陽気遊山、陽気暮らし人生観

 更新日/2025(平成31→5.1栄和改元/栄和7)年11.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、お道教理としての「陽気暮らし人生観」教理を確認しておく。

 2003.8.29日 れんだいこ拝


【みき教理の陽気遊山、陽気づくめ論考】 
 お道教義では、親神の創造の時の御心に叶う人間の行き方の状態を「陽気遊山」と表現している。「陽気づくめ」とも云われる。「陽気暮らし」という言葉は教祖の直筆の教えの中にはない。意訳すればそういう暮らし振りを親神が望んでいると考えられるので違和感はない。「陽気暮らし」を生み出すつとめを「陽気つとめ」と云う。どちらもお道用語として定着している。  

 教祖の説く「陽気暮らし」とは、教理全体の要としての「貸しもの借りもの」、「心通りの守護」、「心の自由」という「三つの理」を踏まえて、我が身と家族の身を持し、さらにその上の世の為、人の為、神様の為に働き、その働きを無上の感謝と楽しみにして生きる人生のことを云う、のではあるまいか。「陽気遊山」は、陽気思想と助け合い思想を両建てした思想と拝することができる。故に、十分条件としての「陽気暮らし」の必要条件は「助けあいの心」ではなかろうか。「助けあいの心」と「陽気暮らし」はワンセットの関係にあるのではなかろうか。この捉え方からの「陽気暮らし」論が必要なのではなかろうか。

 お筆先は、「月日には人間始めかけたのは、陽気遊山が見たい故から」(十四号25)、「世界中皆一列は澄み切りて、陽気づくめに暮らすことなら」(七号109)と説く。人間を始めかけた親神の思いと願いをこう教える。これを思案すれば、人の生活の意味、意義、目標は、そういう親神の思いに沿う「陽気暮らし」に向かうこそ望まれている、という諭しになる。これに加えて、「この世を初(はじ)めた神の事ならば、世界一列皆な我が子なり」(四号62)、「世界中一列は皆な兄弟や、他人というは更にないぞや」(十三43)とあることからすれば、人は「兄弟姉妹のように助け合い」で生きていかねばならない、という諭しにもなる。

 このこの「陽気暮らし」論の白眉なところは、他宗との比較でよりはっきりする。仏教は、娑婆苦からの解放(解脱)を求めての悟りの道を教えている。八苦道の教え、阿含宗の苦集滅道という四聖諦(苦しみの元が欲であり、欲をなくせば苦しみのない境地になれると説く)の「苦道の教え」は、「陽気暮らし」論の対極のそれであることが興味深い。西欧のユダヤ-キリスト教教義の場合の「神との絶対的契約の教え」とも異なる。ユダヤ教ではエデンの園での原罪が教えられ、神と人との契約関係による戒律が用意されている。そしてそれらにはいずれも、教義に忠実ならんとするならば、個人的な受苦修行を強いる規制強制的なものが敷き詰められている。「元の理」による「協働的陽気暮らし」の教えは、これらの教えとは全く違う。「山の仙人、里の仙人」という口伝も為されており、「里での仙人」生活こそ真価が問われているとも諭されている。他に、このような明るく楽しい無理のない教えがあるだろうか。

【みき教理の「陽気遊山」への変革プロセス考】
 教祖は、「陽気遊山」への変革プロセスを次のように示されている。
誕生  「元の理」で調和の中から発生した生命体の本性を知り、人の喜びを楽しむように心を立て替える。
成人  「元の理」で「助けりゃ極楽、争そや地獄」の天然自然の理を知り、良き生活人となる。「朝起き、正直、働き」が肝要と教えられる。
陽気づくめ  「元の理」に相応しい世の中づくりの働き手になり、「世の立替、世直し」に向かう。
 ちなみに、「遊山」(ゆさん)の「遊び」には次のような性質がある。一つは、自発性。二に、無償性。三に楽しさ。四に共同性。五に簡素なルール。「遊山」とは仏教用語で、「禅宗で、一点の曇りもない晴れ晴れとした心境になって、山水の美しい景色を楽しみ、悠々自適に過ごすこと。また、他山に修行遍歴の旅をすること」(小学館の日本国語大辞典参照)を云う。これらの要素の上に成り立つのが「陽気遊山」であり、この境地にある時人は生き生きとして健康的、と愚考できる(松本滋「人間の元なるもの」参照)。
 天理教事典の「陽気遊山」(ようきゆさん)は次のように解説している。
 陽気ぐらしと殆ど同じ意味で使われることがある。遊山とは、山や野に遊びにゆくことをいうが、この場合、文字通りの意味ではなく山や野に遊ぶときに味わわれる、楽しく晴れやかな心の境涯を陽気遊山と仰せになったのであり、それは陽気ぐらしの心境を表現されたものとさとられる。事実、おさしづのお言葉に『陽気遊びと言えば、今日もあちらへ遊び行く、何を見に行く。陽気遊びとは、目に見えたる事とはころっと格段が違うで』(M23.6.20)と仰せられている。つまり親神の望まれている陽気は、物によって手にいられるものではなくて、心の在り方一つによって味わうことのできるものだからである。

