貧に落ちきれ財物不執心論

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.7日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、お道教理の「貧に落ちきれ財物不執心論」教理を確認しておく。

 2003.7.23日 れんだいこ拝


【貧に落ちきれ財物不執心論】
 お道教義では、

 御神楽歌、お筆先では次のように諭されている。

 教祖は次のようにお諭し為されている。

 お指図では次のように御言葉されている。

【貧に落ちきれ財物不執心論考】
 「貧に落ち切れ」その他参照。
 稿本天理教教祖伝の「第三章みちすがら」の冒頭(P23)、「月日のやしろとなられた教祖は、親神の思召のまに/\、『貧に落ち切れ』と、 急込まれると共に、嫁入りの時の荷物を初め、食物、着物、金銭に至るまで、次々と、困って居る人々に施された」と書かれている。この教理が、稿本天理教教祖伝逸話編4「一粒万倍にして返す」(『貧に落ち切れ。貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。水でも落ち切れば上がるようなも のである。一粒万倍にして返す』)、同30「一粒万倍」(「教祖は、ある時一粒の籾種を持って、飯降伊蔵に向かい、『人間は、これやで。一粒の真実を蒔いたら、 一年経てば二百粒から三百粒になる。二年目には、何万という数になる。これを、一粒万倍と言うのやで。三年目には、大和一国 に蒔く程になるで』と、仰せられた」)の教えと連携して、教団への献金を促す教理の根拠となっている。これを検証する。
 天理教の宗教二世で貧苦の中で青春時代を過ごした作家、芹沢光治良が、娘を売って本部に献金する事例を、「人間の運命/第一部第二巻、友情」(P118)の中で次のように記している。
 「……親のために、あたしは吉原へ売られたのにね。おせんが病気で家へ帰って、一昼夜で息をひきとってよかったと、おせんのた めに喜んでいます。十日も二十日も看病したら、迷惑がって、海へでもすてに行きたい、と思ったでしょうからね。そのおせんも、 親のために売られた娘なのに……次郎さんでなくて、教会の会長さんだったら、本気に言ってやりたいことがあったのよ……あた したちを売ったお金の大部分は、天理教の本部の普請のために、会長さんにわたしたそうですもの。本部の普請に献金すれば、一粒千倍に なってもどって来る、幸福の種をまくようなもので、あたし達もしあわせになるからといって、会長さんは無理に出させたようです けれど……しあわせになるどころか、おせんはあんな風にして死んだわね。吉原で苦労しなかったと、人様の前ではいったけれど、 涙で枕をぬらしたことが幾度あったか知れないわ……だから、会長さんに詰問したかったのよ、ほんとうに神さんがあるのかって。 娘が身を売った金まで献金させて、本部の普請をしてでんとしているような神さんなんて、真面目におがめるかって、ね」。
 「貧に落ち切れ」教理の由来考

 「貧に落ち切れ」教理の由来は、公開されている最初の教祖伝である明治16年の「神之最初之由来」(備考/明心組梅谷四郎兵衛より和光寺尼宮へ提出せるもの)(復元31号P7)の次の記述を初見とする。本文は梅谷本によ り印刷した。最初にできた教祖伝で、これが相当広く信者間に伝写されていたものの様である。梅谷四郎兵衛が筆者であるや否や未詳である。(復元31号P2、昭和32年5 月22日正善識)
 これ最初なる親である故になお元の道具をつこふた魂をこの屋敷へ産み出したるもの。それを天より見澄まし、天下りたること。然る上は神のままなり、神の言う通りすると良いとお聞かせし模様ハ、この上もなき貧に落し切るといふよふなる神名をば、何でもかんでも退らさんと内々申し及ばず親類までも日夜不限よりよふて彼これと談示合うている折柄、藤堂和泉守の役人同郡別所村萩村、同郡福住村勝田様も罷り越し候へども、神を退かさんといろいろ責めて手に手を尽せども中々退き申さず、如何様にしても我は国ならん退く神でなしまま、みきハ皆の者に数度責められによりて井戸溜池様へ向かいて我が身を投げんと近まへ立ち寄らんとすれば足祈らず故に後戻りして、また親類はこのような神を祈ることならハ付き合いせずと申し候得ども、神の折々夢中にて神の下り給うて家財を人々に施せとし御話しなす。然る後には三千大千世界を珍しい助けをさせるとの御話しあれども、内々の者無理して神の仰せに随(したが)い然るといへども、親類は付き合いせずと相成るとも神は退らず。余儀なくして内には神の仰せし通り。相当の百姓でありしところ、なおも神に随ひ建物及び家財残らず、十ケ年の間に人々に施してさんざいを無理して難渋致し居るに誰が言うともなく自然と人々が頼みに参り何にても願いの通り、天倫王命と拝するならハ助かる。我が身にても知らぬことなり。天倫王命と名をつけ給うハ右みきの心を天理にかのふたるゆへに人間には神名を付ける事能わず故に屋敷の地名に授け給い、この度の助けゆうハこれまで人間に教へたるとも同じない助け、この世の心実を教へ助けするにそれ知らずしてこの度、天倫王命とゆう神ハないものと*しと*人間を宿し込みたる地場の証拠に建て置き甘露台を取り払い、その上万(よろづ)助けの勤めを差し止めらる事、これ第一神の残念ハ容易なることでなしとの御話しある。何でもこの返しとせずハいられんとの御話し度々なす。
 明治24年の「天理教會由来略記」(橋本清作とされる教祖伝)には、「十数年間にして、悉く財産を貧困の人に投じ、遂に世の困苦の限りを身に試み」とある。この「略記」には、引用部分の前に立教までの教祖の行動が書かれており、夫に外妾がいたこと、夜盗を 助けた話、足達照乃丞を自分の子の命に代えて助けたことなどが書かれている。稿本天理教教祖伝が伝える「第二章、生い立ち」の原形になっている。次のように記述されている。
 前略 天保九年、教祖四拾壱歳の時、十月甘六日夜、神憑り告げて曰く、天汝の慈悲心深を愛し、汝に憑て以て神教を布き、世道人心を 済はんとす、汝曾て信奉する所の神あり、今より天理王命と唱へて、神の教を奉ずべしと。教祖は爾来神教を奉じて、背戻せず。 神教を伝へて、怠らず。十数年間にして、悉く財産を貧困の人に投じ、遂に世の困苦の限りを身に試み、而して後、信仰の徒、除々に出で来れり。 嘉永六年、教祖五拾六歳の時、弐月甘弐日、夫善兵衛氏六十六歳にして死す。これより教説一層進めり。慶応三年、教祖七十歳の時、十二下り神楽歌を草し給ふ。而して、嘉永六年後、今年に至るの間、神官、僧侶或ハ山伏の如きもの、時に来りて、質問を試み、或ハ躁暴の状を呈せしことも、間々ありたりと云ふ。然れども、教を奉ずるの徒、日に増し、月に 加ハるを以て、此年、教祖の長男秀司氏、京都なる吉田殿に願ひ出で、左の辞令を受けられたり。

