その8 高う買うて安く売れ式事業商売論

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年10.20日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「高う買うて安く売れ式事業商売論」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


【「教祖の事業諭し」について】
 「高う買うて安く売れ」は、天理教の教祖・中山みきが商売人に諭した商売論である。商売が「利ざやを稼ぐ」のを鉄則にしていることを思えば理屈に合わない逆説的な教えになっているが、その真髄は、利益を過度に追うのではなく、適正な利益で「徳を積む」ことで、結果的に商売を繁盛させる経営哲学になっている。

 「高う買う」とは高く仕入れるという意味で、仕入れの際に問屋を泣かすような買い叩き」をせず、相手が適正な利益を得られる按配の良い価格で仕入れて喜ばさせる買い方をいう。「安く売れ」とは、顧客に対して適正価格で提供し、喜んでもらいフアンになってもらう売り方をいう。。1回こっきりで良いとするぼったくり一攫千金商法ではなく、繰り返し取引できる共存共栄型のリピ-ト商法を諭している。買いの際も売りの際も、相手の立場に立って誠実に商いすることで信頼、信用をいただくことで、地域に根を下ろした永続的な商売に導かれる。結果としての「世のため人のため」の地盤固め事業経営になっている。実に、「10年続けると会社に信用が出てきて、商売がうまく回り出す」と云われる。この考え方は、近江商人の「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)や、松下幸之助の「水道哲学」(良いものを安く大量に供給し、人々の生活を豊かにすることを使命とする考え方)と共通している。

【「教祖の事業諭し」心得について】
 直接的には私ごとになるけれども、現在私は地方都市の一角において小事業を営んでいる。ここに至る因果はひとまずおいて、この私の事業において、「みき」の立教から布教への五十年の道すがらこそ、私の事業経営の困難辛苦の遣り繰りに、何物にも替えがたい貴重な財産として指標されているのではなかろうか、と気づかせて頂いている。かって修養科を卒業し「おじば」を離れるにあたってお道に対して抱いた感慨は、私にはしっくりと治まる教えではあったけれども、率直に云って、この教義は一般的には農業、漁業従事者に向いており、あるいは「お道」用語に大工言葉が多いことからそうした土木、建築職種の人向きの教えではなかろうかとの思いにあった。更に云えば、商業的な事業を主とした職種に就こうとしていた私には、個人的な興趣を別にすれば、私の従事しようとする業には接点の薄い教えではなかろうかとの思いにあった。

 何しろ商売についての直接的なお諭しとしては、「高く買って安く売りなさい」と云う、世間常識とは逆の御言葉しか見出せなかったのだから。ところが、小とはいえ会社経営を手掛けて十余年を経て、このところ頻りに次のように気づかせられるようになった。「高く買って安く売りなさい」の教えは、続いてこそ道の、長く続く道の秘訣を教示している。且つ、「みき」の立教に至る道筋より、「堪能」の二十年間にも及ぶ日々の暮らしの折々を経て、漸く布教へ向かう五十年の道すがらの階梯こそ、普遍的に事業発展の行程とその軌跡をも又指し示しているのではなかろうか。(党派の場合は、革命を事業と思えば然りである) 

 この道中に為された、例えば「節から芽がでる」等の「お諭し」、「お話し」、「ひながた」の全てが、日々平坦でない私共の事業を盛りたてていく上での貴重な助言であり、珠玉の目標(めどう)になっているのではなかろうか。そう思い当るに至っている。つまり、「みき」の考究こそ事業経営の発展の道筋をも照らしだす指針を探ることであり、そうとすれば、あたら惜しくも日々を無為に過ごせしことよと嘆くにも値することともなる。とはいえ、有り難くも今日気づかせて頂いたことを何より感謝せねばならぬことと思わせて頂いている。

【高う買うて安く売れ式事業商売論】
 ここで、教祖の諭しの「高く買うて安く売れ」を愚考してみることにする。商売知らずの教祖の限界的なお諭しかと思っていたが案外そうではない。深い哲理に支えられている名言であることが次第に分かってきた。これを確認しておく。
 富田伝次郎氏伝。
 概要/明治15年の8月上旬(新暦9月上旬)、兵庫富屋町の富田伝次郎氏は、長男米太郎氏の胃病の難しかったのを、僅か三日の間に不思議に助けられた御礼の故をもって、折柄病気見舞いに来て居られた播州三木町の藤村家の実母じゅん女を伴って、初めて御地場へ参詣せられた。やがて取次の先生に導かれて御教祖に御目に掛かられた。その時御教祖は、富田氏に向かって、『あんたは、どこからお参りなはった。(私は兵庫から参りました) さよか、兵庫なら遠いところ、ようお参りなさったなあ。あんたは家業は何をなさるな。(ハイ、私は蒟蒻(こんにゃく)屋をして居ります) 蒟蒻屋さんなら商売人やな。商売人なら高う買うて安う売りなはれや』。品物を仕入れる際には、問屋を倒さぬよう泣かさぬよう、又品物を売る場合には、お客の得のゆくよう喜ぶよう、高う買うて安う売る。その理によって、自分もまた戻りを喰ったりなどして商いを繋ぐのや云々。こう商法の天理をお説き下された。なお御教祖は、富田伝次郎氏に、引き続いて、『神さんの信心はな、神様を産んでくれた親とおんなじ様に思いなはれや。そしたらほんまの信心ができますで』と、神様を真実元の親様として、絶対の人格的信頼をささげることが、本教信仰の要義である事をも、いとも平易に説いてお聞かせ下されたという。(逸話篇104「信心はな」、昭和四十三年三月二十七日発行「史料掛報」第130号「おぢば参謁記九」白藤義治郎より)
 明治15.9月中旬、冨田伝治郎は、当時15才の長男米太郎が胃病再発して命も危ないという事になった時、和田崎町の先輩達によって親神様にお願いしてもらい、三日の間に不思議な助けを頂いた。その御礼に生母の藤村じゅん(註:当時76才)を伴って初めておぢば帰りをさせて頂いた。やがて取次に導かれて教祖にお目通りしたところ、教祖は、「あんたどこから詣りなはった」と仰せられた。そこで、「私は兵庫から詣りました」と申し上げると、教祖は、「さよか。兵庫なら遠い所、よう詣りなはったなあ」と仰せ下され、次いで「あんた家業は何なさる」とお尋ねになった。それで「はい、私は蒟蒻屋をしております」とお答えした。すると教祖は次のように仰せられた。
 『蒟蒻屋さんなら商売人やな。商売人なら高う買うて安う売りなはれや。神さんの信心はな、神さんを生んでくれた親と同んなじように思いなはれや。そしたら、ほんまの信心ができますで』。

 ところが、どう考えても「高う買うて安う売る」という意味が分からない。そんなことをすると、損をして、商売ができないように思われる。それで、当時お屋敷に居られた先輩に尋ねたところ、先輩から、『問屋から品物を仕入れる時には、問屋を倒さんよう、泣かさんよう、比較的高う買うてやるのや。それを、今度お客さんに売るときには、利を低うして比較的安う売って上げるのや。そうすると、問屋も立ち、お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ。これは、決して戻りを喰うて損することのない、共に栄える理である』と諭されて、初めて『成る程』と得心がいった」。
 大阪の某商人信者伝。
  註/昭和六年四月八日、当時の兵神大教会役員、藤原吉次郎氏が、次の様な話を私(※白藤義治郎さん)に聞かせて下さった。

