原理論その2 信仰観、諭し悟りの道その2、転輪王信仰

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.5日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、みき教理の「信仰観、諭し悟りの道その2、転輪王信仰」を確認しておくことにする。

 2011.5.26日 れんだいこ拝


【南無転輪王】
 南無は南無阿弥陀仏の南無であり、これが転輪王にも使われて南無転輪王となっている。帰命頂礼(きみょうちょうらい)も「帰投身命」も仏教用語で、帰命頂礼は、阿弥陀仏に任せてすがり、助けていただくことを云う。「帰投身命」は、阿弥陀仏になりきって阿弥陀仏のように人助けをする誓いを云う。転輪王も仏教の経文の中に出て来る王で、大日如来叉は釈迦如来の姿で表わされる。輪宝を持ち、邪な人のところに飛んで行き、邪な心を打ち砕いて、優しい人をそこに残す車輪である。転輪王は、全てを難渋助けに向かう。理想的な人間、王様を名付けて転輪王としている。この王様の心になるのを南無転輪王の心定めと云う。

 教祖は、天保9年10月26日、転輪王の心に成りきって全てのものの難渋を助けて皆の喜ぶ世界を創るという暮らしに向かう事を宣言した。

 教祖は次のようにお諭しなされている。(「おやさまのおことば(3)」)

 お指図には次のような御言葉がある。

【天理王命信仰】
 「○信徒名簿教祖にそなへる
 道に尽せし人間の履歴が”こふき”として参拝所に祭られる冊数は百二十冊であって、天理一代記となる、悪人が廻りて来たら、これを読み聞かせると罪滅しとなる。道に尽くせし担任の像を祀りて、地場では清き心の者が集りて陽気ゆさんするようになるのや。(之は、板倉槌三郎先生に聞いたように思う。祖霊殿の事ではないかと思う。昭和28・4・28、梶本宗太郎記)

 ○明治三十五年一月二十四日 喜多治郎吉先生に聞く
 仏法では、辻々にある石地蔵を見て、南無あみだぶつと唱えても罪ほろぼしになると言うが、道は、天理王命と常に頭に忘れず、田に肥をおくにも、桶に水一杯に小便三しゃくまぜて、一しゃくづつなむ天理王命と唱へて拝めばよくきくのやで(喜多先生にきく)」。(「天理一代記」 、「復元」第二十二号「教祖様のお話」梶本宗太郎より)

【祓の思想】
 みき教理によれば、「座りつとめ」で表現される際の御歌に「悪しきを払うて助けたまへ てんりん王のみこと」、「悪しきを払うて助けせきこむ 一列澄まして甘露台」と「払い」の言葉が述べられている。見落としがちであるが、「払い」は「祓い」であり、「禊(みそぎ)」の思想を核としていることが分かる。これが如何に重要なことかは、みき教理の古神道との疎通性に照らして明らかになる。これを逆に云えば、みき教理が古神道的な禊思想を受け入れていることが判明すると云うことになる。

 このことは、みき教理の思想的位置づけを確認する意味で重要である。みき教理を神道、仏教、ユダヤ−キリスト教、その他宗教のどの圏内で理解するのかが問われ、そのどれにも属さないとする見解があるが、果たしてそうだろうか。れんだいこは、みき教理は、神道の内の古神道に属すると見立てる。この祓思想が根拠の一つである。これを理解するには神道に対する素養を要する。神道は、古神道、天皇制神道、近代天皇制神道の三構造に分岐しており、みき教理は古神道に属すると見立てたい。

 このことは天理教の教派神道十三派の加盟と離脱経緯に関係する。天理教は、出雲大社教、御嶽教、黒住教、金光教、實行教、神習教、神道修成派、神道大教、神理教、扶桑教、禊教、大成教と共に神道十三派に加盟していた。明治28年、教派神道の各派はその連合会(現・教派神道連合会)を結成し、この会は戦後も存続し現在に至っている。途中で大本教が加盟し、大成教、天理教が脱退し、現在は12教団により構成されている。 天理教は神道ではないということで離脱した。


 2011.1.3日 れんだいこ拝

【神様の理】
 「神様之御顕現」参照。

 伊勢国五十鈴川の水上に鎮座まします日本総社内宮外宮様はいざなぎいざなみ様、月日二神御入込み下されたる天照皇大神宮なり。御添い下さるはつきよみの命、くにさづちの命にして月日様の一の道具神様なり。讃岐国琴平山に鎮座まします金毘羅宮の御神体は大己貴の命にして即ち大国主の命なり。金の神きんぴら様なり。舟神にして舟を自由自在にするなり。山城国伏見に鎮座まします稲荷神社と云うは往古即ち神代の時、天の親神始めて人間に米を与えられたる時、種配りを命ぜられたる神なり。心正直にしてよく勤労せられし故、米の神様と成り給う。家々かまどの上に祭る三宝大荒神は人間の命であり、世界水火風三つの宝である。身体にては水気温熱呼吸の三なり。この三つは平常欠ぐべからざる物なれど洪水、大火事、暴風となる時は恐るべき大の荒神なり。故に三宝大荒神と崇むなり。かまどは六台の事なり。六台とは木、火、土、金、水、風の六つにて命を保つ故に九の土と云うなり。くどは九つ胴、六台に三つ載る理。

 出雲大社は大国主の命なり。縁結びの神又弁才天と祭るも同じ。金毘羅宮も同じ。金の神と祭る金銭も続ぎ舟も続ぐ。弁財天美女の姿を描きたるはくにさづちの命の御徳を現わす。恨み残念三代持越せば癩病と云うはこの神様の立腹による。この神様は人間万物続ぎ一切、又表の神様ゆえ見える所美しき、奇麗なるは何物に限らず表の続ぎはこの神様の御神徳の現われ故、この神様の心に叶い、その道に徳を積んだ心の理が美人と現われるなり。人を続ぐは人を立てる天の理を立てるも同じ理、又音声の美はかしこねの命の御神徳。

 つきよみの命は昔より弓矢八幡大明神と祈りたる勢いの神である。破軍星軍を破ると云われる如く、誠を立て貫きて、善に突っ張り抜き、挫けぬ、悪を破る勢いの強き御心にて、この神様の徳によって世界万物は倒れず立って居る。万の物事成り立つ納めの神にして立てる事に強き神様である。一日立つ一月立つ一年立つと天理を読み給う理にてつきよみの命と云う。勢いが弱くては何事も立たぬものなり。人間の埃と云うは我が身の思惑を立てんとして誠を失い、天の理を立てぬ、破る故に我が身が立たぬようになるなり。