 復元6号P84、「山澤為次氏の註」は次のように記している。
  此書(「最初之由来」のこと)ハ明治十九年十二月、本部設立準備運動ノ為上京シタル今ノ本部員鴻田、清水、諸井、増野の四 氏、神道本局へ差出サンが為、東京木挽町ナル某族館ノ楼上に於テ、嘗テ承リシ教理ノ手記ラ取出シ、互ニ誤無キヲ質シテ転録セ ラレタルモノナリトゾ。本局ニハ今尚保存セルヤ否ヤ 附録セル天理教會由来略記ハ、明治廿四年郡衛ヨリノ請求ニ応ジ、本部ヨリ差出シタルモノヽ写シナリ。草稿者ハ時ノ本部理事橋 本清氏ナリ/明治三十年夏諸井政一謹写 とある。
 明治30年頃、 諸井政一「正文遺韻」 (昭和12年、山名大教会から出版された)。
 御施与
 さて、御教祖様は、かくまで御苦しみ遊ばしまして、御決心なされましたと雖も、素より御身は、御自分の自由勝手にはなりませぬ。神様の御屋代でござりますから、神様が御許被下ませぬから、遂に御身をすてる事はかなひませんで、申上げま した通り、六度までも御とげなさる事はできなんだものですから、いよ/\神様の御自由の、有難くも、恐ろしき事を御感じ被遊まして、それから御心を一層かたく被遊て、もう親類の責むる位の事は、御心の苦とはあそばされず、ます/\施しをなされまして、 遂には、親類でもあいそをつかして、近づかんやうになりましたのでござります。その施し被遊ました次第を申せば、口口口(※昭和12年版「ひにん」)や、こじきの、もらひにくるものばかりでは、はかどりませぬから、なんじふものゝ処へは、もっていて施してやり、或は道ばたへきるゐなどをおとしておいて、人がひらふて『かういふもの がおちてをりますが、おうちのものでござりませう』といふと、『いゝえ、うちのものではござりません』と、おっしゃって、そしらぬかほをしてござる。或は『それは、あなたにさづかったのでござりませうから、御もちなされませ』といって、もっていく事をすゝめておやりなさる。/さういふわけですから、びんぼふにんなどは、よろこんでひろってゆきます。又□□□や、こじきは、いくらもきゝつたへて、日々貰ひにまゐります。さうして、だんだんと施しなされまして、もう米やおかねや、きるゐなどは、すっかりないやうにおなりなされまして、それからぼつ/\倉のものをだしては、続いてほどこしになります。倉は三戸前おありなされて、御教祖様が御丹精で、御織り被遊た木綿の反物が、ながもちに幾はいといふ程おありなされまして、はたははたで、一倉一ぱいつめてある。又道具倉には、諸道具が沢山つんである。庄屋をも御つとめなされた御家柄でござりますから、随分かねめの御道具も沢山おありなされたのでござります。それを、みんな、買手のつける丈のねに何ぼ安うても、そんな事には御とんちゃくなく、どん/\御拂ひになりまして、御施しになります。それから、もうこれといふものも、ないやうになりまして から、神様は安市をして拂ふてしまへと仰せられましたから、そこで安市をして、さもないものまで拂て、あらひざらひ掃除して、倉はからっぽになってしまひました。/もう此上は田地に手をつけねば、外に物はないといふやうになりました。是までが神がか りから十六年でござります。註道具市には、米をもたき出して、さあ、たべて被下といふ様にして、施しなされましたと。 (増井りん様に承る)
 明治31年、「稿本教祖様御伝」(復元33号)。「其後モ刻限〇ニテ 貧乏セヨ ドント落チ込メ 水ニタトフレバ水下ニ落チテモ亦上ガルモノナリ・・・」とあり、次に 「落ちきれバ一粒万倍にして」とある。書かれた時期は、「正文遺韻」と同じ頃と思われる。
 明治33年、宇田川文海「天理教教祖御略伝」。宇田川文海は明治33年頃に一派独立のためには「みちのとも」も改良の必要があるとのことから「みちのとも」編集のために招かれた大阪朝日新聞記者。第101号(明治33年5月)を期して紙面刷新をはかった。この教祖伝はそれ以前の教祖伝の記述をもとに脚色されたものと思われる。文久3年暮れ、教祖66歳の時、飯田岩治郎のことで安堵村に出かけて、翌年の元治元年には小寒名義の裁許状取得のため数両のお金を用立てている。「三度の食事にも事を欠く」ような状況ではない。同書には次のように記されている。
 教祖は平素より慈悲心の深くおはせしが、頃来に至りて「自ら貧窮に陥入らねバ、真個の艱難の味を知る事能ハず、 真個の艱難の味を知らねバ、爭(いか)で他の艱難を救ハる可き」といふ神の親しき諭示(おふせ)を受けて、其慈悲心一層 廣大になりたまひ、孜々(しし)として他の貧苦艱難を救助するに勤められ、最初に其身御入嫁の時持来られし、 五荷の荷物を施しつくされ、漸次に中山家の資財をも人に施(ほどこし)与(あた)ヘられけり 教祖は単に物を施して人の肉体の貧しきを救はるるのみなず、かりものゝ理、ほこりの理等、則ち助けの教、救 ひの道を説て.併せて人の霊魂の悩めるをも助けんとしたまひけり(「天理教教祖御略伝」宇田川文海『復元35 号』P32)
 座して暮らせば山も空しと云ふ世の諺もあんなるに、増してや慾を捨迷を去るを旨としたまふ、至仁博愛の御心 よりして、日夜施与(ほどこし)をのみ専としたまひしかば、教祖が御年六十六歳になりたまふ頃には、左しも素 封家の聞えありし中山家の家も、先祖伝来の許多(あまた)の田地は他手に渡され、家屋資財は売却なされ、今は 詹石(すこし)の儲とてもあらぬ果敢無き状況に陷入り、炭薪は云ふも更なり、三度の食事にも事を欠くことあり、 燈を点すに油なければ、月影を便りにして、糸を紡ぎ裁縫(たちぬい)を為されしことさへありぬ。 (「天理教教祖御略伝」宇田川文海『復元35号』P38)
 明治35年、中西牛郎「教祖御伝記」。中西牛郎は、一派独立のための文書作成を目的に明治33年に天理教に招かれた人で、数年で天理教から離れている。「神の実現としての天理教」は昭和4年に書かれ平凡社から出版されている。金子圭助「中西牛郎の天理教学研究」(天理大学学報102号、P23.1976)は、中西牛郎の人となりを次のように記している。

