がん温熱療法

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.7.28日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「がん温熱療法」をものしておく。

 2024年.10.24日 れんだいこ拝


がん温熱療法
 「8.19水のセミナ-」を参照する。
 ゲスト講師 堀内道夫先生
 光と風の研究所㈱代表取締役 静岡大学工学部客員教授 アンチエイジング研究会理事

 1962年、静岡大学工業学部工業化学科卒業、大日本印刷㈱入社、中央研究所主任研究員、米国 駐在所長等を歴任。
 1998年、光と風の研究所㈱を設立。

 太陽光を中心とした再生可能エネルギ ーの各国、内外自治体、大・中小企業の取組みを力強く推進。自然エネルギーの活用について、 技術や装置の開発から街づくりまで幅広く、長年にわたり活躍中。代替医療には米国で医学本 「Alternative Medicine」に出合うところから興味を持つ。その後、アンチエイジング研究会理 事に就任し、更に各方面の知識人との交流から代替医療への造詣を深められ、今に至る。
 自然エネルギーの活用について、技術や装置の開発から街づくりまで幅広く、長年にわたり活躍中。"太陽をめぐる戦争はない"、 "太陽から請求書は来ない"、 "足を引っ張らず手を引こう、美しさとアートを取り入れよう、住みたくなる街に"の一貫した活動のコンセプトの基、コンサルテーション、規格づくり、提案を次々とてがける。
① 代替医療(Alternative Medicine)とは?

 Alternative とは「何かの代わりに」という言葉で、 「通常の医療に取って代わる療法」という意味になります。 その方法は伝統医学、民族療法(東洋伝統医学など)から、 アーシング、気功・マッサージ、ハーブ、音楽療法など多岐に渡ります。 水素の摂取もそのひとつと言えるでしょう。
② マイクロウェーブによる温熱療法

 現在、日本人の二人に一人はかかると言われる細胞の病「がん」。 男女に差はありますが、死亡率は17~26%前後(2019年データによる)と、 決して低くはなく、治療にも苦難を伴います。 しかしそのがんには、あまり知られていない大きな特徴があります。 それが「熱に弱い」こと。がん細胞は41~43℃で死滅するのです。 がんを治療する代替医療として、堀内先生がご紹介下さったのが マイクロウェーブによる温熱療法です。 発明家であるご友人が開発したマイクロウェーブの機械は、原理こそ厚労 省が肩こり改善などで認めている従来の機械と同様ですが、 それよりも強いワットで動きます。 マイクロウェーブ(電磁波)でまるで電子レンジのように体の任意の部位 を、内側からじんわりと温めることが出来ます。この機械であれば、 体に負担をかけ高熱にうなされることなく、 がんの部位だけを容易に41~43℃まで上げることが可能です。 つまり、がんを死滅させることが出来るのです。

 最近では医学博士によるエビデンス(実際に使用し治療した症例集)もあり、 それによれば治癒率は80%前後まで跳ね上がっています。 (「癌活性消滅療法」医学博士 前田華郎氏著より)
③ まだまだ広がる代替医療の世界

 代替医療というと怪しく感じてしまうのが常ですが、 堀内先生はセミナーの中でこう仰っています。 「宇宙の95%はまだ何の物質だか分かっていないんです。 それをさも全部分かっているような顔をして、 『がん(の治療法)はこうでなきゃいけない』とか やはりちょっと、どうかと思う」。 弊社で取り扱う水素や、注目されるHHOガス、ケイ素など、 まだまだ解明されていない物質や効能が、この世には多く存在します。 健康や治療に対する情報があふれる世の中で、皆さまの命を守るのは、 従来の型に嵌った『健康』ではなく、 常識や固定観念を覆す新たな知恵や発明かもしれません。