 この神様は道教えの神と云う。地蔵神とも云うて道分けをする。例えば此方は山、此方は海という、こう行けば間違う、こう行けば道という教えであり、この神様が抜けてある人はできぬ。この神様の御心は八方八神の括り故、この理が立てば皆な理が治まる。

 五行の道では礼というは、この神様より出て居る人を大切にすることを云う。人は互いに立て合い助け合う礼儀という。人間も追々成人するに従い人を立てる事、行儀作法などが分かって来る。我欲の汚い心が清浄な立て合い助け合いの神の心に絡むに連れて、この理のないもの程下等になり難儀する。神様も『段々と子供の成人を待ち兼ねる、神の思惑こればかりなり、成人次第見えて来るぞや』、と仰しゃってある通りである。故に御道は皆な深い尊いことを云うてあるなれど、我々の心が進んで行かねば聞いても分からん。

 聖徳太子様はこの神様の御変化なり。建築大工業の守り神にして立ち木、建物、立ち柱を祭る。宇宙間一切の建築物はこの神様の理によりて建って居るゆえ倒れぬ也。かの昔より城頭棟頭にしゃちを飾りたるはこの神様の理なり。甘露台勤めに鼻高面としゃちほこをこの神様の所に飾るはこの神の御神徳をかたどりたるものである。鼻高と云う理がこの神様にある。鼻柱顔の辛鼻で顔が立つ鼻も立つという理はこの神様の理なり。筋道を立てるという、誠を立て道を立て人を立て親を立てる。女なれば夫に貞女操立てる如し。成すべき事をきちんと成す、人に恩を受けば恩を返す如き皆な筋道を立てる理である。

 あの人は鼻を高うして居るというが如く人間は成すべき事を成して踏むべき道をふみ、何所へ出ても恥ずかしからぬ道を通り立派に行うて居れば鼻高うしてぴんとして居れる。低いはその反対で、人にすべき事をせぬ、例えばこうすればよいに、あゝすればよいけれどと思う事をせずにおくが如く、成さねば実が乗らぬ、その成さんのは埃から成さんその因縁で物が与わらぬからようせぬ。故に人の中に出ても鼻低うして居らにゃならんが如し。鼻筋の潰れたる者は、我行うべき理を立てずして大いに人の恩をかぶりて来たる理。鼻筋の立つはこの神様男一の道具も同じ理。又一の道具が立たねば一家世界も立たぬ。鼻は人生の舵取りを語っている。鼻の落ち、曲がりた者に考えのよいものはない。鼻高天狗はたいしょくてん様の理で切れ物が上手なり。思い切るから立つ。一に勢いと云うて天狗は神故に人間の心の勢いに乗って働くものなり。天理の事を読むからつきよみの命、天理の風を守るから大日如来天理の道を守るから不動明王。

 大日如来はかしこねの命の御変化なり。この神様は世界中のもの言いを司る。この神様は休みなしである。人体でも肺は生まれてから死ぬるまで夜昼一つも息は休まぬ如く、かしこねの命は風の神、誠の神様故、人を憎まぬ治める神なり。人に満足与えると云う御心にて堪忍の風というて不足腹立ちを風に出さず寛大にしてどんな者にも分かる様説いて聞かす。如何なる事でも善き方/\と物事の治まる様/\人に足納与えるよう、誠から優しく言葉を吹かすのがかしこねの命の智恵なり。それ故に如何なる事も皆な善悪が分かりて世が治まるなり。聞かすという助けると云うは心を治めるも同じ。この世は言葉の理で治まる世界なり。陰陽和合によりて陽気を生じ、水気と温みが合うから風が出る如く、天の理に合えば誠の風知恵が出る。御教祖が月日の御心に合致せられて神様の御言葉が出たるにより世界助けの御道が始まる。教祖の神聖なる言行風儀は天理の風なり。又神がかりの言葉の一条が天の自由用と云うなり。

 人間も天の理に合わぬ、天理に切れて居る心を以って働き居ては陽気に勇むことができず、智恵も出ぬ、一身が治まらん。例えば人と人との心が合わず仲が悪ければ物云わぬ心になる。合わして睦まじければ家内の中でも陽気になる。人と交際して智が付く如く、子供が学校に行きて一年の間に非常に智恵が付くは、先生が教える事を一心に覚えて守って居るからである。全て心の合うた先生につかねば智恵がつかんが如し。天の理に切れ、天の理に合わねば何程苦心しても頭が進んで行かん。

 又この神様は義の神様、義理と云うも同じ。この神様から義と云う事は出て居る。月日二神からかしこねの命に美と云う事は御任せになって居る。云うた事を違えん、云うた事の違わぬという定役をたがえぬ如く人間は義が大切である。この神様は未申。羊に我と書く、羊ほど義の堅いものはない。羊は虎に向う時は朋友を助けるために我も/\と皆な先に/\進んで行く。我が身を虎にあてごうて朋友を助けようとする性を持つ。昔の武士道でも義で持って居た。例えば武士に二言なしと云いて義を守った。義を立て、不義なる事は死しても成さんという義を重んじた。これ義の徳也。人間には勿論義がなくてはならぬ、義は誠、我が身の小さい欲を捨てて例え我が身を犠牲にしても人を助けると云う。又国家の万人の為に尽くすという真実誠なればその心は神と同一、必ず神に分通する故天晴れの働きができる。神は人間の心に乗って働き給う故、誠によって神の働きが現れる。神言に、『我が身捨ててもと云う心なれば神が働く』、と仰せある通り、人間は我が身を案じる身欲から心が小さく穢く暗くなって徳を落とす。真の誠なれば天が守り給う故、天運尽きず長久なり。誠がなくしてこの世の役にも立たず。我の埃を積み、天の龍頭が切れて神退けば脆い。

 事業は神の心に乗って働きあるものなり。又国家の為世の為に犠牲となって功労を残して死したる魂は直ちに生まれ出でて国家の上に立つ。天徳を以って世に現れる故、万人の尊敬を受ける。上に立たるる人は皆な前世に世の為に尽くされた因縁ある魂にて、これが因縁心の道なり。

