合、「人たすけたら、我が身たすかる」という言葉をもらったときは、目 の病は半回復の状態だった。つまり半分「たすかる」の中にいたが、まだ完全に「たすかっ た」ということではなかった。そして、教祖はそれについて「ためし」がまだ済んでいない ということを伝えている。その言葉を頂き、兵四郎は、自分がもう半分の「たすかる」の中 に入っていくべく、「人だすけ」を実践するようになった。しかし、それは我が身の「たす け」の為ではなく、むしろ我が身や我が家の事情を離れた「人だすけ」への専心といえる。 ここでの「ためし」とは、山田こいその場合と同様に、親神の守護に一心にもたれ切る態度 の「ためし」であると解される。そして、その姿は直接的な「人だすけ」として現れた。 また、もう一つ着目したいことは、兵四郎が山田伊八郎から十全の守護の話を聞いていた ことや、眼の身上に際して教祖から元初まりのお話を聞いていたことである。先の「おふで さき」では、「人たすけたら、我が身たすかる」という言葉の前に、「たすけでも拝み祈祷で いくでなし/伺い立てていくでなけれど」(45)、「このところよろづの事を説き聞かす/神 一条で胸の内より」(46)とある。つまり、親神の守護などの「よろづの事」を「胸の内よ り」聞いているということが、「たすけ」や「たすかる」上で重要であることが示唆されて いる。加見兵四郎の歩みは、「おふでさき」44から47のお歌の好例であるといえよう。
本研究会は「二〇二一年度天理大学学術・研究・教育活動助成」を受けてなされたが、 同じ助成の研究成果として『天理教関係古文書テキスト① 加見兵四郎・日本古記』が作 45 おわりに さて、以上「たすかる」という事態に着目しながら、「おふでさき」と教祖のひながたや 先人の歩みを参考につつ「人だすけ」のあり方について考えてきた。「いかに記されている のか」という視点から見ると、「おふでさき」には「たすける/たすかる」という一対の自 他動詞があることが分かる。中動態論を参照すれば、「たすける」とは主体がその働きの外 にあるようなときの表現であり、「たすかる」とは主体がその過程の中にあるような事態と いえる。そうした観点から三号 47「人たすけたら、我が身たすかる」とその前後の歌を見 ると、「人だすけ」においては、相手と共にいかにして「たすけ」という出来事の中に入っ ていく(「たすかる」)かが重要であることが分かる。とくに、44 の「このたびはたすけ一 条にかかるのも、我が身のためしかかりたる上」は、「人だすけ」において、まず自分自身 で我が身が「たすかる」ことをためすことの必要性が示されていると解することができる。 その上で、教祖のひながたや、加見兵四郎、山田こいそなどの先人の歩みを参考にすれば、 「ためし」とは親神の守護に一身にもたれきる態度への「ためし」であると考えられる。そ して、そのプロセスは「おふでさき」三号44~47にも示されているように、一般的な意味 での「拝み祈祷」や「伺い」によってではなく、「十全の守護」「元初まりの話」などの親神 の守護に関する諭しを受けながら「よろづの事」を胸に治める道中であり、実践的には「お ぢばがえり」や「をびや許し」、我が身や我が家の都合を離れた「人だすけ」によって果た されるものと考えられる。 最後に、『稿本天理教教祖傳』第三章の次の箇所を引いておく(傍線は筆者)。 一列人間を救けたいとの親心から、自ら歩んで救かる道のひながたを示し、物を施して 執着を去れば、心に明るさが生れ、心に明るさが生れると、自ら陽氣ぐらしへの道が開 ける、と教えられた。この箇所を注意深く読むと、教祖のひながたは、「たすける」道ではなく、「たすかる」道 と自動詞的に表現されていることが分かる。教祖伝の記述の仕方として、そのような表現が どの程度意図的に採用されたのかは分からない。しかし、「たすける/たすけられる」では 捉え切れない「たすかる」という事態が、人たすけの道としての教祖のひながたを辿る上で 手がかりになることが示唆されている。「教祖はいかにしてたすかったのか」という視点が ひながたを見つめる上でも重要であろう。親神の守護に一心にもたれて「たすかる」という 態度は、今日の信仰実践においても改めて考えるべきことではないだろうか。 成された。そのテキストによって加見兵四郎が聞いていたであろう十全の守護や元初まり のお話の一端にふれられることは、本稿で取り上げた「たすかる」という点からも意義深 いことといえる。
 あとがき

 2021 年 12 月 11 日、天理大学にて、宗教学科が主催する研究会が「原典-教えの豊かさを汲み取るために-」というタイトルのもとに行われた。東京から渡辺優氏(東京大学准教授)がオンラインで講演し、宗教学科からは澤井治郎氏・深谷耕治氏の二名が登壇した。そ れぞれの発表のあとには、一般の参加者も含め、積極的な意見交換が行われた。今後の天理 教学の新たな展開を見据えるうえで、非常に意義深い研究会になったと私自身は感じているが、参加者、あるいは本冊子の読者の反応はさまざまだろう。まさにそこにこそ、天理教 学の「学」たる所以があり、また意義がある。天理教学は、それが「学」を自認する限り、さまざまな意見が交わされる言論のプラット フォームでなければならない。そしてその大枠は、漠然としたかたちであれ、「天理教」の 含意についての基本的合意によって規定されていなければならない。この論点自体は特に 「信仰」主義的な立場(「教内 、 」)に立たずとも、言語哲学的にも知識社会学的にも妥当なも のだろう。こうした視点からすれば、今回の研究会では、或る興味深い論点が浮かび上がっ たように思う。それは、テーマとなった原典の解釈をめぐるものではなく、むしろ天理教学 それ自体の性格をめぐる意見交換から浮上した。具体的に言えば、天理教を「啓示宗教」と して見るか、あるいは「民衆宗教」として捉える可能性を探るか、という見解の相違である。