 中西牛郎「教祖御伝記」は次のように記している。原文は十二行罫紙表裏 両面書き、総数51枚綴のものである。(復元36号P2の解説)
 教祖は大慈愛心の権化なり此御慈愛は神に対してハ大信仰となりて現はれ人類に対しては救済となりて現はる。御神憑後の教祖は一切を以て之を人に施し玉ひぬ而して其御施与は白昼的の御施与でなく暗夜的の御施与なりしなり。(「教祖御伝記」中西牛郎.『復元36号』P49)
 明治36年、「松永好松遺稿集」。松永好松(1860~1912)は明治10(1877)年入信、 大阪を中心に布教。明治26年高安部内南出張 所会長となる。その後、九州で布教、東京に は教弟を派遣し、明治31年には東本布教所(中 川よし)が設立された。松永好松がこの教祖伝を書いたのは明治36年。すでに何冊かの教祖伝が存在し それを参考に書いたと思われる。
 月日の神の仰意には「人をたすけるに何不自由なくして暮していては、難儀の者をたすける意味が分がらんから、難儀の上の難渋に落しきる」と仰せ給いしゆえに、神の教えに従い、教祖御自分嫁入りの御持参の荷物をはじめとして、人に施し、家、倉、田地諸道具に到るまで、買う者につき買うに売却して、人をたすけ給いければ、夫善兵衛氏は次第に案じを抱いて、この者の言葉に従っていては、今にわれ共々難儀の末、乞食になるより外なし、と思われて、今にこの妻を殺害するより外なしと、ある夏の事にして、教祖蚊屋の中にお休み遊ばす所へ、一刀の剣を携えて寝打ちをしようと忍び足にて寝所に忍び入られれば、教祖様は神のやしろゆえに ……。(「松永好松遺稿参考書」P30、南大教会編.1993)
 明治40年頃、中山新治郎「教祖様御伝」。復元33号。
 神の降臨より1年後のこととして「神様の仰ニハ貧ニ落ちきれ。貧ニ落ち切らねバ難儀なるものの味が分からん。水でも落ちきれバ上がる様な物である一粒万倍にして・・・」とある。水のたとえ、「一粒万倍」は逸話編にも出ている。
 大正9年、奥谷文智「天理教祖伝講話」。奥谷文智(おくやふみとも.1883~1974)は天理教加納分教会長で道友社の記者。「因縁の理を切らせ」など、大 正期以降の教理が入っています。
 扨(さ)て、天啓の最初に於て神が教祖にお命じになったのは、『世界助の為め、谷底に落ちきれ』と云ふことでありました。ソコで教祖は此の天啓に基いて、益々慈悲の心を高められ、貧のドン底に落ち切り、難儀の中の難儀の道を通らねば真実難儀の味が分からぬ、真実難儀の道が分からねば、思遣りが出来ぬ。又、広い世界には難儀な道、不自由な道を通って居る者が沢山ある。其の者に真に堪納をさせて、因縁の理を切らせ、それを結構な道へ導くには教の親たるものより、其の難儀苦労の道を通って置かぬことには、真実堪納の心を備へて満足させ、日々心勇んで通らすと云ふ譯には行かぬと云ふ御心を定めら れ、先づ其の御手初めに、御腰入れの時に前川家から御持参の五荷の荷物を解 きほどいて、難儀苦労をして居る者にお恵み遊ばしました。それも陰徳をお積 みになる御趣意でありますから、恵んだ人から謝礼の言葉を受けないやうに御注意なされ、向ふから困った者が通りかゝれば、其の道筋へ衣物なり、食物なりを捨てた様に見せ掛けて置いて、無言で持って行くやうに仕向け、若し 『これはお宅のでは御座いませんか』と態々(わざわざ)家の中迄持って来るものがあれば、『それは宅のではない、貴方がお拾ひになったのならば、貴方に天のお与へがあったのでせうから、遠慮なく御持ち帰りなさい』と云った様な調子でドシ/\施しをなされる。
 1949(昭和24)年、天理教教会本部「天理教教典」P46.1949。
 天保九年十月二十六日、齢四十一歳を以て、 月日のやしろと召されてからは、貧に落ち切れ、との思召のままに、貧しい者への施しにその家財を傾けて、赤貧のどん底へ落ち切る道を急がれた。この行は、家人や親戚知人に、理解され難く、厳しい忠告や激しい反対のうちに、十数年の歳月を重ねられた。かかるうちに、夫は出直し、一家は愈々どん底へと向つたが、この大節のさなかに、一身一家の都合を超えて、同年、末女こかんを大阪に遣し、天理王命の神名を流された。 このように、常人の及ばぬ信念は、却って人々の冷笑を呼び、離反を招いて、遂には、訪ねる者もなく、親子三人で 食べるに米のない日々を過された。父なき後、一家の戸主とたった秀司は、青物や柴の商によって、日々の生計をはかった。しかも、教祖は、かかる中にも、人の難儀を見ては、やっと手にした米を、何の惜気もなく施された。 或る年の秋祭の日に、村の娘たちが、今日を晴れと着飾って、嬉々としているのに、娘盛のこかんは、晴着はおろか 着更さえもなくて、半分壊れた土塀のかげから、道行く渡御を眺めていたこともある。又、夏になっても吊るに蚊帳なく、冬は冬とて吹きさらしのあばら屋に、あちらの枝を折りくべ、こちらの枯葉をかき寄せては、辛うじて暖をとり、 点す油にこと欠く夜は、月の明りを頼りに、糸つむぎなどして過されたこともある。十年に亙る長い年月の間、かかる窮迫の中にも、教祖は、常に明るい希望と喜びとをもって、陽気ぐらしへの道を説かれた。そして、時には、水と漬物ばかりで過されながら、「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんというて、苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」と、子達を励まされた。月日のやしろとなられてから、このようにして二十余年を過されたが、やがて、をびや許しによって示された珍しい たすけが、道あけとなり、教祖を生神様として慕い寄る者が、近郷一帯にあらわれた 。
 昭和31(1956)年、天理教教会本部 『稿本天理教教祖伝』 。
 月日のやしろとなられた教祖は、親神の思召のまに/\、 「 貧に落ち切れ」と、急込まれると共に、嫁入りの時の荷 物を初め、食物、着物、金銭に至るまで、次々と、困って居る人々に施された。 世間の嘲りは次第に激しくなったが、その反面、近在の貧しい人々は、教祖の慈悲に浴しようと慕い寄った。教祖は、 「この家へやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん。親のたあには、世界中の人間は皆子供である」と、子供可愛い一条の思召から、ます/\涯しなく施し続けられたので、遂には、どの倉もこの倉もすっきりと空になって了った 家財道具に至るまで施し尽されて後、或る日の刻限話に、 「この家形取り払え」と、仰せられた。或る日のこと、突如として、 「明日は、家の高塀を取り払え 。 こうして、 。」啓示があった。親族も友人も、そんな無法な事。と言っ て強く反対したが、親神はどうしても聞き容れなさらず、この双方の間にたって、善兵衛の立場の苦しさは察するに余りあった。 親神の思召に従えば、親族や友人の親切を無にせねばならず、さりとて、思召に従わねば教祖の身上は迫るし、その苦しまれる有様を見るに忍びないので、遂に意を決して親神の急込みに従い、高塀を取り払うた。かねて、買手を捜して居られた中山家の母屋も 、望む人があって、いよ/\売られる事となった。母屋取り毀ちの時、教祖は、「これから、世界のふしんに掛る。祝うて下され」と、仰せられながら、いそ/\と、人夫達に酒肴を出された。人々は、 このような陽気な家毀ちは初めてや。と、言い合った。(註二)P34 註二 「この道始め家の毀ち初めや。やれ目出度い/\と言うて、酒肴を出して内に祝うた事を思てみよ。変わりた話や/\。さあ/\そう いう処から、今日まで始め来た/\。世界では長者でも今日から不自由の日もある。何でもない処から大きい成る日がある。家の毀ち初めか ら、今日の日に成ったる程と、聞き分けてくれにゃなろまい」(明治33.10.31)。

