ひのきしん論

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.9.22日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「ひのきしん論」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


【ひのきしん論】
 お道教理の「ひのきしん」(日の寄進)論は次の通り。

 「寄進」(きしん)は、社寺などに金銭、物品を寄付することを云う。お道では次のような教理になる。

 人間は、親神様から身体からだをお借りし、日々に親神様の十全じゅうぜんの守護を頂いて生きている。これを当たり前と受け取らず、「親神によって創造された御恩、今もご守護されていることの御恩、身上事情において病まず弱らずの身であることの有り難さの御恩」に感謝を申し上げるのが人としての自然な情の発露であろう。そこで、お道では、その御恩に報いる感謝(神恩感謝)の心からの労働を捧げる教理を生んでいる。これを「ひのきしん」と称す。「ひのきしん」は「日の寄進」、「日々の寄進」を略したものである。

 「ひのきしん」は、「元の理」、「貸しもの、借りものの理」が真に心に治まったとき、その喜びと感謝が自ずから行動となって表れ出るもので、世間の労働観とは違い無償の労務提供による奉仕活動を特質としている。一般的には、
寄進きしんは「社寺などに金銭・物品を寄付すること」を云うが、お道教理では、身をもってする神恩報謝の行いをも寄進と見なしている。「ひのきしん」は、貧富や老若男女ろうにゃくなんにょの別なく、真実の心一つで誰にでもできるものである。

 御神楽歌には次のように記されている。
 八ッ 病むほど 辛いことはない
     わしもこれから ひのきしん
三下り目8ッ
 一ツ ひとこと話しハ ひのきしん
     匂いばかりを かけておく
七下り目1ッ
 八ッ 屋敷ハ神の 田地やで
     まいたる種ハ 皆なはへる
七下り目8ッ
 一ッ  ひのもと しよやしきの
     神のやかたの ぢば定め
十一下り目1ッ
 二ツ 夫婦揃うて ひのきしん
     これが第一 ものだねや
十一下り目2ッ
 三ッ 見れバ世界が 段々と
     もっこになうて ひのきしん
十一下り目3ッ
 四ッ 欲を忘れて ひのきしん
     これが第一 肥えとなる
十一下り目4ッ
 五ッ いつ/\までも つちもちや
     まだあるならバ わしもゆこ
十一下り目5ッ
 六ッ 無理に止めるや ない程に 
     心あるなら 誰なりと
十一下り目六ッ
 七ッ 何かめづらし 土持ちや
     これが寄進と なるならバ
十一下り目7ッ

 お筆先には次のように記されている。
 にち/\に 心つくした ものだねを
 神がたしかに うけとりている
おふでさき号外
 教祖は次のようにお諭し為されている。
 「」。
 お指図には次のような御言葉がある。
 助けとても一日なりともひのきしん、一つの心を楽しみ。助け不思議普請、真実の心を受け取るための不思議普請(明治23年6.15日)
 この人ににをいを掛けんならんと思えば、道の辻で会うても掛けてくれ。これからこれが仕事や(明治40年4.7日)

 天理教教典第8章76-78pは次のように記している。

  日々常々、何事につけ、親神のめぐみせつに身に感じる時、感謝の喜びは、おのずからその態度や行為おこないにあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる。
  ひのきしんは、信仰に燃える喜びの現れで、その姿は、千種万態である。必ずしも、土持だけに限らない。欲を忘れて、信仰のままに、喜び勇んで事に当るならば、それは悉くひのきしんである。

【ひのきしん的労働観考】
 お道教義の「ひのきしん的労働観」は、新たな人類の労働の在り方を示唆しているかも知れない。この労働観は、キリスト教的な「働くことは贖罪である-罪を背負って生まれてきた人間には、その罪を贖うために労働に服さねばならない」(マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」)の対極に位置している。

 小滝透氏の「いのち永遠に」は、マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を次のように要約している。
 禁欲的ブロテスタンティズムの諸宗派は、多少の違いこそあれ、いずれも神からの救済の確証を得るために、選ばれた職業に専念し邁進することを基本とした。その為、彼らは世俗的欲望、世俗的享楽を徹底的に退けた。と同時に、日常の暮らしの中に可能な限りの合理的組織性を持ち込んだ。そして、それを自らの絶対規範として内面化した。こうした救いの確証を得るための職業への専念と、そのための世俗的禁欲や合理的組織性、そしてその結果出てくる世俗的禁欲の内面規範化が必然的に導かれた。ウェーバーはこうした禁欲的プロテスタンティズムの倫理規範を『資本主義の精神』と呼んだ。加えて彼は、禁欲的プロテスタントにとっては、こうした資本主義の精神のもとで生産される安くていい商品の搬出が隣人愛の表出であるととらえられ、また計算合理的に組織された『時間即労働』の関係が確立することから、資本の蓄積が可能となり、資本主義の成立が為された、と見るのである。つまり、資本主義とは、キリスト教の一派=禁欲的プロテスタントの労働観が形成したということになる。そしてその一番の元をたどれば、『彼らの労働観とは、自己の救済の確証を得んがため』ということになる。
(私論.私見)
 「小滝透氏のマックス・ウェーバーのプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神の要約」が上記の通りとすれば、資本主義の精神をこういう風にプロテスタンティズムの倫理と結びつける受け取り方は既に古いと云うか、歴史的ユダヤ商法そのものの発展系と見なす受け取りから目をそらしている点で問題があると云わざるを得ない。マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、資本主義精神の合理化であり、彼もまた国際金融資本陣営側の一員でしかなかった、と云うことになる。こういうところに本質が現れる。