 2014.vol11「九大別府病院 だより Kyushu University Beppu Hospital」。
 別府市は、源泉数世界一で、しかも様々な泉質の温泉が一地域に密集してい るという、世界でも類を見ない温泉地であります。九州大学病院別府病院は、 そこに昭和6年に設立された九州帝国大学温泉治療学研究所を源流として、 温泉治療の歴史を紡いでまいりました。昨今は、ヒトのゲノムDNAがすべて 解読され、その情報を元に、すさまじい速度で新薬開発が進む一方、ロボット鉱泥浴医工学やiPS細胞による再生医学など、最先端医学に目が奪われがちです。そのなかで、温泉治療と言えば、昔ながらの湯治のイメージからか、先進的治療とは対極的である感があります。しかし、温熱医学という立場か らは、その先進性は決して低くありません。温泉は、真水の温湯と異なり温熱効果が高く、それが持続します。 これは、一つには水以外の物質の混在による比熱低下によると考えられます。この持続的な体温上昇は、体内 血液循環量増大を招き、様々な生理的効果を生みます。体温上昇には、肺炎の時の発熱など、病的なイメージ がありますが、免疫能力を高めるために生体が進化の過程で得た防御能力なのです。体温上昇による生体効果は、未知の部分が多く、今後開拓される余地を多く残しています。当院では、この温熱効果が、慢性疼痛に有 効であることに着目し、とくに効果の高い鉱泥浴によって、難治性慢性疼痛を来す「線維筋痛症」に対して良好な成績をおさめています。この鎮痛効果は、体内に存在する一種のストレス物質を増大した血流により洗 鉱泥浴直前 鉱泥浴直後 暖鉱泥浴20分後 い流すことによる効果であるといわれます。この血流増大は、傷の治りを早めたり、安眠効果もあり、様々な 医療分野への応用が期待できます。将来的にiPS細胞から 作った臓器の移植の時も、周囲の血流を増大させれば生着が 良く、治療成功率上昇が期待できます。この別府が、温泉の医 療応用においても世界的なモデル都市となる日が遠くないこ 冷 鉱泥浴の保温効果の持続 とを願って、これからも温熱治療としての温泉の医療応用を 推進してまいります。(文責:内科准教授 前田豊樹)

 「
 今回の水のセミナーでは、ゲスト講師 堀内道夫先生をお迎えし、 テーマ「健康は命より大切?」と題しまして、 代替医療 特にガンを治療するマイクロウェーブ(温熱療法)について、 講演して頂きました。 健康ブームや情報があふれかえる昨今、 本当に皆さまの命を守るのは 型に嵌った従来の「健康」ではなく、 新たな知恵や可能性かもしれません。 そんな風に聞くとパッと眼前が開けるような、 素敵なお話です。 是非ご覧ください!

 光と風の研究所はこちら ➡https://www.solarwindtech.jp

 「20年前以上から再生可能エネルギーに向き合う」。
 20年前以上から再生可能エネルギーに向き合う

 3.11。未曾有の事態に直面した私たちは、これまで当たり前のように供給されていた電気の大切さを再認識し、日々の暮らしを反省した。現在、わが国のエネルギー自給率はわずか4%に過ぎず、先進国の中でも最低ランクに位置する。この状況を打破する道が1つだけある。それが太陽エネルギーを起源とする再生可能エネルギーの徹底的な利用だ。

 当社の社屋は事務所兼住宅ですが、平成6(1994)年に通産省(当時)の住宅用太陽光発電システムモニター事業の第1号住宅として採用された光と熱のハイブリッド・ソーラーハウスになっています。

 堀内は、この家をPOWERs STATIONと名付けて20年以上住み続け、太陽の恵みの豊かさを実感しながら、再生可能エネルギーの普及のためのいろいろな課題と取り組んできた。

 「各国政府・自治体・企業などの努力もあり、大企業ばかりではなく、とりわけ再生可能エネルギーの分散(地産地消)型電力という特色を活かした地方の優れた取組みも見逃せなくなっています。この古くて新しいエネルギーをいかに使いこなしていくのか。日本の底力があらためて問われています」。
 自然エネルギーのマッチング・コンサル事業