  安政二年の頃には、残った最後の三町歩余りの田地を 、悉く同村の安達重助へ年切質に書き入れなされた。教祖の五十六歳から凡そ十年の間は、まことに容易ならぬみちすがらであった。・・・・・・「どれ位つまらんとても、つ まらんと言うな。乞食はさゝぬ」と、励まされたので、子達も、崩折れ勝ちな心を振り起して、教祖に従うた。このよ うに生計が苦しい時でも、その中から、食をさき着物を脱いで、困って居る者に與えられるのが常であった。漸くの思いで手に 入れた五合の米を、偶々門口に立って食を乞う者に、何の惜気もなく與えられたのも、寒さにふるえて居る者を見てる絆纏を脱いで與えられた 、身につけて居のも、この頃である。・・・・・・こうして尚数年の間、甚だしい難渋の中を通られるうちに、初めて、四合の米を持ってお礼参りに来る人もできた。

 「天理教教祖の貧に落ちきれ財物不執心論」をどう解するべきかに関連して、立教後の中山家の経済状態、生活状態を正確にしておく必要がある。安政2(1856)年頃、中山家は3町歩の土地を持っていた。大和では土地持ちの部類に入る。その土地を失った後も3反は所有していた。当時の中山家の当主である秀司は足が悪かったので農作業ができず、「綿商仕并ニ米商致居候」とある。其の商いの失敗により土地を売らなければならなくなったとする説がある。「丹波市分署宛、手続上申書」は、この部分のみ『復元』に掲載され、その全文は公開されていない。なぜなのか、気になる。
 自分宅ハ廿五六ヶ年以前ハ素卜相富之百姓ニテ耕地モ三町程所有致居候所追々衰弊ニ及ビ、其末貳町餘り之耕地是アリ候處、夫亡中山秀治成ル者足痛ニシテ農業挊相営兼候ヨリ綿商仕并ニ米商致居候處微運ニシテ追々損失ヲ生シ候ニ付其尓来壹町六七反之地所内、質物ニ差入成シ年期附売却等致シ、三反餘リ之耕地ヲ残シ置聊生活ヲ相圖り貳三ヶ年休業罷在候處其後復タ残耕地ヲ抵当ニ差入該金ラ以商法資本金トシ再ヒ綿商法相営ミ候處商法上萬事利運二向イ (丹波市分署宛、手続上申書。明治十四年十月八日、中山マツエ、外四名) (天理教管長家古文書)復元30号239頁
 『ほんあづま367号』P26.八島英雄.1999)は次のように記している。
 稿本天理教教祖伝を読みますと、第三章道すがら、第一ページから「教祖は貧に落ち切れと教えられました」と書いてあ るのですが、貧に落ち切れなどと教祖が言った形跡がないのです。教祖は貧に落ち切れなどとおっしゃっていないのです。貧に落ち切れとおっしゃって、嫁入りの道具をはじめ蔵の中のものから、果ては家まで売って施されたと、第一ページに書いてあるのです。ところが、貧に落ち切れということが事実とあっているのだろうかと思って辿りましたら、違った結果が出てきました。教祖の嫁入りの道具が、当時はトラックで何台も運んだわけではないのです。布団を長特に入れて運ぶと大層な荷物だったのです。教祖が前川家から中山家へ嫁いで来た時の布団は、木綿のふとんかわで縞の布団で木綿の綿が入っておりました。ある所で、この話をしましたら、見て来たようなうそを言いと言ったような顔をされましたが、これを見ることができたのです。当時庶民が綿の入った布団に寝るなどということは中々できないことで、平生は藁布団に寝ていたのです。藁を打って藁の綿 を作り、それを木綿のふとんかわの布団として藁布団に寝ていたのです。江戸の町人もほとんどそうだったのです。中山家でも客布団として大事に保存されておりまして、教祖の三女きみさんが、櫟本の梶本に嫁入って、おはるさんと名前が 変わるのですが、その嫁入りの時に、この布団を持って梶本へ嫁いでいます。 梶本でもこれを大事に致しまして、平生は使わないでおたけさんという、おはるさんの娘、が同じ櫟本の吉川家に行く時に、この布団を持っていっております。そして最後は、教祖七十年祭の時おやさとやかたでこの布団が展示されております。見て来たような昔の話ではない、現在でも本部には現存しているのです。教祖の真実の姿や教えを隠して神道を続けようとする人達の都合で見せないのです。そういう風に嫁入りの道具というのは、当時、担いで来たのはわずかなのです。それがきちんと子供や孫に伝わっている。これは嫁入りの道具を処分したり、施していないということ です。