 2016.6.6日 れんだいこ拝

【ひのきしんの諸形態】
 「ひのきしん」の相方次第による次のようなものがある。
「単騎ひのきしん」 独りで参加するひのきしん。
「夫婦ひのきしん」 夫婦で参加するひのきしん。
「家族ひのきしん」 家族で参加するひのきしん。
「連れ立ちひのきしん」 友人、知人等の連れ合いと一緒に連れ立って参加するひのきしん。
「会社ひのきしん」 会社の同僚たちと参加するひのきしん。
「町内地域ひのきしん」 町内や地域の外たちと一緒にさんかするひのきしん。
 「ひのきしん」の種類による次のようなものがある。
「伏せ込みひのきしん」 ぢばに伏せ込むひのきしん。
「御用ひのきしん」 それぞれの教会での御用に務める。
「土持ちひのきしん」
「もっこかつぎひのきしん」
場所を問わずの建設労働に於ける勤め。
「清掃ひのきしん」 神殿や公共施設や福祉施設での清掃。
「災害救援ひのきしん」 災害救援。
「匂い掛けひのきしん」 布教。
 松下幸之助が天理教本部の「ひのきしん」に接して感動を覚えた逸話が遺されている。宗教法人生長の家でも同様の観点から「捧(献)労」を位置づけている。

 昭和7年3月、松下電器創業者の松下幸之助氏が初めて天理を訪れ、天理教独自の奉仕活動である「ひのきしん」に接した際の感応を伝えている。この時期は「昭和普請」の名で知られる、天理教史に残る大規模な建設ラッシュの最中で、この月の「ひのきしん」の参加者だけでも10万人もの信者が往来していた。教会本部の境内地に到着した松下氏は、広い境内地の北の方角から、もっこと呼ばれる荒縄で編んだ網を木の棒に吊り下げた道具を肩に掛け、二人一組で土を運ぶ大勢の信者が次々とやって来るのを目撃した。案内役の知人が「あれは土持ちひのきしんですよ」と説明した。一般に寄進とは神社や寺院に対する物品や金銭の寄付を云うが、天理教の「ひのきしん」とは働きを寄進することをいう。それは神によって生かされていることへの感謝を起点としている。ひのきしんの中でも、もっこに土を入れて運ぶ作業を特に「土持ちひのきしん」と呼ぶ。松下氏は、土持ちひのきしんにいそいそと励む、おびただしい数の信者の姿に感銘を受けた。常識では、「人が働く」のは生活のためであり代価をもらう。ところが、ここでは多くの人々が無償で実に楽しそうに働いている。喜び勇んで奉仕し意気揚々と各地へ帰っていく。その心中は、神様に対する、生かされていることへのささやかな恩返しであり、それができるだけで有り難いと得心している。松下氏は、無償でも明るい心で勇んで動けるのは「使命観を持つこと」によってだと得心した。私的利益を超越して、公的利益のために働くことの重要性を、天理訪問を通じて知った。松下氏は、知人に促されて本殿に昇殿した。次のように回顧している。
「本殿へ参拝した。その建物の規模の壮大さといい、用材の結構さといい、普請の立派さ、ことに掃除の行き届いて塵一つ落ちていないありさまなどには自然と頭が下がるのを覚えたのである。また信者の人々も神殿の歩行には、他宗教の本山などには見られないような静粛さと敬虔さがこもっており、その神殿の前に額ずく様には一見して熱心な信者とおもわしめるものがある。自分もこの雰囲気につられて、思わずもうやうやしい念にうたれて礼拝をしたのである」

【全教一斉ひのきしんデー】
 1932(昭和7)年、「全教一斉ひのきしんデー」が始まつている。日ごろのひのきしん活動の集大成として、全教のようぼく・信者が、それぞれの土地所で心を一つにひのきしんをする日である。この全教行事は、現在は毎年4.29日に実施されている。この日、各地の名所旧跡、公園や公共施設、海、山、川などで、報恩感謝の汗を流す教友の勇んだ姿が見られる。





(私論.私見)