| 【貧に落ちきれ財物不執心論考】 |
| 「貧に落ち切れ」その他参照。 |
| 稿本天理教教祖伝の「第三章みちすがら」の冒頭(P23)、「月日のやしろとなられた教祖は、親神の思召のまに/\、『貧に落ち切れ』と、 急込まれると共に、嫁入りの時の荷物を初め、食物、着物、金銭に至るまで、次々と、困って居る人々に施された」と書かれている。この教理が、稿本天理教教祖伝逸話編4「一粒万倍にして返す」(『貧に落ち切れ。貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。水でも落ち切れば上がるようなも
のである。一粒万倍にして返す』)、同30「一粒万倍」(「教祖は、ある時一粒の籾種を持って、飯降伊蔵に向かい、『人間は、これやで。一粒の真実を蒔いたら、
一年経てば二百粒から三百粒になる。二年目には、何万という数になる。これを、一粒万倍と言うのやで。三年目には、大和一国 に蒔く程になるで』と、仰せられた」)の教えと連携して、教団への献金を促す教理の根拠となっている。これを検証する。 |
天理教の宗教二世で貧苦の中で青春時代を過ごした作家、芹沢光治良が、娘を売って本部に献金する事例を、「人間の運命/第一部第二巻、友情」(P118)の中で次のように記している。
| 「……親のために、あたしは吉原へ売られたのにね。おせんが病気で家へ帰って、一昼夜で息をひきとってよかったと、おせんのた めに喜んでいます。十日も二十日も看病したら、迷惑がって、海へでもすてに行きたい、と思ったでしょうからね。そのおせんも、
親のために売られた娘なのに……次郎さんでなくて、教会の会長さんだったら、本気に言ってやりたいことがあったのよ……あた したちを売ったお金の大部分は、天理教の本部の普請のために、会長さんにわたしたそうですもの。本部の普請に献金すれば、一粒千倍に
なってもどって来る、幸福の種をまくようなもので、あたし達もしあわせになるからといって、会長さんは無理に出させたようです けれど……しあわせになるどころか、おせんはあんな風にして死んだわね。吉原で苦労しなかったと、人様の前ではいったけれど、
涙で枕をぬらしたことが幾度あったか知れないわ……だから、会長さんに詰問したかったのよ、ほんとうに神さんがあるのかって。 娘が身を売った金まで献金させて、本部の普請をしてでんとしているような神さんなんて、真面目におがめるかって、ね」。 |
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「貧に落ち切れ」教理の由来考
「貧に落ち切れ」教理の由来は、公開されている最初の教祖伝である明治16年の「神之最初之由来」(備考/明心組梅谷四郎兵衛より和光寺尼宮へ提出せるもの)(復元31号P7)の次の記述を初見とする。本文は梅谷本によ
り印刷した。最初にできた教祖伝で、これが相当広く信者間に伝写されていたものの様である。梅谷四郎兵衛が筆者であるや否や未詳である。(復元31号P2、昭和32年5
月22日正善識)
| これ最初なる親である故になお元の道具をつこふた魂をこの屋敷へ産み出したるもの。それを天より見澄まし、天下りたること。然る上は神のままなり、神の言う通りすると良いとお聞かせし模様ハ、この上もなき貧に落し切るといふよふなる神名をば、何でもかんでも退らさんと内々申し及ばず親類までも日夜不限よりよふて彼これと談示合うている折柄、藤堂和泉守の役人同郡別所村萩村、同郡福住村勝田様も罷り越し候へども、神を退かさんといろいろ責めて手に手を尽せども中々退き申さず、如何様にしても我は国ならん退く神でなしまま、みきハ皆の者に数度責められによりて井戸溜池様へ向かいて我が身を投げんと近まへ立ち寄らんとすれば足祈らず故に後戻りして、また親類はこのような神を祈ることならハ付き合いせずと申し候得ども、神の折々夢中にて神の下り給うて家財を人々に施せとし御話しなす。然る後には三千大千世界を珍しい助けをさせるとの御話しあれども、内々の者無理して神の仰せに随(したが)い然るといへども、親類は付き合いせずと相成るとも神は退らず。余儀なくして内には神の仰せし通り。相当の百姓でありしところ、なおも神に随ひ建物及び家財残らず、十ケ年の間に人々に施してさんざいを無理して難渋致し居るに誰が言うともなく自然と人々が頼みに参り何にても願いの通り、天倫王命と拝するならハ助かる。我が身にても知らぬことなり。天倫王命と名をつけ給うハ右みきの心を天理にかのふたるゆへに人間には神名を付ける事能わず故に屋敷の地名に授け給い、この度の助けゆうハこれまで人間に教へたるとも同じない助け、この世の心実を教へ助けするにそれ知らずしてこの度、天倫王命とゆう神ハないものと*しと*人間を宿し込みたる地場の証拠に建て置き甘露台を取り払い、その上万(よろづ)助けの勤めを差し止めらる事、これ第一神の残念ハ容易なることでなしとの御話しある。何でもこの返しとせずハいられんとの御話し度々なす。 |