 (株)光と風の研究所では、この20年の間に、大田市メガソーラープロジェクト委員長、全国小水力利用推進協議会理事、家庭用据置型リチウムイオン蓄電池システム認定基準検討委員長等々を兼任し、マレーシアのライオン島エコアイランド計画や横須賀市猿島のエコアイランド化のプロジェクト等々をディレクションするなど、太陽エネルギーだけでなく、再生可能エネルギー利用を柱とした各国、内外自治体、大・中小企業の取組みを力強く推進してきた。
メガソーラー事業マッチング
太陽光発電をトータルで考え、設置環境や気候、日照などを考慮したベストなマッチングを設計・提案。施工におけるアドバイスや運用とメンテナンス計画についても支援する。
太陽光発電事業コンサルティング
再生可能エネルギーの総合利用、設計・シミュレーション、自社独自のノウハウでシステムや新製品のリサーチ、システム提案の評価、目利きなどの総合コンサルティングを行う。
 「メガソーラー事業マッチング、太陽光発電事業コンサルティング、(主に自治体向けの)太陽光・屋根貸し事業マッチングに対する仕事の依頼や講演がたいへん多くなっています。現在、国の施策も追い風になっていると思いますが、自宅に太陽光発電システムを持っていると、永い間にはパワーコンディショナーを交換したり、大災害の備えとして停電時の独立運転をしたくなったりと、身の回りにも色々な課題が次々に見つかります。こうした経験と様々な条件が異なる現場や国際舞台を踏んだノウハウを掛け算して生まれる、お客様の夢を実現するための当社ならではの方法論やビジョンを、たくさん提案しています。」

電子ブック「再エネ・省エネ技術ガイドブック」

平成23(2011)年7月に(株)光と風の研究所が編集した「再エネ・省エネ技術ガイドブック」が出版された。本書は、2013年春に電子ブックとなって、新たな役割を果たそうとしている。

「これは、大震災後の電力不足や非常用電源などに有効な手段として再生可能エネルギーの活用と徹底した省エネの具体的応用例を自治体並びに多くの企業の協力で誰にでもわかりやすく解説したガイドブックです。今回、国の電子化プロジェクトに参加し、電子ブックとなり、配信されています。技術の世界は日進月歩ですから、掲載された内容よりさらに素晴らしいものも出てきます。この電子図書の普及で、最新の情報を今後も届けられるように努力し、これからの新しいライフスタイルに寄与できればと思っています。」

 ユニークで楽しいアイデアがいっぱい
 堀内は、発明協会審査委員や日本教育工学振興会顧問などを永年に渡って務めている。こうした取組みはボランティアであるが、ユニークで楽しいアイデアを生み出す源ともなっている。「公園や行楽地の池に、足こぎのスワンボートなどがありますね。これにパワーアシスト付の自転車についている機構を応用してソーラーパワーで動くようにすると、例えばお年寄りやお子さんも、気軽にうんと楽しむことができる乗り物になります。もうひとつは、ソーラーパネル、バッテリーとLEDを一体型にしたもの。配線が不要で簡単に設置できる街灯にもなるし、防災倉庫などに備蓄しておいて、災害時に使えるポータブルなソーラー・バッテリーLEDライトとしても使えます。さらには、神社などを災害時の防災拠点として考え、太陽光パネルや二次電池を整備するためのご相談もいただいています」。

 「浜松工業会東京支部 秋の講演会開催模様」。
 平成21年秋の講演会を開催しました。講師として株式会社光と
風の研究所代表取締役の堀内道夫(37C)様をお迎えし、「自然エ
ネルギーと未来社会」と題して講演いただきました。
なお、今回の
講演会におきましては、支部活性化のための助成費を活用し通常
4,000円の会費(実費)を卒業2年目までの若手は無料としました

日時  平成21年11月18日(水)18時30分~20時30分

講師  堀内 道夫 様 (37C)

場所  東京地区キャンパスイノベーションセンター

     (東京工業大学田町キャンパス内)

