神の残念、立腹観

 更新日/2026(平成31.5.1改元/栄和8)年5.5日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「教理の神の残念、立腹観」を確認しておく。

 2003.8.29日、2006.7.1日再編集 れんだいこ拝


【神の残念、立腹観】
 天理教の神の「残念」観は、通常教理と非常時教理に分かれる。通常教理では、天理教における「神の残念・立腹」は、親神(おやがみ)が人間創造の理想(陽気ぐらし)から外れた人間の振る舞いに対し、悲しみや怒りを示す教理である。つとめを通じて真実の心を示すことで救済に向かうと説いている。病気や障害は親神からの怒りや罰ではなく、神の期待する生き方への転換(心得違いの修正)を促すためのメッセージとされる。神の残念や立腹の意を汲み取り、自身の心を「誠の心」に入れ替える(心直し)ことで、親神の「守り」を引き出し、元の理想的な状態(陽気ぐらし)へ戻ることを目指す。
 み神楽歌に次のように記されている。
十一下り目九ッ このたびまでは一列に 胸が分からん残念な
 お筆先の中で、残念という言葉は全部で95回、最後の十七号においては15回、五首に一回の割ででてきている。
 教祖は、「神の残念、立腹」につき次のような見識を見せている。お筆先には次のように記されている。
 こらほどの 神の残念 出てるから 
 医者薬も これはかなわん 
一号27
 これまでの 残念なるは 何のこと 
 足のちんばが 一の残念
一号31
 上たるは 段々世界 ままにする
 神の残念 何と思うぞ
三号58
 何もかも 助け一条 止めるなら
 神の残念 身に障りつく
三号78
 今までは 唐が日本を ままにした
 神の残念 何としょうやら
三号86
 上たるは 世界中を ままにする
 神の残念 これを知らんか
三号121
 これさいか 早く分かりた ことならば
 神の残念 晴れることなり
四号34
 真実の 神の残念 晴れたなら
 世界の心 皆な勇み出る
四号35
 段々と 筆に知らして あるけれど
 さとりないのが 神の
残念
四号47
 今までは 日本が唐に 従うて
 ままにしられた 神の残念
四号128
 月日より つけた名前を 取り払い
 この残念を 何と思うぞ
六号70
 真実の 月日立腹 残念は
 容易なることで ないと思えよ
六号71
 これからは 月日の心 残念を
 晴らする模様 ばかりするぞや
六号75
 今までも 月日残念 山々に
 積もりてあるを 返しするぞや
六号77
 こらほどに 思うて始めた この世界
 月日の心 何と残念
六号87
 この道を 知りたる者は 更になし
 月日残念 何と思うぞ
六号88
 この月日 大一これが 残念な
 どんなかやしを するやしれんで
六号90
 このたびハ なにか月日の 残念を
 つもりあるから 皆なゆうてをく
六号113
 この事ハ たれでもしらぬ 事やから  
 胸がわからん 月日
残念
七号44
 月日より これまでなるの 残念は
 やまやま積もり 重なりてある
七号60
 いかほどに 残念積もり あるとても
 どうせいこうせい 云うでないぞや
七号61
 月日より 何も道筋 聞いたなら
 この残念は 無理であるまい
七号91
 日々に 月日残念 やまやまと 
 積もりてあるを 晴らしたいから
八号1
 そのところ 差し止められて 残念な
 まだその後は 取り払いまで
八号5
 それ故に 助けづとめが でけんから
 月日の心 何と残念
八号6
 雷も 地震 大風 水つきも
 これは月日の 残念立腹
八号58
 今までは 三十八年 以前から
 胸の残念 まこと気の毒
九号24
 そばなるに いかほど月日 たのんでも  
 きゝわけがない なんと
残念
九号41
 それ知らず 何と思うて 上たるは
 胸が分からん 月日残念
十号90
 今までは 神の残念 やまやまと
 胸に埃が 積もりあれども
十二号3
 今日の 月日の心 残念は
 容易なることで ないと思えよ
十二号22
 今までも 何か月日の 残念を
 たいてい口説き 詰めてあれども
十二号25
 世界には 誰か知りたる 者はなし
 月日の心 残念を見よ
十二号26
 これからの 後なる話し やまやまの
 神の残念 晴らす模様を
十二号49
 この先の 道を楽しめ 一列わ
 神の残念 晴らしたるなら       
十二号72
 何時に どのよなことを 聞いたとて
 これは皆な月日の 残念立腹
十二号87
 そのことを 誰でも知らぬ ことやから 
 分かりないのが 神の残念
十二号108
 いまゝでハ 山/\残念 通りぬけ
 このたびこれを 晴らしたるなら
十二号127
 月日には 第一これが 残念な
 何とこれをば 澄ましたるなら
十三号16
 この模様 どうしたならば よかろうぞ
 何でも神の 残念表わす
十三号20
 人間も 一列子供 可愛いかろ
 神の残念 これ思うてくれ
十三号27
 このたびの 月日残念と 云うものは
 容易なることで ないと思えよ
十三号32
 この先は 月日の残念 立腹を
 皆な晴らすでな これが承知か
十三号35
 月日にも 残念立腹 晴らしたら
 後は珍し 道をつけるで
十三号36
 この元を 知りたる者は ないのでな
 それが月日の 残念ばかりや
十三号44
 人間も 一列子ども 可愛いかろ
 神の残念 これ思うてくれ
十三号27
 月日にも 残念立腹 晴らしたら
 あとハめづらし 道をつけるで 
十三号36
 それゆへに 月日の残念 りいふくが
 山/\つもり かさなりてある
十三号105
 月日には 第一これが 残念な
 そこでどのよな こともするのや
十四号5
 月日には この残念と 云うものは
 口で云うよな ことでないぞや
十四号8
 月日には 第一これが 残念な
 何でもこれを しかと表わす
十四号12
 今までに 月日残念 やまやまと
 積もりてあるを 皆な晴らすでな
十四号17
 世界には コレラと云うて いるけれど
 月日残念 知らす事なり
十四号22
 月日より 陽気づくめと 云うのはな
 これ止めたなら 残念えろうなる
十四号27
 今日までも、親の残念と云うものは
 一寸のことでは ないと思えよ
十四号32
 何もかも 親の残念 よく思え
 子供ばかりに 意見せられて
十四号37
 口先で なんぼ真実 云うたとて
 聞き分けがない 親の残念
十四号75
 とのよふな せつない事が ありてもな
 病(やまい)でわない 親の
残念や
十四号77
 真実の 親の残念 でたならば
 この治め方 誰も知るまい
十四号79