 この世は神の世界であり一寸先が分からぬ。人間の自由になる世界ではない。人の神魂は神の分心故、身体はいわゆる水の泡同然のものなるが魂は神と共に不滅なり。人間の生死は神の支配にて人力の左右すべきものに非ずして神の自由にあり。我が身の欲を去って我が身を犠牲にして人の為、国の為に尽くすという位な真実があれば、この神様入り込み給うて実が利くなり。我が身の欲で田地や山林や財産を持ち又金を貯めようとするような間はこの神様の通力が利かぬ故、天徳ができん。身薄になくてはできん、身薄にならねばこの神の実が利かん。

 世の中に芸人とか歌或いは浪花節とか鳴り物を以って人を喜ばす事に達者なものも理は同じ。又天性美声にして人に珍重敬慕を受ける人はこの神様の理に叶うたきれいな心にて前世に人の為になる言葉を使いてある理で、或いは人を喜ばせ人を助けその道に徳を積んだ因縁あるなり。すべて陽気に面白く話しをして人を喜ばすとか勇むとか笑わす方面はこの神様の理に叶う方である。これの反対で我の欲心から色々と人を害する、人の心を煩わしい、人の腹立ち恨むような悪口そしり話や悪風を吹かす方は皆な我の徳を落として行くなり。

 声のよいと云う理は中々意味が深い也。又鳴り物は人間言葉の理と同じく鳴り物の一番は*が第一位のものなり。これは心の格好という理で、心の格好は悪しき所を立替せねば格好よくならぬ。又三味線は鳴り物の中でも広く用いられ僅か三筋にて最も美妙なる音調を発し人心に陽気を与えるものなるが、三味とは言葉の理にて三つの味わいと云う理で強いと弱いと中程全て言葉は心の現われにて人を助ける事も人を苦しめる事も大にしては世を治める事も世を乱す事も皆な言葉が働いて居るもので大切のものなるが、例えば御道一条或いは一家の子弟を教育するにも何時も柔らかな言葉だけでも育たぬ、助からぬ者あり。却ってその者一生をあやまる事あり。強気厳しき教育にて助かり、生涯の出世さす者とあり。皆な云うに云えぬこきゅうがある如く、埃なききれいな即ち誠親心より施す言葉はたとえ厳しき内にも温かき味わいのあるのみならず、人心を感化し教訓するの力あるもの故、人の心育つなり。

 不動明王はおおとのべの命の御変化なり。不動は動せぬという理。盤石の如くと云うて人を助ける為には、誠の為には心を変えぬという理なり。かの仏像に炎の中に真っ黒の像が剣を以って泰然たる姿を描きたるは、たとえ如何なる中でも心を動せず苦労を厭わぬという。この神様の御心の姿を教え給う御道なれば如何なる悪因縁、埃の中も切りぬきて埃にまびれぬ心を倒さぬ、人を助けるためには真心を変えん誠一筋押し通すと云う真実、定まったのが不動の精神。

 又この神様とつきよみの命二神で秋ができて居る故御心もこの二神同じ所がある。酉戌亥秋の神、力の神、働きの神、御守護も御添い下さる。この神様は出世神とも云うて人間は自慢や高慢では出世できるものではない。低い心で万事行き届く心を開き、実力を蓄えれば自ずと神が引き出しなさる、万物引き出しの神様である。全て我が働き骨折りして人に十分与えると云う心になれば我が身に力が備わる。又恩を返すと云うことに力を入れて人に引き与えすれば自身に力ができる。殊に御道はこの理が大切なり。身の内では筋の御守護を司る。筋は全身に行き渡って働いて居る。たとえ一小部分でも一分でも足らんとか短かったら筋を釣って伸縮の自由叶わぬ如くで、隅から/\まで八方に心を配りよく行き届く神様である。人間もその心の理で十分物事を心に納める、それ故に人に満足が与えられるなり。

 私は行き届かんまだ/\十分学びて上達せにゃならんと自分の短所欠点と人の長所が見えて人を見下げる心、切る心なく、心使いの低い柔らかにして熱心の強い心から日々に徳がついて上達する。又人がこう云うから人がどうしたからとて、心がたよ/\して倒れるような真実の定まらぬ薄弱な心では何事もできん。たとえ人がどう云おうとも我がこれをやりぬかねばおかんという変らん狂わん、真実の据わった辛が立つから延び上がることができる。この心のないような者は役に立たん。と云うのは世の中は多くは埃に染まりて徳を落とすのであるから、自分の悪性質を切り、天の理を胸に納め、心澄まして誠一筋押し切って、世の中の為人を助ける技量実力の天徳を得るに意思の強固なる迷わん、動せん、強き誠を立ち抜く真実親心が不動明王なり。

 御教祖が雛形、教祖が如何なる中も世界の子供助けるために盤石の如き心にて御苦労下された故、この道ができ立った。もし御教祖が御苦労艱難に堪えられず中途御心倒し心を変えて居られたら、神の思惑たるこの道どうなって居るかと云う、その強気誠が末代まで光り輝くのである。

 高慢は、学ぶ事を学ばず、自身行わず、理屈で人を押さえるとか、知らん事でも知り顔をする、自分で分からん事やない事を云うて人を迷わし人に迷惑を与える。高慢では力はできん。高慢を去るから力が与わる。心に力のできるはこの神様つきよみ様の理。理屈が達者になって人を押さえて見ても、人を教育する仕込む、全て実力がなくては役に立たぬ。又身の内はこの神様の入込んで端々まで何所でも伸縮自由自在できる。この位優しい素直な心はない、十人が/\に人を引き出す押し出す人を連れると云う神様なり。人間は心が低うなくては行き届かず低い心で働かねば徳が取れぬ。どんな人の云う事でも聞き分けるという度量の広い人を容るゝという理で、我が心広く、大海になる。又力は血、地からという意味ありて低い所にある水は低い所/\と流るゝものでこの世の中に水程強い力あるものなし。水ほどやさしいすなおなものはない。例えば下駄をはいて居て力出すよりも足を地に落として踏ん張る方が力が出るようなもので、我が身の低いほど力が出る如し。草木でも根張りが下に下にと下りるほど上に延長して大本になるほど多く花実が稔る如し。親は根である。(一切の親)根に切れては実が乗らん。肥がなければ太らん如く、道を治むるにも我が心落として師に仕え、十分勉強して恩を返す、根を肥する程自分に徳ができると大人となる。

