| 伏せこみ論 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.21日
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、「伏せこみ論」教理を確認する。 2016.02.29日 れんだいこ拝 |
| 【伏せこみ論】 | |||||||||||
| 天理教教理に「伏せこみ論」がある。「伏せこむ」という用語は、農業で土を掘って種を植え土を被せたり、ジャガイモやサツマイモなどの種イモを埋める作業を云う場合に使われている慣用句である。天理教教理において、これを直接的に解釈すれば(これを仮に「古典的解釈」とする)、人類創生の磁場としてのおぢばに身柄を移してお道活動に挺身することを云う。その際、教祖が、近隣の貧民に惜しみなく財を分け与え、自らの財産のうち生活ぎりぎりのものを残した後は世の中に喜捨して裸一貫から再出発させたひながたに倣い、一家の全財産と今後の行く末をお道に寄捨し、無一物無一文からの生活の立て直しに入ることを意味していた。典型的には、後に本席となる飯降伊蔵一家のお屋敷への住み込みが一例である。但し、お屋敷内への住み込みは人数が限られるので、次第にその周りに居を構え、あるいは地元民として通い等々でお道の御用に与るようになった。これも「伏せこみ」という。後に各地に教会ができるようになると、おぢばに準じて教会に寄捨、ないしは住み込みするようになった。これも「伏せこみ」という。いわば原始共産制的絆を創出せんとしていた。 現在、教内ではこうした伏せこみは寡聞になっている。それは、お道を信用信頼し伏せ込んだ者の成り行きが悲惨な結果になった例に比例している。恐らく、教祖が在世していた当時に於ける財産共有的共同体は、教祖の恩寵を通じてのみ意味と意義があり、教祖が没した後において「一家の全財産をお道に寄捨して、今後の行く末を教団に任せる」ことは侠気ならぬ狂気に化す故だろう。そういう意味では、「伏せこみ」の寡聞は平衡を得る流れだろうと思われる。但し、その精神まで流してしまうのは如何かと思わぬ訳ではない。 その後、「伏せこみ論」は生活総体のものでなく、一時的な「ひのきしん」的なものをも吸収していくことになっている。そこで、これを広義に解釈(これを仮に「今風解釈」とする)して次のように説かれている。「伏せこみとは、人のため、世のために一生懸命つくし、人や物、金銭を目標(めどう)とせず、親神様を目標(めどう)とし、一条に真実をつくしきること」を云う。これを仮に「理の伏せ込み」と拝察する。 |
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御神楽歌は次の通り。
親神様一条に徹し、「ふせこんだ」真実の種は、旬が来て芽となり、必ずいつかは一粒万倍となって現れる、と云う。同じように、人の善行も、直ぐには現れないが、時が経てばその陰徳により幸いとして報いられる、と諭される。 |
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| お筆先に次のように記されている。
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教祖は次のようにお諭しなされている。
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| お指図教理は次の通り。
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「50年後の天理教を想う」。
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(私論.私見)