【御神楽歌、お筆先の陽気、陽気づくめ、陽気づとめ考】
 御神楽歌には次のように記されている。
いつも助けが せくからに 
早く陽気に なりて来い
四下り目五ツ
村方早くに 助けたい
なれど心が わからいで
四下り目六ツ
何かよろずの 助け合い
胸のうちより 思案せよ
四下り目七ツ
いつまで信心 したとても
陽気づくめで あるほどに
五下り目五ツ
むごい心を うちわすれ
やさしき心に なりてこい
五下り目六ツ

 
お筆先には次のように記されている。
しやハせを よきよふにとて じうぶんに
身についてくる これを楽しめ
二号42
これからハ 神がをもてい あらわれて
山いかゝりて 掃除するぞや
三号53
一列に 神が掃除を するならば
心勇んで 陽気尽くめ
三号54
なにもかも 神がひきうけ するからハ
どんな事でも ぢうよぢさを
三号55
真実に 心勇んで 思案して
神にもたれて 陽気づとめ
四号49
日々に 心勇んで 急き込めよ
早く本道 つけた事なら
四号76
真実に この本道が ついたなら
末ハ頼もし 陽気づくめ
四号77
月日には どのよな事も一列に
皆なに教えて 陽気づくめ
七号108
世界中 皆な一列は 澄み切りて
陽気づくめに 暮らす事なら
七号109
月日にも 確か心が 勇むなら
人間なるも 皆な同じ事
七号110
この世ふの 世界の心 勇むなら
月日人間 同じ事やで
七号111
この道を 上ゑぬけたる 事ならば
ぢうよぢざいの 働きをする
十号100
月日より この働きを しかけたら
いかなこふてき 来たると云うても
十号101
心より 真実ハかり 澄みきりて
とんな事でも 親にもたれる
十号102
この先は 世界中はどこまでも
陽気づくめに 皆なしてかかる
十号103
段々と この道筋の よふたいハ
皆なハが事と 思うて思案せ
十号104
今までと 心しいかり 入れかへて
陽気づくめの 心なるよふ
十一号53
日々に ひとり心が 勇むなり
陽気づくめの 心なるよう
十一号55
どのように 難かしくよふ 見えたとて
陽気つとめで 皆な助けるで
十二号61
月日より 真実思う 高山の
戦い災禍 治めたるなら
十三号50
この模様 どうしたならば 治まろう
陽気づとめに 出たる事なら
十三号51
これからは 心しっかり 入れ替えて
陽気づくめの 心(に)なるよふ
十四号24
月日には 人間始め かけたのは
陽気遊山が 見たい故から
十四号25
世界には この真実を 知らんから
皆などこまでも いつむばかりで
十四号26
月日より 陽気づくめと いうのをな
これ止めたなら 残念えろなる
十四号27

教祖の陽気暮らしお諭し
 教祖は陽気暮らしについて次のようにお諭し為されている。
 「人が勇めば神も勇む」の諭し。
 教祖様は、『世の中で何が一番の楽しみであるかと云えば、人の助かるのを見て楽しむほど真の楽しみはない』と仰せられたと聞かせて頂いて居るのであります。(「真の楽」、 昭和11年、第6回教義講習会講義録「一手一つ」梶本宗太郎より)
 ある時、教祖仰せには、『恩を忘れぬのも、陽気暮らしの一つやで』と教え下さったとお聞きしています。次のお言葉も聞かしてもらっています。『陽気とは、良き心にいることや』。『皆な神のお陰、皆な親のお陰と喜ぶのが天の理』。『陽気遊山』。人を助けさしてもらう。有難うございますと云われる。いや、私が助けたのでありません。神さまがお助けして下されたのです、と神さまの偉大さを皆さまに知ってもらうようにする。それが陽気遊山や(「奥野道三郎氏の話その7、恩を忘れぬのも」)。
 教祖仰せには、『そのときには昼は晴天で、そよそよ風、雨は夜に降って、月六斎。夫婦の中には男の子一人、女の子一人づつ授ける。後は願い通り。働きは昼まで働いて昼から先は陽気遊びや』、と(「教祖仰せには」、〔註〕高井直吉先生のお話の中から。昭和60年4月発行「教祖おおせには」高野友治著(天理時報社)18-31p)。