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明治24年の「天理教會由来略記」(橋本清作とされる教祖伝)には、「十数年間にして、悉く財産を貧困の人に投じ、遂に世の困苦の限りを身に試み」とある。この「略記」には、引用部分の前に立教までの教祖の行動が書かれており、夫に外妾がいたこと、夜盗を
助けた話、足達照乃丞を自分の子の命に代えて助けたことなどが書かれている。稿本天理教教祖伝が伝える「第二章、生い立ち」の原形になっている。次のように記述されている。
| 前略 天保九年、教祖四拾壱歳の時、十月甘六日夜、神憑り告げて曰く、天汝の慈悲心深を愛し、汝に憑て以て神教を布き、世道人心を 済はんとす、汝曾て信奉する所の神あり、今より天理王命と唱へて、神の教を奉ずべしと。教祖は爾来神教を奉じて、背戻せず。 神教を伝へて、怠らず。十数年間にして、悉く財産を貧困の人に投じ、遂に世の困苦の限りを身に試み、而して後、信仰の徒、除々に出で来れり。 嘉永六年、教祖五拾六歳の時、弐月甘弐日、夫善兵衛氏六十六歳にして死す。これより教説一層進めり。慶応三年、教祖七十歳の時、十二下り神楽歌を草し給ふ。而して、嘉永六年後、今年に至るの間、神官、僧侶或ハ山伏の如きもの、時に来りて、質問を試み、或ハ躁暴の状を呈せしことも、間々ありたりと云ふ。然れども、教を奉ずるの徒、日に増し、月に 加ハるを以て、此年、教祖の長男秀司氏、京都なる吉田殿に願ひ出で、左の辞令を受けられたり。 |
復元6号P84、「山澤為次氏の註」は次のように記している。
| 此書(「最初之由来」のこと)ハ明治十九年十二月、本部設立準備運動ノ為上京シタル今ノ本部員鴻田、清水、諸井、増野の四 氏、神道本局へ差出サンが為、東京木挽町ナル某族館ノ楼上に於テ、嘗テ承リシ教理ノ手記ラ取出シ、互ニ誤無キヲ質シテ転録セ
ラレタルモノナリトゾ。本局ニハ今尚保存セルヤ否ヤ 附録セル天理教會由来略記ハ、明治廿四年郡衛ヨリノ請求ニ応ジ、本部ヨリ差出シタルモノヽ写シナリ。草稿者ハ時ノ本部理事橋
本清氏ナリ/明治三十年夏諸井政一謹写 とある。 |
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明治30年頃、 諸井政一「正文遺韻」 (昭和12年、山名大教会から出版された)。
御施与
さて、御教祖様は、かくまで御苦しみ遊ばしまして、御決心なされましたと雖も、素より御身は、御自分の自由勝手にはなりませぬ。神様の御屋代でござりますから、神様が御許被下ませぬから、遂に御身をすてる事はかなひませんで、申上げま
した通り、六度までも御とげなさる事はできなんだものですから、いよ/\神様の御自由の、有難くも、恐ろしき事を御感じ被遊まして、それから御心を一層かたく被遊て、もう親類の責むる位の事は、御心の苦とはあそばされず、ます/\施しをなされまして、
遂には、親類でもあいそをつかして、近づかんやうになりましたのでござります。その施し被遊ました次第を申せば、口口口(※昭和12年版「ひにん」)や、こじきの、もらひにくるものばかりでは、はかどりませぬから、なんじふものゝ処へは、もっていて施してやり、或は道ばたへきるゐなどをおとしておいて、人がひらふて『かういふもの
がおちてをりますが、おうちのものでござりませう』といふと、『いゝえ、うちのものではござりません』と、おっしゃって、そしらぬかほをしてござる。或は『それは、あなたにさづかったのでござりませうから、御もちなされませ』といって、もっていく事をすゝめておやりなさる。/さういふわけですから、びんぼふにんなどは、よろこんでひろってゆきます。又□□□や、こじきは、いくらもきゝつたへて、日々貰ひにまゐります。さうして、だんだんと施しなされまして、もう米やおかねや、きるゐなどは、すっかりないやうにおなりなされまして、それからぼつ/\倉のものをだしては、続いてほどこしになります。倉は三戸前おありなされて、御教祖様が御丹精で、御織り被遊た木綿の反物が、ながもちに幾はいといふ程おありなされまして、はたははたで、一倉一ぱいつめてある。又道具倉には、諸道具が沢山つんである。庄屋をも御つとめなされた御家柄でござりますから、随分かねめの御道具も沢山おありなされたのでござります。それを、みんな、買手のつける丈のねに何ぼ安うても、そんな事には御とんちゃくなく、どん/\御拂ひになりまして、御施しになります。それから、もうこれといふものも、ないやうになりまして