 船場の梅谷四郎兵衛先生の御膝許の大阪の某商人信者が、御教祖にお目に掛った時、教祖から、『あんた商売人なら、内の番頭おかんと、世界の番頭置きなはれや。そうしたら、来るお客さんに、老人でも子供でも女でも誰でも、人によって値を上げ下げせず、常に世の人の為めになる番頭置きや。すれば、しまいにその正直知ったら、一人が五人に言う。五人が買いにきて、それ正直知れば又各五人に言う。すれば、五かける五、二十五倍の得がゆくで。それせず、人をだましたり、人によりて値を高下し、時によっては高下げしては、戻り食うて損するで』とお諭しになったと、梅谷先生から聞いたことがある。この場合の富田さんも、『高う買うて安く売る訳がわからんだ』。それでお側の先生に聞いたら、『高う買うとは、元である問屋を泣かすな、問屋の立って行けるよう、比較的高う買う事や。安う売れとは、比較的安くしてお客に売るのや。そうすれば、問屋も立ち、自分も立ち、お客も立つ。これを三点龍頭と言うのや。それで戻り喰うて倒れることなく、皆な立って行くで堅い』と、教えて頂かれたと聞きましたと。
 宮田善蔵伝。
 明治18年夏、神明組でお話に感銘を受け入信した大阪船場の足袋商、宮田善蔵は、今川清次郎の案内で教祖にお目通りさせていただいた。身上からの入信でない彼はキセル片手に世間話でも聞くように教祖の結構なお話を聞いていたのだが、その中で、『商売人はなあ、高う買うて、安う売るのやで』と言うお言葉だけが耳に残った。そして善蔵は思った。『そんな事したら飯の食いはぐれやないか。百姓の事はご存知でも、商売のことは一向にお分かりでない』と」。

【値切るな くさすな よるな】
 教祖様御言葉、明治17年、4.9日より。
 「人より物を買う時は、代価を値切りな。(値切るな) また人に物を売る時は、掛け値言いな。(ふっかけるな/ぼったくるな) 人に損を掛けたら、人また我に損を掛けるべし。(人に損させると、損させられることになるぞ)」。
 普通の家で果物とか、野菜とか、その他の物を買う時に先ず値段を値切る。値切る手段として一生懸命に品物をくさす、ようやく商談が出来ると、今度は目を皿のようにして、一つ一つ選り始めるのが常である。おや様はこの有様を御覧になっての事であろうか、物を買う心得として、『値切るな くさすな よるな』と、仰せられたそうである。(「教祖と買物」、昭和八年十一月五日号みちのとも「おやさまのことども」柏木庫治より)
   さあ/\たすけ一条/\
 父(上川孫兵衛)が初めて「おぢば」参拝した時には、中山家の門前は大字で「参拝人お断り申上候(申し上げそうろう)」とベタッと扉に貼ってあった。それで晩に内緒で裏から入れて貰(もろ)うた。 父が初めて教祖様(おやさま)にお目にかかった時、「私(上川孫兵衛)は山城の者で、初めてお参りさせて頂きました」と申し上げると教祖様(おやさま)は、『まあ山城から。それはご遠方からよくお帰りなはった』と仰せられた。そして、『世の中の人達はな、お金を儲(もう) けるのには人の裏をかいてでも儲けたい「我さえよければよい」 という心。儲けたら、田買う、畑買う、山も家も買う。家の内が豊かになる。すると妻があるのに「他に女が欲しい 」 というほこりの心がわく。金銭や物のほこり は返せば済むが、女や男のほこりは、なすになされん、返すに返せんほこりや。そうした心のほこりを払う道やで 』と仰せられた。

   私(上川米太郎)の父は、『教祖様(おやさま)は「世の中の人は」と仰せられるが、その「世の中の人」は私の事でございます』と、心に八寸釘を打たれている気持ちであった。 そして教祖様(おやさま)は、『この道は、人をたすける道や。人をたすけて我が身たすかる道やで。たすける理がたすかる理やで。人をたすけるにはな、暇を惜しんだり、小遣い銭を惜しんでいるようでは、人をたすけることは出け(出来)んで。さあ/\たすけ一条/\ 』と仰せられた。

 そこで父は悟らせて頂いた。 そうじゃ、そうじゃ。俺は「暇が無い、銭が無い」と言うて、「自分の都合や勝手」を言うていたら、「人だすけ」というような仕事は出来やせん。『腹が減ったら飯も食わねばならぬ。道が遠ければ乗り物にも乗らねばならん。そこで「暇」と「小遣い銭」が要る。それを「惜しい」と言うたり、思うたりしているようでは「人だすけ」は出来ないぞ』と仰せられているのである、と悟ったのである。
【註】上川孫兵衛先生は、河原町大教会直轄の斯道分教会初代会長様です。 〔道友社発行「お道と私」上川米太郎〕より
  食べさしたら、『尽(つく)した者に食べさしたら、内の者は増えるで。尽しもせぬ者に食べさしたら、減るぞよ』と仰せられた。
【註】身贔屓(みびいき)、依怙贔屓(えこひいき)についてのお諭し。
〔諸井政一集 後篇 御講話傍聴録九〕より
 「『独り散財大嫌い』と仰せられた」。(諸井政一集後篇、御講話傍聴録九より)、(註・「散財」とは、無用、不要のことに金銭を遣うこと。無駄遣い。また、多額の金銭を費やすこと)