 例えば人に従うとか頭を下げげて物を学ぶとか習う事をせず、初めから物知り顔で先生顔がしたいようなもので、たとえ如何なる賢人、聖人というても天下に名を輝かす様な御方でも、生まれながらに物を知っては御座らぬ。幼少の時代には或いは学校で先生に習い、段々目上や先輩に習い従うて自分が先生になる。元々より先に生まれて又先に学んで居るものが先生、昔からでも一世に名を挙げられた位の御肩は皆な師に従い苦労せし修養の根があって世に現れた如し。

 又世の中に物のよくできる人、出世せる人は或いは高慢も強く人を見下げるように見える人もあれど、その実は心が届いて働きが多く強くしてある熱心が強いから徳を積んで高慢の埃なく理に叶うから出世成功できるなり。つる類はどんなことにも人より延び上がって下向きに頭を垂れる。この神様の御心の理が現れる。藤は美しい花を咲かして高い所から下にうつむいて花を見せる。人間も如何ほど出世しても心を低めて人に花を見せる心の味わい、この理がおおとのべの命の御心に叶う。『さがりやさがるほど、人の見上げる白藤の花、咲いて実のない山吹の花』。つる類は何でも他の物につるが優しく添うて伸びる。高慢は、人の云う事成す事つきくずす、或いは我が身を顧みる智恵なく人を恨み、人が行き届かぬように思い、又人を見下げ、我がえらいように思うて我が事を鼻にかける。高い心高慢から人の云う事でも耳に入らん。用いん人に情けのない小さい心から胸の内が暗くなる。高慢の埃を祓うて心を磨く事、天の理を正直に守る。即ち神に素直になる事ができん故高慢があっては話が納まらん、教え通り行えん、例えば日夜の身上の大恩を思い神様の御守護で働かして貰えた、さして頂けると云う心でなくして、これは我が力で成したものだ、我が助けたものだ、我が働いて我が食うて居ると思う、心は神に対する高慢神の理を突き崩す理。故に形は人に与えて?心は与える、尽くす心なき理である。道に年限重ねて人を助ける位置にある人には神様に対する理の諭しがある。人を出世させようと思う誠の心が我が身の出世できる心である。『欲と高慢大嫌い』、と御教祖は始終仰せられたり。










(私論.私見)
天理教における親神・天理王命の神名 津井治郎

 天理教の親神の神名について、文献の上では「てんりんおふのみこと」、「てんり おうのみこと」、「天輪王命」、「天龍王命」、「天輪王明神」、「転輪王命」、「天倫王命」 、「天理大神」、「天理王命」など様々な表記がみられる。発音上やや例外的な「天龍王命(テンリューオウノミコト)を除けば、「テンリンオゥ」と「テンリオ ゥ」の二種類の呼び方が存在している。それをめぐって、さまざまな 見解が提示されてきている。これを確認する。

 まず、教祖中山みきの直筆として残されている『おふでさき』(全17号1711首、 明治2年から15年に執筆)上の親神について概観しておく。『おふでさきJにおいては、親神が一人称で書かれており、その呼び方は「神」から「月日」、「月日」から「をや」へと変遷している。これにつき、中山正善二代真柱が「神、月日及びをやについて」において吟味した。それは次のように説明されている。当初は「神」という言葉が使われていたが、天理教の神概念が他の教団とかなり異なることから、天理教の神は、世間普通の神ではなしに、この世をはじめた「元の神」であり、今も変わる ことなく人間を守護している「真実の神」であるとしており、そのような意義づけを持たない他教団の神との識別を要するところとなった。そういう事情から「月日」という言葉が使われることになった。「真実の神」は「月日」であると説かれ、世界をわけへだてなく温みと潤いをもって万物を守護されて いるのが親神であって、「月日」こそ親神の天にあらわれた姿であるとした。次に、「をや」という言葉が使われるようになり、親神と人間は 親子であると説かれ、人聞から親神をみれば何事も打ち明けですがること のできる親身の「をや」であり、親神から人間をみれば可愛い子供である と、身近で親密な関係を教えられた。 このように、親神は八百万の神々のうちの一つのような存在ではなく、人間や世界を創め、今も守護している神であるとされ、その姿は天においては万物に「温みと潤い」をもたらす「月日」として表されるとともに、さらに「をや」 と表して、人間との親しい親と子の関係にあることが説かれている。「 いままでハ月日とゅうてといたれどもふけふからハなまいかゑるで」 『おふでさきj14 : 29。

 その『おふでさき』には、親神の神名は出ていない。年代的には 『おふでさき』に先立つて、「つとめ」の地歌として教えられた 『みかぐらうたには、第1節に「てんりわうのみこと」あるいは第5節(九下り目八つ)に「てんりわう 」とある。『おふでさきJ全17号のうち、「だいたい第6号の半ばまでは 「神」、そのあと第14号のはじめまでは 『月日」、それ以後は 『をや』」と使い分けて説かれている。 fおふでさきJとならぶ原典の一つ。全5節から成り、慶応2年(1866)から明治15年(1882) に成立している。 『みかぐらうた」も「お ふでさき』と同様、教祖によって書かれたものと考えられているが、現在その原本は見つかっていない。しかし、それは歌であるから、そのリズムとともに 歌い継がれると同時に、慶応年聞から当時の信者がその歌を筆記した写本などが残されている。それらの古いものでは、現在「てんりわう」とされている部分が、「てんりんわう」と表記されている。