     5階リエゾンコーナー

演題  自然エネルギーと未来社会

出席者 40名

 講演要旨

 堀内様は、昭和37年に静岡大学工学部工業化学科を卒業され、平成10年から株式会社光と風の研究所代表取締役として、自然エネルギーの活用について、技術や装置の開発から街づくりまで幅広く活動されています。
(光と風の研究所のホームページは
http://www.splarwindtech.com/)

 日本は食料だけでなく、エネルギーについても自給率が先進国の中でも最低(4%)であり、ほとんどを海外に頼っているにもかかわらず、自然エネルギーへの投資が非常に少ないとのこと。海外では、太陽光発電や風力発電などの自然エネルギーの利用に、2008年には2004年の4倍の投資がされているのに、日本だけが取り残されているのだそうです。このように投資額が大きな伸びを示している産業は他になく、日本も戦略的にこの分野に投資していけば、2020年までに25%の二酸化炭素削減も充分可能だし、産業の活性化にも結び付くはずです。

 "太陽をめぐる戦争はない"、"太陽から請求書は来ない"、"足を引っ張らず手を引こう、美しさとアートを取り入れよう、住みたくなる街に"など、堀内様の活動について、非常に興味深く拝聴しました。

 今回は話題のテーマだったせいもあり、40名と会場の設営に苦労するほど多くの会員に参加いただきました。さらに40歳代以下の若い会員の参加が増えてきたことは、助成費をいただき、若手を無料とするなど積極的な勧誘をしたことの成果ではないかと思います。残念ながら最近の卒業生のメールアドレスの捕捉率が低く、若手に対し充分に周知できなかったのが今後の課題として残りました。これらの課題を少しずつ解決し、より多くの方に参加していただけるように努力していきたいと思います。

 2015.08.14日、「教育出版社の役員を脱サラ エコ技術で町づくりを構想」。
 名前は宗教関係の組織みたいだが、仕事は最先端の科学技術を応用した製品開発や町づくりのコンサルティング。「光と風の研究所」代表の堀内道夫さん(77)は、サラリーマン時代から世の中をビックリさせるような研究開発に取り組んできた。

 東京・渋谷の事務所で、まずは膨大な研究業績の説明を受けた。「実にいろんなことをやってますね」と感想を漏らすと、「いまやりたいことが50ぐらいある」と答える。

 静岡大学工学部を卒業後、大日本印刷へ入社。当時は事業の多角化を進めていた時期で、新しいプロジェクトに従事。その後、ヘッドハンティングされ、教育出版社「新学社」に転職。教育にビデオやコンピューターを利用する研究部署の責任者を任され、常務取締役にまでなった。

 「もうかっている会社だったから、やりたいことが自由にできる」。恵まれたサラリーマン生活を送った。

 1992年に車が1台買えるぐらいの費用をかけて、渋谷区富ヶ谷の自宅に5キロワットの太陽光発電を設置。旧通産省の太陽光発電補助金制度第1号で、これが自然エネルギーにのめり込むきっかけとなった。「新しい技術とか面白いことにすぐ飛びつく性格でね。オッチョコチョイなんです」と笑う。

 役員定年まではだいぶ間があったが、社長に「僕も技術屋ですから、手を動かして何か創る仕事をしたい。辞めさせてほしい」と99年に退職。翌年、光と風の研究所を立ち上げた。太陽光、風力、小水力、バイオマス発電など自然エネルギーの導入コンサルティングを中心に、ITを活用した町づくりのプロデュースにも取り組む。静岡大学工学部客員教授を務め、年間20回以上の講演をこなす。

 手がけるプロジェクトは大きいが、研究所スタッフは4人と小世帯。「外部スタッフは20人ぐらいいます。研究所を大きくしてもうけよう、なんて考えていません」。

 10数年前から、光に関する知識への理解を深めるための「光の博物館」を作る構想を描いている。「光と生命、光と環境、光と文化、光と美術など、光のことはここへ行けばすべてわかるというものを作りたい」と言う。

 今年は国連が定める「国際光年」でもあり、構想に関心を示す自治体がいくつか出てきているというから、実現する可能性は大いにある。
■大宮知信(おおみや・とものぶ) 