【貧に落ちきれ財物不執心論論評考】
 ヨーロッパ出張所長/永尾教昭「2006年10月大祭神殿講話」。
 ご承知のように、今年1月26日、おぢばでは教祖百二十年祭がつとめられました。そして、今年一年は年祭の年として、真柱様はおぢばを賑やかに、とおっしゃっています。おぢばを賑やかにするということは、大勢の観光客を連れていこうということでは、もちろんありません。一人でも多くの信者が帰らせて貰い、同時に未信者の人をお連れしようということです。つまり「おぢばを賑やかにする」ということは、布教を活発に行うということに他なりません。その真柱様の思いにお応えしようと、ここヨーロッパからも、大勢の信者がおぢばに帰っておられますし、また別席を運ばれた方も既に200人を越えております。それほど、教祖の年祭は天理教にとって大事な祭典です。何故、教祖の年祭がそれほど重要なのか、ということを考えてみたいと思います。言うまでもなく、天理教の教祖の年祭は、一般に行われる故人を偲ぶ祭典ではありません。教祖一年祭は、神道の神官達が乱入してきて、途中で中止されております。従って、本教最初の年祭は、1892年に勤められた教祖5年祭という事になります。

 教祖が御身を隠された後、教団の重大な決定や教義の裁定は、本席飯降伊藏さんの口から発せられる「おさしづによっておりました。無論、5年祭を勤めるに当たっても、おさしづを仰いでおられます。それは
「なれど千年も二千年も通りたのやない。僅か五十年。五十年の間の道を、まあ五十年三十年通れと言えばいこまい。二十年も十年も通れと言うのやない。まあ十年の中の三つや。三日の間の道を通ればよいのや。僅か千日の道を通れと言うのや。千日の道が難しいのや。ひながたの道より道がないで」

 というものでありました。要するに、年祭に至るまでの約千日、3年間、教祖のひながたを辿りなさい。3年間など3日間のようなものである。そうすれば、教祖のように50年通ったのと同様に受け取ってやろう。ひながたの道以外に道はないということであります。こう考えると、教祖の年祭の意義は、教祖のひながたを辿ることにあると言うことが分かります。では、教祖のひながたを辿るとは、具体的にどのようにすればよいのでしょうか。ここで、今一度、教祖のひながたを振り返ってみたいと思います。

 教祖は、41才で月日のやしろとなられます。最初にされたことは、家財道具、土地に至るまで、ほとんど売りに出され、それを貧しい人に施されます。元々非常に裕福であった中山家ですが、これで完全に零落します。そうなると、親戚、友人は離反していきました。時には、家族の中でさえも、教祖は孤立されます。そういった生活が約20年続いた後、ようやく、信者が出来てくるようになる頃になると、それを妬む既存の宗教である仏教の僧侶や神道の神官などの攻撃を受けられます。それでも、この道は急速に延び広がり、日本中に大勢の信者が出来てきます。そうすると、この道の進展を危ぶんだ国家権力の介入を受けられて、18,9度、警察に呼び出され、監獄に留置されます。
 私たち信者が、ひながたを通るということは、私たちの家財道具や家、土地など固有の財産を売り、そのお金を貧しい人に施そうと言うことでしょうか。そして、親戚、友人との縁を切り、孤立せよということでしょうか。私はそうではないと思います。なぜならば、教祖が、家財道具を施されたのは、一つの手段であって目的ではないからです。私は、信仰者たる者、過度の贅沢はするべきではないと思います。しかし、普通の社会生活を送る上で、やはり家も家財道具も、それなりに必要でしょう。また私たちが、そういった物をすべて売り払い、そのお金を貧しい人に施すということが、本当にその人を助けることになるのかどうか、大いに疑問だと思います。加えて、仮に私が私の全財産を売り払ったとして、助けられる人は一体何人いるでしょうか。ぜいぜい一人か二人、それも永続的ではなく、わずかな期間、食べ物や着物を与えられるだけでしょう。それはそれで、大変重要なことではありますが、それがひながたを通るということではないでしょう。財産を手放すという行為によって、教祖が示されたのは、贅沢を排除することと同時に、富や名声、社会的地位が決して人間の本質的な価値ではないということを知らされたのだと思います。そういった付随的な物を排除することによって、社会の最下層の人たち、あるいは弱者と言われるような人たちでも、教祖の教えに付いてくることが出来たのであり、それが目的であったのです。逸話編に「表門構え玄関造りでは救けられん」とあります。人を助けるのは、財力ではないということを示されたのです。

 さらに、贅沢を控えて、世の中には水も喉を越さないと苦しんでいる人がいる現実を決して忘れずに、今の情況を喜ながら、人生を通ろうということであろうと思います。もちろん、困っている人に対して、物質的な救済を完全に否定するものではありません。私たちも年に一度バザーを開催して、売り上げを救援活動に供しております。時には、そういったことも必要であろうと思います。もちろん、親戚、友人との交わりは大切にし、何も孤立する必要はありません。
(私論.私見)
 教祖の財物不執心論に対するこの受け取り方は、これを私有財産制否定論と受け取るのを硬派とすれば、対極的な軟派なそれであろう。真実は恐らく、両者の中庸的なところにあるのだろうと思われる。これに付き、改めて問答することにする。
 教祖は、既存の宗教の攻撃を受けられました。私たちがひながたを辿るということは、これも必要なのでしょうか。私は、ここヨーロッパにあって、意識的にキリスト教やイスラム教、ユダヤ教などを信仰しておられる方とぶつかる必要はまったくないと思います。むしろ、人類の歴史の中で、宗教の違いが紛争の原因になっていることを謙虚に反省し、キリスト教やイスラム教など、他宗教の方達と手を携えて、平和な世界を作っていくべきなのです。