 これに着目してのことか、天理教外における天理教研究においては、その神名は仏教の転輪王に由来するのではないかという主張がなされてきた。まず、そうした解釈を概観することからは じめたい。 天理教外における天理教研究の先駆的存在である村上重良は、その初期から 晩年にいたるまで多くの著書の中で、「てんりんおう」は仏教の「転輪王」に由来するものだという見解を繰り返している。その最初期のものは『近代民衆宗教史の研究」である。その中で村上は、「てんりんおう」の発想は仏教の「転 輪王」によるもので、「転輪王の教義内容よりも、『天の将軍』「天りん王」の字音・語感からくる、神の偉大な力と、現実の支配権力一一将軍・王一ーとの連想によって、この神名が固定していったのであろう」とし、さらに「てんり んおう」に神道的な「みこと」を付するようになるのは、維新前後、神道が圧倒的に優越してゆく時期にあらわれる天理教の「神道化」の反映であると述べている[村上, 1963 : 119]。その後も、教祖中山みきの仏教への傾倒を強調しながら、「てんりんおう」は「浄土信仰のさかんなこの一帯でひろく信仰されていた、仏教の『十王Jのひとつで須弥四洲(全世界)を統治する転輪王に由来する神名」[村上, 1971 : 606]であると述べるなど、多くの著書で同様の記述を繰り返している。その影響から、他の研究者が明治期の宗教史について論5 「主なるみかぐらうた本一覧表」を参照のこと[道友杜.2001 : 34 -35] 0 6 同氏による同様の記述は、他にも村上「日本の宗教j(岩波書店、 190頁)、村上『新宗教 ーーその行動と思想j(岩波書店、 7、74頁)、『みかぐらうた・おふでさきj(平凡社、 271頁)、 「神と日本人 日本宗教史探訪』(東海大学出版会、 125頁)などに見られる。 21 じる著書や論文において、当時の宗教状況の一つのモデルとして天理教にも触 れ、その神は仏教の「転輪王」に由来し、明治維新の前後から、仏教的要素を 排して漸次「神道化」を進めていったと述べているものが少なくない70 ただし、「転輪王」との関連は村上によるオリジナルな解釈なわけではない。 村上に先立つて高木宏夫もその関連に言及しているし[高木, 1954 : 293]、大 正14年(1925)に加藤咽堂は「転輪王」から「天理王」に改まったと述べてい る[加藤, 1925 : 415-416]。それ以前にも、明治20年代頃から、仏教者によ る天理教批判の書物が多数出版される中で「天理王」は仏教に由来するという ものがあらわれているがへそうした流れからこの解釈は出て、村上らの取り上 げるところになったので、はないかと考えられる。 二代真柱中山正善の講義より これまで見てきたように天理教外の研究者の間では、おもに「転輪王」とい う仏教からの影響を指摘するものが多い。それでは天理教内の信仰の場ではど のように捉えられているのだろうか。昭和31年3月8日から10日間、当時編纂 が進められていた『天理教教祖伝稿案j(第 21稿)について二代真柱中山正善 が講師となって「第十六回教義講習会第一次講習」が聞かれた。その質疑応答 の中で受講者から、「今わ『てんりわうのみこと』に関連することで、『てんり んわうのみこと』とよく文献にも出ておりますし、転輪王講社というのも出て おりますが、単に語呂が似ておるところから、そう言われたのでしょうか、ま たほかに意味があるのでございましょうか」[中山, 1997 : 234]という質問が 出されている。こうした質問が提起されることから察するに、当時、天理教の 信仰者にとってもこの神名の問題は疑問の種であったと考えられる。中山正善 はまずその場にいた本部在籍者の桝井孝四郎と諸井慶徳に見解を述べるように 7 たとえば山折口985: 80]や平井[2005 : '230 Jなど。村上を参照しながら、「転輪王」に 由来し、「神道化」してきたとの理解が踏襲されている。 8 例えば羽根田[1893 : 12]や林[1896 : 13-14]。飯田照明ほ、その他明治期における仏 教者による天理教批判の文献で「転輪王」との関連が記される例を挙げ、それらは「恐らく 天理教は、仏教に由来し、仏教の系列の下に連なる教えであったと主張するためであろうと 思われる」と述べている[飯田, 1991 : 90]。 22 求めたようである。二人は次のように意見を述べている。 [桝井孝四郎] これは初めから「てんりjであるべきものであると聞かせていただいてお ります。(中略)私の家に元治元年の講社づとめのめどを頂いております。 その書は秀司先生の書と聞かせていただきまして、今天輪王命9とはっき り書いてございます。しかし、これはそう書いておりますのでございます けれども、言うまでもなく、天理であると聞かせていただいております。 [諸井慶徳] 私はおふでさきにおいて、理ということを仰せくださっておりますから、 (中略)もちろん理であるということは、本質的に明らかであることと思 いますが、(中略)古い書物、特に明治十八、九年、みかぐらうたに大抵、 倫ないしは輪になっておるのが多いように思いますが、こういうふうにい ろいろ出ておるということ、それ自体が発音の上からの結果が一つの理由 ではないか。もう一つの理由は、一番下にお書きいただいた転輪、これは 仏教に出てくる字でありますが、これも一応の推測されるものであると思 います。けれども私は、自分の考えで悟りますのは、いろいろの漢字が出 ておるということは、漢字を当てたのではないか、特にこの俗称に「てん りさん」と言われる場合などの言い方などになりますと、「てんりんさんj というような言い方に非常に近づいて聞かれるものでありますので、「り」 というものを「りん」というふうに発音的に転誰することは十分あり得る のではないか。[中山, 1997 : 234 236] 桝井は、自身の家には教祖の長男である中山秀司の書とされる礼拝の目標 (めど)のお札が残されていて、そこには「天輪王命」 10と書かれていると述 べている。しかし、そうした点にもかかわらず「これは初めから『てんり』で 9 実際の引用文においては「天倫王命」と表記されている。しかし、仙田の調査によれば、「桝 井幸吉先生に直接お伺いしたところ、桝井家の目標札に書かれている神名は『天輪王命』で あることが判明した」とあり、これは口頭で述べられたものを文書化する際に変換ミスされ たものと考えられ、実際には「天輪王命」である[仙回, 1991 : 57]。誤解を避けるため、 ここではあらかじめ「天輪王命」と表記する。 10 (注 9)を参照。 