 矢作敏行「商いの精神と「仕組み」革新(1)」。
1.商いの精神 1.1.経営の源流としての「商い」  商いとはコマース(Commerce;商業)のこと であり、ここでは農業・工業に対する狭い意味 での商業、すなわち小売・卸売業だけではなく、 農業・工業・商業・サービス業を含めたすべて の営利行為を商いと呼ぶことにする。 そのように解釈するのには理由がある。も ともと英語のコマースには商業と工業の両方 の意味が含まれている。たとえば、商工会議 所は英語で Chamber of Commerce と表現さ れている(1)。コマースという言葉がこのよう に幅広く用いられているのは工業と商業が十 分に分離していない初期資本主義における「商 業社会」(Commercial Society;アダム・スミ ス)(2)的状況を反映している。  自給自足的経済から市場的交換経済へ移行し た近代社会(資本主義)では、人々の生活は分 業と交換によって成り立っていた。あるモノを つくる人も、他の人のつくる別のモノを入手し ないと、生活は成り立たない。そのためには自 分のつくったモノを売って、貨幣を獲得するこ とが生計の基本となる。しかし、資本主義の初 期段階では専門的な仲介業者である卸売業者や最終消費者に販売する小売業者は十分に発達し ておらず、つくり手も程度の差こそあれ、商人 的活動に従事する「商業社会」の時代であった。  20 世紀に入って勃興した日本の近代産業社 会においても、「ものづくり商人」が多数存在 していた。大正6年(1917)年電球用ソケット の製造・販売で松下電器産業(現・パナソニッ ク)を興した松下幸之助も、その一人である。  幸之助は事業を「商売(商い)」と捉えていた。 自ら著した『商売心得帳』(PHP研究所)で、「経 営を進めていく上で、最も困難があろうかと思 われるのは、販売ということではないでしょう か。製造には、新しい発見や発明が考えられま す。しかし販売には、とりわけ妙案が生まれる ことはまずないといっていいでしょう」と販売 の重要性を強調し、「ですから、妙案奇策のあ まりない販売の世界の中で特色を発揮するため に、何か基本になるかというと、結局はお互い の誠心誠意です」(24~25頁)と述べている。  すなわち事業で一番むずかしいのは販売であ り、メーカーであってもつくった製品が売れな ければ、「産業報国」(幸之助が昭和8年に定め た企業理念「五精神」の一つ)を実現できない というのである。昭和11年(1936)、創業20 年にも満たないうちにグループ全体の総従業員 数4,970 名、年間生産販売額1,620万円に達す る有力電器器具メーカーの一つに数えられるよ うになると、幸之助は「松下電器が将来いかに 大をなすとも常に一商人たるの観念を忘れず、 従業員またその店員たることを自覚して質実謙 虚を旨として業務に処すること」と社内内規に 定めて、商いの道から外れることを強く戒め た(3)。  商いという言葉の語源には興味深い諸説があ る。江戸商人の研究者・宮本又次は、商あき 内ない とは 「飽く」、つまり満足するまで味わうという意味 からきていると説く(4)。お客の欲求を充足さ せるだけでは十分ではなく、お客が期待する以 上のものを提供して満足させるという意味合い が含まれているというのである。また、「飽く」 には長すぎていやになるという別の意味もあ る。転じて、「飽きない」とは細く長く続ける という商売のあり方を示しているとの見方もあ る。 イトーヨーカ堂を創業した伊藤雅俊は、「私 の実感として『商い』は『飽きない』、つまり、 飽きずにやること」と、後者の説に共感してい る(5)。伊藤は店を支えた母ゆきの後ろ姿から、 商いは「飽きない」と学んだ。だれよりも朝早 く起きて、隣の家の前まできれいに掃除し、暮 れには夜明かしし、元旦から店を開ける。商売 に明け暮れするなかでも笑顔を忘れず、お客に 接していた。そのかたわら、若い店員には水の まき方からほうきの持ち方、雑巾の絞り方まで 手を取って教えた。礼儀作法や言葉使いにも厳 しい人だった。朝、店に出るとき、主人の部屋 を通るときは、必ず「おはようございます」と あいさつし、食事のときは「いただきます」「ご ちそうさま」と言うことを忘れないように指導 した。 それがお客に応対する言葉使いや態度に現れ、 ヨーカ堂はほかの店と違うとの評判が立つよう になった。伊藤はそのように日々、繰り返され るルーチン(日常業務)から商売のコツを覚え ていった。  他方で、流通・マーケティングという括りの 商学を研究する者にとって、宮本の「商内」(満 足している状態)説はなかなか魅力的である。 最近、マーケティングの定義を改めて問われ、 「交換を通して、買い手の心に満足が、売り手 の手元に利益が残ること」とした(6)。事業の 本質は、何はともあれコスト以上の収入を挙げ て組織体として存続することである。となれば、 仮に売り手と買い手の間で交換が成立しても、 1 回限りではあまり意味がない。交換が繰り返されることにより、はじめて事業は継続的に収 入を獲得できる。  そのためには「あの店にもう一度、行ってみ よう」という気持ちが自然に湧いてこないとい けない。手抜きやいつわりはご法度である。交 換の後に、買い手に満足が、売り手に多少の利 益が残って、はじめて関係が継続する。 「商い」は「飽く」(満足する)に由来すると の宮本の解釈は、マーケティングの本質を見事 に突いている。「商い」は「飽きない」であり、「商 内」でもあると考えたい。旧財閥系長寿企業の 歴史を振り返ってみると、経営の屋台骨となっ ているのが、そのような意味での商いの精神に ほかならない例が数多くみられる。