から、神様は安市をして拂ふてしまへと仰せられましたから、そこで安市をして、さもないものまで拂て、あらひざらひ掃除して、倉はからっぽになってしまひました。/もう此上は田地に手をつけねば、外に物はないといふやうになりました。是までが神がか
りから十六年でござります。註道具市には、米をもたき出して、さあ、たべて被下といふ様にして、施しなされましたと。 (増井りん様に承る) |
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| 明治31年、「稿本教祖様御伝」(復元33号)。「其後モ刻限〇ニテ 貧乏セヨ ドント落チ込メ 水ニタトフレバ水下ニ落チテモ亦上ガルモノナリ・・・」とあり、次に
「落ちきれバ一粒万倍にして」とある。書かれた時期は、「正文遺韻」と同じ頃と思われる。 |
明治33年、宇田川文海「天理教教祖御略伝」。宇田川文海は明治33年頃に一派独立のためには「みちのとも」も改良の必要があるとのことから「みちのとも」編集のために招かれた大阪朝日新聞記者。第101号(明治33年5月)を期して紙面刷新をはかった。この教祖伝はそれ以前の教祖伝の記述をもとに脚色されたものと思われる。文久3年暮れ、教祖66歳の時、飯田岩治郎のことで安堵村に出かけて、翌年の元治元年には小寒名義の裁許状取得のため数両のお金を用立てている。「三度の食事にも事を欠く」ような状況ではない。同書には次のように記されている。
| 教祖は平素より慈悲心の深くおはせしが、頃来に至りて「自ら貧窮に陥入らねバ、真個の艱難の味を知る事能ハず、 真個の艱難の味を知らねバ、爭(いか)で他の艱難を救ハる可き」といふ神の親しき諭示(おふせ)を受けて、其慈悲心一層
廣大になりたまひ、孜々(しし)として他の貧苦艱難を救助するに勤められ、最初に其身御入嫁の時持来られし、 五荷の荷物を施しつくされ、漸次に中山家の資財をも人に施(ほどこし)与(あた)ヘられけり
教祖は単に物を施して人の肉体の貧しきを救はるるのみなず、かりものゝ理、ほこりの理等、則ち助けの教、救 ひの道を説て.併せて人の霊魂の悩めるをも助けんとしたまひけり(「天理教教祖御略伝」宇田川文海『復元35
号』P32) |
| 座して暮らせば山も空しと云ふ世の諺もあんなるに、増してや慾を捨迷を去るを旨としたまふ、至仁博愛の御心 よりして、日夜施与(ほどこし)をのみ専としたまひしかば、教祖が御年六十六歳になりたまふ頃には、左しも素 封家の聞えありし中山家の家も、先祖伝来の許多(あまた)の田地は他手に渡され、家屋資財は売却なされ、今は 詹石(すこし)の儲とてもあらぬ果敢無き状況に陷入り、炭薪は云ふも更なり、三度の食事にも事を欠くことあり、 燈を点すに油なければ、月影を便りにして、糸を紡ぎ裁縫(たちぬい)を為されしことさへありぬ。 (「天理教教祖御略伝」宇田川文海『復元35号』P38) |
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明治35年、中西牛郎「教祖御伝記」。中西牛郎は、一派独立のための文書作成を目的に明治33年に天理教に招かれた人で、数年で天理教から離れている。「神の実現としての天理教」は昭和4年に書かれ平凡社から出版されている。金子圭助「中西牛郎の天理教学研究」(天理大学学報102号、P23.1976)は、中西牛郎の人となりを次のように記している。
中西牛郎「教祖御伝記」は次のように記している。原文は十二行罫紙表裏 両面書き、総数51枚綴のものである。(復元36号P2の解説)
| 教祖は大慈愛心の権化なり此御慈愛は神に対してハ大信仰となりて現はれ人類に対しては救済となりて現はる。御神憑後の教祖は一切を以て之を人に施し玉ひぬ而して其御施与は白昼的の御施与でなく暗夜的の御施与なりしなり。(「教祖御伝記」中西牛郎.『復元36号』P49) |