つ臼 q J あるべきもの」であり、「言うまでもなく、天理であると聞かせていただいて」 いると語っているD 諸井は二つの側面から「てんり」が本来のものであること を述べている。一つは教祖が原典『おふでさきJにおいて「理」ということを 説いているという教理的側面、もう一つは「てんりんさん」という発音的な転 説という側面である。ここで二者によって出された三つの見解は、単に桝井や 諸井の個人的な見解を披歴したものではなく、この問題に対する天理教内での 考え方の代表的なものになっている110 これに対して中山正善は、『おふでさき』の「理」と結びつける見解につい ては、「『り Jはあっても『てんりJという言葉はありませんので、おふでさき の中には、この言葉を求めるわけにはいかない」、また説りという見解につい ては「私の解釈ではどっちが正しいか正しくないか、そういうような問題では なしに」と前置きして、「天とか理によって云々という点から考えれば、『てん り』が批って『てんりんjと言うたのだという解釈もつきますが、文献の上か らは、「りん』のほうが先に見えるようであります」[中山, 1997: 236 -7 Jと、 こうした見解に一応の反証を与えている。 また、中山正善は、天理教外の研究者の間で広まっている「天理王命」が「転 輪王」に由来するという説にも触れている。天理教は、明治13-15年(1880 1882)に地福寺配下の Y出張所転輪王講社」 12を設けており、そこに「転輪王」 11 12 『おふでさき』における「理」については、「このよふハりいでせめたるせかいなり な にかよろづを歌のりでせめ(1 21)」[教会本部V 1974 : 8 J、「いま冶でにふでにつけたる ことハりが さあみゑてきた心いさむで (12 44)」[教会本部, 1974 : 309]とある。これ が「天の理」という解釈の典拠となっており、教祖の話として「てんりんおふのみことふの なまいつけたのハ、てんりにかのふたゆへ、(後略)」(説話体十四年本、明治14年手元本)[中 山. 1957 : 85]とする資料が残っている。また信仰上、神は立教から一貫したものとする典 拠には、例えば原典の一つ fおさしづJにおいて「天理王命というは、五十年前より誠の理 である」(明治21年1月8日)とある[教会本部, 1974 : 795-796]。そして、「てんり」の 転説とする説は、例えば高野友治による「漢字で書いて『天理王命』であったか「転輪王命』 であったかc 漢字で書いて、眼で見ると、違うという意識がはっきりするが、耳で、『てん りおーのみこと』も『てんりんおおのみこと』も、違うという意識がなかったのでないか。 大和の、とくに北大和の人々は『んJを挿入して読みやすくして読んでいる。「富堂」(トミ ンド)、「井戸堂」(イドンド)、「蔵之庄」(クランショウ)…をど、「ん」と付けたり、「の」 を「ん」に変えて発音している。「テンリ」より「テンリン」が言い易いのであろう」[高野. 2012 : 207] (元は、雑誌「創象』 14号、 1982年に発表)という指摘がある。 当時の官憲による取り締まりを逃れ、「公認宗派の配下になれば、官憲の干渉もなかろう っ“ A斗A という表記がある。しかしその時期以前に、天理教内で既に「てんりさまj ないし「てんりんさま」という言葉が用いられていたなら、「天理王命」の神 名について「そっち(=転輪王)から名前が出たということは、ちょっと早計 であるJと述べている[中山, 1997 : 237] 13 0 そして、「われわれの教会として、われわれの立場上、使っております上で、 現在は『天理王命jを使っておりますので、これを文字の上においてでは正し いもので、または 『てんりJと発音するのが正しいものと、かように解釈して いただいて、歴史的には転批であるかどうかは、その説は、いろいろ取れましょ うが、『てんりんJと書いた時代も、『てんりん』と発音した時代もあると、ど ちらが先か後か、どちらが正しいか誤りかというような問題にはふれずに、さ ようにお考えいただきたいJ[中山, 1997 : 239]と述べている。 文献資料から 上記の通り、二代真柱中山正善は「転輪王講社」を設けた一時期以前に、天 理教内に「てんり」ゃ「てんりん」という言葉があったなら、「天理王命」の 神名が「転輪王Jに由来するという説は「早計」だと述べている。それでは、 資料の上ではどのように整理されるだろうか。天理教関連の文献資料の上から、 早坂正章(1981)や仙田義孝(1991)はこの神名の問題について詳細な文献資 料を挙げた研究成果を発表している。それらによると、神名を記す最も古い資 料として、上述の桝井孝四郎の家にのこる「守札」が挙げられている。そこに 「天輪王命」と書かれてあり、それは「元治元年、桝井家の講社づとめの目標 として下げられたもので、秀司先生筆と伝えられているJ[仙田, 1991 : 57] とある 。それは「伝えられ」たものであって明確な日付等は不明だが、明治期 13 と考え、また、人の勧めもあり」、教祖の長男秀司が「金剛山地福寺」に願い出て、表向き は仏式にして、信者が自由に参拝し、教祖中山みきに官憲の取り締まりが及ぶのを避けよう としたもの。しかし、教祖は 「そんな事すれば、親神は退く」と厳しく戒めたとされる[道 友社. 1993 : 225]。ちなみに、地福寺は、もと金剛山行者坊と号し現在は高野山真言宗。 明 治4年 (1871)神仏分離によって金剛山転法輪寺が廃寺となるとき、その本尊である法起菩 薩を末寺である地福寺に移したという[松隈.1975: 155L ( )内引用者付加。 っ“ F h d 以前から「天輪王命」の神名が用いられたことが示唆されているQ 明確にその 年代日付を示すものとしては、慶応元年 (1865) 11月11 日付けで大和神社神主 「市磯相模守」に宛てられた「御請書」において「の而ハ己来前顕鳴物ノ品々 ヲ以天龍王命様と申唱へ、馬鹿踊りと称し」[教祖伝編纂委員 1957 : 327]と あり「天龍王命」と記されているへ その他、資料としては慶応3年頃「天輪 王神J「天輪王明神」「天輪王命」という表記があらわれているO また、明治初 期から多くみられる 『みかぐらうたJの写本においては、漢字表記ではほとん どが「天輪王命」と表記されている[仙田, 1991 : 65]口 変化が現れるのは、明治13-15年 (1880-188?)地福寺配下の「転輪王講社」 の時代である。この間に、地福寺や警察署に提出された対外的な文書には「転 輪王ノ命」ゃ「転輪王命」という神名が出ている。