江戸商人の革新性  井原西鶴が貞享5年(1688)に著した『日本 永代蔵』は日本で最初のノンフィクション経済 小説と言われる。商業資本主義が花開いた江戸 前期、分限(金持ち)となった実在の商人をモ デルにして、彼らの生き様を描いている。主人 公の一人として登場するのが旧三井財閥の創業 家である伊勢商人、三井八郎兵高利である。 高利は延宝元年(1673)、当時、江戸随一の 商業地であった江戸本町1丁目に三井越後屋 呉服店(越後屋)を開店し、「店前現金売り」 の商法で評判をとり、天和2年(1682)の江 戸大火の後に江戸駿河町に店を移した。西鶴 が描いたのは、この江戸駿河町の店の繁盛ぶ りだった(7)。  当時、大店の呉服店では大名や旗本、裕福な 商人を得意先としており、前もって注文を聞き、 後から品物を持参する「見世物商い」と、直接 良さそうな商品を持参して売る「屋敷売り」が 一般的であった。代金の支払いは盆暮れの2回 払いか年末の1回払いの掛け売りが普通だっ た。販売にはその分、余計なコストがかかった。 当然、値段は高くなり、商品と資金の回転が悪 くなり、掛け売りの金利負担や貸し倒れが経営 を圧迫していた。郷里の松坂から江戸に出て奉 公の経験を積んだ高利は、それを「店先売り」(店 頭販売)に改め、商品の値段を下げて、正札を つける定価制を導入し、なおかつ掛け売りなし の現金売り―「現金掛け値なし」―とした。 販売革新はそれにとどまらなかった。「切り 売り」と「仕立て売り」を始め、町人たちが買 いやすい売り方を徹底して追求した。当時は一 反売りが呉服取引の常識で、どの店も一反単位 で売っていたのを、客の求めに応じてそれ以下 で切り売りした。また、「仕立て売り」とは購 入した反物を即座に仕立てて手渡す方式で、お 客には便利な売り方だった。にわかに奉公口の 決まった侍が主君にお目見えする際の礼服や町 人の急ぎの羽織などは、数十人抱えた職人が即 座に仕立てて手渡す、いまでいうイージーオー ダーが採用されていた。  越後屋が採用した現金正札販売は、後に近代 百貨店の経営原則として欧米で広く普及した。 越後屋の新商法からおよそ170年後の1852年、 パリで開店したボン・マルシェは正札販売のほ か、店内自由閲覧、返品自由といった近代百貨 店の経営原則を確立する。そのうち正札販売は どのお客にも同一価格で商品を販売するという 商人による公的な宣言を意味しており、封建社 会の終焉と市民社会の到来を告げる公平・公正 な商法として、大衆の圧倒的な支持を獲得した。  商人たちは、選りすぐりの良品に適切なマー ジン(粗利益)を上乗せして売価を決めた。一 度、売価を決めたら、商人はそれで売り切る覚 悟を求められる。正札販売は以前の買い手責任 ではなく、売り手責任で販売に臨むことを意味 していた。近代百貨店が正札販売と同時に、返 品自由の原則を導入しているのは、そうした経 営意識の変化の現れであった。 正札販売は顧客との無駄な価格交渉を避ける 効率的な販売方法でもある。百貨店の後に続い たスーパーマーケットやコンビニエンスストア といったセルフサービス販売の小売業態では価 格交渉をする対面販売は当然、省略されている。 正札販売はセルフサービス販売導入の前提条件 であり、それゆえ近代小売業にとって不可欠の 売り方となった。越後屋は、その近代的な売り 方をいち早く取り入れて、江戸の町に流通革命 を起こしたのである。  高利の革新は経営組織にもおよんでいた。そ れがすばらしい。西鶴によると、多種多様な革新的サービスを提供するため、40数人いた手 代一人につき、一品担当させる商品部門別管理 を取り入れた。金襴(きんらん)類一人、羽二 重(はぶたえ)一人、毛織類一人というように 手分けして販売を任せ、在庫を管理させた。  後に、1904 年三越呉服店(旧・越後屋)が「デ パートメントストア宣言」をし、呉服屋から近 代的な百貨店に脱皮するビジョンを打ち出し た。買回り品中心にありとあらゆる商品を一つ 屋根の下で販売する近代百貨店経営の要諦は、 商品の部門別管理にある。越後屋はそれをも先 取りしていた。  幅広く武士や町人たちをお客にすることに成 功した越後屋は、文字通り「事業は顧客の創造 を目的とする」(ピーター・ドラッカー)(8)を 実践していたことになる。
1.2.響き合う顧客志向  士農工商という身分制度が敷かれた江戸時代 に、商人たちが町人文化を開花させたのは、自 らを厳しく律し、「のれん」(信用)を守ること に専心した結果である。江戸商人の前向きな気 質は、「算用」「才覚」「始末」の三点に要約で きる(9)。 「算用」はそろばん勘定を合わせることで、 合理的な計算によりお金の出入りを管理するこ とである。「才覚」とは創意工夫であり、商機 をつかむ才能である。越後屋呉服店の「現金掛 け値なし」「切り売り」「仕立て売り」は典型例 である。  最後の「始末」とは経費の節約・合理化であ る。企業の存続が経費以上の売上高をあげる点 にかかっている以上、売上げに貢献しない経費 節減は経営の要諦である。「始末」というので あるから、経営管理には始まり(始)と終わり (末)がある。伊藤雅俊は、それを前始末と後 始末と呼び、計画的な商売への備えと帳尻合わ せに関する注意を喚起している(10)。 西鶴の『日本永代蔵』刊行から40年あまり が経過した貞享14年(1729)、商人の社会的、 人間的な自立を説く道学者が現れた。京都の呉 服商の番頭だった石田梅岩は京都の車屋町で私 塾を開講し、「商人と屏風は曲がっているから立っている」と揶や 揄ゆ された商人蔑視の風潮に抗 して、商人の仲介行為なくして世間は回らない のであり、商人の儲けは武士の禄高に相当する 正当な社会的報酬であると、堂々と主張した。  商人の存在と社会的役割を積極的に評価した 梅岩と手島堵庵ら弟子たちの教えは石門心学と 呼ばれ、正直・勤勉・質素・倹約といった日本 の道徳的倫理観を継承すると同時に、学ぶこと は「文字を知ること」ではなく「心を知ること」 「行うこと」であると実践的な教えを説いた。 石門心学は、売り手ではなく買い手の立場にた つ顧客志向を打ち出した点が画期的であった。  西鶴の描く分限は利潤追求者としての商人で あり、ときには道楽や嘘で身を持ち崩す生身の 人間でもあったのに対して、梅岩は一貫して商 人の理想型を探求した。私心をなくして無心と なり、質素倹約に努め、お客に有利な正直な商 売に徹することを奨励した。「真の商人は先も 立ち、我も立つことを思うなり」(『都と 鄙ひ 問答』) という言葉が、その点をよく表している(11)。 市イチ や行商が盛んな江戸時代には座商は少な く、まがい物をつかまされても買い手責任とい う風潮が色濃く残っていた。米屋が大き目の一 升ますで仕入れ、小さ目の一升ますで販売する といったことが横行していた。梅岩は、そのよ うなその場しのぎの商売を否定し、販売する商 品を吟味して、少しの粗相もなく売り渡せば、 お客も心安らかになると、顧客志向の立場を鮮 明にしていた。これは近江商人の「三方よし」 に通底する商業倫理観である。