 教祖は次のようにお諭しなされている。
 概要/ある時、『私どもの住んで居るこの世界の広さはどれくらいのものでございましょうか』と尋ねたところ、教祖は次のように答えられている。『この世界は広いで。丁度、人間が両手両足広げたぐらいの広さがあるのやで。そこをよく思案してごらん。この世界の真ん中には熱気がある。我々人間の体の中にも温みがあるやろ。同じ事や。世界の支えとなっている岩石は、人間の体で云えば骨やで。これも同じ理や。世界で岩石をおおっている土は、人間では骨をおおっている肉と同じや。世界の表面に生えている草木は、人間の体で云えば毛のようなもの。世界に通うている水脈は、人間で云えば血管が丁度それに当る。人間も息をして生きているが、世界の潮の満干は月日の呼吸やで』。
(松本滋「人間の元なるもの」)
 「諸井政一集」後篇84p御講話傍聴録二より。
 『火は火や、水は水や。何でもないと思うていては違う。火と水とは一の神。なくてはならんものの一つ。間違うたら、どうにもこうにも人間の力で防げん。ここをよう思案せよ。さあ、そうなってきたら、いかな強欲(ごうよく)でも、悪気者(あっきもの)でも、そんな事どころではない。何もかも忘れて、まず第一に手を合わすやろ。さあ、手を合わしたら何と言う。‘’なむ‘’という言葉が先へ出るやろがな。‘’南無‘’は親々(月日/くにとこたち・をもたりのみこと)やで。いかな大水も、大火事も、大風も、皆なこれ‘’親の意見‘’やから、知らず知らず、親を呼び出して頼むというは、仏法というものを、人間の心を和(やわ)らげるために、教えておいたのやで』 と仰いました。