 ノンフィクション・ライター。1948年、茨城県生まれ。中学卒業後、東京下町のネジ販売会社に集団就職。ギター流し、週刊誌編集者など二十数回の転職を繰り返し、現在に至る。政治、経済、社会問題など幅広い分野で執筆。『平山郁夫の真実』(新講社)『死ぬのにいくらかかるか!』(祥伝社)など著書多数。

 第21回 ベントン先生のこと」。
 「ニコンの至宝」と呼ばれた著者が光技術者におくる「第11・光の鉛筆」が発売!専門書として10年は役立つ!シリーズ最新刊「コンピュータービジョン 最先端ガイド6」

 はじめまして

 1979年秋,その日はひどい時差ボケ状態でダラダラ過ごしていた。1ヶ月のブラジル滞在の後,ニューヨーク経由で前日に帰国したばかりだったからだ。電話が鳴った。受話器をとると岩田藤郎氏(当時凸版印刷総合研究所)からで,「今ベントン氏が東京に来ていて今日これから上野の芸大で彼を囲んで歓迎会があるようだ。もし興味があるなら出かけてはどうか?」との連絡で,いっぺんに目が覚めた。え? あのベントンに会える? 即「ぜひ同行させてください」と返事して,身だしなみを整える暇もなく,とるものもとりあえず大急ぎで上野に向かった。当時,辻内研究室と凸版は共同研究を進めていて,研究生であった私も凸版の研究所に出入りさせていただいていたこともあって,この貴重な情報を知ることができたのである。

 ホログラフィーを初めて学ぶ者は,まず重要な5人の名前を知ることになる。デニス・ガボール(ハンガリー,ホログラフィーの発明),エミット・リースとユリ・ウパトニクス(アメリカ,レーザー光による鮮明なホログラムの記録と再生に成功),ユリ・デニシューク(旧ソ連時代,ワンステップの反射型ホログラムの発明),そしてスティーブ・ベントン(アメリカ,レインボウホログラム・白色再生透過型ホログラムの発明)。特にベントンのことはよく耳にしていたので,新参者の私にも早々に直接本人に会える機会が巡ってきたと大感激であった。アートへの応用を志していた私にとって,ベントン型ホログラムは特別なものだった。彼が開発し制作したホログラムの技術とイメージはどれもアートマインドに溢れた素晴らしいものだった。彼の初期の作品(図1,図2,図3,図4)はどれも世に広く知られている。Crystal beginning(図2)を初めて見たときもそうであったが,Rind(図3)を見たとき,まるでエッシャーの世界の実空間への具現化のようで,ホログラフィーならではの面白さが十分に伝わるイメージにただ驚き感心させられた。機関車(4×5in)(図1)は後に多く再制作されギフトとして用いられていたようで,私の大事なコレクションの1つにもなっている。Aphrodite(図4)はアクロマチックホログラムで,透過型ホログラムであるがレインボウには色変化せず,イメージは白色に再生される。オリジナルの被写体に大理石像を選んだのもなかなかにくいアイディアだと感心させられた。

 ところで,サイエンス分野のベントン博士の歓迎会がなぜ芸大だったのか少し不思議な気もしたが,それはさておきこじんまりしたパーティーは知らぬ人ばかりであったが,ワイワイおしゃべりが進み,フレンドリーで楽しい会であった。彼の人柄がそうさせたのかもしれない。ベントン先生と記念撮影(図5)。しゃんとした写真が見つからず…(笑)。会場でベントン氏の傍らで特に親しげに話していた人が堀内道夫氏(当時 大日本印刷(株)中央研究所,現在光と風の研究所主催)だった。後に聞いた話だが,ベントン氏が日本に来たのは三菱のロゴマークの大型ホログラム制作プロジェクトのためで,堀内氏の仲立ちで実現したのだそうだ。彼はニューヨーク駐在から帰国したばかりであったが,滞在中にホログラフィー研究への関心もあって,ベントン氏とは親しく交流があったそうだ。これ以後ベントン氏はたびたび日本を訪れるが,その都度彼をダシにプライベートの歓迎会がひらかれ,私も参加するようになった。ファミリーと一緒の訪日は数えるほどもなく,ほとんどは単身のビジネストリップだったようだ。ある時パーティー当日がちょうど彼の誕生日だった時があった。家族から離れての1人さびしい誕生日では気の毒だと,大きな自動車型のバースデイケーキ(お子様用の面白いケーキを見つけてきて)を準備した(図6)。またある時は,デニシューク氏とベントン氏が偶然にも同時期に訪日した時があった。ホログラフィーの両巨頭がそろった内輪の歓迎会のスナップである(図7(a)(b)。