 教祖が、既存の宗教から攻撃を受けられたことは確かに事実ですが、教祖自身はそれに対し、反攻をされてはいません。逆に、お言葉に「行く道すがら神前を通る時には、拝をするように」とおっしゃっています。逸話編には、「何の社、何の仏にても、その名を唱え、後にて天理王命と唱え」あるいは「産土の神に詣るは、恩に報ずるのである」とも述べられています。これは他の宗教、他の詣り所を敬えということでしょう。このように、既存の宗教を敬うことと、自分の信仰に誇りを持ち、それを一生懸命広めることは決して矛盾しないのです。

 最後に警察など、国家権力の攻撃を受けられました。これも、教祖のひながたを辿るために、表面だけを見てそれを真似ようとするとなると、私たちも公的機関の攻撃を受けねばならないのかとなります。あるいは、監獄に留置されなければならないのかとなります。決してそうではありません。どこの国であろうとも、その国の法律を遵守し、善良な市民として生きるべきなのです。教祖が、警察など公権力からの迫害、干渉を受けられたのは、主として、おつとめを勤められたからであります。当時の日本は、現在と違い、本当の意味で信教の自由はありませんでした。正確に言えば、まだそこまで法律が整備されていなかったということです。従って、つとめを勤めるためには多くの制約を受けました。当時の信者の方々が、仏教寺院の講社の一つであるように見せたり、神道の管轄下の教会であるように見せられたのも、それがためであります。しかし、教祖はそういったことを決してよしとされず、思召し通りのおつとめを、堂々と勤めよと命じられています。つまり、警察などの公権力と衝突するのが目的ではなく、つとめの重要性を知らしめられたのです。かつての共産主義独裁国家ならともかく、現在のヨーロッパで、恐らくおつとめを勤めることによって、検挙されるというところはないと思われます。毎日つとめても、何ら問題はありません。現在は、そういった外的障害よりも、むしろ、わずらわしい、面倒くさいといった自分自身の気持ち、精神的なものがつとめ勤修の障害になっていることが多いと思います。1月26日に本部にて勤められた教祖百二十年祭の祭典後の講話の中で、真柱様は「今では信仰することはもちろん、おつとめを勤めるについても、法律による制約や、あからさまな妨害はありません。しかし、どこまでも親神様の思召しに沿っていくという心定めが第一であることには、昔も今も変わりはありません。官憲の迫害干渉を恐れなければならない当時を思うと、比較にならないくらい結構な今日でありますが、道を通るうえで、今日には今日なりの葛藤があるだろうと思います。世間の習慣や義理との間で迷ったり、あるいは無理解や冷たい態度に心をいずませたりすることもあるでしょう。

 しかし、もっと問題なのは、そうした外的な要因よりも、むしろ自分自身の心からくるものではないでしょうか。利害や体面、さらには都合、勝手などなど、神一条の道から逸れる誘因はいくらでもあるのであります」とおっしゃっています。毎日、おつとめを勤めさせて頂くことは、ひながたの一部分を通るということです。勇んだ明るい心でおつとめを勤めると言うよりも、おつとめを毎日勤めれることによって、心が勇みます。手を覚えておられない方は出来ませんが、十二下りを踊ってみて下さい。本当に心が勇んできます。十二下りが出来なければ座り勤めだけでもよろしい。それも出来なければ、本を見ながらお歌を唱えても良いと思います。さらに教祖は、警察に拘引されるときも、いそいそと出掛けられ、留置場にいても担当の警察官にねぎらいの言葉を掛けておられます。この態度から私たちが学ぶべき事は、警察に留置されるということではなく、いついかなるところにあっても、心を勇ませる。加えて、自分に反対する者に対しても、いたわりの心を持つということでしょう。

 私たちはともすると、教祖のひながたを歩もうと言い、その事歴の表面だけを真似しなければいけないように取ることがあります。そうではありません。ひながたを辿ると言うことは、すなわち教祖の心に習わせていただくということであります。教祖伝のうわべではなく、一つ一つの記述の中に潜んでいる教祖の精神を捉えるべきなのです。贅沢をしない。言い換えれば、慎みの心を忘れないということです。富や財産、社会的地位といったものが人間の本質ではないことを認識し、貧しい人、障害を持った人、老人、そういった弱者の救済を忘れないこと。これは、ひのきしんの実践であり、おさづけの取り次ぎでしょう。また、おつとめの重要性を片時も忘れることなく、このつとめで身上や事情を助けて頂けるという信念を持って、出来るならば毎日勤めること。さらには、いついかなるところにあっても、勇んだ心を持ち、自分と意見を異にする人に対しても、いたわりの心を持つこと。これは、たんのうの心を持つということです。そういった態度で、日々を通るということが、すなわち、ひながたの道を辿るということであろうと思います。

 もちろん、これは簡単なことではありません。極めて、難しいと言っても良いでしょう。ただ今、皆さんに語っている私も、ひながたを辿るどころか、反省、後悔の毎日です。しかし、ひながたの道を辿るための方法、特別なテクニックなどはありません。一度にすべて成し遂げようと思わずに、何か一つでも、心がけて実行することと、同時に継続させることが大事でしょう。一生続けよと言われるとなかなか、難しいですから、「おさしづにあるように3年間に絞るのです。例えば毎日ひのきしんを3年間継続するということが、重要です。世界には、数えられないほど多くの問題があります。私は、どの問題も、究極的な原因はすべて人間の心にあると思います。環境問題などは、一見、心とは関係ないように思えますが、やはり慎みを欠いた結果とも言えるでしょう。ということは、世界平和、私たちの信仰で言えば陽気ぐらしの世界を実現するには、一人一人の心を直していくより他にないのではないでしょうか。私たち天理教信仰者には、教祖のひながたという立派な教科書があります。さきほど拝読した「おさしづには、
「難しいことは言わん。難しいことをせいとも、紋型なきことをせいと言わん。皆一つ一つのひながたの道がある。ひながたの道を通れんというような事ではどうもならん。…世界の道は千筋、神の道は一条。…ひながたの道を通らねばひながた要らん。ひながたなおせばどうもなろうまい」