【つとめの禁止、甘露台潰し以降の神の残念、立腹観】
 教祖は晩年、つとめの禁止、甘露台潰しに対する神の側からの非常時教理的「残念、残念はらし、返し、かやし(報復)」を説き始め、御言葉が頻出している。お筆先十五号、十六号、十七号に次のように記されている。 
 もう今日は 何でもかでも 云うほどに
 親の残念 これ思うてくれ
十五号2
 今日までハ たいて残念も 幾たびも
 じいとしていた ことであれども
十五号12
 こらほどに 残念積もりて あるけれど
 心次第に 皆な助けるで
十五号16
 いかほどに 残念積もりて あるとても
 踏ん張りきりて 働きをする
十五号17
 今日の日は 何を云うやら 知れんでな
 親の残念 皆な表わすで
十五号18
 今までの 親の残念 知らしたさ
 そこでこのたび 皆なしてみせる
十五号38
 このたびの 残念口説きの この話し
 皆な一列は 何と思うてる
十五号40
 親の目に 残念の者は 何時に
 夢見たように 散るや知れんで
十五号67
 何事を 頼んだとても 誰にても
 聞き分けがない 親の残念
十五号76
 このたびの 残念口説き この話し
 どうぞしっかり 聞き分けてくれ
十五号77
 この話し 四十三年 以前から
 胸の残念 今晴らすでな
十五号81
 このたびの 残念と云うは 芯からや
 これを晴らす 模様ないかよ
十六号14
 いかほどに 口説いたとても 誰にても
 聞き分けがない 親の残念
十六号49
 今日の日の 神の残念 立腹は
 容易なることでは ないと思えよ
十六号52
 そのところ 何も知らざる 子供にな
 太鼓止められ この残念みよ
十六号54
 このことは 何のことやと 思うている
 神の残念 晴らすことやで
十六号58
 今日までは どんなことでも 云わなんだ
 じっとしていた この残念みよ
十六号68
 今までの 月日残念 と云うものは
 なかなか一寸の ことでないぞや
十七号21
 今までは どのよなことも 聞いていた
 このたびこそは 残念晴らすで
十七号25
 これまでの 長い道中 この残念
 一寸のことでは ないと思えよ
十七号27
 これからは 月日残念 出たならば
 どのよなことが あるや知れんで
十七号32
 けふの日ハ どのよな事も つんできた
 神の残念 はらすみていよ
十七号33
 それをばな 何も知らざる 子供にな
 取り払われた この残念わな
十七号38
 月日より この残念と 云うのはな
 なかなか一寸の ことでないぞや
十七号40
 この話し 何と思うぞ 皆なの者
 神の残念 えらいことやで
十七号42
 この道は どういうことに 思うかな
 月日残念 一条のこと
十七号57
 この残念 何のことやと 思うかな
 甘露う台が 一の残念
十七号58
 この残念 一寸のことでは ないほどに
 どんな返しを 月日するやら
十七号59
 月日には どんな残念が あるとても
 今までじいっと 見許していた
十七号64
 この返し 何のことやと 思うている
 神の残念 ばかりなるぞや
十七号66
 この残念 一寸のこととは 思うなよ
 積もり重なり ゆえのことやで
十七号67
 この心 神の残念 をもてくれ
 どふむなんとも ゆうにゆハれん
十七号70

【お指図の残念観】
 お指図には次のような御言葉がある。
 (略)残念の理程怖いものはないで。残念の理一代で行かにゃ二代、二代で行かにゃ三代、切るに切られんいんねん付けてある。これは退くに退かれん理によって。なれど神に切る神はない。・・・(M24,1,28)

【神の立腹(りいふく)観】
 天理教用語に於ける神の立腹(かみのりっぷく) とは、あくまでも子ども可愛い親心に徹しきった、人間を包み育てる立場からのもので、心の成人に時間がかかる子を思う、親神様の心のもどかしさが表現されている。

 お筆先の中で表現される「神の立腹」とは、悪事がのかんこと、強慾をつくすこと、うそとついしよ、人をたすける心のないこと、たすけ一条の道を止めること、神の言葉を疑い取り消すことなどを咎める際に使われている。また「神の立腹」の現れる時は、一度は許す、二度は見逃す、三度は許さんというように、つもり重なって始めて現れる。その現れ方は、病、天変地異、事情などとなって現れ、その状態は決して生半可なものではなく、徹底されている。但し、どんなに強い「神の立腹」も、人間の心を入れ替えさえすれば、必ずたすけて下さります。
 病いとて 世界並みでは ないほどに 
 神の立腹 今ぞ表わす
一号25
 この足は 病いと云うて いるけれど 
 病いではない 神の立腹
一号32
 立腹も 何ゆえなると 云うならば 
 悪事がのかん 故のことなり
一号34
 唐人が 日本の地へ 入りこんで 
 まゝにするのが 神の立腹
二号32
 何もかも 強欲尽し そのゆえは 
 神の立腹 見えて来るぞや 
二号43
 高山の 真の柱は 唐人や
 これが第一 神の立腹
三号57
 この世うは いかほど拝み 思うても 
 神の立腹 これはかなわん
五号3
 この障り 手引き意見も 立腹も 
 皆な銘々に 思案してみよ
五号20
 どのように 意見立腹 云うたとて 
 これ助けんと 更に云わんで
五号22
 真実の 月日立腹 残念は
 容易なることで ないと思えよ
六号71
 この世界 山壊(ぐゑ))なぞも 雷も
 地震大風 月日立腹
六号91
 雷も 地震 大風 水つきも
 これは月日の 残念立腹
八号58
 何時に どのよなことを 聞いたとて
 これは皆な月日の 残念立腹
十二号87
 月日にも 残念立腹 はらしたら
 あとハめづらし みちをつけるで 
十三号36
 それゆへに 月日の残念 りいふくが
 山/\つもり かさなりてある
十三号105

(私論.私見) 「教祖の神の残念、立腹」について
 「教祖の神の残念、立腹」を愚考解析する。この教理は、教祖の面目一如な御教えであり、もっと大いに着目されるべきであると拝したい。これにつき、「晴らし、かやし」でまとめて述べる。
 教祖は、「神の残念、立腹、かやし」が嵩じて自然災害、社会事変に至ると見通している、ことが分かる。




(私論.私見)