【お指図教理】
 お指図には次のような御言葉がある。
 人間/\元が分かろまい。世界中皆な神の子供。難儀さそう、困らそうという親はあるまい。親あって子がある。この理を聞け。憎い可愛(かわいい)の隔てない。(おさしづ明治20.12.9補遺)
 さあさぁ神さんと思うやろう。神は何にも身を痛めはせんで。さあさぁめん/\心から痛むのやで。めん/\の親の心に背けば、幽冥(ゆうめい)の神に背き/\て、まる背きとなってあるのやで。(おさしづ明治21.9.18補遺)
 註/幽冥の神とは現身(うつしみ)をお隠しになられた教祖を指して仰る。
 むずかしい道は親が皆な通りたで。親の理思えば、通るに陽気遊びの理を思え。(明治21.10.12日)
 さあさぁ陽気遊びというは、よう聞き分け。陽気遊びと言えば、今日もあちらへ遊び行く、何を見に行く。陽気遊びとは、目に見えたる事とはころっと格段に違うで。(明治23.6.20)
 神が連れて通る陽気と、面々勝手の陽気とある。勝手の陽気は通るに通れん。陽気というは、皆んな勇ましてこそ真の陽気という。銘々楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。銘々勝手の陽気は、生涯通れると思たら違うで。(明治30.12.11日)
 (人は、ややもすれば、我が身勝手の心から、共に和して行くことを忘れがちである。ここには、心澄みきる陽気ぐらしはなく、心を曇らす暗い歩みがあるばかりである)
 勝手というものは、面々にとつてはよいものなれど、皆の中にとつては治まる理にならん。 (明治33.11.20日)
 (一つに心合せるのは、一つの道の理に心を合せることで、この理を忘れる時は、銘々勝手の心に流れてしまう)
 心を合わせ頼もしい道を作りてくれ。あれでこそ真の道であると、世界に映さにゃならん。 (明治35.9.6日)
 (親神にもたれ、教祖を慕い、教の理を省みつつ、互に心を合せ扶け合うて、陽気に生活すならば、ここに、たのもしい道が現れて、その喜びは世界にひろまつて行く。親神は、これを望ませられる)
 皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。

【陽気暮らし考】
 おふでさきに「月日には、人間始めかけたのは、陽気遊山が見たい故から」という歌がある。陽気とは、「にぎやかで明るいさまを云う」と解されているが、要するに生命エネルギ-が充実して活動している様を云うと解した方が的確だろう。反対語は陰気。遊山は野や山に出かけて遊ぶことを言う。つまり人間を造った神様は、人間が明るく楽しみながら暮らすサマを見たいということになる。神様は人間が楽しく陽気に暮らすことを見たい、人間は楽しく陽気に暮らす様を神様にご覧いただくのが生きる務めということになる。
 「陽気暮らし」の意義につき、天理教教典は次のように記している。
 親神は、陽気ぐらしを見て、共に楽しみたいとの思わくから、人間を創められた。されば、その思召を実現するのが、人生の意義であり、人類究極の目的である。(92頁)
 親神の守護を身に受けつつ、人々相扶け合うて、明るく浄く、勇んで生を楽しむ境涯に生きる。(略)子供の成人を待ちかねられる親神は、この陽気ぐらしを見て、共に喜び共に勇まれる。(第10章「陽気ぐらし」)
 「第十章 陽気ぐらし」 その他で次のように解説されている。れんだいこが意訳する。
 助けの道は、その者たちを晴れやかな喜びに包み、湧き上る楽しさに満たす日々にする。それは、その者たちが温かい親神の懐に抱かれ安らぎの中に身を置くからである。これが陽気暮らしの境地である。親神は、人々の陽気暮らしを見て共に楽しみたいとの思惑から人間を創められた。されば、その思召を実現するのが親神の思いに適う道であり、自ずと人生の意義、目的となる。明るく勇んだ陽気な心で日々を送る裡(うち)に幸福があり生き甲斐となる。心がいずんでいては親神の心に適わぬ。親神の守護のままに日々を喜びと楽しみの中に生活するのが人生の妙味となる。心の窓を開き、遍き親神の光を身に受ける時、迷いの雲が晴れて明るい喜びの中に立つ。親神の守護を身に受けつつ生を楽しむ境涯に生きいそしむ日々こそ理想である。この生活の様を陽気暮らしと云う。「皆々心勇めば、どんな理も見え、どんな花もさく」。