 戦後の「復元」期以降の天理教学の流れは、「啓示宗教」としての天理教という自己規定のもとにあった。そこでの「天理教」の基本的了解は、二代真柱によって裁定された「教義」を基盤としたものであった。だが、とりわけその歴史性をめぐる探求において、天理教学はまた「民衆宗教」論的な眼差しから完全に自由になったわけでもなかった。むしろ、天理教学が「啓示宗教」論を基底にするためには、「民衆宗教」論的な視点を常にその“外部”として意識せざるを得ないという、いわば無自覚的な緊張を孕むものであった。その意味で「啓示宗教」論/「民衆宗教」論の構図は、潜在的にではあれ、戦後の天理教学の根底を貫く力学として作用していたのである。(敷衍すれば、これは天理教学のみならず、あらゆる神学的思考の形式的・論理的課題でもある。) おそらく今回の研究会の最大の収穫は、こうした緊張関係を改めて顕在化 (回帰?)させたという点にこそある。教祖の“歴史性”に照準し、逆にその教えの豊穣さに光を当てようと する「民衆宗教」論的天理教学の挑戦は、「啓示宗教としての天理教」という従来の天理教学的自己規定に果敢な揺さぶりをかける。天理教学はこれまで、教祖の言葉がその歴史性− あるいは「生の座」による規定性−を被りつつも、その限定性を超克し、自らの普遍性を開 示するものと理解してきた。これが「教義」の裁定以降の「啓示宗教」論的天理教学の基本 路線である。だが、それは一方で、教祖の教え(言葉)の歴史性や民俗性が蔵する思想的可 能性を削ぎ落とすという、大きな対価を払った結果の到達であり、それを今一度「汲み取る」というのが、「民衆宗教」論的天理教学の試みであろう。 「啓示宗教」論からすれば、「啓示」の真理性/絶対性の主張を重視しない「民衆宗教」 論は、もとより教学としての資格を欠いたものに映る。実際に後者においては、教祖の絶対 性(あるいは「代替不可能性」)や教えの真理性といった論点を、そもそも問いとして掲げることが−論理的に−できない 、、、、 。なぜなら「民衆」概念や「教祖」概念そのものが、代替可能 、、 、、 性という性格を自らの内部に不可避的に含んでいるからである。したがってこの立場では、 なぜこの 教祖でなければならないのか、なぜこの 道/信仰でなければならないのかという 問い自体が、それらの鍵概念の中で霧消してしまうのだ。だが、哲学的あるいは社会学的観 点から見れば、「天理教」という概念もまた差異化的に構成される のであり、それを「お道」 と呼び替えてみたところで−「学」的な−問題の本質に変わりはない。そこで主題となるべき なのは、この 教祖による、この 道に他ならない からである。
では、一方の「啓示宗教」論的な立場は、こうした「代替不可能性」問題に対し、十分な 回答を用意していたのか?「啓示宗教」という概念は、「啓示」概念によって当の立場の真 理性/代替不可能性要求を担保する一方で、「宗教」概念によって自らの相対性を受け入れ ている。実際に天理教学でも、天理教の教義がキリスト教や仏教のそれに伍すべきもの として−論理的に−並置 される 。つまりそこでは、「啓示」概念によって保障されたはずの真理性 /代替不可能性要求が、すぐさま「宗教」概念によって“宙吊り”にされているのだ。「啓示宗教」概念が持つこの内的緊張は、日本においては明治憲法体制におけるカッコ付きの「信教の自由」の容認以降、より正確には、戦後の日本国憲法体制によって自明化されるに至っ た。「啓示宗教」論的天理教学もまた、こうした戦後日本の法的条件と言論空間の出来によって初めて可能となったのである。(敷衍すれば、こうした内的緊張は、「教義」概念にも「信仰」概念にも当てはまる。) 以上のような視点からすれば、「啓示宗教」論的天理教学も、「民衆宗教」論的天理教学も 共に、教祖の「代替不可能性」問題に関しては、実は同じ土俵にあるようにも見えてくる。 むしろ、より正確には、それが言語で表現される以上、「学 、、、、 」的な水準 での真理性/代替不 可能性の主張そのものが、本来的な困難を抱えていたと言うべきなのかも知れない。こうした見方に立てば、「教義」の裁定者としての二代真柱の一種の「決断」主義的な立場も、従来とは異なった相貌で立ち現れてくるのではないだろうか。自戒を込めて言えば、これまで 天理教学者の自己主張を支えてきた「信仰」主義にしても、そうした「決断」の契機をその暗黙の基底としているのである。 もっとも、今日、「学」の成立要件などさまざまにあり得るとも言えよう。であればこそなおのこと、「学」のニュアンスをより柔軟に、より開かれたものとして表象することも可 能なはずである。その場合、「天理教」の自己理解をめぐる問いも、あらたな水準にもたら されることになろう。そこでは、教学的な解釈と信仰的なさとりは、手続的な程度の差に過 ぎないものとなり、「天理教学 、 、、、 」は「信仰のかたり 、、、、 」として、新たな装いを纏ってわれわれ の前に現れるかも知れない。





(私論.私見)