ただし、この期間中に丹波 市警察署や奈良警察署へ宛てられた書類には「転輪王」となっているが、それ 以外の書類や『みかぐらうたJ写本等では神名が「天輪王命」と記されるもの がほとんどである[仙田, 1991:24-27 65-67] 15 0 早坂は、「転輪王命」とい う神名が採用されたことについて、「以前から称えてきた 『天輪王命』に発音上、 対応するものとして、仏教の 『転輪王Jを代置したものと思われるJ[早坂, 1991 : 154]との解釈を提示している160 天理教内の文献資料において、神名を 「転輪王」とするものは、この地福寺配下の約2年の間以外には見いだされず、 また、この期間中にも警察や地福寺宛ての資料以外には「天輪王命」という表 記がされていることから、「『転輪王命』があくまで金剛山地福寺との関係の下 14 元治元年 (1864)現在の天理教会本部の場所で普請中であった「つとめ場所」の上棟式が 行われ、その祝いに信者の一人山中忠七宅へ行く途中、大和神社前で鳴物とともに神名を唱 えたことで、神職の怒りをかい、鳴物没収と社務所へ3日間留め置かれたという、通称「大 和事件」の一年後鳴物等が返却された際の資料。ただし、「馬鹿踊りと称し」などの文章表 現から「鳴物受け渡しの手続きの際に立ち会った第三者によるものではないか」[仙田, 1991 : 22 ]とされる。 15 仙田論文にあげられた資料の内、例外は一点 「拾 二下り御勤歌」(明治14年6月)のみ。 16 この時の事情について、教祖の高弟の一人である清水由松は、「私は後日、御本席に、あ れはどうしてかとお聞きすると、“あれは秀司先生がそうせら・れたものである。これは、金 剛山地福寺の僧がつけたのであって、 仏教で、転輪とは、旋転する輪宝の力に依って世界を 治める神話の王という意味で、大変結構な文字という虚から転輪王如来とせられた”といわ れましたJ[清水, 1948 : 43]という回顧談を残している。 ヮ“ 円h U で用いられた特殊な表記にすぎない」し、「文献にあらわれた神名を整理する 限りにおいては、本教の神名の由来を仏教教説上の 『転輪王Jに結びつけて考 えることは不可能であるJ[仙田, 1991 : 71]とされている。 こうした資料からみるに、「転輪王命Jが現れる以前から、「天輪王命」とい う神名が天理教内において定着している。それが、明治18年、大阪府知事宛て に「天理教会結収御願」 (明治18年4月29日)や「神道天理教会設立御願」 (明 治18年7月3日)が提出される中で、教会名が「天理教会Jとされるようにな る九後者の「設立御願」に添付された書類の一つに『改正諭告Jがあり、こ のなかで「従来吾奉教主神を総称して南無天輪王命と唱へたり是中頃僧侶の浸 領したるより此称あるものにて南無の言たる党語なり天輪王命たる神名にあら ず爾後古号に復帰して天理大神と尊称すべし」[神道天理教会創立事務所, 1885 : 3 Jとして「天理大神Jに改められている口明治19年に神道本局へ提出 の「最初之由来」においては f天理王命」と記されており[諸井. 1947 : 39]、 その頃から天理教団内の文献資料において「天輪王命」は姿を消し、「天理王命」 と表記されるようになっていく 180 「天輪王jと「天理王j 以上概観してきたように、天理教における親神の神名において、資料上「天 輪王Jから「天理王」への移り行きが認められる。 早坂は、「天輪王」について、「さらにその称名の意味するところは、『こふ き話』本19~こ 『くにとこたちの命わ、天にてわ月様なり……おもたりの命様わ、 てんにてわ日輪様……』(明治十六年桝井本)とある通り、 『天 輪』とはこの 『月 17 18 19 これらは、政府に教会設置公認の出願をした最初のもので、両方とも却下されている。 ただし、明治41年 (1908)に認可されることになる天理教一派独立に向け、神道学者井上 頼園や逸見仲三郎の協力によって明治36年(1903)に編纂された「天理教教典j(通称「明 治教典」)やその当時から第二次大戦後までの「天理教教規(及規程)」には「天理大神」と 記されている[早坂, 1991: 174-175]。 明治13、14年 (1880-1881)頃、教祖中山みきが「取次Jと呼ばれる側近の信者にまとまっ た話を説き聞かせた。明治14年頃に「こふきを作れJと指示し、それを聞いた信者がその話 をまとめ、手書きしたものを「こふき本jという [おやさと研究所. 1997 : 311-312]。 円i 円/“ 輪・日輪Jの意であって、まさに月日親神の称そのものと解される」[早坂, 1981 : 117]と論じているc 「月日 Jとは『おふでさき』の6号から14号におい て「神」を表すために使われる呼称であり20、「こふき本」においても多くみら れるものである。また、「天輪王命」から「天理王命」への変遷について、「月 日親神の具象的称名ともみられる『天輪王命Jを、親神の守護の象徴的称名と もいえる『天理王命』へと改称された」[早坂. 1981 : 127]と述べて、それら が「親神」を指すものであることは同じながら、それが意味するところに相違 をみている。 明治14年から同20年にかけて、教祖中山みきが説いた話を当時の側近の信者 に書き取らせた「こふき本」が残されている。そこには、神名の由来に触れた ものがあり、「説話体十四年本(手元本・二)」には、「てんりんおふのみこと ふのなまいつけたのハ、てんりにかのふたゆへ、このやしきにつけてをくとの 事J[中山, 1957:85]と記されている210 ここでは、「てんりんおふのみことふ」 の神名が「てんり」(天理)の意味を込めて説かれていると解される。さらに、『お ふでさきJ第1号(明治2年)に、その執筆の意義を記した箇所において、 このよふハりいでせめたるせかいなり なにかよろづを歌のりでせめ 『おふでさき』 1: 21 [教会本部. 1974 : 8 J と、この世の万物について「り」(理)によって説くと宣言している。 そもそも、「天輪王命」ゃ「天理王命」という表記に関して中山みきの直筆や、 どのように書いたという話は残っていない。直筆のものとして残っている『お ふでさき』を見る限り漢字よりも平仮名が圧倒的に多く用いられているし、上 20 21 『おふでさきJにおいて、「月日」の用例は第6号からあらわれており、それは明治7年 12 月にあたる。 中山正善『こふきの研究Jより引用。手元本とは、中山家の手元に残されていたとの意味。 引用と同様の記述は、「十六年本(桝井本・五)」に「こ、ろを天りにかのたゆゑに、みきの かわに(かのふたゆゑに、みきのかわりに《重複》)このやしきに天輪王の命となをきつけ」 [中山V 1957: 126]とある。