 とあります。世界中には千筋もの生き方があるが、天理教信仰者が目指すべき生き方はおやさまのひながた、ただ一つとおっしゃっています。この人生の教科書を片時も心から離さず、一歩一歩、歩ませて頂きたいものです。ご静聴ありがとうございました。
 2023.02.22日、青年会人材派遣生の三石晋一郎委員の正心2月号掲載分「貧に落ち切る―天理教海外部における青年会人材派遣生の教理発表」。
 私は今回、「貧に落ち切る」について考えていきたいと思います。諭達第四号に、「教祖はひながたの道を、まず貧に落ち切るところから始められ」と書かれており、教祖のひながたをたどらせていただく私にとって非常に重要なことだと思ったので、少し考えさせていただきました。稿本天理教教祖伝(以下『教祖伝』)に、月日のやしろとなられた教祖は、親神の思召のまにまに、「貧に落ち切れ」と、急き込まれると共に、嫁入りの時の荷物を初め、食物、着物、金銭に到るまで、次々と、困っている人々に施された。(23頁)とあります。家財道具に至るまで施し尽されて後、「この家形取り払え」、「瓦下ろせ」、「家の高塀を取り払え」と、次々に家の財産を離していかれました。やがては、母屋を取りこぼちになります。その結果、世間の人には笑われ謗られ、周りの人々には見放されました。中山家は格式の高い家であり、夫・善兵衞様は、今でいう村長のような存在であったそうです。周りからの信頼も厚く、慕われていました。このような結構な生活をしていた中山家であったのに、なぜ教祖は貧に落ち切られたのでしょうか。『教祖伝』には、一列人間を救けたいとの親心から、自ら歩んで救かる道のひながたを示し、物を施して執着を去れば、心に明るさが生れ、心に明るさが生れると、自ら陽気ぐらしへの道が開ける(23頁)とあります。

 この点について矢持辰三先生は次のようにおっしゃっています。
教祖はひながたの最初に、「貧に落ち切る」行いをされましたが、それには、「親神の思召のまにまに」という大前提があるわけです。それと教祖の五十年の大目標があったと思うんで、その大目標と離れた部分的な歩みではなくて、大きなたすけ一条の道の確立に向かうという大前提の最初の段階としての「貧に落ち切る」道だったということです。(道友社編『ひながたを温ねる』9頁)

 また、諸井慶一郎先生は、すなわち、たすけ一条のこの道は、人間の知恵や学問、あるいは財物によってつけられるものではなく、親神のお働きによってのみつけられる、人為によらぬ天然自然の道である。そこでたすけ一条の道をつけられるために邪魔になる一切のものを取り払われた。(『あらきとうりよう』第91号 61頁)といわれています。

 大目標と離れた部分的な歩みではなくて、大きなたすけ一条の道の確立に向かうという大前提の最初の段階としての「貧に落ち切る」道だったということ。人為によらぬ天然自然の道。貧に落ち切る行いについて、矢持先生と諸井先生はこのようなことをおっしゃっていますが、私には少し意味がわかりませんでした。しかし、二代真柱様のお言葉を読ませていただくと、少し意味がわかったような気がしたので、紹介させていただきます。
どん底の場合におきましても、一番素直になれるであろうと思うのであります。物の執着を取って、明らかに胸の掃除のできる立場、態度になってくると思うのであります。それはどん底になって、裸になってしまうのが目的ではないので、かくして胸を掃除してきれいな清らかな心になって、そうして陽気ぐらしの御守護を頂くことなのであります。裸になるのは目的ではなくて、風呂に入るのが目的です。風呂に入る目的のために、まず裸になるのと同じ―多少意味が違うかもしれませんが―段取りであるわけであります。 

 ここの場合におきましても、どん底へどん底へと落ち切られて、いろいろな意味を何しておられるのは、一面において世間の人の同情を寄せる手立てであったかのように見えるのでありますが、決してそうではないのであります。おそらくさようなことによって、一番行動がとりやすい、親神様のお心がわかっていただけるようなことが、掃除的なもの、そうして施しという反面の事柄が立て合って、かようなことになってあるので、どん底へ落ち切らなかったならば、どん底の人たちの心がわからないというような説明に、それは後になって、われわれに対するお仕込みの上から、お出しになった言葉でありますが、その時に、たとえお出しになっても、それはわれわれの心を養う上からおっしゃったもので、決して目的ではないということを考えていただきたい。これによって次へ来るもの、心を明らかに、しっかりと陽気ぐらしへ、物の執着を取って進んで行くところの根底を築く意味であるということを、お考えいただきたいのであります。(中山正善『第十六回教義講習会 第一次講習録抜粋』152~153頁)

 このようにあります。教祖の貧に落ち切る行いは、たすけ一条の道、陽気ぐらし世界を目的とした御行動であったということです。格式を離して親しみをもってもらうことが、目的ではありません。親神様、教祖は私たちが想像を絶するような先をみています。その中で、陽気ぐらし世界の実現に向けた土台として、この貧に落ち切ることを始められたのだと考えます。また、「心を明らかに、しっかりと陽気ぐらしへ、物の執着を取って進んで行くところの根底を築く意味であるということを、お考えいただきたいのであります。」と、二代真柱様のお話の中にあるように、物への執着をとることが、陽気ぐらし世界への土台となるといわれています。では、物への執着をとると、どうなるのでしょうか?「水を飲めば水の味がする」、「お月様が、こんなに明るくお照らし下されている」。これらの教祖のお言葉は、貧のどん底に落ち切ることによって初めて、これまで気づかずにいた親神様の御守護が身にしみて感じることができるようになり、そこから本当の喜びと感謝の気持ちが生まれてくることをお教えくだされたものです。貧に落ち切ることで、今あるもの、この世界のすべては親神様からのかりものである、ということに気づけるようになるのではないでしょうか。貧に落ち切ることを通して、お月様がこんなにも明るい。有難い。水を飲めば水の味がする。と感じられるようになってくる。親神様の御守護を御守護として感じられるようになってくる。これが本当の幸せなのではないでしょうか。このように思います。幸せと感じる瞬間が多ければ多いほど幸せです。