 1980年代は日本が経済的に非常に元気で活発な時代で,多くの企業が海外に進出したり投資をしていた。ベントン氏はポラロイドの研究所からMITメディアラボに移行する時期で,日本への旅は寄付講座や共同研究の資金調達のためもあったのかもしれない。
 Nerd club in Japan

 ベントン氏を囲んでパーティー(誰でも参加可)に集まるメンバー中心に,「ナードクラブ」が発足する。この頃はメディアラボの教授となって,学生たちとの活発な交流がはじまった時である。MITの学生たちの間で,nerdと言われることがちょっと自慢でうれしいことに受け止められているのでナードクラブと名付けようと本人が発案した。“Nerd”を辞書で引くと,“マニア”とか“おたく”,“専門バカ”まであった(笑)。ベントン先生らしく遊び心満載のネーミングである。さらにMITではこのようなもの(図8)まで作ってしまい,訪日の時のお土産にたくさん抱えて現われ驚いた。私も有り難くいただいた記憶がある。それにしても大量のマグカップはさぞ重たかったろうと無用の心配をしてしまったが,彼の旅のスーツケースの中にはさらに意外なものが入っていることが判明した。彼は枕が変わると眠れない人種で,いつも旅先にmy pillowを持ち歩いているのだという。あるとき堀内宅に泊まり,そのmy pillowを忘れたまま帰国してしまったらしい。電話で送り返そうか訊ねたら,また行くからそのまま持っていてほしいとの返事だった。しかし,pillowは結局堀内宅に残されたままになってしまったらしい。それにしてもmy pillowをいつも持ち歩いているなんて予想外で,なんともほほえましい側面を垣間見た感じだ。
 Benton Farm

 ボストンにいた時,ある日,「(ベントン先生が)ウサギを飼いはじめたんだって! ペットとしてじゃなくて毛皮を生産するサイドビジネス(?)を始めたいらしいよ」とのうわさを耳にした。皆はウサギ農場のことを,ベントンファームと呼んでいた。ずいぶん唐突に聞こえたが,ケンブリッジの郊外は日本の都会とは違って,郊外はすぐに田園風景が広がる。好奇心と遊び心旺盛な人の少し変わった趣味だなぐらいに,私はすぐに納得してしまった。その後のうわさも耳にせず,しばらくして彼が日本を訪れたとき,毛皮ビジネスは成功したのかと,ベントンファームのことを聞いてみた。「いやあ,ウサギが小屋からすぐ脱走してしまって,小屋で飼っているのが難しくあきらめた」との返事だった。小屋は柵を施しただけの自然豊かな環境の放し飼いであったらしく,ウサギは地面の穴掘り名人で,穴を掘ってはすぐ柵の外に脱走してしまい,戻してはまた穴を掘って…の繰り返しで,彼はとうとう断念してしまったらしい。後で聞いた話では,彼はウサギの毛皮の模様に興味があったらしく,独自のパターンを作りたかったとか…。実は,動物の皮膚模様(シマウマ,ジラフ,魚などのパターン)の現れは生物の化学反応の波で決まり,数理モデルで原理を解明する研究が進んでいるらしい(チューリング波,チューリング・パターンによる解明)。ウサギ農場への興味の根源は,ホログラフィー干渉とこの生物の“波”つながりらしいと誰かが言っていたのを聞いて,「なるほど,単なる思い付き(失礼)ではなく博識からの好奇心だったのか」とあらためて感心させられた。毛皮用だけあって,想像以上の立派なサイズである(図9)。
 ロブスターからカリブの海へ