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明治36年、「松永好松遺稿集」。松永好松(1860~1912)は明治10(1877)年入信、 大阪を中心に布教。明治26年高安部内南出張 所会長となる。その後、九州で布教、東京に
は教弟を派遣し、明治31年には東本布教所(中 川よし)が設立された。松永好松がこの教祖伝を書いたのは明治36年。すでに何冊かの教祖伝が存在し
それを参考に書いたと思われる。
| 月日の神の仰意には「人をたすけるに何不自由なくして暮していては、難儀の者をたすける意味が分がらんから、難儀の上の難渋に落しきる」と仰せ給いしゆえに、神の教えに従い、教祖御自分嫁入りの御持参の荷物をはじめとして、人に施し、家、倉、田地諸道具に到るまで、買う者につき買うに売却して、人をたすけ給いければ、夫善兵衛氏は次第に案じを抱いて、この者の言葉に従っていては、今にわれ共々難儀の末、乞食になるより外なし、と思われて、今にこの妻を殺害するより外なしと、ある夏の事にして、教祖蚊屋の中にお休み遊ばす所へ、一刀の剣を携えて寝打ちをしようと忍び足にて寝所に忍び入られれば、教祖様は神のやしろゆえに
……。(「松永好松遺稿参考書」P30、南大教会編.1993) |
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明治40年頃、中山新治郎「教祖様御伝」。復元33号。
| 神の降臨より1年後のこととして「神様の仰ニハ貧ニ落ちきれ。貧ニ落ち切らねバ難儀なるものの味が分からん。水でも落ちきれバ上がる様な物である一粒万倍にして・・・」とある。水のたとえ、「一粒万倍」は逸話編にも出ている。 |
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大正9年、奥谷文智「天理教祖伝講話」。奥谷文智(おくやふみとも.1883~1974)は天理教加納分教会長で道友社の記者。「因縁の理を切らせ」など、大
正期以降の教理が入っています。
| 扨(さ)て、天啓の最初に於て神が教祖にお命じになったのは、『世界助の為め、谷底に落ちきれ』と云ふことでありました。ソコで教祖は此の天啓に基いて、益々慈悲の心を高められ、貧のドン底に落ち切り、難儀の中の難儀の道を通らねば真実難儀の味が分からぬ、真実難儀の道が分からねば、思遣りが出来ぬ。又、広い世界には難儀な道、不自由な道を通って居る者が沢山ある。其の者に真に堪納をさせて、因縁の理を切らせ、それを結構な道へ導くには教の親たるものより、其の難儀苦労の道を通って置かぬことには、真実堪納の心を備へて満足させ、日々心勇んで通らすと云ふ譯には行かぬと云ふ御心を定めら
れ、先づ其の御手初めに、御腰入れの時に前川家から御持参の五荷の荷物を解 きほどいて、難儀苦労をして居る者にお恵み遊ばしました。それも陰徳をお積
みになる御趣意でありますから、恵んだ人から謝礼の言葉を受けないやうに御注意なされ、向ふから困った者が通りかゝれば、其の道筋へ衣物なり、食物なりを捨てた様に見せ掛けて置いて、無言で持って行くやうに仕向け、若し
『これはお宅のでは御座いませんか』と態々(わざわざ)家の中迄持って来るものがあれば、『それは宅のではない、貴方がお拾ひになったのならば、貴方に天のお与へがあったのでせうから、遠慮なく御持ち帰りなさい』と云った様な調子でドシ/\施しをなされる。 |
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1949(昭和24)年、天理教教会本部「天理教教典」P46.1949。
| 天保九年十月二十六日、齢四十一歳を以て、 月日のやしろと召されてからは、貧に落ち切れ、との思召のままに、貧しい者への施しにその家財を傾けて、赤貧のどん底へ落ち切る道を急がれた。この行は、家人や親戚知人に、理解され難く、厳しい忠告や激しい反対のうちに、十数年の歳月を重ねられた。かかるうちに、夫は出直し、一家は愈々どん底へと向つたが、この大節のさなかに、一身一家の都合を超えて、同年、末女こかんを大阪に遣し、天理王命の神名を流された。
このように、常人の及ばぬ信念は、却って人々の冷笑を呼び、離反を招いて、遂には、訪ねる者もなく、親子三人で 食べるに米のない日々を過された。父なき後、一家の戸主とたった秀司は、青物や柴の商によって、日々の生計をはかった。しかも、教祖は、かかる中にも、人の難儀を見ては、やっと手にした米を、何の惜気もなく施された。