さらに、明治16年10月の「神之最初之由来」には、「天倫王命 と名をつけたまふハ〔、〕右みきのこ、ろを天理にかのふたるゆへに」[諸井V 1947 : 13]と 出ている。〔 〕で、括った句点は1957年『復元』誌に掲載されたところには無い[集成部. 1957: 8 J。-28 記の「こふき本Jにおける神名の由来にしても、口で、語ったものを当時の信者 達が文字にしたものである。漢字で「天輪王命」ゃ「天理王命」と書けば、意 味が大きく異なってくるように感じられる。しかし、それは元来、口で説かれ、 あるいは、「つとめ」の地歌として歌われ、それに漸次漢字があてられたもの と考えられる。そうした点を考慮すれば、「天輪王命」ゃ「天理王命jの元々 の意味やその違いについて現在明らかになっている限りの資料によって実証的 に云々することは不可能に近い。だが、明治18年頃から本格化する天理教の教 会設置、公認運動の中で、「天理大神」「天理王命」という神名へ改称されていっ ている。このことには、当時、明治政府によって明治5年に発布された「三条 の教則」に「天理人道ヲ明ニスヘキ事」との文言があることや、以前から教祖 中山みきが「理」あるいは「天理」という表現をもって親神の教えを説いてき たということが関係していると考えられる。 おわりに 以上のように、天理教の神名をめぐる議論を整理してきた。村上重良による 研究においては、天理教の神「天理王命」は仏教の「転輪王」に由来し、それ が漸次「神道化Jしてきたものだとされた。それが、後の明治宗教史を概観す る議論において頻繁に参照されてきている。しかし、残された歴史的資料を詳 細に整理した、早坂正章、仙田義孝による研究から、天理教の神名を「転輪王」 とする資料は、官憲からの迫害を逃れるため明治13-15年の「金剛山地福寺配 下転輪王講社」として、仏教寺院の配下にあった時期に限定されること、それ 以前(慶応年間頃)から神名を「天輪王命Jとする資料があり、「転輪王講社」 の時期にも、「つとめ」の地歌である『みかぐらうた』の写本には、「天輪王」 と記すものがほとんどであることから、天理教の神名が「転輪王」から来たと の説は論拠を欠くものであり、「天輪王命」の表記が明治維新前から定着して いることが明らかにされた。 「天理王命」が「転輪王」に由来し、漸次「神道化」してきたという村上に よる説は、当時の明治政府による「神道国教主義」あるいは国家神道を中心と つ臼 ハ同 d した「国民教化政策Jや「廃仏段釈」運動が盛んであった時代的な枠組におい て、天理教などの村上が「民衆宗教」と呼ぶ宗教も仏教的要素を排して「神道 化」を図る教団運営を強いられたことを示そうとするものである。教祖中山み きの幼少からの浄土信仰を強調したり、神の由来を仏教に求めたりするのもそ のためであろう。しかし、実際には、それは宗教の展開を当時の社会情勢に還 元してしまう傾向がある。 本稿で取り上げた天理教の神名に関していえば、明治18年に教会設置に向け て提出された『改正諭告Jにおいて、「天輪王命」の神名について「是中頃僧 侶の浸領したるより此称あるものにて(中略)爾後古号に復帰して天理大神と 尊称すべし」と述べられるところに、仏教から神道へという当時の情勢22への 意識が見受けられることは確かであろう。 しかし、この頃から神名の表記が「天輪王命」から「天理王命」へ改まって いくことには、「神道化Jや「三条の教則」というような教団にとっては外圧 的な側面のみならず、明治14年頃から教祖中山みきが神名の由来について「て んりんおふのみことふのなまいつけたのハ、てんりにかのふたゆへ」と説いて いるように、当時の信者による「てんりんおふのみことふ」の意味は「天理J であるという認識の深まりが23、教会設置を契機とする「天輪王命」から「天 理王命」への改称に結b、ついているという教団の内在的な側面があったと考え ることができる。 参考文献 飯田照明『お道の弁証一一護教諭への試みJ飯田照明編集発行、 1991年。 加藤明堂「民間信仰史J内午出版社、 1925年。 岸本英夫編『明治文化史 第6巻宗教J原書房、 1979年。 22 23 岸本英夫編『明治文化史第6巻宗教jにおいて、「明治維新の原理となり、明治新政をになっ た新支配階級の思想となり、明治新政の理想ともなった」ものとして「復古派神道者の国学 思想」が挙げられ、それは「仏教に対する批判と、儒教に対する批判の二つを礎として、成 り立ったもの」と述べられている[岸本, 1979 : 54-56] それは、(注20)で挙げた諸資料の「てんり」の文字が、次第に「天り」、「天理」と改まっ ていくところに見られる。-30 教祖伝編纂委員「御教祖伝史実校訂本(中二)」 『復元』第32号、天理教教義及 史料集成部、 1957年。 神道天理教会創立事務所‘「改正諭告』 1885年。 仙田善孝「神名『天理王命Jの資料の整理」『天理教校論叢J第24号、天理教 校本科研究室編、 1991年。 高木宏夫「宗教教団の成立過程一一天理教の場合J『東方文化研究所紀要』第 6冊、 1954年。 高野友治『教祖余話J高野異幸編集発行、 2012年。 天理教教会本部編「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ(抄)」『天理教原 典集 附天理教教典J改修版、天理教教会本部、 1974年。 天理教教義及史料集成部「神之最初之由来」 『復元(天理教教祖伝叢書ー)』第 31 号、天理教教義及史料集成部、 1957年。 天理教道友杜編「ひながた紀行一一天理教教祖伝細見』天理教道友社、 1993年。 天理教道友社編『みかぐらうたの世界をたずねてJ天理教道友社、 2001年。 天理大学附属おやさと研究所編『改訂天理教事典』天理教道友社、 1997年。 中山正善 『「神j「月日」及び「をやjについてJ養徳社、 1935年。 『こふきの研究 成人譜その三』天理教道友社、 1957年。 『第十六回教義講習会第一次講習録抜粋』天理教道友社、 1997年。 早坂正章「親神称名私考」『天理教学研究J第21号、 1981年。 「国家神道体制下における天理教団一一教祖在世期の教義展開にみる 二面性について」、石崎正雄編 『教祖とその時代一一天理教史の周辺を読 む』天理教道友社、 1991年。 林金瑞 『賓際討論嬬斥天理教J第3版、其中堂書店、1896年(初版1893年) 。 羽根田文明『天輪王排妄j法蔵館、 1893年。 平井直房「近代の閉幕と新宗教運動」、堀一郎編『日本の宗教』原書房、2005年。 松隈青壷『おぢばへの道一一教祖御伝ゆかりの地をたずねて』天理教道友社、 1975年。 村上重良『近代民衆宗教史の研究』第2版、法蔵館、 1963年。