 私がMITのCAVS(Center for Advanced Visual Studies)のFellowとしてケンブリッジに滞在していた時(1981~82),ベントン先生はまだポラロイドの研究所に在職中で,その研究所の建物は道路を挟んでMITと隣り合わせにあった。この滞在中,私はニューヨークで制作したばかりのホログラムが全部そっくり盗まれるというショッキングな事件にあってしまった(第4回,OplusE,Vol. 40,No. 5(2018))。事件を知って私のあまりの落胆ぶりにベントン先生は同情して,私のためにホログラムを制作するように実験室を開放してくれたのだった。助手として,彼のもとで働いていたビル・マルティーニ(NY出身のホログラフィーアーティスト,1970年代後半にすでにインテグラルホログラムを制作していた)をつけてくれた。そのころ,ポラロイド社は独自に開発したフォトポリマーのホログラムの事業化を始めていたときである。私はオブジェを作るだけ,あとは全部彼らが制作してくれた。なんと贅沢な話であろう。この時の作品は透過型ではなくて,銀塩のカラーコントロールされた2色の反射型ホログラム(4×5in)であった。また,この年の夏に開催されたレイクフォーレストカレッジの,第1回のディスプレイホログラフィーの国際シンポジウム(ISDH)の情報を教えてくれたのも彼であった。以後,3年ごとに開催されるこのシンポジウムには毎回皆勤で出席し現在に至っている。

 1985年のニューヨークのMOH(Museum of Holography)での個展(第9回,OplusE,Vol. 41,No. 3(2019))のときはオープニングパーティーにボストンから駆けつけてくれた。海外のカンファレンスでは同席する機会も数多く,キエフの国際ユネスコセミナー(第8回,OplusE,Vol. 41, No. 2(2019))もそのひとつだ。会議の最終日のさよならパーティーでは,晩餐後にディスコサウンドが流れだした。すると,いち早く踊り出したのがベントン先生で,その弾けた様子はまた新しい一面を知ることになった。


 私は仕事で東海岸に出かけるときは,よくボストンにも立ち寄った。ある夏,仕事を離れてレジャーで,ちょうど日本からの知人も交えて,ベントン先生と一緒にスキューバダイビングをして海に潜ったことがあった。私はライセンスを取ったばかりで,伊豆の海しか知らなかったので,ボストンの海は興味津々だった。ダイビングへの興味は海の中の太陽の光のきらめきや浮遊感を自分の目で確かめ体験したかったからである。

 驚いたことに,ホログラフィーのアーティストの大半(7割くらいか)がダイビング経験者で,彼らの興味は私と同じように水と光と浮遊感だと口をそろえて言った。ホログラムのイメージと何か相通じるものがあるのだろう。ベントン先生はカリフォルニア出身で,父上がプロのダイバーという環境で子供のころから海に潜っていたと聞いていたので,いつか機会があればと願っていたのだが,その機会が訪れたのだ。

 真夏の昼時,船で少し沖に出てからのダイビングである。恐る恐る数メートル下の海底へ。伊豆の海とは大違いだった。色がない,キラキラの光もなく,暗くて,泳ぐ魚も見当たらない。情景を把握するのに少し時間を要した。目が慣れ注意深く海底を観察すると,岩や海藻の影に青色のロブスターがジッとたたずんでいるではないか! 海になじんだ青色の保護色で目立たない。よく見渡すと,ここにも,あそこにもロブスターだらけ! ロブスターしかいない。そうだ,ボストンはロブスターが有名だったことを思い出した(笑)。ロブスターの漁は地元住人だけ許されている。私たちはロブスターを見つけてはベントン先生のかごにそっと入れて,何食わぬ顔で船に上がった。大漁であった。州の法律で,一定サイズ以下は放流を義務づけられている。その日は郊外にあるベントン先生の海辺の別荘で,ご近所も交えてロブスター料理の夕食会となった。見たこともないような3Lサイズの大鍋にロブスターを入れると,みるみる青から見慣れた鮮やかな赤にかわった。贅沢にロブスター三昧を堪能した。