 折からの政治の腐敗、財政の逼迫、天災の発 生のなかで、石門心学は時流に乗った。江戸後 期の享和3年(1803)頃には全国25ヵ国に約 80 ヵ所の学舎が開設され、町人から武士まで 広範な層に浸透した。  石門心学の教えは、いまなお商家の経営をさ さえる基本理念として継承されている。全国の 百貨店に出店している滋賀県大津市の和菓子 屋、叶匠寿庵の芝田清次は若い頃から石門心 学に心酔し、1973年阪急百貨店の大阪・梅田 店に最初の支店を出したとき、百貨店の取り 分を優先させて、阪急百貨店の役員を驚かせ た(12)。 大手小売企業のなかにも、隠れた信奉者がい る。『先哲・石田梅岩の世界』を著した清水正 博は、関西の小売企業に勤務していた30代中 頃、中期計画策定のため商業史をひも解き、日 本が起こした世界に誇るべきイノベーション (経営革新)を3つ見出し、人生観が変わった と吐露している。その3つとは、三井高利の越 後屋呉服店創業による販売の革新、石田梅岩の 石門心学の創始のよる経営理念の革新、そして セブン-イレブン・ジャパンの単品管理経営に よる情報の革新である。
「誠実な商法」  流通近代化の過程を振り返ってみても、石門 心学が商業者に与えたインパクトは実に、大き い。1960年代、スーパーを旗手とする、いわ ゆる流通革命が高度経済成長時代の波に乗り、 一世を風靡した。担い手となったのは、全国各 地の地元の人々に支持された繁盛店であった。 九州・寿屋、姫路・フタギ(イオン)、四日市・ 岡田屋(イオン)、大阪・いづみや(イズミヤ)、 同・ハトヤ(ニチイ、マイカル)、名古屋・西 川屋(ユニー)、同・ヤマナカ、熱海・八百半(ヤ オハン)、平塚・十字屋、同・長崎屋、千住・ 羊華堂(イトーヨーカ堂)、千葉・扇屋、郡山・ ベニマル(ヨークベニマル)といった顔ぶれで ある(カッコ内は社名変更や合併による、後の 社名)(13)。  各地の繁盛店は、高度経済成長の到来ととも に小商いで蓄積した資本と信用のうえに、近代 的なセルフサービス販売とチェーンストア経営 の二つのイノベーションを取り入れて、たちま ち「小」から「中」へ、「中」から「大」へと 急成長した。  繁盛店の経営理念には、共通した要素が見て 取れる。「お客様に満足していただくことを唯 一の使命とする」(いづみや創業の精神)、「私 たちは、お客様、取引先、地域社会に信頼され る、誠実な企業でありたい」(イトーヨーカ堂 社是)、「一人のお客様に誠実を尽くせ。これが 野越え山越えの精神である」(ベニマル創業の 精神)という考え方である。いずれも顧客志向 を、より一層徹底し、顧客第一主義(CustomerFirst)の立場を表明している。  第二次世界大戦直後の混乱期、各地の商人た ちはそれぞれの地域社会の単独店であり、社会 的に孤立した状態に置かれていた。閉鎖的な商 売の世界を打破し、顧客第一主義の立場から商 人の社会的自立を提唱した代表的な人物が雑誌 『商業界』主幹で、商業界ゼミナールを主宰し た倉本長治と、正確な税務申告のためガラス張 経営を提唱した公開経営指導協会理事長の喜多 村実だった。  二人に共通していたのは「店は客のためにあ る」(倉本)、「心の経営」(喜多村)という商業 倫理の確立を意図した点であり、ともに石門心 学の影響を強く受けていた。昭和36年(1961)、 第27回商業界ゼミナールで倉本が公表した「商 売十訓」には、「損得より先に善悪を考えよう」 「お客に有利な商いを毎日続けよ」「欠損は社会 のためにも不善と悟れ」等々、石門心学の教え の数々が反映されている(14)。  彼らの活動は、物資の配給制の下でヤミ販売 が横行し、税金申告を誤魔化す者が少なからず 存在した当時の状況を改革する社会的運動でも あった。1950年代初め、倉本が力を入れて教 えたのが、あの越後屋呉服店が導入した「正札 販売」の徹底だった。配給制の時代、物資が不 足していた。店先に並べられた商品には公定価 格が表に、ヤミ販売の価格が裏に書かれていた。商人はお客の顔色をうかがい、正札をひっくり 返して販売し、ヤミ値を知られて困る人であれ ば、正札を元に戻した。倉本は、それではお客 の信用を得られない。商人は一度、自信をもっ て値決めしたら、それを経営の意志として貫き 通せと主張した。  倉本の正札販売の教えは配給統制が終了した 後には、薄利多売商法として発展的に継承され た。すなわち、第一に、良い品を仕入れてどこ よりも安く売るという基本方針を立て、第二に、 質素倹約を心掛けて必要経費を始末し、第三に、 その必要経費をまかなえる必要最小限の利潤を 上乗せして販売価格を決め、第四に、いったん 決めた売価はだれにでも公平な正札販売として 貫くという商いの原則である。  正札販売をぎりぎりのところまで追求するこ とができれば、顧客に有利な商売が実現するこ とができる。以前、これを「誠実な商法」(Honest Trading)と呼んだことがある(15)。言葉の由来 は19世紀半ば、イギリスで労働者階級が創設 した生活協同組合にある。  産業革命期の労働者は極論すれば、工場で資 本家から、生活では町の商人から「二重の搾取」 を受けていた。当時、労働者は自由に買い回る 交通手段がなく、利用できる商業施設も極めて 限られていた。量目が足りない商品や混ざり物 が入った商品が不当に高い値段で売られていて も、ほかに利用な可能な店舗がないため、労働 者は暴利をむさぼる商人から買うほかなかっ た。労働者は自衛のために立ち上がった。少し ずつ資金を出し合い、協同組合をつくり、砂糖、 小麦粉、卵、ベーコンといった生活必需品を共 同仕入れした。これのより、自分たちの手で「誠 実な商法」を実現したのである。  日本においても第二次世界大戦直後、消費者 協同組合は消費者自身による流通近代化の動き として注目され、職場や地域単位で雨後の竹の 子のように誕生した時期があった。生協は既存 商業者の存立に強い脅威を与えていた。倉本は、 それに動ぜず商人が襟を正して誠実な商売に徹 し、自らの意志で適切な最低価格を決めて、正 札販売を貫き通せと主張した。いまや、世界一 の小売業となったウォルマートが採用している 経営戦略「エブリデイ・ロー・プライス(毎日 がお買い得)」政策と同じ商法である。 上記した各地の繁盛店は商業界ゼミナールや 公開指導経営協会のセミナーに積極的に参加 し、ときには講師役を務めた実力派商人たちで ある。1950年代当時、全国に名をはせた千葉・ 扇屋や大阪・いづみやは、「同じ品なら必ず安い」 を集客のうたい文句にしていた。やや遅れて50 年代後半に登場した主婦の店ダイエーもまた、 神戸・三ノ宮で「見るは大丸、買うはダイエー、 同じ品なら必ず安い」をモットーに薄利多売商 法を繰り広げた。 越後屋以来、数百年の時を 超えて顧客志向の声が響き合っている。
1.3.商いのゴールデン・ルール アメリカの最北端アラスカ州に住む中年男性 はL.L.ビーンのカタログで気に入った秋冬 用ズボンを見つけたので、さっそく小切手を同 封して注文した。しかし、いつもはすぐ届く商 品がいつまで経っても郵送されてこなかった。 男性が本社のお客さま係に未着である旨、電話 すると、「何月何日に発送しているが、何かの 手違いで届いていないのだろう。直ちに再送す る」との答えが返ってきた。ところが、2週間後、 再度、男性から電話連絡がかかってきた。「や はり商品が届かない」と。お客さま係は、恐縮 し、再々送の続きをとった。その後、男性から の電話は途絶えた。  やがて春がきた。男性からズボン2着分の小 切手に礼状を添えた手紙が届いた。手紙を読む と、春になり、雪が溶けると、郵便受けの周辺 に3個の小包が現れた。それを開けると、ズボ ンが入っていた。男性は3度とも雪に埋もれた 小包を見つけられなかったのである。男性は手 紙で、同社が創業以来掲げるコーポレート・ミッ ション(企業としての使命)の「ゴールデン・ ルール(黄金律)」を疑ったことを恥じ、率直 に謝罪した(16)。  これは、実話である。L.L.