刻限のお言葉考

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.29日

(れんだいこのショートメッセージ)
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 2016.02.29日 れんだいこ拝


【刻限のお言葉考】
 「刻限」は、「神の特別な 思い、実に人間をたすけたいとの上からの止むにやまれない神 の思いがいっぱいになって、あたかも、それが堰切って溢れる ごとく、積極的に神意のあるところを話されたもの」である。 また、「この旬を逸したら、もはや取り返しのつかない大切な時節に対する神の話」である(改訂天理教事典331~332頁)。

  「口に言われん、筆に書き尽せん道を通りて来た。なれど千年 も二千年も通りたのやない。僅か五十年。」

 4 4 ○古き道と新しい道 明治22年10月9日(陰暦9月15日)午前1時40分 高井 猶吉身の障りよりの刻限御話 「さあをやの道を通りながら、をやの道の理が分からん。古き道があるから新しい道がある。古き道はをや、新しい道は子という。さあへだんへに新しい道を通ろうとするで。

 古き道 天理教の歴史における、第1巻の時期(明治20~23年) のおもな出来事は、本席定め、教会の設置(明治21年4月10 日認可、4月24日東京で仮開筵式、11月29日(陰暦10月 26 日)おぢばへ引き移し開筵式)、そして、別席順序、つとめ の整備といった事柄である(『稿本中山眞之亮伝』および『教 史点描』参照)。

 御神楽歌、お筆先には次のように記されている。

 お指図には次のような御言葉がある。
 「筆先通り皆な出る。今度道はいつどう、いつ見える。筆先皆知らせてある。大きな節が見える」(20.6.24)。
 「皆な先の事云うたる。云うておいた事は、年限の内にはどうでも出てくる見えて来る。どうでも先の事云うて置いたら、その日が来る。百年先のこと云うて置けば、三十五十の者は知ろうまい。なれど、どうでも出てくる。これよう聞き分け。元の話はこれくらいのもの」(33.9.9)。






(私論.私見)