 陽気暮らしは、道人が共に喜び共に楽しむところに現れる。道人の一手一つの心に自由の守護が頂ける。一手一つの理を欠くならば親神に感応しない。道人が互いに道の理に心を合せ、立て合い扶け合うてこそ陽気ぐらしが全うされる。親神は、人々の成人を待ちかねられている。人々が、世界中皆な一列が隔てない親神の子、兄弟姉妹という理を心に治め、高きものも低きものも、遠きものも近きものも互いに扶け合い、陽気に勇んで、心のきりなしぶしんにいそしむことを待ちかねられている。やがて全人類の心が入れ替り、世が自ずと立て替ってくる。助け一条の思召しが成就して、世界一列の心が澄みきる時、親神の守護は余りなく垂れ、ここに神人和楽の陽気づくめの世界となる。思えば、人類社会は、久しく文化の進展を遂げながらも徒らに迷いを重ね、行方も知らぬ闇路にさすらいつつ今日にいたつた。助け一条の道が人類に真の心の支えを与え、光ある行手を教える唯一の道となる。真の平和世界は、親神の理によつてのみ築かれる。この親神の道による陽気づくめの世界になる時、この世ながらの限りない生気溢れる楽土が全うされる。

 教祖は、このたすけの理を明かそうと、元の理を説き、所定の人と所と時の立て合いによつて、この教えを始めた所以を諭し、ここに、親神を天理王命と称えて祈念することを教えられた。教祖が教えを宣べ、身を以てこれを証し、ひながたを示された。教祖ひながたは道の生命である。人は、先ず身上や事情に手引きを頂き親神を知る。更に、身上は親神と人との貸し物、借り物なることを納得し、守護のあるところを悟り、ほこりを払い心のふしんにつとめ、かくして進む成人の道すがらで日々たんのうの心を治め、ひのきしんに勇む。治められた誠真実が他に及び道となる。道の子は用木(よふぼく)を志し、さづけの理を頂いて、たすけ一条にいそしみ、天の理を取り次ぎ、道の先達となる。ここに、不思議なたすけの実が次々とあらわれ更生されて行く。かくて、我も人も共に和し、一手一つの心に、楽しみづくめの陽気ぐらしの世界が守護頂ける。親神の望まれる真の平和世界が現れる。これぞ道の目標である。
 「第十章 陽気ぐらし」参照。
 人が、親神の守護を受けつつ、親神の思召しのまにまに、明るく勇んで生を楽しむ境涯に日々生きる。これが陽気暮らしであり、きりなし普請(ふしん)である。子供の成人を待ちかねられる親神は、人々の陽気暮らしする様を見て共に楽しみたいと願っている。人々は、この親心にもたれつつ、『世界中皆一列は隔てない親神の子としての兄弟姉妹』という理を心に治め、相互に扶け合いながら、教祖のひながたの道をたどることが期待されている。人々が、この人の環共和国造りに勤しむならば、やがては全人類の心も入れ替り、世は自ずと立て替ってくる。世界一列の心が澄みきる時、助け一条の思召しが成就して 親神の守護が余りなく垂れ、ここに、人の世は未だかつてない神人和楽の陽気づくめの真正の平和世界、生気溢れる楽土が全うされる御代を迎える。

 思えば、人類社会は、今日に至るまで徒らに迷いを重ね、行方も知らぬ闇路をさすらい、弱肉強食の阿修羅の世に棲んでいる。こういう時代は人類創造の際に親神が望まれた世界ではない。人類の歩みをあるべき姿のところに戻すなり創造せねばならない。その道しるべが教祖の教える助け一条の道である。これこそ、人類に真の心の支えを与え、光ある行手を教える道である。真の平和世界は親神の理によってこそ築かれる。親神の道が人々の胸に正しく治められることにより、人々が互い扶けのつとめ合いに向かうことにより、親神の待ち望まれる陽気づくめ世界が創造される。  惟うに、親神が、教祖を月日の社(やしろ)として現れ出でられるや、人間の陽気暮らしを見て、共に楽しもうとの、人間世界創造の思召しを告げ、 専ら助け一条の道を宣べて、助けづとめを教え、又、息、手踊りの授けによって、一列助けを急き込まれた。『元の理』を説き、この教えを始めた所以を諭し、ここに親神を天理王命と称えて祈念することを教えられた。教祖が身を以てこれを証し、ひながたを示された。正に教祖ひながたは 道の生命である。