ビーンの「ゴー ルデン・ルール」とは、「良い品を適切な利潤 で販売し、お客さまと人間らしく接すれば、必 ずお客さまは私たちのところへ戻ってくる」―” Sell good merchandise at a reasonableprofit. Treat your customers like human beings and they’ll always come back for more”―のことである。  ゴールデン・ルールとはもとを正せば、新訳 聖書に出てくるイエス・キリストによる山上の 垂訓の一説であり、「あなたが他の人からして もらいたいと思うことを、あなたも他の人にし なさい」と隣人愛を説いている。転じて、人間 がなさなくてはいけない重要な原則を広くゴー ルデン・ルールと呼ぶようになった。  豪華客船タイタニック号が大西洋で沈没した 1912 年、アメリカ・メーン州でレオン・レオ ンウッド・(L.L.)ビーンが始めたアウトドア 用品の通信販売事業がL.L.ビーンの始まり である。自然環境に恵まれたメーン州で生まれ 育ったビーンは小さい頃から釣りや狩猟にいそ しみ、長じて兄の営む靴屋で店員をしながら、 アウトドア・ライフを満喫していた。 ちょうど40歳になったとき、ぬかるんだ森 を歩き回って濡れても、温かい保温性の高いア ウトドア用ブーツが欲しくなり、自分で知り合 いの靴職人に作業用ゴム長靴の上部に革を縫い 付けてもらった。いまなお看板商品として人気 を博している「メイン・ハンティング・シュー ズ」(通称「ビーン・ブーツ」)が誕生した瞬間 である(17)。 ビーンはさっそく兄の所有する店舗の地下に 作業場をつくり、「ビーン・ブーツ」のカタロ グ販売に乗り出した。狩猟許可証の保有者を調 べ、4頁のチラシを配り、100足の注文を獲得 した。しかし、実際に使用すると、ゴム製の靴 底と革製のトップがはがれてしまい、100足の うち90足が返品されてきた。ビーンは返品自 由の約束通り、借金をして返金した。  手ひどい失敗から、自分で納得のできる商品 を開発すること、品質検査を徹底すること、さ らに100%の顧客満足を保証し、その証しとし て無条件返品を厳守することを、事業の基本方 針とすることを、心に決めた。これにより、「ゴー ルデン・ルール」を実現するための具体的な指 針が明確となり、ビーン社の評判はしだいにア ウトドア・ライフ愛好家の間に広がった。ビー ン社の売上高は2012年度、海外含めて15億2 千万ドルに達しており、1992年には海外で初 の小売店舗を日本で開店している。  L.L.ビーンの「ゴールデン・ルール」は日 本の商人たちが長年、追求してきた顧客第一主 義と、見事に一致している。新訳聖書の教えは、 要するに「相手(お客)の立場にたて」という ことであり、石門心学や商業界ゼミナールの教 えに通じている。  隣人愛はキリスト教固有の倫理的教えではな い。東洋思想の古典『論語』(金谷治・訳注、 岩波書店)においても、「自分の望まないこと は人にしむけないこと」(巻第八衛霊公第15・ 24)と、相手への「恕(「思いやり」)を大切に することを諭している。その意味では、東洋思 想の実践道徳の流れをくむ石門心学や商業界ゼ ミナールが「ゴールデン・ルール」と同一の立 場にたっていたとしても、いっこうに不思議な ことではない。 「お客の立場にたつ」は古今東西の普遍的原 理なのである。もともと隣人愛を説いた「ゴー ルデン・ルール」は、商売というより人生それ 自体の大切な教えである。私は、教え子の結婚 式に招待され、祝辞を依頼されると、夫婦生活 に置き換えて、「相手の立場にたつ」ことが夫 婦円満の秘訣であると話している。「ゴールデ ン・ルール」とは本来、そのような意味を含む 金言なのである。けに支配され、新しい発見ができない。「お客 さまのために」と言いながら、結局、売り手の 都合で考えてしまう。それを「お客さまの立場 で」考えると、過去の自分の考えや事業の現状 を厳しく否定することができ、型にはまらない 斬新な顧客第一の発想が湧き出てくるというの が鈴木の理屈である(18)。  鈴木が感心している話がある。行動展示で斜 陽の動物園を見事によみがえらせた旭川市旭山 動物園の元園長・小菅正夫の「お客の立場にた つ」である。1980年代、日本の最北端にある 旭山動物園は入場者数の減少に直面し、市から 「このままではやっていけない」とイエローカー ドを突きつけられた。飼育係長だった小菅は、 定期的に開かれていた園内の勉強会で「なぜ市 民は動物園にきてくれないのか」と、同僚たち と議論を始めた(19)。  飼育係たちはだれも動物が大好きで、動物の 世話には自信があった。動物たちの生き生きと した姿も熟知していた。動物にエサをやると、 奪い合って食べる。あるいは繁殖のため出産し、 子育てするときには人間以上に深い愛情表現を する。しかし、そんな動物のすばらしさを知っ ているのは飼育係のみであった。来園者の多く は満腹になり、後ろ向きで寝ているゴリラやラ イオン、そして夜行性で昼間は木陰や檻の中に じっと隠れているフクロウやカバの姿しか目に していない。そんな動物の姿を見てもおもしろ くない。だから、来園者は一度くると、退屈し てしまい、二度、三度とはやってこない。 そこで、来園者の目からみて、退屈しない、 おもしろい「理想の動物園」をつくれないとア イディアを出し合った。飼育係が好きな餌は何 かを手書きしたワンポント・ガイドや「夜の動 物園ツアー」といった企画が出された。実行し てみると、手ごたえがあり、飼育係たちの目の 色がしだいに変わってきた。 小さな成果を積み重ね中から、動物たちの本 能を利用して、生き生きとした動きを見せる行 動展示というアイディアが出てきた。行動展示 には仕掛けが必要のため投資がかかる、手書き の動物のワンポイント・ガイドのように簡単に は実行に移せない。それでも「理想の動物園」 計画で積み重ねた努力が展示施設の投資につな がった。  好奇心の強い習性を利用し、水中のマリーン ウエイ(円柱トンネル)の向こうに見物客の姿 が見えると、アザラシがそこを通って近づいて くる「あざらし館」、白くまがお客さまを自然 界のエサとして見間違えて、水中に飛ぶ込む大 水槽を設けた「ほっきょくぐま館」等々、次々 に人気の展示館が誕生した。最近では生態系が 同一のキリンとホロホロ鳥、ペリカンを一緒に して見せる共生展示という新しい試みにも挑戦 している。  商いはリピート・ビジネスである。一度、利 用した顧客に何度でもきてもらう千客万来の仕 組みの構築が要諦となる。L.L.ビーンの「ゴー ルデン・ルール」でも、目標は「必ずお客さま は戻ってくる」である。旭山動物園は危機的状 況のなかでお客の視点から試行錯誤を繰り返 し、動物園の運営方針を「動物を飼育する」か ら「動物の魅力を引き出す」に変えることで千 客万来の仕組みづくりに成功した。いま、年間 来園者数は300万人を超え、東京・恩賜上野動 物園に迫る全国第二位の来園者数を維持してい る。  要するに、鈴木敏文にとって顧客第一主義と は、顧客の立場から己を見つめ直し、現状否定 と自己革新を繰り返すイノベーションの哲学な のである。