 ボストンの海は暗くロブスターだけがたくさん海底に潜んでいる様子にびっくりしたと話したら,知り合いにカリブ海に別荘を持っている人がいて,空いているのでいつでも泊まっていいよという話が舞い込んできた。これまた絶好の機会だと,私は飛行機代を奮発してさっそく実行に移した。アメリカ領バージン諸島,セントトーマス島。底抜けに明るい海中はキラキラ輝く光に満ち,サンゴのあいだを魚たちが遊んでいた。海中展望塔のある水族館はこれまた圧巻であった。海中の円形の室内から外の海を360度観察できるのだが,水中の建物の周りには好奇心旺盛な魚たちがたくさん集まってきて,中にいる私たち人間を観察している様子が実に愉快であった。瓢箪から駒ならぬロブスターからカリビアンシーであった。
 メディアラボに移籍してからの仕事は,まずCGイメージによるconcave hologram(図10)が知られている。広視域を持った再生像がホログラムの前面の空間に浮かぶホログラムである。さらに,デジタルの動画ホログラフィーにいち早く取り組んでいた。まだコンピューターの処理能力がいまいちで,苦労していたようだった。その間,ニューヨークのMOHが破産し閉館となり,MOHのホログラムコレクションが四散してしまわないようにと,彼の努力ですべてそのままMIT museumに引き継がれることになった。現在,MIT museumのデータベースにアクセスすると,コレクションされている全ホログラムの詳細が出てくる。それを見れば,非常に充実した収集がなされていることが分かる。1996年からは,ベントン先生はCAVS(高等視覚研究所)の所長となった。私がかつてfellowで在籍していたところである。
 そんな折,ベントン先生の病を知った。療養生活が1年くらいになるころ,メディアラボが中心になって,ベントン先生を励ますシンポジウムを開催することが決まった。2003年11月のBenton visionであった。これは私もぜひ出席せねばと開催の数日前にボストンに入った。開催日前夜は学内ですでに到着している出席者たちの交流会が計画されていた。これから交流会に出かけようとしていた矢先,ベントン先生の訃報の連絡が飛び込んできた。予想だにしなかった状況に言葉がなかった。私はとりあえず交流会にでかけた。ホログラフィー関係の多くの知人たちが,アメリカ国内のみならず世界各国から大勢集まってきていた。彼のためのシンポジウムなのにまさか前日に逝ってしまうなんて…。

 翌日,Benton Visionは予定通り開催された(図11)。壇上に立ったMrs. Bentonは「彼は明るいことが大好きな人だったから,どうか沈んだ雰囲気でなく明るくシンポジウムを進めてほしい」と,気丈なあいさつをされたことが一層心に沁みた。本人は手術の経過も良好で,車いすでシンポジウムに参加できると信じて疑わなかったという。しかし,院内感染に罹って病状が急変し,悲しい結果となってしまった。 

 ナチュラルカラーのベントン先生のポートレートホログラム(図12)が展示された。オリジナルはMITの教え子たちが立ち上げた会社ゼブラが制作,それを基に凸版印刷(株)がエンボスホログラムとして製作し,出席者たちに配られた。

 ベントン先生の人物像の紹介文に scientist,engineerに並んでgifted teacherという表現を見つけた。それまでホログラフィーとは別の分野にいた人がMITで彼に出会ってホログラフィー分野に進路変更し,今も研究に勤しんでいる知人を,私も複数知っている。やはり教育者として成せる才能なのかと一人合点した。没後18年とは信じがたい。格段に処理能力の進んだ現在のコンピューターを知ったら,彼ならどんなホログラフィーの研究アイディアを思いつくだろうか?





(私論.私見)