 人は先ず、身上や事情に手引きを頂き、親神を知る。更に、 身上はこれ皆な親神の貸しものなることを聞かされ、親神の守護を悟り、ほこりを払い、心の普請につとめる。かくして進む成人の道すがらには雨の日も風の日もある。その中を日々たんのうの心を治め、ひのきしんに勇む。そこへ治められた誠真実は自ら他に及び、一人の道は多くの人々の道となる。道の子は用木(ようぼく)を志し、授けの理を頂いて、助け一条にいそしみ、天の理を取次ぎ、道の先達となる。ここに不思議な助けの実が次々とあらわれる。かくて、我も人も共に和し、一手一つの心に、楽しみづくめの陽気暮らし世界を創造する。親神の望まれる真の平和世界であり、 これぞお道の目標である。道の子は、親神の懐に抱かれ、ひたすら世界人類の平和と幸福を祈念しつつ助けの道に弥進む。
 「陽気ぐらし」は次のように解説している。
 (「陽気ぐらしとは何ですか?」の問いに対し)陽気ぐらしとは、私たちをはぐくみ育てる大自然を司る親神様の恵に感謝し、そのご守護に生かされ生きている喜びを身体いっぱいに感じながら、私たち人間が互いに尊重し合い、助け合って暮らす、慎みある生き方です。
 (「どのようにして陽気ぐらしを実現するのですか?」の問いに対し)人間創造の目的である陽気ぐらしへのたすけの手立ては、教祖を通して教えられました。それが「つとめ※」と「さづけ※」です。多くの信仰者が「つとめ」と「さづけ」を通して困難・苦労を抱える人々にたすけの手を差し伸べることで親神様が望まれる「陽気ぐらし」という生き方が世界中に伝わっていきます。
 (「悲しくつらい出来事は世の中にたくさんありますが、それでも陽気ぐらしはできるのですか?」の問いに対し)日常生活に生起する出来事には、それがたとえ病気や問題といった辛く苦しい人生の節となるような出来事であったとしても、そこには「あなたを陽気ぐらしに導きたい」と願う親神様の思召が込められているのです。天理教では「心通りの守護」と教えられます。人生に起こった出来事を通して今までの心遣いを振り返り、教えに照らして日々の心遣いを改めること大切です。いかなる境遇にあっても、心の用い方一つで陽気ぐらしへの道を切り開くことができるのです。

 「第3章:「陽気ぐらし」と他者との共存——告発倫理への代案」その他参照。
 「陽気ぐらし」は、天理教が志向する生活思想である。単に個人の快楽や幸福の追求ではなく、相互扶助に根ざした倫理的・社会的実践により他者との共存を企る。これは「喜び合う」、「分かち合う」、「共にある」ことを基盤とし、排除や断罪とは対極の価値観を持つ。

 現代社会では、正義感が他者を批判・攻撃する動機となることが多く、それが「正義の名のもとに孤立や対立、暴力を生む結果となる。一方、天理教の「陽気ぐらし」は、他者の欠点を糾弾するのではなく、共に成長し共に喜びを分かち合う関係の構築を志向する。この倫理観は、「善悪」の単純化を超えた共感的まなざしを育む。また、天理教の「ひのきしん」(無償の奉仕)は、言葉や立場による正義の主張ではなく、身体的精神的な働きを通した具体的な行為としての善を重視する。これは、自己の正当性を訴えることによって他者を裁く「モラル・グランディスタンス(道徳的誇示)」とは正反対の実践である。「陽気ぐらし」は、心の在り方を整え、他者との信頼関係を築くことを通じて、倫理が共同体の中で自然に生まれ、育まれることを促す。この実践は、現代的な告発倫理に対して、静かで着実な代案を提示するものである。

 「陽気ぐらし」がどのようにして他者との倫理的共存を可能にし、分断を超えて共生の力を育むのか。現代における「正義」の多くは、他者の断罪と自己の正当化を伴い、共同性を断片化させる危険性を孕んでいる。これに対し、天理教の「ほこり」や「たんのう」は、断罪ではなく気づきと内省の契機であり、「陽気ぐらし」は他者と共に喜び合うことを基礎とした倫理的生活の提案である。ここには、排除による一体感ではなく、赦しと共有による共生の道が示されている。正義の名のもとに対立と疲弊が生まれる時代において、天理教は「共にある」ことを第一義とする宗教的想像力を提供し、分断された社会において静かに倫理の根を育てていく可能性を有している。





(私論.私見)