 さて、ここまでは、なぜ教祖は貧に落ち切られたのか、また貧に落ち切ることでどのようになるのかについてみてきました。では、現代を生きる私たちにとって、貧に落ち切るとはどういうことなのでしょうか。「貧に落ち切る」ことの捉え方として、二つの見方があると思います。一つは従来からの立場、社会的地位などすべてを断ち切っていくということ。もう一つは「貧に落ち切る」ことを心の問題としてとらえ、物への執着心をなくすことが陽気ぐらしへとつながっていくという心理構造を示されたという見方です。「貧に落ち切れ。貧に落ち切らねば、難儀なる者の味がわからん」(『教祖伝逸話篇』四 一粒万倍にして返す)。

 このお言葉の意味について、二代真柱様は第十五回教義講習会において次のように述べられています。
 教祖様が自ら貧のどん底へお落ちにならなければ、教祖様には貧のどん底の意味が解らないのだ、と斯様に人間一般の様に考えましたならば、それは我々の考えは非常に偏って居りますので、それは当らないのであります。親神様の思召しを以てお考えになって居る教祖様にとったならば、百も二百もその味わいは御存じであります。(中略)人間各自が、ひながたとして左様な立場に立ち到った時の心の持ち方が解るのであります。つまり、行いを以て、どん底に置き乍らも陽気ぐらしへと起ち上って行く道すがらをお教えになったのであります。(『真柱訓話集』昭和二十九年 926~927頁)

 このお言葉をみると、二代真柱様は、そのような困難な立場に到った時の心の持ち方をお示しになったと仰っています。

 また、『教祖伝逸話篇』には、教祖が、梅谷四郎兵衞にお聞かせ下されたお言葉に、「私は、夢中になっていましたら、『流れる水も同じこと、低い所へ落ち込め、落ち込め。表門構え玄関造りでは救けられん。貧乏せ、貧乏せ。』と、仰っしゃりました。」(五 流れる水も同じこと)とあります。金子圭助先生はこのお言葉について、何よりもまず現象的に、形の上で貧乏することによって、心の救い、魂の救いへ進む道があるのだということをおっしゃっているのではないかと私は理解しています。(前掲『ひながたを温ねる』10頁)といわれています。では、形の上だけで貧に落ち切ってもいいのでしょうか。二代真柱様のお話の中に、「心を明らかに、しっかりと陽気ぐらしへ、物の執着を取って進んで行くところの根底を築く意味である」(前掲「第十六回教義講習会」)とあるように、この土台を築くためには、やはり形だけ通ればいいということにはならないと考えます。物への執着をとり、今この瞬間にも親神様から与えてもらっている御守護に心から感謝できることが大切なことではないかと思います。

 宮森與三郎先生のお話の中に、
 教祖様は唯ある財産を無くして低くなられたのやない、心までや、腹から優しい温かい心になつて低くなられたのや、(中略)教祖様のよふに温かく誠の心で低くならねばならん。(『みちのとも』大正六年七月号 68頁)

 とあるように、教祖のように温かく誠の心で低くなることが必要であると思います。そのためにはやはり求道の部分が非常に大切であると改めて感じさせていただきました。教祖はどういう思いで御行動されたのかを考え、その心をたどらせていただくためにはどう行動するのかが大切であると思います。

 本当に形の上で教祖のように貧に落ち切ることを教えられているのか。または心の持ち方について、ひながたを通して教えてくださっているのか。はたして貧に落ち切るというひながたをたどるとは、どういうことなのか。大事なことは、教祖のひながたを形だけたどっても意味はないということです。教祖の心をたどらなければならないと思います。しかし、その心をたどるためにはやはり形をたどることが必要ではないか。どちらにせよ、現代で貧に落ち切る必要はないということにはならないのかなと思います。相手を理解する心、たすけ一条の心、神一条の心。このことを理解する上で、私たちは貧に落ち切るという道をたどらせていただかなければならないと思います。実際に自分が落ち切らなければ、そこにあるものが見えません。

 しかし、教祖のように今ある財産をすべて手放すことは、今の私にはできませんし、この現代においてそれが必要かもわかりません。しかし、落ち切った先に何があるのかは、やはり自分が経験しないとわからないものだと思います。これから始まる海外での活動を通して、少しでも教祖のように他者へ心から施し、おたすけができるようになりたいと思います。
インターネットで見つけたんですが、こんなことを書いている方がいました。「この『貧に落ち切れ、貧に落ち切らねば、難儀なるものの味が分からん』。この部分の『貧に落ち切る』は、例えば『病気』に言い換えてみる。次に『人間関係』に言い換えてみる。なぜ『貧』なのか。それは、病気はかりものであるこの体を自ら傷つけることになる、人間関係は相手を傷つけてしまう。しかし、貧に落ち切ることはそうではない。このことから、じぶんが自ら進もうと思えば、この道は通れるのであります。なので神様は主体性を大事にしている」。このように、書かれていました。いつの時代でも、人間は財産や社会的地位、名誉に走り、それがいかにも幸せかのように考えがちです。そうした人間の心の持ち方を切り替えるために、まず貧に落ち切るという道を、身をもって歩まれたのです。

 「教祖様が西へ行つてござるのに、東向いて歩いて居つては足跡を踏して貰ふ事が出来ない。」(前掲『みちのとも』59頁)と宮森先生が仰っています。そのことをしっかりと理解させていただき、これから始まる教祖百四十年祭へ向けての三年千日を、一生懸命自分なりに通らせていただきたいと思います。
(私論.私見)
 なるほどのことを言っているようで、何を云っているのか分からない問答になっているように思われる。なぜそうなるのかと云うと、「貧に落ちきれ財物不執心論」の根底にあるものが踏まえられていないからのように思われる。「貧に落ちきれ財物不執心論」は教祖のひながたの実践であり、それは神の自由自在お助け力を確かめる契機として位置づけられているのであって、だがしかし、教祖のひながたの通りに歩むのは実践的に相当な困難が予想されている。実際には、教祖のひながたを知る事、学ぶ事により、これを手引きにすることで充分と心得たい。教祖のひながた通りにすることは相当に危険であり、必ずしもその通りにする必要はない、但しいつでも教祖のひながたに照らして歩むことが肝要なのである、という教えであると心得たい。







(私論.私見)