1.4.経済と倫理の合致  なぜ顧客第一主義は商いのゴールデン・ルー ルたり得るのだろうか。お客の利益を優先する 商売すれば、お客がまたやってくるとの計算が 働いているからだろうか。L.L.ビーンのゴー ルデン・ルールを読むかぎり、そのように解釈 することもできる。私のマーケティングの定義 も、同様である。お客の心に満足が、商人の手 元に利益が残ることで、両者の間に良好なリ レーションシップが生成し、取引が反復される と考える功利主義的な考え方である。  しかし、商業界ゼミナールの「商売十訓」は 違う。利潤追求を超えた宗教的倫理観が発せら れている。倉本長治や仲間たちは、石門心学の流れを受け継ぎ、功利主義を超える商業倫理観 の確立を目指していた。現代日本においても、 顧客の立場にたつこと、また相手の利益を優先 させることは損得抜きの生き方の問題であると 信じて疑わず、実行している人が少なからず存 在する。  京セラ創業者の稲森和夫は事業を人の生き方 の問題と受け止めている。公正、公平、誠意、 正義、有期、愛情、謙虚な心を大切にし、経営 を「人間として何が正しいで判断している」(20) と断言している。少し長くなるが、稲盛の言葉 をつづってみよう。 「競争の激しい、弱肉強食のビジネス社会に あって、私たちはすぐ目の前にある利益や目標 を必死になって追い続ける姿勢になりがちであ る。それは毎日食べていかなければならないの だから、当たり前でしょう。しかし、精いっぱ いやるというのはもちろん大切なことですが、 この仕事は何のためにやっているかいつも自問 自答して欲しいと思うのです。」 「あなたの能力と時間を注ぎ込み、人生を費 やしている仕事は人の役にたつのか。人を幸せ にすることの一端を担っているのか。その仕事 の原点に立ち返ることを忘れずに誠実な努力を して欲しい。私は今日まで多くの仕事人を見て きましたが、成功を収める企業人に必ず共通し ているのは、『利他』の心をいつも内に秘めて いるということでした。私も、考え方、生き方 の中心にこの『利他』の心を据えて働き続けて きたのです。」 (『朝日新聞』2003年12月14日付朝刊) 利他とは人を思いやる心である。『広辞苑(第 6 版)』(岩波書店)には、「自分を犠牲にして 他人に利益を与えること」「(仏教で阿弥陀仏が) 人々に功徳・利り 益やく を施して済度すること」(カッ コ内は筆者)とある。稲盛は利他の心が人を動 かし、ビジネスを成功に導くことを何度となく 経験してきたと証言する。  バブル絶頂期の1980年代末、京セラはグロー バル化に伴い、アメリカを代表する電子部品 メーカー、AVX社に買収を申し入れたが、買収 交渉は株式交換比率をめぐって何度なく暗礁に 乗り上げた。そのたびに、京セラは相手の事情 に配慮し、不利な条件を飲み、合意にこぎ着け た。稲盛は同じグループとして経営哲学や価値 観は共有するが、社名や経営陣は変えない方針 を説明した。当初は、外国資本による買収に不 安を抱いていたAVX社の従業員も一連の方針説 明を聞いて、買収に賛成し協力的な姿勢に変 わった(21)。買収劇の成功には布石があった。1970年代 初め、京セラはアメリカの積層セラミックコン デンサの先進企業、エアロボックス社から技術 導入契約を結び、日本国内で同製品を独占的に 販売する権利を獲得した。しかし、間もなく同 社は二分割され、積層セラミック事業を引き継 いだのがAVX社であった。設立間もないAVX社 は日本で販売できないのはアンフェア(不公平) だから、独占販売権に関する契約を解消させて 欲しいとの要求を出してきた。  法的には契約関係に基づき断ればよいが、稲 盛はAVX社の事情も理解できたので、市場でお 互い競争すればよいとして、あえて申し入れを 受け入れた。損を覚悟の決定を下したことで、 両社トップの間には隠れた信頼関係が醸成され た。それが15年後、買収話が持ち上がったと きに、両社が友好的に交渉できる素地となった。  しかし、稲盛は「一連の判断は、もとより打 算ではない」と言い切る。買収・合併はまった く歴史・文化のことなる会社が一緒になるのだ から、できるかぎり相手のことを思いやるべき だと考えた。その利他の心が予期せぬ成果を呼 び込んだと結んでいる。 普通、経済的交換では自分が給付をすれば、 相手から反対給付を求める。それに対して、相 手から反対給付を求めずに給付する場合を社会 的交換と呼ぶ。知り合いの銀行家に借金を申し 込めば、私情をさしはさまず、必ず利子の支払 いと担保の提供を求められる。しかし、その知 り合いに自宅でのパーティに招待されたとき、 お返しにあなたの家にも招待するように反対給 付を求められたら、せっかくの友情が台無しに なってしまう。 稲盛は、この無償の社会的交換を利他の心と 呼んでいる。でも、不思議なのは、なぜ人は損 得勘定が支配するビジネスにおいて利他性を尊 ぶのか、である。顔見知り同士の狭い共同体で あれば、人の目があるので、反対給付を求めず に給付しても、いつかお返しがある互恵的利他 主義が成立しやすい。しかし、流動的なビジネ ス社会ではなかなかそうはいかない。目先の利 益のために「手抜き」や「裏切り」が起こる可 能性がある。それでもなお、稲盛は「情けは人 のためならず」と明言している(22)。  つまり他人に対して、何がしかの給付をする のは、その人のためではなく、回り回って自分 のためになるという間接的互恵主義の立場に たっている。ビジネスの世界でも「評判」は取 引に対して、いろいろな影響を与えている。従 業員にとっても、評判の良い会社で働くことの 満足度は高い。ES(従業員の満足度)はCS(顧 客の満足度)に通じると言われるゆえんである。京セラを創業して間もない1960年代初め、 会社の将来を懸念した若手社員が賃金をはじ め将来保証を要求して反乱を起こした。稲盛 はそのとき、彼らと徹底して話し合い、「全従 業員の物心両面の幸せを追求する」を経営理 念に掲げ、自分の理想の実現ではなく、全従 業員の幸福を実現する会社に向けて生まれ変 わった。 稲盛の利他の経営は、京セラの成長からJAL の再建に至るまで終始一貫している。それが「自 分たちの会社は何のために存在するのか」「こ の会社は自分が一生働く価値があるのか」とい う会社の存在論に関わる力強いメーセージを発 し続けている。  実のところ金儲けに精を出しながら、事業は 世のため、人のためと安易に言葉にすれば、「偽 善者」とのそしりを免れない。それでも、稲盛 は「利他の経営は打算ではない」と言って迷い がない。そこに人は動かされる。
「天職」という考え方  稲盛の姿勢から思い起こすのは、学生時代に 学んだ「天職」(独語Beruf;英語Calling)と いう言葉である。経済史学の泰斗、大塚久雄の 講義「欧州経済史」を受けたとき、天職とは神 から与えられた一生を賭した使命(職業)のこ とだと教えられた。大塚はマックス・ヴェーバー の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の 精神』に依拠しながら、禁欲的な生活態度で営 利行為を天職と考えた人々の存在が資本主義の 発達を支えたと、強調した(23)。 稲盛の利他の経営は、強い道徳徳的倫理観が 事業の成功を引き寄せるとの理屈である。自分 や自分の会社の利益ではなく、他者あるいは社 会全体の利益を優先させるとの立場である。そ れが会社の存在論の価値的基礎となる。  ヨーロッパやアメリカのプロテスタント、特 にカルバン派の人々の間に広く浸透していた 「天職」という考えも、それに通じている。大 塚=ヴェーバーは、その代表的な人物としてア メリカ建国の父の一人、ベンジャミン・フラン クリンを挙げている。 イギリスからの移民の子としてアメリカ東 部で生まれ育ったフランクリンは、「時間は貨 幣だ(時は金なり)」「信用は貨幣だ」「貨幣は 増殖して子を生む」と独特の勤勉と吝嗇の哲 学を説いた。印刷業で成功した彼は、質素で 勤勉な生活を送れば、社会的信用がつき、貨 幣が貯まり、さらに貨幣が利子をうむと信じ ていた(24)。  それは安く仕入れて、高く売るという商人の 投機的な儲けの考えとは異なり、生活の規律を 正して資本を貯めることが自己目的化されてい る点で、倫理的な色彩を帯びることになる。な ぜなら、商人であれ、職人、農民であれ、プロ テスタントは神から与えられた職業を天職と受 け止め、禁欲的な生活で勤勉に仕事をすること が神に救われる者の証しとして絶対的に必要と されるからである。そこでは、仕事の「才覚」 が「精神(エートス)」に転化している。  以上が大塚=ヴェーバーが説明している「天 職」という言葉の意味のあらましである。プロ テスタントの宗教的職業観という、やや飛躍し た論理を持ち出したのは、さきに触れたように 日本の「商い」という言葉が似通った倫理的な 色彩を見せているからである。実際、私が出会っ た多くの商人たちは、商いを「道」に見立て精 進した。毎日、繰り返される僧侶の勤ごん 行ぎょう のよう に、である。―朝、5時前に開店する。5時2分には始発 の電車が大阪・天満橋駅に着き、下車した勤 め人たちが店の前を通って行く。毎日、決まっ た顔ぶれである。朝早く出かけてきた人々の 表情は美しい。私はいつしか商売抜きで「今 日も一日、元気で働いてくださいよ」と心で 念じて迎えるようになった。