或る年の秋祭の日に、村の娘たちが、今日を晴れと着飾って、嬉々としているのに、娘盛のこかんは、晴着はおろか 着更さえもなくて、半分壊れた土塀のかげから、道行く渡御を眺めていたこともある。又、夏になっても吊るに蚊帳なく、冬は冬とて吹きさらしのあばら屋に、あちらの枝を折りくべ、こちらの枯葉をかき寄せては、辛うじて暖をとり、
点す油にこと欠く夜は、月の明りを頼りに、糸つむぎなどして過されたこともある。十年に亙る長い年月の間、かかる窮迫の中にも、教祖は、常に明るい希望と喜びとをもって、陽気ぐらしへの道を説かれた。そして、時には、水と漬物ばかりで過されながら、「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんというて、苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」と、子達を励まされた。月日のやしろとなられてから、このようにして二十余年を過されたが、やがて、をびや許しによって示された珍しい
たすけが、道あけとなり、教祖を生神様として慕い寄る者が、近郷一帯にあらわれた 。 |
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昭和31(1956)年、天理教教会本部 『稿本天理教教祖伝』 。
月日のやしろとなられた教祖は、親神の思召のまに/\、 「 貧に落ち切れ」と、急込まれると共に、嫁入りの時の荷 物を初め、食物、着物、金銭に至るまで、次々と、困って居る人々に施された。
世間の嘲りは次第に激しくなったが、その反面、近在の貧しい人々は、教祖の慈悲に浴しようと慕い寄った。教祖は、 「この家へやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん。親のたあには、世界中の人間は皆子供である」と、子供可愛い一条の思召から、ます/\涯しなく施し続けられたので、遂には、どの倉もこの倉もすっきりと空になって了った
家財道具に至るまで施し尽されて後、或る日の刻限話に、 「この家形取り払え」と、仰せられた。或る日のこと、突如として、 「明日は、家の高塀を取り払え
。 こうして、 。」啓示があった。親族も友人も、そんな無法な事。と言っ て強く反対したが、親神はどうしても聞き容れなさらず、この双方の間にたって、善兵衛の立場の苦しさは察するに余りあった。
親神の思召に従えば、親族や友人の親切を無にせねばならず、さりとて、思召に従わねば教祖の身上は迫るし、その苦しまれる有様を見るに忍びないので、遂に意を決して親神の急込みに従い、高塀を取り払うた。かねて、買手を捜して居られた中山家の母屋も
、望む人があって、いよ/\売られる事となった。母屋取り毀ちの時、教祖は、「これから、世界のふしんに掛る。祝うて下され」と、仰せられながら、いそ/\と、人夫達に酒肴を出された。人々は、
このような陽気な家毀ちは初めてや。と、言い合った。(註二)P34 註二 「この道始め家の毀ち初めや。やれ目出度い/\と言うて、酒肴を出して内に祝うた事を思てみよ。変わりた話や/\。さあ/\そう
いう処から、今日まで始め来た/\。世界では長者でも今日から不自由の日もある。何でもない処から大きい成る日がある。家の毀ち初めか ら、今日の日に成ったる程と、聞き分けてくれにゃなろまい」(明治33.10.31)。
安政二年の頃には、残った最後の三町歩余りの田地を 、悉く同村の安達重助へ年切質に書き入れなされた。教祖の五十六歳から凡そ十年の間は、まことに容易ならぬみちすがらであった。・・・・・・「どれ位つまらんとても、つ
まらんと言うな。乞食はさゝぬ」と、励まされたので、子達も、崩折れ勝ちな心を振り起して、教祖に従うた。このよ うに生計が苦しい時でも、その中から、食をさき着物を脱いで、困って居る者に與えられるのが常であった。漸くの思いで手に
入れた五合の米を、偶々門口に立って食を乞う者に、何の惜気もなく與えられたのも、寒さにふるえて居る者を見てる絆纏を脱いで與えられた 、身につけて居のも、この頃である。・・・・・・こうして尚数年の間、甚だしい難渋の中を通られるうちに、初めて、四合の米を持ってお礼参りに来る人もできた。 |
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