教祖の宗派問答

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年10.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「教祖の宗派問答」教理を通じて天理教の宗派的立ち位置を確認しておく。

 2006.1.23日 れんだいこ拝


【教祖の宗派問答】
 天理教は神道か仏教かとの質問に、どちらでもありません 分類上では「諸派、その他」となりますなる回答があり、これが通用している。れんだいこは、この回答は違うと思う。以下、究明する。
 御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
 教祖は次のようにお話しなされている。
 教祖におたずねしました。『近頃、大阪で十字の”しるし”を拝む信仰がはやっていますが、あれは何でございましょうか』と。教祖仰せには『十柱の神をわすれんように十字をおがませてあるのやで』と。
 (「教祖おおせには」、〔註〕中西牛郎氏の著作中に出ていたと思う。昭和六十年四月発行「教祖 おおせには」高野友治著(天理時報社印刷)18~31ページより)
 『禅宗とはどういう理でしょうか』とお尋ね申し上げると、『ぜんから引き出す理をもって、”ぜんしう”という』とおっしゃったという。また、『真言とはどういう理でしょうか』とお尋ね申し上げると、『真をつなぐ理をもって”しんごん”という』とおっしゃったと聞く。(私はこの話しを松村吉太郎先生にお聞きした。これが明治19年の話しのようだったが、松村先生は、うまくかわされたように思ったと言っておられた。思うに、神様の”働き”であることをおっしゃっているのではないか。神の働きを十に分けて、その中に、”引き出し”の働きもある。”つなぐ”働きもある)
 (「もろもろの質問 」、昭和五十四年十月発行「神の出現とその周辺」(高野友治著作集第六巻、道友社刊)75~77pより)

【教祖の宗派問答のお指図】
 お指図には次のような御言葉がある。

【教祖の仏教観】
 中西牛郎「神の実現としての天理教」(昭和4年)の「第2章 教祖、第2節 教祖の教育及び其の結婚」のp.66-67に以下のように書かれている。
 浄土教を信じ給いたる教祖が、何故に他の多くの神仏を信じ給ひたるか。この二個の疑問に対する解答は、左の如しである。
 この世は文殊、普賢を始めとし、馬鳴(めうな)、龍樹、天親も、南岳、天台、四明も皆これ浄土に期し給ふ。況んや我らは愚かなる、如何に願はぬ ありぬべき。三千世界をおいてぞ、たしかに清浄見定めて、心得違いのなきやうにせよ。
 
 これは明治15年4月、即ち教祖85歳の時、松村吉太郎氏の尊父榮次郎氏が地場に詣りし時、御発表になった神諭である。

 同じ文章がカナ書きで、『高安大教会史:上巻』(p.41)にもある。『おふでさき』17号外の天啓とも書かれている。
 このよふは、もんじゅ、ふげんをはじめとし、めうな、りうじんも、てんじんも、なんがく、てんだい、ようめいも、みなこれじよどへ、ごしたまふ、ゆわんや、われらはおろかなる、いかにねがわにありぬべし。三千世界をおいてぞ、たしかに、しようじしようみさだめて、こころちがいの、なきやうにせよ。 

 教祖が仏教はむろん世の様々な思想宗教に通じていたことを知らせ、且つ理解のレベルがかなり高かったことが伺えるエピソードである。

【教祖のキリスト教観】
 中西牛郎「神の実現としての天理教」(昭和4年)の「第2章 教祖、第2節 教祖の教育及び其の結婚」のp.79以下の次のように書かれている。
 教祖の御晩年に、或る人がキリスト教の十字架を持って来て、これは何でありますかとお尋ねしたら、教祖答へて、それは完成の意義であると答へ給うたことがある。

 中西の解釈では、十字架=十柱の神の象徴である。キリスト教は天啓の教えの預言で、キリスト教こそ天理教に属するものであって、天理教はキリスト教に属するものではないと解釈している。歴史的な大伝統のあるキリスト教の啓示は天理教の前触れであるという見立てであり、クリスチャンからすれば、とうてい容赦できない異端の思想となろう。十字架=十柱の神の象徴とはこじつけにも聞こえるが、天理教が一神教で、ユダヤ・キリスト教と酷似していることは確かである。明治期にはいって、キリスト教の禁教が解け、西洋化・英語教育とともに日本国内に広がったことは確かだ。しかし、教祖がキリスト教の宣教師から影響を受けた史実は残っていない。「完成」という言葉で、キリスト教をかなり、高く評価していたのではないかと推測される。

【教祖の宗教宗派問答のれんだいこの解】
 以上より、れんだいこの解は、天理教は神道か仏教かとの質問に、どちらでもないとの回答は正しくないとして、次のように答える。結論は、神道か仏教かとの二択では神道と答える。「但し」がつく。この「但し」が重要であるので、正確には「二択で聞かれれば神道になるが、より正確には公認的な神道ではない。敢えて言えば、古代の国譲り政変で政権を譲った側の出雲王朝が信奉していた系譜の神道に列なっており、これを簡略に云えば古神道系譜ということになる。その後の日本に於いて神道と古神道は併存しているが、原理的なところで相いれないところがあるので、単に神道と云うのは拙い。そこで「諸派、その他」とすれば良いかと云うと、神道以外の派ではないので「諸派、その他」とするのも不都合である。よって、「神道の古神道系譜」とするのが良い。但し、目下の天理教本部教理はユダヤ-キリスト教教理の影響を受けて改変しているので、この観点からは「神道の古神道系譜」とする認識は生まれないだろう。以上、この問いは、問としては単純なのだが、解答としてはなかなか意味深なのである。忽ちはこう応えておく。

 2026(令和8)年8.18日 れんだいこ拝




(私論.私見)