| 神の残念、立腹、かやし観 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年10.20日
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、「神の残念、立腹、かやし観」教理を確認する。 2016.02.29日 れんだいこ拝 |
| 【神の残念、立腹、かやし観】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
教祖は、「神の残念、立腹、かやし観」につき次のような見識を見せている。御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
教祖は次のようにお諭しなされている。
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| お指図には次のような御言葉がある。(略) |
| 教祖は、「神の残念、立腹、かやし」が嵩じて自然災害、社会事変に至ると見通している、ことが分かる。 |
| 「教祖の神の残念、立腹、かやし論」を愚考解析する。この教理は、教祖の面目一如な御教えであり、もっと大いに着目されるべきであると拝したい。 教祖はそもそもこれまでは、事の是非に拘わらず「埃は避けて通れよ」との御教えを説いてこられた。官憲の何度もの理不尽な拘引に際しても「神の思惑あってのこと」、「節から芽が出る」と自重してきた。獄中でのご様子もこの観点から語られることが多い。しかしながら、かんろ台が破壊されたのを機に、我慢の限度を超えたとばかりに、権力の組織暴力に対して「神の残念、立腹、かやし」をお言葉にするようになた。それは従来の埃論の彰かな質的転換だった。ここのところをどう拝するべきかが肝要なのに考察されることがない(よって、れんだいこの指摘が初見になる)。それは、怯懦な精神によってであるとしか思えない。これもまた教祖のひながたであり、教弟は自らに引き受けるのが筋だろう。 |
(私論.私見)