そうなると、こ の人たちと笑顔であいさつを交わすことが毎 朝の楽しみとなり、一番電車の到着をそわそ わしながら待つようになった。そして夜は、 12 時23分終電が駅に着く。これも決まって下 車する人たちが通り過ぎるまで店を開けてい た。界隈の店はすべて閉まっており、暗闇の 中で私の店だけがささやかに光であたりを照 らしている。それはまるで、「貧者の一灯」に 見まごうものであった(25) 戦争中の教員生活から行商に転じ、ようやく 昭和25年(1950)、大阪・天神橋筋にわずか一 坪半の洋品店「ハトヤ」を開業したニチイ(後 のマイカル)の創業者、西端行雄の回顧録の一 説である。伊藤雅俊の母ユキの掃除や挨拶の徹 底に通底するエピソードである。そこでは、商 いは「飽きない」となる。 ルーチンの内部から事業をつくり上げる経 営のあり方は決してまれではない。整理・整頓、 掃除・清潔を事業の基本理念に据えて、自動 車部品の卸・小売業、イエローハットを育て た鍵山秀三郎の「凡事徹底」はよく知られて いる。毎朝、自社の周囲をきれいに掃除し、 得意先にセールスに行っては掃除のお手伝い から始める。そんな「凡事」をやっても、す ぐ商売が上向くわけではないが、自分の気持 ちがしゃんとして、仕事に前向きに向かうこ とができる。それを10年も続けていると、会 社に信用が出てきて、商売がうまく回り出し たというのである(26)。  西端の「貧者の一灯」もそうである。それを 後押ししたのは倉本長治の商業界ゼミナールで あった。昭和29年(1954)、西端は商売仲間に 誘われて、箱根の商業界ゼミナールにはじめて 参加した。商業界主幹の倉本長治や岡田徹らの 講師陣の話を聞き、行商時代から抱いていた「目 の前におられるお客おひとりお一人精いっぱい の満足をささげること」を使命するという自分 の信念に間違いのなかったことを覚った。「商 人の道は美しく、誇り高いもの」という講師の 言葉に会場を埋め尽くしていた千人近い人たち の間からすすり泣く声が聞こえ、ゼミナールの 会場は異様なまでの感動のるつぼと化したと、 西端は記している。  商人は孤独な存在である。江戸時代の昔から、 農民は農作業や灌漑などのインフラ(社会的基 盤)事業で助け合い、ともに村を興すという共 通の目標を分かち合っている。しかし、商人の 場合、同業者はすべて競争相手である。隣が異 業種の店であっても、いつ商売替えや家主の入 れ替えで競争相手が現れるかしれない。  孤独な商人たちが商業界ゼミナールでは一堂 に集まり、遠く離れた者同士が講師を囲んで世 を徹して意見をたたかわす。そこでは、商いの 苦労や喜びを分かち合う共感の場が形成され る。単に経営ノウハウを学ぶ場ではない。商業 界ゼミナールがいまなお続く理由がそこにあ る。西端は商業界ゼミナールを通して、「商人 こそ生涯を貫き、生きていく道」と確信し、経 営理念を「商道求真」に定めた。西端もまた商 いを天職と信じる境地に達したのである。  開業から5年後の昭和30年(1960)、日本で 最初のセルフサービス衣料品店に切り替え、全 国に名をなす繁盛店にのし上がった。そして、 昭和38年には西端を中心に岡本商店の岡本常 男、ヤマト小林の小林敏峰、エルピスの福田博 之の4人が「良心的結合」をうたい文句に4社 合併を果たし、年商28億円、店舗数12店舗の ニチイが誕生し、大手スーパーの一角に食い込 んだ。  伊藤雅俊から西端行雄まで、私が出会った昭 和の商人たちはそれぞれの商いの精神を内に秘 めていた。毎日のルーチンを辛抱強くやり抜き、 一人ひとりのお客に満足を提供する。そこに自 ずと自分の進むべき道が開かれていく。結局、 商いとは自らを律することから始まり、資本と 人間、経済と倫理が一つとなって進んでいくも ののようである。(1)林周二『現代の商学』有斐閣、1999年、 22 ~ 23 頁。日本の東京商工会議所は、 Tokyo Chamber of Commerce and Industry と、商業と工業の二つを併記した英語表記を 用いているが、英国で最も古い商工会議所の 一つであるグラスゴーでは、Glasgow Chamber of Commerce と表記している。 (2)田島義博『歴史に学ぶ流通の進化』日経 事業出版センター、2004年、)56頁。原典は アダム・スミス『国富論1』(水田洋監訳・ 杉山忠平訳)岩波文庫、2000年、51頁。 (3)松下電器産業創業五十周年記念行事準備 委員会編『松下電器五十年の略史』松下電器 産業、1968年、115~139頁。 (4)宮本又次「商い心を探る」『「商い」ビジネスの原点を探る』三井銀行業務本部法人部、 1983 年。林周二「商いのはたらきと意義」 同上書による「秋の農作物の取入れ時期にな ると、一時期に商人が発生することから。商 人は“秋人”と呼ばれ、それがアキンドになっ た」との説もある。 (5)伊藤雅俊『商いの心くばり』講談社、 1987 年、20頁。同時に、エピソードは喜多 村実『心の経営 喜多村実著作集①』公開経 営指導協会、1979年、252~253頁を参考に した。 (6)矢作敏行「第3章 国際マーケティング」 吉原英樹・白木三秀・新宅純二郎・浅川 和 宏・編著『ケースに学ぶ国際経営』有斐閣、 2013 年、78頁。言葉使いを一部変更して引 用した。 (7)越後屋呉服店については、井原西鶴『現 代語訳・西鶴 日本永代蔵』(暉峻康隆・訳注) 小学館、1992年のほか、高橋潤二郎『三越 三百年の経営戦略 その時経営者は何を決断 したか』サンケイ新聞社出版局、1972年、 三井広報委員会ホームペイジ「三井の歴史」 (2014 年8月アクセス)等を参考にした。 (8)ピーター・ドラッカー『現代の経営(新 装版)上』(野田一夫・監修、現代経営研究会・ 訳)ダイヤモンド社、1987年、47頁。 (9)宮本又次『近世商人意識の研究』(宮本又 次著作集・第二巻)講談社、1977年、35~ 40 頁。 (10)伊藤前掲書、28~29頁。 (11)石門心学については、石田梅岩『都鄙問答』 加藤修一・責任編集『日本の名著18 富永 仲基 石田梅岩』中央公論社収録、1984年、 倉本長治『石田梅岩ノート』商業界、1978年、 末中哲夫「石田梅岩」加藤修一・責任編集前 掲書、清水正博『先哲・石田梅岩の世界―神 天の祈りと日常実践―』新風書房、2004年 等を参考にした。
(12) 叶匠寿庵の例は矢作敏行(1996)『現代流 通 理論とケースで学ぶ』有斐閣、19頁。 (13)矢作敏行「第6章 チェーンストア―経 営革新の連続的展開」石原武政・矢作敏行・ 編『日本の流通100年』有斐閣、2004年、 227 ~230頁。 経営志林 第51巻3号 2014年10月  45 (14)倉本長治『商売十訓―21世紀を目指す「商 人の心」―』商業界、1987年、10~11頁。 (15)矢作同上書233頁。 (16)ノースウエスト航空機内誌1991年9月号 掲載記事。 (17)エル・エル・ビーン・インターナショナ ル(日本)ホームペイジ「L.L.Beanについて」 (2014 年8月アクセス)。 (18)鈴木敏文『売る力―心をつかむ仕事術』 文藝春秋、2013年、94~96頁。 (19)鈴木同上書96~99頁。エピソードは小 菅正夫『<旭山動物園>革命―夢を実現した 復活プロジェクト』角川書店、2006年を参 考にした。 (20)稲盛和夫『稲盛和夫のガキの自叙伝』日 本経済新聞社、2004年、208頁。 (21)稲盛同上書199~205頁。 (22)稲盛和夫『稲盛和夫の実践経営塾』PHP 研究所、2002年、37頁。 (23)マックス・ヴェーバー『プロテスタンティ ズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄・訳) 岩波書店、1989年、および大塚久雄「訳者 解説」マックス・ヴェーバー同上書。 (24)『フランクリン自伝』(松本慎一・西川正 身訳)岩波書店、1957年。 (25)西端行雄『小売連邦』プレジデント社、 1976 年、58~59頁。 (26)「凡事徹底」は鍵山秀三郎『凡事徹底』致 知出版社、1994年のタイトルである経営志林 第51巻3号 2014年10月  4




(私論.私見)